10話【ルティージアの帰還】
「やあおかえり、ルティージア」
森を抜けると、お兄様が従者を連れて立っていた。
兄の背後には遠く城と城下町が見える。懐かしさに心が震えた。
「ヴァーデメントお兄様。お出迎えに来て下さったの?」
兄は温和に空気をもった美しくもどこか凡庸な優男の風貌をしている。風貌、声、立ち振る舞い、喋り方はどこをとってもレストライアの男には見えないほど柔らかだ。
兄の両隣に控えるのは執事と騎士。
「可愛い妹の凱旋だからね。お爺様とお父様は城でお待ちだよ」
「そう、お爺様たちは何て?」
「それは会ってのお楽しみだよ、ルティージア。さあ、おいで」
差し出された右手に触れた途端、強く引っ張られる。ヒュ、と風切りの音と共に繰り出される左手のナイフを避ける。
手を繋いだまま、こちらも鉄扇で応じる。お兄様の長い足が私の足首を狙うのを軽く跳んで避ける。
着地と共に膂力で引けば、遠心力でぐるりと互いの体が回り、片手を封じあったまま片腕と足を使い、幾度かの攻防を繰り返す。
お兄様は無害の顔をして、こうしてお戯れをする。子供の頃からそうだった。
「少し鈍りましたか、お兄様」
私の鉄扇をナイフで受け流しながら、ダンスのように足元で攻防をする。
「こうして踊ってくれなかったからね、僕の元婚約者の姫君は」
「あら、元、ということは既に婚約を破棄なさったのね」
「無論だとも。僕のかわいい妹を侮辱する王家にくれてやれる子種はないからね」
温和な口調が崩れてきている。なるほど、お兄様も相当お冠らしい。
それはそうだろう。社交の場で一方的に婚約破棄を告げ別の女と比べた上、唾を吐いたのだから。
これで腹を立てるなというのは、無理のある話。
「怒りで攻撃が雑になってましてよ? いけませんわ、お兄様」
「それは失礼。ルティージアの悔しさを思うと、ついね」
そういうと、お兄様からの攻撃は止み、繋いだ私の手の甲に親愛のキスを落とした。
着地と共に私のドレスのスカートとレースのリボンがふわりと舞い落ちる。
「よろしいのよ、お兄様。アレはねあの王子の策略で、演技だったのですから」
兄に恋文の1通目を見せる。
顔色を変えず、たった一言の恋文を分析して小さく笑う。
かすかに獰猛が漏れる笑みに、やはりこの人もレストライアの男なのだとつい微笑が漏れた。
「あの男は、私を本当に得るために、約定を破り捨てたの。私に戦場という贈り物を用意するためにね」
「これが本当なら素晴らしいことだけどね、ルティージア。何かしらの罠かもしれないよ? エメルディオ王家の男だろう? 現王はお爺様を魅了するほどの知能だというじゃないか」
お兄様は物事の裏を考える気質を持っている。策略家のヴァーデメント。武力を最大限発揮するには、頭を使う必要がある、というのは兄の子供の頃からの口癖だった。
「その知能を全て、たったひとりの女に注いで何もかもを騙して裏切ったのだとしたら面白いでしょう? 私は面白いほうがいいわ。それが見せかけの策略謀略だとしても武力で捻り潰せばいいだけのこと。少なくともあの国が戦場になることは間違えがないのだから、私への贈り物は届くの。心が躍るわ。お兄様もそうでしょう?」
「それは無論。大国を蹂躙できるなんて、願ってもないことだからね。まあいいさ、僕の方でも調べてみるよ。ルティージアもそうしているのだろう?」
情報戦は兄の十八番だ。調べてみる、などとこれからするように言ってはいるけれど、婚約が決まった時点からエメルディオに対して知略戦を仕掛けているのを私は知っている。
あの王子はその兄の情報網をも騙しきった。
兄の眼にも、王子は好敵手として映っているのだろう。嬉しそうだ。
「勿論。浮かれて諜報を疎かにするするほど愚かではなくてよ。戦争は情報戦でもあるわ。王子が私たちと戦争を望む以上、眠ったふりをしていた知恵を働かせるでしょうし」
立ち寄ったケーライゴス領にある屋敷にも勿論諜報を行う従者たちがいる。王都にある屋敷にも。
すでに命は下している。適時、働いていることだろう。
「ならばいいさ。さて、円卓へ向かおう。お爺様もお父様も重鎮たちもルティージアを心待ちにしているよ」
お兄様が優しく手を引き、軽い足取りで城へと向かう。
懐かしい城を見上げて、帰ってきたのだと心が浮き立つ。
「ふふ、またあの円卓で皆の顔を拝めるだなんて嬉しいわ」
兵士が城下町の周囲を巡る外壁にある門を開ける。懐かしい匂いを感じると共に、私はレストライアに戻ったのだと深く実感した。
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