第四章(上)

第146話 まどろみの中で


 煮炊きの音で目が覚めた。

 包丁が小気味良くまな板を叩く音と、鍋の中でお湯が沸騰する音。

 切ったものが流し込まれ、煮立ちが落ち着く。それが更に遠ざかった。蓋をしたのだろう。

 履き物が床を擦った。立て掛けてある鉄バサミを取り、突いた薪の山が崩れて炎が広がった。

 蓋をしたのは燃え上がった炎に乗った灰が鍋の中へ入らない為か。


 身を包む毛布を抱き込み、ここしばらくですっかり慣れた固い床と壁の感触の上で今少し瞼を閉じ続ける。

 目が覚めていても、目を開かなければ案外意識は覚醒しないものだ。なんとなく周囲を知覚して、思考は回っているというのに、意識はぼやけた夢の中を彷徨い続ける。眠ればまたこの思考すら忘れて、あるいは眠ったことすら曖昧なまま目覚めるのだろう。


 また少し時間が飛んだ。


 日差しが目元を掠め、強く閉じたと思えば、思考より先に瞼が開いて寝台の脚が見える。

 焦げ茶色のシーツには皺一つ無く、その表面に掛かった光を追っていくと木の窓枠に花が飾られていた。

 艶やかな青の花弁は、飾り気の無いこの部屋で一際鮮やかで、外から吹き込んできた風に葉が揺れるのを見て目を細めた。

 朝の空気が肺の中へ染み渡っていく。まだ少し冷たい、春先の香り。

 静かに呼吸を繰り返すほど意識が覚醒していく。

 まるで息を吸うほどに萎んでいた脳が膨らんでいくみたいだ。

 それでも中々立ち上がる気になれないのは、やはり眠気が強いからか。


 足音が近寄ってきて、通り過ぎて、壁に頬を寄せたまま眺めていた光の中に誰かが飛び込んでくる。

 結い上げた黒髪と、揺れるリボン。

 仕立ての良い黒のメイド服が首元や手首までをすっぽり覆っているけれど、豊かな胸の膨らみや腰元のラインは隠し様も無く、首元や袖口を白のレースであしらっている事で一層彼女の肌が映えて見える。

 浅黒い肌。

 陽の光を受けるのに、これほど魅力的な色はない。

 腕を伸ばし、紐で吊り下げているカーテンへ指先を掛けていた。摘んで僅かにしわが寄る。


「……そのまま」


 声を掛けると、彼女は驚いて振り向いた。

 真っ黒な横髪が風に靡き、それを手で抑えた少女、メルトがそっと息をつく。


「少し……そのままでいてくれ」


 眩しくて顔がはっきり見えなかったのに、きっと彼女が微笑んでいるのだろうと思えた。


「どうかしましたか……?」


 朝にも相応しい澄んだ声。

 驚きや戸惑いはほんの僅かで、喜色を浮かべて問い掛ける姿は、なんだか年上のお姉さんっぽい。

 光でぼやけた像の中、それでも表情が頭に浮かぶのは彼女と過ごした時間の賜物か。

 思えばもう一年の付き合いになる。

 一つの目標を共有し、時に離れていることもあったけれど、多分、誰よりも長く一緒に居たのは彼女のように思う。


「……いや、そうだな。すまない。もう閉めていい」

「はい」


 カーテンが閉められ、ようやくはっきり姿が見える。

 一度俯いて目を閉じたメルトはいつも通りの楚々とした表情でこちらへ向き直り、一礼した。


「おはようございます、ハイリア様」

「おはよう、メルト」


 身を包んでいた毛布を剥がすと素早く取り上げられてしまった。畳もうと思っていたのに、何かを言うより早くメルトが軽く腕に巻き込み、寝台へ一時置きする。多分後で干すつもりなのだろう。

 立ち上がろうとして少しふらつき、壁へ手をつく。

 軽い鈍痛を覚えたが、手をやることは避け、ごまかしの欠伸を噛み殺す。

 落とした吐息は少しばかり熱い。


 一歩下がって目を伏せるメルトは何も言わない。

 いつも通り。

 ただいつも、というより今までとは違うのはそれ以外だ。


 およそ十畳ほどの広さの部屋。

 しかも綺麗な四角形などではなく、一辺が妙に短い歪な五角形だ。

 窓枠や両開きの窓は木造、カーテンを支えるのは上辺の角へ釘で打ち込み支えられた紐で、かつて当たり前に見ていた透明なガラスではない。

 ある意味で慣れ親しんでいた狭さ、広さの空間にあるのは寝台と脇にサイドテーブル、食卓に椅子と、小さな本棚が一つ。カウンターキッチン、と呼ぶには少々大掛かりだが、煮炊き場とこちらの間には製材されていない木を並べただけの間仕切りがあり、裏手には屋上へと続く梯子が設置されている。


