悪役悪女は難病ヒロイン

@2321umoyukaku_2319

第1話

 意地悪な悪役悪女は、あたしに意地悪している最中に突然、血を吐いて倒れた。

 ざまあ! と思うよりもまず、驚いた。それはそうだよ、いきなり吐血だもん。普通、驚くって。

 でも、驚くのはまだ早かった。悪役悪女は、あたしに謝ってきたのだ。

「今までごめんなさい、実は私、難病ヒロインなの」

 そして、あたしにテーブルの上に置いてある原稿を読むように言った。

 読みたくなかったけど、流れでよく読む羽目になってしまった。


 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○


 全分野においてレベル無限大のチートスキルを持っているにもかかわらず仕事がまったく出来ないため無能の烙印を押されスペシャル級パーティーを追放されたエムエムオウ氏は、誰からも相手にされず一人で自宅に引きこもり無為な毎日を過ごしていた。日々の楽しみは異世界ファンタジー小説を読むことだけである。ある時、彼は思い付いた。自分も異世界ファンタジー小説を書いて、人生一発逆点だ! と。

 それが下記の作品である。


                  一


 競兎場へ出かけたっきり帰ってこないケイト女爵を探すべきか? 私は少し考えたが、悩んでも答えが出てこなかった。異世界人の賢者に訊いてみると「自力で戻って来られるだろう」と素っ気ない。

 素直じゃない男だ、と私は腹の底で嘲笑った。賢者はケイトを愛している。本当は、彼女のことが心配で心配で堪らないのだ。不安や緊張が高まると、大きな傷跡の残る頬がヒクヒク痙攣するから、すぐ分かる。

 それでも賢者は、自分に余裕のあるところを見せようと、努力はしていた。窓辺の机に向かい本の原稿を書く振りをしている。賢者は我々が魔王を斃した冒険の書を執筆中なのだ。もっとも、ケイトが出かけた朝から、筆は進んでいない。

 ケイトへの賢者の愛は本物だと私は思っている。魔王を駆除する最終決戦で、賢者はケイトを守って負傷した。魔王が放った攻撃魔法は最上級の回復魔法でさえ完治が困難な傷を負わせる。頬の大きな傷が、その名残だ(服に覆われて見えない部分にも同様の傷跡が残っている)。ケイトが魔王の魔法を食らっていたら、彼女の美貌の多くは失われ、今の賢者のような哀れな外見になってしまっていたことだろう。ケイトにとって賢者は恩人なのだ。

 愛する人の盾となって重傷を負う……メロドラマならば、二人の仲は進展していたことだろう。だが、ここはフィクションの世界ほど甘くないことを、賢者は身に染みて知ったと推察する。美女の身代わりとなって深手を負った賢者は夢想したはずだ。自分のために身を捨てた男に美女は深く感謝し、看護を申し出る。それがきっかけで恋人になれるかも! と思いきや、そんなことはなかった。今も賢者はケイトとパーティーの仲間以上の親密な関係を構築できずにいる。

 ケイトが薄情というわけではない。実際のところ、彼女は忙しかった。魔王を斃した我々パーティーの面々は国王主催の祝賀会に招待された。その席でケイトは武功随一と認められ、爵位を賜った。この世のものとは思えぬ美貌と魔王を破った戦闘力に加え、名誉ある地位を手に入れた彼女は一躍、時の人となる。各地の催し物に引っ張りだこのケイトに怪我人を看護する時間はなかった。愛する人と親密になる機会を失い悲しみに暮れる賢者を慰めてくれるのは、ケイトがデートの誘いを一切拒否していることぐらいだろうか。ケイトは今日も一人で外出した。誘ってほしそうな賢者に大きく手を振って。

 宿に残された賢者は、ケイトに頼まれていた内服薬の調合とBLオメガ光線銃(オメガ線バーストの稲妻で魔王を消滅させ我々の勝利を確定した武器だ)の分解掃除の二つを律儀に遣り遂げた。それから自分の原稿書きに取り掛かろうとして、何も手に付かない有様であることは、既にご存じのことと思う。

 私は何をしていたか、と問われたら私も原稿を書いていたと答えよう。今夜、冒険者ギルド本部で魔王征伐の成功を表彰する祝宴が催される。そこでケイト女爵がスピーチを披露することになっていて、私がその原稿を書くよう仰せつかったのだ。

 賢者に頼んだらどうかと言うと、あの人に頼むと長くなりそうだから、とのご回答。酒宴の挨拶は短ければ短いほど良いと伝えてみたら、と言えば、それじゃ貴方が頼んでよ、とのこと。それはそれで面倒臭いことになりそうなので、自分で書くことにした。

 スピーチは短く簡単でユーモアがあって、聴衆である冒険者ギルドの面々への感謝を示す内容にしたかった。冒険のあらまし特に魔王とのラストバトルは語った方が良いかな、とは思った。だが、それはもう皆が知っている。もう既に聞き飽きている人間だって多かろう。生の体験談を聞きたがる者はいるかもしれないが、それだって実話より派手に脚色された講談話に比べると盛り上がりに欠けると思う(個人的な印象です)。実戦に参加した当事者の私が、街の噂として耳にした最後の戦いの様子は、リアルより凄かった。魔王城の堅固な外壁に時空の亀裂を作って侵入、遭遇した敵をBLオメガ光線銃で始末しながら迷宮を駆け抜けて奥の間へ突入、魔王からの猛反撃で何度も死にかける激しい銃撃戦の末、遂に首級を挙げた――ようである。夜明けと共に始まった戦いが終わり魔王城の外へ出てきたとき太陽は既に沈み、代わりに四つの月が昇っていたのである、と辻の講釈師は語っていた。どうやら私たちは、手に汗握る激闘を半日やっていたらしい。鍵屋の辻の決闘じゃあるまいし、そんなに長くは続かなかった。長く感じたのは、魔王が寝入るのを時空の袋小路で待つ間だ。ケイトからの合図を待って魔王の寝室に忍び込む段取りなのに、それを待たず賢者が押し入ろうとしたので、それを制止するのに大変だったのだ。そのエピソードをスピーチに入れたら笑いが取れるかどうか? と考えて、止めた。大衆は真実を嫌う。自分たちが思い描く幻想に浸っていれば、それで良い。

 魔王との戦いは一言では言い表せません。これで済ませよう、と決めて草稿を書き上げる。これで良いかケイトに目を通してもらいたいが、帰ってこない。競兎場から会場の冒険者ギルド本部へ直入りするつもりなのだろうか? この日のため誂えたイブニングドレスに袖を通さず夜会に出るのは、せっかく買った錦を着ないで故郷へ帰るようなものだろうに。いつものビキニアーマーでも別に悪くないとは思うが。

 エレガントなドレスを着た女爵の雄姿(不思議な表現だ)で冒険者たちの目を楽しませてやりたい一心で――高レベルの女騎士が事件や事故に巻き込まれるとは思えなかった――私はケイトを探すことにした。印を切って部屋の中空に呼び出したホログラフィック型タブレット端末に口頭でパスワードを入力し、この街の上空で待機中の反重力浮揚式無人航空機の母船へ命令を下す。機内からミツバチ大の超小型ドローン十数機が空中に放出された。光学迷彩で目には見えなくなった超小型ドローンは競兎場内に進入し、バニーガールたちが速さを競うターフから建物内部の全室に至るまで捜索したが、ケイト女爵の姿を見つけ出すことは出来なかった。彼女は何処にいるのか? 私には分からない。分かったことは、国中の美女が集められるというバニーガールの中で、ケイトほど美しい女はいなかった、それぐらいだ。それは周知の事実だ。そうでもなければ、魔王を誑かすことなど土台、無理だった。

 競兎場にいないとしたら、何処にいるのか? 市内全域を調べるにはドローンの数が足りない。私に割り当てられたドローンは今の探査で使い切ってしまった。しばらく母船でエネルギーを充填しないと動かせない。

 賢者のドローンを借りるか、と私は考えた。あるいはケイトのドローンを使わせてもらってもよい。私はケイトのパスワードを知らない。だが、賢者は反重力浮揚式無人航空機とドローンに関する一切をよく知っている。運用責任者なのだから、知らない部分があっては困る。彼なら自分のドローンと、パスワードを解除してケイトの分を出してくれるだろう。こんなことにドローンを使うのは反対だ、とか賢者は言うかもしれないが、もう魔王は滅びた。世界が平和になった今となっては、こんなこと以外に軍用偵察ドローンの使い道はない。

 戦うべき相手を見いだせなくなったという点においては、私たちもドローンと同じだった。魔王を斃した私たちは一緒にいる意味を失った。このパーティーは、もうすぐ解散するだろう。

 解散が囁かれているのは冒険者ギルドも同じである。冒険者ギルドは魔王を斃すために結成された同業者組合だ。魔王がいないのなら、存在する理由が無い。国王の近臣の中には、冒険者ギルドの解散を唱える者がいるという噂も流れている。冒険者といえば聞こえが良いけれど、実際はならず者だ。その集団が冒険者ギルドであり、それが王宮と同じ街にあるというのは、危険極まりないというのが理由である。

 勝手な言い草だが、納得できる部分はある。この私も、かつてはならず者だった。先祖代々、山賊を生業としていたのだ。山中を通る旅人や商人を襲って生活していた私たち一族は、同業者である魔王の大軍に敗れ、私以外の全員が死んだ。生き残った私は住み慣れた山中を離れ、この街に辿り着いた。王国の首都に来れば何とかなると思ってのことだったが、都会の風は田舎者には冷たすぎた。生き馬の目を抜く悪党が勢揃いする都で、私はなけなしの金を騙し取られたのだ。困窮して餓死寸前の私を救ったのが賢者と女騎士ケイトだった。食い物が欲しければ仲間になれ、というのだから脅迫しているわけだが、私に選択の自由などありはしない。その日から私はパーティーの一員となった。そして冒険者ギルドにも加入した。提出した書類の職業欄には盗賊と書いた。だって他に書きようがないだろう。

 堂々と盗賊を名乗る奴が私の他にも大勢いるのが冒険者ギルドであり、王権がギルドを閉鎖したがるのも当然っちゃ当然なわけだが、それはこの際どうでもいい。どうして賢者と女騎士ケイトが、数多い盗賊の中から私を選んだか、という話をする。簡単に言うと、ドローンを操れるからである。目を見れば分かるのだそうだ。冒険者ギルドから紹介された者に、その条件に適合する人間はいなかったらしい。

 冒険者ギルドは、武器や食料や宿泊施設を会員に安値で供給する以外に、会員同士でパーティーを組ませて冒険に送り出すサービスを提供している。一人では不安でも徒党を組めば怖くないってわけだ。賢者と女騎士ケイトは、そのサービスを利用し、パーティー加入希望者との面接を繰り返したが、二人の希望に沿う人間は現れなかった。二人が必要としていたのは、ドローンに代表される超時空技術を使いこなせる人物だった。この世界で生み出された兵器体系ではないため、この世界の住人では扱いかねる代物を、どうして私が使えるのか? 理屈は分からないが確かに、ホログラフィック型タブレット端末もドローンもすぐ使えるようになったし、時空裂開デバイスドライバーとバールのようなもので時空の隙間をこじ開けるテクニックは二人よりも上手になった。辛うじて読み書きが出来る程度の学力しかなかったのが、膨大なデータベースを閲覧しているうちに異世界の歴史――太閤秀吉が大の女好きだった逸話や、女装して敵を斃したヤマトタケルの故事は参考になった――にまで詳しくなった。賢者が推察するには、私の先祖に賢者自身と同じ世界からの人間の血が混じっているのではないか、とのことだった。賢者の世界の人間は遺伝子改造手術を受けており、その恩恵で魔法のような最先端技術を利用できるのだが、私にもその遺伝子が受け継がれている可能性があるということである。

 表立って反対はしないが、私の意見は別だ。私の先祖は賢者と同じ世界から来た人間を食べてしまったのだと思う。先祖が体内に取り込んだ異世界人の遺伝情報が先祖の遺伝子に組み込まれ、私に覚醒したと考えたのだ。生殖細胞の働き以外で遺伝情報の受け渡しは出来ないように思われるが、骨髄移植で血液型が変わることはあるから、ありえない話ではないだろう。

 女騎士ケイトも、私と同様に異世界の高度な技術を自在に操ることが出来た。だが、彼女は私のような食人族の出身ではない。地方領主の娘である。彼女の親を含め一族郎党全員が魔王の軍勢と戦って討死したので孤児となった。まだ子供だったケイトが、どうやって生き延びたのか? 魔王の体から飛び散った肉片で食いつないでいたというのだから人食い人種の私も驚いた。

 彼女の両親は優れた戦士であり、優秀な魔法使いだった。二人の攻撃は魔王を斃す寸前まで行った。傷は肉だけでなく、骨を砕き、魔王の脳・心臓・肝臓その他の内臓にまでダメージを与えたのである。二人に率いられた軍勢も並外れた精鋭揃いだったので、魔王の軍団は勝つには勝ったが大打撃を受けた。魔王自身も重傷を負い、麾下の兵力の損耗も大きかったので、さしもの魔王も王国首都への攻撃を諦めざるを得なかった。そして傷が癒えるまで迷宮の奥で療養を余儀なくされたのである――が、それはさておきケイトである。ただ一人生き残ったケイトは、両親の攻撃で傷ついた魔王の体の肉片を食べ、そして復讐を誓った。その願いが神に届いたのだろうか、ケイトは両親から受け継いだ戦闘能力に加えて魔王の魔力も身に着けたのである。

 ちなみに賢者によると、魔王の魔力とは増強された超能力であるとのことだ。ケイトは魔王の肉を食べたことで、魔王の超能力を使えるようになった、というのが賢者の唱える仮説である。どうして魔王の超能力に詳しいのか、と賢者に尋ねると、深い因縁があるとの話。それは魔王の超能力が深くかかわっている。

 超能力は人間に生まれつき備わっているものなのだそうだ。ただし、とても微弱な力なので何の役にも立たない。だが、元の世界にいた頃に賢者は超能力の研究を重ね、実用化の方法を発見した。細胞内で働く特殊なタンパク質が超能力を増強させるという動物実験の結果の基づき、賢者は当局に人体実験を働きかけた。軍事転用可能な超能力研究だったので、政府機関は賢者の誘いに乗った。何が起こるか分からないので、一般人を相手に実験するのは憚られた。そこで当局は刑期短縮を条件に囚人を対象とした人体実験を行った。その被検者となった囚人百名の中に、後の魔王がいた。他の九十九名には何の効果ももたらさなかったが、魔王は予想を大きく上回る超能力増強効果を示した。唯一の、そして最大最強の超能力者となった魔王は、当然ながら刑務所を脱獄し、追及の手を逃れて別の世界つまり、この世界へ逃亡した。責任を感じた賢者は逃亡者を追って、この世界へやってきた。魔王一派を狩るために設立された冒険者ギルトに加入し、魔王ハンターとなる仲間を探す。条件は私と同じ、ドローンその他の異世界テクノロジーを使える能力の有無だ。冒険者ギルドのマッチングサービスで適合したのが、女騎士ケイトだった。魔王の肉を食ったことで超能力のみならず、魔王と賢者の世界の人間なら誰でも使えるテクノロジーの遣い手になっていたのだ。

 だが、まあ、それだけではないだろうなって気はする。賢者はケイトに一目惚れしたのだ。だからこそ、自分が人身御供となって魔王に接近し、その隙を窺うという彼女の発案に反対したのだと思う。賢者は私にも反対するよう求めてきた。しかし私はケイトの案に賛成した。魔王は手下に女を集めさせている。魔王城の地下深くにある迷宮の奥にハーレムを建設しているらしい。魔王は元の世界では連続婦女暴行犯だったので、さもありなん、ではある。超能力を持つ変質者が異世界でやることと言ったら、それしかないような気がしなくもないけれど、ハーレムに入り浸りになってしまったのは厄介だった。酒池肉林が災いしてケイトの両親に痛めつけられた傷が回復していないため外出を控えたのかもしれないが、我々冒険者の側にとっては不都合だったのだ。超常の魔力で守られた魔王城への潜入は極めて困難だったためである。内部に向かった冒険者は誰も帰還しなかったので、魔王を狩るには野外決戦しかないと思われたが、ハーレムに耽溺する魔王が外に出ることはごく稀で、そんなチャンスは無かった。私は魔王でも、そうしていたと思う。魔王にしてみれば冒険者ギルドの面々が待ち構えるところに出向くのは馬鹿らしかったはずだ。晩年は戦仕事を家臣に任せ遊んで暮らした自称<第六天魔王>織田信長なら納得するはずだろう。

 それはともかく、魔王を確実に仕留める方法が見つからず、私たちは攻めあぐねていた。鍵となるのは時空裂開デバイスドライバーとバールのようなものだった。これらを使って亜空間へ侵入することで、この世界の障害物を迂回可能となる。ただし内蔵するエネルギーが長持ちしない。魔王の根城まで辿り着く前にエネルギー切れを起こすと、時空の迷路を永遠に彷徨うことになる。魔王の居場所へまっすぐ進むために。魔王城の構造を知ることが重要だ。光学迷彩の超小型ドローンは魔王城内だと電波が届かなくて使えない。内部に潜入して調査しなければならないが、どうするか……という段になって、ケイトがハーレム入りを申し出たのだ。

 ハーレムのオダリスクになれば中の様子が分かるかもしれない、とケイトは理由を述べた。危険だが妙案だった。史上最強の魔王でも弱みがある、それは美女に目が無いこと。そんな世間に広く知られた事実に基づく潜入計画だった。悪くないと私は思ったが、賢者は反対した。そんな危ないことはさせられないというのだ。

 ケイトは反論した。ハーレムに入った女たちが殺された例は今のところ無いというのだ。それは推測の域を出ない噂にすぎないが、一部の者たちには信じられていた。ハーレムに入れば贅沢が出来ると考える女も思いのほか多くいた。美味しい物をお腹いっぱい食べて、奇麗な服を着て、働かずに遊んで暮らせる後宮生活を夢見る(自称)美女たちは次々と魔王城に乗り込み、誰一人戻って来なかった。

 悲観論者は殺されたと考え、楽観論者は彼女らが待望のハーレム生活を送っていると羨んだ。どちらが正しいのか、ケイトが身をもって証明することになる。断固反対の賢者だったが、ケイトを説得できないと知るや、外部と連絡可能な超小型通信機を開発し、それをケイトの両脇に埋め込みたいと言い出した。通信機の埋め込み手術を受けてもらえば、緊急時に連絡が取れるというのだ。こちらにSOSが届く頃にはもう手遅れという気がしたけれど、私は何も言わなかった。ケイトと賢者の問題だからだ。ケイトは手術を受け、それから魔王城へ向かった。その通信機を使ってケイトが連絡を寄越したときの賢者は恐れおののいて、自分が死にかけているみたいだった。ケイトが思念で描いた地図を片手に時空裂開デバイスドライバーとバールのようなもので時空の隙間をこじ開け、私と賢者は亜空間へ突入した。ケイトが示した魔王城の座標に出口を設定し、彼女からの合図に合わせて通常空間に飛び出す。魔王の寝室は、予想よりも簡素だった。そこに全裸のケイトが立っていた。魔王は半裸で横たわっていた。亀甲縛りの縄を服に含めるのか疑問だが。雁字搦めに縛られ動けない魔王を、私と賢者はBLオメガ光線銃で射殺した。断末魔の魔王が放った攻撃魔法がケイトを襲ったが、賢者が身をもって庇ったことは、既に触れた。私たちは魔王の屍を四次元ポシェットへ放り込んだ。討伐の証拠品にするためだ。それから時空の亀裂を伝って外へ出た。その間、ケイトは賢者を労わっていた。その後もしばらくケイトは賢者を看護していたので、もしかして二人はうまくいくのかな、と私も思ったが、そうはならなかったようだ。私がケイトの立場なら、賢者に惚れそうなものだが、うまくいかんもんやねえ。

 ケイトの居場所を探し続けているうちに、外は暗くなってきた。やがて賢者が私の部屋を訪れた。酷く深刻な表情である。自分の部屋に来て欲しいとのこと。断る理由も無いので行ってみると、ケイトがベッドに横たわっていた。後ろ手でドアを閉めて、賢者は言った。

「ケイトが死んだ」

 私はベッドへ歩み寄った。目を閉じて仰向けに寝ているケイトの手を取り、脈を測る。

「そのようだな」

 私は手を元に戻した。体に掛かった白い布を顔まで引っ張り上げるべきか少し悩んで止めた。別の布を宿の者に頼んで持って来てもらった方が良いと判断したから、それから、それより先にすべきことがあると思ったからだ。私は振り返った。青ざめた賢者が唇を細かく震わせている。その唇は開いた。

「時間が無い。一気に話すから、質問があるなら最後に頼む」

 私が頷くと、賢者は一気呵成に語った。ケイトは魔王の子を妊娠した。色々な堕胎の方法を試したが、胎児は強靭な生命力の持ち主で、どれもうまくいかなかった。ケイトの頼みで自分が人工妊娠中絶薬を作って飲ませたが、胎児と一緒にケイトまで死んでしまった、と。

 話し終えた頃には、賢者の唇は紫に変色していた。顔が土気色になりつつある賢者に、私は尋ねた。

「その薬を、お前も飲んだのか?」

 賢者はかすれた声で言った。

「飲んださ。製造者責任だよ。毒を飲ませたんだから、こちらも毒を飲まないとな」

 もう遅いと分かってはいたが、言わざるを得ない。

「これは悲劇だが、事故だ。お前に責任は無いし、あったとしても、お前だけのせいじゃない。ケイトも私も、こういうリスクを考えて作戦を立てたんだ。私にだって責任がある。お前が死ぬことはないんだ、教えてくれ、解毒剤は何処にある?」

 賢者は首を横に振った。

「ケイトがいない世界は無意味だ、生きていても仕方がない」

 何をそこまで……とは思うが、それは人それぞれだろう。賢者の呼吸が次第に荒くなってきた。最期の時が近づいているようだ。二人きりの時間を邪魔するのは野暮だと思った私は、外に出ようとして呼び止められた。

「目が見えなくなってきた。手伝ってくれ」

「何を?」

「何の手伝いを頼む」

 ケイトへの思いを遂げてから死にたい、というのが賢者の願いだった。正直、私は困った。それは屍姦というやつだ。私はノーマルな性癖しか持ち合わせていない人間なので、どういうリアクションをするべきか分からない。

「それって、どうなんだろう。ベッドの隣に身を横たえる程度で、どうかなあ」

 賢者はカラリと笑った。

「昔、読んだ本でな。そういうのがあったんだ。六文銭の何とかっていう凄い漢が、死にかけながら、死んだ恋人の体を抱くんだ。あれに、憧れてなあ」

 その本は私も読んだことがある。

「恋人の名前は朱鷺、だったよな?」

「そうだ」

 ならば、私が口を挟むことは無い。いや、あった。

「……何をどう手伝えばいいんだ?」

 ベッドが何処にあるか、教えてくれ、と賢者は言った。お前の少し前だ、と教えたら、何だ、聞くまでもなかったな、と笑いやがった。しばらく経って、二人はつながった。見るのは失礼だよな、と分かってはいたが、目を離すことは出来かねた。間もなく賢者の動きは止まった。私は葬儀について考え始めた。

「二人を一緒の墓に埋めてやりたいが、埋葬の費用はどうなるんだろう。死体は埋めずに骨まで砕いて食べるのが流儀の一族に育ったから、分からないなあ」

「埋めるのは賢者の死体だけで十分よ。あたしは死んでないから」

 聞く者は誰もいないと思って独り言を呟いていた私は、大いに驚いた。ケイト女爵は自分に覆いかぶさっていた賢者の亡骸を両手でつかむと八つ裂きして投げ捨てた。そのままベッドから体を起こす。ふざけた口調で語り出す。

「蘇ったケイト女爵が命じる。我が僕となれ。拒むのならバラバラにしてやる」

 蘇ったケイト女爵は私の知っている女ではなかった。相変わらず美しい。しかし全身から漂う妖気と殺気は以前には無かったものである。私は尋ねた。

「魔王がケイトの体を借りて蘇ったってことか?」

「違う。魔王の力を吸収したの」

 魔王の体から飛び散った肉片を食べたら魔力が備わった。体を交えたら、どうなるか? もっと凄いことが起こるに違いない! 魔力が強まって、交接した魔王を操れるようになるかもしれない! 少女時代から魔王との性交を夢見ていたケイトは、魔王城のハーレムで行った人体実験にて自らの仮説が正しかったことを証明した。次は、魔王の子供を宿したら何が起こるのか、という実証実験の段階になる。妊娠の結果、魔力は増強したが、期待値を下回った。その原因として、体内で育つ胎児の栄養に魔力が流用されていることが考えられた。魔王の子供を生んで育てるつもりなど全くないので、せっかく蓄えた魔力を胎児の成長に使われるのは迷惑千万だった。胎児を子宮内で殺して胎盤ごと吸収し自分の栄養素に変えてみよう! と思い立った彼女は賢者を利用して胎児を殺す薬剤を作らせた。自分も一緒に死にかけたが、これまた大成功! 今までとは桁違いの魔力を得て生き返り、現在に至る――とケイト女爵は私に説明した。私は質問した。

「どれだけ凄い魔力が備わったというんだ?」 

「例えば、私の子宮は強大な魔力を生み出す器官になったの。ここから発射される魔法エネルギーは地平線の彼方まで焼き払うことが可能よ」

 もろ出しの股間を自慢気に指さすケイト女爵に、昔日の――ほんの少しだけ昔の――面影は無かった。だが、その面影そのものが虚像だったようだ。死んだ賢者は偽りのケイトを愛したのだ。

 いや、もしかしたら、こっちのケイトも変わらずに愛し続けるかもしれないが、今となっては確かめようがない。

「そろそろ答えてちょうだい、ここで賢者と一緒に死ぬか、私と来るか」

 ケイトは舌なめずりして言った。

「ずっと言えなかったけどね、ちょっと好みのタイプなのよ、あんた」

 残念だ、こっちはまったくタイプじゃない――とは言えないので別のことを話す。

「その股間からビューっと出るやつ、見せてもらえるかな。それを見てから決めるよ」

「好きものなのね、あんた」

 ケイトは股間をまさぐった。急に顔を赤らめる。

「やだ、あの男のあれ、まだ入ったままじゃない」

 自分の亀裂に突き刺さったままになっている賢者の一物を引き抜こうとして抜けず、ケイトは押したり引いたり捻じったり回したりを繰り返した。そのうち身悶えて何度も弓なりになった。その姿が隙だらけだったので、私はホルスターからBLオメガ光線銃を抜いてケイトを撃った。賢者の一部とケイトの全身は一緒に消滅した。新鮮な空気が吸いたくなった私は、銃をホルスターに戻し、窓辺に立って窓を開けた。四つの暗い月が浮かぶ夜空に天の川が見える。ふと思った。BLオメガ光線銃で天の川を消滅させたら、彦星と織姫は私を感謝するだろうか? 銃をホルスターから抜きかけて止める。男女の仲は、他人からは計り知れぬものがある。余計な真似はしない方が良いだろう。


                一の終わり


 エムエムオウ氏は書き上げた自作の出来栄えに満足した。続いて他の人間に読んでもらい、褒めてもらうことにした。冒険者ギルドが発行する会報に読者投稿欄があるので、そこに原稿を出そうかな……と考え、そのページを捲ったら、驚いた。

 似たような作品が掲載されていたためである。

 それを以下に提示する。


                  二


      〔冒険者ギルドが発行する会報の読者投稿欄より抜粋〕


 競兎場へ出かけたきり帰ってこないバロン毛異戸を探すべきか? 私は思慮に少々の時間を費やした。それでも妥当な判断を下せなかったので、転生人の賢者に訊いてみると、この男は素っ気無い口調で、こう言った。

「誰ですか? ああ、けいと。ふん、あの男爵様は放っておけば良いと思いますよ」

 正直な男だ、と私は腹の中で笑った。賢者はバロン毛異戸を快く思っていない。話題に上ることすら厭う。嫌悪感が強まると大きな傷跡の残る頬がヒクヒク痙攣するから、すぐ分かる。

 それでも賢者は、バロン毛異戸のことなど眼中にないことを見せようと、努力はしていた。窓辺の机に向かい戯曲の台本を書く振りをしている。魔王を斃した我々の冒険を芝居にする話が持ち上がったので、賢者は書き記していた日記を基に芝居の脚本を書き進めていたが、私がバロン毛異戸の話を持ち出すと、筆が止まった。落ち着きがなくなり、突然ペン回しを始め、呼び鈴を鳴らして召使にハーブティーを持って来させ、香りを嗅いでから飲んでむせ、ハンカチーフで鼻をかんで立ち上がり、膝の屈伸と背伸びをしながら窓の外に見て、通りを進んでいた牛車の歩みに文句をつける。

「あんな遅い乗り物に乗るのが貴族の特権というのは、私のような転生人には理解しがたいですね」

 貴族になったパーティー仲間に対する嫉妬が、唐突な牛車批判になったようだ。国王陛下は魔王を退治した我々の冒険を聞き、パーティー全員に褒美を与えたが、その中でも毛異戸の勲功を高く評価し、男爵の爵位を与えた。国王の御厚意は、それだけにとどまらない。異世界に通じる戸を開けて当地に現れる者は多いが毛むくじゃらの獣に変身して戦う戦士は稀であると驚きを隠さずに言い、以後ケイトのいう名を書き表す際は<毛異戸>という文字を使うよう恩着せがましく命じた(それまで私と賢者はケイトを獣人と呼んでいたが、気安く呼べなくなった)。おまけに国王自慢の姫とダンスを躍らせる栄誉を与えた。才色兼備と評判のプリンセスとのダンスである。まさに一世一代の晴れ舞台と言えよう。面白くないのは賢者である。剛毛ケイトあらためバロン毛異戸に与えられた何もかもが賢者の嫉妬心を煽ったのだ。

「私なら、あんな乗り物には絶対に乗りませんね」

 しつこく同じことを言っているのは、今朝の光景を思い出しているからだろう。バロン毛異戸は国王ご一家が私たちの泊まる宿へ迎えに寄越した牛車に乗って競兎場へ出かけた。賢者にとって、それは憤激の光景だった。競兎場では件の姫君が待っているというのも、賢者の頭を沸騰させたに違いない。牛車が宿を出発後しばらくの間、照準器を調整すると称して、魔王を消滅させた絶対根絶オミクロン熱線銃を空に向けて撃ち、雲や大気を蒸発させていた。

 賢者が愚かしい振る舞いをしている間、私は何をしていたか? 今宵、冒険者ギルド本部で開かれる魔王滅亡記念のための特別臨時総会の準備、つまりバロン毛異戸による演説の草稿を書いていた。要するにスピーチライターの仕事をしていたのだ。大体のところは完成したので、バロン毛異戸に原稿を読ませ細部の手直しをしようと思っていたが、約束した時間になっても御大は宿へ戻って来ない。ここで練習せず競兎場から直接ギルド本部へ行くつもりなのだろうか? 滑舌の悪さがコンプレックスのくせに。

 恥を掻くのはバロン毛異戸であって私ではない、賢者の言うように放っておけば良い――と言いたいところだが、ここは威厳を示すべき場面だった。冒険者ギルドの構成員の中に、我々のパーティーに対し強い反感を持つグループがいた。自分たちが狩るべき獲物である魔王を始末したのが気に入らない、というのである。それだけなら単なる負け犬の遠吠え、無視して構わない。厄介なのは、その主張が排外主義に結び付いた点にある。冒険者ギルドの構成員のうち過半数を占めるのが、この世界で生まれた人間、つまり地元の衆だ。残りが別の世界から来た人間及び人間以外の生物(生きていない者と人間ではない動植物も含まれる)だ。例えば賢者は、元の世界で死んで、この世界に生まれ変わっている。高度な科学文明が発達していた前世で生きたときの記憶を有する賢者は、この世界では開発されていない未来の武器や便利な発明品を使って魔王の手下どもを数多く屠った。バロン毛異戸は別の世界から転移してきた獣人だ。人間離れした身体能力を駆使して怪物たちと戦い、最後は魔王と一騎打ちまでやってのけた。いずれも、この世界で生まれ育った無能で非力な地元衆には出来ない芸当だ。それを見て憧れ称賛する者がいれば、その逆に妬み嫉み誹謗中傷する輩が現れるものらしい。それが異世界からの転入者に対する排外主義と直結すると面倒な事態が起こるのだ。その種の小人物は単体では恐るるに足りない。けれど、民主的に多数決で物事を動かす冒険者ギルドにおいては、群れになると厄介な存在に昇格する。そういった烏合の衆に痛打を与え、ギルド内に及ぼす影響力を激減させようという狙いが、今回の演説にある。

 そんな大切な舞台を前にして、バロン毛異戸は何処で油を売っているのか。憂慮すべき状態なのは分かっているだろうに。自分が差別される立場でありながら差別されていることへの反発心に乏しいのは、半身が獣だからか?

