この経験は

 曹昂率いる騎兵部隊の強襲により、後退した賈詡は兵を集めるのと、情報交換の為に主である張繍の下に向かう事にした。


 幸い曹昂軍の追撃は無かったので、難無く張繍と合流出来た。


 そして、合流するなり驚くべき報告を聞く事となった。


「何とっ⁉ 典韋を討ち取る事が出来なかった上に、曹操を取り逃がしたと⁉」


「ああ、そうだ。胡車児は殺され、兵を送り込んで後一歩という所まで追い込んだが、曹昂率いる部隊の攻撃で大勢が崩れた。後退して軍を整えたが、その時には逃げられていたわっ」


 忌々しいとばかりに拳を握る張繍。


 話を聞いた賈詡は直ぐに現状と今自分達が出来る事を思案した。


「…………殿。最早これまでです」


「なに? どういう意味だ?」


「城外の陣地には夏候惇率いる十万の兵が、城内にも数万の曹操軍の兵がおります。呼応した両軍に攻め掛かられたら、我が軍は間違いなく負けます」


「ぬううぅぅ、どうすれば良い? 賈詡」


 張繍が訊ねると、賈詡はこれから話す事を誰にも訊かれない様に近付く。


「此処に至っては取れる策は一つ。逃げるだけです」


 賈詡は逃亡しようと進言したが、張繍は受け入れられないのか首を振り大声を上げる。


「ならん!ならんならん!それは絶対にならん! 我が一族の尊厳を辱めた男を討ち取る事も出来ずに逃げるなど、出来る訳が無かろう‼」


 張繍は断固として反対という顔をしていた。


 それは、曹操を討ち取る事が出来なかったという悔しさだけではなく、ある種の憎しみが混じっている様に見えた。


 賈詡は張繍がどうしても反対する理由が分かっているのか、息を吐いた後に告げた。


「この際だから申し上げます。叔母上の事は諦めなされ」


「なっ⁈」


 賈詡にそう告げられた張繍は言葉を詰まらせた。


「貴方様が、雛菊殿の事を横恋慕していた事は知っております。未だに妾にしようと執着しているのも。ですが、当の本人にその気は無いようですぞ」


 賈詡にそう言われても、張繍は諦めきれないという顔をしていた。


 叔父である張済が戦死し、喪中の雛菊に妾になる様に迫ったが、夫の喪中という事でその話を断った。


 だが、曹操が来て会うなり、まだ喪中だと言うのに雛菊は曹操の床に侍った。


 これはどう見ても、雛菊は張繍の事を好いてはいないという証拠であった。


 ちなみに、この時代の女性の貞操観念は人によって違う。


 貞女は二夫に見えずという言葉も定着するのは、もっと先の時代の話であった。


「ぐぐぐ、おのれ、そうそうめ…………」


 張繍は怒りで歯を食いしばっていた。


「殿。ご決断を」


 賈詡が張繍の決断を促すように声を掛けた。


 張繍は暫し考え込んだ後、コクリと頷いた。


 賈詡はそれを逃げる事に決めたと取り、近くに居る兵に声を掛けた。


「西門に居る部隊には城内の曹操軍に攻撃を。東門に居る部隊には城外の曹操軍の陣地へ攻撃する様に伝令を送れ」


「「はっ」」


 賈詡の命令を伝達する為、兵達は駆け出した。


「本体は南門の守る部隊と合流するぞ。合流後、城に火を放つ。準備せよ‼」


 賈詡の命令を聞いた張繍は驚いた。


「待て、賈詡。それでは、城内に居る曹操軍を攻撃する者達が焼け死ぬぞっ」


「敵を欺くには、味方からという言葉をご存じで?」


 賈詡がそう言うのを聞いた張繍は直ぐにその言葉の意味を悟った。


「お、お前っ、西門を守る兵達を捨て駒にするつもりか⁉」


 張繍がそう言うのを聞いた賈詡はその通りとばかりに頷いた。


「これも殿が助かる為です。どうかお聞き入れ下され」


「……分かった」


 張繍は仕方が無いと思い賈詡の策に従う事にした。


