20 棘の坂道


 男は、私の手から携帯を奪った。


「あっ」

「樋野宮さんの番号知ってるって、女の子はやっぱ得だよね。俺もせめて女の子に生まれるか、秦野先生の子どもに産まれたかったなぁ」


 ぞ、とした。

 秦野先生。

 そう言ったかこの人。

 秦野啓高を――私が、秦野啓高の娘だと、知っている。


 何を羨ましがられたのかが分からなかった。私と父の、何を知ってそんな言葉が出てきたのか。

 掴んだ私の腕を離さないまま、男は、那都希との通話を切ったようだった。電話の向こうの那都希に、この状況が聞こえていたのかどうかも分からない。


「か、柏田さんですか」

「あれ、知ってる? 樋野宮さんから聞いた? 嬉しい、そう、柏田玲紀です」


 良かった、侑李ちゃんと俺、仲良くなれるかも。

 言いながら、柏田玲紀は、私の腕を強く引っ張った。

 身体がよろける。そのまま、バス停から離れて大学前の坂道を下りようとする。脚が震えた。


 侑李ちゃん――さっきは、秦野さん、て呼んだのに。


 鹿能さんの気安さとは違う、と直感的に思った。鹿能さんは、私の顔を見ながら呼ぶ。距離は近めだけれど、私の反応はちゃんと見ている。この人は違う。私を見ずに歩き出した。強引に引っ張られて、脚がもつれそうになる。バス停のベンチに足をぶつけないようにするので、精一杯だった。


「あの、離して」


 ――いや、考えすぎだろうか。警戒しすぎだろうか。想像で勝手に怖くなっているだけではないか。

 那都希の話でも、彼がストーカーだという確証はなかった。


 靴が雪の砂利を踏む。ローファーに雪が入ってきて冷たい。柏田玲紀は、躊躇うことなく下り坂を進んでいく。転んでしまいそう。


「ちょっとくらい付き合ってよ。いいでしょ、どうせまだバス来ないんだし。携帯、返してあげないよ」


 ね、と。

 楽しそうな口調で言う柏田は、手を離しても、足を止めても、くれなかった。


 ――駄目だ。


 この人は、駄目だ、と思う。


 本当に危ないかどうかを確かめる必要なんてない、その前に逃げていい。そういう状況で、そういう行動を、この人はしている、と思った。携帯だって返してくれない。


 大学へ、と道を振り返る。人の姿は全くなかった。もう暗いから、みんな早足で帰ったのか。もしくは、寒いから次のバスまで大学内で待っているのかもしれない。私もそうすれば良かった、なんて後の祭りだ。山の上だ、大学以外に周囲にろくな建物がない。大学内なら、少なくとも職員さんとか、誰かいるはず。


「きゃ、」


 よそ見をしたのがいけなかった。

 雪に足をとられて転ぶ。柏田が手を離してくれなかったので、身体が変な方向に落ちた。打った腰より、掴まれている手首が痛かった。


「あ、あーあ、大丈夫? 意外とどんくさいね。樋野宮さん、君のどこが良いんだろう。やっぱり秦野先生の娘だから? いいよね、生まれつきそういう特典があるってさ」


 ――特典。

 さっきから、この人の言葉は、酷く気持ちが悪い。


「あの、どうして」

「ん?」


 私は、柏田玲紀を見上げた。


「どうして、私と話をしたいんですか。何を、話したいんですか」


 那都希ではなく、どうして私を。ホテルの部屋まで調べて。

 いくらルームシェアをしているからって、那都希本人よりも優先することとは思えなかった。だって、さっきから、結局那都希にしか興味がなさそうなのに。

 柏田は、しばらく私を見下ろして、それから、面倒くさそうに息を吐いた。


「あー、うん。本当は、どうにかして睡眠薬を飲ませたかったんだよね。血液さえもらえれば、それで良かったし。でもやっぱり、病院じゃないとそういうの難しいから。じゃあお話ししてみようかなって。ほら、その方が樋野宮さんと同じだし?」


 ……ああ。

 ああ、そうだ、この人は。父を秦野先生って呼んだ。知っているのだ。那都希の担当医でもなかった、父を。


 今更気付いてしまった。

 六年前からは姿を見ていないという那都希の言葉。六年前は、那都希は中学三年生だ。まだ病院に長期入院していた頃だ。その頃に姿を見ていたなら、彼も、病院にいた可能性が高い。


 いたのだ。七年前、敷島病院で失血事件があった頃に、彼も。


 柏田玲紀はにっこりと笑う。


「ねえ、樋野宮さんは、君の血を何回飲んだの? 君の血はどんな味だって言ってた? 俺にも勿論、くれるでしょ」


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