 それを言ったらおしまいだ。

 私は網膜にディスプレイを投射した。競兎場内に設置された秘密カメラの映像を確認する。同時に非視覚中枢スクリーンに映写された不可視光線データもダブルチェックしたが、バロン毛異戸らしき人物は見当たらなかった。

 秘密カメラの人物自動認識機能による捜索を継続する一方、競兎場内にいる地元の人間を何十人か操作してバロン毛異戸探しを始めた。操作されている人間は、自分が操られていることに気が付かない。常識のある正常な人間は「自分が何者かに乗っ取られている」なんて思いもしないものだ。それにコントロールされているのは短時間なので「今ちょっとぼんやりしていたな」で終わる。そんなボンヤリさんたちを操って洗面所の個室、レストランの調理場、出走を待つバニーガールの控室と、一通り見て回ったが見つからない。

 場内にはいないということか、それならば奴は何処だ? 私は窓の外に目をやった。この街の何処かにいるということか? 空を見上げて、舌打ちする。一つ目の月が、もう天空に昇っていた。ギルドの会合は四つ目の月が北天の頂きに達した時刻に始まる予定になっている。喋りが苦手なバロン毛異戸をキケロそこのけの弁士に変えるために残された時間は、もうほとんど残されていないと考えねばならないだろう。

 全市内の秘密カメラを自動運転させて、バロン毛異戸の位置情報を検索すべきなのか? 気力と体力を消耗するので正直やりたくないが、魔王を滅ぼした今となっては魔物が突然この部屋に現れ襲い掛かってくる危険は無いと思うので、神経が多少すり減っても構わない。私は作業を開始した。並行して地元衆を操り人の眼による捜索も忘れない。

 これだけやっても見つからないとは、一体どういうことなのか?

 この世界の主である私に見つけられないとは、納得いかない!

 こんな役立たずの監視システムを構築した奴は誰なんだ、文句を言ってやる……あ、それは私だった。

 この世界も、この役に立たない監視システムも、創造したのは私である。要するに私は、ここの創造主なのだ。だが、万能の神ではない。傷ついた自分の心を癒す箱庭を創ろうとして、私は失敗した。争いの無い平和で豊かな社会を目指したのに、少しでも豊かになりたいという地元民の欲望から生じた競争に目を瞑り、心の安らぎを求めるがゆえの愛をめぐる争いは自然のこととて放置し、生老病死の苦しみは悟りを開くための礎と見て見ぬふりをして、世界に不幸の種をばらまき続けた。人心に根を張った悪い種子が芽吹き妖しい花を咲かせ毒の実を結んだというのに、私は何も気付かなかった。その実を食べ邪悪に目覚めた人間を、私には責める資格が無い。この過ちだらけの楽園から追放する権利も持っていない。私が創った世界の秩序を乱すようになった悪人どもを、私は自由自在に操れなくなったからだ。修復不可能な重大なエラーである。そうなると、もう始末に負えなくなる。悪に染まった者たちの中から一点の曇りも無い悪が生まれてくるのは時間の問題だった。そんな事態を防ぐには、世界を停止させ、制御不能なエラー人間を全排除するしかない。それは大変な手間のかかる作業だった。悪の数が多すぎたのだ。増殖を続ける悪者の中から、最凶最悪の存在が生じるのは絶対確実だと予想できたのに、私は手をこまねいて見ていることだけしか出来なかった。そう、私は魔王という悪の発生を防ぐことが出来なかったのだ。力が足りないために、自分一人で魔王を排除することも出来なかった。この世界の住人を結集して魔王を滅ぼすことも無理だった。このファンシーな世界に生きる大半の人間は優しい心を持ち平和を愛しているのだ。急に戦えと言われても、戦えるわけがない。<毒を以て毒を制す>の金言に従い、地元衆の中から暴力に目覚めた者を動員して冒険者ギルドを立ち上げさせ、魔王退治に向かわせるのが関の山だった。だが、それでも魔王は斃せない。この世界の出身者だけでは力不足であることを悟った私は異世界との扉を開放し、別の世界の住人を冒険者として招き入れて、やっと魔王を斃すことに成功した。異分子を自分の領域に加えることは大いなる不安を私の中に呼び起こしたが、結果オーライである。

 それでも不便と言えば不便だ。この世界に元からいる住人は全身の細胞内にビーコンが埋め込まれているので位置を把握できるが、異世界出身者は不可能だ(そのせいで、こんな苦労をしている)。先程から行っているように、地元で生まれた良識のある正常な人間は短時間なら自由に操れる。私を裏切り悪の道へ走った輩と同じく、バロン毛異戸のような外の世界の人間には、そんな手段は使えない。この世界の創造主であっても万能の神ではないとは、そういう意味だ。

 バロン毛異戸が私の被造物だったならば、キング牧師をして顔色なからしむる雄弁家になっていたかもしれないのに。親と神と生まれる世界を選べないのは不運なことだと、つくづく思う。せめてもの親ではなく神心で、緊張すると吃音になる癖を何とかしてやりたいと思ったが、そのための練習時間は無くなった。三つ目の月が上がった今となっては、現地でぶっつけ本番の演説になりそうだ。

 いや、待てよ。演説するのが嫌で、会場に現れないかもしれないぞ。誰よりも勇敢に魔王と戦ったのはバロン毛異戸であるのは間違いないが、目立つのは苦手な性格で、国王から爵位を与えられたときも若干、挙動不審になっていた。その様子を自分でも恥ずかしく感じていたみたいだから、今回は会合を欠席しようとするかもしれない。

 その場合、バロン毛異戸の代理スピーチは私か賢者が務めることになる。

 賢者に演説をさせるわけにはいかなかった。賢者は冒険者ギルドの改革を目論んでいた。能力に基づく階級制度の導入を唱えているのだ。大部分を占める無能な冒険者を最底辺、ごく少数の有能なエリート層を頂点とする階級ピラミッドを作りたくて、もうたまらないのだ。

 トップに君臨するのは勿論、自分である――と賢者は明言しないけれど、私には分かる。賢者は自己顕示欲とか承認欲求とかいう煩わしい性質の塊だ。何を主張しようが人の勝手だが、それをやるなら自分の生国でお願いしたい。ここは私の世界であり、賢者は異邦人なのだ。<郷に入っては郷に従え>の言葉もある。魔王が滅んだので、賢者は用済みでもあることだし、嫌なら出て行って欲しい。

 それに、この世界には既に身分制度が確立されている。国王、貴族、平民。この三つの区分以外に階級制度を並立させると社会全体の混乱を招きかねない。魔王を滅ぼした今は、元の平和な状態に戻すことが優先課題だ。戦争は終わった、次は復興なのだ。争いを引き起こしかねない無用な変革は慎むのが神の務めだと私は信じる。

 そもそも冒険者ギルドに今さらランキング制度を導入して意味があるのか疑問だ。魔王は、もういない。残ったのは雑魚だけだ。闘っても面白くない相手である。大物不在の狩猟ゲームに熱狂する酔狂な者は真正のサイコパスであり、こいつらはやがては魔物と同じような存在に堕落して、昔の自分みたいな冒険者に狩られて死ぬ。狩ったハンターもいずれは魔物となり、元の自分みたいな狩人に殺される。これを繰り返す結果が冒険者ランキングになるとすれば、それは殺人鬼の順位表と変わりない。

 真の冒険者つまり、強い相手とのスリリングな果たし合いを求める勇者は、別世界へ旅立つはずだ。かつてのバロン毛異戸や賢者のように。辿り着いた新世界に冒険者ランキングがあれば上位を目指せば良い。無ければ創れば良いだろう、ただし私の世界には要らない、それだけだ。

 賢者に余計なことを言わせないために、私が演説することを決意した。それが最善の選択だろう。けれど、迷いはある。創造主の直接介入が、その被造物にとって幸いなのか、疑問に思うからだ。私が他の神に創られた存在だとして、その神の好きなように操られているとしたら、気分は良くない。お前は神の奴隷であり、その命令には絶対服従だ! と頭ごなしに言われたら反発する。それは、この世界の人間だって同じだろう。神に逆らったら殺されると怯え平伏する群衆を睥睨して悦に入るために、私は世界を創ったのではない。誰もが幸せとなる平和で明るい優しい世界を創りたかったのだ。その気持ちは今も変わらない。だからこそ私は排外主義者に反対するし差別主義者とも戦う。この世界の創造主が創造主であり続けるために戦うのだ。

 とまあ、そんな具合のアジ演説をヒトラー、ケネディそして宝塚歌劇団風に鏡の前でスピーチしてみた。どれもピンと来なかったが、ヒトラーと宝塚のミックス的な身振り手振りを交えたスタイルは冒険者ギルドの馬鹿たちにウケそうな感じがする。次に決めポーズの選定だ。月に代わってナンチャラカンチャラってのがあったよな~と考えつつ、窓から空を見上げる。三つ目の月が先程と同じ位置に浮かんでいた。あれから時間が経過しているので、三つ目の月は動いているはずだし、空には続いて四つ目の月が浮かぶはずだ。それが、この世界の設定なのだ。そんな風に創ったのは私だから間違いない。

 それならば、なぜ? と首を捻りながら網膜にディスプレイを投射し、そこに世界設定パネルを開く。天体の運行に異常は認められない。世界は法則に従って動いているのだ。そうだとしたら、何が問題なのか? ふと思いついて窓から外へ手を伸ばす。指先が透明な幕に触れた。幕の正体を脳内分析器で調べ、その表面を摘まんで引っ張る。甲高い音と青黒い粒子の粉を放射しながら幕が剥がれ落ちた。分析結果が出た。電磁系魔法の一種、張り付き映写幕のようだった。何処からか自動的に飛んできて壁やガラスに張り付き、幕の表面に画像を映す。今回は偽の天空を映して私に見せたようだ。幕が取れた後の窓の外には四つ目の月が浮かんでいた。北天の頂きは、もう過ぎている。あかん、冒険者ギルドの会合が始まっとるやないか。私は指笛を吹いた。宿の軒下で休眠していた人面犬サイトキリトが目を覚ます。私は窓から身を躍らせた。四階からだが構いはしない。飛び降りたって平気なのは、窓の下に駆け寄ってきたサイトキリトがトランポリンの変身して私を受け止めてくれるからだ、ぼよんぼよん。空中でバウンドしながらサイトキリトに指示を出す。私の命令で極超音速ロケット鳥ロプロス二世に変形したサイトキリトは、冒険者ギルド本部へまっしぐらに飛行した。音速の壁を突破する際に生じる凄まじい衝撃波から街を守るためにロプロス二世が放射する極彩色の鱗粉が住民にクシャミ、鼻水、鼻詰まり等の健康被害を引き起こしていたが、それはこの際どうでもよい。小賢しいトリックで私を騙し会場入りを遅らせようとした人間に、神の怒りを思い知らせてやる。

 私はロプロス二世をギルド本部前に着陸させた。エネルギーを短時間に消費したため、ロプロス二世は本部前広場で動けなくなった。再び人面犬サイトキリトとなって惰眠を貪り始める。このバカ犬め。私はただ一人ギルド本部に乗り込んだ。警備員が立ち塞がり、通行証を見せろと命じる。証明書を宿に忘れてきた私は顔パスで通ろうとしたが、警備員は「お前なんか知らん」とにべもない。押し問答にブチ切れた私は、この警備員をマインドコントロールしようとして、失敗した。私のコントロールが効かないとしたら、この警備員は悪に染まっている恐れがある。ならば、情け容赦は要らない。神の拳でノックアウトして会場へ乗り込む。

 会合が開かれている大広間は大騒ぎだった。会場を埋め尽くす冒険者ギルドの加入者たちは、演壇に立つ賢者に激しいブーイングを浴びせている。集中砲火を食らっている賢者は顔を真っ赤にして叫んでいた。

「お前たちみたいな無能な無生産者は、賢者である私に従っていれば良いのだ! 食べるものが無いなら上流階級が食べ残す残飯を食え! それが嫌なら貧乏人同士で共食いでもしろ! とにかくお前らは社会の屑なのだから、我々エリートの邪魔をするな!」

 どうやら賢者は、こういう挑発行為をやりたいがために、変な小細工をして私に足止めを食らわせたようだ。これじゃ賢者ではなく愚者だろ。

 激高した聴衆が怒りの形相で演壇に迫る。賢者は口から臭い息を吐いて暴徒を牽制した。暴徒は慌てて引き下がったが、敵意は衰えない。間合いを取って飛び道具で賢者を攻撃する。無数の投石、投槍、弓矢が演壇に向かって放たれた。賢者が片手を顔の高さに上げた。半透明の防護障壁を正面の半円に張る動作だ。障壁が働き、飛び道具が空中で制止し、そのまま落ちる。賢者は嘲笑った。

「お前たちモブは何人いたって駄目だ。何の役にも立たない。無意味すぎる」

 冒険者たちは接近戦を選んだ。矛や槍や刀を握り締めて賢者に突進する。賢者はオミクロン熱線銃を構えた。今度はモブどもを殺す気らしい。バカなモブとはいえ、私我が子同然の連中を、黙って殺させるわけにはいかない。私もオミクロン熱線銃を抜いた。自慢じゃないが、私は賢者より早撃ちが得意だ。出力を絞って発射した熱線が賢者の銃を破壊する。手に獲物を持った冒険者が武器を失った賢者に肉薄した。賢者は虚ろな目で何かをブツブツ唱え始めた。ピンチで気が動転しすぎるあまり、自分の世界にドップリはまり込んでしまった! というのではない。地下のマグマを引き寄せ自分の周囲に破局的噴火を起こす地学系磁気魔法を起動させようとしているのだ。そんなことをやられたら、この街はおろか世界が崩壊する。賢者に対抗し、マグマの動きを止めようとして、失敗する。私の世界設定コントロールパネル接続ラインを、賢者が遮断しているようだ。どうやったんだが分からないが、現実を受け止めよう。残念ながら賢者の方が私より私の世界を使いこなせているようだ。やむを得ない、それならば実力行使だ!

 オミクロン熱線銃を構え直したところで大地震が来た。あと一歩で賢者の首を叩き斬れるところまで近づいていた冒険者たちは一斉に倒れた。人が倒れるならまだ良い。この調子なら、ギルド本部が倒壊しかねない。私は叫んだ。

「全員伏せたままでいろ、絶対に立つなよ!」

 狙いを付けようとしても、床が波打つ程の揺れで照準を合わせられない。このまま撃っても当たらないかもしれないし、最悪の場合、周囲で慌てふためいている冒険者たちを巻き添えにしてしまう。オミクロン熱線銃を構えて硬直する私に、賢者が笑顔で話しかけてきた。

「お前、神様なんだろう? 神の力で何とかしたらどうだ? 奇跡を起こせよ」

 世界設定コントロールパネル接続ラインを遮断されたと分かった時から嫌な感じはしていたのだが……驚愕が顔に出てしまっている自覚があった。そんな私を見て賢者は高笑いした。

「はっはっはッ! 気付かれていないとでも思っていたのか? 間抜けな神様がいたもんだな!」

 私が神であることに、どうして気付いたのか? いや、それより今の危機的な状態を何とかすることに考えを集中すべきだ。賢者を射殺するしかあるまい。人を殺すのは嫌だが止むを得ん。無辜の冒険者十数名を巻き添えに殺してしまうリスクを冒してでも、オミクロン熱線銃を撃つのだ。意識を集中しろ。早く撃つのだ!

 床の揺れと心の動揺で銃を撃てずにいた私に代わって、亜音速で大広間を駆け抜けたバロン毛異戸が賢者を叩きのめした。空中で一回転し、賢者の背中を取ったバロン毛異戸の背後からの一撃で賢者は気絶した。その直後、地震は停まった。やれやれ、である。

 私はバロン毛異戸に声を掛けようとして、停まった。自分の意志で停まったのではない。体が動かなくなったのだ。

 バロン毛異戸の背後から高そうなドレスを着た奇麗な娘が姿を現した。国王自慢の姫君だった。彼女は演説を始めた。

「魔王を滅ぼした我々が次に滅ぼさなければいけないものを、皆さんはお分かりですか? それは邪悪な神です。この世界を創造した邪神です」

 姫君の演説は突拍子もない内容だと私には思われた。それでも冒険者ギルドの連中は姫の美貌と名調子に惑わされ、演説を聞き入っている。

 姫君は話し続けた。

「人々の心に不和の種を蒔き、争いの元を芽生えさせた疫病神が、この場にいます。その人物は、我々を好きなように操り、世界に不幸を撒き散らし続けています。魔王の存在も、その暗黒神が造り上げたものだったのです」

 当たらずとも遠からずではあるけれど、積極的に魔王を作り出してしまったのではない。掃除をサボっていたらカビが生えた、という程度のことだ。

「その破壊神にとって、この世界は自分の欲望を満たすための遊び場に過ぎません。我々が悲しみ苦しむ様を見て喜ぶ、歪んだ箱庭なのです」

 それは違う。私は不幸な人々を見て喜ぶ卑劣漢ではない。この世界が災厄で満ちているのは私の能力不足が原因で、私の性格に難があるのではない……と考えるに至って、思い当たった。無能な神を頂点に頂くことより不幸はあるまい、と。

「魔王を斃した三人のうち一人は我々の味方です」

 姫君はそう言ってバロン毛異戸に微笑んだ。次に、ぶっ倒れている賢者を冷たく見下ろす。

「この男は魔王に成り代わり、この世界を支配しようとした悪人です。ですが、役に立った部分もあります。この男は、我々の世界を不完全な状態のままで創造し、半ば放置プレイをしていた無責任な神の正体を密かに探っていました。自分が新しい神になろうとしていたので、古い神が邪魔だったのです」

 体は動かないけれど、目はわずかに動いた。姫と目が合った。

「賢者は神の力に制限を掛ける方法を発見しました。私はバロン毛異戸と協力し、賢者から神に関連する情報を盗みました。得られた情報を詳細に分析し、愚かなる神の正体と、その男を我々の世界から永遠に追放する方法を見出しました」

 彼女は私を指さした。

「この勇者は、この世界の創造主だと自分では思っていますが、実際はつまらない小者です。元の世界では取るに足らない存在なのです。誰からも愛されず、誰からも必要とされないので、逃げ場が欲しくてこの世界を創りました」

 指を下ろして姫は言った。

「そして今、この不要な神は、我々の世界から消えます。この世界とつながるための装置に私が不可逆な変更を加えたためです。この人物の能力では、変更された箇所を直すことは勿論、発見することも出来ないでしょう」

 動けなくなっただけではないようだ。次第に目が見えなくなってきたし、耳も聞こえなくなってきた。この世界との接続が切れかけているからだろう。姫の言葉が事実なら、私はこことは永遠におさらばすることになる。

 それは嫌だ。しかし……自分の被造物に拒否されるのを避けられないとしたら、その運命を受容するしかない。

 いや、理不尽な運命に抗うべきだ、とも思う。人間とは、そういう生き物だからだ。悲しい宿命に泣くのではなく、戦うからこそ人間は人間なのだ。

 自分の創った世界に拒否されることを受け入れるか否か、自分に問いかけているうちに、この世界は私の前から消えた。元通りにするために悪戦苦闘を続けているけれど、我が被造物の姫君が宣告した通り、復旧の目処はまったく立っていない。


                二の終わり


 エムエムオウ氏は激怒した。

「何だよコレ! パクリじゃないか! ありえない! 信じられないよ! 絶対に許せない!」

 会報を発行する冒険者ギルド編集部に電話で抗議する。

「俺の作品をパクるな! 削除だ、削除しろ!」

 向こうに電話を切られるまでの数時間ずっと怒鳴りっぱなしだったエムエムオウ氏の喉は枯れた。

「ちくしょう! 魔法の力で治してやる!」

 治癒魔法の呪文を唱え、効果発現を待ったが、そこは使えないエムエムオウ氏のこと、いつまで経っても治らない。腹立ちまぎれに彼は禁断の魔法、物語人工生成魔術を唱えた。魔法の力で物語を生成しようというのである。

「パクリは絶対に許せない。こんな奴には魔法の力で対抗だ!」

 その結果、生み出されたのが下記の作品群である。


                  三


 現地へ行ってみたら聞いていたのと全然違ったよ! なんてことはしばしばある。ガッカリ観光地に限った話ではない。太陽系の諸惑星に到着した探検隊は自分たちが目にしている景色を信じられなかった。科学に基づいた予想がことごとく外れていたためである。紫色の原生植物が密生する火星のジャングルは生きた銃剣の如き鋭い棘で侵入者を拒み、金星の沼地人は高度な文明を持つ太陽系最古の知的生命体で宇宙に遅れて進出した地球人の良き相棒となり、木星の固い大地はアンモニアの氷塵ひょうじんの嵐とナトリウムの爆発で大破した数多くの大気圏降下着陸船が眠る墓場と化し、永遠に昼の続く水星の灼熱面は命知らずの冒険家どもが遭難して木乃伊ミイラとなる地獄として思考生物に恐れられるようになるとは、昔の人間には想像も出来なかったことだろう。

 これが並行世界パラレルワールドの実例である。今風にいうと異世界トリップだ。その旅が楽しい思い出いっぱいの物見遊山で終わるかどうかは、多分に運次第である。我々が暮らす、この世界を支配する物理法則の通用しない土地へ旅立つのだ。何が起こるか分かったものではない。

 それは勿論、別世界からの異邦人にも言える。遠い宇宙の彼方の、そのまた裏の世界から超ひも理論に基づくラムダ及びケイ電子管を利用したタウ空間転送で飛来したルブイエイス・カローンは、故郷では見ることのなかった光景を幾つも目撃し大いに驚いた。

 どういうものを見て驚愕したのかというと、魔法や超能力といった非科学的事象である。念力による物体移動、目から発射される破壊熱光線、高速周回運動で発生した残像を利用した分身の術、幽体離脱そしてエクトプラズムといった奇怪な超常現象はカローンの理解の範疇を越えていた。

 時間跳躍もしくは時間旅行という概念も謎だった。時間は過去から未来への方向にしか流れないものだ。これは、ありとあらゆる多次元世界に共通の法則である。だがカローンが訪れた太陽系第三惑星つまり、この地球には時間の流れを逆行する流離人さすらいびとや未来へ飛翔した――そして現在に帰還した――と称する者が大勢いた。

 それらの人間が詐欺師ではないかとカローンは疑い、検証のため時間旅行を体験したと称する何人かにインタビューを試みている。イタリア人ジョヴァンニ・ドローゴは、そのインタビューを受けた一人だった。ただしドローゴは、自分は時間跳躍者あるいは時間旅行者というより永遠の転生者に属するのかもしれない、と語っている。彼は、自分は転生を繰り返している、と真顔で言い切った。今回は時間を過去へ遡りオーストリア・ハンガリー帝国の支配下に置かれていた十九世紀のトリエステに転生したのだという。

 時間遡行者にして輪廻転生者ジョヴァンニ・ドローゴはトリエステ在住のイタリア系オーストリア・ハンガリー帝国市民で、今回の転生前と同姓同名のジョヴァンニ・ドローゴとしての自我に突如として目覚めた。転生前の記憶は残っており、今ここにいる自分が未来から過去へ旅しているのだと理解できた、とのこと。特筆すべきは、このとき彼が恐慌に陥ることなく運命を受け入れたことだろう。

「生前の私は、英雄になろうと思って結局、何者にもなれず人生を終えました。転生したのは夢をかなえるため。目覚めた瞬間、そう確信したのです」

 そう語る彼は生前、似たような思い込みに囚われてしまったために一生を棒に振ってしまったらしい。人は生まれ変わっても、同じ過ちを繰り返すものなのだろうか? そうさ、それがループものの定番! と断言されたら、それまでだが、ともかく――ジョヴァンニ・ドローゴは新しい人生を英雄となるための冒険に費やそうと決めた。

 まずは身辺整理である。このときジョヴァンニ・ドローゴは数名の女性と同時に交際していた。彼女たち全員が自らの冒険生活に同伴してくれるのなら、危険な旅路とてさぞや華やかなものになるだろう……と夢想するも、全員が仲良く過ごせるとは限らない。むしろ、その逆となる危険性の方が高い、と考えるのが妥当だろう。そこで彼は、自分が冒険的新生活を求めていると彼女たちに匂わせ、それに付いてきてくれるものかと観測気球を上げてみた。

「波乱万丈な人生に憧れる……そんな気分になることが、君にはあるかい?」

 彼女たちの答えは概ね下記のようになった。

「全然。ところで結婚の日取りなんだけど、私は早い方が良いと思うの。それで構わないでしょ?」

 ないのかあるのか、あるのかないのか、どっちなのか分かりにくい質問文が悪かったのか? とジョヴァンニ・ドローゴは考えたそうだが、ここまで明確に否定しているのだから、彼女たちは波乱万丈な人生にはなから興味が無かったと断定して差し支えない。交際している女性たちの性格を把握していれば、あらためて聞くまでもない質問だったと思われる。ところで――不誠実な恋人に対し唯一人、結婚を迫らない女がいた。マリアという名だった。フランスやオランダを数か月旅行するのだと彼女は言った。家族や友人たちと一緒に名所巡りをするのだ、と楽しげである。

 ジョヴァンニ・ドローゴの喉元に嫉妬や羨望といった苦いものが込み上げた。

巴里パリの空の下で食べるオムレツは、きっととても美味しいのだろうね」

 それだけ言うのが精いっぱいだった。マリアと偽りの笑顔で別れ、トリエステの坂道を上るジョヴァンニ・ドローゴの胸中は空っぽで、その足取りは木星に降り立ったかのように重い。自分は、この転生でも、英雄に慣れず仕舞いで終わるに違いない。モブは何処まで行ってもモブなのだ……そんな思いが去来し鬱々となっていたとき、男に声を掛けられた。

「ジョヴァンニ・ドローゴだな」

「いかにもたこにも」

 男は手袋をジョヴァンニ・ドローゴの足元に投げ捨てた。

「お前に決闘を申し込む」

 人の恨みを買う覚えがないので人違いではないかと問い質せば、男はとある女の名を挙げて答えた。

「聞き覚えがあるだろう。知らないとは言わせないぞ。お前が捨てた女の名だ」

 捨てたのではなく、それぞれが別の道を進むことにしたのだと訂正しても、相手は聞き入れない。

「お前は彼女のヒモで、彼女の有り金が尽きると、金の切れ目が縁の切れ目とばかりに捨てた。そうだろうが!」

 ヒモではなく、彼女が勝手に金をくれただけだ、と説明しても無駄だった。

「彼女の名誉を守るため、お前を殺すと俺は神に誓った。いざ尋常に勝負しろ!」

 短気な男だった。決闘のしきたりに従い証人や介添え人を立ち会わせず、この場で決着を付けようというのだから、単なる殺人である。ジョヴァンニ・ドローゴにしてみれば相手にするだけ馬鹿らしい。呆れ顔で立ち去ろうとすると男は冷たく言った。

「逃げるな。こちらを向け」

 ジョヴァンニ・ドローゴは、うんざりした顔で男の方を向いた。そこを撃たれた。胸と腹にそれぞれ一発ずつ。仰向けに倒れたところを、顔面に一発撃ち込まれ、とどめを刺された。どうしても好きになれない顔だったが、撃たれると名残惜しかった、と彼は言った。

「私は死んで現代に戻ってきました。英雄にも冒険の主役にもなれずに。ですが私は、脇役として、誰かの物語の引き立て役として、その役目を果たしたのです」

 過去の時代で何が何だか訳が分からないまま射殺されたジョヴァンニ・ドローゴは今、過去の自分に向き直ろうか否か、悩んでいる。自分を射殺した男が、その後どうなったのか、気がかりなのだ。

「あの男が口した名前の女は、私の知る限りでは性悪な糞ビッチで▽▼×、とにかくろくでもない女でした。そんな女に、あれほど入れ上げる愚か者が、あれからどんな人生を歩んだのか、とても気になるのです」

 転生を繰り返すジョヴァンニ・ドローゴだが、自らの意思で輪廻しているわけでなく、気が付いたら別の人生を歩んでいる、というのが毎度のパターンらしい。そんな彼にとって、過去の探求は簡単なことではないとのこと。

 インタビューが行われているホテルの一室はルブイエイス・カローンが借りたものである。その部屋は海に面していた。ジョヴァンニ・ドローゴは窓際の椅子に腰を下ろし、時おり白波に眼をやりながらカローンの質問に答えていたが、このときは自ら話を切り出した。

「ですが、ルブイエイス・カローンさん。貴方/貴女と知り合うことで、私は自分の新しい可能性に気が付きました。超ひも理論に基づくラムダ及びケイ電子管を利用したタウ空間転送を使えば、過去へ自由自在に戻れるのではないかと思うのです」

 ヒモが超ひも理論の有用性に目覚め、それで時間旅行しようというのである。

 妙な話だが、タイムトラベルの謎を追究する好機だった。ルブイエイス・カローンは、その提案を受け入れた。自らが使用している長距離移動を可能とする転送装置の予備を被検者ジョヴァンニ・ドローゴの首に掛ける。

「この装置は通信機にもなっている。これがあれば、こちらの世界と連絡が取れるから、何かあったら使うといい」

 ルブイエイス・カローンの厚意に、ジョヴァンニ・ドローゴは感謝の意を示した。

「それで、どうすれば機械が作動するですか?」

「首に巻いた部分を指で二度押せば作動する。一気に締まるから」

 注意しろ、とルブイエイス・カローンが言う前にジョヴァンニ・ドローゴは言われるままの動作を行った。その首に巻かれた紐が瞬時に締まる。倒れながらもドローゴは首の紐を取ろうとして必死にもがく。そのすべての努力を無視して、締まり続けること約三分。白目を剥き舌をダラリと出したまま意識を無くした男の体を見下ろし、異邦人は不安になった。

 ジョヴァンニ・ドローゴは過去にタイムスリップしたのではなく、あの世へ旅立ってしまったのではあるまいか?

 ルブイエイス・カローンは、首に紐を巻き付けたまま倒れているヒモを心配そうに眺めた。異世界への小旅行という、ほんのささやかな体験で、事故に巻き込まれてしまったときは、どうすれば良いのか? 旅行代理店に連絡を取ろう、と思っていたら部屋にホテルの従業員と警官数名が入ってきた。騒ぎを聞きつけた隣室の宿泊客がフロントに苦情を伝えたらしい。

 首に紐が巻き付けられた状態で物言わぬ姿のジョヴァンニ・ドローゴと一緒にいたルブイエイス・カローンは現行犯逮捕され、警察署に拘留中である。紐タイを模した転送装置は自殺防止のため取り上げられた。それが通信機になっているので旅行代理店と連絡も取れない。取り調べを受けた際に、自分は異世界からの旅行者だと伝えたら、起訴を逃れようと詐病していると誤解された。別世界からの異邦人はありふれた存在になっていると思っていたが、それは一般的ではないようだ。このままでは起訴は免れない、と国選弁護人は言った。殺意は無かったと供述して、死刑を回避すべきというのが弁護士側の考えだった。

「死刑を回避して、どういう刑罰になるんです?」

「無期懲役だね」

「無期懲役?」

「仮出所は無しね」

 何たる不合理! だがルブイエイス・カローンは絶望していない。どうしたら良いのか? それが全然、分からないだけだ。


                  四


 君は海外旅行中に某国で逮捕された。警察署へ連行後、留置場に勾留される。鉄製の分厚い扉、打ち放しコンクリートの壁、太い鉄格子の窓、異臭を放つ薄汚いマットレスと毛布、そして茶褐色の染みがこびり付いた便器の横にミシン目の入っていないシングルロールのトイレットペーパーが置かれた狭い室内の天井から釣り下がる黄色いランプと首吊り死体。それが留置場の中にある全部だった。

 あれ?

