31番の彼女

叉岸

31番の彼女

 日が落ちたばかりの夏空は、薄い紺色がのっぺりと広がっていて暗くなかった。

 僕は、研究室で卒論構想発表の推敲をしていた。

 うるさくなりすぎないように、しかし昨日より速くキーを叩いた。


 ときどき、デスクに積んだ先人たちの論文や学術書に目をやる。

 そうすると元気が出る。

 義務教育の理科の教科書から始まって、少しずつ専門知識と思考の場数を重ねていき、いつの間にかこんなに分厚いものを読めるようになった。

 そうやって振り返ることが少しだけ励みになるし、気休めにもなるのだ。


「暗くなってきたね。」

 同じ部屋にいた教授の声とともに、向こうのパソコンが閉じられる音が聞こえた。

 背を向けたままでは失礼なので

「そうですね、あっという間でしたね。」

 と一応振り返って答える。

 すると、教授はこちらに何かのプリントを向けていた。

「江角君、これ観に行ってひと休みしないか?」

 ライトブルーの紙にモノクロで印刷されたチラシだった。

 うちのキャンパス内にある講堂で開かれる、クラシック演奏会の案内である。

 きょうの午後ずっとこの研究室で作業していた僕をいたわって、息抜きの提案をしているのだろう。

 元から行くつもりだったとか余計なことは言えなかった。

「ちょうど19:30開場ですね。俺も行ってみたいです。」

 そうとぼけてチラシに目を落としたが、本当は少し緊張していた。

 出演者の中にあるフルート奏者の名前が、31番の彼女のものかもしれなかったからだ。

「おぅ、じゃあぼちぼち行こう。」

 あのとき一度だけ会った彼女の顔を、どうにかして思い出そうとしていたが、やっぱり思い出せない。

 一年前。あんな一瞬の、ただの通りすがりの顔なのだから、しょうがないといえばしょうがない。

 しかし、僕が彼女のことを忘れるはずはなかった。

 忘れるはずがない。


 去年、7月下旬の日曜。

 初夏の夕暮れは紫がかったピンク色で、まだ明るかった。

 この日の仕事は、S芸大付属高校で行われた英語資格試験の単発バイトだった。

 朝8:00の始業で番号を振られ、それぞれが指定された役割についた。一日かけて、各人が3つ4つの仕事をした。僕がやったのは、受験票の不備対応、昼食休憩の監督、そしてスピーキングテストを行う外国人試験官の補佐。だった。

 スピーキングテストは防音室で行われた。外の音が聞こえないし、中の音は廊下の他の受験者に漏れない。S芸大付属高校・音楽部の施設が、この日ばかりは音楽と全く関係のないことに利用されたわけである。

 45分ごとに堅牢な防音ドアを開けて喚起し、片言の日本語で喋る試験官と休憩時間を過ごした。向こうは、世間話程度に僕が今通っている大学のことや就活の動向を聞いてきた。僕は、それに答えながら、この仕事は結構ご経験があるのですかとか、配給された弁当おいしかったですねとか話しかけた。


