第2話
《一章》
その視線は、深々と突き刺さっていた。三条糸屋の娘さんの艶めかしい視線なんかではなく、弓矢を構えた戦国大名も恐れ慄くに違いない殺し屋の視線である。
国語教師が黒板に文字を書き、教室はチョークが黒板にぶつかり合うカッ、カッという音と、三十人近い初々しい生徒たちのシャープペンをノートに走らせる音ばかり。
俺は机の上の教科書を捲るフリをしながら、ちらりとごく自然な流れで、灼熱の視線を送ってくる相手を見た。
視線が合ってしまった。
まるで一瞬時間が止まったような錯覚に陥り、なにがしかの感情を悟られまいと、俺はすぐに黒板に向き直った。
後ろめたいことなど無い。それでもその視線から目を逸らさずにいられなかった。時間にすれば一瞬のことで、その邂逅には何の意味も無いはずなのに。俺は蛇に睨まれたカエルよろしく、いや、互いの関係からすれば別に天敵でも無いので、ヒグマに睨まれたハムスターの如くに射竦められてしまった。
――宵待深月だ。
まだ入学早々でクラスメイトですら名前と顔が一致しないのに、彼女の名前はよく覚えている。というか嫌でも覚えさせられた。入学者代表の挨拶を淀みなく、威風堂々とこなしていた姿は記憶に新しい。
頭の後ろで一つに束ねた黒髪、降り積もったばかりの新雪のように白い肌、眼鏡の奥の理知的な丸い瞳。控え目に言って彼女は美人だったし、俺が華やかな高校生活にミドリムシ程度の青い期待を抱かなかったかと言えば、そりゃ嘘になる。
しかしだ。現実はそんな砂糖菓子のようなものではない。
現に入学式以降、こうして只ならぬ視線の雨あられを一身に受けとめている次第である。彼女なりの愛情表現であればうれしい限りだが、どうやらそうではないらしい。
いつだったか、あれは宵待の席の横を通り過ぎようとした時だった。
彼女は何やら机で書き物をしていて、消しゴムを落とし、座ったままそれを拾おうと手を伸ばしたところだった。
ころころと無作為に飛び跳ねて俺の足元に転がった消しゴムを、思わず拾い上げて宵待に寄越したことがある。
宵待の表情に僅かばかりの笑顔が見て取れたのは1ナノ秒に満たず、その目が俺を認識した時には、宵待は能面のようなしかめ面をして、
『それは今捨てたの。要らないから』
と即座に机に向き直った。
その時の目は今でも忘れない。人間というか、生物に向ける目ですらなく、他人の排泄物を見るような冷めきった永久凍土の目。それは、そう、ツンドラと呼ぶにふさわしい。彼女の瞳の先では、草木一本、動物一匹生きてはいけまい。
消し去りたい記憶をフラッシュバックしている間にも、教師によるミミズの張ったような板書は一段落していて、俺は絶対に後ろを振り向かないという鋼の決意のもと、せっせと黒板をノートに写す作業に入った。
昼休み。高校生活も一週間経てば、それとなくグループが形成されるものである。自然と隣同士で机を寄せあったりとか、教室の一角に固まって弁当を広げたり、一方でまだまだクラスに馴染めない生徒は自席で一人、黙々と弁当を摘むのである。
無論、俺もまだまだクラスに馴染めない生徒の一人であり、かといってこの狭い教室で黙々と弁当を摘むつもりにもなれないので、颯爽と弁当と本を掴んで教室を出た。
廊下は教室ほどでないにせよ、座り込んで弁当を食べている者たちで賑わっている。その他、購買部や食堂に向かう生徒も、中に交じっているだろう。
楽しそうにお喋りしている生徒たちの間を縫うようにして、階段へ足を向けた。階段にも座り込んでいる生徒たちが居る。どこで食べても一向にかまわないが、通路の邪魔だけはしないで欲しい。
二階まで上がると、そのまま三階へ足を進めた。三階は特別教室が並んでおり、二階と三階を繋ぐ階段を境に生徒たちは一気に減る。
すっかり静かになった、誰もいない廊下を突き進んでいく。
さて、俺はどこへ行こうかというと、一週間かけて探し出した特等席である。中庭などは日当たりもよく適度に緑があっていい場所なのだが、いかんせん人が多すぎる。出来るだけ人のいないところへ、と足を進めた先がここ。
三階の図書室。そのベランダである。
この学校の教室の窓側は、上半分が窓、下半分が腰壁になっており、ベランダに座っていると、教室内からベランダの様子が分からない。つまり誰かの視線に気兼ねすることなく、だらだらできるのである。
俺はできるだけ音を立てないよう、人のいない図書室を見回しながら進み、窓際に辿り着くとベランダに出るための窓を開けた。
「あ」
そこには、雪の彫像のごとき、宵待深月がいた。