 扉。壁。窓。寝具。便所。照明。死体。

 余計なものが最後に一つある。

 あるはずのないものがある。見えてはいけないものが見える。そういったことは、しばしばあること……なのか? 疲れのせいだろう、と君は思い込もうとする。当然といえば当然だ。異郷で突然の逮捕である。神経がやられて変なものが見えるのも、不思議なことではない。

 だから君は体を休めようとした。マットレスに身を横たえる勇気がなかったので、壁際に膝を抱えて座る。そして目を瞑るけれど、気が高ぶって眠れない。瞼を開けると、首吊り死体が見える。嫌でも目に入ってくるので、また目を瞑ろうとして、むきになって両目に力を込めるものだから、逆に心の目が見開かれていく。

 目を瞑っている間に、首吊り死体が床に降り立ち、君へ這い寄って来る……そんな幻覚が君を襲う。

 君は眠るのを諦めた。首吊り死体を虚ろな眼で見つめる。黒いワンピースを着た女のようだ。背中の中ほどまで垂れた髪の色は、はっきり分からない。天井から下がる麻のロープは髪を巻き込んで首に掛かっている。裸足だ。こちらに背中を向けているので、顔は見えない。見たくもなかった。

 そう思ったとき、気のせいか、首吊り死体が半回転したように見えた。君は慌てて目を瞑る。そのとき留置場の室内に耳障りな音が響き渡った。君は両手で左右の耳を塞ぐ。それから人の声が聞こえてきた。

「取り調べを始める」

 日本語を話す、女の声だった。

 首吊り死体が喋った! そう思った君は危うく大失禁するところだったが、少々の失神だけで済んだ、逆だ。もう少しで君は失神するところだったが、少しの失禁だけで済んだ。即ち下半身がびっしょり濡れるほどの尿漏れに至らず済んだのだった。汝、神と尿道括約筋を褒め称えよ! 感謝の意を示すために踊れ、踊り狂え!

 ショックで一時的に正気を失った君は歓喜して踊る。神と自分の尿道括約筋を賛美する感謝の舞は、部屋の何処かに設置された隠しカメラの向こうにいる声の主に衝撃を与えたようだ。怒鳴り声が轟く。

「おい、お前! ただちに踊りを止めろ!」

 そう言われてもトランス状態時の踊りと車は急に止まれない。全身の筋肉が勝手に収縮と弛緩を繰り返す。躍動する肉体は疲れを知らないかのように跳ね回る。しかし実際は物凄く疲労しているのである。これは君にしか分からない。踊りを止めるよう命じた女も君の苦しみは到底、理解できなかった。

「楽しそうだが、そこまでにしておけ。ふざけた踊りを止めないのなら、こちらにも考えがある。その部屋にガスを注入するからな。ガスの効果はすぐに発現する。大抵の人間は眠ってしまう。運が悪いと死ぬ。さて、お前はどちらかな」

 踊りたくないのに汗だくになって踊る哀れな君は慌てて息を止めようとして苦しくなり深呼吸してしまった。万事休す! ガスの効き目はたちどころに現れた。急激に眠くなる。意識が遠くなる。自分を呼ぶ叫び声が聞こえる。

「しっかりして、しっかりしなさい! 気を確かに持って!」

 呼び声に答えて目を開ければ、首吊り死体の女が半回転して君を見下ろしている。叫んでいるのは彼女のようだ。すっかり震え上がった君は、また目をギュッと閉じるも、首吊り女は呼びかけを止めようとしない。

「寝たら死ぬ、寝たら死ぬんだから! 絶対に目を閉じないで!」

 必死の呼びかけとは、こういうものなのだろう。恐怖心を克服し君は目を開けた。

 首吊り女は安堵したようだ。胸の前で両手を合わせ、君に語り掛ける。

「大丈夫、ガスはすぐに薄れていくから、このまま眠らなければ平気よ」

 言われてみれば眠気は前より気にならなくなった。しかし目の前に首を吊った人間がぶら下がっているのは気になって仕方がない。たとえ自分を助けてくれた存在だとしても首吊り死体は……いや、待てよ。助けてくれるのか? そう考えたとき、君は首吊り死体にすがりつきたくなった。溺れる者は藁をもつかむというが、異国の留置場にぶち込まれたら、たとえ幽霊にであっても助けてもらいたくなるらしい。

 そのとき取り調べ担当の女の声が響いた。

「驚いたな。あのガスを吸って立ち上がれる者がいるとは、信じられないよ。動くことさえできないのが普通なのに」

 それから女は「ふふふ」と笑った。

「そうか、お前は忍者、忍者なんだな」

 君は呆気に取られた。忍者だと誤解された経験が無かったからだ。忍者が実在していると信じている人間がいることが信じられなかった、それもある。そして、そんなことをいう者が自分の取り調べる担当者であることも信じられずにいる。これなら、幽霊に助けてもらったことの方が土産話のネタに使えるというものだ……と考えて、背筋が二重の意味でゾッとした。

 幽霊が留置場の同じ部屋にいる、これが気持ち悪い理由の一つ目。

 二つ目は逮捕されて留置場に拘留されていることだ。自分がどうして留置されているのか、さっぱり分からない。君は自分が逮捕された理由を知らされていなかった。犯罪行為に手を染めた覚えはないので、これは何かの誤解か、不当逮捕だ。

 抗議しようとしたら取り調べ担当の女が言った。

「忍者は日本のスパイだそうだな。一般人に変装して他国の情報を入手していたと聞く。道理でなあ、普通の旅行者のふりをして、我が国の機密情報を探っていたのも、忍者ならではのテクニックか」

 君は自分がスパイだと間違われていることに気が付いた。

 それは誤解だ! 自分はスパイではない! 何かの間違いだ! これは誤認逮捕だ! と隠しマイクに向かって抗弁するも聞き入れてもらえない。

 女取調官が「ククク」と薄気味悪く笑った。

「そこに収監された人間は誰もが皆、同じことを言う。これは誤解だ、何かの手違いで逮捕されたのだ、ここから早く出してくれ、とな。出してやることはできる。すぐにでもね」

 君は息を吞んだ。ここからすぐに出られるのなら、それに越したことはないのだ!

 相手は十分に間を置いて言った。

「罪を認めなさい。そうすれば、すぐに出られる」

 なんだ、そんなことでいいのか。君が自分はスパイだと公言しようとした、その時である。

「駄目よ駄目、駄目、言っちゃ駄目!」

 首吊り死体の女が全身をブランブランと揺らして君を制した。目の前でプランプランしている女は意外とスタイルが良かったけれど、それはこの際どうでもいい。ここから出られるのなら何でもする。ああ、そうさ! 自分がスパイでなくともスパイだと宣言するし、罪を犯していなくとも罪を償う。この苦しさから逃れられるのなら、何だってやってやる!

「駄目なの! 罪を認めたら、それで一巻の終わりなの! 殺されるわよ、あなた。スパイは問答無用で処刑されるわ!」

 それがどうした文句はございませ……ん? やってもいない罪を認めようと大きく口を開きかけた格好のまま、君は固まった。君の舌先がレロレロレロレロと巣の中で親鳥に餌か何かを求める雛鳥のように動く。首吊り女の声が聞こえる。

「どんなに脅されても、負けちゃ駄目。気をしっかり持って。強い心で、この逆境に立ち向かうの。流されちゃいけない、自分の意思をちゃんと持つの!」

 吊られた女の言葉は君の心に深く染み入った。言われてみれば君の人生は、他人の意向に従い、世間の流れに逆らわず楽な方、楽な方へと下る一方の生ゴミまたはカスみたいな……いや、生ゴミまたはカスそのものだった。勉強も運動も不得意なのに、努力はしない。無能であることの言い訳に尽きたら時代風潮や国や親のせいにする。骨惜しみして働かない非生産的な自分のことは棚に上げコストパフォーマンスだけを語る評論家の大先生気取りで、異世界転移だか転生だかの代わりに経済力の弱い国で多少なりとも良い暮らしをしようと企んで、このざまだ。おまけに、何様のつもりか知らんが甘い言葉をヒロインに耳元で囁いて欲しいと来たもんだ。どういう了見よ? どういう考えで生きてきて、これからどうするつもりなのか? 直面することを恐れ先延ばしにしてきた問題の答えを今、出すべきなのだ、君は。

 レロレロしていた舌を定位置に戻した君は、飲み込むことさえ忘れ口の中いっぱいに溜まっていた大量の唾液をゴクンと飲み込み、小さく咳払いしてから、自分は犯罪者でもなければスパイでもない、とハッキリした口調で言い切った。一呼吸を置いてから続ける。自分はどのような容疑で逮捕拘留されているのかを、あなた方は説明する義務がある。取り調べをするのなら弁護人を付けてほしい、それから日本の大使館に大至急連絡を取ってもらいたい、昼食はかつ丼が良い、けれども無いのなら無理は言わない、この国の一般的な店屋物で構わない、と。

 四方を囲む壁の一部からガサガサという音が聞こえた。そこにスピーカーがあると君は確信した。その近くへ寄る。他の壁と同じ色だが、その部分は薄い網になっていた。中を覗くと確かにスピーカーらしきものが見える。耳をすませば、ゴニョゴニョと囁く声が聞こえる。何を言っているのだろうか? 耳を近づけたら女性取調官の声が、かすかに鼓膜を震わせた。

「……弱メンタル男子かと思ったけど、予想よりタフね。やっぱり全部、芝居なのよ。どう? 私の予想は当たったでしょ。後は自白だわ。それで本件は解決よ。え、弁護士の同席? ないない、そんなの。日本だってないでしょ? どうせ海外ドラマや映画で覚えただけ。日本大使館に連絡? しなくていいって。電話したところで、あいつら働かないから来ない。旅行者の一人や二人消えたって何もしないのが日本の害務省じゃなかった、外務省」

 外国人とは思えないほど日本の国内事情に詳しいといえよう。君は情報を得ようと更に耳を近づけたが、そこで相手に気付かれた。キィーイーン、ボゥゥウン! という大きな音が鳴り激痛が鼓膜を打つ。君は耳を抑え、舌打ちをして後退りした。聞き耳を立てているところを見られたのだ。

「はーい、はい。おとなしくしていて」

 おとなしくしていたところで、何も解決しないと君は悟った。ここで足掻けるだけ足掻かねば、この地獄から抜け出せないのだ、と! 君は再び要求した。逮捕拘留の理由説明、弁護人との面会、日本大使館への連絡――だが、相手は君の求めに応じなかった。

「逮捕拘留はスパイ容疑であると説明済み。弁護士も日本大使館も、呼んだとしたって何の役にも立たない。あいつらは金持ちのためにしか働かないの。貧乏な一般旅行者のために、警察署まで来てくれるはずがないでしょ」

 スパイスパイというが、自分がどんなスパイ活動をしたというのか、君は尋ねた。

「歩いてはいけないところを歩き、立ち入ってはいけない場所に入り、話してはいけない相手と話をして、撮影禁止地帯で写真を撮り、我が国に持ち込んではならない物を持ち込み、持ち出してはいけない物を持ち出そうとした」

 知らなかったのだ、何も知らなかったのだと君は言う。

「言い逃れが出来ないことは、他にもあるわ。貴方は殺人の罪を犯した」

 君は自分の耳を疑った。全神経を聴覚に集中する。

 スピーカーから小さな笑い声が流れているように聞こえた。君は先程の一件を苦く思い出しながらスピーカーに近づく。警戒を緩めず、いつでも退ける姿勢で、壁の中のスピーカーに耳を傾ける。女性取調官の声が、まるで小鳥の囀りか優しい鈴の音のように耳元で響いた。

「下手な嘘はおやめなさいな。世界の真実に身を委ねるのです。今から私が話すことが事実、揺るぎのないリアル」

 蕩けるような声に君は鼓膜が溶けるかと錯覚した。彼女は続ける。

「空港に到着してからの貴方の動向は、すべて把握しているわ。我が国に入国した貴方がまず向かったのはタクシー乗り場。タクシーへの乗車を待つ人の行列に並ぶかと思いきや、そこを通り過ぎて、行列から離れた場所で人待ち顔の男にゆっくりとした足取りで近づいた。その男性は自分に迫って来る貴方に注意を向ける。でも、それはほんの少しだけ、遅かった。貴方は左手をピストルの形にして相手の男に向けた。人差し指を突き出し、口を尖らせて、貴方は呟いた。バン! とね。すると貴方に指を向けられていた男に異変が起きたの。まず胸を片手で抑え、それから苦しげな様子で、両手で胸や喉を搔きむしるように動かして、口から白い泡を吹き、次に仰向けに倒れ、そのまま息絶えた。貴方は自分には関係ないことのように、その場を行き過ぎて、そのままバス乗り場へと向かった。周囲で起きた騒ぎには無関心を装ってね」

 君は自分の左手に目を落とした。手の甲を見て、掌を広げ、人差し指の先を右手で揉むと、パッと離した。何も起きないし、何も変わらない。女は話を続けた。

「その男の正体を貴方は知っているわけだから、話すのは無駄でしょうけど――事情を説明してほしいというから伝えるわ。何も知らないふりとか、しらばっくれるのは無意味だから、時間の無駄だからやめてちょうだいね」

 君は話を続きを身振りで促した。女は言った。

「その男は我々の仲間、私服の警察官だったの。我が国にとって好ましくない立場だけれど、入国を表立って拒否することが困難な入国者の行動をチェックするために、空港前で待機し、そこから尾行を開始するのが彼の任務だったのよ。それを貴方は、謎めいた力で殺害した。おかげで尾行の対象者はまんまと逃亡したわ」

 君は嘲笑った。スピーカーの向こうの女性は、君の嘲笑に気を悪くした様子もなく――あるいは無視を決め込んだのか――話を再開した。

「バス乗り場へ向かった貴方は、タクシーを使わない貧乏旅行中のバックパッカーや地元の人間と一緒にバスを待ち、それから空港発首都行きの路線バスに乗り込んだ。ほとんどの外国人は空港から首都へ直行するシャトルバスを利用するのだけど、貴方は違った。タクシーを使うと足取りを拾われやすいと判断したのかしらね。でも無駄なことだったわ、貴方の動きを警戒して監視体制を短時間で構築したの。うふふふ、褒めてくれても構わなくってよ」

 突然のお嬢様チックな話しぶりに困惑しつつも、君は両手で乾いた拍手を送った。

「どうもどうもサンキューベリーマッチ。我々の監視網に気付かなかった貴方は、隣に乗り合わせた農家のおばちゃんと話をしたり、反対側の座席に座った子供とお菓子を交換していたけど、我々はそういったことを全部観察していたの。そして貴方が何処に向かおうとしているか探ったわ」

 君は胸のポケットから小さな箱を取り出した。箱を開き、中からホヤの干物を一つ取り出す。口に入れて噛みしめる。癖はあるけれど味わい深い。この燻製の良さを、日本人でも分からない者がいることが、君には信じられない。

 女の話は続く。

「貴方は首都から離れた場所でバスから降りた。そこからしばらく歩いて、スラム街に入った。他国からの観光客は勿論、良識というものを持ち合わせているのなら地元の人間だって足を踏み入れようとはしない場所よ」

 この国の貧困を象徴するスラム街は国家の定める法律ではなく悪徳と暴力が生み出す独自のルールによって統治されている。強大な国家権力の支配が及ばない地域なので、無法者にとっては住み心地が良い。善良なる市民にとっては無関係な土地のはずだが、善人面ぜんにんづらをしているだけの悪党には心惹かれるものがあるようで、夜の明かりに吸い寄せられる羽虫のように貧民窟へ足が向く。麻薬、売春、さらなる悪事の相談と、闇の経済を回すために腹黒いビジネスマンが大車輪の活躍だ。そんな危険な場所を、君はどうして訪れたのか? その答えを知るために君を監視していた者たちは、スラム街に潜り込ませた密偵団に連絡を取り、君の調査を継続させた。

「貴方は、この国に入国したのは初めてだった。当然、スラム街を訪問したことなんて一度もないはず。それなのに、長年住んでいるみたいな足取りで、あるいは、生まれてからずっと住んでいたけど、しばらく留守にしていて、久しぶりに里帰りした人間のような気軽さで、入り組んだ街を歩いていたそうね。物騒なところなのに、怯えた様子が全然なかったって、密偵たちが驚いていたそうよ」

 人がいない場所だと鼻歌でスキップしていた、とまで彼女は言った。見ている方が恥ずかしくなった、とのこと。まるで遠足気分ね、と女は笑った。君は一緒に笑いたくなったが、止めた。

「貴方が向かった先は、政権転覆を図る反社会的勢力のアジトと噂されている廃工場だった。外国人が立ち寄るような場所では、勿論ない。ただし、その反社会組織が我が国と敵対する外国勢力とのつながりが疑われている場合は別だ。貴方は、我が国を崩壊させようと企む邪悪な秘密結社への特使として、ある国から派遣されてきたのではないか?」

 ある国、であって日本と名指ししていないことが、君は気になった。聞いてみると彼女は答えた。

「その国家が日本である可能性は否定しないよ。その可能性は当然あるのだ。けれど、我々はこうも考える。貴方のパスポートが偽造されたものではないか、と。貴方から没収したパスポートを精査中だが、その疑いはあると鑑識班は言っている。貴方が本当に日本人なのか、日本大使館に問い合わせてみたらどうかと思うよ。大使館に連絡されたら、困るのはどちらなのかな?」

 君に答える義務は微塵もない。話を続けるよう日本語で促す。

「それから貴方はスラム街を出た。そして我が国の国内各地を回る。外国人の立ち入りが禁じられている地域にも潜入し、写真撮影が厳禁の軍事施設や発電所などの映像を撮った。貴方の行動をサポートしていた連中がいたことは判明している。空港で貴方が私服の刑事を殺したことで、簡単に入国できて自由に動けるようになった人間が恩返しをしてくれたみたいね。悪い国際親善だわ」

 そんな話は一切合切、出鱈目だと君は主張した。相手は取り合わなかった。

「証拠写真が何枚もあるわ。見る?」

 壁の一部から映写機の光が出てきて、反対側の壁に映像を映した。そこには確かに君の姿が映っていた。いつ撮影されたものなのか、記憶がない。そこで君は、これは自分に似ているが別人だと言った。その答えを聞いて、取り調べをする女は苛立った様子である。

「別人? これが? どう見たって貴方本人でしょうが」

 他人の空似だ、と君は潔白を唱える。うんざりした声で女は言った。

「自白しないなら拷問を考えないといけないわ。頭を冷やして、一晩よく考えて」

 そして取り調べは終わった。鉄製の扉の下部に小さな開口部があり、そこからパンと水の入ったコップを載せたトレーが出てきた。これが食事らしい。食欲を感じなかったが、そんな粗末な食べ物でも見ているうちに空腹を覚えた君は、トレーに手を伸ばしかけて、ビクッと手を止めた。毒入りじゃないだろうか? 毒ガスを室内に注入する連中だ、料理に何を入れるか分かったものではない、という疑いが湧いてきたためだ。

 そんな君の様子を観察していたのだろう、スピーカーから女性取調官の声がした。

「何も入っていないから安心して。それと例の怪しげな術を使うのは止した方が良くってよ。指鉄砲の格好をしたら射殺するように警備へ通達済みだから」

 お言葉に甘えて、君は食事を摂ることにした。パンと水だけなので、料理とは呼べないのかもしれない食事内容だったが、口に入れたら意外と美味しく食べることができた。量が少ないのは不満な点だ、お代わりが欲しいな……と考えていた君は、急に具合が悪くなり白目を剥いて卒倒した。当初の予想通り、一服盛られたようである。

「毒であっさりと気絶している場合じゃないでしょっ! もう、しっかりしてよっ! あなたは伝説の勇者様なんでしょう? この国を救う神の代理人エージェントなんでしょう? どうか立ち上がって……お願い、私たちを助けて……」

 首吊り女の声は、最後の方は涙声だった。女を泣かしておきながら、呑気に気絶しているわけにはいかない。君は死の淵から蘇った。

 目を開けた君を見て、首吊り女は首を吊った縄が切れんばかりに狂喜乱舞した。

「やっぱり、やっぱりそうなのよ! あなたは伝説の勇者なのよ! もう疑わないわ! 何だか物凄く頼りない感じがするから、ずっと疑っていたけど、謝るわ。本当にごめんなさい」

 謝られるようなことはされていないし、頼られるようなことは何もしていない自覚のある君は、返答に窮した。そもそも分からないことだらけで、何を言っていいのかも分からないくらいだった。それでも自分がスパイだと疑われて逮捕拘留されていることは分かった。しかし、女性取調官が言ったようなことをやった記憶が君には全然ない。誰かと間違われているのだと確信を持って言える。絶対に警察当局の勘違い、誤認逮捕なのだ。自分に瓜二つのそっくりさんがこの国の何処かにいて、そいつが指鉄砲でバン! とやったりスラム街に乗り込んで反政府組織の人間と接触したり機密情報を入手していたのだと君は考えた。もしかして自分には、生き別れた双子の兄弟がいるのかもしれない。その辺のところを首吊り女は知っているのかも……と思い、君は彼女に事情を聴いてみたくなった。

 それでもやっぱり幽霊との会話は怖い。自分を処罰しようと一生懸命な異国の女性取調官との会話も嫌だが……霊に憑りつかれるのと死刑になるのを比べたら、若干ながら前者の方が選ぶ余地ありだった。

 何か事情を知っていたら、話してほしい。君は、そう呟いた。

 首吊り死体の女は、君から話しかけられて喜んでいる様子だった。首に巻き付いたロープを器用に伸ばして天井から床に降りてくると、君の隣にちょこんと腰を下ろす。君にささやきかける。

「この国には伝説があるの。汚職と悪政がはびこり民衆が苦しむとき、伝説の勇者が異国から現れて不当な権力を握る上流階級を打倒する。その伝説の勇者が、あなた」

 あまりにも漠然とした話である。自分が救国伝説の主役だと聞かされても、まったくピンと来ない。その伝説は、一体どんな伝説なのか? もう少し具体的なところを教えて? と君は聴いてみる。

 物凄い超能力でバンバンやるの、と女幽霊は言った。何が何だかさっぱり分からないが彼女が語彙力に乏しい感じなのは、薄々理解できる君なのだった。

 君は質問の方向性を変えてみることにした。どうしてここにいるのか? どんな事情で首吊り死体の幽霊になってしまったのか、と尋ねる。

「昔、昔、もう遠い昔のことよ。私は、この国の王女だったの。とても大切にされていたわ。誰からも愛されていた……と思っていたけど、実は違ったの。私を追い落とそうとする邪悪な陰謀がひそかに企てられていたのよ。ああ、私はそれに気付かなかった。そう、あれは私の十六歳の誕生日だった。私はあの日、世界で一番幸せな十六歳の女の子だったと思うわ。誕生日を迎えただけじゃないの。その日は、私の婚約発表の日でもあったの。相手は隣国のプリンス、王位継承順位は第一位の皇太子様よ。とても素敵なお方だったわ……でも、私たちの結婚はかなわぬ夢物語で終わってしまった。私は突然、逮捕されたわ。逮捕容疑はプリンス様の暗殺を企んだこと、ですって! そんなこと、私がするわけないじゃない! 彼を心の底から愛していたのよ。そんな私が、暗殺計画の首謀者なんて、ありえない、ええ、ありえないでしょう! それなのに、当時の国王陛下であらせられた私の父君は隣国との関係悪化を懸念し、私を牢に入れたわ。それが何よりも悲しかったわ! あのお優しいお父様が、私の言葉を信じて下さらず、牢屋に入れるなんて、あんまりよっ! そして裁判が始まり、私の有罪が確定したわ。斬首ですって。でも、でもね、私の誇りは処刑されることを許さなかった。だから私は、自分の意思で首を吊ったの。誇りを守るために自殺する、それこそが高貴なる血を受け継いだ王族の誉れだと思いませんこと。ええ、私の代で王族は滅んだと考えて間違いはございません。私の一族がどうなったか、ご存じ? 悪事に精を出して、挙句に王国を失ったわ。そう、私を破滅させた方々が国を滅ぼしたの。死んでから、首吊り死体の姿で国中の天井からぶら下がって、私は真実を知りました。私を追い落とそうと企んだのは、私の身内だった。私の意地悪な異母姉も、彼との結婚を望んでいたの。異母姉は権力拡大を狙う有力貴族や宗教勢力そして大商人と結託し、嘘の証拠を固めて私を逮捕させた。そして私の王子様を毒殺、そして自分の父親である国王陛下をも殺害して両国の最大権力者となったわ。自らの欲望を満たすため殺戮に次ぐ殺戮の嵐を巻き起こして大混乱を招いた異母姉は反対勢力のクーデターに倒され断頭台の露と消えた。それでも平穏な日々は戻ってこない。理念なきクーデター、権力闘争でしかない革命劇が繰り返され、独裁政治の代名詞みたいに国外で紹介されるのが、この国、私の母国」

 首吊り死体の幽霊は話を終えた。彼女が隣に座ったときは死臭を警戒したが、今は甘い女性の香りがして、心が弾む君だった。命を二度も救ってもらった礼もある、何か彼女の力になってやりたいと、君は心から思った。

 しかし何をどうしたらよいのか、それが分からない。女の幽霊は君を救国の英雄だと言い、女性取調官がスパイと決めつけているけれど、自分はそんなものではないのだ。

 それでも首吊り幽霊は君に期待しているようだ。甘く蕩けるような声で囁く。

「こんなの不条理な話だと思うわ。スパイだと疑われて不当逮捕されて、拘留された留置場には大昔から死ねずにいる幽霊がいて、なんてそんなの、出来の悪いカフカとかカミュの小説だもの。迷惑をかけているって感じてる。反省しているの。それでも、ね。私はあなたを信じてる。私はずっと、あなたを待っていたの。きっとあなたは、私の王子様なのよ。私のプリンス様は、本当はあなただったのよ」

 隣に座る首吊り女を、君は見つめた。首の縄さえなければ、素敵な女性に思えてくるから不思議だ。いや、ロープもファッションだと考えれば無問題か? と君は思う。多様性が叫ばれる時代でもある。首吊りの縄もおしゃれだし、恋人が幽霊というのもありかも? それに考えてみれば、こんなにまで異性から頼られることなどなかった。何がどうなるか知らないが、異国の土になるのも故郷の墓に入るのも、死ぬのは一緒。それならば命の限り暴れてみるのも悪くあるまい?

 君は試しに左手を指鉄砲の形にしてみた。女幽霊の首から天井に伸びている縄に向けて人差し指を向ける。バン! と呟く。縄がブツリと切れて落ちてきた。首吊り女と顔を見合わせる。彼女は瞳を輝かせて言った。

「勇者様だわ、あなたは私の勇者様なのよ!」

 彼女にいきなり抱きつかれた君は、両手をどうするか、大いに悩んだ。その手で彼女を優しく抱きしめるべきか、それとも力強く押し倒すべきか……と判断に苦慮する時間が短かった。短機関銃サブマシンガンを構えた警察官数名が室内へ突入してきたのだ。君はとっさに女幽霊をかばった。幽霊に銃弾が命中しても大きな問題は発生しないだろうに。

 スーツを着た若い女性が警官たちの前に立った。彼女は小さな穴の開いた天井を見上げて呟いた。

「カメラ越しに見たときは到底信じられなかったけど、実際に開いた穴を見れば信用するほかないわね」

 そして彼女は言った。

「今ので貴方が殺人犯のスパイだと確定よ。記憶がないとか人違いといった言い逃れは、もう通用しないわ」

 スピーカー越しに聴いた声だった。君が想像していたより声の主は美人だったと書いておく。

 自分は二重人格で、それは病気だから無罪! という新たな言い逃れを思いついた君だったが、言わなくても良いかな、と思い直す。そう、君は思い出したのだ。自分には別の人格があり、オンとオフのスイッチが入るように人格が切り替わるのだと。今の人格のときは、別人格の記憶がないようだ。だから殺人や諜報活動について君は何も覚えていなかった。だが、今は違う。逮捕され幽霊と出会いガスや毒入りの食事で生死の境をさまよっているうちに、両者の境界線が消失してしまったらしい。

 それでも両人格は完全に混ざってしまったわけではないらしい。君の心の奥底で、君の別人格が「全員を指鉄砲の連射で射殺しろ」と主張しているが、君は人殺しを好まない。人を指さす行為は失礼に当たることも知っている。だから君は両手をゆっくり肩の高さに上げて、自分に銃を向ける警官たちに言った。

「降参するから撃たないで」

 次の瞬間、君は掌から人間を眠らせる怪電波を発射した。無音であり強い衝撃波が発生するわけではないが、人間ならば確実に眠る技である。指鉄砲のテクニックをとっさに応用して編み出した技で、上手くいくか不安だったけれど警官たちは眠った。一人だけを除いて。

 君の後ろから首吊り王女が顔を出し、自分の目の前に立つスーツ姿の若い女を見て呟いた。

「お姉さま……」

 幽霊からお姉さまと呼ばれた女の目にも、幽霊は見えているらしい。彼女はニコッと笑った。

「久しぶりね」

「どうして、お姉さまが、ここに」

「天国にも地獄にも行けず、この世を彷徨っているのよ……お互いに、ね」

 先程の話題に出た異母姉が、この女らしいと君は察した。女取調官は首吊りの女幽霊の異母姉で、断頭台の露と消えたはずの悪女だったのだ。二人とも、さっさと気づけよと思わざるを得ないが、それはこの際どうでもいい。前後を幽霊に挟まれている君は、この期に及んで怖くなってきた。それでも、自分は伝説の勇者なのだと自分自身に言い聞かせて、勇気を振り絞る。君はスーツの女に優しく言った。

「どうしてこんなことをする? 君は死んだんだ、迷わずに、あの世へ行け」

 彼女は妖艶に笑った。

「私はこの国に憑りついているのよ、この国の何もかもが憎いの」

 彼女の妹が憎々しげに言った。

「あれほど好き勝手なことをやっておいて、その言い草は何なの!」

 スーツの女が一歩前に出た。君の背後にいた女幽霊も、君の陰から出てきた。睨み合う二人の間に立って、君は仲裁を試みた。

「待って、話し合おう」

 無駄だった。姉妹は君をなぎ倒して戦いを始めた。あまりにも激しい戦いで留置場の壁が崩れ、鉄製の扉が壊れ、床が抜けた。二人は床に空いた穴に落ちてからも戦い続けた。そのうち警察署全体の崩壊が始まった。君は這う這うのほうほうのていで警察署から逃げ出す。やがて警察署の残骸から火災が発生した。火の手はあったという間に広がり、首都は炎に包まれた。騒ぎに乗じて革命勢力が武装蜂起した。大規模な衝突が国内各地で起こり、大混乱の末、臨時政府が樹立された。その首班として海外にも報道された美人姉妹が、首吊り死体の女と、その異母姉だったことは君しか知らない。あれだけ不仲だった姉妹が協力して統治した結果が出て、その国の経済状態は急速に改善し、今や奇跡の国とまで称賛されるようになるとは、救国の英雄である君も想像できなかった。今は日本に戻った君は、遠くから二人姉妹の活躍を眺めているだけだが、それでも自分の活躍があったからこその話だと思いながら、いつの間にか使えなくなった指鉄砲の格好をしてみるのである。


                  五


 借金の取り立てから逃れるために地底へ向かう男が二人。進退窮まった者にありがちな話だが、さらにまずい方向へ向かっている。逃げた先は軍隊が戦時中に使用していた防空壕だった。本土決戦に備え廃坑を改造して建設された巨大な構造物だが所詮は袋小路でしかない。末端まで進んだところで、そこは行き止まりだ。そんなところへ身を隠して、一体どうなるというのか? 文字通り、袋のネズミだ。先の見通しなどまったく立てられないオツムだからこそ借金で首が回らなくなるのだ! と説教しても始まらない――この物語を含めて、何も。

 実を言えば、何の勝算も無く地の底へ行進しているのではない。彼らなりの目算があったのだ。その目算とは全体一体、何なのか? 言えない。決して言えないのだ。その時が来るまで、それは言えない悪しからず。

 その時が思いのほか早く訪れた。男たちは防空壕の最深部へ到達したのだ。二人は懐中電灯に照らされた切場《きりば》を見た。岩盤で塞がっている。最早もはやこれ以上の行き場は無いのだ。

 絶体絶命の状況にもかかわらず、二人の男は会心の笑みを浮かべた。ここが彼らの目的地なのだ。二人は懐中電灯を消し柔軟体操を始めた。それから衣服を脱ぎ全裸になって体中に香油を塗りたくる。そうやって準備を整えると、二人はボディービルのポーズを次々と決めてきた。なるほど、二人とも鍛え上げられた良い体をしている。だが、借金取りに追われて逃げ込んだ防空壕の奥深くでするべきことではなかろう。まして、光の届かぬ暗闇の中である。誰が二人を見るというのか? 奇妙なことは他にもある。ポージングをしている最中、二人は無言だった。力を込める瞬間も決して声は出さない。ボディービル大会でお馴染みの掛け声は当然、聞こえない。二人は実は防空壕跡地に入ってから、一言も言葉を交わしていなかった。これは無言の行なのだ。会話は勿論のこと、意味のない呻き声や叫びすら発してはならない。その上で、かくも愚かしい振る舞いに興じなければならないのだ。

 どうして、こんなことをしなければならないのか?

