轅門射戟
曹昂と孫策の二人を加えた紀霊は護衛を連れて手紙に書かれている呂布の陣地へと向かった。
紀霊一行が呂布軍の陣地に辿り着くと、出迎えたのは陳宮であった。
「よくぞお越しになられました。私は陳宮。字を公台と申す者にございます」
「これはご丁寧に。袁術軍総大将の紀霊だ」
初対面という事で、一礼する二人。
出迎えた陳宮を、曹昂はジッと見た。
(あれが、陳宮か)
陳宮を一目見た曹昂は、智謀の士と言われるのが分かると思った。
挨拶しながらも、目で紀霊の後ろに控えている曹昂達を見て、誰に話し掛けたら良い情報が手に入るのか考えている様に見えた。
「……紀霊殿。そちらの方々は?」
「ああ、主君の娘婿であられる曹昂殿にございます。隣は、側近の孫策だ」
「お初にお目に掛かります。曹操の息子の曹昂にございます」
紀霊が紹介してくれた事で、曹昂は挨拶をした。孫策も同じように頭を下げた。
曹昂が名乗った瞬間、陳宮は目の色を変えた。
(この者が、曹操自慢の息子かっ⁉)
曹操からも、呂布からも話には聞いていたが、こうして会うのは初めてであった。
何度も苦杯を嘗めさせられて来た相手だからか、陳宮は警戒心に満ちた目で曹昂を見ていた。
「……こちらへ。呂布殿がお待ちです」
曹昂がこの場に来る事は予想外であった様だが、自分の今の立場を思い出した陳宮は紀霊達を案内した。
陳宮の案内で連れて来られた天幕の中には上座に座る呂布の姿があった。
「おお、良く来られた。紀霊殿」
「お招きに応じて参りました……むっ」
呂布が挨拶して来たので紀霊も挨拶を返しながら、天幕の中を見回すと、右側の席に劉備と張飛が座っているのが目に入り、目を見開かせていた。
思わず、剣の柄に手を掛ける紀霊。
劉備と張飛も同じように、柄に手を掛けた。
「待て。早まるな。今日、お前達を呼んだのは、争わせる為ではない」
「何だと?」
呂布の言葉を聞いて。紀霊は怪訝な顔をする。
曹昂は側に寄り、話し掛けた。
「此処は呂布殿の言葉に従いましょう。戦うのは、何をするのか知ってからでも遅くはないでしょう」
「……そうだな」
曹昂の言葉を聞いて、紀霊も刃を納めた。
劉備達も、柄から手を離した。
「曹昂。何故、お前が此処に居る?」
紀霊に話し掛けている曹昂を見て、呂布はこの場に曹昂が居る事を知った。
話す前に礼儀を示す為の一礼をする曹昂。
「お久しぶりです、呂布殿。義理の父である袁術殿の要請に従い、援軍として参りました」
「そうか……」
思いもよらぬ人物が来た事で、呂布も驚いていたが、来た理由が分かり渋い顔をしていた。
沛県を奪った軍を指揮していたのは、曹昂だという事を知っている。
同時に娘達が捕まっている事も。
今すぐにでも、娘達がどうしているのか問い質したいところではあるが、今は娘達の安否を聞くよりも大事な事をしなければならないので、問い質すのは後にする事にした。
呂布の顔を見た曹昂は、娘達を奪われた事について何も言わないが、どう思っているのだろう?と思った。
劉備達も、まだ陶謙が生きていた時に徐州で暴れ回り、自分達に多大な被害を与えた者が目の前に居ると分かり、憤りと驚きが入り混じった顔をしていた。
紀霊が劉備の対面の席に座ると、曹昂達はその後ろに立った。
本来この場には居ないであろう者が居るからか、呂布達は曹昂をジッと見ていた。
曹昂が好奇の視線に曝される中、席に座った紀霊は目の前に置かれた膳にある盃を取り、中の液体を喉に流し込んだ。
「……ふぅ、呂布殿。そろそろ、我等をこの場に呼んだ理由をお聞きしても宜しいか?」
出された膳に手を付けずにいるのは礼儀に反すると思い、酒だけ飲み終えた紀霊は呂布に訊ねた。
「紀霊殿。そう急くでない。まだ酒を一杯しか飲んでいないぞ。貴殿程の者であれば、後もっといけるだろう。まぁ、尤も」
呂布は言葉を区切って劉備の隣の席に座っている張飛を見た。
「何処かの大酒飲みの様に、勤めを疎かにするほど泥酔しては駄目だろうがな」
「ぐ、ぐぐぐ……」
明らかに自分の事を言っていると分かっている張飛。
