第127話祖父の他界
その願いが通じたのか、中間試験を過ぎて、祖父の容体も少し落ち着いて、見舞いに行くといくらか会話ができるようになっていた。そして11月も半ばを迎えたころ、母の実家から電話がかかってきた。祖父が他界したという連絡であった。11月に入ってから再び祖父の容体が不安定になり、母が見舞いに行っていたのであるが、懸命な看病の甲斐なく、祖父は息を引き取ったということであった。ただ、最後は眠るように静かに息を引き取ったということで、あまり苦しまずに旅立って行けたのがせめてもの救いだった。
母からの連絡を受けて、私たちは学校が終わったら、何日かの母の実家に泊まることになるので、喪服代わりの制服と着替えをいカバンの中に詰め込んで、自分の用意が終わると今度は姉と手分けして妹の着替えなどを用意。それが済むころ、仕事に行っていた父も帰ってきて、父は自分の用意を済ませて、母が勤めているブティックのおばさんのところにも連絡を入れて、おばさんが連れて行ってくれることになった。準備が終わって家を出るころには真っ暗になっていて、母の実家に着いたのは20時を回っていたと思う。私たちが着いたころには親戚一同が集まってきていて、祖父の遺体も、長年住み慣れた家に帰ってきていて、祖母と一緒に過ごした部屋に安置されていた。
祖母は長年苦楽を共にしてきた祖父が亡くなって肩を落としていて、かける言葉もなかった。祖母が
「顔を見てあげてほしい」
というので、棺の中で安らかに眠っている祖父の顔を見てみると、病気と言う苦しみから解放されたためか、心なしか安らかだったように思う。私は祖父の顔を見ながら、祖父から教わってきたことを思い返していた。祖父が私に残した格言である
「美味しいものを食べたいと思うのであれば、苦労を惜しんじゃいけん」
と言う言葉。これは祖父が戦中から戦後にかけての極端に物資が不足している中、子供たちに美味しいものを食べさせてやりたいと心から願っていた祖父の尾身槍から出た言葉であった。祖父と祖母の間には7人の子供が生まれたが、2人を病気で失うという悲しみも味わってきて、自分よりも子供の方が先に旅立ってしまうという辛い経験もしてきたが、そういったことは一切私の前では話さなかった。辛いことも苦しいことも祖母と二人で懸命に力を合わせて乗り越えてきた86年の生涯であった。
私たちが着いたころにはお通夜が始まろうとしており、私は着替えを済ませて、お通夜に参列した。隣近所の人たちが次々弔問に訪れては祖父との昔話をしている。その中には私が知らなかった話もあって、いろいろな祖父の一面を知ることが出来た。そして、お通夜が終わって、私も寝間着に着替えていつもより遅い就寝時間を迎えた。バタバタしていて寝付いたのが0時過ぎであった。
翌日朝早く起きて、葬儀告別式の準備が始まる。母の姉たちは車の免許を持っていないので、前日の夜から泊まって、一旦家に帰った親せきや近くの親せきが再び集まってきて、お寺のご住職がやってきてお経を唱えて、説法を話して葬儀が執り行われた。そして、お昼ごろになっていよいよ出棺の時間が来た。私はよく祖父の顔を目に焼き付けておきたいと思い、棺の中で眠る祖父の顔を見た。私に
「達者で元気に暮らせよ」
そう言ってくれているような気がした。やがて火葬の時間が来て、祖父の遺体は荼毘に付された。父方の祖父以来の身近な人の死であった。火葬されている間、祖父と交流のあった人や、親戚と話をする時間があった。祖父の思い出話をしながら食事を済ませて、葬儀告別式は無事に終わって、祖父を見送ることが出来た。私は、帰りは電車で帰って、自宅最寄り駅から歩いて帰って、ほっと一息つくことができた。
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