突然の使者

 丁薔が実家の譙県に戻って十数日が経った。


 丁薔は実家の離れに小屋を立てて、其処で機織り機で織物を作っていた。


 小屋の中からは、カタカタと機織り機を動かす音が聞こえてる。


 其処に、屋敷の侍女が曹操を連れて小屋に来た。


「孟徳様が参りました」


 と声を掛けるが、丁薔は何の反応を示さなかった。


 侍女が困っていると、曹操は手で下がる様に合図を送った。


 侍女が下がると、曹操は何も言わず小屋の扉を開けた。


 扉を開けた先には、狙っているのかそれとも偶然なのか、曹操に背を向けて機を織っている丁薔の姿があった。


 曹操が小屋に入って来ても、丁薔は何も言わず、ただ機を織っていた。


「薔。迎えに来たぞ。そろそろ、一緒に帰ろう」


 曹操は優しく声を掛けるが、丁薔は振り向きもせず何も言わず作業をしていた。


「お前が居ないから、娘達と曹真が寂しがっているぞ。あの子達はお前を母親の様に慕っているのだぞ」


 曹操は一緒に帰るようにと促したが、丁薔は全く反応が無かった。


 何かしら反応があるのであれば、対応は出来るが、何の反応も無いので対処が出来なかった。


 思っていたよりも強情な丁薔に困っていた曹操は、これは仕方が無いなと思い、小屋を出て、外に居る侍女に声を掛けた。


 声を掛けられた侍女は頷いた後、その場を離れて行った。


 侍女を見送った曹操は再び小屋に入り丁薔に帰ろうと促した。


 だが、一向に反応を示さなかった。


『母上えええっ、私が愚かでしたっ。父上の愚行を止める事が出来なかった私を、どうか、どうか、お許し下さいっ。母上ええええっ』


 其処に小屋の外から大きな声で謝罪の声が聞こえて来た。


 その声と、話しぶりから声の主が分かったのか、丁薔は手をピタっと止めた。


「…………ずるいですよ。旦那様」


「素直にお前が帰ると言わないから、こうなるのだ」


 丁薔が目を細めると、曹操はお前が悪いという顔をする。


 曹操は丁家に来る際、曹昂も伴って来た。


 もし、丁薔が素直に帰ると言わない場合は曹昂が屋敷の門の前で筵を敷いて、其処で大声で謝る様にと指示を出していた。


 曹昂もそれで、丁薔が戻って来るのであれば、躊躇はしなかった。


 屋敷に居る者達だけではなく、近くに住んでいる者達にも聞こえる様に大声を出した。


 曹昂の声を聞いて、恥ずかしいやら一緒に帰りたいという思いが其処まである事に嬉しいという複雑な気持ちが心中を支配した。


 流石に外聞が悪いので止めさせたいが、その場合、自分が戻るという事になる。


「……全く、旦那様と子脩も悪知恵ばかり働くのだから」


「褒め言葉として取っておこう。それで、どうする? 帰って来るか? 私としてはお前が居ないと困る」


 曹操は本心からそう答える。


 奥向きの事は全て丁薔に任せていたので、居なくなった途端、色々な問題が噴出した。


 曹操が司空の職に就いてからというものの、自分の地位を向上させる為に一族の者を曹操の妾、或いは側室にしようと話を持ち掛けて来るのだ。


 皆、そこそこの家の者なので、話を断る事が出来ず、何人かは側室に迎えていた。


 それにより、その者達を纏める者が必要であった。


 孫猫は似たような身分なので出来ず、環桃は性格的に無理であった。


 卞蓮に至っては、元が歌妓という事であまりに身分が低いので話にもならなかった。


 其処で丁薔が必要であった。


 豫州沛国では名門と知られており、霊帝の時代には三公の一つである司徒に就いた者を一族から輩出した丁家の出という事で、家格としても十分と言えた。


 何より、曹操自身としても丁薔と離縁するつもりはなかった。