 その質問の答えは、やがて判明する。

 いつ分かるのか?

 突き当りの岩盤に亀裂が走り、そこから強い光が漏れ出てきた今、今である。

 二人の男は一瞬、ポージングの動きを止めた。そして両者、無言で目配せをする。それから何事もなかったかのように筋肉アピールを再開した。胸中の思いは共通だ――やはり噂は本当だったのだ。俺たちは遂に辿り着いたのだ! 伝説の女人国にょにんこくに分け入る岩戸は、ここにあるのだッ!

 高天原たかまのはら、たかまがはらにあるとされる天の岩戸は良く知られているが、それ以外にも岩戸はあって、それがここにある……と両名は言っているのである。天の岩戸は天照大御神あまてらすおおみかみが閉じこもったことで有名だ。二人の言葉を信じるなら、ここの岩戸は伝説の女人国に通じているのだそうだ。女人国とは、女性だけが暮らしているという想像上の国で、西のアマゾネス東の女護ヶ島にょごがしまといった具合に洋の東西を問わず伝承が残っている。

 地底に女人国があるという伝説は、この地方には昔から言い伝えられていた。山奥で鉱山を掘っていたら女人国の女が「山を荒らすな」と怒り心頭のご様子で武器を持って大勢出てきたので急いで逃げたとか、繁殖期になると女たちは里へ現れ男を誘惑して女人国へ連れ去るとか、色々あるが近代に入ると信じる者は皆無となっていた。

 それが防空壕建設で廃坑の拡張工事を開始したら、労働者の間で女人国の噂が一気に広まったのである。発破を掛けたら女の悲鳴が聞こえた、女がいないはずの坑道の奥で女の姿を見た、等の幽霊話から始まって土地に伝わる女人国の伝説が語られるようになるまで、それほどの時間は掛からなかった。

 多くの労働者が工事現場に入るのを恐れるようになるに至って、工事を請け負った企業も対策を考え始めた。労働者を脅して地下深くへ追いやる以外に特別な対策はなかったが、賃金を払わないと言われたら雇われ者は幽霊だろうが女人国だろうが現場へ入るしかない。そして、遂に労働者たちは廃坑の最深部に到達した。そこで彼らは女人国からの使者と名乗る異形の物体と遭遇したのである。

 その怪物がどのような外見をしていたのかは正確には伝わっていない。それを見た者は皆、既に物故者となっているし、敗戦時に軍部が目撃証言を記録した資料をすべて焼却したので、曖昧なことしか分からないのだ。分かっているのは、女人国からの使者が工事の即時停止を求めたこと、そして工事責任者と会合を持ち、何らかの条件を飲めば工事の継続を認めるまでに姿勢を和らげたこと、地表側から話し合いを希望するときは女人国に対する敬意を示すため無言で坑道の最深部までやってきて、裸になって逞しい男性の肉体美を見せつけるように伝えたこと、これぐらいである。

 地上の側から女人国へ会合を求める呼びかけは行われないまま終戦を迎えたので、工事とマッチョむんむんポージングの機会は永遠に失われた……はずだった。それがどうして二人の男が全裸でポーズを決めているのか? 話は少し遡る。この二人は、とある町のオカマバー(この物語の頃にはゲイバーという洒落た呼び方はなかった)で働くカップルだった。そのオカマバーのオーナーは戦時中に建設会社の現場責任者をしていて、防空壕建設現場で起きた女人国に関する奇怪な事件の噂を知っていた。当時はまだオカマが暮らしにくい時代だった(今もそうかもしれない)。そんな時代に生きるオカマにとって、女しかいない女人国は女だけでなくオカマにとっても天国ではあるまいか? 借金苦のせいで、とうとう自殺まで考えるほど気持ちが衰弱していた二人の男、ターヤ49歳とキジィ29歳は、そんな風に考え、オカマバーの売り上げを持ち逃げして旅費を作ると伝説の地、つまり地下の女人国へと出発した。その旅路の果てが、ここ、廃坑の最奥だ。

 この説明が終わると共に、廃坑の突き当りの岩盤が崩れた。そこから放たれた強い光に、ターヤとキジィの目が眩む。光の中から現れたのは二人より背が高くスタイル抜群の遮光器土偶だった。遮光器土偶は言った。

「よく来たわね。長いこと待っていたわよ。生贄はあんたたち?」

 無言の行を破っていいのか分からなかったので、二人は沈黙を守った。それが肯定と受け取られたようである。自分たちは生贄ではないと言うべきだったかと二人、後になって思わなくもなかったが思ったところで後の祭りというものだ。

 遮光器土偶は両目から怪光線を発射した。その光線に包まれたターヤとキジィは、あっという間に美少女へ変身した。遮光器の巨大なガラス面に映る自分たちの姿を、二人は信じられないという面持ちで見つめた。そうなったら、もう沈黙を守ってなどいられない。本性が露呈する。

「ちょっとナニコレ! 何なのよ!」とターヤ49歳。

「あたしのストロングなボディーが、こんな惨めなものに成り果てちゃうなんてサ……もう信じられないっ」とキジィ29歳。

 その後も二人は甲高い声でキーキー喚き散らした。マッチョマッチョしていた時はためらうことなく全裸となって自慢のわがままボディーをこれでもかぁん、これでもかぁん! と言わんばかりの勢いで過剰に見せつけていたというのに、生まれたままの姿の可憐な美少女になった今はというと右手は胸、左手は腰を隠し心なしか前屈みになっているのは、とても可愛らしくって糸岡氏じゃなかった、いとおかし。

「あんたたち、うるさいわよ。ちょっと静かにおしよ」

 遮光器土偶が注意したが、ターヤとキジィは黙らない。

「どうしてこんな小娘になってんのよ」

「聞いてないわよ、マジで聞いてないわよ」

「話してあるわよ、忘れてんじゃないの。それとも、あんたたちバカぁ?」

「馬鹿にしないでよ、馬鹿じゃないわよ」

「あたしたちのグンバツなボディーを返してよ返してよ、早く返してよぉん!」

 うざくて可愛いウザカワイイ系女子を略してウザカワと呼ぶ地方があるようだが、そこに女人国は含まれているらしい。遮光器土偶は言った。

「あ~のね、ウザカワの系統はね、もういるのよ。キャラクターの個性を立てたいのならねえ、別のにしたら? 個性を際立たせる何かがあるはずよ、あんたたちにも」

「あったのよ、あったから言ってんじゃない」

 ターヤはリュックサックの中から思い出のアルバムを取り出し遮光器土偶の顔の前で広げて見せた。

「これは日本版『ロッキー・ホラー・ショー』の舞台オーディションで撮ったもの。ウチとキジィの二人で受けに行って、最終選考まで残ったのよ」

 キジィが合いの手を入れる。

「そうそう、あたしたち、もうちょっとだったのよ」

 遮光器土偶は冷たく言った。

「最終選考まで残っただとか、あと少しで合格したのに、なんてのはね、何の自慢にもならないの。受かった者と落ちた奴の違いは天と地より大きいわ」

 もうすぐ50歳になるターヤは肩を落として負け続けた人生の書をリュックサックに戻した。アラサーだが気持ちは若いキジィは、まだ未来に若干の希望を抱いていたので、遮光器土偶に食って掛かった。

「そんな言い方しなくたってイイじゃないのさ! これからよ、あたしたちは、これからなの! だから返してよ、あたしたちの体を返してったら!」

 遮光器のガラスをキラリと光らせて、土偶は言った。

「取引したでしょう。工事を続けたいのなら人身御供ひとみごくうを差し出しなさいって」

 人身御供の意味が分からないので、キジィは薄ら笑いで肩をすくめた。その意味を知っているターヤは遮光器土偶をじっと見つめた。

「生贄って言ったわよね、さっき」

 遮光器土偶の巨大な頭が小さく上下した。

「言った」

「ウチらの元の体は、生贄になったの?」

「なった」

「あの体は、取り戻せるの?」

「知らない」

「知らないって、どういうこと!」

「ちょっと唾を飛ばさないでよ。担当が違うから、知らないんだって」

 事の次第が分からず話に食い込めずにいたキジィだったが、生贄と人身御供が同じ意味だと、やっと理解した。鼻息荒く遮光器土偶に突っ掛かる。

「あたしたちの体が生贄になったってことは、神様とか何かの餌にでもされちゃったってことなの?」

 土偶は太い首を左右に振った。

「餌ではないわねえ」

「何になったのよ!」

「女たちの玩具」

「女たちの遊び道具って、何なのよ?」

「さあねえ? あたしは詳しいことまでは知らないけど、あんたたちの体を使って、女たちはエッチなお人形遊びとかお医者さんごっことかしてんじゃないのかしら」

 外側は美少女で中身はオカマゲイの二人は顔を見合わせた。声を揃えて悲鳴を上げる。

「イヤーッ! キモキモキモキモキモファウーゥッ!」

 遮光器土偶は呆れた。

「声を合わせてキモキモ言わなくたっていいじゃないのよ」

 ターヤは全身をプルプル震わせた。

「ウチ、女に体を触られるの、絶対に嫌なの」

 顔を含む体中に鳥肌が生じたキジィは、見る間に増殖している粟粒を嫌がる土偶に示しながら言った。

「あたしなんて見てよ、これ。女があたしの体を弄り回しているって思った瞬間に、もう出たわよ蕁麻疹じんましん

 どうにかしてよ! と詰め寄られ遮光器土偶は困り果てた。

「前回の会合で、話はついているって聞いて来たんだけど」

 大規模な防空壕の建設工事即時中止を通告するため、女人たちの地底国家は異形の外交団を工事現場である廃坑へ派遣した。その使節団と接触した工事責任者は工事の継続を認めてもらう代わりに、女人国が要求する人身御供の供給を約束した。平和な時期であるなら生贄の提供など許されないが、何しろ戦時である。人命よりも勝利が大事なのだ。かくして労働者の中から候補者の人選が秘密裏に進められたが、生贄を捧げる前に終戦となり、残虐な儀式は施行されなかった。工事に関する秘密資料は連合軍が来る前に軍部が焼却したので占領軍総司令部は何も知らなかったし、正気を疑われることを恐れ関わった工事関係者は戦後になっても口をつぐんだままだった。

 一方、女人国の住人は約束を忘れていなかった。ある日突然工事は中止となり地底に平安は戻ってきたけれども、それでも生贄は欲しいのだ。一日千秋いちにちせんしゅうの思いで人身御供となる男を待ち続けて、遂に来たのだ、その日が!

 概ね上記のような説明を土偶から聞いて、ターヤとキジィは納得したかというと、全然しなかった。

「そんなの知ったこっちゃないわよ! ウチらの体を好き勝手にしないでよ!」

「何だか目が見えにくくなってきたんだけど、ちょっと見てよ、目玉にもブツブツが出来てきてない?」

「そもそもよ、どういう理屈で女体化してんのウチら。魔法? 仙術? 科学?」

「息苦しくなってきたんだけど、あんたのとこで医学って発展してる? やばいわ、ゼーゼーしてきた。救急車呼んで、早く! 救急車あぁぁぁぁぁ……」

 キジィの顔色が見る間に悪くなってきた。高度のアレルギー反応で呼吸状態が悪化したのだ。ターヤは慌てた。キジィが喘息持ちであることは知っており、その発作を見たことは何度かあるけれど、ここまで酷いものは初めてだった。

「しっかりして! 救急車ったって、あんた。ここは山奥の廃鉱よ、山の中の地の底まで救急隊は来ないでしょ」

「ぞ……んんあな、こと、いっだ、言ったっでえ……し、じ、死ぬぅ……」

 土偶は宣告した。

「女人国は穢れなき清浄の土地。死人は穢れなので死ぬなら別の場所へ」

 ターヤが切れて怒鳴る。

「酷い!」

 土偶が言い含める。

「何を言っているの。本来であれば生贄となった段階で心は消去、つまり肉体は残るけれど精神的には死んだも同然の状態になるところを、それでは哀れということで、代わりに美少女の体を供与してあげたんじゃないの。実質的にはね、あなたたちにも十分なメリットがあるはずよ。その発作は精神的なものでしょう? それなら、ここを離れたら良くなるんじゃないかしら。せっかく手に入れた美少女の体を生かして、新しい人生を生きてみることを強くお勧めするわ。どうせさあ、ろくな生き方をしてこなかったんでしょう? ちょうど良い機会なんだからさあ、やり直しなさいって。バカなりに」

 土偶の余計な一言のせいでターヤの怒りは収まらないどころか火に油を注ぐ結果となった。

「失礼なこと言わないで! 人を何だと思っているのさ! もしもキジィが死んだら、あんたたちのこと、絶対に許さない。絶対よ! 覚悟しなッ!」

 顔を真っ赤にしてギャーギャーうるさいターヤの横に、土気色の顔になりつつあるキジィがゼーゼー言いながら座り込んで動けずにいる。

 そんな状況は、長くは続かなかった。とうとう遮光器土偶が折れたのだ。

「しょうがないわねえ。それじゃ女人国へ連れて行ってあげるけどさ、どうなっても知らないわよ」

 遮光器土偶は、自分だけさっさと光の中へ消えた。ターヤはへたり込んで動けないキジィを立たせようとしたが駄目だった。肩を貸して助け起こすもキジィはそこから一歩も歩けない。やむなくターヤはキジィを背負って光の方へと歩き出した。男の体だったときと違い、キジィの目方は軽かった。しかし少女の体に変化した結果、筋力が低下したターヤにとっては重かった。

 背負われているキジィが、呻吟するターヤの耳元で囁いた。

「ごめんなさいね、迷惑をかけてしまって」

 喘ぎながらもターヤは笑う。

「この苦労のお返しは、後でたっぷり払ってちょうだいよ」

 二人が恋人同士であることは、既に触れた。年齢は親子ほども離れているけれど、互いに深く愛し合っていて、良いカップルだった。二人の付き合いは、かれこれ五六年になるだろうか。出会いの瞬間から二人は恋に落ちた、というわけではない。当時ターヤは中学校の教員で、妻子もあって、仕事は熱心で夫婦仲は悪くなく子煩悩な善き父親ではあるが、家族がいないときに時折こっそりと女装する、その程度の変態で、自分の中に秘められた同性愛の傾向は意識していなかった。一方キジィは小学校高学年の頃から、自分は男が好きだと自覚していた。中学校に入ると同じ嗜好を持つ相手を探すために積極的な活動を始め、そういった男性――同年齢の相手は見当たらず、主に年上だった――とタコ足で交際するようになっていた。あるとき、それらの交際相手の一人から複数の交際を止めるように命じられ、それを拒否したら酷い暴力を振るわれて入院したことが切っ掛けとなって性癖が周囲に発覚してしまう。家族はキジィを別の中学校へ転入させた。そこがターヤの勤務する中学だった。転校の事情は生徒には知らされないが教員間では共有されていた。自分は女装家であるが同性愛者でないと思っていたターヤだったが、秘めたる性癖がバレて生活環境を変えなければならなくなったキジィの悲劇は他人事とは思えなかった。いじめられないように、十分に注意するようお達しがあったので、担任ではなかったけれどターヤはキジィを気遣い、優しく接してあげた。それが傷ついたキジィの心を癒し、それに対する感謝の思いが、いつしか恋愛感情へ発展したのである――むしろ新たな傷口を作ることになりかねない気がするけれど、怪我を恐れて恋はできない。向こう見ずな、あまりにも無茶なキジィのアプローチに当惑していたターヤだが、遂に教え子の愛を受け入れた。やがて、ターヤは二人の将来を考えるようになった。しかしどれだけ考えても、考え抜いても、未来は見えてこなかった。そんな二人が駆け落ちを選んだのは、客観的には損な計算として思えないけれど、歪な純愛を貫くためには必然だったらしい。いずれにせよ、他人が口を挟むことではないのだろう、多分。

 キジィを背負ったターヤが、かつて硬い岩盤があり、今は強い光を放っている空間へ足を踏み入れた。しかし、そこに床も通路も地面も無かった。一歩前に踏み出した次の瞬間、ターヤとキジィは自然落下し始めた。二人一緒にギャーギャー悲鳴を上げて墜落しながらも、ターヤはキジィを離さずキジィはターヤにしがみつく手を離さなかったのは、愛の深さゆえか、あるいは強い恐怖と緊張で体が硬直していたためか、それともその両方か? と考えたところで意味はない。それよりも、この現状を一体全体、どう解釈すべきなのか? そっちの方が大切だ。

「二人とも慌てないで! リラックスして、深呼吸でもしてみてよ」

 聞き覚えのある声だった。ターヤとキジィは周りを見回す。先程の遮光器土偶が斜め下の空中に浮かんでいた。

「ちょま、ちょ、ちょっと待ってよ、ここは何処なのよーっ」とターヤ49歳。

「落ちるぅーっ、落ちるのよ、落ちているのよーっ! 落ちるのは恋だけでたくさんなんだからねっ!」と、ショック療法が功を奏しアレルギーによる喘息発作が治ったキジィ29歳。

「ホント、男ってイチイチうるさいしネチッ恋わよね、間違えたわ、ねちっこいだったわ」

「だったらどうなっていうのさ! そんなことよりウチら墜落して死んじゃうわ」

 強い風に煽られ涙目のターヤを、キジィが背中からぎゅうぅっと抱きしめる。

「あたしはね、ターヤとなら平気よ。一緒に落ちて行っても、ターヤとならば何処へ落ちたとしても幸せよ」

 ターヤはキジィの手に自分の手を重ねた。

「キジィ」

「ターヤ、ターヤ、あんぅ、好き好き、超愛しているわ」

 キジィがターヤの背中に自分の腰をグイグイ押し付けた。しかし、あるものがないと調子が狂うようで、悲しげに呟いた。

「女の体って、駄目ね。あたし、どんな美少女になったとしても、不幸な気分がしてしまうみたい」

 さすが相性ぴったりのアベックなだけあって、気分はターヤも同じだった。

「わかるわかる、すんごくよくわかるわ。ウチも、熱いキジィを体の奥深くで感じたいの。背中越しなんて、絶対に嫌、絶対に、絶対イヤなのよっ! 皮膚ではなくって粘膜でキジィを味わいたいのよっ! 味わい尽くしたいのよっ!」

 外見は美少女でセリフは美食家、中身はオカマの中年オヤジであるターヤを見て、遮光器土偶は感に堪えないといった風情で言った。

「うん、あんたたちは本物の女じゃないけれど、中身は女なのかもしれないわね」

 そして遮光器土偶はターヤとキジィに近づくと、二人の体に半透明の白く輝く布を掛けた。その布に包まれると、二人の落下速度は次第に減弱していった。やがて落下は止まり、二人は中空でふわふわと浮遊した。

「お空に浮かんでいるけど、何なの、これ?」とターヤが首を傾げる。

「凄く肌触りが良いわぁ」と布地を頬をすり寄せてキジィ。

 これは天女の羽衣なのだと遮光器土偶は説明した。それを聞いてターヤは「これって、まるで『魅せられて』を歌ったときのジュディ・オングの衣装みたいじゃない」とキジィに言ったがキジィは何のことだか分からず、超えられないジェネレーションギャップを痛感した。

「歌謡曲については答えられないけど」と前置きしてから遮光器土偶は「重力制御が可能な繊維で織った布地なの」と言った。その説明を理解したのかしていないのか、どっち何だか見た目では見当もつかぬ天然素材のキジィが質問する。

「何処で売っているの? あたし、欲しい!」

「非売品」

「あら残念。じゃあさ、それはともかくとして、ここは何処なの?」

 落ち込んでいるターヤの背中に背負われたまま、キジィが遮光器土偶に重ねて質問する。

「下を見てごらんなさい」

 言われるがまま下を見ると、足元には緑の陸地と、そこを流れる川や湖らしきものが広がっている。打ちひしがれていたターヤの気分も、珍しい眺めのおかげで上がってきたようで、明るい調子でキジィに言った。

「地下に大きな空間があって、そこに別の世界があるなんて、ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』みたいね」

 キジィは『地底旅行』またの名は『地底探検』と呼ばれる古典的な空想科学小説について何も知らなかったが、今回はターヤに調子を合わせた。

「そうね、あたしもそう思ったところよ」

 遮光器土偶は二人に「上を見てみなさいな」と言った。二人が見上げると、頭上にも緑の大地と川や湖沼がある。

「?」

「?」

 混乱する二人に遮光器土偶は言った。

「ここはね、月の裏側に浮かぶスペースコロニーの内部なの」

 スペースコロニーとは宇宙空間に建設が検討されている、人類が恒久的に居住可能な巨大な建造物である。宇宙植民地という別称から察せられるように、地球以外への植民が開発の念頭にある。宇宙に植民地があれば、領土を巡る地上の紛争は激減するのでは……という希望が込められた研究だが、スペースコロニーを建設するより他国の人間を殺して領地を奪った方がコストパフォーマンスが良いらしく、実現のめどは立っていない。

 それなのに、女人国では既に現実のものとなっているらしい。ターヤは素直に感心した。

「人間の体を一瞬で変化させる謎の魔法だけじゃないのね。重力を制御する羽衣に、スペースコロニー建設、そして地上からスペースコロニーへの瞬間転送技術……女人国の科学技術は、あたしたちより遥かに高度なのね」

「あたしたちはスペースコロニーなんて造れないけど、スペースシャトルは飛ばしているわ。こんなのが宇宙に浮かんでいたら、ナイスガイの宇宙飛行士たちに発見されるんじゃないの?」

 キジィの質問に遮光器土偶が答える。スペースコロニーは地球と月との引力バランスが安定する空間、通称ラグランジュポイントに建設が予定されている。女人国は、ラグランジュポイントの代わりにランジェリーポイントという半球と半球の境界線にある、見えそうで見えないギリギリの部分にスペースコロニーを設置した。

「ここなら男たちの嫌らしい視線を気にせず、おしゃれを楽しむことができるのよ」

「でもさ、変じゃない。これだけ技術が進歩しているのに、男の肉体が欲しくてさ、あたしたちの体を奪ったんでしょ? 自前で好きなだけ作れるんじゃないの」

 諸般の事情で中学を卒業していないキジィだが、大卒で教員免許ありのターヤより頭の冴えを示すときがある。今回がそのときのようだ。

 遮光器土偶は二人に尋ねた。

「自分たちの体を、どうしても取り戻したい?」

 二人は頷いた。

「一応、聞いてみるけどさ、約束だから返してもらえないかもしれないよ」

 ターヤが言った。

「担当の人に確認してみて」

 キジィも言う。

「あたしたちの体が今どうなっているのか、この目で見たいの。今すぐにでも」

 遮光器土偶は自分の後を付いてくるよう二人に言った。宙に浮かんでいたターヤとキジィは天女の羽衣に包まれた体で犬かきをして遮光器土偶の後を追った。円筒状のスペースコロニー内部を六分割した三面に設置され、外部から太陽光を取り入れる巨大な窓の前に彼らは移動した。そこから広大無辺な宇宙が見える。青い地球が、まん丸のお月様が、二人の眼に映った。あそこに輝く眩しい天体は太陽なのだろうか? いや、違う。太陽は別にある。

 無言で遮光器土偶が二人にサングラスを差し出した。ターヤとキジィは受け取って掛けた。黄金色の謎めいた天体を見る。二人の目に、自分たち二人が見えた。全裸で抱き合っている。大きさは月と同じくらい。明らかに大きくなっている。

 巨大化した筋肉ムキムキの全裸男性二人が、夜の宇宙で抱き合い輝いている、その光景を女人国の女性たちは眺めて心を癒すのだと遮光器土偶は言った。

 ターヤは率直な感想を述べた。

「あれを見て心が癒されるって、あんた……女人国の女って、どんだけ精神を病んでいるのよ」

 キジィは別の感想を抱いた。

「あれ、とっても素敵やん。ねえ、あれ、とっても素敵やん」

 そしてキジィは遮光器土偶に、あの状態で何日ぐらい持つのかと尋ねた。特殊加工を施してあるので宇宙でも半永久的に持つし、光が弱くなれば前身の穴という穴から精力剤入りのエナジーを注入するので、ギャラリーの女性たちが小さな連星と化したターヤとキジィの肉体美に飽きてしまわない限り、夜空に輝き続けるだろうと土偶は保証した。

 その答えを聞いたキジィはターヤに、自分たちの体は返してもらわなくてもいいんじゃないかと言った。ターヤはキジィからの頼み事に弱い。ターヤはキジィに言われるがまま、自分の体を取り戻すことを諦めた。そして二人は今の美少女の姿のまま、月の裏側にある女人国のスペースコロニーで暮らすことになった。そして私は、いつの日か月の裏へ向かうであろう宇宙飛行士が、そこで女人国の宇宙植民地と輝きながら全裸で抱き合う二人のマッチョに目を奪われることになる、と予言しておこう。


                  六


 おまえは全身の筋肉を鍛えていると、いつも言う。全身の、ありとあらゆる筋肉を練り上げ、鍛え上げていると、自慢げに。

 本当にそうか? トレーニングルームで、おまえが伸び縮みさせている四肢や体幹の筋肉が、筋肉のすべてなのか?

 否、断じて否。

 違うのだ、おまえが鍛えているものは筋肉の一部でしかない。

 自らの意志で動かす筋肉つまり骨格筋だけを筋肉のすべてだと捉えるのは誤りなのだ。

 知らないのなら教えてやろう。

 筋肉は大きく二つに分類される。

 自分の意志で動かせる随意筋ずいいきんと、自分で動かしたくても動かせない不随意筋ふずいいきんだ。

 この随意筋の代表格が骨格という人体の骨組みに付着している骨格筋つまり、おまえらが大好きな筋肉だ。筋トレで鍛えている、一般的な筋肉なのだ。

 不随意筋は二つに分けられる。心臓を収縮させる心筋しんきんと、心臓以外の内臓や血管を収縮させる平滑筋へいかつきんだ。これらの筋肉は自分の意志で伸び縮みさせることが不可能だ。おまえが「動け」と命じなくても心臓は動き「止まらないでくれ」と哀願しても心臓は動きを止める。平滑筋も同じことだ。おまえの意志とは無関係に動くものだから消化管は好き勝手に音を立てる。腹がグーグー鳴るのも、屁が止まらないのも、おまえが平滑筋を自由自在に操れないためだ。

 自らの一部である不随意筋を自分で操れない、そんなおまえが筋トレの素晴らしさを偉そうに語っているとしたら、それに耳を傾けている心筋や平滑筋たちは大笑いしていることだろう。その愚かしさ、傲慢さを笑い、収縮するのだ。おまえなんかと関係なしに!

