完璧令嬢のままでは彼を救えない
可明
01:城壁塔と2人の運命
ジルコニア・レンダーは、春先の冷たい風をその身に受けながら、城壁塔の屋上に立っていた。彼女の美しい金髪は吹き抜ける風に乗って舞い上がる。
空は雲ひとつなく澄み渡り、その広がりは彼女の瞳の色を映し出していたかのような青色をしていた。
風になびく髪を耳元で押さえつけながら、彼女は後ろの侍女を振り返った。
「髪をまとめておけばよかったわ。塔の上は風が強いのね」
「お、お、お嬢様、風にあおられて落ちぬよう、お気を付けくださいっ」
老齢の侍女は石造りの床に両手をついて座り込み、青ざめた顔でジルコニアを見上げた。
その怯えた様子に、彼女は困った表情を浮かべつつも、優しく言葉を返す。
「怖いなら下で待っていて、と言ったじゃない」
「そうもいきません! ああ、お嬢様、老婆は悲しゅうございます。品行方正を絵に描いたようなお嬢様が、まさか、城壁塔に忍び込みむなんて……」
侍女は芝居がかった動作で、前掛けを目元に当てて泣くふりをする。ジルコニアは気心の知れた侍女の心からの心配だとは理解しつつも、さらに困った顔をする。
「ちゃんとお父様からいただいた許可証を見せて登ったわ」
「そういう意味ではありません!」
「わかっているわよ、非常識ってことでしょう? でも、婚約者と正式に顔を合わせる前に、ほんの少しでいいから自分の目で見てみたいの」
婚約者の顔を見たい。
たったそれだけのために、2人は城壁塔の屋上に登った。
ジルコニアは数日前、レンダー伯爵家の当主である父から婚約について告げられた。16歳の誕生日の翌日だった。
婚約者の名前は聞き覚えがあるものの、顔は思い浮かばない。
父は「とても素晴らしい男性だよ」と言って嬉しそうに笑い、母は笑顔で祝福の言葉をかけた。
ジルコニアは遠くに広がる地平線眺めながら呟いた。
「顔も知らない相手との結婚が当たり前だって、わかっているの。でも……」
いざ目の前に現実として突き付けられると、心がずっしりと重くなるような閉塞感があった。
自分の人生であるのに、その重要な部分を自分で選ぶことができない。せめてわずかでも、自分の人生であると感じたい。自分ができる選択をしたい。
心を突き動かすような衝動が、彼女を高い城壁塔の上へと導いた。
ジルコニアは座り込む侍女の前に両膝をつく。
「婚約者の顔を見たらすぐに降りるわ。だから、いまだけは私のわがままを許してほしいの」
「わざわざ
「それを言われたら困っちゃうわ。登ってみたかったのよ。――見て、鳥になった気分」
ジルコニアは軽やかに立ち上り、両手を広げてその場でくるりと回った。
広大な青空を背景に、彼女の金髪が跳ねて太陽の光を受けてきらめく。
「私ね、人生が大きく変わる瞬間を、自分の目で見届けたいの」
侍女はその言葉にハッとした。
幼い頃から物わかりがよく、厳しい教育に弱音を吐くことなく取り組む、容姿の優れた上級貴族の娘。彼女があまりに完璧でつい多くを求めてしまうが、彼女はまだ17歳の少女だった。
年相応に恋を夢見て、自由を望む心を持っているのだと、侍女は改めて思い知らされ、自身の浅慮を素直に恥じた。
「この老婆は、お嬢様に理想を押し付けてしまっていましたね」
「理想を体現するのは、嫌いじゃないの。だから今回だけ、ね?」
ジルコニアは屈託なく笑って見せる。
その表情には、侍女の罪悪感を和らげるための深い思いやりが込められていた。侍女はその優しさに心から感謝し、微笑みを返した。
「お嬢様、さっそく探しましょう。許可証があるといっても、長居はご迷惑でしょうから」
「わかってくれて嬉しいわ」
ジルコニアは本来の目的のため、城壁塔の壁に近付いた。
人の背丈ほどの高い壁と、腰の高さの低い壁が交互に配置され、丸い屋上をぐるりと囲んでいる。
彼女は腰の高さの壁から顔をそっと出した。
真下に広がるのは、土を踏み硬めて作られた演習場。そこでは数十人の騎士がペアを組んで剣の訓練に励んでいた。
