第147話 歌劇の裏で
「ではこの内容を暗号化して、昼過ぎには届けさせる」
定期的に顔を出すヘレッドへ手紙を手渡すと、彼はすぐさま踵を返して階下へと消えていった。
前々から裏方を好むタイプだったが、今や隠密じみてきたことに何を思えばいいのか、とにかく手筈は向こうで整えてくれるだろう。
「どなたでしたか?」
家の中からメルトの声がする。
さっきまで屋上で洗濯物を干していたから、今降りてきたのだろう。
「ヘレッド=トゥラジア。小隊の仲間だよ。連絡役らしい」
「らしい……?」
いやなんと言うべきか、
「反乱の半ばで合流した時からもうそうだったが、気が付けばいろいろと変わってるんだよな」
以前は俺が逐一指示を出したり、その目的や未来図を示したりもしていたが、最近では思った所に成果が来る。
今年度での卒業者が出たことも大きく影響しているのだろう。既に配属先が決まっている者も居れば、ヘレッドのようにふらりと現れては俺や他の者たちの補助をする者も居る。オフィーリアやウィルホードみたいに個人的な資産を持った者も居るからそこから資金を調達しているのだろうとは思うが、その内全体像は把握したい。放置してとんでもない事になっているというのもちょっと怖いしな。
「俺の目的……セイラムを打倒し、フーリア人の少女を救いたいという事はもう伝えてある」
あれはピエール神父との決闘前だったか。
皆を背負いたい。背負う者で在りたいと望んだ以上、俺自身のことを話さずにはいられなかった。
背負ってくれと求められたのでも、必要に迫られているのでもなく、望んだのだから。
背負わせてくれと俺が求めた事実は誤り無く伝えたかった。
急ぎの場でもあったから、ある程度掻い摘んだ内容ではあったけれど。
「だから今、皆はそれに必要と思われるあらゆることを試行錯誤し、動いてくれている。クレアは陛下と共に、卒業して母国へ戻った者やこの国の最前線へ送られることとなった者も、そこでの協力者や繋がりを形成してくれていると聞く。具体的な所はまだ知らないんだけどな」
束ねる者として手綱を握り切れていないというのは情けない限りだが、それだけ凄まじい勢いで変化しているのだという証明でもある。
何より、不謹慎だろうが少し楽しい。
「よいお仲間ですね」
メルトが言う。
頬にまだ煤の跡がついていた。
だからだけではなく俺は笑いながら、
「お前が最初の仲間だぞ」
言うとメルトはぽかんとして、ややゆっくりと首を傾げた。
「……おい」
いやいや、などと思いながら言葉を探す。
そこで疑問符を浮かべてくるのは予想外だ。
「メルト――」
「私は――」
声が被った。
同時に黙り込み、やや遅れて自分の感情が顔に出ていることに気付く。
隠すのは遅すぎた。
メルトが身を引く。
「やめろ」
頭を下げかけたのを止めて、これもまた同じかと息が詰まる。
「私は」
言葉を継げずに居ると、顔をあげたメルトがひどく透き通った目でこちらを見てきた。
「お仲間、で……よろしいのでしょうか」
当然だ。
そう答える用意をしていた。
けれど彼女の声音を聞いた途端に躊躇ってしまう。
決して疎外などではなく、皆と同じ所に立てていないなどとは思いもせず、彼女との関係を称する言葉に確信が持てなかった。
「メルト」
咄嗟に出た呼びかけはここ何ヶ月かですっかり身に付いた時間稼ぎのもので、しまったと思った時には彼女は首を振って頭を下げてしまった。
「出すぎたことを申しました。今でこそウィンダーベル家からの派遣ではありますが、私は今も昔も、ハイリア様にお仕えしております」
「……それがお前の望みか」
「はい」
「違う」
強い声が出た。
暴力的で居たくは無い。
けれど先ほど感じた想いもまた無視出来ない。
仲間だろうと言って、メルトがそう考えていなかったという事実に俺は、少し怒ったのだ。拗ねたと言い換えても構わない。
ずっと頼りにしてきた。疑うことなど一度もなかった。けれどそうだ。俺たちは同じ望みを持ちながら、主と従者などという歪な形でここまで進んできた。本来俺たちは対等であるべきなのに、傅かれることに慣れ過ぎて、そんな中でも彼女は同じ目線に立っているという俺の認識を押し付けてきた。
同時に、これはメルトにとってもそうだ。
