参.胡蝶の紫

一.壬午年 鷹乃学習(たかすなわちわざをならう)①

 生まれて十七年を過ごした二の曲輪が炎に包まれている。


 皆原下城が蹂躙される様子を、ゆかりは上城南曲輪の櫓から無表情に見下ろしていた。


 白羽山の山腹に築かれた、南北に長い上城の櫓からは、下城も、西南に広がる城下町も一望できる。紫は去年まで、城と城下町の外に出たことが殆どなかった。だからほぼすべての思い出が、目の届く範囲に散らばっている。


 その悉くが今、灰燼に帰そうとしていた。


 だが、火を放ったのは、攻める者たちであり退く者たちでもあった。


 平地の居館であった下城に対し、山中の要塞である上城。詰め城に追い込まれる際、棄てざるを得なかった御殿を燃やすことを決めたのは、徳永軍の者たちだ。敵に奪われるよりは、と、苦渋の決断であった。


 しかし川平・久凪軍は、城にも町にも些かの頓着もなく、すべてを破壊しつくす勢いで兵を差し向けてきた。彼らの目的は城や町の奪還ではなく殲滅なのだと、否が応にも思い知らされる。


 眼下の惨劇から目を逸らし、紫は反対に頭上を見上げた。梅雨明けの真昼の空はどこまでも澄み渡り、陽射しは痛いほどに強く紫の身を貫く。振り返った山の峰には木々が青々と繁って風にそよぎ、湧き上がった白雲には偉容がある。その雄大さが、人の生む惨劇を滑稽なほど残酷に、そして無情に際立たせていた。


 泣き崩れたい気持ちが込み上げてくるが、涙は零れるどころか、筆ですっと刷いたような眦に浮かびもしない。


 紫は泣かない。泣けない。泣くことは許されない。


 何故なら、この惨禍を招いたのは、紫のとがでもあるからだ。


 そしてそれを後悔していない。紫は、「彼」を守り抜いた。


 乾いた眼差しで櫓を降り、兄たちの籠もる中曲輪の天守へと足を向ける。


 上城は北を帆高連峰に続く白羽山に、残る三方を蛇行する広瀬川と硯川すずりがわに守られた天然の砦。しかしここまで敵軍に襲われるのも時間の問題だろう。


 あの頃、幼かった紫たちにとって、下城ほど人目が厳しくなく、しかし土垣を巡らせ安全であった上城は、童の足でも行ける格好の遊び場だった。今も、蔵屋敷の陰から笑いながら駆け上がっていく自分たちの幻が鮮やかに見える気がする。


 ここは楽しかった記憶に満ち溢れている。


 その幸せが、ずっと続くと無邪気に信じていた。


 紫を先導するように、山から迷い込んだ白い蝶の翅がひらひらと眼前を舞う。


 射干玉の髪を風に遊ばせ、思いを刻むように一歩一歩を踏み締めながら、紫は今日を迎える覚悟を決めた日のことを思い出していた。

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