第5話




§



 次の日の朝、珍しく君は寝坊し、二限目の講義にギリギリに駆け込む。時間内には間に合ったけど、講義直前は席が一杯で、空いてるスペースを見つけるのに苦労する。後ろの席は、苦手なタイプが居座っている事が多いから、前の席に照準を合わせていると、不意に横から声が掛かった。



「桐崎先輩」



 その声を聞いて実くんは振り返る。するとそこには小米ちゃんの姿があった。

 目が合うと、ふくよかな体型によく似合う、柔和な笑みを向けられた。



「席、よかったら空けますよ?」

 小米ちゃんはすぐに状況を察して気を利かせ、席を一つ横にズレるので、断る間もなく実くんは彼女が座っていた席に着く事になった。


「ありがとう・・・・・・」



 気まずそうにしながらもお礼を言うと、小米ちゃんは「いいえぇ」と穏やかな口調で相槌を打った。

 すると、実くんと小米ちゃんとの間に漂う空気が弛緩するのが感じられた。



 実くんが勝手に小米ちゃんとの間に距離を感じているのに、この子は全く人との隔たりを感じさせない。初対面だとか親交が浅いとかで距離感を探り合う事に必要性を感じさせない雰囲気を放っていて、まるで干したてのタオルみたいに温かくて、肌触りのいい、身を包まれる安心感がある。



 会話する前からもう既にこの子は社交的なのだろうな、と思わせる雰囲気を纏っていて、心を開いている。人に疑いを持たない子なのだろうな。それはきっと、彼女が友達や家族に恵まれ、幸せを取り溢す事なく、順調に積み上げてきたからこそ出せる雰囲気なのだろうと思う。



 実くんと小米ちゃんは陰と陽といった、対照的な性格の持ち主だった。



 実くんは無関心を装うかのように、彼女の事は見向きもせずにカバンからルーズリーフと筆記用具を取り出して講義の用意を始めると、時間が来るまでの間、スマホを弄るなど小米ちゃんとの距離を置く。



 それは人見知りもあるだろうし、それと昨日の件があるから、あまり詮索されたくないという意思表示も、そこには含まれているかもしれない。



 実くんが壁を作ったからか、小米ちゃんが話しかけてくる事はなかった。時折、様子を窺うかのようにチラリと見やる事はあったけど、それだけだ。



 実くんの来ないでバリアに、小米ちゃんは特段、気まずそうにする訳でもなく淡々と落ち着いた佇まいを見せる。

 やがて、教師が登壇し講義が始まる。



 講義はパワーポイントで行われ、講義室の前列は明かりが落とされ、前の席はスクリーンの明かりで少し眩しい。



 スクリーンに映し出される講義内容は一定の間隔でスライドし、教師の話もとくに捻りがある訳でもなく単調なものだった。

 その為、多くの学生はスマホで写真を撮って済ませる事が多い中、実くんは暇つぶしも兼ねて、板書に集中する。



 君は少し凝り性なところがあって、文字の間隔や漢字とひらがなのサイズ感、改行の空け方、カラーペンの使い方とか、レイアウトを意識しながら板書をする。それもあって綺麗で見やすい板書になってるけど、これは書いて満足しちゃうやつだ。



 あまつさえ、丁寧に板書するあまり書き溢しが出たりする。

「あ」と君は声を漏らして、隣にいる小米ちゃんを振り返らせる。「どうしました?」小米ちゃんが訊ねると、実くんは「いや、」と言葉を濁しながら、書き漏らした事を伝えると、小米ちゃんは快くノートを見せてくれた。



 恐縮しながら小米ちゃんのノートを見せてもらうと、彼女のノートには、実に女の子らしい丸っこい文字が並んでいた。

 筆跡からも性格が滲み出ている。



 実くんは書き漏らした文章を手早く写す。そこだけ筆跡が雑になった事で君は板書の意欲を落とす。



「ありがとう」



 実くんは言って、すぐにノートを返した。小米ちゃんは「また書き漏らしがあったら言って下さいね?」と優しい言葉を掛けてくれるけど、それは解釈のしようによってはからかわれているような気がしないでもない。



