返す言葉がない

 翌日。


 曹操は舞陰の地に陣を敷くと、全軍に南陽郡の制圧を命じた。


 攻撃を受けた事で、死傷者は数万に及んでいたが、曹操はしてやられた腹いせを晴らすように、各地の制圧を命じた。


 天幕で兵からの報告を聞きつつ、曹昂と話をしていた。


「間者の報告を纏めましたところ、逃げた張繍達は劉表の下に身を寄せているそうです」


「……そうか。では、張繍への報復はまだ先になりそうだな」


「ですね」


「まぁ、其処は追々考えるとしてだ」


 曹操は曹昂の目を見た。


「報告で聞いたが、お前、新兵器で宛城で暴れ回ったそうだな」


「はい。火薬を用いた兵器です」


「あの筒みたいな物か?」


「その通りです。火槍と名付けました」


 ハンドカノンに銃剣を取り付けたので、そう呼んでも良いと思い名付けた曹昂。


 当初、銃剣部分を砲口に取り付けると、砲口の熱で溶ける事も考えられ、剣と砲の間に銃床を敷く事で、砲身の熱で銃剣が溶ける事を防いだ。


「騎兵の方は筒の先に刀身があったな。あれは飛ばせるのか?」


「はい。飛ばした後、付け替え出来る刀身を嵌め込めば、槍としても使えます」


「ほぅ、矢よりも威力があり、槍としても使えるか。弱点は雨か?」


 曹昂の説明を聞いた曹操が訊ねると、曹昂はその通りとばかりに頷いた。


「そうですね。雨の日だと火薬が湿気ってしまって、使い物にならなくなりますね」


 其処がこの火槍の弱点だと思う曹昂。


「だが、威力は大きいか。悪くはないが、雨が降って使えないのであれば全軍に支給するのは無理だな」


「ですね。雨の日に戦に持ち込まれれば、あっけなく敗れますから」


 それともう一つ、撤退する際に火柱を上げたのは、火薬を詰めた炮烙玉を紐で繋いで地面に埋めた『地雷』であった。


 使える場所は限定的だが、火薬が製造できた時点で作る事は容易であった。


 曹操は全軍に支給はしない様に話した。


 全軍に支給する程の量を製造は出来るが、敵に奪われる可能性もあったので、曹昂は内心安堵した。


「……そう言えば父上。許昌に居る家族には、僕が死んだというのは誤報だと伝えましたか?」


「無論だ。昨日の内に、人を遣って誤報だと伝えたぞ」


「なら、良かった」


 敗北した事には変わりないが、少なくとも自分は生きて帰って来る事は出来たので良しとしようと思う曹昂。


「此度の件は、私には良い事を教えてくれた。張繍には感謝せねばな」


「感謝ですか?」


 一杯食わされたのにそう言い出した父親を曹昂は不審そうに見ていた。


 そんな、曹昂に曹操は笑みを向けた。


「お前も戦に敗れる事があれば、私と同じ気持ちになるであろうよ」


「……そうであれば、嬉しいです」


 そんな境地に至るまで、時間は掛かりそうだと思えた。


 暫くすると、曹操は南陽郡の北部一帯を支配下に治める事に成功した。


 だが、その行いを荊州牧劉表は黙っていなかった。


 自分が治めている州内の郡を、一部勝手に支配しているので抗議の文を送った。


 曹操はその文を読むなり「そちらの下に居る張繍と賈詡の二人の身柄をこちらに引き渡すのであれば、支配下に治めた県はお返しする」という内容の文を劉表に送った。


 それを聞いた曹昂は、悪辣だなと思った。


 これで、文を読んだ劉表が張繍達を曹操に送れば、劉表は保護を求めた者を見捨てるという風評がつく事となる。州牧になる前は名士として知られていた劉表にはそれは致命的な事であった。


 かと言って送らなければ、南陽郡の北部は返って来る事は無い。それは即ち、劉表は南陽郡の統治を放棄し、曹操の南陽郡支配を認めるのと同義という事であった。


 曹操からしたら、張繍達を送ってくれれば甥を殺された恨みを晴らす事が出来る。


 送らなければ、南陽郡の統治を盤石にするだけなので、劉表がどちらを選んでも損はしなかった。


 数日経つと、南陽郡の支配に目処が立ったが、張繍達が送られる事は無かった。


(ふん。本当は張繍を討ち取りたいところだが、劉表の保護下に置かれては手が出せんな)