 そんな初めてのアルバイトで給料袋を貰った帰り道。

 歩く先に、僕の影が細長く伸びて行く。

 僕が帰り方向のバス停に到着するよりも先に、僕の影はポールに被さっていた。

 時刻表を覗き込んでから腕時計に目を落とす。

 高校の最寄りというだけあって、夕方は10分ごとにバスが来る手筈になっている。

 ちょうど2分前に先発が行ってしまっているが、すぐに次の便もやってくる。


 僕はバス停の先頭に並んで、先ほどまで職場だった校舎を見上げていた。

 本当にこれが高校なのか。

 仕事しているときもそう思った。敷地の広さと棟の多さはまるで大学のキャンパスである。

 外見も、僕にとっては浮世離れしているように思えた。

 赤煉瓦に漆のような黒い格子。それは学校というよりも、横浜や神戸にあるような洋館が何軒も並びたつ庭園だった。


 そうして突っ立っていると、細長い、僕以外の影が校門の方から伸びてきた。

 きっと、今日一緒に働いた人だろう。

 僕と一緒のバスに乗るのだろうか。

 だんだんと、ほぼ無音の静かな足音が聞こえてくる。

 影の主はすぐに現れた。やはり今日一緒だった人だ。

 僕の前を横切って、僕の次に並んだ。

 右手にはフルカラーのチラシを何枚か束にして持っており、一番上の物を読みながら通り過ぎたように見えた。


 淡い茶髪を短く切り揃えた、31番の彼女だった。


「32番さんですよね?」

 横に並んで数秒経ってから彼女が話しかけてきた。

「あ、31番さんですね。お疲れ様です!」

「お疲れ様です!」

 お互いに、今朝割り振られた番号で挨拶をした。

 職場への到着順に振られた整理番号。出席番号のようなものだ。

「31番じゃなくて、本当は何てお名前なんですか?」とはこの時聞かなかったし、特に知りたいとも思わなかった。

 同じように特に知りたいとは思わなかったはずなのだが、僕は彼女の手元を指さして言ってみた。

「チラシ。いっぱい持ってますね。」

 すると31番の彼女は少し嬉しそうになって教えてくれた。

「これ。S芸大の学祭とかコンサートのチラシなんですよ!」

 束の一番上に見えていたのは、フルート・アンサンブルのチラシだった。

「出口のラックで見かけて、行きたいなぁと思って。いっぱい取ってきちゃいました。」

 僕は思い出した。

 すべての業務が終わった後、番号が若い順に呼ばれて、雇い主である実施委員から給料袋を貰った。すると番号順に試験会場を後にしていくことになる。なので、31番の彼女は本来、32番の僕よりも早くバス停に立っているのが自然だ。

 しかし、そういえば僕よりも一足先に会場を出た「前の人」すなわち31番の彼女にあたる人が、昇降口のラックで立ち止まるのを見た気がする。

「ああ、確かにチラシいっぱいありましたよね。高校なのに、博物館か美術館の出口みたいでしたよね。」

「はは、確かに。ここ高校には見えないですよね。」

 そんな風に、この高校の異様な規模と格調高さについて冗談交じりに喋っていると、バスがやってきた。


 バスが停車して、さあ乗るぞという時になって、僕は驚いた。

「乗り口」だと思っていたバス前方のドアが開かず、バスの真ん中にある「降り口」だと思っていたドアが突然開いたからだ。

「えっ、そっち?」

 口をついて出た困惑の音で、彼女は即座に指をさした。

「あ。こっちから乗るんですよ。」

 一瞬の硬直が解けた僕は、へぇ。と思いながらバスに乗り込んで、交通系ICカードをタッチした。横にあるもうひとつの箱から自動排出されたチケットのようなものも、念のために取っておいた。


 僕が普段使っているバスとは、少し仕組みが違っていたのだ。


 先に乗った僕は、一番後ろの二人掛けの席に座った。

 すぐに窓枠の上に取り付けられたクーラーのファンに手を伸ばし、自分の頭にバッチリ当たるよう調整した。

 彼女は、僕の前にある二人掛けの席に座った。

 それを見た僕は、鞄の中にあるMP3プレーヤーで音楽でも聴こうと思った。

 そろそろ発車するはずだったのだ。

 しかし、パスケースと共に、まだ手に持っているものがある。

「この券みたいの、どういうことなんすかね?」

 前にいる31番の彼女に聞いてみた。

 先ほど乗り口を知っていた彼女ならば、この券のことも知っているかもしれないと思った。

「どういうこと」という質問が悪かったようで、31番の子は目を少し見開いてぱっちりさせた。僕の疑問を疑問で返している。

 僕も無言になってしまった。

 その静かなはずの

 二人分のICタッチ音が聞こえた。

「あぁ。つまり、この券は取って良かったんですかね?」

 もう一度聞き直してみた。

「うん、それはね。現金で払う人が取るやつなの。その整理券を帰りに運転手さんに出すと、どこのバス停から乗ったのか、分かる。」

 理解できた。僕がいつも使う地元の路線バスは、どこからどこまで乗ろうと一律220円だが、この私鉄バスは料金が変わるのだ。だから、どこで乗ったのかはっきりさせる必要がある。感熱紙の整理券には、バーコードと6ケタの数字、それから「S芸大付属高校前」というバス停の名前が印字されていた。

