不退転の覚悟

 司空府を後にした曹昂は、自分の屋敷へと向かった。


 屋敷の門を潜ると、使用人達が出迎えてくれた。


「お帰りなさいませ」


「袁玉は何処にいる?」


 使用人が答える前に、呂布の娘で長女の呂綺羅が姿を見せた。


「ああ、ご主人様。丁度良い所にっ」


「どうしたんだい? 綺羅」


 久しぶりに見た呂綺羅に曹昂は笑顔で訊ねた。


 董白に預けてから会っていなかったが、時折練師に頼んで様子を伺わせていたが、特に問題ないと言っていた。


 こうして、会って見ても元気なので安堵したのだが。


「袁夫人が、御自分の部屋で首を吊ろうとしていますので、助けて下さいっ」


「え? えええええっっっ⁉」


 屋敷に帰って来るなり、驚くべき報告を聞いた曹昂。


 詳しい事情を聴かず、袁玉の部屋へと走った。その後を呂綺羅も追い駆けた。


 廊下を走り、部屋の前に来ると何も言わず部屋に入った。


 そして、部屋に入ると、驚く物が目に入った。


「あっ、丁度良い所に帰って来たな、手伝えっ」


 董白が部屋に入って来た曹昂を見るなり手を貸すように言う。


 それも其の筈であった。


 何せ部屋の主である袁玉が寝台に椅子を乗せて、天井の梁に輪っかを作った布を垂らして、首を括ろうとしているのだから。 


 衣装も、着飾った衣装でも何でもなく白い衣を纏っていた。


 まるで、罪人が刑罰を受けるのを待っている様であった。


 董白と呂玲瓏の二人は、袁玉が何とか椅子から落ちない様に頑張っていた。


「は、早まるなっっっ」


 曹昂がそう言って、慌てて袁玉の側に駆け寄り、袁玉を降ろした。


 降ろされた袁玉は袖で顔を覆い、涙を流しながら告げて来た。


「……死なせて下さい。父が朝廷に謀反を働きました。それを止めるように諫める文を送っても聞き入れて貰えず、父の行いを止める事が出来なかった。不孝を死んで詫びるしかっ」


「いやいや、大丈夫だから。義父上の行いを諫める文を送っても聞き入られなかったんだから、仕方がないよ」


「ですが。それでは、旦那様にご迷惑が」


「夫婦になったと言うのに、水臭い事を言わないで欲しいな」


「ですが」


「はい、この話はもう終わり。ほら、此処に座って」


 曹昂は手を叩いて話を無理矢理終わらせて寝台に座り、袁玉に隣へ座るよう手で促した。


 躊躇っていた袁玉であったが、何時になっても曹昂が促すのを止めないので、根負けして隣に座った。


 曹昂は袁玉の肩に手を回して抱き寄せた。


「義父上の事は残念だけど、これも義父上が選んだ事だから諦めよう。君はもう曹家に嫁いだという事で、実家とは縁を切ったと思ってくれ」


「はい…………」


 曹昂の腕の中に居る袁玉は、悲しそうであったが頷いた。


(いやぁ、もう少し帰るのが遅かったら危なかったな)


 袁玉が無事な事に安堵する曹昂。 


「それにしても、董白はよく袁玉の部屋に居たね」


「まぁな。親父さんが朝廷に謀反を働いたって聞いたから、ちょっと他人事の様に思えなくてよ。それで気に掛けていたんだ。今日も話でもしようと思い部屋を訪ねたら、首を吊ろうとしていたから、慌てて綺羅に使用人達を呼んで来る様に言って、あたしと玲瓏の二人で頑張ったんだよ」


「そうか。ありがとう」


 曹昂は袁玉を撫でつつ、董白に礼を述べた。


「玲瓏も綺羅もありがとうね」


「えへへ、これくらい同然です」


「その通りです」


 礼を述べられた呂玲瓏と呂綺羅も、嬉しそうに顔を緩ませていた。


(もう少し帰るのが遅かったら、どうなっていた事か。しかし、話を聞いたところ、どうやら義父上の事で心を痛めたから、首を吊ろうとしたようだな)


