精山の戦い

 宛県を出て二日後。


 劉備達は精山に着いた。


「此処が精山か」


「思ったよりも小さな山だな」


 劉備と孫堅は軍議で聞いた限りではあまり大きくない山に黄巾党の教祖の張角の弟の張宝が籠もり其処で頑強に抵抗しているという話であった。


 その山を攻める為には峡谷を通らなければならないとも教えてくれた。


 先に話したのは後で、その事について文句を言われるのを嫌ったからだろう。


 この戦に勝てば、恩賞は約束されているので、どうにかして勝たねばならない劉備。


 そんな思いで山を進むと峡谷の前まで来た。


 其処は激戦であったのか、地面は血が固まって黒くなっており数えきれない程の矢が刺さっていた。


 折れた棒と矢と旗もそこら辺に落ちていた。全てボロボロになっていた。


 本来、飛んでいる筈の鴉が何か啄んでいた。どうやら、何かの肉だ。


 大小、様々な石が落ちていた。よく見るとその石にも黒くなっている血がついていた。


 劉備はそんな酸鼻極まる峡谷の地形を見た。


「……成程。これでは大軍は展開できない上に進めば二方面から攻撃を受ける事になるな」


「うむ。だが、この峡谷を通らなければ張宝達が居る陣まで行く事は難しい。どうする玄徳殿」


 孫堅は劉備にどうするか訊ねた。


 事前に峡谷に防衛線を築かれていると聞いていたので、無謀に突っ込むべきではないと思えた。


 では、どうするべきか考えていると。


「兄者。俺に良い考えがあるぜっ」


 張飛が声を掛けて来た。


 策謀というものに無縁な男がそう言うのを聞いて、劉備と関羽は少しだけ怖かった。


「ほぅ、翼徳殿は何か考えがあると?」


 孫堅だけどんな考えなのか気になり訊ねた。


「ああ、俺にしては妙案と言えるだろう。この峡谷を通ったら攻撃を受けるのなら、この峡谷を通らなければ良いんだっ」


 張飛は胸を張って自信満々に言う。


 意味不明な事を言い出すので、劉備達は意味を図りかねていた。


「張飛。それはどういう意味だ?」


 とりあえず、どういう意味なのか訊ねる事にした関羽。


 すると、張飛は崖を指差した。


「敵はこの峡谷を通ると思っている。だから、裏をかいてこの崖を登って敵の後方を攻撃するんだっ」


「成程。この崖を登って奇襲か。考えたな」


 孫堅はそう言ってから崖を見た。その崖は絶壁と言っても良いくらいにほぼ直角であった。


 此処を登るとしたら命懸けになるであろうと思えた。


「ふむ。峡谷を攻めて被害を出すよりも良いかもしれないな」


「ですな。張飛にしては考えたな」


「『にしては』は余計だと思うぜ。兄貴」


 張飛が不満を言うと、劉備達は笑い出した。


「では、此処は官軍を囮にして我らで崖を登ろう」


「文台殿もお手伝いしてくれて助かります。では、二手に分かれて崖を登りましょう」


 此処で二手に分かれるのは安全の為だ。


 崖を登っているとは言え、人数が多いと見つかる可能性がある上にどちらかが失敗しても、もう一つの方がその隙に崖登りを成功させて助ければ良いのだから。


「うむ。では、千人程お貸しする。その者達と共に崖を登られよ。指揮は大栄」


「はっ」


 孫堅は傍に居る祖茂に声を掛けた。


「この者に指揮させよう。そちらの指揮に従うように言っておく」


「ありがとうございます」


 劉備は孫堅の厚意に感謝した。


 策が決まると劉備達は迅速に行動した。


 官軍五千を峡谷の所で待機させて、時折、鬨の声と鉦を鳴らす様に指示した劉備達は崖を登りだした。


 幾ら登ると決めたとは言っても、木を登るのとは違い崖を登るには度胸も要る上に細心の注意も必要であった。


 木を登る感覚で登っていると。


「う、うわああああぁぁぁぁぁっ」


 苔で足を滑らせて、そのまま落下していった。


 その者は地面に落ちると、周りに赤い血を撒き散らせた。