 そろそろ、兵糧も心許なくなってきたので、戦をするのは無理があった。


 曹操は此処に居ても無駄だと判断し、許昌に帰還する事にした。


 


 十数日後。




 曹操達は許昌に辿り着いた。


 既に曹操が負けた事は知れ渡っていた様で、沿道には多くの者達が曹操達の姿を見にやってきた。 


 先頭に立つ曹操が負けたと言うのに、背筋を伸ばして自信満々な表情で道を歩いているのを見て、負けはしたが、それほど痛手を受けたのではないと思い込み始めた。


 そんな、多くの民達の視線を浴びつつ、曹操は内城に入って行く。


 負けた事を報告しに行く必要はないと思ったのか、献帝や朝廷に報告には行かず、軍は夏候惇と曹昂に任せて、自分は屋敷へと向かった。


 屋敷に入ると、丁薔が出迎えてくれた。


「おお、薔。今、帰ったぞ」


 出迎えた丁薔に曹操は声を掛けたが、丁薔から返事は無かった。


 よく見ると、服もヨレヨレで髪も整えていない上に、化粧もしていなかった。


 それで、血走った目で曹操を見ているので、これは尋常ではないと判断する曹操。


「し、薔よ。どうかしたのか?」


「…………どうかしたのかですって? 分からないのですか?」


 丁薔にそう言われても、曹操は何を言っているのか分からなかった。


「……貴方はっ」


 そう叫んだ丁薔は泣きながら曹操の胸を叩いた。


自分の息子を・・・・・・亡くした・・・・と言うのに、どうして、そのように気楽にしていられるのですっ。それでも、貴方は、父親ですか? この人でなしっ!」


「お、おお、落ち着け、何を言っているんだ? お前は?」


 丁薔が言っている事が分からず、曹操は困惑していた。


「うああああああ、こう、どうして、ははよりも、さきにいくというのですっ、あんなに、あんなに、いいこが、どうして、あああああああっ! こうぅぅぅっ」


「はい。呼びました?」


 曹操の胸元で泣き叫ぶ丁薔の声に答えるように、曹操の後ろから曹昂は顔を出して答えた。


 夏候惇が気を利かせてくれて、後は任せろと言うので、曹昂はその言葉に甘えて弟の曹丕と共に屋敷に帰って来たのであった。


「……えっ?」


 曹昂の声が聞こえたので、丁薔は驚きつつ、声がした方に顔を向けた。


「母上。どうしたのです? そんな大声を出して?」


 曹昂は首を傾げつつ訊ねた。


 側に居る曹丕も丁薔の姿を見て、いつもと比べ綺麗でない姿に不思議そうな顔をしていた。


「……こう。あなた、いきていたの?」


「はい。この通り」


 曹昂は両手を広げた。


 丁薔は曹操から離れ、フラフラと動いて、曹昂に近付き頬を触る。


 その後は、身体を触り生きている事を確認した。


「…………ふぅ」


 丁薔はそう呟くなり、気を失ってしまった。


「母上っ」


「薔っ。しっかりしろっ」


 倒れた丁薔に曹操と曹昂は近付き無事かどうかを確認した。


「お、遅かったようね……」


 其処に、曹丕の母親である卞蓮の姿があった。


「蓮、これは一体」


「話すから、取り敢えず姉さんを部屋に運んで。ほら、子脩も手伝って」


「あっ、はい」


 卞蓮にそう言われて、曹操と曹昂は丁薔を部屋に運んで行った。


 部屋にある寝台に丁薔が寝かされると、卞蓮は話してくれた。


 最初、曹昂が死んだという報を聞いた丁薔は慟哭していた。


 その後、部屋に籠もり食も取らなかった。


 実の子同然に可愛がっていた存在を失った事に掛ける言葉が無いのか、皆そっとしていた。


 暫くすると、曹昂の死は誤報だという報が齎されたが、丁薔は呆然自失となっており、その耳には届いていなかった。


 其処に曹操が帰還したという報を聞くなり、丁薔は服も髪も整えず出迎えに向かった。


 話を聞いた曹操達は納得できた。


 やがて、意識を取り戻した丁薔は曹昂が生きている事を確認した。


「あなたというこは、せいじんし、よめをもらったというに・・・ははをおどろかせることは、やめないのですね・・・・・・おおおおおおぉぉぉぉぉ」


「母上。申し訳ありませんでした」


 大号泣している丁薔に、曹昂は謝るしか出来なかった。


