自分が誰なのか知る

光和三年西暦180年九月。


 豫州沛国譙県。


 県内の中でも特に大きな屋敷。


 その屋敷の中庭にある大きな木の枝に少年が一人乗っていた。


 まだ、五歳ぐらいのあどけない可愛い顔立ちであった。


 その少年は枝に乗りながら空を見上げていた。


(・・・・・・まさか、記憶を持ったまま転生したのが曹操の息子の曹昂だったとは)


 この枝に乗っている少年は前世を白河脩という青年の記憶を持っていた。


 生まれてから直ぐに、自分の父親が曹操だと分かり喜びも束の間、自分がその息子の曹昂だと知り愕然とした。


 曹昂。字は子脩。


 自分を生んだ母親を早くに亡くし二十歳で孝廉という地方官や地方の有力者が管内の優秀な人物を推薦するという形式の官吏任用法に推挙される。


 建安二年西暦197年に、降伏した張繍の襲撃を受けて父である曹操を逃がす為に自分の馬を差し出して戦死したという生涯を歩んだ人物だ。


 一緒に戦死した典韋の方がその死を惜しまれたと言われている。長子でありながら可哀そうな人物であった。


 この時代、実子であっても優れた家臣の方が大事という考えがあった。


 そして、史実通りなら、自分は父親の身代わりで死ぬという人生を歩む事になる。


(それは嫌だな。今世は流石に長生きしたい)


 脩こと曹昂は前世で培った知識を活かして、曹魏を繁栄させる事を誓った。


 即ち自分が長生きするという事に繋がるのだから。


 そうと決めた曹昂であったが、何故木の上に居るのかと言うと。


「昂、何処に居るの。昂~」


 曹昂として生まれて五年が経った。


 前世に比べると格段に身体を動かす事が出来た。


 前世ではそれが出来なくて嬉しくて堪らなかった曹昂。


 身体が成長すると、屋敷の中を走り回った。お蔭で体中が擦り傷だらけになった。


 その所為で、ある人物が憤慨してしまい、自分の目の届く所に居る様にと厳命したのだ。


 其の人物は今、曹昂の事を諱である昂と呼んでいる人だ。


 とは言えまだ成人していないので名前で呼んでも問題ない。


 まだ、子供である曹昂は国に仕えてはいないので、主君といえる存在は居ない。


 今、父親である曹操は頓丘県の県令なので、曹昂の居るこの屋敷には居ない。


 曹昂にとっては祖父にあたる曹嵩も、曾祖父にあたる曹騰も、今はまだ洛陽で職務に専念している。


 他に曹昂の事を名前で呼べるのは一人しか居なかった。


「昂~、何処なの~」


 先程から曹昂の事を名で呼んでいるのは女性であった。


 射干玉の様に黒い髪を一纏めにし、切れ長の瞳に品がある顔立ち。裾も袖も擦り切れていない綺麗な生地の服を纏っていた。


 その女性は曹操の正室にあたる丁薔。字を黄福と言う。


 本来は側室であったのだが、曹昂を産んだ母親である劉夫人は曹昂の後に男の子と女の子を産んだが、女の子を産んだ後に産褥で亡くなった。


 この劉夫人は曹昂が赤ん坊の時に会った三人の男女のうち、横になっていた女性だ。


 劉夫人が今際の際に、側室で普段から仲良くしている丁薔に自分が産んだ子達の事を頼みこんだ。


 丁薔はその申し出を聞き入れて、劉夫人が産んだ子達を養育した。


 丁薔は子供に恵まれなかったからか、劉夫人が産んだ子達を我が子同然に可愛がっていた。特に曹昂の事を可愛がっている。


 今も、ちょっと目を離した隙に何処かに行った曹昂を探していた。


(別に母親として教育はしてくれるし、悪い人ではないのだけど愛が重い)


 過保護と言っても良い位に重かった。まだ、幼いとはいえ前世の記憶を持っている曹昂。


 精神年齢で言えば、今世の父親である曹操といい勝負であった。


 曹昂は偶に一人になりたい時もあるのだが、丁薔は曹昂の事を可愛い息子であるが、一人にすると何をするか分からない子と認識していて、あまり一人にしないようにしていた。


 そういう時は色々な所に身を隠してやり過ごしている。


 無論、後でしこたま説教を受けるのだが。


 それでも一人になるのを止めないのは、一人になって考え事をしたい事があるからだ。


 今日も木に登って身を隠している曹昂。


(さて、静かになったし。これからの事を考えるか)


 これから起こる事を思い出し、そして自分は如何したら生き残れるのか。


 どうすれば、曹魏を出来るだけ長く繁栄させる事が出来るのか考えていると。


「そんな所で何をしている。昂」


 思考している所に声を掛けられたので、枝の上で体勢を崩す曹昂。


 まずいと思い手を伸ばしたが、まだ五歳という事で短い手では枝に捕まる事が出来なかった。


 空を切る手。それを見ながら落下する曹昂。


 そのまま地面に落ちると思われたが。


「よっ、と」


 曹昂に声を掛けた者が落下する曹昂を受け止めた。


「いたた・・・・・・」


「大丈夫か?」


「はい・・・・・・」


 その人が声を掛けなかったら落ちなかったとは思わない曹昂。


 丁薔に見つからない様に木の上にいた自分にも非があるのと、落下の衝撃で痛かったので何も言えなかったのだ。


「一体、木の上で何をしていたんだ?」


「え、えっと・・・・・・」


 どう言ったら良いだろうと言い淀んでいる曹昂。其処に。


「あっ、何処に行っていたの。昂。探したのよ」


「いや、その」


「全く、今日は客人が来ると昨日から散々言っているでしょうに」


 困った子ねと言いたげな溜め息を吐く丁薔。


(いや、この時代の人達って、十二時辰っていう凄い大雑把な時間で生活していたから、何時来るか分からないから)


 そう言いたかったが、生まれてまだ五歳である自分がそんな事を言っても、相手にもされないだろうと思い口を閉ざす曹昂。


 曹昂を持ち上げていた人物は曹昂を地面に優しく下ろし、身なりを正した。


 丁薔はその人物に頭を下げた。


「ありがとうございます。兄上。昂を探すのに手伝ってもらって」


「なに、気にするな。妹よ。今日は遊びに来たのだから構わないぞ」


 丁薔に「兄上」と呼ばれた人は名を丁沖。字を幼陽という者で父曹操の竹馬の友で曹昂の育ての母である丁薔の兄であった。

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