 骨格筋だけでなく、不随意筋である心筋や平滑筋を思いのままコントロールしたいと思うのならば、それなりの鍛錬が必要だ。動かせない筋肉を動かすための神経を伸ばすことが、その第一歩だ。新しく神経を生やすのだ。脳から伸ばすのだ、神経を。イメージしろ。伸びゆく神経を。そして内臓を揺すれ。


                  七


 部族の成人男性全員による投票の結果は有罪だったが、被告人の沼らせ男は絶望しなかった。

 自分を支持する女性層が判決を覆してくれると信じていたからだ。

 沼らせ男が属する古代の部族は特殊な形式の二審制裁判を採用している。

 沼らせ男と沼らせ女のラブストーリーに関わるので、この部族社会の裁判について簡単に触れておく。

 まず成人男性全員が有罪か無罪か、どちらかの一票を投票することから裁判が始まる。多い方が評決となるのだ。同数の場合は決着するまで投票が繰り返される。そのうち投票用の葉っぱ二種類(大小二枚)が破れることがあるけれど、森の中なので補充は容易だ。発酵した果実酒を飲みながら投票が続くので、最後には全員が酔っ払い、誰も葉っぱを数えられなくなったら無罪という素朴なルールもある。

 成人男性による裁判が終わると、その評決を受けて成人女性全員による裁判が行われる。こちらは投票ではなく話し合いで、出席した成人女性全員が同じ意見になるまで、延々と井戸端会議が続く。腹を減らした子供が泣き喚いて話が続けられなくなる頃が評決の潮時だ。

 成人女性全員による裁判も男性と同じ評決を出したら、それが最終的な判決だ。異なった場合は女性裁判の評決が優先される。この部族は女性上位なのだ。

 沼らせ男は、これに賭けていた。

 部族の女性全員が自分の味方だと彼は思い込んでいる。成人であろうと未成年であろうとも未婚者だろうが人妻だろうが構わず、美醜なんてことも一切お構いなしに、いつもやさしい言葉をかけ続けてきたのだ。ちやほやされた女たちは皆、とても喜んでいた。沼らせ男の甘いセリフは、どんな女でも美しき主人公ヒロインに変える。そんな自分を裏切る女なんて、いるはずがない――と彼が確信するのも、むべなるかな。

 しかし沼らせ男は考えが甘すぎた。女性陣による裁判の評決も有罪だった。しかも懲罰が格段と重くなっていた。男性裁判の罰は彼に部族の野営地から離れた場所での寝泊まりを命じるだけだったが、女性裁判では群れからの永久追放である。

 鋭い爪も牙も無い類人猿の沼らせ男にとって、狂暴な肉食獣の暮らす森の中での単身生活は死を意味した。

 どうして自分が、こんな酷い目に遭わないといけないのか……と、沼らせ男はオイオイ泣いた。

 彼を告発したのは女房に言い寄らせた亭主たち数名だった――が、それ以外にも彼を憎悪する人間が多くいた。熟れた果実の如く甘い囁きで女心を散々かき乱しておきながら、女がいざ真剣な関係になろうとするとのらりくらりと交わす優柔不断な沼らせ男を、殺したいほど憎む女性たちだ。彼女たちがいる限り無罪放免はありえなかった。その一方、永久追放は当然のようにありえた。

 そんなこんな書いているうちに、追放の日が来た。近くに留まっていると投石されるので仲間の群れから離れる。自分を愛してくれる女が一緒に来てくれるのではないかと期待したが、誰も後を追ってこない。とても悲しくなり川の縁に座って泣きじゃくっていたら、ワニに襲われた。必死に逃げる。何とか逃げ延びた沼らせ男は自分が<沼>の近くにいると気付く。

 気が付いた瞬間、完全な直立歩行に至っていない膝頭が震えた。

 この<沼>に近づいてはならないとする言い伝えが部族にあったためである。

 その理由は分からないけれど、禁忌事項を破ると大抵の場合は災いが来ることを知るだけの頭脳を、類人猿の沼らせ男は持っている。恐ろしい肉食獣の住処あるいは、死をもたらす瘴気しょうきが<沼>から湧いているのだろう、と彼は考えた。

 引き返そう。そう思って振り返りかけたとき、視界の端に二つの膨らみが見えた。どうしようもなく惹き付けられ、そちらに顔を向ける。女の乳房があった。乳房だけではなく、女の素肌も見えた。体毛が生えていないから、地肌が覗いている。類人猿の女は毛むくじゃらが普通だ。肌が見えるのは普通ではない。顔も群れの女たちとは違った。笑顔が最高に素敵なのだ。沼らせ男は釣られて思わず微笑み返しをする。

 仲間の女とは違う。何者だろう? と彼は思った……と書いたが、その頭が考え事をした時間は短い。見慣れぬ女の、見慣れぬ体が、沼らせ男を強く刺激した。女が微笑み、彼を手招きする。女が立っているのは<沼>の対岸だから水辺に添って歩くのだ――と理性は命じたが、そこは類人猿のことなので、直線的な行動を促す本能の指示に従い沼らせ男は異臭を漂わせる濁った<沼>へ飛び込んだ。

 速攻で後悔する。泥水は臭く、しかも粘々していて、泳ぎにくいなんてものじゃなかった。このままでは溺れ死ぬ! と彼は思った。引き返そうとする。そのときである。<沼>の対岸に立つ全裸の女が、剥き出しの乳房を両手で揉みしだいて叫ぶ。

「私が欲しくないの? 私は、あなたが欲しい! お願い、早く来て! そして私を、思いっきり抱き締めて!」

 それなら、おまえがこっちへ来たらいいだろ――とは、類人猿でも人類でも男ならまず言えない。沼らせ男は、底の見えない<沼>の対岸で自分を待つ沼らせ女に、もはや心を奪われてしまった。死ぬ気で<沼>を泳ぎ渡る。疲れ切って対岸に上がると、女はいない。彼は岸辺に膝を突いた。体力の限界に達している彼を、激しい嘔気が襲う。何度も何度も嘔吐する。そのうち彼は自らの吐瀉物の中に突っ伏して倒れ、そのまま意識を失った。目覚めたら、顔の上に女の乳房がぶら下がっていた。自分が女の膝枕で寝ていることに気付くまで、結構な時間が必要だった。女に言われるまで、自分の体毛のほとんどが抜けてしまっていることに気付かなかった。

「ちょ、ちょっと、これ、なに? どういうこと? この話って、沼らせ男と沼らせ女のラブストーリーじゃないの? なんで脱毛の話になっているんだ?」

 そんな沼らせ男のすべすべした頬を指先で撫でながら、沼らせ女は言った。

「甘い言葉で男の心を奪い、時に天性の自由奔放さで男を振り回すものの、なぜか憎めない女、それが私」

「いや、そんな話を聞いているんじゃない。どうして<沼>から出たら具合が悪くなって毛が抜けたかって質問をしてんの」

「いやねえ、頭の毛はフサフサだって。それに、脇の下の毛もボーボー。胸毛もすね毛もあるし、ここも」

 沼らせ女は手を伸ばした。その手に大事なところを握り潰されそうになって、沼らせ男は「ぎゃっ!」と悲鳴を上げた。

「あら、ごめんなさい。私って、天性の自由奔放女だから」

 そして沼らせ女は男を優しくマッサージした。

「あなたは大胆な女を、どう思う? 好きな男になら、何だってするの。それに何だって許してあげる。でも、そういうのが嫌いな男もいるよね。あなたは、どちら?」

 男の目の上にユラユラ揺れる脂肪の膨らみを垂らしながら、そのセリフである。

 限度があるだろ――とは、類人猿でも人類でも男なら(以下略)。

 なんやかんやあって、いつしか沼らせ男は体毛の無い生活に慣れた。体毛があるとノミやシラミを取るための毛づくろいで一日中が終わる。空いた時間で沼らせ女と沼らせ男の夫婦は幾つかの武器や便利な道具を作った。石器や木の槍そしてブーメランといった武器は小型の動物の狩猟に役立つのは勿論のこと大型の肉食獣から身を守るのにも重宝した。植物を編んで作った籠は植物を採集する際に有効だった。沼らせ男の毛をほとんど失わせた<沼>の腐敗した水の底から採取した泥炭は素晴らしい燃料となった。乾燥させた泥炭を燃料にすることによって、火起こしの方法を習得していなかった二人は野火を保存することが可能となり、その火で食材の加熱が簡便になると食物の種類が一気に増えた。栄養状態が良くなった沼らせ男は、かつて属していた部族の男たちより逞しくなった。この体格で部族に戻ったら、女たちが放っておかないだろう。だが彼は沼らせ女以外の女に興味が無くなっていた。ある日、彼は沼らせ女に聞いてみた。

「おまえが好きだ。心の底から愛している。これからも、ずっと愛し続ける。おまえはどうだ? 俺をずっと愛してくれるか? そして出来ることなら、俺の子供を宿して欲しい」

「好きよ。でも……私は、あなたとずっと一緒にいられないの」

 沼らせ男が受けた衝撃は、部族を追放されたときのそれを遥かに凌駕した。

「どうしてだ! どうして俺を捨てるんだ!」

 沼らせ女は、自分は人類を進化させる女神だと名乗り、寂しげに微笑んだ。

「あなたは、この時代の類人猿として十分な進化を遂げたわ。私は、別の時代へ行って、他の人類の先祖を進化させないといけないの?」

「なにを言っているんだ? おまえは、なにを言っているんだよ……」

「ごめんなさい。それが私の使命なの。そして、あなたにも使命があるわ。いい、私の言うことをよく聞いてね」

 自分を追放した部族に戻り、仲間を<沼>へ引き連れてくる。<沼>の水で体毛を無くした仲間を、毛皮の無い生活に慣れさせる。

「そこまでやれば、それであなたの使命は終わるわ」

 そう言うと、沼らせ女の体が半透明になった。

「ちょ、ちょっと待ってよ! なんで急に体が消えかかっているんだよ!」

「あなたたちの子孫がすっかり毛皮を無くし、汗をかきやすい体質になった頃、地球の乾燥化が始まる。この森は消えるのよ。楽園を追放されたあなたたちの子孫は乾燥したサバンナで生きていかなければならなくなるわ。私は、あなたたちの子孫にサバンナで生き抜くサバイバル術を教えに行く。あなたの子供の、そのまた子供の、その子供くらいかしら……私の子供じゃないのが、本当に悲しい。本当につらい。どうか、それだけは分かって」

「聞いていることに答えろよ! 俺たちは愛し合っているんだろう!」

「愛し合っていても、別れなきゃならないことがあるの。お願い、私を許して。もう時間が無いわ。さようなら」

 そう言い残して沼らせ女は消えた。沼らせ男は篝火かがりびを灯し夜になっても<沼>の周囲を捜し歩いたが、愛した女を見つけ出すことが出来なかった。


                  八


 ラッキーセブンという言葉を耳にするときが度々たびたびある。その都度つど「そうかあ、ラッキーセブンかあ」と単純な人間である私は心の中で頷く。しかし、なぜ七が幸運なのか、私には理由が分からない。『KAC2023 ~カクヨム・アニバーサリー・チャンピオンシップ 2023~』6回目のお題「アンラッキー7」となれば、なおさらだ。元ネタである「ラッキー7」が意味不明なのに、その正反対――真逆と表現した方が今風だろうか――を完璧に理解できようはずがない。それでも、こうして夜中にキーボードを叩いているのはひとえに、書けば何か貰えるらしいからだ。

 何を貰えるのか、それは分からない。

〈カクヨムリワードとは、カクヨムロイヤルティプログラムでユーザーに付与される報酬を指します〉

 カクヨムリワードとは、何か?

 カクヨムロイヤルティプログラムとは、何なのか?

 ユーザーとは恐らく、私だ……けれど、思う。私とは一体、何なのか?

 いかんいかん、眠くて寝言みたいなことを書いてしまっている。

 しかし眠くなくとも寝言と大きく変わらないことを私は常に書いている。その事実は否定のしようがないので、この調子で行く。

 まず「ラッキー7」の意味を把握しよう。検索したら、下記のような事実が判明した。

・大リーグのシカゴ・ホワイトストッキングス(現シカゴ・カブス)の選手が七回に打ったホームランに由来する

 これはWikipediaに書いていた。これと似ているけれど違うものがある。

・大リーグのサンフランシスコ・ジャイアンツが何度も7回に逆転劇を演じたことに由来する

 こちらはコトバンクだ。どちらも昔の大リーグの試合が元になっている。これらとは趣きの違う「ラッキー7」もある。

・関武志とポール牧のコントグループ名が「ラッキー7」である

 この事柄とカクヨムのお題「アンラッキー7」には何らかの関係があるのか? 関武志とポール牧が何かを知っている可能性はあるけれど、双方とも物故者だ。話を聞きたくても聞けない……と残念に思ったところで、閃いた。二人の守護霊を呼び出して事情を聞けば良いのである。守護霊を呼び出して色々な発言をさせるという手法は素晴らしいので自分でもやってみたいと願っていたが、諸般の事情で実行できずにいた……と書いたところで新たな悩みが生じた。

 ここまでで約八百字だ。ダラダラ書くより777文字ぴったりで止めて、下記の賞を狙った方が良いのでは? と考えたのだ。


【ラッキーセブン賞】

開催期間中に1度でも777字ぴったりの作品で参加したユーザー

抽選で77名にAmazonギフトカード500円分をプレゼント


 しかし、だ。既に一本、777字ぴったりの作品を投稿している。二本目を出しても当選確率は変わらないのなら、無理して777字にまとめなくてよい。一本は777字ぴったりに無理やり仕上げたので、ただでさえ変なのがさらに酷くなっている。同じ悲劇を繰り返さなくてもいいだろう。

 そういうことで守護霊の召喚を始める。やったことはないが、できるだろう。十円玉とか鳥居と平仮名を書いた紙を用意して……って、面倒臭すぎる。本当に、こんなことをやってるの? やっていたら驚きだ。知らんけど。

 そうか、やっていた本人の守護霊を呼び出せば良いのだ。

 よっしゃ、やってみよ! ついでに、後継者を誰にするか、聞いてみよう!

 そう思って霊界と交信してみたら、O川じゃなくK川の守護霊が出てきた。

 K川といえば、私の創作における師匠筋ししょうすじだ。関東大震災や巨大台風の日本直撃を超能力で防ぐといった日本レベルの危機回避能力、さらには地球へ衝突寸前の小惑星を月面上空に発生させたブラックホールに吸引させ何もかも無かったことにするといったリアル幻魔大戦なライフスタイルは、フィクションか彼でしか作り上げることが出来ない。私には超能力が無かったので、こうして法螺話を書いているわけだが、それはこの際どうでもいい。

 眠いのだよ、とにかく眠い。

「アンラッキー7」とは何なのか、K川の守護霊に聞いて、それを書いて本稿を終わらせたい(明朝から執筆は無理、11:59の締め切りには絶対に間に合わない自信があるのだ)。

 判明したことを書く。

 2023年つまり今年の7月に、空から恐怖の大魔王が降りて来て、地球が滅びるとのことだ。ノストラダムスの有名な予言に似ているが、それもそのはず、1999年7月というあの予言はノストラダムスのミスで、本当は今年なのだそうだ。

 かなり怪しい話だが、K川の守護霊が言っているのだから、もしかしたら真実なのかもしれない。そうだとすると世界は滅亡である。

 こりゃ困ったな……と思った皆様、ご安心下さい。

 光の戦士七名が現れ、恐怖の大魔王と戦うそうなのです。

 しかも、その七人は、このカクヨムのユーザーにいる! とK川の守護霊は仰っております。

 もっとも、それら光の戦士は今のところ自分自身の秘められた力に気付いていないそうですから、自分が地球を救う勇者だとは思ってもいないでしょう。

 そのときが来たら、謎のメールが届き、それを開くと能力に覚醒するそうですから、目覚めのときを楽しみにお待ち下さい(談・K川の守護霊)――とのことだが、その光の戦士に報酬が出るのか、私には気になっている。

 Amazonギフトカード500円分よりも高額であれば、とても嬉しい。自分が光の戦士になれば、その光で光熱費を賄えるかもしれないし、良いことだらけだ。

 恐怖の大魔王には、私が【ラッキーセブン賞】で貰う予定のAmazonギフトカード500円分を渡して、元いた場所へお引き取り願うつもりだ。

 だから私に【ラッキーセブン賞】を送って下さることをお願いする。

 今この瞬間まで気付かなかったが、私は地球を守る光の戦士だったのだ。

 いや、格別の気遣いは無用だ。

 光の戦士である私の超能力で抽選を引き当てるから、公正取引委員会からとやかく言われる心配はない。

 いずれにせよ、私の力で地球滅亡の「アンラッキー7」が回避できるとしたら、Amazonギフトカード500円分は安い、それだけは間違いなかろう。


                  九


 昭和十六年(1941年)十二月八日の真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争は、開戦当初は日本軍が優勢だったが、次第に連合国側が優位に戦いを進めるようになっていった。

 昭和十七年(1942年)六月、日本軍はミッドウェー海戦で航空母艦四隻を失う惨敗を喫する。

 昭和十八年(1943年)二月、日本軍は数多くの餓死者や病死者を出したガダルカナル島の防衛を断念し、同島を撤退した。

 同年五月、アッツ島守備隊が玉砕する。

 同年十一月、マキン島とタラワ島の守備隊が全滅する。

 かくも悲惨な戦況に心を痛める軍人がいた。

 その男の名は牟田口廉也むたぐちれんや、日本陸軍の中将である。

 彼は、日本が苦境に陥っている一因は自分にある、と強く思い込み、その責任を深く感じていた。

 話は昭和十二年(1937年)に遡る。当時、牟田口は支那駐屯歩兵第一連隊長として北京(当時は北平ぺいぴんと呼ばれていた)郊外で中国軍の動きを警戒する任務に就いていた。そこで発生したのが日中両軍の軍事衝突、いわゆる蘆溝橋ろこうきょう事件である。この戦いが端緒となって、日中両国は全面戦闘に突入した。日中戦争(支那事変)は日本軍が優勢に戦争を進めたが中国軍は頑強に抵抗し、戦局は泥沼化した。難局を打開するため、日本軍は南方への進出を目論み、英米との戦争を決意する。そして始まったのが太平洋戦争(当時の日本側の呼称は大東亜戦争)で……本稿の最初に戻るのである。

 牟田口廉也は思う。支那駐屯歩兵第一連隊長である自分が別な対応をしていれば蘆溝橋事件は小規模な武力衝突で終わっていたかもしれない。そうすれば泥沼の支那事変は起きなかっただろうし、膠着した中国戦線を好転させるべく始まった大東亜戦争も当然、起きなかった。

 責任感の強い彼は、何もかも自分が悪いのでは……とまで思い詰めてしまった。

 自身の罪を償う唯一の方法は戦争に勝利すること以外ありえない。

 日本軍が占領したビルマ(今日のミャンマー)を防衛する第十五軍の総司令官となった牟田口はインド進攻を決断した。日本の奇跡的な逆転勝利のために、イギリスが支配するインドを占領しようとした彼は、多くの反対意見を押し切り出撃した。

 牟田口廉也が考え出したインド攻略計画つまりインパール作戦は五万人の兵力を失って終わった。それが昭和十九年(1944年)七月で、日本の降伏は昭和二十年(1945年)八月だ。

 責任という言葉の意味を我々に教えてくれる反面教師、牟田口廉也は昭和四十一年(1966年)八月に亡くなった。その墓は多磨霊園にある――と、彼のWikipediaに書いている。

 最後に。もしも本稿を読んで、何か感じることがあったとしたら、私の代わりにウィキペディアに募金をお願いする。本作品を書くに当たりWikipediaを読んでいたら、募金の表示が出て来たのだ。そう、ジミー・ウェールズから皆様へのメッセージが、また表示される季節が訪れたのだ――私には、募金する金がないと、ずっとジミーに電波を送っているのだけれど、彼は私のいいわけに耳を傾けれてくれず、本当に困っている。誰か何とかしてくれないだろうか(募金するかどうかは言うまでもありませんが個人の判断にお任せします。それと侍JAPAN、イタリアに勝ちましたね。試合を見ていたら執筆が遅れましたよ。果たして明朝、私は寝坊せずに起きられるのでしょうか。それではおやすみなさい)。


                  一〇


 信じてもらえないかもしれないが、私の体験談を投稿させていただく。

 私は深夜の有隣堂へ潜入したことがある。

 現役のスパイだった、昔の話だ。

 自分のドジが原因だった。

 〇県の某所へ侵入して万年筆に仕込んだ超小型カメラで機密文書を撮影したところまでは良かった。後は万年筆を別の人物へ渡し、そこで私の任務は終了するはずだったが、その相手が待ち合わせ場所である有隣堂地下の喫茶店に現れない。

 嫌な予感がした。

 待ち合わせをしていた人物が敵に捕らわれ、私との約束についてペラペラ喋ったとしたら、最悪だ。

 私は勘定を払って店を出た。自宅へ戻るのは危険だった。怪しい人物に尾行されていないか入念に調べ安全を確認してから隠れ家へ移動する。ほっと一息ついて、背広の内ポケットに差していた万年筆が無くなっていることに気付く。

 どこかで落としたに違いなかった。だが、どこで?

 待ち合わせ場所のカフェでコーヒー代を支払おうと、背広の内ポケットから財布を出した、あのときだ!

 私は伊勢佐木町へ戻った。既に時刻は深夜を過ぎていて、有隣堂は閉まっていた。

 私は裏口から店内に侵入した。誰もいない一階を通って地下へ通じる階段を降り、喫茶室「有隣堂パーラー」の中を懐中電灯片手に捜索する。

 機密書類をフィルムに収めた超小型カメラ内臓の万年筆は見つからなかった。

 落とし物として事務所へ届けられているかもしれないと、絶望の中でわずかに希望を見出しかけたときだった。

 機械の動く音が聞こえた。エレベーターの音だった。有隣堂名物、手動で中と外の扉を開けるエレベーターの機械音だ。私は懐中電灯を消した。誰もいないと思われた店内に何者かがいるのだ! 私はテーブルの陰に身を隠した。しかし、店の明かりを灯されたらたちまち見つかり、一巻の終わりだ。

 足音が自分に近づいてこないかと、私は耳に全神経を集中した。足音は聞こえなかった。その代わりに大きな鳥の羽音が近付いてきた。私が隠れているテーブルの上に羽音の主が着地する。私は思わず首をかがめた。

「安心して、ネズミ以外は食べないよ」

 男の声だった。私はテーブルから顔の上半分だけ出した。誰もいない。人影らしきものは何もない。ただ、テーブルの上に黒い影があった。

 その影が語り出した。

「人の目では、この暗闇だと何も見えないだろう? 手に持った懐中電灯を点けるといいよ。大丈夫、悪いようにはしないから」

 相手は私が懐中電灯を持っていると分かっているようだった。それならば、お言葉に甘えてライトを点けるとしよう。私は懐中電灯をテーブルの上に向けた。私の目の前にミミズクがいた……いや、正確にはミミズクのような縫いぐるみなのだが。

 そのミミズクっぽい縫いぐるみはR.B.ブッコローと名乗った。

「有隣堂の居候でね、宿代の代わりに店内を荒らすネズミを退治しているんだ。今夜も見回りをしていたら、驚いたよ。ネズミじゃなくて人がいた」

 驚いたのは私も同じだ。人間の言葉を話す謎の物体R.B.ブッコローと深夜の書店で遭遇して驚かない者はいない。

 放心状態の私にR.B.ブッコローは言った。

「ここにいる理由を語って欲しいな。ただし、何でもお見通しだから、嘘を言っても無駄だよ」

 何でもお見通しなら説明不要だろう……とは思ったが私は釈明した。

「信じてもらえないかもしれないが、私は泥棒じゃない。日中に店内で忘れ物をしたんだ。とても大事な品だったので、早く取り戻したくて、悪いと分かっていたが店に入らせてもらった」

「それは万年筆だね。違うかい?」

 またしても私は驚いた。R.B.ブッコローは人の心が読めるのか! 

 謎めいた縫いぐるみR.B.ブッコローは読心術だけでなく手品にも精通しているようだった。どこからともなく金の万年筆と銀の万年筆と高級品の万年筆を取り出す。

「それは、この三つのうちの、どれかな?」

 R.B.ブッコローの問いかけに、私は首を横に振って答えた

「その最高級品質の万年筆が私のだよ……と言いたいところだけど、三つとも違う。どれも私の物じゃない」

 笑いながらR.B.ブッコローが言った。

「君は正直者だね。ご褒美に三つの万年筆全部をあげるよ」

 私は苦笑した。

「お気持ちだけ頂戴するよ。私に必要なのは無くしてしまった万年筆だけさ」

「あの万年筆の内蔵カメラが撮影した機密書類は囮情報が記載されているんだけど、それでも必要かな」

「なんだって?」

「カメラのマイクロフィルムを読影したよ。すべてを見通すR.B.ブッコローの知識とは矛盾する内容だった。間違った情報なんだよ。嘘の情報を故意に漏洩させて、相手を攪乱させようという目論見だ。君は敵の罠に引っ掛かったのさ。君が万年筆を渡す予定だった人物は、別のスパイから囮の話を聞いて、姿を現さなかった。賢明な判断だったと思う。君も、このまま行方をくらました方がいいね」

「そんなことが、なぜ分かる?」

「R.B.ブッコローは世界の何もかもを知っているからさ」

 この話が真実だとしたら、私も姿を消すのが無難だった。しかし、この正体不明のR.B.ブッコローの話を、どこまで信じて良いものやら分からない。

 私は、そのことを正直に言った。世界のすべてを知ると語るR.B.ブッコローが疑問に答える。

「信じてもらえないかもしれないけど、R.B.ブッコローの言葉に嘘偽りはないよ」

 嘘偽りだらけの世界に生きる私は、R.B.ブッコローの姿がやけに眩しく感じられ、懐中電灯を消した。

「例のカメラ入り万年筆は返すよ。ご褒美もね。それじゃ」

 再び羽音が聞こえた。私は懐中電灯を再点灯した。R.B.ブッコローの姿はなかった。テーブルの上には金の万年筆と銀の万年筆と高級品の万年筆と、カメラ内蔵型の特殊な万年筆が置かれていた。

 それら四つの品を手土産に有隣堂を去った後、私はスパイの世界に別れを告げた。それからの半生も色々あったが、深夜の有隣堂に忍び込むような危険で愚かしい真似はせずに済んでいる。そういった様々な思い出を綴った回顧録を出版しようと思い立ち、資料集めをしていたらR.B.ブッコローの名がネットに出てきて、とても驚いた。同時に、R.B.ブッコローの登場する物語が募集されていることも知った。

 有隣堂のマスコットR.B.ブッコローと私しか知らない、世界の片隅で起きた小さな事件の物語を投稿するに至った経緯は、そんなところだ。R.B.ブッコローが驚くほど正直な私の話なので、信じてくれて構わない。今も私の書斎の棚には金の万年筆と銀の万年筆と高級品の万年筆とカメラ内蔵の万年筆が飾られているから、是非見に来て欲しい。R.B.ブッコローが来てくれたら、思い出話に花を咲かせたいと思っている。有隣堂で買った愛用のオリジナルガラスペンとインクのセットで原稿を書きながら、旧友の訪問を待つ。


                  一一


 縦型とドラム式のうち、どちらを選ぶのが正しいのか?

 魔性の魔法少女ウィーヴィーケイツン・アッパッパバーフィイースルドジャポネム・ディルファムは、その問題で半日程度は悩んでいた。

 洗濯機の選択に苦慮しているのではない。

 自分を溺愛してくれる素敵な相手を、自分のいる世界へ召喚するための特殊な転移装置の機種選定が問題なのだ。

 ウィーヴィーケイツン・アッパッパバーフィイースルドジャポネム・ディルファムは言った。

「最後のプレゼンをもう一度お願いするわ。どちらが先でも構わなくってよ」

 縦型転移装置の売り込みを図る金星人男性ディッチェゲハデダバは、商売敵に目線で挨拶してからプレゼンを始めた。

「我が社の製品は皆様に愛され長く使用されている縦型を転移装置の中心ユニットに採用しております。その安定性は歴史が証明していると申し上げてよろしいかと存じ上げます。プレルフリル皇国の女性教皇アンティパレパス猊下は、この商品の先々代に当たる機種で、物凄いイケメンをゲットなさいました。彼女の愛されすぎる甘々なお話などは、もう既に聞き及んでおられることでしょう。さそり座の女惑星ピーチコミュスムゥジィの女性統領アルマ・ワルキューレ氏は、装置の浮遊ゴミ回収ネットに引っ掛かっていたダンディー系コメディアンをキュンとくびれた尾の毒針で何度も何度もブスブス突き刺して恋の中毒患者に仕立て上げ、コミカルだけれどドキドキするような関係を構築したというお話も、お分かりのことと存じ上げます。また、この同一機種が最近になって確保した恋のお相手の噂話もプレゼンに当たって欠くことができません。俺様系イケメンや弟系あざと男子などなど魅力的なヒーローたちの存在も、我が社の縦型転移装置があったればこそでございます。最後になりますが、どうか、我が社の縦型転移装置を、お買い上げいただくようお願いを申し上げます」

 三つもある頭を深々と下げた金星人男性ディッチェゲハデダバの隣に座る真っ赤なドレスの火星人女性プリンセス・カーターリーナは微笑んで立ち上がり、柳腰を震わせて自身が持参した最新鋭のドラム式転移装置に向かってシャナリシャナリと歩き、優美な仕草で装置の白い表面を撫でた。淡い栗色の髪を輝かせ、彼女は言った。

「当社は、もう多くは語りません。ただ、これだけは申し上げることをお許しいただきたいのです。このドラム式転移装置は、内部に捕らえた獲物を絶対に逃しません。決して逃げられないのです。持ち主が扉を開けないことには、永遠の虜囚となります。その驚異的な性能を実際にご覧になりたいと思われるのでしたら、是非お買い求め下さいませ」

 ウィーヴィーケイツン・アッパッパバーフィイースルドジャポネム・ディルファムは最終プレゼンを聞き終えても決断を下すことができなかった。魔性の魔法少女として恐れられる彼女だったが、恋愛に関する限り、小学校高学年から中学生のレベルである。「児童向け恋愛小説(溺愛)」の対象読者に当てはまると言っても、あながち外れではない。いや、もしかしたら恋愛に初心な点においては、小学校高学年から中学生の女子と同等あるいは、それ以下かもしれなかった。

 迷いに迷った末に魔性の魔法少女は、その日のお買い上げを断念した。

「ごめんなさい。どうしても今日、決めることができませんでした。もう少しだけ、考える時間を与えて下さいな。こんな夜更けまでお待たせして、本当にすみませんでした」

 いや駄目だ絶対に本日中に決めろ! と言い出す業者はいない(そんな無礼な発言をライバルが言わないかな~と期待はしている)。魔性の魔法少女は大金持ちで気が強く凄まじい魔力を有している。そんな実力者に変なことを言って敵に回すのは有能な商売人のすることではなかった。会釈して持って来た商品を持ち帰る。

 転移装置のプレゼンテーションが行われた中会議室を出て、ぶよぶよとして歩きにくいが気持ちを落ち着かせる魔法のスライム床を敷き詰めた廊下を通り、自室へ戻ったウィーヴィーケイツン・アッパッパバーフィイースルドジャポネム・ディルファムは、部屋の中でボール遊びをしていた彼女の守護天使サルビチ・ササビッチィの細長い首をむんずとつかみ壁に向かって投げた。

 サルビチ・ササビッチィは石の壁にぶつかる寸前に、半透明の翼を力強く羽ばたかせて空中に制止した。振り向く。顔の真ん中にある複眼をギラギラと点滅させて文句を言う。

「ちょいちょい、あーた、あーたね。これね、二回目。いや待って、二回目どころじゃないわあ。三回目、いやいや、もっとだわ。四回、五回、それとも六回目? こんなんじゃね、いつか怪我するよ。絶対に怪我するってば。不死身の守護天使だからってね、痛いものは痛いのよ。分かる? お分かりになって下さいませってえのよ。だ・だ・だ・だってさ、だってよぉ、石の壁に生きているものを放り投げるってさ。異常よ。あーたね、それは異常者のすることよ。守護天使だからさあ。嫌われても構わないでしょって覚悟を決めてさあ、こうして言いたくもない説教をしているわけのなのよ。本当に、分かってよ。ふぅ、疲れた。マジで疲れたわん」

 羽ばたくのを止め粘々する液体を滴らせる足で石の壁にべっとり停まった守護天使サルビチ・ササビッチィに向けて、空中にある魔法のエア・ポケットから取り出した核重力磁気素粒子照射用ステッキの照準を合わせながら、魔性の魔法少女は美しい顔に憤怒の表情を浮かべた。

「伝説の悪魔を封じ込めた禁断のボールで遊ぶなって、何度言ったら分かるの。このボールの中の悪魔が飛び出して来たら、この世界の半分は三十秒以内に崩壊するわ。そうなったら、あーた、あーた、あーたねえ。責任が取れるの? 取れるのかって聞いてんだから答えなさいよっ!」

 ウィーヴィーケイツン・アッパッパバーフィイースルドジャポネム・ディルファムが自分に向けたステッキの先端から神経を削り取るかのような不快な不協和音の響きを聞き取った守護天使サルビチ・ササビッチィは、怯えて全身をプルプル震わせた。その大きな複眼から涙が流れ落ちる。核重力磁気素粒子を照射されると、物凄く痛いのだった。

 この不死身の生命体は口先だけで気が小さいのだった……と思い出した魔性の魔法少女はステッキを見えないエア・ポケットの中に戻した。続いて伝説の悪魔を封じ込めた禁断のボールを、より厳重に防護処置が施された防犯用のエア・ポケット内部に仕舞う。それから彼女は自分の守護天使――実際のところ、自分を何から守護してくれているのか分からないのだが――に、早く寝なさいと言った。

「お休みなさい」

 そう言うと守護天使サルビチ・ササビッチィは部屋の天井の角にある時空の歪みを通って自らの本来の生息空間である第八次元の黒い霧の中へ戻った。肩の凝りを感じたウィーヴィーケイツン・アッパッパバーフィイースルドジャポネム・ディルファムは首筋を指先で揉みながら反対の手で髪を留めるピンを外した。寝巻に着替える。軽い美容体操を済ませて寝床に入る。この館の歴代の主人によって太古から受け継がれてきた高性能タブレット端末をテーブルに置き忘れていたことを思い出し、ベッドを出て菓子の空袋が放置された小さなテーブルからタブレットを回収して、また寝床に入る。昼間のうちに双子の太陽アルファ・ルインツイン・ケンタウリの柔らかな光をたっぷり浴びていた太陽電池のバッテリーは満タンだ。ウシシ、これはこれは最高の状態でございまするなあ~と変な独り言を呟いてタブレットの電源を入れる。

 好きな番組の生配信があったので、魔性の魔法少女は朝から楽しみしていた。美人で大金持ちで魔法が使えるくせに、そんなのが楽しみという事実は、世の中に存在する娯楽が、どんなにつまらないものでも誰かのストレス解消になっている可能性があるという実にどうでもいい実例である。

 さて、そんなことは本当にどうでもいい。

 ウィーヴィーケイツン・アッパッパバーフィイースルドジャポネム・ディルファムが見たい生放送――番組そのものは、あまり面白くないというのが、ネットの一般的な意見である――それが本稿の本題なのである。

 その生番組は、いわゆるリアリティー系のバラエティーであり、悪趣味ということで良識ある視聴者からの評判は芳しくない。喜んで見ているのは根っからの性悪子猫や品性下劣な社会不適合者つまり、ここに登場している魔性の魔法少女みたいな輩だった。

 番組の内容を具体的に記すと、以下のようになる。


求めているのは、

「長編児童向けノベルの種」になる短編小説!