 てっきり、とうとう父曹操が曹昂の妻達の美貌に目が眩んで手を出したのかと一瞬だけ思った曹昂。


 首を吊ろうとしたのも、曹操が手を出した事に悲観したのかと思った。


 流石に息子の嫁にまで手を出さないだろうと思いはするが、人妻好きなので少しだけ不安であった。


(まぁ、部下の妻に手を出したという話は聞いた事が無いから、大丈夫だよね? 多分…………と思う? う~ん)


 何せ先の宛城の戦いの原因は、曹操が未亡人に手を出した事で起こったので、曹昂が知らないだけで、そう言った話があるのではと考えてしまった。


(一度、その所を尋ねた方が良いのかな? それとも母上に聞くか?)


 そう思いはするが、訊ねるのは失礼な事でもある上に曹操の性格から素直に教えるとは思えなかった。丁薔に訊ねるのは、また実家に帰るという事を言いかねなかった。


 なので、曹昂は訊ねないで、調べる事にした。


 

 数十日後。



 曹操が上奏した袁術討伐は、朝廷が許可を与えた。


 偽帝討伐という事で、献帝自ら曹操に剣を与えて袁術討伐の命を下した。


 その命令に従い、曹操は兵を集めると共に、各地の諸侯に袁術討伐の兵を挙げる故に、兵と共に参陣せよと檄文を送った。


 多くの諸侯は、従ったが形だけであった。


 皆、様々な事情を立てて兵を送らなかった。そんな中で劉虞、劉備は檄文に応え兵を送る事にした。


 劉虞は袁紹と停戦し、公孫瓚の息子公孫続を大将として、一万の兵と共に許昌へ送り出した。


 劉備は義弟関羽、張飛を副将にし五千の兵と共に許昌へ向かった。


 呂布は参陣はしないが、代わりに先の戦で袁術に占領された下邳国と広陵郡を攻撃すると書状を送って来た。


 孫策も側面より、援護するという文を送って来た。


 それらの報告を聞き終えた曹操は、概ね予想通りになったと思った。


(劉虞と劉備の参陣は意外だが、此度の戦は私が総大将である以上、何ら問題は無いな)


 もし、反董卓連合の時と同じように諸侯が集まった場合、曹操以外の諸侯の名も天下に響き渡っていた事だろう。


 劉虞と劉備の参陣は驚いたが、それでも献帝から曹操が討伐軍を率いる将軍に任じられた以上、二人よりも曹操の名が知れ渡るのは目に見えていた。


 何の問題も無いなと思い、曹操は兵の準備を整えた。


 


