漂揺の狩人

村岡真介

第一章 漂揺の狩人

黒い手帳

 あれはもう何年前のことだろう。聡は思い出す。あの男と一緒にいた2年間の日々のことを。


 その日、聡(さとし)はいつもよりイライラしていた。パチンコが出ないうえにあと少しで近くのコンビニのバイトに行かなくてはならないからだ。

 聡は最近気になっている男がいる。いつも同じ黒いジャンパーを着て、下はジーンズにスニーカー。大抵の日は玉の山を作っている男。歳は三十代か、聡とはひと回り上と見受けられる。

 とにかくほぼ毎日勝っていることは容易に推測がつく。いつもいくらぐらい勝っているんだろうか。興味は尽きない。

 バイトの時間だ。通りがかりに男がいつも座っているシマを横目で見ると男は今日も出してドル箱タワーを築いている。

 なんだか悔しい思いをしながら大阪、天満にあるコンビニに行く。今日はシフトの関係で三時間。時給は千円、今日はたったの三千円だ。かろうじて命をつないでいるに過ぎない毎日だ。

 バイトも終わり自由になった。よく行く食堂へ入ると、あの男が出ていくところであった。

 聡は中華定食を注文すると、あの男が忘れていったのか、黒い手帳がそのままになっていた。

 明日返してやろうとその手帳を胸のポケットにしまい込む。

 帰りの電車の中で、気になっていたあの手帳を悪いとは思いながらもついのぞいてみた。

 手帳は左側に一週間の日にち、右側は雑記帳になっているごく普通のもので、基本はスケジュール管理をするやつだ。しかしそこに書いてあったのはなんらかの数字の羅列であった。

「収支帳やんか!」

 驚くことに一見すると七割以上も勝っている。

 とにかく明日返す時にそっと聞いてみようと思いながら、また内ポケットにしまった。


 次の日あの男が大勢の客と一緒に並んでいた。聡は声をかける。

「あのーこの手帳、昨日食堂に忘れていたんじゃないでしょうか」

「あぁ、悪いな。おおきにな」

「それで、その手帳についてお聞きしたいことがあるんですけど」

 聡がそう言うと、男は物憂げに振り返る。

「休憩取ったら聞いたるわ」

 聡は男がいつも打っているシマで、男から五台ほど離れたところで打ち始めた。

 昼になり男が休憩を取った。聡もそれに続き、休憩の札をもらう。

 近所の喫茶店に入り、二人ともコーヒーとスパゲティーを注文する。きまりの悪い時間だけが過ぎていく。スパゲティーがやってきた。男は無言で食べ始める。

「あのー」

 聡は遠慮がちに問い始める。

「お名前はなんとお呼びすればいいんでしょうか」

 男が少し考えたあと返した。

「カズトだ」

「じゃあカズさんですね。その手帳、悪いと思いながらもつい見てしまいました。それは収支帳ですよね」

 またきまりの悪い時間が過ぎる。どう接していいのか分からない。

「早く食わないと冷えてしまうぞ」

 聡がスパゲティーを食べ始めるとカズが手帳をポケットにしまう。

 聡は思いきって頭を下げた。

「お願いします。弟子にしてほしいんです。僕はフリーターでいつ金が尽きるか分からない身なんです。あなたがいつも勝っているのはこの目で見ています。どうか、人助けと思って、どうかお願いします!」


 妙な沈黙が続く。カズは食べ終わったスパゲティーの皿を隅にどかせ、十円玉を取り出し目の前で回し始めた。

「表か裏どっちに賭ける?」

「表です。表に賭けます」

「だめだ」

「バンッ」と十円玉を押さえながらカズが言った。手を上げると表だった。

「いや、当たり……ましたよ」

 聡が反論するも、カズは知らんぷりだ。

「もう一度だけやってやる。表か裏か」

 またカズが回し始める。聡は裏に決めた。

「裏です!」

「だめだ」

 今度は結果も見やしないで十円玉をすくい上げ、ジーンズのポケットに戻した。

「お前さんなんで裏にしたんだい」

「いやー頭に浮かんだからなんとなく」

「パチンコで負けているのもそれが原因だよ。ただなんとなく台に座り、ただなんとなく勝負をやめる。突き詰めて考えたことなんかない。図星だろう」

 カズの言っている通りである。しかしさっきの賭けは不可解だ。聡にはカズの意図が全く分からない。


 カズが店を出た。少し雨が降り始めたようだ。

 その後を追いながら、聡が訴える。

「お願いします、カズさん。掃除、洗濯なんでもしますから。どうか、どうかお願いいたします!」

 するとカズはくるりと振り返り、あの黒い手帳を聡の目の前に出して言った。

「収支だ、収支をつけ続けろ。どんなに負けても、負けて負けて負け倒しても収支は正確につけ続けろ。勝つための第一歩だ」

「はあ、……あっ!は、はいっ!はいっ!」


 降り始めた雨もやみ、空が明るくなってきた。











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