今回のコンテストでカドカワ読書タイムが募集するのは、長編児童向けノベルの「核」となるようなキャラクター・設定を持った、短編小説です。

カドカワ読書タイム編集部は、小学校高学年から中学生の読者が夢中になれる、長編ノベルを送り出したい、と考えています。この児童向け長編作品の「種」、「核」が込められた、5000字から12000字の短編小説をお待ちしています。

募集する部門は、「児童向け恋愛小説(溺愛)」と、「児童向けファンタジー小説(異世界転移)」の二つ。

「児童向け恋愛小説(溺愛)」の対象読者は、小学校高学年から中学生の女子です。作品の主人公は、10~15歳の女子としてください。愛されすぎる甘々なお話や、コミカルだけれどドキドキするようなお話を待っています。俺様系イケメンや弟系あざと男子などなど魅力的なヒーローたちの存在も欠かせません。

「児童向けファンタジー小説(異世界転移)」の対象読者は、小学校高学年から中学生の女子・男子です。主人公の年齢は10~15歳、性別は問いません。ある日突然主人公が異世界に連れていかれてしまったり、迷い込んでしまったり、そこから始まるわくわくするファンタジー小説を待っています。

コンテスト受賞作にはカドカワ読書タイム編集部員が担当につき、加筆・改稿を行い長編ノベルを作ることを目指します。

わくわくするような物語の種を、待っています!


 これだけ読むと、とても面白そうに思える。

「児童向け恋愛小説(溺愛)」の方なら、その物語の中に登場しても悪くないだろう。だが「児童向けファンタジー小説(異世界転移)」の方が考えものだ。ある日突然主人公が異世界に連れていかれてしまったり、迷い込んでしまったり、といった災難に巻き込まれるのである。そこから始まるわくわくするファンタジーと言われても迷惑な話で、元の世界へ戻してくれというのが偽らざる気持ちではないだろうか?

 謎めいたファンタジー小説的な雰囲気の異世界に突然転移して、困惑している。

 そんな10~15歳の少年少女が出演者のリアリティー系バラエティーを、ハラハラしながら見ているのが前述の魔性の魔法少女。そういう二重の枠構造が本作品にはある。二重構造の外側に相当する魔性の魔法少女の話は、ここまでに些少はであるけれども書いた。次は内部の構造、生放送の番組を書く。実を言うと、こっちの方が投稿する部門に相当するのだ。どんな感じになるのか、どのくらいの分量になるのか想定困難な状態で書き始め、現在の状態となってしまった。書くつもりのない「児童向け恋愛小説(溺愛)」の要素を冒頭に振り撒いておこう! と書道における文鎮あるいは一種の枕詞のような気持ちで書き出した溺愛関係の冒頭部分で執筆時間の大半を消費し、体力も浪費してしまった。ふふふ、困ったものである。

 さーてーと、こうなったら、どうしようか?

 行くしかあるまい。行くところまで! といった気持ちで生放送の番組に出演しているのが、本作品の主人公の一人でペンネームは肺魚の子孫十六号だ。今こうしてパソコンの前に座り、せっせと何事かを入力している。何がどうしてこうなったのか、自分でも皆目見当がつかない状態で。

 いや、待てよ。そうなると、肺魚の子孫十六号が執筆している小説の主人公も登場しなければならない。この人物こそが、物語を動かす実質的な主人公になる。その名はウィーヴィーケイツン・アッパッパバーフィイースルドジャポネム・ディルファムとしたい。とても長いので文字数を稼げる上に、一行のほぼ全部を潰してくれるおかげで文章の推敲がやりやすくなるという利点もあるのだ。

 ふふふ、そんなことを書いている間に、文字数が下限の五千字を突破しそうだ。

 今、遂に突破した。話の内容はさておくとして、無駄な喋りで最低ラインを越えることができたのだ。

 あまり嬉しくはない。

 それでも肺魚の子孫十六号はキーボードを叩き、物語を動かそうとしている。

 ウィーヴィーケイツン・アッパッパバーフィイースルドジャポネム・ディルファムは、自分と同姓同名の人物が視聴中の番組に出て来そうな展開に驚いている。

 五千字を越えたので、私は本作品を投稿する。

 この児童向け長編作品の「種」または「核」が芽吹かないかな~と淡い期待を抱きながら。


                  一二


 昭和十六(1941)年十一月二十六日未明、ある人物の枕元に択捉エトロフ島の神を名乗る霊的存在が立ち、こう言った。

単冠ひとかっぷ湾に集結した軍艦へ作戦中止を命じよ。ハワイへ行ってはならぬ。戦いを起こしてはならぬ」

 そう言われた人物は驚き、かつ恐怖した。その理由は二つある。一つは怪異現象を目の当たりにしたため、そして最高秘密が漏洩していたためである。

 北海道の択捉島単冠湾を出航した日本艦隊がハワイの真珠湾攻撃へ向かうことを、その霊的存在は知っていた。これは由々しき事態だった。

 日本はアメリカとの戦争を決意していた。勝敗の鍵を握るのが海軍によるハワイ奇襲だった。ハワイのオアフ島真珠湾にあるアメリカ海軍基地を攻撃し、そこに停泊中の艦艇に大打撃を与えようというのである。

 奇襲攻撃に成功したら、日本は優位に戦争を進められるだろう。しかし、敵に情報が洩れていたら状況は逆転する。ハワイのアメリカ海軍が完璧な防衛網を敷いて日本艦隊を迎撃するのだ。開戦早々、日本海軍は壊滅的なダメージを負いかねない。

 怪奇に怯える以上に、真珠湾攻撃失敗の予感に震え上がる某人物へ、択捉島の神を名乗る霊的存在は予言した。

「この戦争は日本の敗北で終わる。自分が暮らす択捉島は他国に占領されてしまう」

 そして、こう付け加えたという。

「それを止められるのは、貴殿だけだ」

 だが、その人物にも太平洋戦争へ向かう歯車は止められなかった。

 日中戦争開戦から四年余りが経過している。泥沼化した日中戦争は日本を疲弊させ、アメリカとの対立を深めた。アメリカは日本へ向けた石油等の重要物資の全面禁輸を打ち出し、さらに中国大陸等の占領地からの日本軍全面撤退を主張していた。日本側が飲める条件ではない。戦争以外の選択肢はなかった。

 その人物が気付くと、択捉島の神を名乗る霊的存在は幻のように消えていた。

 択捉島に集結した日本艦隊は昭和十六(1941)年十一月二十六日午前六時に全艦抜錨、予定通りハワイへ向け単冠湾を出撃した。それは大日本帝国滅亡への航海だった。


                  一三


 仙人峠という地名の場所は日本各地にある。岩手県の遠野市と釜石市を隔てる仙人峠は紅葉が奇麗なこと、そして交通の難所として知られる。この仙人峠は、その名前からして人里から離れた神仙の地を連想させるし、実際そんな感じの場所だけれど、人がいないわけではない。かつて鉱山があって大勢の坑夫が暮らしていた。その坑夫千人が落盤事故で生き埋めになった。それで千人峠と呼ばれるようになったのが、いつのまにか仙人峠に変わったと言われている。その他に、アイヌ語が元になっているとの説もある。いやいや、元は船員峠だったと唱える者もいる。

 船員峠説は、江戸時代の豪農が子孫に書き残した本の中の記述が、その根拠となっている。

 その著者は遠野郷の菊池某という長者である。彼は自らの体験や見聞きした話を書き記した。その中に、遠野と釜石を隔てる山塊に暮らす不思議な人間の話がある。

 赤い髪と鋭く尖った高い鼻が特徴的な大男で、人の言葉は話せない。その力は強く熊をなぎ倒すほどだったというから人間離れしている。

 その男と山中で出会い話をした人物がいる。江戸時代の人で阿部将翁あべしょうおうという名の本草ほんぞう学者だ。

 本草学とは薬の原料等になる動植物や鉱物を研究する学問である。それらを採集するため阿部将翁は山を調査中に、その野人と出会った。

 阿部将翁は、人の言葉が話せない大男と会話をした。そして、その異人が外国の船乗りであることを知った。

 男は異国船の乗組員だったが、船長やその他の船員とトラブルを起こしたため罰せられそうになったのでボートを奪って船を脱出し、陸地へ逃れたのだと説明した。

 その元船員は阿部将翁に、この近隣に鉄鉱石が採れる場所があると教えてから立ち去った。北へ向かうという。蝦夷地を経由して大陸へ渡るつもりとのことだった。

 ここで二人の会話の場面は終わっている。

 疑問が湧いてくる。

 外国人の元船員との会話から、これだけの情報を聞き取った阿部将翁とは何者か?

 盛岡藩(南部藩)領閉伊へい郡の出身で、中国本土へ渡航し本草学を学んだとも、長崎のオランダ人からヨーロッパの学問を教わったとも伝えられている人物だ。鎖国時代の日本人としては十分に国際派と言えよう。

 国際人の阿部将翁はオランダ語の会話が可能だった可能性はある。あるいは他のヨーロッパの言語もペラペラだったかもしれない。

 阿部将翁その人が異人の血を引いていたことも考えられる。柳田国男『遠野物語』によれば閉伊郡の沿岸部には西洋人の洋館が幾つも建っていたようだ。日本人との通婚もあったらしい。鎖国体制下の日本でも、外国人との交流は盛んだったのである。 

 阿部将翁の親が西洋人だとしたら、親の母国語を習得していた可能性はある。

 遠野郷の菊池某が書いた本には、二人がコミュニケーションを取っていた言語に関する記述はない。分からなかったから書かなかったとも、分かっていても書かなかった、二つの可能性がある。後者の場合、文章に残すことで子孫が被るかもしれない後難を避けたのだろうか。

 異人の船乗りがいた峠を阿部将翁は船員峠と名付け、その人物からの助言に従い鉄鉱石の鉱山を見つけたことが記されて、この話題は終わっている。

 菊池某の死後に起きたことを書く。阿部将翁の発見した鉱脈は釜石鉱山となり、明治日本の産業革命に大きな役割を果たした。今は閉山している。


                  一四


 補陀落渡海ふだらくとかいなる言葉がある。補陀落と呼ばれる、南方海上にあるとされる観音の浄土へ船で行くことを差す。

 本当に補陀落へ辿り着けるのか? と疑問に思った者が昔いた。浄土へ行ってみたいものだが、行って帰ってきた者が誰もいないので事実かどうか分からない。自分が試してみようと思い立ち海へ向かった。水と食料を積めるだけ積んだ小舟に乗り沖へ漕ぎ出す。嵐が来て海は荒れた。せっかく積んだ水と食料が波に流される。そのうち小舟は引っくり返った。海に投げ出された男は懸命に泳いだが、やがて力尽きた。

 気が付くと、男は浜辺に打ち上げられていた。立ち上がり、ここはどこかと辺りを見回す。自分がどこにいるのか、彼は分からなかった。金属の柵で囲まれた石の道をしばらく歩くと、棒を持った男の絵が書かれた看板があった。

 落合博満記念館、と書かれている。

 男は確信した。ここは補陀落だと。そして、この落合博満なる者が観音様の化身だと!

 憧れの目的地へ辿り着いたことを男は大層喜んだ。落合博満記念館の看板に向かって手を合わせ、目を瞑って読経する。どのくらいの時間が経っただろう。ふと気が付くと、彼は自分の家にいた。いつのまにか帰ってきていたのである。

 これは観音様の御導きであると思った男は、信仰を広めるため自分の体験を人々に伝えて回った。その話を信じ、男が船出した紀州熊野へ旅立った者が何人かいた。そして実際に落合博満記念館の看板を見て戻って来た。中には看板だけでなく、観音様の化身である落合博満その人に会ったと語る者もいたという。

 中世の民衆に膾炙されていた仏教説話をまとめた古記録に残されている話である。


                  一五


 沖縄本島の人間には、離島出身者への差別意識がある……と語る人に話を聞いたことがある。その人は、就職や結婚で自身が受けた差別的体験を語ってから「昔はもっと酷かったと聞いている」と言った。

 その人は、地上の楽園である沖縄が起きた、ある悲劇を語った。

 離島の生まれであるというだけで沖縄本島の人間から理不尽な差別をされ、絶望して自死した青年がいた。差別のために女手一つで育てた愛息を失った母は嘆き悲しんだ。彼女は沖縄本島の人間が地獄の苦しみを味わうよう呪い、息子の後を追った。

 それから間もなくして沖縄戦が始まった。

 米軍の無差別攻撃によって多く犠牲者が出たのは広く知られているところである。


                  一六


 船乗りの仕事に見張り(ワッチ)がある。その当直勤務は基本ワンオペなので神経を使う。事故を起こしたら大変なので緊張感で張り詰めている。けれど、夜なので眠い。眠気が強すぎてぼんやりし、次第にうつらうつらとなってきて……そういうときに怪奇現象に遭遇して目が覚める、なんてことがあるらしい。甲板を人影が歩いているとか、月を覆い隠すほどの大きさの海坊主が船の横に立っているとか、船の前に難破船の幻が現れて消えるとか、色々だ。

 遠洋航路の船乗りだった人に話を聞いたが、そういった不思議な出来事は外洋へ行かずとも見られるそうだ。

 その人は竹芝桟橋で見たと語った。

 伊豆諸島や小笠原諸島から戻ってくる船の乗客に着物姿でちょんまげを結った人間がいて「あれはなんだ?」と目を疑ったら次の瞬間には消えている。霊感があると称する人によると、古代から江戸時代までの間に島流しに遭った人の霊魂らしい。

 幽霊になって島抜けしているわけだ。

 島から来る霊がいる一方、行く霊もいる。

 港湾事務所で長く働く霊感持ちがいた。顔が煤で汚れた老若男女の霊を数えきれないほど見かける日が毎年あって、その日のカレンダーに書き込んでいたら、はたと気付いた。三月十日と九月一日に集中している。前者は東京大空襲、後者は関東大震災の起きた日である。犠牲者の霊が被災地を逃れたくて埠頭を彷徨っているのか、と思ったそうだ。

 豪華な着物を着た女性の幽霊も桟橋で見たとも聞いた。ワッチの話をしてくれた船員は花魁道中の行列を目撃したそうだ。花魁の美しさは、この世のものとは思えぬほどだったそうである(それはそうだろう、何しろ死者なのだから)。一目ぼれした船員は思わず花魁を呼び止めた。

「おおい、待ってくれ!」

 声が届いたようで花魁は微笑んだ。

 自分に向けられた笑顔の妖艶さに心打たれた船員は、すっかりのぼせてしまった。

「好きになった、付き合ってくれ!」

 随分とストレートな告白である。亡霊に恋してしまうなんて、どうかしている……とは、これっぽっちも考えず船員は花魁道中を止めようとした。花魁は申し訳なさそうに頭を下げ、島から戻る愛人を迎えに来たのでお相手できない、と言うような趣旨の返答をした。

 カウンターでごめんなさいされ、船員はショックを受けた。しかし、花魁の幸せを願い潔く身を引く決心を固めた。そして愛した花魁のために、島から戻る愛人の乗った船を双眼鏡で探してやったという。長年のワッチで鍛え上げられた眼力が、埠頭に近付く幽霊船を見つけ出す。

「こちらへ近づく昔の船が見える。あれじゃないのか! あの船に乗っている男が、こっちに手を振っているぞ」

 花魁の顔がパッと輝く。彼女は船員に礼を言った。

「ありがとうございます、あれが、あれが、わっちの男でございます」

 愛し合う二人の邪魔をするのは野暮というもの。何度も頭を下げる花魁に背を向けた船員はマドロス帽を深くかぶって瞳の涙を隠しつつ、パイプの煙草を吹かしながら埠頭を後にしたそうである。


                  一七


                 <第一幕>


 トリグッズを探索する旅に誘われたが、同行すべきか迷っている。

 私を悩ませる理由の一つが自分自身の健康状態だ。

 眠くないのに寝てしまうことが度々ある。夜はグッスリ寝ているつもりなのだが、それにもかかわらず、日中に眠ってしまうのだ。

 先日も絶対に失敗してはいけない場面で不始末をしでかしてしまった。

 トリグッズを探し求める旅の途中でも、同じことが起きないとは限らない。

 それが危険なシーンであったなら、旅の同行者に多大な迷惑を掛けることなるだろう。謝って済まない大失態をやらかしてしまわないか、不安で仕方がない。

 返事は待ってもらっている……さあ、どうするか。

 トリグッズ探索の旅に私を誘ってくれた人間について触れておく。

 個人情報の漏洩を防ぐため、その姓名を明かすことはできないが、立派な職業に就いた社会的地位の高い人物であることは私が保証する。

 探索者としての経歴は私より短いけれども、その実力が私より長じているのは間違いない。実績を見れば明らかだ。聖杯の発見、プレスター・ジョンの国の再発見、恐竜の生き残りの捕獲、火星と金星の探査などは有名な話であり、聞いたことのある方がいるかもしれない。

 優しく温厚な人柄で、雪男を一度は捕らえたものの同情し逃がしてやったことから、その一族との交流が長く続いていることも一部では知られている。あまり知られていないが身分を隠し一般人として暮らしているエルビス・プレスリーの信任を得た秘密代理人でもある。

 要するに、折り紙つきの探索者なのだ。

 その人物から支援を求められたとき、私は自尊心をくすぐられた。そして自分も探索の旅に出たいと思ったのである。

 トリグッズを探す旅は危険なものになる、と私は説明された。

 難しい探索行であることは百も承知だったので驚きはなかった。

 驚いたのは、私の他に参加を促した面々の名を聞いたときだ。

 信じがたい面子だった。

 たとえば、その中にイスラム過激派アルカイダの指導者ウサマ・ビンラディンの名があった。米軍に殺害された後アラビア海に水葬された亡骸を回収し、その遺伝子を修復して埋め込んだクローン人間が某国で密かに作られていたのだが、これに声を掛けたというのである。

 ウサマ・ビンラディンのクローン人間に何をやらせるつもりなのか、私には想像できない。普通の方法では成功が見込めない探索であることだけは分かった。

 トリグッズ捜索隊結成の噂を聞きつけ自ら参加を願い出る人間がいたと知らされた。一切が秘密の話だったから、どうやって情報を入手したのか不明だが、その人物は「自分に任せてもらえればトリグッズの取得は簡単だ」と言ってきたそうだ。

 自分は以前からトリグッズを調査していたと、その人間――実際に人なのか不明だ。正体はAIかもしれないし、未知の知的生命体かもしれない――は言った。いわば、その道のプロなのだそうだ。プロの自分が捜索に加われば事は容易い、すべての権限を委ねてもらえば絶対確実だ……その分の報酬はたっぷりいただくがね、と自信たっぷりなので、逆に怪しく思い断った、とのこと。

 吹聴するときは加減が大事なのだ。

 そういう点では、私は信頼されるタイプだと思われる。自慢話は基本、しない。

 繰り返しになるが、私は基本的に自慢話をしない。

 手柄を吹聴すると面倒に巻き込まれることが多いからだ。

 宣伝するとメリットがあるだろう、と大抵の方が思われるようだが、私の場合は、その逆が多いと感じている。

 今も少々、厄介な仕事の依頼が来た。カクヨム甲子園創作合宿の第1回テーマ「夏休み」に向けた作品への支援要請だ。

 要するに執筆の援助を乞うているのだが、私は高校を卒業しているのでカクヨム甲子園への参加条件を満たしていない。そのイベントに関与してはならないのである。

 その理由を述べて依頼を断ったが、相手は引き下がらない。合同で連合チームを作ると言っている。野球部員が足りない高校じゃあるまいし、それは認められないだろうと話しても、しつこく勧誘してくるから本当に困った。

 先約があるのでお断りする、と私は伝えた。それで話を打ち切るつもりだった。しかし相手は諦めない。私に尋ねてきた。

「それはトリグッズを探す冒険の助っ人だろう?」

 他からの仕事の話をするわけにはいかない。問いかけに答えない私に耳障りな笑い声が浴びせられた。

「イヒヒ、言わなくたって、わかる。図星だろう」

「違うね」

「嘘を吐くなって。そこいらの連中は今、目の色を変えてトリグッズを追っかけてる」

「そう言うアンタはトリグッズを追わなくて良いのかい?」

 相手はキヒヒと笑って答えない。

「何だよ、気になるな。何か知っているのなら、教えてくれたっていいんじゃないか?」

 笑い声が大きくなった。

「イヒ、キヒヒ、イヒヒヒ! 教えてやってもいいけど条件がある」

「さっきの話なら、なしだぜ」

「そうじゃねえ。トリグッズを、もしも手に入れたら、こっちにも分けてくれってことだ」

 手に入れたトリグッズが分けられるものなのか、私には分からなかった。

「トリグッズには種類があるようだ。品物によっては分割できないだろうよ」

 そう言う私に脳内電波で相手が語った。

「最初の週はトリのスマホリングだ。輪っかなんだから、切ればいいんだよ」

 スマホリングを切って何の意味があるのかと、私は尋ねた。

「あるのさ。スマホリングには、物凄い価値があるんだからよお」

「そんなに立派な物なら、アンタも狙えばいいじゃないか」

「ライバルが多いのさ、例えば」

 脳内電波で通信している相手は何か言いかけたが、語らずに通話を切った。


                 <第二幕>


 脅迫状が届けられた。今朝の発見までの経緯を綴る。

 朝のジョギングから戻り汗で汚れたシャツを着替えながら家の裏手にある船小屋を何の気なしに見ると、その木の壁に白い風車が回っていた。そんなところに風車を付けた覚えはない。その風車の柄に何か小さく白っぽい物が付いている。窓越しだから、それが何なのか分かりにくかった。勝手口の網戸を開け庭へ出る。船小屋へ向かう。湖からの涼やかな風を受け、見慣れぬ風車がクルクル回っていた。私は近づいて風車を眺めた。木製の壁に風車の柄が突き刺さっている。その柄に細く折りたたまれた紙が結びつけられていた。私は風車の柄を壁から抜き取り、それに結ばれた紙を外し、広げて中を見た。

「トリのスマホリングは預かっている。返して欲しければ、トリのブックカバーと交換だ」

 朝っぱらから脅迫である。冷や汗が背中を流れ落ちるのが分かった。せっかくシャワーを浴びて着替えたというのに、これだ。まったく、なんて朝だ! とぼやく。タバコが欲しくなったが、禁煙したことを思い出す。口寂しいが指をしゃぶるわけにもいかない。私は試しに風車の柄を横にしてくわえてみた。そのときだった。

「おばあちゃん、なにしてんの?」

 振り返ると孫娘のアイリータが目を丸くして私を見ていた。

「え」

「だ・か・ら、おばあちゃん、なにやってんのって聞いてんの!」

「え」

 アイリータは曲げた両手首を腰に当て上半身を前へわずかに傾け、私に向かって可愛らしい顔を突き出した。

「おばあちゃん、また補聴器を付け忘れてる!」


                 <第三幕>


 対岸の一か所へ向けて固定された監視カメラのレンズフードにトンボが止まっていた。大きなトンボだった。噛まれると痛い奴だ。昔やられたことがある。あのときは血が出た。指先に食いつかれたのだ。幸いなことに傷は浅かったので、舐めていたら血は止まった。跡は残っていない。

 それでも若干のトラウマが残っている。出来ることなら近寄りたくない。

「ヘイヘイヘイヘイヘイヘイ、ヘイユー! お前だよ、お前、そこのユーだよッ!」

 私は振り返った。ワイ氏の姿が、そこにあった。

「ヘイユー! ボケっと突っ立ってんじゃねえよ! 早くカメラを調べろよッ!」

 私は言い返した。

「ユウユウユウユウってうっせえな! 俺はユウじゃねえ!」

「ほ~ん……それじゃ、お前の名前、何てえんだよ?」とワイ氏。

「トリのクリーナーに決まってんだろバカタレ」

 青筋がワイ氏のこめかみで脈動した。

「ヘイヘイヘイヘイヘイヘイユーゥゥゥツ! 何だぁその口の利き方はよッ! 俺を舐めんじゃねえよッ!」

「お前の汚ねえつらなんか誰が舐めるかよバカ鏡見てからもの言え」

 ワイ氏の目の下に垂れたブヨブヨした肉の塊がプルルと震えた。

「ヘイユーッ! 死にてえのかよッ! てめえ、俺に殺されてえのかよッ!」

 私は腹の底から笑った。

「お前なんかに殺せるのは、いたいけな幼児だけだ」

 ワイ氏は顔面蒼白になった。痛いところを突かれたせいだ。この男は小さな子供に悪戯した前科がある。幼児を殺した疑いも掛けられた。徹底的に調べられたが、証拠が出なかった。当人は犯行を否定している。だが、こいつの言うことなど誰も信じはしない。やったというのがもっぱらの噂だ。

「遠慮はいらねえ、かかってこいよ」

 ワイ氏が右足を踏み出し前傾姿勢を取った。私は右足を引いて身構えた。「そこまでだ」

 私とワイ氏は声が聞こえた方を見た。

 男が立っていた。私をトリグッズ探索の旅へ誘った人物である。

 男は私たちに言った。

「ここまでだ」


                 一七の終わり


 物語人工生成魔術の効果が、ここで切れた。魔法の力でトランス状態となり自動書記を続けていたエムエムオウ氏の筆が止まる。物語人工生成魔術といっても、限界があるのだ。魔法の力とは結局のところ、術者の力量に左右される。集中力のない人間には概ね、魔力が備わっていない。彼の能力的には、ここらが限界だった。

 それでもエムエムオウ氏は、ここから頑張った。物語人工生成魔術の効き目が途切れた後も机に齧りつくようにして、自力で執筆を続けたのである。こういう踏ん張りは、彼には珍しいことだった。辛抱とか我慢とか努力とかいう言葉とは、まったく縁のない人生を送ってきたのだ。それで渡っていけるほど世の中は甘くない。彼は厳しい現実世界に耐えかねて、ファンタジーの異世界へ渡った。

 その世界は、彼のような無能に対し、とても優しい。ハンディキャップがある人を保護するように、現実世界から追放された能無しの皆様に優れた能力を提供する。いうなればチート級のスキルがあれば生活できるだろうという見込みでサービスの現物給付を行っているわけだ。しかし無能は、どこまで行っても無能だった。優れた能力を持っているにもかかわらず、パーティーの他のメンバーから役立たずだと思われ、パーティーから追放されてしまうのであった。チートな能力を付与するなら対人スキルにしておけ、と思わざるを得ない。

 それはともかく、このファンタジーな異世界においても厳しい人間関係というか人間無関係を突き付けられたエムエムオウ氏が小説書きという孤独な作業を選んだことについては、彼にしては比較的まともな選択と言えなくもなかった。逆上して通り魔や放火をするより、遥かに良い。しかし、それが幸福への道筋なのか、と考えてしまう出来事が起きた。

 冒険者ギルドが発行する会報の読者投稿欄に、またも自分が書いた小説と類似した作品を見つけ、エムエムオウ氏は再び大激怒したのである。

 それは以下の物語だ。


                  一八


      〔冒険者ギルドが発行する会報の読者投稿欄より抜粋〕


 階下の通りからモンクレア・ロダン・カルカソンヌの情けない声が聞こえてくる。

「立派なマホガニー材のお仏壇だよお、お先祖様の霊魂がいっぱい、いっぱい詰まっているんだよお。買っておくれよお、誰か、誰か後生だから買っておくれよお!」

 めかし屋チンチャケイドは窓の外から流れ込んでくる墓荒らしの哀切極まる声に耳を傾けながら言った。

「面白いよね」

「何がです?」と私は尋ねた。

「モンクレア・ロダン・カルカソンヌの、あの売り声だよ」

 どのように受け答えするのが最善なのか分からなかったので、私は相槌を打つだけにとどめた。幸いなことに、商売上手な墓泥棒に関する話題を向こうの方から勝手に話し始めてくれた。

「立派なマホガニー材の仏壇だ、そんじょそこらじゃ手に入らない逸品だ、詰まっている霊魂は一級品揃い、それなのに今すぐ使える簡単な仕様でセッティング済みだ、これさえあれば今日からあなたも古今無双の死霊使いネクロマンサーだ! と偉そうにほざいて高値で売りつけていたのが、あれだよ」

 握り拳から立てた親指で窓の方を指して、めかし屋チンチャケイドはぐすりと腹黒い笑い顔で言った。

「お願いだから買って下さい! だとさ。町の皆の同情を集めて売りつけようとしていやがる! ちゃんちゃらおかしいよねえ。イカサマ商売ばかりやっていたばちが当たったんだよ。そう思わないかい?」

 私は微苦笑を浮かべた。いや、実際に微苦笑かと言われたら、自信がない。実際のところ、私はモンクレア・ロダン・カルカソンヌに同情していた。ついでに言うと、明日は我が身かもしれないという危機感もあった。あの詐欺師の陥った境遇は他人事ではなかったのだ。

 様々な売り物を扱う行商人である私は魔法に関連した商品も取引している。その中には由緒正しいようで実はまがい物というものが時々ある。信用第一の職業なので、胡散臭い品物は仕入れの段階で弾かせていただくが、どれほど注意を重ねても怪しい物品の入荷が起こってしまうもののだ。

 そんな偽物に高い金を支払ってしまった相手は当然のことながら激怒する。あいつは詐欺師だ! もう取引しない! と町中で言って回った。正直こういう商売には、そういった事態はつきものなので、誰もがモンクレア・ロダン・カルカソンヌの不運に同情した。売った相手が悪かったのだ。馬鹿正直を売り物にする尼僧団の魔術教官は、売り手の失態を許さなかった。不正な商取引と主張し裁判所に売買停止を求める仮処分申請を行い、治安判事がその訴えを認めたため、哀れ仏壇売りは市場での商売が禁止されてしまった。正式な判決が出るまでの間、市場以外なら売っても良いとのお達しは出たものの、格式の高い市場で売れない商人からわざわざ高額な商品を買う者はいない。かくしてあの男は商品と同情を抱き合わせで売る状況にある……いや、誰も買っていないか。元々インチキ商品を知らん顔で売っていた詐欺師だから、当然の報いが来たまでの話だった。

「おわかりのことと思いますが、私は、あの詐欺師のような輩とは違いますよ。私が今回持参した仏壇は黒檀と紫檀それに鉄刀木タガヤサンからできています。どの木材も最高級品質であることはいうまでもありません。使われている希金属部品は宇宙サメの生体軟骨と魔界第四鉄の合金にオリハルコンを平均二十五パーセント添加したもので、霊脳力を二倍に増量すると言われています」

「魔術回路の接続具合を確認しても構わないかな」

「どうぞご自由に」

 私が持参した仏壇から延びるコードを、めかし屋チンチャケイドは自分の両方の鼻の穴へ差し込んだ。フン! と気合を入れる。仏壇のロウソク型照明が光った。私とチンチャケイドは眩い明かりに目を細めた。めかし屋は満足したらしい。その二つ名の由来となった、衣服に付けられた多くの豆電球がキンラキンラキラキラリと色々な色で瞬く。

 鼻からコードを引き抜いて額を汗を拭ってから、実は美少年の――書き忘れていた――めかし屋チンチャケイドは言った。

「私と仏壇の魔力同期性に問題はないようだ。続いて封印された魂のパワーを測定したい。しばらく預からせてもらうよ」

 私はニヤリと笑った。

「申し訳ございませんが、それはご勘弁を。やるのでしたら、私が同席しているときにお願いします」

 めかし屋チンチャケイドの服に取り付けられた豆電球が黒く染まった。

「おいおいおいおいデルノステ君。それはないんじゃないのかな。サルコヴィーの町で一番の魔法使いスパダリンリーン・チンチャケイド様がだよ、買おうとした商品に対し何か細工をしようだなんて考えてはいないだろうね?」

 滅相もございません、と心にもないことを言うだけ言っておいてから、本当に言いたい言葉を付け加える。

「魔法の仏具や魔術用品を地下迷宮ダンジョンから運び出す戦士階級の冒険者たちが、売買契約締結前に売り物を買い手に預けることを嫌悪しておりまして。そこが大切なことなのでございますよ。御存じの通り、これらの品物は彼ら彼女らが危険だらけのダンジョンから命がけで回収してきたもの。あの者たちの意向を無視して、購入希望者に品物を預けることは、私にはできかねます」

