21 いばらの花を


 侑李ちゃん人の血を飲んだことある、と柏田玲紀は首を傾げた。


「俺はね、あるの。樋野宮さんと一緒。すごいでしょ。世界中で俺だけだと思うんだよ、血食症じゃないのに人の血を飲んだことのある奴って」


 でもすっげぇ不味くてさぁ、一口飲んで吐いちゃった。

 私を見下ろしていた柏田が、しゃがんで私の顔を覗き込む。つけていたマスクを顎まで下げて、唇を舌で舐めた。


「悲しいよね、なんで俺、血食症じゃないんだろう。でも頑張って四人も飲んだ。まあほとんど不味くて捨てちゃったんだけど。あいつらが特別不味かったのかな。侑李ちゃんのは美味しいよね、樋野宮さんがずっと側においてるんだもん。俺にとってもきっと美味しいと思えるはずだよね、ね、そう思うでしょ」


 私は深呼吸をして、倒れた上体を起こした。街灯から離されたせいで、柏田の表情はよく見えない。なのに、吐き出される言葉は妙に生々しく、ぎらりとした鋭さで届く。


 この人から出る「血食症」という言葉が、あまりに不快で耳が歪みそうだ。

 肩からずり落ちていた、教科書やノートが入ったスクールバッグの端を、そっと掴む。


「……何で、人の血を飲もうって、思ったんです」


 中学時代、那都希はまだ生の血液を飲んではいなかったはずだ。

 私の問いに、柏田玲紀はぽかんと口を開けた。


「樋野宮さんが飲みたがってたからに決まってるじゃん!」


 そんなことも分かんないの、と、言うような口調だった。


「なあんだ、あんたも全然分かってないんだね! 血食症だよ? 人の血を美味しいと思うの。人の血を飲むのが当たり前の人たちなんだよ、本来は。それなのに社会に窮屈に閉じ込められてる。樋野宮さんはとても美しくて高潔なんだよ。自分が、『現代の吸血鬼』なんだって、分かってる! その上あの儚くて妖艶な容姿で、人のことなんか歯牙にもかけない冷たい瞳で、まさに理想だ、理想の血食症者。特別なんだよ!」


 目眩がしそうだった。

 腹の底が今にもひっくり返りそうな、胃が焦げつくような。


 血食症者、と。

 こんなに、明確に、那都希を、その記号で扱われたのは初めてだった。

 クリスマスイブの時の、何倍も。


 ――那都希が、見世物にされている。


「ああ、安心してね。俺医大生だったから。採血の仕方はちゃんと知ってるよ。器具もある。とりあえずちょっと立ってよ。ここじゃ血を抜けないから」

「……那都希は、」

「うん?」


 腕を引っ張られる。鞄を強く掴んで堪える。声が震える。悔しい。馬鹿みたいだ。何で、こんな人のせいで那都希が傷つけられるのを、自分のせいみたいに思ったんだろう。私も同じ凶器を持っているって、思ったんだろう。目の前にしてようやく実感する。私はこの人じゃない。この人には、絶対にならない。だって。


「那都希は、七年前の事件の犯人じゃない」

「うん、そうだね、俺です」


 あの飲み会の日。信号の点滅を視界の端に映しながら。

 私は那都希に言った。


「――私は、那都希が、七年前の事件の犯人だとは、思わない」


 それを告げたとき、那都希が、目を見開いて。

 泣きそうに笑ったのを、忘れていない。


 それは、宣言だった。私には那都希の心なんて分からない。那都希の本心なんて知らない。いつも私をからかってくるくらいだ、どんなに私が信じても、裏切られることはあるかも知れない。父の那都希への恋を、私が今でも信じられず、受け入れられないように。


 それでもいい。それでも、真実よりも、今私が見ている那都希を信じることにする。

 それで後悔しないと、決めた。


 それは、私が手にしていた凶器を、一つ、手放すための宣言だった。


「那都希は絶対に犯人にならない。あなたと、同じことなんかしない」

「は」


 柏田の声が低くなった。びくりと身体が震えた。けれど、これだけは言わなきゃ気が済まない。


「那都希は、私の血を飲んだことなんてない。相手の返事も聞かずに、強引に血を奪うなんてあり得ない!」


 掴んだ鞄で、私の手首を握る柏田の腕を叩いた。たった数教科分でも、参考書や辞書まで入っていた鞄は重い。腕を振り回すように鞄を投げつけて、柏田の手が離れたのを感じて何とか立ち上がった。膝が震える。嫌だ。ちゃんと逃げなきゃ。動かせ。鞄から参考書や教科書が地面に落ちる。一瞬、微かに、金木犀の香りがした。

 全身の力を振り絞って坂を駆け上がった。県立大学の灯りが見えている。上り坂だけれどこっちの方が絶対に近い。携帯も鞄も今はいい、とにかく逃げる。足が冷たい。


 コートの裾をひっつかまれた。

 背中から転ぶ。

 頭を打つ前に肘はつけたけれど、骨を打った痛みで身体がしびれた。


「はあ? まじ最悪、これだから生身の人間と話すのいやなんだよ」


 柏田の苛ついたような声が降ってきた。血の気が引く。髪の毛ごとコートの襟首を掴まれる。そのまま引きずられるようにして坂道を下った。その先は大きなカーブだ。曲がると山の斜面で大学が見えなくなる。異変に気付いてもらいにくくなる。


 嫌だ。死にたくない。

 大人しく採血させれば。

 七年前だって死者は出ていない。

 こんなに怒らせたのに?