 引き取った子の面倒を見てくれたのもあるが、何だかんだ言って付き合いが長いので愛着を抱いていたからだ。


「…………少し、お時間頂けますか?」


 丁薔はそう言って機織り機を見る。


「今作っている物が、もう少しで出来るので、それが出来上がったら、一緒に帰りましょう」


「そうか。じゃあ、曹昂に伝えてこよう」


 曹操は丁薔の返事を聞いて、嬉しかったのか軽やかな足取りで曹昂の下に向かった。


 そんな曹操の背を見送ると丁薔は苦笑を浮かべ、そして作業に戻った。


 


 曹操が曹昂に丁薔が戻って来るという事を伝えると、曹昂は両手を挙げて喜んだ。


 丁薔が言う作業が何時頃終わるか分からないので、曹昂は曹操と共に屋敷で待つ事にしたが、


 其処に丁薔がやって来た。


「私が居ないだけで、大声で帰って来る様に請願するとは! 成人したと言うのに、何と子供の様な事を!恥を知りなさい!」


 と姿を見せるなり、雷を落とした。


 それだけでは収まらないのか、丁薔は曹昂を叱りつけた。


「まだ作業が終わるまで時間が掛るから、貴方は先に帰りなさい」


「え? ですが」


「母が信用できないと?」


 丁薔が目を細めながら言うと、曹昂は何も言えなかった。


 結局、曹昂は丁薔の圧力に負けて、一足早く許昌へと戻る事となった。




 譙県を後にした十数日後。


 曹昂は許昌へと辿り着き、屋敷に居る家族に丁薔が戻って来る事を告げに行くと。


「「「ぎゃああああああああっっっっ‼‼‼」」」


 陳留に居る筈の貂蝉達が居た。


 普段着ている煌びやかな衣装ではなく、白い衣を纏っていた。


 そして皆、曹昂を見るなり悲鳴を上げたのだ。


(流石に、傷付くのだけど……)


 久しぶりに会えた妻妾達から悲鳴で出迎えられた曹昂は内心、そう思った。


 そして、事情を聴くと、どうも曹昂が死んだという誤報を聞くなり、皆碌な準備もせずに旅立った。


 その為、曹昂が死んだと言うのは、誤報だと知らなかった。


 更に間が悪い事に、貂蝉達は先程屋敷に着いたばかりで、曹昂が死んだというのは誤報だと誰にも訊いていなかった。


 余談だが、留守を預かった劉巴達はその報告を聞いて、曹昂が無事だと分かり喜んでいた。


「何だよ。脅かすなよっ。お前が死んだと聞いたから、慌てて来たんだぞっ」


 董白は照れ隠しなのか、曹昂の足を蹴りながら怒っていた。


「まぁ、誤報だったのですから、良かったではないですか」


 そんな董白を宥める袁玉。


 曹昂が生きていた事が嬉しかったのか、目尻に涙が浮かんでいた。


「正直、私はまた未亡人になったのかと思いました」


 冗談なのか本気なのか分からない事を言う蔡琰。


 結婚したが、その夫と死別した為、そう言えるのであった。


「兎も角、無事で良かったです……」


 貂蝉は安堵の表情を浮かべて、曹昂の無事を喜んでいた。


「……あれ? 皇女様と練師は?」


 妻妾全員居るかと思われたが、第一夫人の劉吉と妾になった練師の姿が無かった。


 曹昂がそう訊ねると、貂蝉が答えてくれた。


「此処に来る途中、馬車の車軸が壊れてしまったのです。劉吉姉様が、私達に先へ行くよう促したので、先に来ました」


「大丈夫かな?」


「はい。多分」


「しかし心配だな。ちょっと見て来るか」


 曹昂は兵を集めようとしたが、其処に使用人がやって来た。


「申し上げます。今、朝廷からの使者が来て、徐州から陳登という者が城に参りまして、曹司空様に会いたいと申しているそうです」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る