 ここはデュッセンドルフ。けれどかつて住んでいた屋敷などではなく、貴族街ですらない東区のこじんまりした民家だ。


「まだ少し掛かりそうか」


 食卓へ並びつつある皿を見て察する。

 この豊かな香りはなんだろうか。朝食からそう派手なものは出ないだろうが、寝起きの腹を程よく刺激してくる優しいものだ。

 しかしまだ完成はしていないようだった。本棚の上へ置いたままにしている懐中時計を見て、普段より起床が早かったことを知る。徐々に陽の昇る時間が早くなってきたからな。


「申し訳ありません、もうしばらくお待ち下さい」

「わかった。少し風へ当たってくる。表には居るから、出来たら呼んでくれ」

「わかりました」


 俺が動かなければメルトも煮炊きへは戻れない。

 喫緊の問題はない状態だろうが、掛けてあった上着を羽織り、煮炊き場を抜けて少し傾いて固くなった扉を押し開いて外へ出る。


 木の軋む音を聞きながら扉を閉め、二歩三歩と歩いた先にある手すりへ両手をついた。


 朝の、既に人々が活動を始めたデュッセンドルフの街並みが見える。

 陽が昇って随分と経つ為か、煮炊きの煙は遠くまばらにしか見えない。というより、教会の支援を受けているのでもなければ平民層で朝食を摂る方が稀なのか。元の世界でも某かの偉人が三食摂ってるぞと言ったから朝昼晩の食事習慣が始まったなんていう話を聞いたことがある。

 街を見下ろすこの位置は、北東部にある丘の中腹だ。やや斜面がキツく、門前は心臓破りの坂道と称して余りある。そんな場所へ整地もせずに無理矢理家を建てたものだから、こんな歪な五角形になったのだろう。建築に際し規定などない世の中だ。倒れない壊れないは蓄年数でしか図れない。川は丘を越えた反対側にあるが、そこは鉱山から流れてきているので水が汚く飲めたものじゃない。水道なんてないから汲み置きの水は上流まで行くか、丘を下った先にある井戸で金を払って汲ませてもらうかだ。


 街の西部は比較的穏やかなら平野になっているが、東へ行くほど起伏の激しい丘になる。

 ここは鉱山都市として発展した経緯もあるから、鉱山のある山寄りには労働者向けの娯楽施設なんかもそれなりにある。

 西に貴族街や学園があり、東側は一般階級の居住区になっているのはその為だろう。


 握り直した手すりに艶やかな感触があった。

 壁面を張って伸びる蔓だ。


 この建物は……土台は石造りだが一階の中頃から木造に変わっている。

 主柱やメルトが煮炊きをしていた辺りは石造りになっているが、迂闊に走り回ろうとすればぐらぐらと揺れを感じることもある。

 一階には老夫婦が住んでおり、俺の素性には気付いているのかいないのか、とにかく親しくさせてもらっていた。

 二階建ての一軒屋だが、内階段ではなく外から出入りする為、ほとんど住み分けされている。


 こちらで暮らすに当たって、当初はいろんな所から支援の申し出があった。

 前ほどの豪邸は無理でも、十分過ぎるほどの家を使用人つきでポンと出すぞと言われ、断るのには苦労した。

 それでも俺は一度市井で暮らすことに決めた。

 俺はこの時代、この世界の暮らしを何ら知らない。

 恵まれた貴族という環境でだけではなかったが、実父ヒースとの日々は暮らしというより各地を飛び回る旅行状態だったし、身を隠す必要があったから人目につく場所へは行けず、土地に根を下ろしていたのも長くて半年ほどだったように思う。帰るべき故郷はあったのだろう。ただそこはヒース=ノートンの故郷であって、かつての俺にとってそう思える場所ではなかった。幼少期の殆どは新大陸で暮らしていたし、身を隠す為に話の通る有力者を頼っていたから、やはり恵まれてはいたのだろう。