俺が主という立場に甘んじていたのであれば、メルトは従者としての立場に甘んじてきた。
一方的に自分だけが悪いなどと思うのはそれこそ対等ではない証拠だ。
奴隷解放を謳い、だというのに傅かれることを当然としていてはいけない。
驚いて困惑するメルトへ一歩寄る。
彼女が離れた分をこちらが前へ。
「メルト」
名を呼んだ。
時間稼ぎではなく、求める声で。
「今日は学園の準備で一日付き合ってもらう予定だったが、全て取り止めだ」
言い切って、鼓動が跳ねたのを感じた。
思えばこんなこと今まで一度だって言ったことは無かったように思う。
主と従者ではなく、たぶん仲間同士でもなく、どこにでもある、ありふれた関係への言葉。
「……っ」
目が合って、勢いが少し萎む。
どう言えばいい。
迷い、けれどまずは一言目を発しなければ進めもしない。
「その……」
反射の動きで手を頭にやり、かゆくも無いのに掻く。
腕に隠れた右頬へ視線を寄せて、顔が熱くなってきているのを自覚しながら、
「今日は――俺とどこかへ遊びにいかないか?」
人生初デートへの誘いを口にしたのだった。
そうしてメルトの答えは、
「はい」
と、よく分かっていなさそうだったので、また俺は不満顔を晒してしまうのだった。
※ ※ ※
ダン――机に両手をついて激しく息をつく。
未だ動悸が激しいままだった。流石に顔は冷えているが、緊張は最早頂点に達しつつある。
今俺が居るのは東区のさる飯屋で、丸卓を囲む三人は思い思いの表情でこちらを見たり見ていなかったりした。
「で、なんでこんなとこに居るんだよ」
川魚のフライの残り骨を齧りながら娼館生まれのヨハン=クロスハイトが言う。
「分かっていないなヨハン、行こうと決めてその場から二人して出かけるのでは味がない。待ち合わせから既に演出は始まってるんだよ。俺くらいになると待ち合わせた時点でその日の勝敗が分かる」
元王族の放蕩野郎ジン=コーリアはこんな昼前の時間から葡萄酒を煽り、肉のたっぷり入ったシチューへスプーンを差し入れる。
もう一人は先輩だ。彼は殆ど喋らないので主に聞き役だが、居るとなんだか安心するので居てもらっている。
なぜこの三人にこんな話をしているか?
偶然会ったからだ。家を出て、この思いを誰かに話して整理したかった俺はジンと出会い、ヨハンとの稽古があるというので勝手についてきた挙句稽古を諦めさせて飯屋へ引っ張り込んだ。支払いはずべて俺持ちだ。そこに先輩が偶然居た。
「それがだな」
俺はこうなるまでの悲しい現実を語った。
メルトは。
そうメルトは。
俺のデートへの誘いに対して、『メイド服のままで』『同行』し、あまつさえ『俺の』休日を充足したものにするべく『手配』しようとした。
分かってないぞあの女!!!
「惚れてんの」
「皆まで言うなヨハン」
「違う――」
むっつりして言うとヨハンが咥えていた骨を噛み切り、
「とりあえず突っ込めば分かるだろ。ほら、隊長殿なら女の十人や二十人幾らでも寄ってくるから、とりあえずと思ってよ」
「俺を最低の十股野郎のように言うな。政治的な意味合いでの結婚というのなら、家名を失うまでは覚悟していた。だが一個人だぞ? 養える甲斐性も今は無い」
家の存続は家督を受け継ぐ者にとって最大の義務だ。
愛し合うから契るのではなく、契ってから愛し合うようになっていく。
俺自身の感覚は別として、政略結婚が悪というのは誤りだ。愛から始まらずとも幸福を築いていくことは出来る。
「で、惚れてんの?」
「皆まで言うなヨハン」
「違うと言っただろう」
「「いやいや」」
声が被った。
ヨハンとジンはにんまりと下世話な笑みを浮かべて身を乗り出してきた。
「そんなもん連れ歩き始めた時から皆して言ってたっての」
「えらくべっぴんだったしな、メルトさん。気立ても良いし、違うって言うなら俺が変わりに行くぞ?」
「黙れ許さんそういう話じゃないと言ってるだろうが」
むっつりして言うと二人は互いに顔を背けてぼそりと、
「……苦しいよな」
「独占欲出しといて何言ってんだアイツ」
「聞こえてるぞ?」
ともあれこのままでは話が進まない。
俺は改めてことの説明と整理をすることにした。
