16 急変
三が日の最終日、空港で母を見送って、バスに乗って那都希とシェアしているアパートまで戻った。玄関前のポストを確認すると、はがきが一枚だけ入っている。宛名は那都希だ。那都希は今日の朝早くに戻ると言っていたから、取りこぼしたのか。お昼を過ぎた今の時間なら、もう部屋にいるだろう。ドアノブを回すと、案の定鍵は開いていた。
「ただいまぁ、なっちゃーん?」
リビングに続くガラス戸に灯りがある。奥からお正月番組のテレビ音声が漏れ聞こえ、中で人影がごそごそ動く。
ドアを開けて、那都希が顔を出した。
「おかえり~」
元旦に綺麗にまとめていた髪は、崩されていつものように背中に流れ、青白く細い手はリビングのシーリングライトの下では灰色の影を浮かべていた。それでも、それは那都希にとっての普段通りで、那都希はご機嫌な顔で、お雑煮作ったんだけど食べる? と首を傾げた。
「ありがとう、食べる」
「るかさん、その靴褒めてたでしょ」
「自信が強い。褒めてたけど」
「侑李の簪も褒めてもらったわよ。特にお祖母ちゃんが、自分も欲しいって」
私は頬を緩ませた。それなら、と那都希に購入したお店を教える。若者向けのアクセサリーが中心だが、ハンドメイドなのでオーダーも受けてくれるお店だ。
荷物を一旦寝室に置き、キッチンで那都希の作ったお雑煮を温める。お雑煮と言っても、お吸い物に三つ葉と白玉を少々入れただけのもので、これが、那都希が生まれて以来の樋宮家のお雑煮だ。お餅は消化にはいいけれど、一つが重いからね、と紫さんが以前言っていた。餅は那都希がお正月にお腹を壊しやすい原因でもある。
私のために残していたらしく、那都希はこのお雑煮と血液パックでもうお昼は済ませたとのことだった。私もお昼は空港で軽く済ませていたが、元より那都希用の軽めのお雑煮なので、ありがたくいただくことにする。
「初詣はどこに行ったの?」
「ホテルの近くにあった神社。合格祈願してきたよ。あ、それ、年賀状?」
「麻見先生たちからも来てるわよ。私たち二人宛」
リビングにお雑煮を持っていけば、那都希は床に寝そべって、年賀状を仕分けていた。さっきの一枚はやはり取り損ねたのか。那都希の友達、私の友達の分は毎年二、三枚ほどだ。同年代の人たちとはほとんど携帯のメッセージでやり取りを終えてしまうので、はがきでくれるのは、親戚とか、大学の知り合いの先生方ばかりだった。麻見先生、十畑先生、藤堂先生、敷島の木島先生。あとは、バイト先の店長から。
「那都希宛のが一つ残ってたよ」
「え?」
「はいこれ」
はがきの宛名面を見せる。宛名に差出人名はなく、那都希ははがきをひっくり返した。
瞬間、呼吸を止めるように、固まる。
「……那都希?」
「……これ、ポストに?」
「うん。一枚だけ」
那都希の、はがきを持つ指先が、僅かに震えた。私は眉を顰める。那都希は、ゆっくり呼吸しようとして、けれど、段々と浅くなっていた。青白い頬の血の気がさらに引いていく。良くない。貧血を起こしそうだ。
「那都希、那都希大丈夫? 聞こえてる? 病院行く?」
那都希は一瞬、私を見た。それからふと、吐き気を抑えるように俯いて口元を手で覆う。お昼のお雑煮を戻しそうなのかも。私は手近のゴミ箱を引き寄せる。
「吐いて良いからね。病院行こう。救急車? タクシーで行く?」
「……大丈……うん、いや、タクシーで」
ただの貧血なら、少し寝ていれば治まることもあるし、お腹の不調も吐いたらそれで終わり、ということも多い。でも、これは多分、良くない。急すぎる。何より、那都希自身が、自分を休めることに躊躇した。今、大丈夫って言いかけた。
普段なら、絶対にそんな甘い判断はしない。調子が悪くなったら、むしろ盛大に自分を甘やかすのが那都希だ。だからこそ滅多に病院に駆け込むことがない。
私は自分の携帯からタクシーを呼ぶ。近所のタクシー会社も三つほど、電話帳に入れている。病院に行く以外でも、緊急事態に備えて入れておくと便利よ、と那都希に教わった。
う、と那都希がゴミ箱に頭を寄せる。持っていたはがきが落ちた。
何の変哲もない年賀はがきだった。
プリントされた今年の干支のイラストと、新年の挨拶と。
手書きのコメント。
――夏に再会できたときはとても嬉しかったです 今度ゆっくりお会いしましょう
差出人名は、どこを探しても、書かれていなかった。
那都希を敷島病院に送って、症状は治まったものの、定期検査も含めて二日ほど入院することになった。私は一度アパートに戻ることにした。那都希の入院道具を持っていかなければならない。こういうときのために、那都希は入院時の必需品をボストンバッグに一式納めていた。
ついでに私の荷物も片付ける。帰ってきたばかりで、まだ荷物の整理をしていなかった。服と、日用品を取りだして、棚の所定の位置に納め直していく。勉強道具は私の教材入れになっている本棚に、その上に那都希や知り合いに渡す予定だったお土産を置く。薄紅色のカードがお土産袋に一緒に入っていた。元旦、すれ違う従業員さんからも挨拶されたけれど、文字で残されると妙にもったいなくて、捨てずに持って帰ってきたメッセージカード。エンボス加工で金の枠線の、那都希が好きそうな装飾だったから、後で見せようかなと思っていたのだけれど。取り出して、私宛の年賀はがきと一緒にお土産の隣に置く。
キャリーケースを空にしてクローゼットの中に戻すと、そのクローゼットの、今度は那都希のスペースから、ミュシャの絵柄のボストンバッグを手に取った。一応、中身に不備がないかを確認する。那都希の入院時の必需品リストは、ルームシェアする時に木島先生からもらっている。ボストンバッグの中身はそこにいくつかプラスされていたけれど、これは那都希が個人的に必要としているのだろう。絶対に必要なものが入っているのは確認して、バッグを持って再びアパートを出る。
夏に倒れたのと、あのはがきは、多分、関係がある。
今度はちゃんと、聞き出す覚悟を決めていた。
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