第10話 書庫と庭園


 その日から午前中は昴が、火野か津田の指導のもと礼儀作法を学ぶようになったので、午前中は澪も、当主代理としての仕事をこれまで通りに片付けるようになった。違いはといえば、午後になると意識して昴との時間を設けるようになったことだ。


 仮にも兄であるから、親睦を深めて悪いことはない。また白兎についてもなにか有益な情報を聞けるかもしれない。そう考えながら、今も二人で書庫に来ている。


 西園寺侯爵家の書庫は、帝都の華族界でも有名なほど大きい。祖父の西園寺あくつが無類の読書好きで、蔵書量には目を瞠るものがある。現在祖父は隠居し、東北地方の寒村に引きこもっているが、あちらでも読書三昧の毎日だと澪は聞いていた。


「兄上、なにか気になる本はあったか?」


 熱心に書架を見ている昴へと、澪は声をかけた。すると麗しい顔を澪に向けた昴が、口元を綻ばせる。嬉しそうにはにかむように笑ったその姿まで、一枚絵のように見えた。次第に、普段着の和服にも慣れてきた様子だ。


「ああ。小さい頃に、このアリスのシリーズを読んでいたから、懐かしくなって」


 視線を書架に戻した昴を見て、澪もそちらに顔を向ける。

 そこにはキャロルが記した、三冊のアリスを題材にした物語がある。

 一つめは、不思議の國のアリス。

 二つめは、鏡の國のアリス。

 そして三つめが、地獄の國のアリスだ。最後の三冊目は、吸血鬼のために特別に書かれた童話であるから、人間はあまり知らないはずだと、澪は不思議に思った。


「地獄の國のアリスも読んでいたのか?」

「ああ。聖フルール教の教会では、広く孤児に、三冊のアリスを読み聞かせするみたいだ。俺も牧師の仕事で、貧民街の規模が大きい孤児院に顔を出した時は、専ら読むのを担当していたよ」


 楽しそうに語る昴の瞳は、とても優しい。


「その孤児院で兄上も育ったのか?」

「いいや。俺が牧師を務めている教会は、その孤児院を運営している聖フルール・エトワール大教会に付属していて、体が弱い俺みたいな孤児がいる場合は、俺がいた一般的な聖フルール教会で育てられるんだよ。一応名前は、彩湖さいこ西フルール教会というんだ。貧民街の正式名称、彩湖区なんだよ。知ってたか?」

「いいや、初耳だ」


 そうだったのかと頷きつつ、澪は昴が懐かしそうな顔をしているのを見守る。


「まぁ人工湖は、彩り豊かにはほど遠いけどな。灰色だし、ゴミが浮いているし。カラフルなのは漏れ出した油だけだし」


 苦笑してから昴が、きちんと振り返って窓へと視線を向けた。


「外の庭園は、綺麗な花が咲いているな」

「ああ。代々、西園寺の庭園は、女性が守ってきたんだ。俺の祖母、そして母が。母が亡くなった今は、たまに訪れる祖母が管理をしていて、庭師を雇い入れている」


 中でも薔薇には力を入れている。これは西園寺家だけの話ではない。吸血鬼にとって、薔薇は神聖な植物である。棘は血をもたらしてくれるものとして、崇められている。だからどの家でも、薔薇園には気合いを入れる。


「亡くなったのか……悪いことを聞いたな……」


 昴がしょんぼりとした顔をした。悲しそうに自分を見る姿に、本当にお人好しだなと考える。善良な兄は、その後両手の指を交差させて握ると、目を伏せて唇でそこに触れた。聖フルール教の祈りを捧げる時のポーズだ。


「気にしていない。もう随分と前のことだ。兄上こそ、兄上のお母様がいなくて寂しかったんじゃないのか?」

「それはそうだけど、俺はもう大人だし」

「兄上……俺もまた、今年には十九歳になるし、十分大人であるつもりだが?」

「わ、悪い」


 慌てたように昴が両手を解いて、手を振った。その様子にくすりと笑ってから、澪は庭園を視界に捉える。


「今日は晴れているし、少し庭に出るか?」

「うん。行ってみたい」


 こうして二人は、庭園へと向かうことにした。図書室の外にいた絵山にそれを告げて先導してもらい、エントランスホールを抜けて外に出る。降り注いでくる陽光が眩しい。初夏に近づきつつある空気は清々しい。


 白い薔薇のアーチを抜けて庭園の中に入ると、瞳を輝かせてどんどん昴が進んでいく。薔薇に手を伸ばす仕草が、これまた絵になっている。アーチを入ってすぐのところで立ち止まった澪の一歩後ろで、その時絵山が呟いた。


「澪様、喰べてもいいですか?」

「……絵山」

「俺、ちょっと食欲が抑えられそうにないんですけど」

「兄上の香りはそれほど魅力的なのか?」

「全力で肯定するよ」

「……仕方ないな。ちょっとだけだぞ」


 澪が許可した時、昴が正面で薔薇から手を引いた。


「痛っ」

「兄上?」

「棘が刺さって」


 昴がそう言った時には、絵山が歩みよっていた。そして昴の左手首を掬うように持ち上げると、迷わずポツリと赤い血の球を舌で舐めとる。


「……え?」


 驚いた声を昴が出すと、口を離した絵山が、空いている左手で昴の指に触れる。


「取れましたよ、棘」

「あ、ああ……ありがとうございます」

「じゃ、いただきます」

「なにを……? っ」


 そのまま絵山が、昴の露出していた首に噛みつき、吸血を始めた。とろんとした瞳に変わった昴がふらついた時、昴の首元を唇で食んだまま、絵山が左腕で腰を抱く。


 美食家の絵山の胃袋を掴むだなんて、兄上はすごいのだなぁと、ぼんやりと澪は考えていた。



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