 美少年のめかし屋チンチャケイドは氷の微笑を浮かべて言った。

「デルノステ・マクネフネド・ダムミチュドボーネン君」

「なんでございましょうか?」

「君は、この私が信用できないのかい?」

 私は左右の手のひらを胸の高さで上に向けた。チンチャケイドは怪訝な顔をした。

「なんだなんだなんなんだね、そのポーズは」

「私の出身部族に伝わる秘密の手ぶりです。困ってしまって、どうしようもない時にやります」

「困るほどもこともないだろう。この仏具を私に任せてくれたら、それでいいんだ」

 そして商品の仏壇を滅茶苦茶にされ、泣き寝入りというパターンは否定できない。モンクレア・ロダン・カルカソンヌと、あいつを訴えた尼僧団の魔術教官のせいで、こんな目に遭わされるとは……と私が心の中で嘆いた、そのときだった。

「話は聞いた」

 仏壇の中から突然ほれぼれするほど可愛らしい娘が飛び出して来た。空中で一回転してから黒いロングコートの飾り房の付いた裾をひるがえして着地する。海老茶色のブーツの踵がカツッンと鳴った。ちょっとよろめいたものの体勢を立て直して、彼女は言った。

「私は“青銅の白昼夢”尼僧団の魔術教官ドゥーモネイ・ヴォーゲル・ザップ210」

 教官というより学生みたいな外見のドゥーモネイ・ヴォーゲル・ザップ210は頭のサイズより少しばかり大きめに見える真紅のとんがり帽子をサッと取って会釈した。

「人呼んで“青銅の白昼夢”尼僧団の賢いヒロインでございます。お見知り置きを」

 美少年の魔法使い、めかし屋スパダリンリーン・チンチャケイドは美少女の尼僧で魔術教官のドゥーモネイ・ヴォーゲル・ザップ210を、こちらの知らぬ間に音もなく忍び寄ってくる毒虫か何かを見るような憎悪のこもった目で睨みつけた。

「いつの間に我が結界内部に入ってきたのだ! 何なのだ、お前は!」

「私の名前はドゥーモネイ・ヴォーゲル・ザップ210、“青銅の白昼夢”尼僧団の魔術教官でございます」

「それはさっき聞いた! 何の権利があって人の家に入り込んだのだ!」

「人の家に入り込んだのではございません。私は仏壇の中に入り込んだのです」

 ぴかぴか光る尼僧の頭に私が持って来た仏壇が映った。そのうち画面が変わった。運河を進むゴンドラが見えた。この仏壇はチンチャケイドの邸宅に面した運河を使いゴンドラで運搬したのだ。私の使い魔数体が仏壇をゴンドラから降ろし、魔法使いの邸宅の中へ搬入している。人の形をした玉虫色に煌めく使い魔の中に、色彩の変化が若干ではあるが鈍い個体があった。

「お気づきでしょうか? フフフ、この玉虫色の色調にワンポイントのアクセントが入った使い魔が、この私の変装だったのです」

 とんがり帽子を被りニコッと笑うドゥーモネイに、仏頂面のチンチャケイドが再び問い質す。

「聞いてないけど邸内に入った方法は分かった。何が目的で潜入してきたのだ?」

「潜入の目的は何か? 答えは仏壇の中にあります」

 ドゥーモネイが指し示す仏壇の中を覗き込んでチンチャケイドが首を横に振る。

「普通の仏壇と何も変わらない。一体全体、何なのだ?」

 チンチャケイドの服に付いた無数の豆電球が紫色に瞬いた。同時に、彼の全身から同系色のオーラが揺らめきながら立ち昇ったように見えた。私には、それが何を意味するのか、実を言うとよく分からない。

「私が詐欺の罪で商人モンクレア・ロダン・カルカソンヌを告発したことは、お聞きになっていることでしょう。あの人物が以前から眉唾物の商品を善良な呪術師に売りつけることで財を成していたのは裁判官もご存じでしたので、訴状は速やかに受理されました……が、それは氷山の一角。粗大ゴミ同然の品物を高級品と吹聴して売りさばこうと企む邪悪な商人は後を絶ちません。私はこの際、他の詐欺師たちも町の市場から一掃すべきだと決意し、極秘調査を始めました。その一人目が、この人物――」

 ドゥーモネイ・ヴォーゲル・ザップ210は、どこからともなく取り出したピンク色の羽根が付いたステッキで私を差した。

「デルスノテ・マクネフド・ダムミチュドーンボーネンです」

 めかし屋スパダリンリーン・チンチャケイドは眉間を指で揉んだ。

「もう一度言ってくれ」

「デルスノテ・マクネフドネ・ダムミツドボーネン」

「もう一回」

「デルノスケ・マフドネド・ダルビシュドボーネン」

「もう一回頼む」

「ノスケ……ちょっと待って」

 私に向けられたピンク色の羽根が付いたステッキの先端が上下動する。ステッキを握るドゥーモネイは私に向かって「あなたの名前はなんでしたっけ?」と尋ねた。

「デルノステ・マクネフネド・ダムミチュドボーネン」

 答えた私に「ありがとう」と礼を言ってから彼女は続けた。

「この人物が犯した罪は、詐欺師モンクレア・ロダン・カルカソンヌより重罪です。この者は仏壇の中に邪神パーロネイトモアマッシンの封印されて深い眠りに就いた魂の欠片を潜ませていました」

 チンチャケイドは強いショックを受けたようだ。美少年の外見を作る魔法の仮面が崩れ、骸骨の本体が現れた。骸骨は顎をカタカタ鳴らして言った。

「この世界を貪り食うために異世界から飛来した、とされる伝説の邪神が、この仏壇の中にいるのか? パーロネイトモアマッシンは、遥かな太古に十七人の勇者が封印したと聞いているが」

「パーロネイトモアマッシンの魂を砕いて、その欠片を世界の各地に封印した。私は、そう聞いています。そして、その一つが、この仏壇の中にあったのです」

 深刻な表情を浮かべる二人に合わせ、私も困った顔をした。実際、困っている。

「ちょ、ちょ、ちょま、ちちょっと待ってください。待ってくださいよ。伝説の邪神パーロネイトモアマッシンの魂の欠片が、この仏壇の中にある、と。商売のために私が持って来た、この仏壇に。それが何なのです?」

 チンチャケイドの骸骨が言った。

「そんな危険物を市内に持ち込むことは許されない」

「知らなかったんです。そんな物騒な物、というか魂の欠片でしたっけ。そういうのが封印されているなんて、少しもね。それに、それが法に触れると分かっていたら、そもそも市内に運び込んだりなんかしませんって。無罪ですよ、私は無罪です」

 私の主張を聞いてドゥーモネイ・ヴォーゲル・ザップ210は頷いた。

「罪びとは皆、同じことを言うわ。何も知らなかった、何かの間違いだ、自分は誰かに嵌められた、うんぬんかんぬんと」

「だから、違うんですってば!」

「違いません! 弁解するなら私にではなく、お役人に言ってくださいませ」

 窓の外から騒がしい音が聞こえてきた。私は窓辺に走った。運河に架かる橋を重装備の兵卒が隊列を組んで渡っているのが見えた。階下の通りには先遣隊が到着していたようで、めかし屋スパダリンリーン・チンチャケイドの邸宅の敷地内を、立派な鎧を着込んだ将校らしき人物が部下と共に歩いているのも見える。

「仏壇の中からテレパシーで警察署へ通報しました。観念してお縄に掛かりなさい」

 私は呟いた。

「なんでやねん」


§ § § § § § § § § § § § § § § § § § § 


 サルコヴィーの警察署は、かつて街を支配していた爬虫人類と鬼の一族が共存共栄の証として建設費用を折半して建築した古城を改造したものだ。様々な色と大きさの美しいタイルを組み合わせた外観と複雑な構造の尖塔は街の名物で、観光名所となっている。市外から市内へ入った行商人は警察署の隣の市役所で商売をする許可のスタンプを手の甲へ押してもらわねばならないので、近くを何度も歩いたが、時間がなくて、じっくり見学したことはない。今回は絶好のチャンスかと思われたが、警官たちは私に所内見物の機会を与えず、地下の留置場へ送り込んだ。

 風通しが悪く黴臭い石壁の地下牢には、私より前に叩き込まれた連中がいた。暇を持て余していた彼らは私に「お前は何をやらかした」といった質問を浴びせてきた。

「誤解なんだ。無実だ、無実の罪なんだよ」

 何を言ってんだ、こいつ。そんな顔で皆が私を見つめる。その中の一人が尋ねた。

「何の容疑で捕まったんだ?」

「売ろうとした品物に魔物が潜んでいて、それが私のせいだと言うんだ」

「仕込んだの?」

「違うよ、知らなかったんだ、勝手に入っていたんだ」

「その品物って、なに?」

「仏壇」

「入っていた魔物って、なに?」

「封印された伝説の邪神パーロネイトモアマッシンの魂の欠片だそうです」

「あ、それ重罪だわ」と誰かが言った。

「俺のおじさんは家財の一切を没収された」

「若頭は処刑されたな」

「別の魔物をサルコヴィー市内へ搬入した奴は殺された後も脳だけを永久保存されて今も精神的な拷問を受けていると聞いた」

 私は呻き声を出した。

「うう……そんな、そんな酷い話って、あるのか……」

 聞きたいことを聞くだけ聞くと皆は私への興味を失った。放心していたら留置場の警備をしていた双頭の泥人形ゴーレムが私に取り調べが始まることを告げた。

 留置場を出て取り調べ室へ入る。取り調べ室の壁は石造りではなく、前時代に製造された工業製品のセラミックを遺跡から掘り出して再加工したものだった。今日では作れない代物だ。観光収入で潤っている警察署の内装は一味違う。取り調べの担当者も何かが違った。取り調べ室には四人の人間がいた。そのうちの三名は男性だった。

 全身が光沢のある水銀に似た金属で覆われた婦人警官が私を取り調べた。

「私はサルコヴィー警察署特命係のジョージーニイ。ここら辺りの犯罪者の間では、賢いヒロインの呼び名で通っているわ。よろしく」

 この街は賢いヒロインというあだ名に何らかの深い意味があるのだろうか? 金属の胸に名札が見えた。ジョージーニイ・バウンド。一等警視正、とある。偉い人なのだろうか、そうでもないのか? さっぱり分からない。

 一等警視正ジョージーニイ・バウンドは仏壇の入手経路を尋ねた。

 ダンジョンから地上へ運び出される仏壇を卸売り市場で買ったと説明する。

 証明はできるのか? と聞かれたので現地で発行した書類があると答える。

「それを出して下さらない?」

「喜んで」

 私は呪文を唱えた。空中に書類の束が出て来たので、指で挟む。

「どうぞ」

「ありがとう」

 ジョージーニイ・バウンドは書類を読み始めた。それはダンジョン冒険家クラブと冒険者ギルドが共同で発行した本物の購入証明書類であり、書いている内容はまごうことなき真実だ。

 ダンジョンで発見された宝物は綿密に鑑定され評価額が決まる。私が競り落とした仏壇は専門の鑑定家によって異世界の日本国で第三次大戦後のシン高度成長期に製造された最高級品と判定された。遥かなる時空の旅路の果てに私の物となった仏壇は、自称サルコヴィーの町で一番の魔法使いスパダリンリーン・チンチャケイドが購入を希望したので彼の自宅へ運び込まれた。そこに現れた超絶お邪魔虫にして美少女尼僧で魔術教官のドゥーモネイ・ヴォーゲル・ザップ210が変な言いがかりをしてきたために、私はこの憂き目に遭っている。何の因果で、こんな酷い目に……といった愚痴を、調書を書いている事務の人間らしき男性に語っていたら、ジョージーニイから「少し静かにして下さらない? 集中したいの」と言われ、黙り込むよりほかに選ぶ道はなくなった。

 することがないので、自分の人生や世界について考える。

 この世界で生まれ育った私だけれども、前世は別世界の住人だった。前世の記憶は鮮明にあるし、何なら前々世の思い出も残っているよ。昔の思い出話は尽きないね。そう、たとえば、飼っていた竜の思い出。私以外には懐かず、凶暴な宇宙怪獣だと皆から恐れられていたけど、とてもかわいい獣だった。名前は忘れた。

「このダンジョンの管理者へ問い合わせてみて」

 ジョージーニイ・バウンドは私の背後に立っていた大柄な男性警官に向かって私の頭越しに書類を見せた。その警官が呪文を唱える声が聞こえてきた。私が使う魔法の系統とは異なる魔術体系に属するタイプのようで、何を言っているのか分からない。私は尋ねた。

「ダンジョンには管理者がいるのですか? そこへ魔法で連絡が取れるのですか? 管理する者のいない無法地帯だとばかり考えていたのですが」

 スタイル抜群だが、のっぺらぼうの婦人警官はウンウンと頷いた。

「ダンジョンにもよるわ。全部そうじゃないけど、たまにあるの。ダンジョンの内部が異世界と通じている場合、それがゲーム世界のときがあるから。そのゲームの世界を運営する業者に連絡が取れたら、事情が分かるかもしれない」

「ゲームの世界、ですか」

「そう」

 前世や前々世の記憶がある私だが、もっと自己の内面を観察したら、新たにゲームの世界を生きた体験が蘇ってくるのかもしれない。だが、それはまたの機会で良い。

「それで、私の容疑なのですが。それは一体、何なのでしょう」

「邪神パーロネイトモアマッシンを市内へ持ち込んで復活させようとした罪です」

「ちょいと待って下さいよ? その邪神を復活させると、街はどうなるんです?」

「滅亡します。言うまでもありませんが、その罪は重いです。最高刑に相当します」

 私は困惑の表情で言った。

「いや、いや、いや、それは違うんです。まったくの誤解なのですよ。遥かな太古に異世界から転移してきたと思われる魂が宿った仏壇がダンジョンの奥にあって、それを冒険者たちが回収してきて、競り市に掛けたのを私が買った。ただ、それだけなのですよ。むしろ、そんな恐ろしいものを売りつけられた私こそが被害者ですよ」

 ここで頑張らないと私は冤罪の被害者になってしまう。何とかして誤解を解かないことには、家財没収やら死刑やら、私の脳だけ取り出されて精神的な虐待もあるそうだから、もう必死になって弁解しないといけない。そう思って必死に、それこそ気合の入りすぎで頭に血が上りまくって脳の血管がぶち切れそうな勢いで私は弁明した。「私は何も知らなかったんです。本当です。信じて下さい。何も知らずに買った商品に禁制の品が入っていた、それで私の罪になるのですか? これは絶対に、そう絶対に間違っています。大体にしてですよ、私がサルコヴィーの町に何の恨みがあるって言うんですか? 私は、この街で稼がせてもらってます。そんな大事な場所を滅ぼそうなんて、思うわけがないですよ」

 ジョージーニイ・バウンドは銀色の髪の枝毛を探しながら言った。

「無差別大量殺人を目論んでいる犯罪者予備軍は後を絶たないわ。逮捕しても逮捕しても、後から後から湧いて出てくる。いたちごっこよ。それでも、我々サルコヴィー警察は負けない。邪悪な存在と完全に立ち向かうの。町の平和を保ち、市民を災厄から守り抜く」

 私は自分が無差別大量殺人を企む犯罪者だと疑われていることに気付いて、ゾッとした。そんなこと、一度だった考えてことはないぞ!

 この相手には理性的な話し合いが通じない恐れがある、と私は思い至った。理屈ではなく、感情に訴えかけるアプローチに路線を切り替えよう。

「あんまりです、こんなの、あんまりですよ。どうしたらいいんです、私は! 正直に商売をしていたのに、詐欺師どころか無差別大量殺人犯の疑いを掛けられるなんて、酷すぎますよ。助けて下さい、お願いします、どうか助けて下さいませ! 何でもしますから許して下さい、お願いですぅ、頼みますからぁ……」

 涙を流して訴える私に向かって、涙を流す目が顔に見あたらない女性一等警視正は冷たく言った。

「あなたが手下としてこき使っていた詐欺師モンクレア・ロダン・カルカソンヌは、あなたよりもっと泣き真似が上手かったわよ。あなたに脅されて悪い仕事を嫌々手伝わせられたって、とても後悔していた。あなたを死刑にするために、何でも捜査に協力するから、自分のことはどうか許して欲しいって言っていた」

 私が愕然とした。いつの間にか、私は主犯格になっていた。モンクレア・ロダン・カルカソンヌが自分の罪を許してもらおうと、嘘の密告をしたのだ。

「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと、ちょっと待って下さいって。私とモンクレアは何の関係もありませんって! どうして私があいつのボスになっているんですか!」

「脅されて無理やりって言ってた」

「だ、だ、だから、無関係なんです!」

 ジョージーニイ・バウンドは銀色の髪から抜き取った枝毛を床に払い落とした。

「残念だけど賢いヒロインとしての私の頭脳は、あなたの無罪を完全に証明できずにいる。邪神パーロネイトモアマッシンが仏壇に入っていたことを、本当に知らなかったのか? それとも故意の犯行か? それによって結果には天と地くらいの差があるわ。それをちゃんと見極めないと」

 枝毛を見つけ出す暇があるなら真実を見つけ出して欲しい、と私はごねた。後になって考えると、それが相手の心証を悪くした恐れがある。ジョージーニイ・バウンドは私を重犯罪者用の留置場へ入れるよう部下に命じた。

「さっきまであなたがいた留置場は軽犯罪者用なの。大量殺人を考えている凶悪犯を入れておくわけにいかない。別の場所へ移ってもらうから」

 状況がさらに悪化したことを私は自覚した。呟く。

「なんでやねん」


§ § § § § § § § § § § § § § § § § § § 


 重犯罪者用の留置場は、サルコヴィー警察署の最上階にあった。小さな窓ガラスの手前に太い鉄格子が数本嵌められており、ただでさえ狭い窓がもっと見えにくくなっていたけれども、窓があるだけ先程までいた軽犯罪者用の地下留置場より圧迫感が無くて過ごしやすい気がした。

 部屋の隅に置かれたマットレスへ横たわり、一息つく。マットレスの横にある黒い壁に浮き出た謎の染みを見ながら、口唇を噛む。

 状態は最悪だった。何も悪いことをしていないのに、物騒な重犯罪者だと勘違いされているのだ。人権意識なんて高級な思想とは無縁な連中ばかりが暮らしている野性の都市サルコヴィーの警察は、私のために弁護士を呼ぶ気配が微塵も感じられない。理不尽な話だ。まるで悪夢だ。これが夢なら醒めて欲しい、今すぐにでも。少しでも早く。とにもかくにも、この悪夢が終わって欲しい。

 そんなことを考えていたら黒い壁に浮き出た謎の染みがズズズと動いた。目の錯覚だと思ったら、染みがボトリと音を立てて床に落ちた。染みの中から黒く長い髪を腰まで垂らした灰色の上っ張りを着た年齢不詳の女が出てきた。

「うおぅ……」

 声にならぬ悲鳴を上げて私はマットレスから起きようとした。しかし何たることか! 体が金縛りに遭い、動きたくても動けないのである。

 灰色の上っ張りを着た長い髪の女は私が横になっているマットレスの横に立ち上がった。身長は高い。いや、見上げているから高く思えるだけもしれない。

 正体不明の女は黙って私を見下ろしている。私も彼女から視線を逸らせない。私と彼女との無言の睨み合いは、一体どれくらい続いたのか……無限の時が流れたような印象だが、意外と短時間だったようにも感じられた。

 無言の行に飽きたのは向こうの方が先だった。女は言った。

「お前は、誰だ。ここへは誰に頼まれて来たのだ。言え、言わないと殺す」

 口が上手く動くか心配だった私は唾をゴクンと飲み込んでから話し出した。

「誰かから頼まれて、ここへ来たのではありません。自分の遺志で来たのでもありません。私がここへ来たのは、強制連行されたからです。それも、無実の罪で」

 女はしばらくの間、何も言わなかった。やがてマットレスの横を離れ、反対側の壁際に向いて立ち、それからやっと話し始めた。

「お前の体臭は異常な匂いがする。臭いのだ、あまりにも臭すぎるのだ。どう考えても、お前はおかしい」

 不気味な女に対する気味悪さより、臭い臭いと連呼されたことへの怒りが私の中で上回った。反論する。

「私の体が臭いのではございません。私が先ほどまで入れられていた地下の牢獄が黴臭かったのです。その匂いが衣服に沁みついてしまったのでしょう」

 女は私を横目で見た。

「着ている服も、元から臭かったのではないか? センスも良くないし」

 失礼な話だった。私が着ている濃い茶色の上着と緑色のズボンは、サルコヴィーの如き野蛮人の住処とは洗練さにおいて桁違いの美の都●▽(注:原著に記載されていたはずの文字は飛び散った血液の汚れで見えなくなってしまっており、解析機器の力をもってしても判読困難だった)の天才デザイナーの手による一品で、それに私は常に香水を振り撒いている。臭いはずがないのだ。

「この風雅な香水の匂いを理解できない、そんな美的感覚ゼロのあなたは一体、何者です?」

 言った瞬間、私は後悔した。心臓の辺りに強い痛みを感じたのだ。すぐさま呼吸が苦しくなる。水に溺れて息ができないときのような時間が、どれほど続いたのか? 突然その苦しみが和らいだ。私はゼーゼーと喘いだ。

 そんな私の横に再び女が立ち、恐ろしい目で私を威圧した。

「このサルコヴィーの守護天使の一人、シービープーラス・スサーナ・パリシアナに対して無礼な口をきく者は断じて許さない」

 痛みは引いていった。自分のしでかした大失態の許しを請うためなら焼き土下座を十セットくらいならばやっても良いくらいの苦痛だった。私は態度を改め、心からの謝罪の言葉を口にした。相手は受け入れなかった。

「誰に頼まれてここへ来たのか、答えよ」

 同じ質問である。うんざりしながら「誰からの依頼でもございません。自分の遺志でもなく、無理やり運び込まれたのです」と答弁する。

 どこからともなく黄色い液体の入ったガラス瓶を取り出した女は、私の全身に瓶の中の液体をぶっかけた。その悪臭に私は吐き気を催した。

「うえぇぇ……守護天使様、この液体は何なのです?」

 ガラス瓶を手品のようにサッと消してシービープーラス・スサーナ・パリシアナは言った。

「聖水だ。消毒と消臭効果がある」

「そんなにか」

 それから地味で陰気臭い守護天使は私の頭をむんずとつかんだ。

「痛い! いえ、痛いでございます。ああ、守護天使様、痛いでございますですよ、はい。もう少しお手柔らかにお願いします」

 私の哀願を一切聞かず、サルコヴィーの守護天使の一人を名乗る暴力女は人の頭を鷲づかみしたまま、この体を持ち上げた。物凄い握力だった。頭が割れるくらい……まあ実際の話、頭が割れたことは一度もないのだけれど、それくらい痛い。この女は私の頭を握り潰すつもりなのだろうか?

「あの……何をなさっているのです?」

 シービープーラス・スサーナ・パリシアナは細い口唇を長い舌でベロリと舐めた。

「お前の頭をサイコメトリーで読み取る。それで何もかも分かるだろう。もしもお前の話が嘘だったら、ただでは済まないからな」

 私の知識ではサイコメトリーとは、遺品などに残された人間の思いを読み取る似非科学だったが、それはこの際どうでもいい。

「サイコメトリーでございますか! 初体験なのですが、いやはや、これはもう最高でございますな! このために自分は生きてきたのだと、たった今わ、わ、かりました……ところで、守護天使様! お聞きしたいことがございます」

「何だ、うるさいぞ」

「申し訳ございません。あのですね、とても痛いのですけど、どうにかなりませんか?」

「ならん」

「そうでございますか! それでは、あの、えっと、これは一体、一体いつまで続くのでしょうか?」

「しばらく続く」

「し、しばらくとは……何秒くらいでございますか?」

「お前の頭の構造は読み取りにくい。十数時間は掛かるかもしれない」

 私は気が遠くなった。いや、いっそ失神できたら、どれほど幸せか!

「麗しの都サルコヴィーの偉大なる守護天使のお一人、美しき魂の化身にして女性美の権化シービープーラス・スサーナ・パリシアナ様に謹んでお願いがございます」

「お前の願いをかなえるかどうかはともかくも、言うだけ言ってみろ」

「サイコメトリーの間、眠らせていただくわけには、まいりませんでしょうか」

「不可」

「痛みを和らげる魔法をかけてはいただけませんでしょうか」

「断る」

「それでしたら、せめて、何か、ご慈悲を……」

 シービープーラス・スサーナ・パリシアナは、私の体をぷーらぷらと揺らしながら言った。

「暇潰しになるような情報を、お前の頭に注ぎ込んでやろうか。いと賢きヒロインと天上世界で褒め称えられる、このシービープーラス・スサーナ・パリシアナが、この部屋に引きこもっている間、暇に飽かせて書き散らした小説の文面だ」

 私は涙をポロポロポロポロこぼしながら礼を言った。

「ありがたき幸せに存じます。本当にありがとうございます」

 いと賢きヒロインはヒヒヒと笑った。

「感謝するのは読み終わってからで良いだろうよ」


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『速いカタツムリに賭けろ! すべてを賭けろ!』


 昨年末から始まった○ド●ワ協賛の列島縦断オリンピック耐久レースは、いよいよ中盤戦に突入した。個人から団体まで、出場する全選手が荒廃した日本列島を自力でひた走りゴールを目指す過酷な競技は今、世界中から注目されている。現在のところ首位から最下位まで団子状態で毎日トップが入れ替わる白熱した戦いが続いており、どのチームが優勝するか予想できない状態だ。一瞬の隙で一気に順位が落ちる、まさに油断したら終わりの緊迫した勝負の連続といっていい。当然ながら出場者のストレスは大変なもので、それに打ち勝つのも一苦労だ。つまり列島縦断オリンピック耐久レースはライバルとの戦いであると共に自分との闘いでもある。

 そんな息詰まる熱戦を繰り広げる出場チームの中で、異彩を放つ合同グループがある。別の世界からやってきた外訪者たちが結成したジャンボ蝸牛かぎゅう、かたつむりチームだ。

 カタツムリは誰もがご存じだろう。その動きは遅く、競争に向かない動物といっても間違いではない。しかし毒物で汚染され、さらに危険な怪物たちの蠢く荒野が舞台の列島縦断オリンピック耐久レースでは事情が異なる。毒物の侵入を防ぐ働きを持つ粘液と怪物たちの攻撃を跳ね返す硬い殻で防御されたカタツムリは耐久力に優れており、このレースにうってつけなのだ。

 異世界からの訪問者たちは、生体改造と魔力で巨大化かつ強化した特大サイズのカタツムリの体内に、自分たちの体をミクロのサイズにまで縮小させて乗り込み、内部からカタツムリを操縦・操作している。カタツムリのパワーアップのおかげで元から高い防御性能に加え速度も大幅に改善し、操縦者たちのサイズダウンの努力が実り操縦性や居住性も桁違いに向上した。

 ジャンボ蝸牛チームのリーダー、ルーボンノキャ・フラナガンズラン氏は、こう語る。

「我々のチームは良い状態でレースを進めている。手ごたえを感じているよ。優勝圏内にいると思う。このままのレース展開で、今の調子を維持していければ、好結果は必ず付いてくるはずだ」

 列島縦断オリンピック耐久レース主催者の広報は、解説者による次のような今後の予想を発表している。

「(前略)ジャンボ蝸牛チームは予想より善戦していると思った。これなら、まさかの結果がありえるよ。あのチームが勝ったら、高配当が期待できるね。賭けた人間は今頃、興奮して眠れないんじゃないかな。多くのブックメーカーはノーマークだったからね」

 この新聞記事を読んで、私は全身が震えた。それ、俺のこと? そう思った。そう、私はジャンボ蝸牛チームに、ちょっとした額の金を賭けたのだ。

 列島縦断オリンピック耐久レースの状況はテレビやラジオに新聞そしてインターネットのニュースで毎日確認していた。ただし私の暮らしている地域では詳細な情報は入手できず、上位三チームの名前ぐらいしか報道されないことが多かったので、ジャンボ蝸牛チームがどうなっているのか、さっぱり分からなかった。他の賭け事で大損を出した私は、ジャンボ蝸牛チームの勝利にわずかな望みを抱く反面「どう考えても無理だろ、どうして俺はこんなのに賭けたんだ?」との後悔に苛まれていた。

 しかし今、消えかけていた希望の灯が赤々と輝き始めた。これ、いけんじゃね? 勝つんじゃね? 大逆転じゃね! そう思った私は現在の順位を確認しようと、スマートフォンをチェックした。順位が出ている記事を見つけた。三位までしか掲載されておらず、ジャンボ蝸牛チームの現在位置は分からない。もっとマニアックな情報が欲しかった。しかし調べ方が悪いのか、検索に引っ掛からない。

 苛々していたら床屋の親父が私を呼んだ。

「次でお待ちの方、どうぞ」

 私はソファーから立ち上がり鏡の前の散髪用の椅子に座った。

「どうします?」

「短くしてください」

 不毛にも思える質問と返答に続いて、薄くなった私の頭の散髪が始まった。目を大きく見開いてスマホを操作する私に、床屋の親父が世間話をしてくるが何も聞いちゃいなかった。

「……なんですよ、凄いでしょ?」

「そうだねえ」

「ところで旦那、何を熱心に見ているんです?」

 私は列島縦断オリンピック耐久レースに賭けているので順位を調べていると言った。床屋の親父はウンウン頷いた。

「いい勝負みたいですね。私は博打をやらないので詳しく知りませんが、大穴狙いの人が、何だか大きく勝ちそうって噂は聞きましたよ」

 それは、俺のことか? とニヤニヤしそうになったが、ちょうど髭剃りの最中だったので笑うのは耐えた。

「牛車チームだったか、亀さんチームだったか、何か遅そうな名前のチームが優勝しそうらしいですね」

 私は床屋の親父に尋ねた。

「ジャンボ蝸牛チームじゃなくて?」

 床屋の親父は頷いた。

「はい、そんな名前じゃなかったと思いましたけど」

「あそこの新聞にはジャンボ蝸牛チームが優勝候補みたいな記事が書いてあったけど」

「あれは一か月くらい前の新聞ですから、その後で大きく順位が変わったみたいですよ」

 古新聞を置いておくな! と怒鳴りたくなったが、床屋の親父が操る剃刀に首筋を撫でられている状態で文句は言いにくい。スマホを再度チェックするが、やはり上位三チームの名前しか分からず、そこにジャンボ蝸牛チームの名前はない。

 散髪を終え床屋を出た私は、列島縦断オリンピック耐久レースの情報を早く知りたかったので、床屋の前の通りからノミ屋へ電話を掛けた。レースがどうなっているのか知りたい、早く教えてくれ! と催促するも、なかなか教えてくれない。

 このとき、少し嫌な予感がした。電話に出た相手の声の調子が何だかおかしかった……と思い、通話を切ろうとしたら、通りの反対側から駆けつけてきた警官に職務質問をされた。今あなたが電話していた相手はノミ行為をしている人物ですが、あなたは客ですか? とストレートに聞いてくる。違います、と言ったら携帯電話の発着信履歴を確認したいと言われた。断ると、裁判所から令状を取って携帯電話会社に開示請求するという。やれるもんならやってみろと啖呵を切ったら、物の十分もしないうちに令状が下りて携帯電話会社が発着信履歴を提示したそうで、私は違法なスポーツ賭博の容疑者として警察署へ連行された。

 情報化時代とは、どうでもいい情報は飛び交うくせに、本当に大切な事柄は伝わらないものだと私は実感したが、それはこの際どうでもいい。

 弁護士が来るまで黙秘を続けるつもりだが、気がかりな点が二つある。

 一つは私は、とある贈収賄事件の重要参考人であること。今回の容疑とは無関係だが、その事件は大規模なスポーツイベントなので、二つの関連性を司法当局が追及してくる恐れが多分にある。

 もう一つは列島縦断オリンピック耐久レースの結果だ。勝負の決着がついたのか、我がジャンボ蝸牛チームは優勝したのかどうか、気になって気になって仕方がない。落ち着いて座っていられないので、私は留置場の折の中を動物園のクマのようにグルグル回って歩き続けている。


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 サルコヴィーの守護天使の一人を自称する女流小説家にして、いと賢きヒロインであらせられるシービープーラス・スサーナ・パリシアナが私の脳髄に送り込んできた小説が、上記のものである。頭が握り潰されそうな激痛を伴うサイコメトリーの真っ最中に読むような作品ではなかった。いや、何もない時にも読むべき小説とは思われない。マジで困った。自分が目にしているのは何の話だと思った。冗談かと疑ったが、冗談にしてもつまらない。

 ただただ脱力する私に、作者が尋ねた。

「どうだった?」

 先程この女が「もしも嘘を吐いたらなら、ただでは済まさないから覚悟しておけ」といった趣旨の発言をした記憶が頭をよぎった。嘘を言えないとしたら、この私は何を言えば良いのだろう? ええい、なるようになれ!