 本だけでは、知識だけでは分からない。

 幸いにも写真が出回っているでもなし、そうそう気付かれないだろうとタカを括っている。気付かれたとしても、まあなるようにしかならん。

 それでまあ、結局家の手配は小隊仲間のウィルホードを頼ることにした。彼はこのデュッセンドルフで長い歴史のあるクラン商会の跡取り息子だ。それなりに話が通じて、厄介なことにも手が届く。彼は意外そうにしていたものの、快く応じてくれて、商会側からの不用意な接近も抑えてくれているようだった。


 ただ、もう俺は政治的な所から逃げることは出来ない。


 王都を出る前、陛下とも改めて顔を合わせた。

 お互い、変わったようでまだまだ未熟。

 覚悟は決めても足りない事なんて幾らでもある。

 それでもやると決めたのだから、昨日の自分より少しでもマシになっていくしかない。


 そろそろか、思い、身を起こしたら後ろで扉が開いた。

 こちらを見たメルトがノブを持ったまま言う。


「お待たせしました。お食事の用意が出来ました」


 小春に感じる風のような声が耳を撫でる。


「ありがとう。ただメルト、今日は同席してもらうからな」


 先日仕事を理由にさっさと帰ってしまった事を言うと、ちょっとだけ悩んだような素振りを見せ、けれどそっと目を伏せたかと思うと、


「はい」


 微笑み、応じてくれたのだった。


    ※   ※   ※


 内乱で大立ち回りを演じたウィンダーベル家への風当たりは思っていた以上に強かった。

 元より国内に自国を制圧し得る巨大な勢力を内包していたようなもの。それが今回の内乱ではっきりと表へ出たことで、敵対や排斥へは至らないものの、ホルノスのみに根を張る者たちの結束が強まり、結果的に貴族たちの中で浮き上がるようになっている。

 それだけで干上がるような家ではないにせよ、国政には当然関わることを避けられ、多少の損を被ることになったのだという。


 とはいえ、大きな政変が起きた以上、各家ごとの力関係も同様に大きく変じている。

 元から大きな枠を持っている所ならいざ知らず、今回初めて大きな権力を得た所などは、上手く擦り寄る手を捌けず首輪を付けられてしまうようなこともある。

 オラントはそんな彼らへ影ながらの支援を行ったらしい。交渉ごとの苦手な者たちを取り持ち成立させる、かみ合わない話に首を傾げている者へ情報を流して理解を促す、そういったことの報酬すら求めず動いたことで、表向き親ウィンダーベルとはいかないものの強くは出て来れない状態を作り出すことに成功している。

 彼が引き寄せた多くの親族らも新しく蠢く市場での利益を求めていたし、他国への繋がりを持たない者も多かった事でそれらを繋げ、気付けば先の損失と今回の利益どちらが大きかったのか分からなくなってきているらしい。


 結果だけ見れば、陛下の言葉で表立っての反乱者として裁かれることもなくなり、新しく国政へ加わった者たちとの縁を繋いだことで面通しを終え、更には、アリエスがフロエを保護したことでウィンダーベル家は今後、対セイラムを考える上で無視できない相手にもなっている。


 そう。

 あの内乱から未だフロエや、アリエスとは会えていない。

 二人とも無事だとは聞いているが、やはり顔を合わせなければ不安が残る。


 唯一と言える繋がりは、俺の生活を支えるという名目でメルトが時折派遣されてきて、日々の世話をしてくれている事か。

 アリエスからの指示とのことだが、彼女も色々と忙しくしているらしい。

 学園が始まれば会う機会はある。今はそう思い、俺がやるべきことに集中していよう。


 食事を終えると二人して片付けをした。


 食器や鍋の洗いと炊事に使った薪の始末。

 本当は俺が汚れ仕事になる薪の始末をするつもりだったのだが、それは自分の仕事だとメルトが言って聞かなかった。

 今はもう爵位のない平民だと言い張ってなんとか手伝いには扱ぎ付けたものの、今度はだったら私の言うことも聞いてください、だ頑固者め。


 鍋の内側を縄束で擦る。

 スポンジはないらしい。

 洗剤など望むべくも無い。

 水は汲み置きでこんな平民街では下水も無く、汚れた水は庭の植木にやるか、川へ捨てにいくしかない。

 マナーの悪い所では平気で街路へぶちまけるというから、下水が完備される近世へ至るまで道が糞尿にまみれていたという話もあながち理解できないでもない。馬車馬なんてその辺へ転がしていくくらいだ。幸いにも防疫意識が根付いているおかげか綺麗なものだが、貧民街へも行けばちょっと近寄るのを躊躇う場所も未だにある。


