背中の傷が疼く時
よし ひろし
背中の傷が疼く時
「ん、痛っ…」
背中の痛みで目が覚めた。
博多駅近くのビジネスホテル。明日、早い時間から仕事の打ち合わせがあるので早めに床に就いたのだが、すっかり目が覚めてしまった。
時計を見るとまだ午前二時過ぎ。
もう一度眠りたいところだが、背中の痛みがひどい。
痛みのもとに手を伸ばす。右の肩甲骨のあたり。かろうじて手をまわすと、シャツの上からわかるほど腫れていた。
「傷口からばい菌でも入ったのか…」
その場所は一週間ほど前にある女性から受けた傷のあるところだった。
「
彼女と別れたあの晩のことが頭に浮かぶ――
「すまない、別れてほしい…」
彼女の部屋、夕食を終えたところでそう切り出した。本当は仕事を終え、二人でここに来てすぐに話をするつもりだったが、中々言い出せずに、そのタイミングになってしまった。
「冗談でしょ?」
猫の目のように吊り上がり気味の大きな双眸を見開き、俺を見つめる多喜。
「本気だ。本当に、すまない」
「どうして――」
信じられないという顔。
それもそうだろう。俺と多喜は同じ職場で、会社の連中はみな二人が付き合っていることを知っている。いわゆる公認カップルというやつだ。親への顔見世も済ませており、後は結婚するだけ、そういう状態だったのだ。
「女…、女なのね。誰か別に好きな女ができたのね!」
多喜が詰め寄ってくる。
「違う。そうじゃない。――会社を辞めようと思って」
「えっ?」
「今まで培ったスキルを活かして、新しい仕事を始めようと思うんだ」
「……」
「九州の会社なんだ。ベンチャー企業って奴で、小さいけど、俺の力を存分に発揮できる――挑戦したいんだよ、一発」
今の会社では自分の思うようなことはできない。所詮は歯車だ。このまま多喜と結婚し、今の会社に残れば安泰な人生が送れるかもしれないが――試してみたかったのだ。自分の力を。結婚し家庭を持ってからでは遅い。いま、そのタイミングしかなかった。
「……私もついていく」
「ダメだよ。何の保証もないし、お父さんに申し訳ない」
多喜の父親は今いる会社の重役で、いろいろと目を掛けてくれていた。それをある意味裏切るような格好になるのだ、その娘を連れて行けるほど俺は図太くない。
「でも…」
大きな瞳に涙がにじむ。
「別れたくないの…」
多喜が言いながら抱き着いてくる。
「ごめん…」
謝るしか今の俺には出来ない。
「……抱いて、あなたの気を変えてあげる」
強引に口づけをしてくる多喜。激しく唇を重ね、舌を絡めてくる。
その後、彼女の想いに押し切られるようにベッドインし、いつも以上に激しい夜を過ごした。
その時、多喜の長い爪がざっくりと背中を切り裂いたのは、彼女の怒りの現れか、それとも自分のモノだという証拠を残しておきたかったのか…
翌朝、彼女が目覚める前に部屋を後にした。
ルージュの伝言ではないが、『さよなら、ごめん』とのメモ書きをテーブルに残してきた。
あれから一週間、会社にも正式に辞表を出し、仕事の引継ぎを終えて、今、ここにいる。明日、新しい会社の面々と顔合わせだ。多喜はあの後ずうっと会社を休んでおり、顔を合わせていない。
「多喜…、どうしているのかな……」
嫌いで別れたわけじゃない。でも連れてくるわけにはいかなかった。
ため息を一つ吐きながら、思いをはせる。と、
ズキっ!
背中の腫れものが一段と痛みを増した。
「くっ――!」
顔を歪め、背中に回した手で更に詳しく触れてみる。
「なんだ…?」
触れている指先から異様な感触が返ってくる。
おかしい。先程よりも膨らみが大きくなっていた。
すぐにシャツを脱ぎ、上半身裸になって備え付けの机の前にある大きな鏡で背中の様子を見てみると――
「なんだこれ――」
腫物というより瘤のようなものができていた。縦長の楕円形をした肉の塊。
「うっ、くぅ…」
痛みが増す。
見ている間にもその瘤は大きく張り出し、その表面に凹凸が出来始めた。
その凹凸の創り出す影は、まるで人の顔――
その時、机の上に置いておいた携帯電話の着信音が鳴り響いた。仕事の連絡がいつ入ってもいいようにマナーモードにはしていなかった。
真夜中なのに誰から――などということも考えることなく、反射的にその電話に出る。
『おい、有馬、大変だ! 多喜さんが、多喜さんが、死んだ!』
会社で一番の友人の声。多喜とも仲が良かった同僚の慌てた音声が耳に届き、愕然とする。
「な――!?」
そして、ある予感に襲われ、鏡に映る背中に視線を集中させた。
「まさか…」
驚きのあまり、手にしていた携帯電話を落とす。その向こうから友人が呼びかけ続けていたが、もう耳には入らない。
何故なら、鏡の向こうの瘤が、徐々に多喜の顔へと変化していったから――
「た、き……」
絞り出す様に名を呼ぶと、その瘤の瞳が開く。猫を思わせるような特徴的なアーモンド形の二つの
更に口元が三日月形に割れる。
「別れない…」
声が漏れる。吐息のような囁き声だが、間違いなく多喜の声。
「ば、ばかな……」
頭が白くなる。パニック。俺は一体何を見ているのか――
思わず鏡から顔をそむけた。見なければ背中は何もない、そう思いたかったのかもしれない。
だが、ひと際強い痛みが襲いきて、直後、体内に響くようにして声が届く。
「私も一緒に行くの…」
「あ、ああぁ…」
耳を塞ぐが、声は聞こえ続ける。
「どこまでも、いつまでも、あなたと一緒、永遠に――」
その声はまるで地獄から響いてくるような、執念に満ちたものだった……
背中の傷が疼く時 よし ひろし @dai_dai_kichi
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