「なるほど、そういうことなんすね。」

 僕は一瞬のうちに納得したが、その得心に浸っている時間は無かった。即座に、このバスに乗るとき自分がやった手続きを思い出してみた。

「あ。じゃあ、ICカードをタッチして整理券も取ってしまった僕はー…」


「発車します。バスが動きますのでお立ちの方は手摺や吊革にお掴まりください。」


「…」

「…それ要らなかったね。」

 といって31番の彼女は、ちょっと、くすっとした。

 暗くなり始めてはいるが、まだ明るい夏の宵。

 バス停の細長い灯りも、要らないのに点いていた。


 発車したバスの中で、僕たちはお互いの普段の生活について質問し合った。

 彼女はC音大のフルート専攻で、僕はE大学の理工学部。二人とも三年生だった。

「え!E大学ですか!?私、E大の理工キャンパスにも通ってるんですよ。」

「へぇ、二つ通ってるんですね?」

「C音大の講義だけだと音楽の教員免許は取れないので、E大で教育理念とか学習心理とかの単位を取ってるんですよ!」

「そうなんですか。僕もE大で理科の教職取ってるので、もしかしたら会えるかもしれませんね!」

 ちなみに、この日から一年経つが、未だキャンパス内で会えたことはない。

 当時の僕は、またどこかで会えるのかどうかよりも、もっと気になることがあった。

「音楽の先生になるんですか?」

 彼女は、少しだけ俯いて小声でうーんと言って

「いや、それはちょっと分かりませんね。」

 と答えた。僕が、そうですか。まだ分かりませんよねと相槌を打つと、彼女も聞き返してきた。

「理科の先生になるんですか?」

 僕は俯きこそしなかったものの、少しの間沈黙してから

「まだ分からないですね、」

 と答えた。

 僕は少しだけ微笑んでいたと思う。


 それから少しの間、僕らは黙っていた。

 バスの中で他に喋っている乗客は無く、静かにタイヤを擦る地面の音に、ときどき自動音声のアナウンスが被さった。


 バスが新しい停留所に到着すると、停車したのを見計らって彼女が話しかけてきた。

「ねぇ、こっち来て話しましょうよ。」

 彼女は本来、進行方向である正面をむいて座っているべきだが、僕が後ろの座席から話し かけてしまったがために、ずっと体を左に 160 度くらい回転させた状態でいたのだ。

 これは話しづらい体勢だろう。

 それに彼女の隣に誰かが座った場合、前後でお喋りを続けるのは流石におかしい。「そうしましょう。おとなり失礼しますね。」僕は、大して荷物の入っていないリュックを前に抱えて席を移った。