 七年前とは状況が違う。本当にこの人が安全に血を抜くことなんてできるの。


 引き攣る頬を無理矢理動かして、せめて助けを呼ぼうと悲鳴を上げようとした。


 ぱ、と、視界が閃光に染まる。


 ――え、なに。


 驚きすぎて、一瞬何も見えなくなった。視界と頭がグラグラした。

 誰かの声がする。柏田の声だろうか。でも、何人か、色んな人の声がする。


「侑李さん、侑李さん」

「侑李ちゃん!」


 あれ、と、瞬いたときには、目の前にシャツとネクタイがあった。白衣を着ている。

 お父さん――思って、すぐに違うと気付いた。


「……藤堂先生?」

「秦野さん、無事ですか」

「侑李ちゃん、大丈夫!?」

「鹿能さん?」


 よくよく周囲を見てみると、私を引きずっていた柏田は、鹿能さんと十畑先生に取り押さえられていた。え、と瞬く。


「え、どうして先生たちが」

「樋野宮さんから、知り合い全員に一斉メールがやってきたんです。県立大の近くにいるなら秦野さんを探して欲しいと。僕と十畑先生が比較的近くにいたので」


 見つけられて良かったです、と、藤堂先生はほっとしたように息を吐いた。私の背中を撫でてくれる。


「怪我をしていますか。痛いところは。鹿能君、救急車と警察を」

「今呼んでます」


 柏田玲紀の腕と上半身を、十畑先生が完全に押さえつけるのを見計らって、補助をしていた鹿能さんが携帯を取り出す。後で聞いたことだが、鹿能さんと十畑先生は一緒にいたらしい。あの打ち上げ以来、たまに一緒に呑むのだそうだ。学生と教師が呑み友ってどういう関係だろう、と思ったけれど、大学ではままあることらしい。そこに那都希からのメッセージが来て、近くで講演会のあった藤堂先生と合流したそうだ。

 私は、あの、と鹿能さんに話しかける。


「警察に、これも伝えてくれますか。七年前の――」


 言いかけて、再びぱ、と視界に光が映る。

 今度は、はっきりと車のヘッドライトだと分かった。先生たちが乗ってきた車ではない。見覚えのある車体だった。


「侑李!!」


 バタン、と、助手席のドアから華奢な人影がまろび出してくる。

 見覚えのあるナンバーと車体。謙二郎さんの車だ。


 じんじんとする肘を押さえながら、地面に座り込んだままの私に、那都希は飛びついた。


「侑李、大丈夫!?」


 抱き締められる。部屋着にコートを羽織っただけの格好だった。その細い腕が――全身が、カタカタと震えている。震えを抑えるように、強く抱き締められた。


「なっちゃん、ごめん」

「何が」

「心配かけて。ここまで来させて」


 藤堂先生が陰になっていて見えないけれど、すぐ近くに柏田がいる。那都希を見られたくなかった。私も那都希を抱き締め返す。こんな危険なところに那都希を来させてしまったことが申し訳なかった。


「ばか。侑李のせいじゃない。私が悪い」

「那都希?」

「よく考えたら分かることだった。七年前だって、襲われたのは私じゃなかったのに」

「那都希、」


 ――知ってたの?


 そう問いかけるよりも早く、ぐい、と那都希が私の肩を抱き寄せる。

 制服のシャツ越しに、那都希の歯が当たる感覚がした。


「那都希」

「あいつに……っ」


 声が。

 震えている。

 噛まれている首元に近い肩が、唾液と、別のもので湿っていくのが分かった。温かくて、すぐに冷えていく。嗚咽を飲み込むような音が耳のすぐ傍で聞こえる。


「あいつに、侑李の血を獲られるくらいなら、侑李が拒否してても絶対私が先に飲む」


 本気だからね、と。

 抱き締める手を強くしながら言うわりに、肩に当たる歯は、震えを堪えるような甘噛みで。

 いつもの「不衛生」という言葉を飲み込んで、私は、好きにさせることにした。


 那都希は、しない。

 そんなこと、どうせ、しないでしょう。

 でも。


 あの点滅する信号機の前で。

 私は確かに、凶器を一つ、手放した。だけど、それはきっと、いばらの棘のように小さく無数にあって、まだ、何度でも、お互いに傷をつけていく。


 だから、その一つ一つを。

 こうして少しずつ、取り除いていけたなら。

 そうして最後に、いつか、美しい花だけが、残ったなら――


「いつかちゃんと、那都希にあげるよ」


「……枯れないうちに、ちょうだいね」


 肩から口を離して、那都希が拗ねたように言うのに、私は笑った。





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