「面白かったです」

「気分は楽になったか? まだ痛みは気になるか?」

 あまりにも小説が酷すぎて、頭の骨が歪みそうな痛みの程度が半分くらいになった。別の頭痛で吐き気を覚えるが、死にそうな痛みではない。

「良い具合になってきました。サイコメトリーの終わりが近付いてきたのですか?」

「いや、まだまだだ」

 私の頭を握るシービープーラス・スサーナ・パリシアナの力が増した。激しい頭痛がぶり返す。この痛みが和らぐのなら! と思い、グロッキー寸前の私は心にもない美辞麗句を並べ立てた。

「先生の作品を、もっと読みたいです! この辛い日々を生き抜いていく痛みを忘れるくらい、面白い小説を! 素敵な物語が、何かございませんか!」

 シービープーラス・スサーナ・パリシアナは寂しげに笑った。

「守護天使としての生き方を貫き通すことに疲れた私は、この部屋の壁の染みの中に引きこもり、己の心の傷を癒そうと執筆を続けてきた。ただ、自分のためだけに書いてきた。人に喜ばれる面白さは求めずに、気の済むまで書き殴ったのだ。そんな私の書く小説が、素敵な物語であるはずがない」

 人の頭を唐揚げにレモンを掛けるときみたいにギュッと握り締めながら自分語りを始められても迷惑だ。しかし唐揚げレモンな私に、何ができよう?

「守護天使様! 畏れながら申し上げます! 作品が面白いかどうかを決めるのは、小説家ではございません。読者でございます! どうか私めに、先生の玉稿を拝読させていただけませんでしょうか?」

 へっぽこ小説家は少々出し渋ったが結局、私の頭の中に変な文章を送信してきた。それが下記の作品である。


× × × × × × × × × × × × × × × × × × × 


 東京オリンピック・パラリンピックを巡る汚職事件で東京地検特捜部が本社と自宅を家宅捜索する事態に陥っても、その男は余裕の表情だった。それもそのはず、彼は無実なのだ。ここはどれだけ強調しても足りない点なので、繰り返しておこう。

 彼は無実、そう、無実なのだ。逮捕され、起訴されたとしても、実は無実なのだ!

 それにも関わらず家宅捜索されているのは、実に不運なことだ。しかし押収書類の中から証拠が出ないのは分かり切っているので、動揺の色はまったく見えない。

 むしろ彼の表情には、応接室のソファーで相対している東京地検特捜部長への同情が現れていた。これだけ大騒ぎして証拠が出なかったら、責められるのは捜査を指揮する東京地検特捜部長なのだ。自分を疑っている相手に対しても哀れみを抱くとは、神や仏顔負けの人類愛の持ち主といえよう。仕事の鬼だが、心根は優しい男なのだ。

 家宅捜索の間、男は東京地検特捜部長と世間話に興じていた。確かに世間話であるが、それも尋問の一種であることは間違いない。捜査の鬼である東京地検特捜部長は、さりげない会話の中に相手を刺激する言葉を混ぜることで、男に揺さぶりをかけているのだ。その効果はあった。男の表情に激しい怒りと嫌悪が浮かび上がる瞬間があったのだ。マイナスの感情を表に出すのは、その男には珍しい。それは男の兄についての話題が東京地検特捜部長の口から出たときだった。

 男の兄はコカイン密輸事件で逮捕されていた。東京地検特捜部長は昔、その捜査に加わっていたというのである。自分と兄は義絶しています、と男は言った。会社とも無関係である、と付け加える。

 男の兄は、その会社の前社長だった。だが逮捕されたため社長を退任し、弟である男が会社を継いだ。マスコミはお家騒動とかクーデターと面白おかしく騒ぎ立てたが、男が立て直さなければ会社は潰れていただろう。お得意の映画と出版を組み合わせたメディアミックスの経営戦略が右肩下がりとなっていたところで、まさかの社長の逮捕である。そこで経営破綻してもおかしくない、まさに危機的状況だったのだ。

 男の顔色が変わったのは、その時を思い出していたからである。断じて、贈賄に関与していたからではない。しかし東京地検特捜部長は、そう思わなかった。黒だ、との確信を深めたのである。

 東京地検特捜部長は男に対し任意での同行を求めた。

 容疑を晴らすためなら、致し方ないでしょう……と男が答えた、そのときだった。

 部屋の隅に置かれた観葉植物の植木鉢がボン! と大きな音を立てて煙に変わった。壁に掛けられていた薄型テレビに宇宙から放射されるマイクロ波の白黒画面が電源を入れていないのに映る。晴れていた空に見る間に黒雲が湧き、続けざまに稲光が煌めき雷鳴が轟いて、窓が真紅の雨に濡れた。続いて地鳴りが聞こえ高層ビルがガタガタと音を立てて揺れ動く。天井の照明が消えた。男と東京地検特捜部長が不安げに立ち上がり、顔を見合わせる。そして何者かの声が室内に響き渡った。

「二人とも安心して。隕石の衝突と富士山の噴火と関東大震災は、この私が今、防ぎました。世界と日本の滅亡は、この私は食い止めたのです」

 二人は声のする方を見た。観葉植物のあった場所の煙が晴れて、そこに白い服を着た男が立っている。頭の上に光り輝く輪が浮かんでいて、背中に白い鳥の羽が生えていた。顔は老人で、任意同行を求められた男に酷似している。

 逮捕する者とされる者。立場の異なる二人だが、両者ともその男に見覚えがあったことは共通している。

 二人が口を開く前に、天使みたいな外見の男が言った。

「東京地検特捜部長、私は抗議します。これは不当な権力行使です。尋問は取り調べ室ではなく武道場で行うつもりでしょう? 取り調べと称しリンチで自白を引き出す魂胆でしょうが、そんなことは絶対に許しません」

 そして男に笑顔で言った。

「潔白が証明されるまで異世界に雲隠れするといい。なーに、心配することはない。面倒を見てもらえるよう手配するから」

 天使っぽい格好の男はスマートホンを出して何処かへ電話した。

「あ、いつもお世話になっております。は、例の件で。ええ、お願いします。この前お話しした、あいつが、そうです、私の弟ですけど、はい、弟の方の角川ですが」

 男の方を見て頷く。

「ええ、そうです。弟の方の角川ですけど、すぐに逮捕されそうなんで異世界に潜伏させます。どうか面倒を見てやって下さい。私も後から顔を出しますから。その前に、幻魔界転生の件を片づけないといけなくて。ご面倒をおかけして、すみません」

 そして男に白い粉をぶっかける。

「さあ、弟よ。異世界にトリップだ!」

 白い粉を頭から掛けられた男は一瞬で気を失った。

 そして男は、トリップ先の異世界で目覚めた。前世の記憶は消失している。自分が転生する前の、真実の記憶は失われているのだ。前世では、とある大型出版社の辣腕経営者だった、その男。この世界での職業は何でも扱う行商人。そして、その男の名は、デルノステ・マクネフネド・ダムミチュドボーネンという。


× × × × × × × × × × × × × × × × × × × 


 上記のバカ話の作り手である、汚濁と混沌の町サルコヴィーの守護天使が、誰にも頼まれてもいないのに自作を解説し始めた。

「ずっと書きかけのまま放置していたんだけど、この際だから少々書き直してみた。サイコメトリーでお前の頭の中を覗かせてもらったんで、その要素を加えたのが最大の変更点かな。この調子でね、もうちょっと書いてみてもいいかな~なんて考えたんだけどさ。時間的にね、最後まで行くのは無理そうだから、ここで話をちょん切ることにしたんだわ」

 シービープーラス・スサーナ・パリシアナは私の体をマットレスの上に落とした。安物のマットレスだったのが、落ちた弾みに怪我はしなかったので良かった。

「サイコメトリーの結果だけど、どうやらお前の話に嘘はないみたいだね。この部屋から私を引きずり出そうとする奴らとお前には、何のつながりもなかったよ」

 私はこめかみを揉みながら言った。

「誤解が解けて何よりです」

「そうだ、お前に連絡が入っていたぞ。ゲーム世界の管理運営委員会代表代理からの緊急通信、だったかな」

 それを早く言え。

「今回の災難の原因が、その業者のせいかもしれないんです。私から連絡すれば良いのでしょうか? しかし私が連絡したくても、その方法が分からないのですが」

 読者サービスだ、と言ってサルコヴィーの守護天使にして賢いヒロインは、私の頭をむんずとつかむとゲーム世界の管理運営委員会代表代理のオフィスまでぶん投げてくれた。ありがたや、ありがたや。


§ § § § § § § § § § § § § § § § § § § 


 ゲーム世界の管理運営委員会代表代理のオフィスはタバコ畑のど真ん中にあった。ゲーム世界の住人なのだろうか、様々な外見の生物がトラクターに乗ってタバコ畑を鋤き返している。あぜ道の脇に生えていた食虫樹の枝に引っ掛かった状態で目覚めた私は、親切な農業労働者たちの助けを借りて甘い匂いを漂わせた樹木から土の匂いがする地面に降りた。事情を説明し、オフィスに案内してもらう。

 誤解されるかもしれないので、書いておく。オフィスというと何だか立派な建物を予想されるかもしれないが、単なるトレーラー・ハウスだ。中は暗かった。開け放した扉から差し込む日光と、パソコンの白黒画面だけが光源だ。よく見たらパソコンのモニターはブラウン管みたいだった。それがいつ製造されたものなのかは神のみぞ知るだろう。

 見たところ無人のようである。私は中に向かって声を掛けた。

「すみませ~ん。どなたかいらっしゃいませんか~。怪しい者じゃございませんよ。行商人のデルノステ・マクネフネド・ダムミチュドボーネンと申します。何か御用があると伺いまして、飛んで参りました」

 御用聞きそのままの私のセリフを聞いて、誰かが反応した。

「パソコンの前にあるカウチに座ってくれ」

 女の声だった。言われるがままにカウチに座る。再び声が聞こえてきた。

「君は我が社のゲーム情報の一部が混ざっていた仏壇の所有者だね」

 その声はパソコンの両脇にある小さな卓上スピーカーから聞こえてきた。マイクの場所が分からなかったので、どこへともなく話しかける。

「よく分かりませんが、多分その通りです」

「済まないね。君に迷惑をかけたようだ。どうか許して欲しい」

 ごめんで済むなら警察は要らない。ごめんで済まなくてもサルコヴィー警察は不要かもしれないが、それについての結論は後回しだ。

 私は事情説明を求めた。古いパソコンの中の人が事の発端を語り出した。

「私の経営するゲーム会社の各種ゲームでクロスオーバーをやろうとしたんだ。色々なゲーム世界に、様々なアイテムやデータを隠し、それを見つけ出すキャンペーンだ。いい企画だと思ったんだけどね、難しすぎた。リファインしようという話になって、修正したらバグが出た。それがもう、訳が分からないレベルのミスだ。異世界の邪神パーロネイトモアマッシンとか何とかいう名状し難い電子生命体が隠しアイテムである仏壇の中に紛れ込んでしまったんだよ。あり得ないよね、そんなこと。まったく信じられない話だよ。修正パッチでは補えないくらいの失策だったんだけど、まあ何とかなりそうだ」

「それは何よりですね」

「迷惑をかけてしまったお詫びがしたい。今このパソコンの中で楽しいパーティーをしているんだ。どうだい、君も来ないか? こっちへ来るのは簡単だよ。パソコンの画面に頭を突っ込むだけでいいんだ」

「遠慮しておきます。それよりサルコヴィー警察の方に、私は無実だと伝えて下さいませんか」

「もちろんだとも。他に何かご希望はあるかな?」

 私の希望。いっぱいある。だが、いっぱいありすぎて「これをお願いします!」と言うのが思い浮かばない。

「それじゃ、三つあるんですけど、よろしいですか」

「欲張りすぎじゃね?」

「そこを何とか」

「分かった。私も賢いヒロインと呼ばれる凄腕の女社長だ。君の希望を、できる範囲内でかなえてあげる。何だい? 言ってみて」

 魔法を使える行商人の私だが、物理攻撃が苦手という弱点がある。それを補完する必殺技が欲しかった。

「何か下さい。〇×はめ▲みたいなやつがいいです」

 賢いヒロインと呼ばれる凄腕女社長は私に仏壇返しという技の全貌が分かる教育用ソフトの脳内閲覧コードを送ると約束してくれた。

 それから性別を好きなように変換できる魔法も知りたかった。

「なんでまた、そんなのを。女風呂に入るためか?」

「私も賢いヒロインの仲間入りをしたいんです」

 かくして私も賢いヒロインの一員となった。しかし、そのグループに入っても、特にこれといった特典が無く、今にして思えば不要だったという感じがしなくもない。

「三つと言ったな。もう一つは何なの?」

「あ、これはどうにかなりそうです」

 三つ目のお願いは、締め切りまでに本作品を完成させたいので力を貸して下さい、だった。二万文字を超えるのは絶対に無理だと思ったが、無理に無理を重ねた結果、無理が通ってしまった。「無理が通れば道理が引っ込む」ということわざ通りの滅茶苦茶な荒業だった。酷い話である。小説な下手くそな守護天使にして賢いヒロインを笑うに笑えない。だが、これも一つの経験だ。この反省を生かし次作をより良いものに死体。間違えた。より良いものに姿態あるいは、艶めかしい肢体(なんだそれ)。


                 一八の終わり


 次に、エムエムオウ氏が書いた二作品を連続して提示する。


                  一九


 東京オリンピック・パラリンピックを巡る汚職事件で東京地検特捜部が本社と自宅を家宅捜索する事態に陥っても、その男は余裕の表情だった。それもそのはず、彼は無実なのだ。ここはどれだけ強調しても足りない点なので、繰り返しておこう。

 彼は無実、そう、無実なのだ。

 それにも関わらず家宅捜索されているのは、実に不運なことだが、押収書類の中から証拠が出ないのは分かり切っているので、動揺の色は見えない。むしろ、応接室のソファーで相対している東京地検特捜部長への同情が表情に現れていた。これだけ大騒ぎして証拠が出なかったら、責められるのは捜査を指揮する東京地検特捜部長なのだ。自分を疑っている相手に対しても哀れみを抱くとは、神や仏顔負けの人類愛の持ち主といえよう。仕事の鬼だが、心根は優しい男なのだ。

 家宅捜索の間、男は東京地検特捜部長と世間話に興じていた。確かに世間話であるが、それも尋問の一種であることは間違いない。東京地検特捜部長は、さりげない会話の中に相手を刺激する言葉を混ぜることで、男に揺さぶりをかけているのだ。その効果はあった。男の表情に激しい怒りと嫌悪が浮かび上がる瞬間があったのだ。マイナスの感情を表に出すのは、その男には珍しい。それは男の兄についての話題が東京地検特捜部長の口から出たときだった。

 男の兄はコカイン密輸事件で逮捕されていた。東京地検特捜部長は昔、その捜査に加わっていたというのである。自分と兄は義絶しています、と男は言った。会社とも無関係である、と付け加える。

 男の兄は、その会社の前社長だった。しかし逮捕されたため社長を退任し、弟である男が会社を継いだ。マスコミはお家騒動とかクーデターと面白おかしく騒ぎ立てたが、男が立て直さなければ会社は潰れていただろう。映画と出版を組み合わせたメディアミックスの経営戦略が右肩下がりとなっていたところで社長の逮捕である。経営破綻してもおかしくない、危機的状況だったのだ。

 男の顔色が変わったのは、その時を思い出していたからである。断じて、贈賄に関与していたからではない。しかし東京地検特捜部長は、そう思わなかった。黒だ、との確信を深めたのである。

 東京地検特捜部長は男に対し任意での同行を求めた。

 容疑を晴らすためなら、致し方ないでしょう……と男が答えた、そのときだった。

 部屋の隅に置かれた観葉植物の植木鉢がボン! と大きな音を立てて煙に変わった。壁に掛けられていた薄型テレビに宇宙から放射されるマイクロ波の白黒画面が電源を入れていないのに映る。晴れていた空に見る間に黒雲が湧き、続けざまに稲光が煌めき雷鳴が轟いて、窓が真紅の雨に濡れた。続いて地鳴りが聞こえ高層ビルがガタガタと音を立てて揺れ動く。天井の照明が消えた。男と東京地検特捜部長が不安げに立ち上がり、顔を見合わせる。そして何者かの声が室内に響き渡った。

「二人とも安心して。隕石の衝突と富士山の噴火と関東大震災は、この私が今、防ぎました」

 二人は声のする方を見た。観葉植物のあった場所の煙が晴れて、そこに白い服を着た男が立っている。頭の上に光り輝く輪が浮かんでいて、背中に白い鳥の羽が生えていた。顔は老人で、任意同行を求められた男に酷似している。二人は、その男に見覚えがあった。

 二人が口を開く前に、天使みたいな外見の男が言った。

「東京地検特捜部長、私は抗議します。これは不当な権力行使です。尋問は取り調べ室ではなく武道場で行うつもりでしょう? 取り調べと称しリンチで自白を引き出す魂胆でしょうが、そんなことは絶対に許しません」

 そして男に笑顔で言った。

「潔白が証明されるまで異世界に雲隠れするといい。なーに、心配することはない。面倒を見てもらえるよう手配するから」

 天使っぽい格好の男はスマートホンを出して何処かへ電話した。

「あ、いつもお世話になっております。は、例の件で。ええ、お願いします。この前お話しした、あいつが、そうです、私の弟ですけど、はい、弟の方の角川ですが」

 男の方を見て頷く。

「弟の方の角川ですけど逮捕されそうなんで異世界に潜伏させます。どうか面倒を見てやって下さい。私も後から顔を出しますから。その前に、幻魔界転生の件を片づけないといけなくて。ご面倒をおかけして、すみません」

 そして男に白い粉をぶっかける。

「さあ、弟よ。異世界にトリップだ!」

 白い粉を頭から掛けられた男は一瞬で気を失った。


                  二〇


 昨年末から始まったカ○カ●協賛の列島縦断オリンピック耐久レースは、いよいよ中盤戦に突入した。個人から団体まで、出場する全選手が荒廃した日本列島を自力でひた走りゴールを目指す過酷な競技は今、世界中から注目されている。現在のところ首位から最下位まで団子状態で毎日トップが入れ替わる白熱した戦いが続いており、どのチームが優勝するか予想できない状態だ。一瞬の隙で一気に順位が落ちる、まさに油断したら終わりの緊迫した勝負の連続といっていい。当然ながら出場者のストレスは大変なもので、それに打ち勝つのも一苦労だ。つまり列島縦断オリンピック耐久レースはライバルとの戦いであると共に自分との闘いでもある。

 そんな息詰まる熱戦を繰り広げる出場チームの中で、異彩を放つ合同グループがある。別の世界からやってきた外訪者たちが結成したジャンボ蝸牛かぎゅう、かたつむりチームだ。

 カタツムリは誰もがご存じだろう。その動きは遅く、競争に向かない動物といっても間違いではない。しかし毒物で汚染され、さらに危険な怪物たちの蠢く荒野が舞台の列島縦断オリンピック耐久レースでは事情が異なる。毒物の侵入を防ぐ働きを持つ粘液と怪物たちの攻撃を跳ね返す硬い殻で防御されたカタツムリは耐久力に優れており、このレースにうってつけなのだ。

 異世界からの訪問者たちは、生体改造と魔力で巨大化かつ強化した特大サイズのカタツムリの体内に、自分たちの体をミクロのサイズにまで縮小させて乗り込み、内部からカタツムリを操縦・操作している。カタツムリのパワーアップのおかげで元から高い防御性能に加え速度も大幅に改善し、操縦者たちのサイズダウンの努力が実り操縦性や居住性も桁違いに向上した。

 ジャンボ蝸牛チームのリーダー、ルーボンノキャ・フラナガンズラン氏は、こう語る。

「我々のチームは良い状態でレースを進めている。手ごたえを感じているよ。優勝圏内にいると思う。このままのレース展開で、今の調子を維持していければ、好結果は必ず付いてくるはずだ」

 列島縦断オリンピック耐久レース主催者の広報は、解説者による次のような今後の予想を発表している。

「(前略)ジャンボ蝸牛チームは予想より善戦していると思った。これなら、まさかの結果がありえるよ。あのチームが勝ったら、高配当が期待できるね。賭けた人間は今頃、興奮して眠れないんじゃないかな。多くのブックメーカーはノーマークだったからね」

 この新聞記事を読んで、私は全身が震えた。それ、俺のこと? そう思った。そう、私はジャンボ蝸牛チームに、ちょっとした額の金を賭けたのだ。

 列島縦断オリンピック耐久レースの状況はテレビやラジオに新聞そしてインターネットのニュースで毎日確認していた。ただし私の暮らしている地域では詳細な情報は入手できず、上位三チームの名前ぐらいしか報道されないことが多かったので、ジャンボ蝸牛チームがどうなっているのか、さっぱり分からなかった。他の賭け事で大損を出した私は、ジャンボ蝸牛チームの勝利にわずかな望みを抱く反面「どう考えても無理だろ、どうして俺はこんなのに賭けたんだ?」との後悔に苛まれていた。

 しかし今、消えかけていた希望の灯が赤々と輝き始めた。これ、いけんじゃね? 勝つんじゃね? 大逆転じゃね! そう思った私は現在の順位を確認しようと、スマートフォンをチェックした。順位が出ている記事を見つけた。三位までしか掲載されておらず、ジャンボ蝸牛チームの現在位置は分からない。もっとマニアックな情報が欲しかった。しかし調べ方が悪いのか、検索に引っ掛からない。

 苛々していたら床屋の親父が私を呼んだ。

「次でお待ちの方、どうぞ」

 私はソファーから立ち上がり鏡の前の散髪用の椅子に座った。

「どうします?」

「短くしてください」

 不毛にも思える質問と返答に続いて、薄くなった私の頭の散髪が始まった。目を大きく見開いてスマホを操作する私に、床屋の親父が世間話をしてくるが何も聞いちゃいなかった。

「……なんですよ、凄いでしょ?」

「そうだねえ」

「ところで旦那、何を熱心に見ているんです?」

 私は列島縦断オリンピック耐久レースに賭けているので順位を調べていると言った。床屋の親父はウンウン頷いた。

「いい勝負みたいですね。私は博打をやらないので詳しく知りませんが、大穴狙いの人が、何だか大きく勝ちそうって噂は聞きましたよ」

 それは、俺のことか? とニヤニヤしそうになったが、ちょうど髭剃りの最中だったので笑うのは耐えた。

「牛車チームだったか、亀さんチームだったか、何か遅そうな名前のチームが優勝しそうらしいですね」

 私は床屋の親父に尋ねた。

「ジャンボ蝸牛チームじゃなくて?」

 床屋の親父は頷いた。

「はい、そんな名前じゃなかったと思いましたけど」

「あそこの新聞にはジャンボ蝸牛チームが優勝候補みたいな記事が書いてあったけど」

「あれは一か月くらい前の新聞ですから、その後で大きく順位が変わったみたいですよ」

 古新聞を置いておくな! と怒鳴りたくなったが、床屋の親父が操る剃刀に首筋を撫でられている状態で文句は言いにくい。スマホを再度チェックするが、やはり上位三チームの名前しか分からず、そこにジャンボ蝸牛チームの名前はない。

 散髪を終え床屋を出た私は、列島縦断オリンピック耐久レースの情報を早く知りたかったので、床屋の前の通りからノミ屋へ電話を掛けた。レースがどうなっているのか知りたい、早く教えてくれ! と催促するも、なかなか教えてくれない。

 このとき、少し嫌な予感がした。電話に出た相手の声の調子が何だかおかしかった……と思い、通話を切ろうとしたら、通りの反対側から駆けつけてきた警官に職務質問をされた。今あなたが電話していた相手はノミ行為をしている人物ですが、あなたは客ですか? とストレートに聞いてくる。違います、と言ったら携帯電話の発着信履歴を確認したいと言われた。断ると、裁判所から令状を取って携帯電話会社に開示請求するという。やれるもんならやってみろと啖呵を切ったら、物の十分もしないうちに令状が下りて携帯電話会社が発着信履歴を提示したそうで、私は違法なスポーツ賭博の容疑者として警察署へ連行された。

 情報化時代とは、どうでもいい情報は飛び交うくせに、本当に大切な事柄は伝わらないものだと私は実感したが、それはこの際どうでもいい。

 弁護士が来るまで黙秘を続けるつもりだが、気がかりな点が二つある。

 一つは私は、とある贈収賄事件の重要参考人であること。今回の容疑とは無関係だが、その事件は大規模なスポーツイベントなので、二つの関連性を司法当局が追及してくる恐れが多分にある。

 もう一つは列島縦断オリンピック耐久レースの結果だ。勝負の決着がついたのか、我がジャンボ蝸牛チームは優勝したのかどうか、気になって気になって仕方がない。落ち着いて座っていられないので、私は留置場の折の中を動物園のクマのようにグルグル回って歩き続けている。


                 二〇の終わり


 自分の小説が盗作された! とエムエムオウ氏は確信した。会報を出版している冒険者ギルドの編集部に抗議の電話を掛けたが、着信拒否された。

「もう許さない! 目に物見せてやる!」

 冒険者ギルド編集部襲撃のための可燃物や着火道具を用意していた、そのときである。自分と瓜二つの男が机の引き出しから飛び出してきたものだから、エムエムオウ氏は魂消た。

「誰だ、誰だよ、お前!」

 エムエムオウ氏とそっくりな男はグスリと笑った。

「お前と同じエムエムオウだ。未来から来たんだ。要するに俺は未来のお前だ。同じ名前だと混乱するんで、便宜上、エヌエヌピイとでも名乗っておくか」

「何を言ってんだ、このキ◎ガ△!」

「お前に言われたくないが、同じ自分だから許してやろう。どっかを襲撃するつもりなら、止めておけ。そう言いに来たんだ」

「え……」

「そんなことをされると、こっちに悪影響が出るかもしれないんでな」

「ちょ、ちょま、ちょっと待てよ、どういうことだよ?」

「俺はプロの作家としてデビューすることになった。俺たち二人の望み通りにな」

 エヌエヌピイと名乗る未来から来たエムエムオウ氏は、そう言って冒険者ギルド会報に掲載されている以下の文章を示した。


                  二一


      〔冒険者ギルドが発行する会報の読者投稿欄より抜粋〕


       <喜びと悔しさがハーフ&ハーフの受賞コメント>


 タイトルで示した通り、喜びと悔恨がフィフティフィフティで入り混じり当惑している。歓喜の理由は言うまでもない。後悔の根本に絞って書く。

 このネタを考えていたのだ。構想を練っていたのだ。プロットをまとめ、そろそろ書き始めようと思っていたところだったのだ。

 私は先を越されたわけである。もっと早く書いておけば良かった、と思わずにはいられない。完成度に拘ったのが失敗だった。拙速は巧遅に勝るというではないか!

 それでも私は受賞できたから、まだ良い。

 同じアイデアの作品を投稿したにもかかわらず落選した人たちが数多くいるはずで、そういった皆様の無念を思えば「ラッキーだ! 何も書いていないのに、何かの間違いで受賞しちゃったよフハハ! よっしゃ、賞金ガメてトンずらだギャハハ!」とは口が裂けても言えない。

 こんな私だが、私に敗れた者たちへ勝利宣言をするとしよう。

 無能な負け犬どもめ、さっさと筆を折れ。見苦しくて情けないにも限度がある。親は泣いてるぞ。それから、お前らがやっていることは資源の無駄遣いでしかないんだってことに早く気付け。無駄なことは止めろ。繰り返す。お前らの創作活動は何の役にも立っていない。せめて人の迷惑にはなるな。地球に優しくしろ。

 それから、忠告しておく。

「アイデアをパクられた、盗作された!」とほざいて運営団体に殴り込みは止めろ。

 そのアイデアを着想したのが自分だけだと決めつけるのは思い上がりであり、そう考えること自体お前の発想の貧しさを証明している。お前の思い付き程度なら、就学前の子供だって朝飯の半額弁当を食う前に思い付く。もっと想定外の技を編み出せ。それから、そのバトルは他人が相手の勝負じゃない、自分の枠を超える戦いだからな。自分を閉じ込めている常識という名のちゃちな檻を徹底的に壊して燃やせ。絶対に人は燃やすな。そこを勘違いするなよ。

 もう一つ。

 想像力も考えも自分には足りなすぎるという自覚があるなら、救いはある。

 ただし、自分を救えるのは自分だけだ。誰も助けてくれない。自分で自分を救えなかったとしたら、それまでだから諦めろ。それと、その孤独な戦に勝ったとしても、栄光は長く続かないと思え。才能は、いずれ枯渇する。脳細胞は日々、衰えていくのだから当然だ。それでもなお創作を止めないというのなら、私からは言うべきことはない……と書いたが、もう一つあった。

 私にとってXとは『X JAPAN』以外にはありえない。従って元Twitter上の『Web小説サイト「カクヨム」運営公式アカウント』@kaku_yomu をフォローするのは禁忌事項だ。応募要項を満たせないため賞品の図書カードネットギフト500円分(抽選で50名)は辞退させていただく。

 しかしながら、どうしても贈与したいというのなら拒みはしない。吉報を待つ。


                二一の終わり


「何だよ、これ。どういう意味なんだよ?」

「自分で考えろ、こっちは締め切りが迫っていて忙しいんだ」

 そう言ってエヌエヌピイと称する未来人は机の引き出しの中へ戻った。そこから顔だけを出して言う。

「俺はカクヨムで募集していた第23回角川ビーンズ小説大賞に当選した。お前も俺の後に続け」

 それからニヤリと笑う。

「出すのなら急ぎな。締め切りは2024年3月31日(日)23:59だ。それまでに九万字以上を書いて投稿しろ」

 エムエムオウ氏は時計を見た。残り十時間を切っている。

「無理だ、間に合わない!」

「得意の魔法だったか生成系AIに仕事をさせろよ」

「そんなのプライドが許さない」

 エヌエヌピイは大笑した。

「じゃ、諦めろ。このまま屑でいるがいいさ」

 そう言い残してエヌエヌピイは机の引き出しに姿を消した。残されたエムエムオウ氏は茫然と立ち尽くしている。それから、どのくらいの時間が経過したのだろうか? 魔法のランプの黄色い明かりが、必死の形相で机に向かい第23回角川ビーンズ小説大賞を書く冴えない男の姿を映し出している。彼の小説が2024年3月31日(日)23:59の締め切りまでに完成するのか? それは筆者にも分からない。


 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○


 途中で読むのを断念したあたしに、悪役悪女は言った。

「それで分かったでしょう。私が、どんなに難病ヒロインなのかってことが!」

 あたしは言った。

「いや、全然わからん。そもそもさ、難病だから何だって言うのさ? 難病だから、あたしをいじめたって言うの? そんなの理由にならない!」

 顔に向かって吐血攻撃されるのは嫌だったので、あたしは難病ヒロインを自称する悪役悪女の顔面に跳び蹴りを食らわしてやった。

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