「発車します。バスが動きますのでお立ちの方は手摺や吊革にお掴まりください。」


 夜になりたての、明るい濃紺の空だった。

 もう、影が長く伸びるような空ではなくなっていた。


「今日のバイト代、何に使います?」

 彼女は、僕がまだ決め切っていないことを聞いてきた。

「外部の大学で、半期の特別講座があるんですけど、それを受ける費用にしたいなぁと。」

「え、すごい!わざわざ普段行ってない大学まで出向いて?」

「えぇ、まぁ。自分が専攻してる分野の権威の先生の授業が聞きたくて。卒業後はその教授がいる国立大の大学院に行きたいんです。今は私大ですけど。」

「…立派ですね!」

 立派などと褒められてしまったので、もうひとつの本音を付け加えた。

「ま、お金も。ですけどね。公立に進みたいっていうのは。」

 彼女は軽く2回頷いた。

「私もね。ほら、さっきの試験会場の…国立のS芸大・音楽部が第一志望だったんですよ。結局、併願のC音大に行きましたけど。」

「音大よりも芸大の音楽部なんですか?」

「はい。講師の先生方も錚々たる面子だし、学費も抑えられるから、人気で超難関。S芸大がトップで、次いでC,B音大って感じなんですよ。」

 この人と話さなければ音大の事情など一生知らなかったかもしれない。

「フルートでしたっけ。いつから始めたんですか?」

「中学の吹奏楽部からです。それ以前はピアノやってたくらいで。」

 そこから将来を賭けてフルートの道に進んだのかと思うと、学校の部活も貴重な出会いの機会なのだなと感じた。

 このとき、僕が中学校のときに所属していた水泳部の顧問と、僕が所属していなかった吹奏楽部の顧問の顔を思い出した。

「そうだったんですね、7,8年の付き合いなんですね。」


 彼女がこくりと頷いて、バスは静かに停留所へブレーキを踏んで行った。

「…同じフルート専攻の中だと、自分より上手な人もたくさんいますけどね。だから自信を保つのも大変!」

 あまり重大ではないように彼女は笑った。

「すごい世界ですね…何が『上手』なのか分からなくなることもありそうじゃないですか?」

 僕もごく僅かな笑いを込めてそう言った。

「そうそう!ほんとに分からなくなります!」

 面白いというよりは、得心がいったという感じで笑って、彼女は加えた。

「きっと、いろいろな観点の『上手さ』があるとは思うんですけどね…。」

 並んでいた全ての乗客を収めたバスは、降り口のみを閉めた。

 その瞬間には、ほんの少しの寂しさがあった。

 彼女のフルートを聞いてみても、きっとどこが上手だとかは僕にも分からないだろう。感動できるかどうかも分からない。

 だが、そういう問題ではないのだ。

「俺、聞いてみたいですよ。あなたのフルート。」

「ほんとですか!嬉しい!そうだ、E大なんですよね?だったら…」


「発車します。バスが動きますのでお立ちの方は手摺や吊革にお掴まりください」


「だったら、笠井記念講堂ってあるじゃないですか?ピラミッドみたいな屋根のおっきいやつ。」

 笠井記念講堂は、うちの大学にある大きなホールである。音響効果の素晴らしさには定評があり、外部一般にも貸し出されている。流行りのアーティストがライブをするというポスターを構内でよく見かけるし、海外のオーケストラが何かの記念公演をすると聞いたこともある。

「わかりますよ。笠井のピラミッド。」

「あそこでね、毎年夏に、C音大の4年から選ばれたひとりがソロをやるんですよ!各楽器から一人ずつなんですけど、今年のフルートの先輩もすごく良かったんですよ!」

 彼女の音を聞く機会はそれしかないのだろうか、と、このときの僕は疑問に思った。

 他の演奏会だとオーケストラに埋もれてしまって彼女ひとりの音は聴けないから、ということなのだろうか。それとも、僕がE大生だから、軽い気持ちで足を運んで聴きにいけるピラミッドでの公演を教えてくれているのだろうか。

 というか、31番が何かを勝ち取り、その一人に選ばれなければ聴けないのではないか。

 さまざまな考えが浮かんだが、それでもバスは終点へ向けて淡々と走り続けた。

 初めての相乗りは、そういうブレーキの踏み方を許さなかった。

「そうなんですね!来年の夏になれば研究に少し余裕もできると思いますし、聴きにいきますよ!」


 そうこうしているうち、バスの自動アナウンスが、間もなく終点につくのを知らせた。

 もうついてしまうのか、と僕は思った。

 彼女は、鞄から財布を取り出しながら僕の方を見た。

「私、小銭無いので時間かかっちゃいそうです。先に降りてくださいね。」

 僕はパスケースを出そうとしていた。

「そうですか、オッケーです。」

 パスケースを取り出して、まじまじと交通系ICカードを見た。楕円形の穴から、カードのメタリックグリーンだけが見えた。

 僕は、ポケットに突っこんだままの、最後まで要らなかった整理券をパスケースに入れた。メタリックグリーンの光沢は、上から被せられた感熱紙の無機質な白に消されてしまった。

 すると、つい僕が話しかけた。口をついて言葉が出た。

「おれ。今日が初めてのバイトだったんですよ。」

 彼女は少し驚いたように目を見開いた。

「え。私もなんですよ!なんか、今日の疲労感と、現金が入った袋の感覚に、地味に感動してます!」

 彼女のいうことが僕にも分かった。初めてのバイト代を、一か月分の口座降込ではなく、朝8:00から18:00の日給として現金で受け取れたことが、なんだか貴重に感じて嬉しかった。

「ですよね!分かります!」

 その嬉しさで、かき消されたメタリックグリーンの喪失感も気にならなくなった。


 しかしどこかで、それ以上の何かを失った感じもした。

 …彼女はどうだったろうか。


 駅のバスターミナルにゆっくりと滑り込むバスが、僕には少しせっかちなほど速いように思えた。


「停車します。バスが完全に停止してからお立ちください。」


 運転手がそう喚起すると、空気が抜ける音を立てて、乗り口と降り口の両方が開き始めた。

「今日はありがとうございました。」

 切り出したのは僕だった。

「いえ、こちらこそ。」

 顔を上げた彼女の目を見た。

「お疲れ様でした。」

「お疲れ様です。」

 僕は彼女の隣から立ち上がり、パスを握りしめて降り口へ歩き出した。


 あの日バスから降りたあと、僕は彼女を待って一緒に駅まで行こうとは思わなかった。だからあそこで別れたし、向こうもそういうつもりで財布を出しながら声をかけたのだろうと考えていた。