宵待はこちらに目もくれず、ベランダに敷いたハンカチの上にちょこんと座って、弁当の卵焼きを箸でつまんで頬張っている。
俺は迂闊にも声を上げてしまった自分を呪った。気づかないふりをして踵を返すこともできたのに、何を血迷ったか、愚かな口はその場を取り繕う言葉を吐いていた。
「あっ、忘れ物」
白々しい。何も言わない方が随分とマシであったろう。
途中まで開けた窓を閉める口実をひねり出して、窓をゆっくりと閉めた。無性に鍵を閉めたい衝動に駆られたが、さすがに彼女をベランダに締め出すのは可哀想だと思うくらいの心の余裕を取り戻して、そそくさとその場を立ち去った。
意外にも、宵待は呼び止めてくることは無かった。本当に偶然、あの場所に行き着いて、そして全くこちらを無視したのか、あるいは気付いていなかったのだろう。そうに違いない。
教室に戻った俺は、自分の席に座ってようやく弁当にありついた。
うむ、今日の煮物も我ながらいい出来だ。
しかし、これからどうしたものか。せっかく見つけた聖地はよりによって宵待に占領されたようで、また新しい場所を見つけなくてはならない。できれば日当たりの良いところが希望なんだが。
「志渡君」
中庭、は却下だろう。他の教室のベランダにするのはどうだろうか。でも、殆どの特別教室は授業の時以外施錠されているはずだ。一応、昼休みに一部屋ずつ、施錠を確認するか。
「おーい、志渡君?」
このほうれん草のお浸しもいい味だ。ご飯によく合う。麵つゆは最強の調味料だな。毎日でも食べられる。次は唐揚げを。
「ていっ」
「うほっ」
不意に脇腹の秘孔を突かれて、ニシローランドゴリラのような鳴き声を上げ身体を捩った俺は、おもわず箸で摘んだ唐揚げを取り落とした。無慈悲にも地球の引力に引っ張られた唐揚げは、床に衝突してピクリとも動かなくなった。
「マジか……」
「あっ、ごめん」
声の方を振り向くと、小柄な女子生徒と、その後ろでなにやら口元と腹を抑えて笑いを堪えている茶髪の女子生徒がいた。
「……真帆、ちょっとは加減してくれ」
「ごめん。思ったより力入っちゃったかも……。明日、唐揚げ分けてあげる」
「絶対だぞ」
俺はそう言って、床に転がった唐揚げを手で拾い上げて、弁当箱の隅に転がしておいた。南無三。
「ウホって……何……っ、あはは」
真帆の後ろにいた女子は、もう笑いを堪えていなかった。うるせえ。お前もいきなり後ろから脇腹突いてやろうか。
「なんか用か」
もちろん、紳士である俺は見ず知らずの女子にそんなことはしない。
「深月ちゃん、どこにいるか知らないかなって。お弁当食べる約束してたの」
真帆は、ボブカットの毛先を揺らしながら、申し訳なさそうに言った。
「さあ。食堂じゃねえの」
図書室で会った、なんてことを自慢げに披露するつもりはなかった。おそらく宵待はそれを望んでいない。一人になりたかったから、あんな所に居たのだろう。人間だれしも、時には一人になりたくなることがあるさ。
「あー笑った笑った。九夜くんと真帆って、仲いいんだね」
目尻を拭いながら、その茶髪の女子生徒が言った。変わった苗字の、そう、確か向島だ。
「地元が一緒なだけ。小中学校と同じクラスだったの」
と、真帆が弁解した。本当にそれ以上でも以下でもないので、俺は何も補足することなく、二人の会話を聞くに徹していた。
「マジ?高校まで一緒なんて運命じゃん!」
「ただの偶然だよぉ」
「実は九夜くんのことを追いかけて同じ学校に……」
「もうっ、陽菜ちゃんったら!違うから」
……何しに来たんだ。用事が済んだなら早く立ち去ってくれ。弁当ぐらい一人で食いたい。
「いいじゃん。もう少し聞かせてよ。あ、アタシ、向島陽菜ね。それで、二人はどんな関係だったの?」
向島は空いている隣の席にどさっと座り込むと、前のめりになってニヤついた顔を向けてきた。どうやらまだまだ話足りない様子である。これ以上何か話すことがあろうか、と俺は記憶の海にダイブした。
ダイブしてみた結果、というかダイブするまでもなく、記憶の海底には大判小判、金銀財宝がザックザックと眠っていることを、すぐさま発見した。
「どんなって。同じ学校だったから良く知ってるだけだ。真帆が家庭科の授業で三角コーナー風野菜炒めを作り上げた話だとか、転倒した拍子に男子生徒のズボンぐっ」
「ストップすとーっぷ!」
背後から両腕で顔を抱え込まれ、俺は強制的に口を閉じざるを得なかった。閉じさせられた、というのが正しい。
「それ以上喋ったら、ね」
小さな身体のどこにこんな馬鹿力があるのか、俺はいつも不思議で仕方がない。口どころか首までギリギリと抑え込む真帆に、問答無用で黙らされた。くるしい。息が出来ん。これ以上は命が危うい。
