世界が二人になるまでは
むらさきふも
プロローグ『私のお姫様』
家を出る。朝、八時四十分。学校では、ショートホームルームが始まっている頃だろう。だが、私には関係ない。そんな場所に行く気はないのだから。
学校へ向かう道とは逆方向に、真っ直ぐ二十分ほど歩く。引っ越してきて実感したが、ここの五月は真夏だ。黒のジャンパースカートをまとった私を、太陽が焼き殺そうとしている。面倒くさがらずに日傘を持っていけばよかった。道がゆるやかなのぼり坂になっているせいで、ジワジワと体力が削られる。
いや、これも姫に会うためだと思えば、全然苦にならない。恍惚。姫の姿を思い浮かべるだけで、世界がぼやけて、幸福なことしか考えられなくなる。
ようやく辿り着いたのは、鉄筋コンクリートの二階建て一軒家。私のお姫様は、お城ではなく、四角い鉄筋コンクリートに住んでいる。
門についているチャイムを鳴らす。0.1秒で、綺麗な髪をなびかせた少女が、ドアから飛び出してきた。姫だ。
「
彼女は心の底から嬉しそうな声で、私の名前を呼ぶ。疲労が120%回復した。
私を見つめるパッチリとした大きな目。長いまつ毛、着せ替え人形のような顔立ち、ブロンドのウェーブヘアーをおさげにして、ギンガムチェックの半袖ワンピースを着ている、私の愛らしいお姫様。
家にお邪魔した瞬間、玄関で姫に抱きつかれた。
「しあわせのしめつけこうげき!」
「うお!?」
ぎゅーっと力強く抱きつき、私の胸に頭をこすりつけてくる姫。私より頭一個分小さい姫をやさしく撫でる。
「ふふっ」
「あはは」
幸せだなぁ。このまま時が止まらないかな。
それにしても、私が汗っかきじゃなくてよかった。汗で姫に不快な思いをさせずに済んだ……
「なんであまり汗をかいてないんですか。もっと唯都ねえねの匂いを堪能したかったのに……」
「姫ってそういうフェチなの!?」
「い、唯都ねえねにだけですよ!他の人間のニオイは全部不快です!」
私だけに懐いてくれる、この状況は心地が良い。陶酔。独占欲。
いつものように案内されて、姫の部屋に入る。部屋は整頓されていて、たくさんの本が棚にぎっしり。この地区の小学生の中で、一番本を持っているんじゃないか?クーラーの冷気と本の香りが混ざって、図書室みたいな匂いがする。なにより素晴らしいのは、エアコンがきいていること。
「あー涼しー!」
「唯都ねえねのジャンスカ、暑そうですもんね。学校行かないなら私服で来ればいいのに」
「この時間に、私服で歩いてたら悪目立ちするんだよ」
「そうですか......あの、その制服、転校前のやつですよね?ずっと着ていて大丈夫なんですか?」
「大丈夫じゃねーけどさー。今の学校の制服、リボンが大きくて、子どもっぽいから着たくないんだよ」
他県から転校してから半年。今の学校の夏服は、水色のセーラー襟、同色のスカート、そして胸元に大きな青のリボンを結ぶスタイルだ。ショートヘアーで男っぽい顔立ちの私には似合わなくて、試着してから二度と着ていない。でも……
「姫には似合いそうだよな。ロリィタ風?な感じで」
「似合っても意味ないです。唯都ねえねと一緒に通えないんじゃ」
「私、すっげー愛されてるじゃん……」
姫と私は三歳差だ。ちょうど卒業と入学が入れ違いになる。
本当に同じ学校に通えたら、どんなによかったか。姫の心を害する同級生や先生から、守ってあげられたのに。私にはどうにもできない状況。悔しさを流すように、姫がいれてくれたアイスティーを飲む。
「よしっそろそろ勉強しよっか!」
気持ちを切り替えるために、あえて明るい声をだした。
私は中学二年生数学の問題集を黒のリュックからだした。同じように、姫は小学五年生の漢字ドリルを机からだす。ドリルには『田村
部屋の中央に持ってきたローテーブルで勉強を始める。たまに姫が足をぶつけてくるのは、偶然なのか、わざとなのか。
私達は不登校仲間だ。毎日姫の家で自主学習に励んでいる。私は我が強すぎて、姫は繊細すぎて、学校に通えなくなった。いや、私の場合、姫と一緒にいるために『通わなくなった』という方が正しいかも。
「……唯都ねえね。今日、いつもより来るのが遅かったですね」
姫が心配そうにたずねる。
「親父とケンカしてさ。『いつまで学校に行かないつもりだ』って怒られたんだよ」
なるべく軽いトーンで、事情を説明することにした。
姫が不安そうに俯く。あ、もしかして、自分のせいだと思ってる?