「うん、こんなものか」


 指先で鍋を撫でた。

 取っ手の付け根なんかは特に煤で汚れるから取り除くのに苦労する。

 薪を使って煮炊きをする以上、煤汚れは避けられない。火に掛ける前は綺麗だったものが僅か数分で真っ黒だ。ガスコンロや炊飯器の偉大さを改めて感じる。


 俺が指先に僅か付着した煤をどうしたものかと見ていると、竃を磨いていたメルトが立ち上がる。


「終わりましたらそちらへ置いておいて下さい。私はまだ時間が掛かりますので、休んでいていただいても」

「いや、今日は働くぞ。あまり甘やかすな。それにまだ少し汚れがあるだろう?」


 見せて問えば覗き込んでくる。

 だが、思いの他距離が近くてドキリとする。

 力仕事をして汗の浮かんだ首筋から甘い香りがして目を逸らす。


「ここまで綺麗にしていただけていれば、後は私がやっておきます。どうかお休みを」

「いかん。いかんぞお、最後までしっかりやるから、評価は厳しくしてくれ。後でこっそり始末をしている所なんて見たくないからな」

「…………そういうことでしたら、例えばこちらも」


 それとこちらとこちらと、と今まで思いも寄らなかった部分を指摘されて困ってしまう。

 顔をあげたメルトはちょっとだけ得意気にして、


「ハイリア様にはハイリア様のすべきことがあります。私はそれに集中出来るよう来ているのですから、どうかこの程度の事はお任せください」


 言われることは分かるがちょっとだけ意地になる。


「よし、後一回機会をくれ。今度は完璧にやり遂げてみせる。いいか、絶対に駄目な場所があったら指摘するんだぞ?」

 そうして困った顔をしたメルトはやがて息をつき、

「分かりました。ただし、私が竃を磨き終わるまでですよ?」


 結論だけ言うと、そこからのメルトの動きは凄まじく、俺は時間切れとなって煮炊き場から叩き出された。

 あれだ、きっとメルトは男子厨房に入らずを地で行くタイプだ。自分の戦場は自分だけで。俺では汚れている場所を見つけることも叶わなかった竃の前で、結構得意気な顔をする姿には、参ったやら困ったやらでちょっと敵わない。

 ただ、頬に一筋煤汚れがついていたことについては黙っておくことにした。後々指摘して仕返ししてやろう。


 時間が出来たので本を一冊手に取った。


 これは小説ではない。

 戯曲の台本だった。


 作者はシンシア=オーケンシエル。


 王都ティレールを本拠にする作家であり、作曲を手がけることもある。

 過激な内容で度々教会と揉め事を起こし、かの宰相までも無視できないとあの内乱では身柄を拘束されていたという異端児の最新作とあって、実の所ずっと読んでみたくて仕方がなかったんだ。彼女の戯曲は国を越えて愛され、舞台での公演も年に総数百を越えるとまで言われている。俺もそうだが、演劇に関してはアリエスも随分と気に入っていた。

 しかしこれは趣味の時間という訳ではない。

 送り主はクレア。小隊の仲間とのやりとりというカモフラージュだが、実際にはウィンホールド家のご党首と陛下からのものだ。

 何気ない日々の挨拶から始まる手紙は先だって分析班へ渡し、解読も終えている。


 世界中へ絶大な影響力を誇るシンシア=オーケンシエルから突然送りつけられたという台本の内容は実に面白く、しかし眉を寄せずにはいられないものだった。


 この戯曲の題材となっているのは、おそらく俺自身だ。


 だがまるで事実と異なる。

 これでもかと飾り付けられた英雄譚に、最後は彼女らしく陛下と俺の悲恋で幕を閉じるというあんまりな内容。

 そういう関係はありません。俺はロリコンではありません。陛下が俺に向けているのも恋慕ではなく信頼の類だ。

 だがイルベール教団との衝突から始まる戦いの日々、華々しく散っていく学生たちの姿は現実と重ねさえしなければ実に刺激的で面白い。

 数多くの悲恋を描いてきたシンシアのファンからすれば、ようやく表に出始めた幼い女王と平民に落ちた男との恋というのは好奇の対象にもなるだろう。よからぬ噂を立てられることはもういい。しかしこれは、とどうしても思ってしまう。