「俺はずっと奴隷解放を実行するにあたって問題は彼らを支配している側にあるものだと思っていた。だが違ったんだ。檻が開いていても、その外にあるものを知らなければ内へ留まってしまう者が居る。閉鎖された人生の中で己の欲する所を知らず、ただ出て行っていいぞと野に放ってはいけない。なにがしたいのか。どうなりたいのか。虐げられる今からの開放などはマイナスからの浮上でしかない。もっと、ゼロ地点からの羽ばたきであって欲しい。傲慢な考えであるのは分かるが、俺はメルトに与えられたもの以外での楽しみを見出して欲しいと考えている。わかるな? こちらを向け」
「要するにたまには我侭言ってほしいって話だろ、甘やかしたがりのお兄ちゃんは」
「とにかく広い視点から始めるのはこの場合悪癖だよなぁ」
「こちらを向け」
言わんとする事は分かるし自分でもそれなりにめんどくさい奴だとは思っている。
だが事実でもある。
俺はもっと彼女に望んで欲しい。
皆が……小隊の皆がどんどんと進んでいってしまう姿を見たからなのか、メルトーリカという人間の欲を、俺の従者という視点だけで終わらせてほしくない。
押し付けだろうか。
そうだろう。
だがこういう押し付けじみた感情こそ欲だ。
その示す所ははっきりと言葉に出来ないが、彼女にそうあって欲しいと俺は思うんだ。
「そうか」
先輩が喋った。
「ではまず打つべき手を打とう」
続く言葉に、俺はこの後待ち受けるメルトとの初デートへの意気込みと緊張を漲らせたのだった。
※ ※ ※
デュッセンドルフには比較的娯楽施設が多い。
ホルノスの東端部に位置し、山脈の間を抜けていける好立地とあって往来も多く、学園の性質上多くの貴族らが別邸を持つ。
四季のどれかを過ごすに適しているとは言い難いものの、学園で行われる小隊同士の試合観戦を好む層もおり、やはり金は多く落ちる。
学生が多い性質上、表向き賭博は控えられているが、昼食時には飯屋の机で労働者がチェスのようなゲームをしているのはよく見るし、子どもらは唄遊びに縄跳び、サッカーの原型ともされるボール遊びで街中を駆け回っている。
しかしこの時代、最大の楽しみと言えば、観劇だろうか。
舞台と客席の間にオーケストラを置き、生演奏の中進められる演劇は、文字を読めない者の多いこの時代、数少ない物語を楽しむ手段だ。
教会寄りの講談師や、流しの吟遊詩人というのも居るがやはり、あの迫力には及ばない。
人気の劇団がやってきたとなれば鉱山は休業し、子どもたちは学園から逃亡する。
また劇場へは身分の別無く入場出来ることになっている。
もし人気劇団を貴族らだけで楽しもうとしたなら、暴徒と化した人々が劇場へ火を点けたとしても納得出来る。
というより、過去排他的な貴族らが平民層の入場を認めなかった結果、暴徒に広場へ引き摺りだされてリンチされかけたという事件がホルノスにもあった。娯楽を奪うことの罪深さ、独占しようとした者の狭量さを表すものとしてその手の皮肉によく登場する。
そういう訳で劇場自体も貴族街ではなく、平民らの利用し易い大広場前にある。
俺が待ち合わせ場所と指定したのは、その大広場の一角だ。
よく使われる中央の銅像前は避け、馬車の往来が比較的多い通りの脇。
ここはアリエスと共に観劇をしに来たこともあり、メルトも場所を把握していたから、人ごみを避けていた方が良いと思ったんだ。
休日というのもあってやはり相当な人入りだ。今まではあそこに混ざることもなく、表から入って貴族専用の通路から特別席へ向かっていたが、今はそうもいかない。転売屋が堂々と客引きをしていて、すれ違いに飴屋なんかのお菓子類を歩き売りする者が子連れの夫婦へ売込みへ行く。大道芸が人だかりを作って開場前の客たちを楽しませ、教会の神父が通り過ぎていく人々へ向けてありがたい話をしている。
そんな中に、浅黒い肌のフーリア人らを見かけた。
多くは彼らを遠巻きにし、けれど率先して衝突するようなこともなく、フーリア人らの方でもどうしたらいいのか分からないようで距離を取っている。
ここへ来たという事は観劇が目的なのだろう。
財産保有が認められ、賃金が支払われるようになったことで、休日には彼らの姿を稀に見かける。
貧民街では、それこそ三本角の子羊亭などでは比較的良く見られる光景だったが、多くの人々にとって彼らの姿というのは見慣れず、警戒か好奇とが向けられてしまうのだろう。
