4 感受性――sensitive――(3)

 自ら働いて得た初めての金の感触を確かめながら、セールは通りを歩く。しばらくは、弾む足取りでうきうきとウインドウショッピングを楽しんだが、ふと気づいてしまう。


 せっかく稼いだ金なのに使い道がない。


 もちろん、食事はする必要がないし、身体のメンテナンスはついた埃を拭き取るくらいで十分だから、改めて買う程のものはない。


 さっき描いてもらった自画像でも買いとろうか。


 いや、それにはあまりにも額が足りないだろう。


 いっそのこと、エイクにあげてしまおうか。


 一瞬、そんなことを考える。


 しかし、それは何かが違う気がする。


 自分とエイクは気安い関係じゃない。


 対等な約束で結ばれた、ある種の打算的なつながりだ。


 エイクに金を渡すのは、逆に甘えになってしまう気がする。


「これは……」


 セールは立ち止まった。


 ちょうど、色のない通りと大通りの境目にある店だった。


 芸術品でもなく、実用品でもない。そんな中途半端な品ばかりが並んでいる。


 コンセプトが不明瞭なせいか景気はあまり良さそうではなく、商品をのせている水色の敷物は曇り空のようにくすんでいた。


 セールの視線の先にあるのはリボンだった。


 片方の端は橙色でもう片方は紫色、まるで黄昏時のように徐々に色が移り変わっていく仕上げだ。


 小さな星を連ねた『幸福を』という文字の刺繍が施されている。


「それは悪くない品です」


 モノクルをかけた老人が、いまいち乗り気でない様子で売り文句を口にする。商売っけを出すのか、金に興味のない芸術家のふりをするのか、迷っている様子だ。


「俺は素晴らしいと思うのだが、代金はこれで足りるだろうか」


 セールは握った手を開き、有り金全部を老人に差し出した。


「足りません」


「そうか。すまない。俺はこういった物の値段に明るくないのだ」


「足りませんが、その値段でお売りしましょう。そんなに気に入ってくださったなら」


 老人は一瞬、しかめっ面をしてから、顔をしわくちゃにして顔をほころばせ、セールの金を受け取った。


「ありがとう」


 セールは大切そうにリボンを摘まむと自分の左腕に結び付けた。


 自分の金の使い道に満足する。


 セールの全ては『恋人』のためにある。彼女の心はわからないけれど、幸せを願うくらいは許されるだろう。いつかこれを渡す時には喜んでくれると信じたい。


 気後れはもはや、霧散していた。


 堂々とした足取りで華やいだ通りを闊歩する。


「やあ、人形さん。また、会いましたね」


 肩を叩かれて、振り向いてみればそこには先ほどの絵描きの青年がいた。


「先ほどはどうも」


 セールは軽く頭を下げて挨拶を返す。


「人形さんのおかげですばらしい作品になりそうですよ」


 青年は手で筆を持つ真似をしながら、そう意気込む。


「そうか。それは良かった」


 セールは素直に祝福した。


 彼らの仕事もまた素晴らしいが、かといって自分を恥じなくても良いのだ。

 セールはそう思えるようになっていた。


「今まで、何をなさっていたんです? 美術館に建築技術の粋を集めて造られた教会、文豪たちの貴重な遺稿を見学できる博物館、この街には見る所がたくさんあって、大変だったでしょう」


「いや、あそこの通りで野菜を売るのを手伝わせてもらっていた」


 セールは先ほどまで自分がいた通りを指差して、誇らしげに言った。


「それは素晴らしい! 人形さんは慈善活動家でいらっしゃる!」


「いや……」


 そんなつもりはない、と続けようとするが、両手を握りしめられ言葉に詰まる。


「わかります! みなまでおっしゃらずともわかりますとも。『右手が善行を施しても、左手に善行を告げるな』、人形さんは偽善者ではない本物だということは、自らの労力を提供したにも関わらず『手伝わせてもらった』とおっしゃったところで気づきましたから」


 両手が青年の腕の動きに合わせて上下する。


 セールは曖昧な表情で笑おうとした。


 もっとも、表情筋がないから、青年には伝わらないだろうが。


「私も、常々、商い通りの労働環境については問題だと思っていました。彼らは日々の生活に追われて、心に良いことを楽しむ時間もない。気の毒なことです。とはいえ、彼らの労働が我が国の生活基盤に食い込んでいることも事実、中々根深い問題です」


 セールには、彼女たちが気の毒だとはとても思えなかったのだが、この国に住んでいる青年が言うからにはそうなのだろう。


「……すまない。俺には難しいことはよくわからない」


 セールは小さく首を振る。


「他国の者が口を出すと内政干渉だと思われると考えていらっしゃるのですね。本当に人形さんは思慮深い方だ。でも、ご安心ください。私どもには彼らの苦しみがよくわかります。決してこのまま放置することはありません。私が思うに、重要なことは結果の平等ではなく、機会の平等を確保することです。ですから、私も低所得者でも芸術に触れる機会が与えられるよう、基金に寄付をしています」


 青年は真剣な表情でセールを見つめてきた。


 両肩に圧力がかかる。


「素晴らしいことだな」


 他に言葉が思いつかなかった。


「いえいえ、私の言葉など所詮机上の空論、実際に行動している人形さんには敵いません。……そうだ! これから映画を観に行きましょう。きわどいテーマを扱った衝撃的なシーンも多いと評判の問題作なのですが、社会的問題に関心のある人形さんなら楽しんで頂けると思います」


 セールはその場で硬直し、腕を組んだ。


 青年の表情がみるみるうちに曇っていく。


「すみません。他の国にもこんなに感受性豊かな方がいらっしゃるのが嬉しくて、はしゃぎ過ぎてしまいました。人形さんはお忙しいですよね?」


「いや、時間はある。しかし、今、俺は金を全く持っていないのだ」


 セールは慌てて、手をぶんぶん振って否定する。


「なんという、滅私の心、人形さんは奉仕の神と言っても過言ではないでしょう。私は感動しました。金なんぞ気にしなくても良いのです。先ほどモデルになってくださったお礼もありますし、是非私に奢らせてください」


「いや、しかし」


 セールは申し訳なさそうな声で口ごもる。


「お願いします」


 青年が手を合わせて頼み込んでくる。


「……では、よろしく頼む」


 本当は断りたかったのだが、青年のあまりに熱心な口ぶりを聞いていると断るのも忍びない。


 結局、セールは青年に付き合うことにした。

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