 それを見て一緒に登っていた者達は冷や汗を流した。


「気を引き締めろ。少しでも気を逸らせば己の命を失うと心得ろっ」


 崖を登っている劉備が皆に声を掛けた。


 皆は何も言わず頷いた。


 喋れば、気が逸れてどうなるか分からないからだ。


 そうして、気を引き締めて崖を登ったが、それでも足を滑らせたり足場にした所が崩れたりして落下する者達は後を絶たなかった。


 幸いなのは、どれだけ悲鳴を上げても、黄巾党の者達には聞こえないという事であった。


 もし、崖を登っている所に攻撃されたら、全滅は必至であったのだから。


 劉備達は数多くの犠牲を出したが、どうにか崖を登る事が出来た。


「へへ、俺にしちゃあ考えた方だろう。兄貴」


「そうだな。偶にではなく何時もこの様な事を言ってくれれば、我らの苦労も少しは無くなるのだがな」


 張飛が得意満面な顔をすると、関羽が指摘する。


 それを聞いた張飛は苦い顔をした。


 周りの者達は、それを見て笑みを浮かべた。


「兄者。此処まで来る事は出来ました。この後はどうなさいますか? 文台殿と合流して敵の後方を攻撃しますか? それとも我等だけで先に攻撃しますか?」


「そうだな」


 関羽にそう訊かれてどうするべきか考える劉備。


「その必要は無い」


 其処に声を掛ける者が居た。


 劉備達は振り返ると、其処に居たのは祖茂であった。


「ああ、大栄殿。よくぞ御無事で」


「玄徳殿達も御無事で」


 劉備と祖茂はお互いの無事を喜んだ。


「時に玄徳殿。一つ相談がある」


「何をですか?」


「我らは二手に分かれたのだから、攻撃も二手に分かれるべきであろう」


「と言いますと?」


「私が黄巾党の陣地の後方を攻撃する。そして、敵が混乱している所を玄徳殿達が攻撃して張宝を討つというのは如何だ?」


「悪くありませんね。ですが。私が張宝の首を取って良いのですか?」


「別に構わん。私は我が殿であられる孫堅殿の命令で此処まで来たのだ。貴殿の活躍の一助になるのであれば、我が殿も喜ばれるであろう」


「……貴方の様な忠義の心を持った士と出会えて、この劉備、誠に嬉しく思います。これも先祖のお導きでしょう」


 劉備は深く頭を下げる。


「頭を上げられよ。貴殿こそ、漢室の血を引き義勇軍の将として世に立った御方。貴方こそ正に忠義の士と言えるでしょう」


 祖茂も劉備には敬服していた。


 正規軍扱いされない義勇軍を率いて、国の為に戦うなど常人には出来ない事だからだ。


「ありがとうございます。では、大栄殿の言う通りに致しましょう」


「うむ。では、玄徳殿。火の手が上がったら合図と思ってくれ」


「はっ」


 祖茂はそう言って一礼し「武運を」と言いその場を離れて行った。


「では、我々も動くとしよう」


 劉備達は黄巾党の陣地が見える所に向かった。


 数刻後。


 劉備達が黄巾党の陣の傍にある林に身を潜めていた。


 その林からは何時でも陣地に攻撃できて、黄巾党からは見えないという絶好の場所であった。


「まだか。まだか」


 張飛は矛を握りしめて今か今かと合図を待っていた。


「落ち着け。張飛。合図も無しに攻めたら、お前が考えた策が台無しだぞ」


「でもよ~」


 張飛を宥める関羽。


 それでも気を抑える事が出来ない張飛。


 そんな張飛を見て関羽は溜め息を吐いた。


「まぁ、待て。張飛。もう少ししたら合図が上がる筈だ」


「それは分かっているんだけどよ……おおっ」


 張飛が話している最中に黄巾党の陣地の後方から火の手が上がるのが見えた。


 耳を凝らすと悲鳴と剣戟の音まで聞こえて来た。


「兄者っ」


「うむ。全軍、攻撃開始っ」


 合図が上がったのを見た劉備は攻撃を命じた。


「おおおおおおおおっっっ!」


 その命に最初に答えたのは張飛であった。