 そんな事がありつつ、講義から一時間ほどが過ぎると、段々と集中力を切らした学生がひそひそと話し始めたりスマホをいじる姿が散見されるようになり、緩慢な空気が流れ出す。



 それに釣られてか、実くんも若干気怠げに欠伸をして、スマホをいじったりする。けど、とくにメッセージが来ていたり暇つぶしのアプリを持っている訳でもないからすぐにスマホを閉じて手持ち無沙汰になる。



 持て余した時間をやり過ごす為か――ふと君は、隣に視線を向ける。

 視線の先には小米ちゃんがいる。



「・・・・・・っ」



 すると不意に、目が合った。 君は気まずそうにするも、小米ちゃんはにこりと笑う。



「眠たくなってきちゃいますよね、この講義」



 小米ちゃんは何気なく会話を切り出す。

 一方実くんは、視線を向けていた気まずさから「そうだね・・・・・・」と素っ気ない返ししか出来ない。



 会話はそれで終わるも、実くんの意識の中には小米ちゃんが留まっていて、しばらくの間、視界の端に見える小米ちゃんのペンの動きに意識が向いていた。







 講義が終わり、実くんは手早く荷物をまとめて席を立とうとすると、そこへ小米ちゃんが呼び止める。



「今から中原先輩と凛先輩の二人と落ち合って、食堂でご飯食べるんですけど、桐崎先輩も来ませんか?」



 小米ちゃんはそう言って、実くんを誘うので、君はかぶりを振る。

 でも、小米ちゃんはそれでは引かなくて、言葉を続けて昨日の件を引き合いに出す。



「中原先輩、桐崎先輩と喧嘩したの引き摺ってましたよ。謝らないと、って」

「・・・・・・・・・・・・」

「桐崎先輩、来てくれませんか?」



 あくまでお願いベースな言い方だったけど、彼女の人当たりのいい喋り方が実くんの気勢を削ぎ落とす。



「・・・・・・分かった」



 逡巡の後、君は溜め息交じりにそう言った。

 すると小米ちゃんはふふ、と控えめに笑って「じゃあ、一緒に行きましょう」楽しげに言った。



§



 二人で食堂へ向かうと、先に席を取っていた平輝くんたちと合流する。

 最初、実くんが一緒にいる事に驚きを見せた平輝くんと凛ちゃんだったけど「おはよう」と挨拶は欠かす事なく声を掛ける。



 その後で平輝くんが潮らしい態度を店ながら実くんに、「昨日はごめんな?」と謝辞を述べた。

「いいよ。別に」



 素っ気ない言い方だったけど、改まるのが苦手な君は、大体いつもそんな感じのリアクションを取る。

 二言返事を返しつつ、平輝くんの向かい側に腰を下ろすと、その隣には小米ちゃんが座る。



 そこで仲直りは終わったかな、と思ったけど、すぐに平輝くんが言葉を続けて、「まだ怒ってる?」とか、顔色を窺いながら機嫌を図る彼女みたいな催促を入れるので、実くんは若干の気色悪さを感じてか、おざなりに「怒ってないよ」と言う。するとさらに続けて「怒ってるよね?」とかしつこく続けるから、実くんは辟易とした様子で「じゃあ怒ってる」と返す。