 今回は自分の所為かな?と思うが、泣いている母にそう告げる事が出来ず謝るしか出来ないのであった。




 その数日後。




 曹操と曹昂が久しぶりに碁を打っている所に、丁薔がやって来た。


「実家に帰らせて頂きますっ」


 丁薔が部屋に通されるなりそう告げて来た。


「「…………えっ?」」


 丁薔の口から出た言葉に、曹操達は耳を疑った。


 持っていた碁石を落とす程の衝撃を受けた二人。


「い、いきなり、何を言い出すんだ。お前は?」


「今度という今度は、許す事ができないから、こうして言っているのですっ」


「は、母上。落ち着いて下さい。父上が何をしたというのです?」


 此処のところ、曹操は戦に負けた事以外、特に駄目な事はしていないので、曹昂は訊ねてみた。


 そんな曹昂を睨みつける丁薔。


「子脩。貴方も貴方ですっ。父の行いを諫める事が出来ないとは、それでも、貴方は曹家の長子ですかっ。情けないっ」


「申し訳ありませんっ」


 昔からの習慣の所為か、丁薔に怒られると曹昂は頭を下げて謝る事しか出来なかった。


「まぁ落ち着け、薔よ。何を思って、そんな事を言い出したのか分からぬが、取り敢えず、理由を話してくれぬか? でなければ話も出来ん」


 曹操は冷静に丁薔を宥めようと優しく声を掛けた。


 だが、それすらも丁薔からしたら、何の気休めにならなかった。


「貴方が言いますか。他ならない、貴方がっ」


「いや、だから、何に怒っているのか教えてくれぬか?」


 曹操は丁薔にそう訊ねると、丁薔は気を落ち着かせる為、深く息を吸って吐いた。


「……先の戦で負けたのは、敵の奇襲を受けたからと聞きましたが。違いありませんか?」


「うむ。そうだ」


 曹操はその通りとばかりに頷くと、丁薔が目を細くさせた。


「その敵は最初、降伏したのに、敵の総大将の親族を寝取った人がいて、それに怒って奇襲を仕掛けたと聞きましたが?」


「う、うむ……」


 曹操は顔を青くさせながら頷いた。


「その親族を寝取ったのは、旦那様と言う話ではないですかっ」


「……まぁ、その通りだな。だが、敵は巧妙に練った計画で奇襲をしたのであって、断じて、私が雛菊を側室に迎えたから、負けた訳ではないぞっ」


「私が怒っているのは、側室を迎えた事よりも、その奇襲で安民が亡くなった事に怒っているのですっ!」


 丁薔がそう怒鳴って来た。


 それを聞いて、曹操達が丁薔が怒っている理由が分かった。


 陶謙の行いで、曹操は父親だけではなく弟達を失った。


 その為、曹真、曹浩、曹徳を曹操が引き取って育てていた。


 その養育は丁薔が引き受けていた。


 丁薔は子供こそ生んでいないが、亡き曹鑠、曹清、曹丕、曹彰、曹植、曹休、曹憲、曹節、曹華を養育に協力していた。


 曹昂を特に可愛がってはいたが、他の子達も同様に可愛がっていた。


「貴方の所為で甥を失ったと聞いて、私はもう恥ずかしくて、あの世にいる徳様に顔向けができませんっ!」


「むっ、むぅ……」


 丁薔の言う事が身に突き刺さったのか、曹操は何も言えなかった。


「子脩。貴方も貴方ですっ。旦那様の行いを止める事が出来なかったから、貴方は従弟を失ったのですよっ。反省しなさい!」


「は、はい。その通りです」


「私はもう、恥ずかしくて悲しくて、こんな所に居られません。ですので、実家に帰らせて頂きますっ」


 丁薔はそう言うと、返事は聞かないとばかりに部屋を出て行った。


 曹操達は慌てて、その後を追い駆けたが、丁薔は聞く耳を持たないとばかりに、話を聞いてくれなかった。


 家財一式を纏めた丁薔は屋敷を後にして、許昌から出て行った。


 暫くすると、許昌ではある噂が流れた。


 曹司空の正室が、曹司空が此度の戦で甥を戦死させた事に激怒して、屋敷を出て行ったと。


 あながち嘘ではないので、曹操は黙る事しか出来なかった。


 その噂を聞いた朝廷に仕える者達は、影で曹操の事を失笑していた。

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