 我先に駆け出して、矛を振り回しながら黄巾党の兵達を斬り倒していく。


「どりゃああっ!義勇軍の張飛翼徳、此処に在りっ。倒せるものなら倒してみろっ」


 名乗り上げながら矛を振り回し黄巾党の兵達を薙ぎ倒していく張飛。


「張飛に遅れを取るな。皆、進めっ」


「「「おおおおおおおっっっ」」」


 劉備が号令を下した。


「我等も遅れを取るなっ」


「「「おうっ」」」


 祖茂も率いていた部隊に突撃の号令を下した。


 祖茂の部下達は猛然と攻撃する。


 後方で火の手が上がって、混乱している所に義勇軍が奇襲してきたので、黄巾党の混乱が増した。


 一部では同士討ちをし始めた。


「ぬうっ、これでは収拾がつかん」


 この山に籠もる黄巾党の将、張宝が馬上にてどうしたものかと思案した。


 其処に一本の矢が飛んで来た。


 その矢は馬の首筋に命中し、馬は悲鳴を上げて倒れる。


 張宝は身を投げ出され、強かに腰を打った。


 それでも大事無いのか、身体を起こした。


「ぐうう、おのれ……」


「其処に居るのは黄巾党の将と見るっ」


 張宝の目の前に弓を構える劉備が居た。


「如何にも、我こそは地公将軍の張宝なり! 匹夫め。名を名乗るが良い!」


「私は義勇軍の将、劉備玄徳!」


「なにぃ、義勇軍だと⁉」


 張宝は痛む身体で跳び下がり、腰に差している剣を抜いた。


「義勇軍がどうして、我等の敵となるっ」


「知れた事。貴様ら黄巾党が無辜なる良民達を虐殺し、多くの田畑を焼き払った。そんな貴様等に天誅を下さんが為だっ」


「何をっ」


 張宝は剣を振りかぶり、劉備に斬り掛かった。


 劉備は剣で応戦し、二人は剣を交えた。


 幾合も交わす二人。


 このまま続くかと思われたが、張宝が背中の痛みで顔を顰めて一瞬だけ目を瞑った。


 それを見た劉備は、その隙に刺突を見舞った。


 張宝は身体を貫かれ、口から血を吐き出した。


 劉備は剣を抜いて張宝から少し離れた。


「ぐほっ、……おのれ、ここまでか……」


 張宝は傷口を片手で抑えながら歩き出した。


 何かするのかと思い身構える劉備。


 だが、数歩歩いた後、前のめりに倒れる張宝。


 そして、直ぐに動かなくなった。


 張宝が倒れると同時に、関羽達がやって来た。


「やったな。兄者」


「さぁ、兄者。勝ち名乗りを」


「……」


「兄者?」


「あ、ああ、すまん。……敵将、張宝。劉備玄徳が討ち取ったり‼」


 劉備は血で濡れた剣を掲げて叫んだ。


 その声を聞いて黄巾党の兵達は混乱の極みとなった。


「これより掃討に掛かる。攻めろっ」


 劉備はそう命じると関羽達は黄巾党の兵達に攻撃を仕掛けた。


 関羽達が黄巾党の兵達に攻撃する為に駈け出すのを見送る。


 やがて、劉備達は掃討が終わると討ち取った張宝と副将の孫夏の首を持ち、捕虜にした黄巾党の兵達を連れて山を下る。


 それを出迎えた朱儁は諸手を上げて喜び宴を行った。


 その宴の最中に冀州方面の官軍が広宗の黄巾党を壊滅させて、首魁である張角は病死していたのでその首を取り、張梁を討ち取ったという報告が齎された。


 朱儁はその報告を聞いて喜びつつも、自分も後少し遅ければ将軍を交代されていたのだろうなと思った。


 そして、張宝の首を取った事を言い、報告に来た使者に首を持たせた。


 使者は朱儁の活躍を報告する為、洛陽へと帰還した。


 使者の報告を宴に参加している者達に伝える朱儁。皆はそれでようやくこの乱が終わった事を知った。


 宴に参加している者達は喜びの声を上げて漢室を称え、思う存分酒を飲んだ。


 宴の翌日。


 朱儁達は此度の戦の恩賞を貰う為に洛陽へと引き上げていった。

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