 建安元年西暦一九六年九月。


 劉虞、劉備軍と合流した曹操は兵と共に許昌を後にした。


 公称三十万と言うが、実際は十万程であった。


 収穫期と重なり、先の張繍との戦で失った兵が多かったが、何とか用意する事が出来た。


 加えて、袁術も呂布との戦で大打撃を被った上に、孫策に都を襲撃された事で、大きな被害を被った。この戦、勝ったなと判断する曹操。


 許昌は曹昂に任せ、曹操は麾下の将軍と参謀達を連れて寿春へと向かった。


 曹操は出陣前に「今は収穫期だ。畑に入った者は誰であろうと斬れ」と命じていた。


 その命令に従い、兵達は畑に踏み入る事なく狭い畦道を進んだ。


 曹操も馬に乗り兵と共に進軍していた。


 畑には軍が通ると聞いたのか、農民は農作業の手を止めて、平伏して通り過ぎるのを待った。


 そんな最中、畑に居た虫が飛び回っていると、曹操が跨る愛馬絶影の耳に入り込んでしまった。


「ヒヒーン⁉」


 絶影は耳に異物が入り込んだ事に驚き道を外れて、畑の中を暴走してしまった。


 曹操は手綱を取り落ち着かせようとしたが、絶影は止まる様子がなかった。


「殿っ」


「殿をお守りしろっ」


 兵達は慌てて、曹操の後を追い駆けた。


 絶影が暴れる度に麦は踏み散らされる。其処に兵達も来るので、畑は踏み荒らされてしまった。


 ようやく、絶影が大人しくなると曹操は安堵の息を漏らした。


 だが、直ぐに周囲を見て溜め息を吐いた。


 畑が踏み荒らされてしまったからだ。


 その畑を持っている者達はビクビクしながらも、目に怒りを宿していた。


 曹操も、折角実った畑を踏み荒らされれば怒るだろうと思った。


「…………荀彧っ」


「此処に」


 曹操が大声を上げたが、荀彧は既に傍に控えていた。


「私が出陣前に言った事は覚えているか?」


「はい」


「では、私が乗った馬が畑に入った場合、その罪はどうなる?」


「…………この場合、殿の首を斬るという事となります」


「そうだな。誰か、剣をっ」


 曹操はそう命じると、護衛の兵が鞘に収まった剣を持ってやって来た。


「軍法に従い、その剣で我が首を斬り皆への見せしめとせよ」


 曹操はその場で座り込んだ。


「お止め下さい。殿」


 荀彧は曹操を宥めたが、曹操は聞く耳を持たなかった。


「大将が軍法に逆らえば、誰が従うのだ? そんな事では、勝てる戦も勝てぬわっ」


 曹操はそう叫んだが、荀彧は冷静に答えた。


「しかし、大将が死んでしまえば、誰が軍を統率するのです。天子の命を受けた以上、軍法の前に、その命に従うのが先です」


「むぅ、確かに」


「春秋にも『法に貴きは加えず』とあります。どうかご再考を」


「成程。ならば、どうする? 大将が軍法に逆らっては、将兵は従わぬだろう」


「こうなさるのが良いかと」


 荀彧は曹操の提案すると、曹操はその案を受け入れた。




 少しすると、その畑を持っている者達と、近くの村長が曹操の下に集められた。


 村長達は何事かと思いながら、曹操を見ていた。


「私の馬が暴れて、其方らの畑に入り麦を踏み荒らし、其処に護衛の兵達もやって来て畑を踏み荒らしてしまった。済まなかった」


 曹操は村長達に頭を下げて謝った。


「い、いえ、そんな」


 村長は曹操に謝られて恐縮していた。


「本来であれば、軍法に従いこの首を斬るところだが、今は天子の命に従い、討賊の大任に果たさねばならぬ。代わりに」


 曹操は腰に佩いている剣を抜いた。


 村長達は最初、殺されるのかと思ったが、曹操はその剣で自分の髷を切った。


 この国では儒教が広く浸透していた。


 その為、儒教では親から貰った体を傷つける事は不孝と言われていた。


 刑罰にも髡刑こんけいという髪の毛を斬る処罰がある。


 即ち、髷を切るという事は、自分が罪人であるという事を示す証拠であった。


「討賊の大任に果たすまでの間、首の代わりにこの髷を置いて行く。勝利するまで、預かってくれぬか。もし私が負ける事があれば、この首を其方達にやろう」


「へ、へへぇ、畏まりました」


 曹操は切った髷を村長に渡した。


 渡された村長も恭しく髷を受け取った。


 勿論、畑を荒らした補填は別にするのであった。


 髷を渡した曹操は此度の戦に負ける事が出来なくなった。


 負ければ、軍法に従い首を斬られるからだ。


(この戦、負けられぬな)


 不退転の覚悟を決めた曹操は、気を引き締めた。


 曹操の覚悟を知った将兵達も自然と気を引き締めた。それにより、士気が上がった。

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