「うぐ、すいばせん」
やっとのことでそう言うと、ようやく腕が解かれた。新鮮な空気が肺を満たしてくれる。
「ごボッ……頼むから、加減を……」
「今のは志渡君が悪いんだからね!」
やはり現代では神は死んだのだろう。かの哲学者の正しさを俺は今確信した。そうでなければ、このポンコツトラブルメイカーに呂布奉先を内在させようとは、誰が考えようか。本人が無自覚であるのが猶更顕タチが悪い。
あと一日分くらい話せる古郡真帆伝説のストックはあるのだが……そう、本人の名誉のためにも、語られる伝記には取捨選択が必要である。著名人の伝記に、痔で苦しんでおりました、などと書かれていては、面目も保てまい。それと同じ話だ。。
小さなビックリウーマンこと、トラブルメイカー古郡の異名が入学早々、この学校に轟いてしまうのは、彼女には不本意に違いないから、これ以上はやめておく。彼女のために。
「あっは、めっちゃ仲いいじゃんね」
両手を叩きながら破顔している向島。そのあたりでやめておかないと武力介入を受けるぞ。
「陽菜ちゃん。いい加減にしないと、……あ、深月ちゃん」
教室の扉を開けて入ってきたのは、宵待だった。俺は咄嗟に、弁当箱に視線を移す。
「どこ行ってたの?」
「ごめんなさい。生徒会の用事があったの。ちゃんと話しておけばよかったわね」
息のような嘘をつきながら、宵待は近づいてきた。
俺は何も反応を示すまいと、弁口箱の白米を掻き込んだ。
「なんだ、そっかあ」
「それより聞いてよ深月。真帆と九夜って同じ学校の出身なんだってさ。聞く限り相当ヤンチャしてるぜ、真帆のやつ」
気づいたら俺は、くん付けから、呼び捨てになっていた。向島は物理的な距離だけでなく、心理的にもどんどん距離を詰めていくタイプのようだ。
「陽菜ちゃん、私言ったよね?次は無いって」
ひきつった笑顔を見せる真帆に、俺はすべてを悟った。向島よ、幸運を祈る、
「え?ちょっとごめんて、タンマタンマ!うぐあああああ‼」
ミシミシという音が聞こえてきそうなほど強烈なヘッドロックが向島の側頭部にお見舞いされた。我々に言論の自由はないのだろうか。
じゃれ合う二人を見て自然と笑みを浮かべそうになった時、背筋にロックアイスを突っ込まれたような悪寒を感じた。
――見られている。
また、あの視線だ。
俺は宵待を見ていない。しかし宵待は、俺を見ている。人間の視野は二〇〇度近いという。視界の端で、間違いなく宵待は俺を見ている。
「真帆。それぐらいにしとけ」
出来るだけ宵待から距離を取りたかった俺は、真帆と向島の仲裁に入るために席を立った。いや、実を言うと向島の容態もかなり心配だった。最初のうちは真帆に抵抗していたその腕は、今や力なく垂れ下がっている。
「えいっ!えいっ!おしおき!だよぉ!ふふっ」
無知とは、無自覚とは罪である。
そしてこれはもはや犯罪ではないのか。
真帆のその笑顔は狂戦士のそれであった。戦いに愉悦を感じるタイプなのだ。本人はじゃれているつもりなのだろうが、万力の如く締め付けられている向島は既に虫の息だ。
「ほら、やめやめ」
俺はいつもの如く、真帆の頭に手を置き、髪をくしゃくしゃにした。
「きゃ!くすぐったい~」
真帆は肩をすくめてしゃがみ込んだ。ようやくロックから逃れた向島は、頭を両手で抑えながら涙目になっている。
「いったぁ……」
向島には心から同情する。俺も一度喰らったことが有るが、二度と御免だね。
その時、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
「陽菜ちゃん、ごめんね。途中から楽しくなっちゃって」
「……ふ、二人は、仲のいい幼馴染ってことはよく分かった」
向島には二度と消えない恐怖が刻み込まれたに違いなかった。
真帆と向島の二人は、揃って自分たちの席に帰っていく。そんな二人を、俺はどこか冷めた感情で見ていた。
出会って一週間かそこらの同級生にヘッドロックをかます勇気は俺には無いし、見習いたくもないが、あそこまで素直に自分を主張する真帆は凄いと思う。俺には、到底できそうにない。
我に返って、俺は急いで席に戻った。
アクシデントの連続のせいで食べ損ねていた白米とおかずを口の中に掻き込み、必死で咀嚼する。気づいたら、既に宵待は机のそばから居なくなっていた。わざわざ確認しないが、おそらく自分の席に帰っていったんだろう。
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