足音に目を向ける。
違った。
髪を結い上げた若いご婦人が膨らんだ腹を守りつつ通り過ぎていく。
妊婦だろうか。付き添いもなく一人で出歩いていることは気になったが、入場券を握り締めていたことから、止めても無駄なのだろう事は明らかだった。妊娠についてそう詳しくもないが、産まれそうなほど膨らんでいるとも思えない。我慢我慢は母体にも良くないと言うし、気晴らしだろう。
滞りなく流れていた馬車が目の前で止まる。
なんだと思う。馬車前方に伸びた鉄細工を見た。ルトランス家の紋章だ。
ドキりとした。
先輩から具体的な所は聞いている。
おそらく個人的な持ち物など殆ど無いメルトに用意をさせるべく、手を回してくれるのだとか。
そう。先輩がオフィーリアの家、ルトランス家へ日常的にコンタクトを取れる手段を持っているという事実について詳しく聞こうじゃないかなんていう現実逃避をしている場合ではない。いや気になるのは本当だが。
御者が降りて足踏み台を置いてから扉を開ける。
そっと脇に避ける動きを追うことは出来なかった。
随分と昔、アリエスが彼女に自分の服を着せた事がある。
あの時は出会ったばかりで、俺と彼女との少々アレな光景を見られたというのもあって嫌がらせじみていたが、今回はまるで違う。
痩せ細っていた手足には程よく肉が付き、俺の訓練相手であったり個人的なトレーニングの成果もあって、ただ痩せているだけでは決して出来ない鍛えられ、磨き上げられた美しいラインと、最高峰の手入れを受けることで得た肌や髪の艶は貧乏貴族など及びもつかないものとなっている。
そういう理屈を踏まえた上で俺は、改めて彼女が美人と呼び称されて余りある人であることを意識した。
黒、という色は極めて質の差が出やすいものだ。
誤魔化し様の無い強い色だからこそ、生地そのものが持つ質感を色濃く映し出す。
染めの技術、染料の質なども含めれば、どれだけの金がつぎ込まれているのかちょっと想像付かない。
黒は、服だけに限らず、着る者の肌や髪を強調することにも繋がり、下手をすれば優れたデザインであっても安っぽく見えてしまうこともあるという。
この辺り、アリエスの衣装探しに付き合う傍ら店の者から聞いた受け売りだが、今この場ではその通りだと言わざるを得なかった。
上質な黒を纏う、浅黒い肌の少女。
御者の差し出した手を取って踏み台へ一歩進み、風を含んだスカートがはらりと揺れる。
ハイヒールを履いた足が見える。それでさえ落ち着かなくなって目線をあげれば、一繋がりになった黒のドレスを鮮やかに包み込む紺碧のストールが見える。そうか、まだ少し寒いからなと一息ついて、そのストールを抑える手にもレースのついた黒の手袋がハマっていることに気付いた。細い指先がはっきり見て取れて、なんだか余計に落ち着かない。
そして、その……なぜしっかりストールを抑えているのかも分かった。
このドレスは中々大胆に胸元を開いていて、そうしていないと彼女の非常に豊かな谷間が丸見えだったからだ。普段は首元まで完全に隠れるメイド服だから、あまりの違いに驚いてしまう。
更に視線が浮付いて見慣れぬ姿を見て取る。
フーリア人の特徴と言える浅黒い肌、そして、黒い髪だ。
上質な黒髪を濡れ羽色と呼ぶそうだが、なるほどしっとりと僅かに濡れて見えるほどに艶のある黒髪というのは宝石にも勝る美しさがあった。
彼女はそれをいつも結い上げていて、それはそれで良いのだと思うが、やはり髪を見せ付ける一番の方法は降ろすことなのだ。
ドレスアップされている為安易にそのままではなく、左側を軽く結い、耳元や首筋を晒している。けれど背中を半ばまで覆う黒髪が、また一歩と降りてくる動きに従ってふわりと揺れて、本当に彼女なのかとやや混乱してしまった。
やや下からの目線がこちらを見る、メルトーリカ=イル=トーケンシエルは、薄桃色で彩られた唇を固く引き結び、緊張と羞恥がない交ぜとなった顔で俺の前へ降り立った。
なぜだか急に手汗を掻いた。
いや、俺の求めに相応しい状態となるよう手を尽くすとは言われていたが、自分自身の想像の甘さを恥じなければいけなかった。
いや、まさか、こんな、その、緊張するとは思わなかった。