 するとそれには凛ちゃんと小米ちゃんが思わず笑みを浮かべる――結局これは、平輝くんなりの場を和ませる冗談なのだ。



 それですっかり君は毒気を当てられ、昨日の後ろめたさが霧散したみたいに和解の空気が流れ始めるので、その流れのまま凛ちゃんが「食券買いに行こう」と提案する。



 それに乗った実くんと平輝くんは財布を持って席に立つ。けど小米ちゃんだけ席に着いたままなので実くんは「行かないの?」と聞くと「はい」と返事があった。



「私、お弁当持ってきてるので」と言う。

「悪いけど、留守番よろしくね?」



 凛ちゃんがそう言うと、小米ちゃんは快く返事をして「いってらっしゃい」と告げた。








 食券を買って、カウンターで料理を受け取ると、小米ちゃんの元へと戻る。



「お待たせ―」と凛ちゃんは軽快に言いながら料理の乗ったトレーをテーブルに置くと、汲んできた水を小米ちゃんの元へと置く。

「ありがとうございます」

「いいよ。てゆうかいつも留守番させてごめんね」



 凛ちゃんは言うと、小米ちゃんはかぶりを振る。

「いえ大丈夫ですよー」と、人のいい笑みを浮かべながら軽快に返事を返す。



 小米ちゃんの手元には、包みの解けた小判型の曲げわっぱの弁当が置かれていた。

 律儀にも、フタを開けずに待ってくれている。



 皆、出揃ったところで小米ちゃんはそこでようやくフタを開けて中身を露わにする。



 唐揚げやだし巻き卵、ミニトマト、ほうれん草のおひたしなど定番どころが詰め込まれていて食欲をそそる彩り。



「偉いよねぇ小米は。――毎日自分で作ってるんだよ?」



 凛ちゃんは感心しつつ、実くんの方を向いてそう言うので、君はお弁当に目を移し、「へぇ」と一つ相槌を打った。「確かに。毎日はすごいね」



 言うと、小米ちゃんは照れ臭そうに、にひ、と笑う。

「料理、好きなので」

 彼女は控えめにそう言うと、すぐに凛ちゃんが続けて、



「小米は将来、地元でお弁当屋さんを開きたいんだよねー?」

 すると、気恥ずかしそうに小米ちゃんは俯きつつ、「はい」と答える。



「いいよね、夢や目標があって、そこから大学を選ぶって。すごく理想的だよ」



 凛ちゃんは衒いもなく褒めそやすので小米ちゃんは「いいえぇ」と謙遜しつつ、素直な気持ちが頬の緩みに表れる。裏表のない女の子である。



「実も少しは見習えよ。自炊してないだろお前」

 平輝くんがそう指摘を入れると、実くんは一応反論する。「少しはしてるよ」

「カット野菜炒めるのは料理とは言わないからな」

「うるさいな・・・・・・」



 するとそれを聞いて小米ちゃんが話題を広げる。



「桐崎先輩、一人暮らしなんですね」



 実くんはコクリと頷くと、小米ちゃんは羨ましそうな顔を向ける。



「いいですね、一人暮らし。私はお父さんが許してくれなくて実家暮らしなんですよ」

 唇を尖らせながら可愛らしい不満を口にする。



「いいじゃん、大事にされてるって事じゃん」平輝くんが言うと「そうですけど、私だってもう、子供じゃないですし」と反論。そんな微笑ましいやりとりに凛ちゃんが「箱入り娘なんだね小米は。道理で育ちがいい訳だ」とそこには若干の茶化しが含まれていた。それを受けて小米ちゃんは「やめてくださいよー」と照れ臭そうに言って抵抗してみせるけど実際、小米ちゃんの人当たりのよさを見ると、箱入り娘という言葉はしっくりくる。



 大切にされてきた余裕というのか、相手を思いやる心の広さみたいなのが、彼女からは感じられる。

 ――とまぁ終始、和やかな談笑で盛り上がる中、お昼休憩も佳境に入る。



 次の講義へ向かう準備を進めていると、不意に――「小米ちゃん~」と声が掛かった。振り返ると、三人組の女の子たちが歩み寄ってくる。どうやら小米ちゃんの友達みたいだ。



「小米ちゃん、次の講義一緒に行こ~」



 和気藹々とした雰囲気を醸しながら友達三人が小米ちゃんを誘う。



「それじゃあ私、行きますね?」

 小米ちゃんはそう言って席を立つと、「いってらっしゃい」と、凛ちゃんと平輝くんが軽く手を振りながら見送りを済ませる。実くんはとくに声を掛けるとかはなく、顔だけ向けて一応、リアクションだけ取っていた。



 小米ちゃんはカバンを持って席を立つと、友達三人の輪の中に混じり、一緒に次の講義室へと歩いて行く。

 そんな後ろ姿を実くんは視界に収めていた。

 まるで自分とは縁遠いものでも見るみたいな目で。

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