第2話小学校一年生


私は昭和五十三年の春、大阪府T市立K小学校に入学した。四月の空は、どこかぼんやりと霞んでいて、校庭の隅にはまだ寒さの名残が漂っていた気がする。そんな朝、私たちは小さな手をつないで、少し大きめのランドセルを背負って、まだ見ぬ世界へと足を踏み出した。


K小学校は、T市の中でもひときわ大きなマンモス校だった。校舎は古びていたが、そのぶん堂々としていて、子どもの目にはまるで要塞のように映った。一年生だけで五組。ひとクラス四十人だから、単純に二百人が一度にこの門をくぐったことになる。ざわざわとした空気のなか、名札をつけた子どもたちの列が、まるで波のように動いていた。


入学式では、体育館の床がぎしぎしと軋み、壇上から名前が一人ひとり呼ばれていく。そのたびに、椅子のきしむ音と、親たちのカメラのシャッター音が、会場に小さなリズムを刻んでいた。私は「四組」と告げられ、山岡先生という若くて優しげな女性が担任だった。赤ちゃんがいると話してくれた先生の声は、どこか温かくて、でも少し頼りなげでもあり、子どもながらにそのやわらかさを覚えている。


新しい教科書のインクの匂い、まだ誰の名も書かれていない真っ白な道具箱。それらを抱えて家に帰ると、母が丁寧に名前を書いてくれた。まるで、それが新しい人生の印のように思えた。私は嬉しくて、ずっとその箱を眺めていた。明日も、明後日も、この場所に通えることが誇らしかった。


最初に習ったのは、ひらがな。そして、一から十までの数字。祖父や姉に教えてもらっていたおかげで、私はすんなりと覚えられた。だけど、教室の中はまだ落ち着かない空気が漂っていた。保育園や幼稚園が違えば、話し方も遊び方も少しずつ違う。小さな摩擦が、子どもたちのあいだでそこここに生まれていた。


「小突いた」「遊具を貸してくれない」――そんな些細なことで、泣き声が響くこともあった。それでも山岡先生は、いつも私たちの目線にしゃがんで、優しく、そして根気強く話してくれた。「自分がされて嫌なことは、人にもしないんだよ」と。その言葉は、今でも耳の奥に残っている。


やがて、子どもたちは次第に慣れていった。休み時間になると、校庭に出てドッジボールをしたり、滑り台やブランコを譲り合って使ったり。ざわざわしていた教室に、ようやく笑い声が馴染んでくる。仲間というものが、少しずつ形になっていった春。

それは今振り返ると、まるでセピア色の写真のように、静かに、でも確かに心の奥に残っている。


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