今すぐにでも剣を抜いて、呂布に襲い掛かりたい思いはあるが、そんな事をすれば自分だけではなく、劉備も危険に曝すと分かっているからか歯を食いしばり辱めに耐えていた。
「では、呂布殿。この場で私と紀霊のどちらかの命を奪うおつもりか?」
耐えている張飛を見て、劉備は話を変える為に呂布に訊ねた。
「いや、誰も殺さぬ」
呂布は酒を呷りながら告げた。
それを聞いた紀霊は怒声を挙げる。
「では、何の為に我等を呼んだのかっ! 用が無いのであれば、今すぐに劉備と戦わせて頂きたいっ‼」
「言ったな。そっちがそのつもりならっ⁉」
張飛が柄から、剣を抜きかけた瞬間。
「止めよっ。それは許さぬっ」
呂布が大声を挙げると、剣を抜きかけていた者達は思わず手を止めた。
「今日、其方達を呼んだのは、他でもない。和睦させる為だ」
呂布の口から和睦と言う言葉が出て来た。
それを聞いた劉備達は耳を疑った。
「戯言を。呂布殿、我等は君命を帯びて、劉備を征伐に参ったのですぞ。劉備の首も取らずに、兵を引き揚げる事などできません」
「上等だっ。そっちがその気なら、こっちも引くつもりは無いっ」
紀霊が和睦に応じるつもりは無いと言うと、張飛は今すぐにでも戦うつもりなのか、何時でも剣を抜けるように構えた。
「むぅ、紀霊殿も劉備殿も引くつもりは無いか。しかし、困ったな。二人を和睦させる為に、この場に呼んだというのに」
困ったと言いながらも、全く困ったような顔をしていない呂布。
「では、こうするとしよう。誰かっ」
呂布は天幕の外に居る兵に声を掛けた。
「はっ。お呼びですか?」
「俺の方天画戟を
「はっ」
命じられた兵は一礼し、天幕から出て行った。
呂布の命令を聞いて、皆は何をするつもりなのか、興味というよりも疑念が強い顔をしていた。
そんな、劉備達を見て呂布は不敵に笑う。
「では、御一同。私と共に表へ」
呂布が天幕の外に出る様に命じると、劉備達と共に外へ出た。
呂布達が天幕を出ると、陣営の門の下に呂布の方天画戟が立ててあるのが見えた。
「御一同。此処は戦をするのもしないのも、天意に任せるというのは如何かな?」
呂布はそう言うが、その言葉の意味が分からない劉備達。
「此処から、あの戟が立ててある所まで、少なくとも百歩以上あるだろう」
この時代の一歩は
百歩以上という事は距離にすると、約百二十メートルはあるという事となる。
紀霊と張飛、武勇には自信がある二人でも、この距離で物に当てるのは無理という顔をしていた。
「此処から私が矢を放ち、戟の枝鍔に当たれば和睦せよ。外せば二人の好きにするのだ」
呂布がそう述べるのを聞いて紀霊はどうして、そんな事を言うのか直ぐに分かった。
(そうか。これで戦になっても良い様に理由を付けているのか)
呂布が和睦をせよと言って来た魂胆が分かった紀霊は、笑みを浮かべた。
「よろしい」
「ちょっとお待ちを」
紀霊の声に被る様に、曹昂が声を上げた。
今迄黙っていた曹昂が、口を開いた。
皆、何事かと思いながら曹昂を見る。
「何だ。曹昂。私が和睦を仲介する事に不満があるのか?」
呂布は良い具合に話が纏まろうとしていたところに、邪魔が入った事でムッとしていた。
「いえ、和睦をする事には何の異論はありません」
「では」
「ですが、もし、矢が戟に当たれば我らは退く事になります。それではあまりに、我等に利益がありません」
曹昂がそう言うのを聞いて、紀霊も少し考えた。
(この距離で当てるなど不可能だろうが。万が一という事もある。そうなれば、私は殿に処罰されるかも知れんな)
もし、そうなれば死刑になるかも知れないと思った紀霊も口を挟んだ。
「確かに、そうですな」
「ぬっ、紀霊よ。矢が当たるかどうかも分からないのだぞ。当たるも当たらないのも天意というものではないか?」
和睦が流れると思った呂布は改めて、当たるかどうか分からないと告げる。
「しかし、飛将の異名を持つ呂布殿ですから、当たるかもしれません。もし、そうなった場合も考えるのも、和睦を仲介する者の役目では?」
「なにをっ、お前は顔を立てるという事も知らぬのかっ⁉」
呂布は怒りで詰め寄るが、曹昂は澄ました顔でのたまった。
