忘れていくんだね【ショート版】

大いなる凡人・天才になりたい

第1話


§



 ある日の事だった。

 それはなんの前触れもなく起こった。

 顔を上げれば綺麗な星空が見える、ある冬の日――彼女が部屋のベランダから飛び降り、死んだ。







 買い物から戻ってきた時、マンション敷地内に人集りが出来ていた。見れば、マンションの住人たちで、彼らはなにかを囲うように立っており、ヒソヒソと声を忍ばせ喋っていた。



 不穏な気配を感じ取り、僕は慎重な足取りで彼らの元に歩み寄ると、彼らは場所を空け、囲いの一部が開けた。その先には、誰かが倒れているのが見える。



 服装と体型から、女性だと知れる。彼女はうつ伏せに倒れており、その周りには黒いシミが波状に広がり、溜まりを作っていた。

 それは、血だ。血溜まりだ。

 それは彼女から出た血なのだ。相当な量が流れ出ており、とてもじゃないけれど生きているとは思えない。 じゃあつまり、地面に倒れているのは遺体・・・・・・という事になる。



 不意に。

 ひゅぅぅぅぅぅ――と、一陣の寒風が吹きつけ、近くの街路樹がざわざわと木の葉の擦れる音を立てた。

 僕は、イヤな予感がした。



 ざわざわと、木の葉の擦れる音に合わせて心が波打つ。

 ――彼女の体型と、着ていた服に既視感を覚えた。



 僕はおもむろに、顔を上げた。するとそこには、一棟のマンションがある。ベランダ側にいるので、各部屋の窓には明かりが灯っていたり、暗かったりと、部屋の内状が窺える。 その部屋のうち、窓が空いている部屋があった。吹きつけた風でカーテンが揺れている。



 そこは・・・・・・、僕の部屋だった。

 まさか・・・・・・と、思う。いや、そんな筈は・・・・・・。

 心臓がドクドクと音を鳴らす。

 まるで警告音のように、僕の不安を掻き立てる。

 そんな、まさか・・・・・・。



 僕は部屋に戻る。最初はたどたどしい歩き方から、段々と焦りで早足になっていく。そして僕は一息に階段を駆け上がり、五階まで上がると、自分の部屋へと向かい、ドアノブを捻る。も、ガチャン、と堅い感触があり、カギが掛けられていた。当然。僕がカギを閉めて出て行ったのだ。



 ズボンのポケットに手を突っ込み、カギを取り出す。そして鍵穴に差し込み、扉を開くと、リビングの明かりが渡り廊下に差し込み、テレビの音も漏れ聞こえていた。そして暖房の温かい空気が僅かに肌に触れる。



 玄関に入ってすぐに流れ込んでくる日常の空気に触れて、僕は一瞬、ホッとする。――大丈夫、君はいる。 自分に言い聞かせながら僕は、渡り廊下の扉を開き、彼女の待つリビングへと向かった。するとそこには――、



「可純・・・・・・」



 声が掠れる。

 彼女を呼ぶ声が、掠れた。

 僕の視界に君は、いない・・・・・・。

 視界の先に、開いた窓と、はためくカーテンが見える。



 そんな、訳・・・・・・僕は、カーテンを退けてベランダを探す。けれど彼女はいない。・・・・・・手摺りに掴まり、地面を見下ろす。するとそこには、人集りと、血溜まりの中に身を浸す女性の遺体。



「うそだ、」



 僕は部屋に戻り、風呂場やトイレを探した。

「可純っ・・・・・・」

 何度も名前を呼ぶけれど、どこにも彼女はいない。返事もない。

 なんで、なんで・・・・・・。



「どこにもいないんだ・・・・・・」



 だって君は、ついさっきまで僕の部屋にいたじゃないか。ここで一緒に鍋をつついていたじゃないか。

 なのに、なんで君は突然いなくなるんだ・・・・・・。

 僕は縋るような思いで、彼女の名前を呼ぶ「可純――」



 でも二度と、彼女が僕の声に返事をしてくれる事はない。

 あの遺体は、可純だった。

 君は死んだ。

 突然、この世からいなくなった――僕の前からいなくなった。

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