剣がぶつかる金属音と、騎士たちの力強い声が、高い塔の屋上まで届く。
ジルコニアは下を覗いたまま、侍女へ問う。
「クロヴァ様はどなたなの? 知ってるのよね?」
「はい、ダークブランの短髪の方でございます。騎士団長の黒いマントを肩にかけていらっしゃると思います」
その情報を頭に入れ、ジルコニアは演習場内に視線を走らせた。間もなく、目的の人物を見つける。
騎士たちの間を歩きながら、厳しい目で鍛錬の様子を見ている男性――クロヴァ・メイス。メイス伯爵家の長男、28歳。
城壁塔の屋上からでも、その身長の高さと体格の良さがはっきりとわかる。
クロヴァは騎士たちが打ち合う様子を見て回り、時折足を止めて声をかける。
彼の良く通る声は、騎士たちの掛け声が重なり合う中でも、塔の上まではっきり聞こえる。
「――いまの踏み込みは良かった。もっと腰を低くして、素早く切り込むように。――お前は体重のかけ方が甘い。体ごと前に出せ。もう一度。そう、その調子だ。――剣先に囚われるな。視野を広げて間合いを読め」
彼が騎士たちに声をかけるたび、その場の空気が引き締まるようだった。騎士たちは指導を受けて、更に熱心に訓練に打ち込んだ。ひとりひとりの表情はわからなくとも、クロヴァに対する尊敬と親愛が感じられる。彼は騎士団長として認められ、厚い信頼を置かれいた。
ジルコニアはその光景を見て、心の中で温かな感情が湧き上がるのを感じた。
「クロヴァ様は噂通りの立派な方のようね」
「ですから言ったではありませんか、この縁談はうまくいきますよと」
「わかってるわ。でも、自分の目で確かめたかったのよ」
ジルコニアはじっとクロヴァを見た。時間が許すならば、このままずっと見ていたいと思った。
彼の声の響き、歩く姿、ひるがえるマント、それらすべてが次第に愛おしいものへ変わっていく。
短く笛の音が響き、騎士たちは剣の打ち合いをやめた。
休憩時間に入ったのか、各々がどこかへ移動したり、その場で腰を下ろしたりする。
クロヴァの周りには数人が集まり、談笑が始まった。少しも経たず、大きな笑い声が湧き上がる。
高い塔から見下ろしているため、彼らの表情ははっきりとは見えなかったが、和やかな雰囲気は伝わってきた。
騎士がじゃれるように体を押しあい、クロヴァがその間に入る。彼が何かを言って隣の騎士を肘で突くと、また笑いが起こった。
ジルコニアは細かな動きも見逃さないよう集中する。
突然、クロヴァがぱっと顔を上げた。
2人の視線が合わさる。
「あっ」
ジルコニアは慌てて顔をひっこめた。
「何かありましたか?」
「クロヴァ様が、こちらを見たような気がして。私だと知られてしまったかしら」
「下から見上げる分には、お嬢様のお顔まではわからないと思いますよ。しかし、ここへ確かめに来られますと言い訳ができませんね。すぐに去りましょう」
「そうね。……付き合ってくれてありがとう」
「どこまでも付き添いますよ。ただし、次は階段が少ない場所が良いですね」
「ふふっ、その通りね。ごめんなさい」
二人は笑い合い、城壁塔の内階段を降りて行った。
…………
……
「団長、どうしました?」
空を見上げるクロヴァに、騎士のひとりが声をかけた。
クロヴァは視線を地上に戻し、独り言のように答える。
「城壁塔に、金髪の女性がいた」
その言葉に騎士たちが沸く。
「あはは! 変な冗談やめてくださいよ」
「塔に女がいるはずないじゃないっすか」
「きっと勝利の女神ですよ! 鍛錬に励む我々に、祝福を与えに来てくださったのだ!」
クロヴァは先ほど見た顔を思い出す。
一瞬だけ目が合い、驚いた顔をした少女。
あどけない表情だったが、魂が吸い込まれそうなほどの美しさを感じた。
「そうだな、女神のように見えた」
クロヴァはもう一度城壁塔の上を見た。少女の姿はなかったが、胸の中にはしっかりとその姿が刻まれた。
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