 冷房の効いたバスから降りたとき、ぬるい熱波を感じながら駅舎に歩いていった記憶がある。バスを振り返ることもなく、真っ直ぐ歩いて行ったと思う。

 そして一年経った今。

 僕は、笠井記念講堂のピラミッド屋根の下。

 ふだん座るときより少しだけ浅めに座って、C音大のフルート独奏を聴いている。いや、見ている。


 この人が、31番の彼女なのだろうか。


 一年前に10分くらいだけ喋った彼女の顔を、僕はもう思い出せなかった。

 いや、思い出せているつもりなのだが、自信は無い。

 今目の前でフルートを揺らす長い黒髪は、あのときの茶髪を伸ばして染めたものかもしれないし、背格好からも判断のしようはなかった。

 顔を合わせて、目を見て話せば思い出すだろうか。

 あの日何度か見た目。もっと近づけたら、その目を見たら本人だと気づけるだろうか。


 教授から渡されたチラシには、それぞれの楽器から選ばれたソロの名前が書かれている。

 もしかしたら彼女かもしれない名前が。


 僕も、隣にいる教授も、彼女がC音大のフルート専攻で選ばれた存在だということ以外を詳しくは知らなかった。チラシ以上のことは知るわけがなかった。

 音楽を聴きにくる場所なのだから、知る必要は無いし、知る術もない。

 ただ美術に耽れば良いはずなのだ。

 隣に深く腰掛けている教授のように。

 しかし、僕はそんな気持ちになれなくて、聴こえてくる魅力的なはずの音も右から左へ抜けた。

 知りたかった。


 僕は教授とピラミッド…笠井記念講堂から出て、残りの作業が待っている研究室まで歩いた。教授は大満足のようだった。

「私は、毎年ビオラのソロを楽しみにしているんだ。あの楽器特有の深みというか、心地よい重みが好きなんだよ。今日も良かった…。」

 フルートの彼女が演奏を終えて、舞台の袖に消えて行くとき、僕はろくに音を聴こうとしなかったのを後悔した。別の後悔もさることながら。

「江角君は、どの楽器が良かった?」

「え?」

「今日の楽器の中でだよ。」

 僕は健康体ながらも死んでいた。

「僕もビオラですかね。教授がそこまで語るのも分かりますよ!」

 教授は嬉しそうだった。

「そうかそうか。それは良かった。」

 それから少し歩いて研究室の棟が見えると、教授は僕に改まって言った。

「今日もお疲れ様だね。」

 そしてこう続けたのだった。

「来年度も、うちの研究室で進学することになって良かった。君はマメで忍耐強いところが研究者向きだし、演習や論文のテーマ設定での発想力にも毎回感心する。まずは、今の作業を頑張って、卒論の研究を良いものにしていこう。」


 そうして僕は、提出後に教授との共著になる卒論の作業を、予定していた今日の分だけ終えて帰宅した。



 夜、僕はこんな夢を見た。


 あのときの試験会場…S芸大付属高校のバスが乗り上げる最寄り駅のホームで、僕は遠くに31番の彼女を見つけた。

 ホームの左端に立っているから僕と方面は違うが、話しかけてみようと思った。

 僕は彼女の名前を知っていて、後ろ姿に向けてその名を呼んだ。

 すると彼女は振り返って言った。

「充電がもう無いの。」

 何の充電かは分からなかったが、僕は持っていたケーブルを出して、彼女の持っていた何かに刺した。

 上手く刺さらなかったから、何種類かのケーブルを試した。

 機種によって色々タイプがあるはずだからである。

 しかし、どれも彼女のものとはぴったり合わない。

 もたつくうちに、ホームへ電車がやって来てしまった。

「ごめん江角君。ありがとうね!」

 そういって、彼女は充電できないまま電車へ飛び乗った。

 僕が何か言う隙も与えずドアは閉まり、異常なスピードでホームを出て行った。

 あんなに速く走る物を、僕は見たことがなかった。

 あの日はせっかちに思えた、先を急ぐバスのスピードなど、比べものにならなかった。


 夢から醒めると、ホームに立っていた僕は、自分の部屋のベッドで横たわっていた。

 身体には、いつもの朝と変わらず、夏用の薄い毛布が被さっている。

 夢で安心した。

 そして残念だった。


 パソコンのエンターキーを叩いてスリープを解除し、ロック画面で時刻を確認する。

 デスクトップに並んだファイル名を見ると、そろそろ今の研究の正式な題目を考えなければならないのを思い出した。

 こうしている今も、僕は、自分のしたいことや、していることが分からなくなることがある。

 でも、もっと分からなくて、もっと知りたいことは、31 番の彼女が今どこで何をしているのかだった。


 昨日は特に、そういう日だった。



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31番の彼女 叉岸 @kigouKAITAI

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