頬を染める彼女同様、自分までそうなっている自覚はある。
御者によって俺の前までエスコートされ、その後ろでさらりと出てきた先輩がオフィーリアへ手を出している事にさえ思考が及ばず、待ち合わせに際してどんな話から始めるかという計画が全て頭から吹っ飛んでしまっていた。
そして何故か、そう何故かここまでめかし込んでおきながら、メルトの頬には煤の跡が薄く残されていたのだ。
どういうことだ? 実はアレ最近流行りの化粧だったりしたのか? いやいや流石にそうじゃないのは分かっている。第一釜磨きを始めるまでは無かったから、間違い無く煤汚れだろう。
トン、とワルツでも踊るように横を抜けてきたオフィーリアがとても楽しそうに言う
「さあ、最後の仕上げはハイリア様のお手で」
ありがとう、と言い忘れた。むしろ何の事だとか、何のつもりだとか言うべきだった。
というかまたさらりと先輩の隣へ戻って劇場へ向かっていく。なんだアレは、アレがデートか、前人未到空前絶後を蹴っ飛ばす大定番こと映画デートか。
俺は改めて、息を整えてからメルトを見る。
髪を降ろし、黒のドレスに紺碧のストールを羽織り、手には黒の手袋、そしていま気付いたが晒した左の耳には金細工だろうイヤリングがついている。そんな彼女が頬に煤汚れをつけたまま、おそらくその事に気付かないまま、俺の前に立っている。
今オフィーリアは何と言っていた?
『さあ、最後の仕上げはハイリア様のお手で』
この頬に煤汚れをつけた本日の主賓を指して、
『さあ、最後の仕上げはハイリア様のお手で』
『さあ、最後の仕上げはハイリア様のお手で』
『さあ、最後の仕上げはハイリア様のお手で』
いい。
分かった。
やるべきことは分かった。
だが凄まじく躊躇われるというか、恥ずかしくてそんなこと出来るかと彼女の置いていった悪戯か気遣いかを見詰める。
「あの……」
思考していると、先にメルトが喋った。
メルトの声だ。それだけはいつもと変わらず、少し落ち着いた。
「やはり、私如きにこのような服は――」
「似合っている」
言葉が出たのは反発だろうか。
それもある。自分を低い所に置こうとする彼女への反発と、素直な気持ちが混じる。
「そうだな。驚いた……のだろうと思う。思っていたより、ずっと…………」
綺麗だ、と言う声は萎んでしまった。
まるで告白でもするように思えたからか。
しかしメルトには届いたらしい。
「あり、がとう、ござ――」
萎んでいった言葉をしっかり聞き取る。
「そういう服をもっと持つようになりたいか?」
今や財産保有を認められたからこそ、そして観劇の後にでも店へ立ち寄ろうかという流れを作る意味でも聞いたのだが、
「落ち着きません……それに服を汚してしまわないかと心配で、靴もなんだか歩き辛くて、こんな状態では奇襲を受けた時に対処が遅れてしまいます……」
どこかズレた心配までしているメルトに俺は少し笑って次の言葉を探す。
予定とは違ったがそれならそれで彼女が望む方向の物にすればいい。
「後で服を見に行こうか。汚れても平気で、動き易い服だ。確かに今の俺じゃあ、そんなに高価なものは買えそうにない」
家で別れる前までのメルトなら間違い無く遠慮しただろう。
オフィーリアはきっと彼女に何かあらぬことを吹き込んだ。
頬の煤汚れが証拠だ。そしてメルトはストールをぐっと握り、彼女にしては珍しく呼吸を晒し、大きく息をついた後で言う。
「お、お供させていただきます」
共じゃないとは言わなかった。必要ない、たぶん。
そしてそろそろ開場の時間だ。
俺は彼女へ歩み寄り、手を伸ばす。
勘違いしたメルトが手を差し出してきたのは仕込だろう。
緊張に揺れる手を取り損ねたことは勿体無かったが、間違えたと頬を染める姿は実に良い。
「メルト」
「はい……っ」
「後で鏡も買ってやろう。小さくて持ち運びの出来る奴だ」
無防備な頬へ触れ、ふに、という感触の元、煤汚れを親指で拭き取った。
咄嗟の行動だろうか、ストールを抑えていた手がそこへ伸び、指先が俺の手の甲を撫でる。すぐ離すつもりだったのに、逃げ場を失って手が止まる。まだ親指は頬に触れたままだ。見る見る赤くなっていくメルトの顔にこちらまで鼓動が激しくなる。というより、どうすればいいんだコレ……?