「大丈夫。学年十位以内をキープすること、模試で志望校A判定以上を取り続けることを条件に、許してもらったよ」
「でも……内申とかは……」
「それも大丈夫。私の志望校、内申を考慮しないって、ホームページに書いてあった」
これも本当だ。スマホを取り出し、姫にホームページの該当箇所を見せて安心させる。
「ま。偏差値高いところだから、頑張らないといけないんだけどね」
勉強は嫌いだったけど、姫のためなら頑張れる。
ちなみに、定期テスト対策も万全。私と同じクラスにいる姫の姉が、『妹の面倒をみてくれる礼』として、ノートのコピーやプリントをくれるからだ。正直、姉の方は偉そうで好きじゃないから関わりたくないんだけど……。うちの学校がタブレット学習に対応してくれたら、もっと楽に授業の情報を得られたかもしれないのになぁ。
「唯都ねえねって見た目は派手なのに、頭良いですよね」
「おい。それ偏見ってゆーんだぞ。てか、黒髪のどこが派手なんだよ」
「でもピアスあけてるし、スカート切ってますよね」
「……確かに学校でも、真面目なのか不良なのかわかんないって、よく言われるけど」
ピアスはかっこいいから、両耳たぶに一個ずつあけた。スカートはうっとうしかったから切った。制服は好きな方を着ている。髪は地毛が一番好きだから染めてない。
「私はさ、好き嫌いがハッキリしている。それだけなんだ」
「ん。見てたらわかります」
姫は静かに微笑んだ。
「唯都ねえねを見てると、『この人、ボクのこと大好きなんだなー』って伝わってきますもん」
「な!?姫だって好き好き攻撃が激しいくせに!」
心臓が高鳴って、顔がカァアアっと熱くなる。このお姫様、小悪魔の素質があるぞ!
わ、話題を変えよう。ドキドキしてるとバレたくない。
「漢字ドリルってツラくない?私、宿題の中で一番嫌いだな」
「ボクはむしろ意欲的に取り組んでいます。将来は小説家になりたいので、国語をしっかり学んでおきたいんです」
「なるほどーえらいな」
姫は読書が好きだ。自分でも小説を書いて、賞に応募しているらしい。
この前、落選したという小説を読ませてもらった。想像以上に読みやすくて、伏線もちゃんと効いていておもしろかった。感想を正直に伝えたら、「そんなこと言わないでください!唯都ねえねに褒められたら、もうそれだけで満足してしまって、上を目指せないので……」と言われた。なんじゃそりゃ。
「姫はすごいなー。将来の夢があって」
「唯都ねえねはないんですか?」
「ないよ。夢もやりたいことも。なるべく楽しいことだけしてたいなぁとは思ってるけど」
「じゃあー……」
「ひうっ!?」
足がくすぐったい。
「ボクが小説家になったら、いっぱい本をだして、印税で唯都ねえねを養います」
そう言いながら、私の太ももから下腹部をツーっとつま先でなぞる姫。
「だから、唯都ねえねはボクのヒモになってくださいね」
姫は強気な笑みを浮かべた。
「なぁ!そういうのどこで覚えたんだよ!?この小悪魔!」
年下に、しかも小学生に翻弄されている。ちょっとまって。すっごく恥ずかしい。
照れと混乱で喋れなくなっていたら……
「嫌ですか?ボクのヒモになるの……」
先程までの小悪魔が祓われたかのように、姫がしょんぼりしはじめたので、慌てて否定する。
「ぜひ!なりたいよ!姫のヒモになりたい!」
頭が沸騰して、おかしなことを言ってしまった気がするが、姫の笑みは取り戻せた。よし。
私と姫は不登校仲間で、自習仲間で、そして……恋人でもある。
姫との出会いは五ヶ月前。私がこの町の中学校に転校してきたばかりの頃……
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