「顔を立てているから、こうして会談に臨んでいるのですが? そうでなければ、我等はそちらと戦をするだけです」
曹昂が強気な発言を聞いて、呂布は憤りを覚えたが、直ぐにふと思い付いた。
(これだけ強気な発言が出来るという事は、持って来ているのか? あの兵器を)
兗州での戦いの際に活躍した『飛鳳』といった曹昂が作った兵器。
あれらの兵器により、呂布軍は甚大な被害を出した。
兵達にもその時の恐怖を覚えている者が多い。
今回の援軍として来た際も持ってきたのではと思う呂布。
(っち、事前に陣営を調べておけば良かった)
内心で舌打ちする呂布。
だが、もう和睦の話を持ち出した。此処で和睦をしないと言えば、自分の名が地に堕ちる。
そうなれば、今は何とか治めている徐州もどうなるか分からなかった。
(此処は多少の損をしても、和睦をするしかないか)
そう決めた呂布は咳払いをして気持ちを切り替えてから、曹昂に話し掛けた。
「では、そちらの条件を訊こう」
呂布が条件を尋ねて来たので、曹昂はほくそ笑みながら、紀霊を見た。
「僕が決めても宜しいでしょうか?」
「ああ、お任せする」
紀霊は、もう曹昂に話を任せる事にした。
「では、もし矢が当たれば、そちらに送った贈り物を返還するという事にします」
「なにっ、それは駄目だっ!」
曹昂が出した条件に、呂布は反対した。
「しかし、今回の遠征は、先に劉備が攻め込んで来た事への報復です。ですので、呂布殿と戦をするつもりはありませんが、義父上は気を遣って贈り物を送り、敵意は無いと示しました。和睦がなるのであれば返して頂きます」
表向きには、袁術はそう理由付けて劉備に攻め込んだ事になっているのでそう述べる曹昂。
「い、いや、駄目だ。贈られた物は、先の約条で決めた贈り物だ。それを返す事などできんっ」
呂布は駄目だと言うと、曹昂は困ったような顔をしていた。
「聞いた話だと、当初約束した贈り物を倍にして届けたと聞いていますが?」
「遅れた事で色を付けただけだっ」
「そうですか。では、その半分を返すというのは如何ですか?」
「なに?」
「食糧五万石。良馬五百匹。絹五百反を返すのはどうですか? そうであれば、こちらは約束を守った事になりますし、和睦した事で、こちらには何の損もしません」
「むぅぅ、そうだな……」
贈り物を全て返せと言われた所に、半分返せと言われてそれなら良いかと思う呂布。
「まぁ、呂布殿が矢を外せば、贈り物は返さなくても結構です。我らはこのまま東成県に攻め込むだけです。ですよね、紀霊殿」
「うむ。その通りだ」
紀霊からしたら、矢が当たるという万が一に備えて条件を付けただけで、本当のところは矢は当たらないだろうと思っていた。
なので、攻め込む気満々であった。
「こちらの条件は以上です。これで、和睦がなれば、呂布殿は我等の和睦を仲介した事で名が上がり、劉備殿は一兵も損じる事無く戦を回避する事が出来、我等は贈り物の半分を貰って帰る事が出来る。まさに、誰も損をしない理想的な和睦ですね」
曹昂が笑顔で、断らないですよね?と訊ねる。
「…………ふぅ、分かった。矢が当たれば、贈り物の半分を返そう」
呂布もこれ以上話をこじらせては、和睦が駄目になると思い、曹昂の話に乗った。
「では、呂布殿。どうぞ」
曹昂は矢を放っても良いと言うと、呂布はやり込められたという気持ちはあったが、今は矢を放つ事が大事だと思い気持ちを変える為に酒を呷る。
そして、矢を番えた。狙いは愛用の戟。
十分に狙いを付けると、指を離し矢が放たれた。
ぐんぐんと真っ直ぐに進む矢。
皆、矢が当たるのかどうか注視している中で、矢は枝鍔に当たり、甲高い音を立てた。
陣営に居る呂布軍の兵達は歓声を上げた。
皆、矢が当たった事に驚いていた。
「見たか。戦を止めろと言う天意だ」
「承知しました」
「…承知した」
呂布が戦を止めろと言うと、劉備も紀霊も承諾した。
(危なかった。これで曹昂殿の条件が無ければ、どうなっていた事か)
首の皮一枚繋がった気分であった紀霊は安堵の息を漏らした。
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