ふに、緊張に力が入った親指がまたメルトの頬を軽く押し、押し上げられ、片目を瞑る。
「…………ん」
漏れる鼻に掛かったような声に何を思えばいいのか。
何故かとんでもないことをしてしまったように思えて、頭蓋を突き破らんばかりに頭の中が熱くなる。
「メルト……!」
「は、はいっ!」
顔を背けた。彼女もそうしようとしたのか、けれど俺の手が邪魔で動けず、咄嗟の動きで手が重なる。
柔らかな手の感触を勢いで無視し、とりあえず言い訳を口にした。
「頬に、煤の汚れが、残って、いた……だから、それを拭こうと、だな……」
「っっっっ……!?」
…………なんだか思っていた以上に驚かれてしまった。
これはもしや、
「オフィーリアに……何か吹き込まれたな」
「……いえ、なにも」
絶対嘘だ。
一体何を吹き込んだ、あの恋愛脳。
※ ※ ※
オフィーリア=ルトランス
予約した特別席への階段を二人行く。
手袋一枚すらもどかしかった。
今すぐそれを脱ぎ捨てて、彼の指に自分のそれを絡めてしまいたい。
それがとてつもなくはしたない行為だと分かっているのに、胸はずっと高鳴ったままだった。
「何を吹き込んだ」
「何の事でしょう?」
「跡が残っていた」
メルトさんの話題だ。
でもいい。話せることが嬉しい。声を聞けることが嬉しい。
彼から連絡を受けて、一目散に予定を空けて、ウィンダーベル家と連絡を取った。
この観劇を条件として協力を引き受けた事に後悔なんてなかった。私を監視する人たちはきっとお父様たちへ事を連絡するでしょう。でもいい。この気持ちにもう嘘なんてつきたくない。
「お話を伺って、私なりにメルトさんの状態には覚えがありましたから」
言いつつ様子を伺う。
あんまり喋らず、表情も変化しない方ですけど、ほんの少しでも見逃したくは無かったから。
じっと、見詰め、伝われと願う。届けと願う。
「恋は、正しさだけでは実りません。真っ直ぐなだけではすれ違います。必死に手を伸ばして、僅かでも指先が触れたのなら、飛びついてでも離してはいけないのだと思います。その点、メルトさんは真面目過ぎていて、自分を律し過ぎます。だから目一杯、相手からの合図というのをお教えしただけです」
今私がそうしているように、人が人を想う時に溢れ出す所作の全て、余さず受け取れるように。
「誘導の結果を混ぜるのは別だろう」
「あら」
バレてしまいましたね。
えぇ。
でもきっと本当のことですよ。
殿方が女性の頬に手をやる時、何を求めているかなんて、全ての女性が知っているべきことですもの。
「勘違いから始まった恋の何が悪いんですか? 恋とは、愛とは、当人たちが意識することでようやく前へ進むのですよ?」
今日の演目もまた素晴らしい。
今では悲恋ばかり描いている彼女の処女作にして、すべての女性を魅了する物語。
あぁとても楽しみ。
「届かないと、そう思えるほどに燃えてきます。恋とは情熱。たとえこの身焼かれても、私はこの想いに殉じます」
だから、と顔を俯かせて思索する彼を見る。
そうして貰えることにさえ喜び、そうして悩んでくれることさえ利用して、
口を閉じる。
うん。
今はこの観劇を愉しみましょう。
それでいいと思いかけた時だった。
「そうっ! それこそが恋! 想い焼かれぬ人生など荒れ野も同然ッ! すべての女性は恋をする為に生まれてきた!!」
彼女は――、
「たとえそれが、自らを焼き焦がす炎で周り全てを呑み込む、呪われた恋であろうともな……!!」
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