「どうぞ」


 読み終えたまま思案していると、メルトがお茶を用意してくれていた。

 竃を綺麗にしたばかりだろうと思っていたら、氷水に浸けて冷やして置いてあったのか、身体の熱が程よく冷める。


「ありがとう。ちょうど冷たいものが欲しかった所だ」


 氷なんて持ってくるのも大変だっただろうに。思っていると、メルトの視線が俺の手元へ向いた。


「どうかなさいましたか?」

「あぁ」

 随分と考え込んでいたからな。

「そうだな――」


 掻い摘んで戯曲の内容や、それがクレアを迂回し、暗号文付きで届けられた所まで行くと、メルトも話を理解してくれたらしい。


「その……シンシアという方には覚えがあります。アリエス様も好んでご覧になっていた舞台で、台本を作っていた方、ですね」

「彼女は作曲もやる。ただとにかく制御の利くタイプじゃないから、国や教会への痛烈な批判じみた内容も平気で書く」

「内容はむしろ、今の体制を後押しするようなものでしたが」

「あぁ。影響力を考えれば、俺たちが画策していたものよりも大きく状況を動かしてしまうかもしれない……」

 譲った呼吸の間に、メルトはしっかりと確信を差し込んできた。

「ハイリア様を英雄として祀り上げ過ぎていることが問題なのですね」

 そう。しかも終盤ではフーリア人奴隷に対する話が丸ごと削除されていて、英雄ハイリアという偶像にばかりスポットが当たる。何も知らない者が見れば、この国の悪政を陛下と共に正したという、それだけの物語になってしまう。

 それではいけない。しかも王国の民を過大に賛美する内容、フーリア人らは最後の最後でこちらへ助けを求めてきて、慈悲を以って応じたなどと……。

 メルトが少しだけ深刻の度合いを増した表情で言う。


「これは脅迫文であると、ルリカ様は考えていらっしゃるのですね」


 まさしくその通りだった。

「シンシア=オーケンシエルはやると言ったら確実にやる。それこそ宰相のように拘束でもしない限り……下手をしたら身柄を抑えたとしてもこれは公演されてしまう。異端審問で火刑台行きと宣告されながら、舞台を見た観客が押し寄せ助け出されたような奴だ。メルト、熱狂とは毒だ。上手く使えば薬にもなるが、方向性を誤れば死にも至る。こんなものが公開されれば奴隷解放の方策すら困難になる。いや、俺を広告塔に推し進めれば今以上に大きな結果を生むかもしれない、しかし――」

「実態がなんら伴わない、その場の勢いのみのものになってしまう」

「対セイラムとの戦線には両者の強調が不可欠だと俺は考えている。背中を預け合えなければならない。相手個人を見もせず気分だけで轡を並べていれば、必ず綻びを生んでしまうだろう」


 問題はここからだ。


「手紙の暗号にはこうあった」

 先日届けられた文章は本に挟んである。それを手に取り、改めて目を通す。

「相手から具体的な要求もなかった為、王都で身柄を捜索した結果、どうにも彼女はこちらへ向けて発った後だったらしい……」


 態々暗号化して送ってきた内容だ、確度は高いと考えていい。


 既に手紙が届いて半日経つ。

 身を隠しながらであればまだ時間はあるのかもしれないが、どうにも目的の知れない相手が、おそらくは俺との接触を求めているという事実。

 個人的な好悪は別としても妙な厄介が増えたものだ。


「シンシア=オーケンシエル」


 メルトの呟きに、それが彼女の口から出たものだった為にようやく気付く。

「メルトの姓はトーケンシエルだったな。フーリア人の姓はこちらと極端に離れてはいないが、一文字違いか。何か覚えはあるか?」

 口元へ手をやり、けれど解を得なかったのか首を振る。

「姉さんに聞けたら、何か分かるかも知れません」

「彼女は王都か。オスロも居るだろうから、関連があれば分かるだろうが……戻ってくる頃には」


 まだまだやるべきことは山とある。

 それでもようやく得た平穏の中、波乱の予感はすぐそこまでやってきていた。


 同時に一つ思う。


 フロエを生かし、けれど救えなかった未来があるとして、シンシア=オーケンシエルの行動は一因となっていないだろうか、と。

 運命は変えられる。

 奴隷解放を阻む流れを堰き止めれば、あるいは。



















――――――――――――――――

新章開幕となります。

それと大変申し訳無いのですが、物語としての一区切りまで上げ終えたので、ここ以降は週一更新に切り替えさせて頂きます。

どうしても急ぎ先を、と思われる方がいらっしゃいましたら『小説家になろう』の方で最新話まで読んで頂けます。どうかご了承下さい。

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