 張繍が南門に着くまでの間に油を捲いた。そして、南門に着くと賈詡は城内に火矢を放つ様に命じた。


 兵達は良いのかと不安に思いながら、賈詡の命令に従い火矢を放った。


 放たれた火矢は家屋や捲いた油などに当たり、火を付けていった。


 徐々に火が大きくなっていくのを見た張繍と賈詡は、部隊を率いて城から逃亡した。


 同じ頃、曹昂はと言うと。


「っち、逃げられたか」


 賈詡を追撃をしていたのだが、途中から逃げられてしまった。


 暫く付近を捜したが、見つける事が出来なかった。


 曹昂はこれからどうするか考えていると、其処に周辺を偵察していた者達が戻って来た。


「申し上げます。敵が城に火を放った模様です。火勢は強くありませんが、直に此処まで来ると思われます‼」


「自分の城に火を放つとか。大胆な手で来たな」


 曹昂は、賈詡辺りが提案したのかと予想した。


「……これ以上の追撃は無理か。止むを得ないな。全軍、北門まで撤退するぞっ。グズグズしていれば、火に焼かれるぞ!」


 曹昂は撤退を決断し、率いていた騎兵部隊を率い北門へと向かった。


 途中、横道から張繍軍の兵達が喚声を挙げて攻撃を仕掛けて来た。


「火が放たれている中で、よく攻め込んで来るなっ」


 半ば感心しつつ、曹昂は応戦する様に命じた。


 兵数であれば曹操軍の兵が多かったが、それが災いした。


 城内の道が狭く、兵の数が多い事で展開が上手く出来なかった。


 その隙にと、突撃してくる張繍軍の兵。


 多くの兵は曹操軍の兵に阻まれたが、何人かの騎兵が曹昂の下まで来た。


 兵達は曹昂がどんな存在なのか知らなかっただろうが、曹昂が纏っている鎧が自分達の鎧よりも見事なので、武将だろうと思い、討ち取れば恩賞が貰えると思い向かっていた。


「子脩様を守れっ」


 護衛の兵達が、向かって来る張繍軍の騎兵達にぶつかっていく。


 曹昂を守るために。


 だが、恩賞欲しさに突撃する張繍軍の兵達の気迫が勝ったのか、護衛の兵のぶつかりを避けた騎兵の一騎が曹昂の下まで来た。


「おおおおおっっっ⁉」


 向かって来る騎兵は体中傷だらけであったが、大声を上げて突撃した。


 己の命を的にして恩賞を得ると言わんばかりの気合が込められていた。


 曹昂は向かって来る騎兵を見るなり、腰に佩いている剣を抜いた。


 向かって来る騎兵は剣を振り下ろしたが、曹昂はそれを剣で受け止めた。


(見える。相手の剣筋が見えるっ)


 曹昂は剣を振るい、甲高い音を立てて、火花を散らした。


「ふんっ」


 曹昂は気合を込めて、剣を振り下ろした。


「ぐああああっ」


 袈裟切りにされた兵士は苦悶の声を上げて馬から落ちた。


「ふー、ふー、ふー・・・・・・」


 曹昂は荒く息を吐きながら、今しがた自分が斬り捨てた兵士を見た。


 光を宿さない瞳が恨めしそうに見て来る気分に陥った。


 曹昂は視線をずらすと、今度は手が震えている事に気付いた。


(……初めて、人を斬ったな)


 戦場に何度も出たが、人を斬るのは今回が初めてであった曹昂。


 剣の刃が、肉を斬る感触。斬られた事で噴き出る血とその匂い。


(人を殺せば、心を病むと聞くけど、よく分かるな)


 これから先、出来れば人を斬りたくないなと思う曹昂。


「お見事です。子脩様」


 護衛の兵がそう声を掛けた事で、気を取り戻す曹昂。


 そして、周りを見ると襲撃して来た張繍軍が撃退された事に気付いた。


「……北門に向かうぞ」


「はっ」


 曹昂がそう命じると、兵達は進軍を開始した。

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