ある駅にて

@mais0n5

ある駅にて

五月三十日

 十九時、彼女は電車に乗っていた。千咲ちさき行きの電車に乗っていた。

 偶然同僚と同じ電車に乗り合わせ、会社や互いの学生時代について話していた。会社でもこの電車の中でも、その同僚は、彼女がどんな話をしても大抵同じ調子である。彼女が彼の知らなかったことを言うと、わざとらしく驚いた目で彼女の顔をチラと見て肩をすくめる。既知のことには、肩をすくめてから、冷やかすようにわざとらしく驚いたような目で彼女を見る。そして、どちらにしても彼の返答はどこか皮肉っぽく、厭世的な感じだった。

 しかし、最寄駅が新谷しんたに駅だと彼女が会話の中で明かした時、そのどちらでもない反応を示した。と言うのも、少し意地悪い顔でただ一言、

「これまでその駅を使っていて、よく無事だったね。」と言ったのである。

 彼女は新谷駅周辺の治安が決して良くないことを知っていたし、その近くに住んでいることを揶揄されることは話す前から覚悟していた。しかしこの時、相手がいつもと同じように彼女に驚いたような目を向けながらも、真正面から、しかも真顔でそんなことを言ってきたので、少々違和感があった。

「ちょっと、本気で言ってます?一応、地元なんです。」

 こう言ってこの話題を掘り下げるのは、地元がますます貶されるような気がしたのでやめた。

 それからものの数分も経たないうちに、列車は新谷駅へ着いた。彼女は同僚に軽く挨拶して電車を降り、ホームを見回したが、いつも通りの古い駅だった。日本のほとんどの駅がコンクリートになっている中、なぜかこの駅だけが未だ木造なのはもはや周辺住民の自虐ネタだが、地元愛が強い彼女にとっては笑い事ではなかった。

 都心から少し離れているとはいえ、突然木造の駅が現れる珍しさゆえに新谷駅は時折テレビでも紹介され、治安の悪さも相まってしばしば都市伝説の標的になっている。この前だって、テレビでタレントがこの駅の焦げた部分を見るや否や、戦争の爪痕を感じ取り涙を流していた。以後その焦げたところには花が手向けられるようになったが、彼女はその焦げが地元の不良によるものだと知っていた。

 数々の都市伝説を生み出した聖地として怖い物好きな人々に人気だったが、最近は不良による程よい壊れ方と元々の木造造りがレトロを醸し出し、肝試しがてらの映える写真スポットとして若者にも注目されつつあった。

 彼女は心の中で例の同僚に向かって、若者を中心に利用者が増えてきたから、駅やその周辺の治安改善の動きも高まってるんです、と噛みついていたが、その矢先に例の同僚からメッセージが送られてきた。


新谷駅のホーム下にある退避スペースに「顔」を見出してしまった者は、数日も経たずに死んでしまうって、聞いたことない?退避スペースは無闇に見ないようにね。


 こんなメッセージの後に、実際にここ周辺で起きた事件を交えながらこの怪談を説明している記事が例の同僚から送られてきた。

 いかにもありきたりな怪談で、彼女は肩をすくめた。大の大人がこんな記事を自分に送ってきたということにめまいがしそうだった。そう思いながらも、それまで知らなかった内容も中にはあり、ついその記事を読み進めてしまっていた。この手の怪談にまつわる記事は妙に長いし、説得力がある。読み進めるうちに少し信じてしまいそうになっている自分を諌めつつ、ホームを見回した時退避スペースで何か見たような気がしてきたのが非常に嫌だった。誰かに見られているような気もしてきた。

 少しあの同僚が嫌いになった。


六月九日

 十九時、彼女は電車に乗っていた。千咲行きの電車に乗っていた。

 乗車前、向かいのホームの柱のシミが人の顔に見えて、金曜夜の高揚感がすっかり冷めてしまっていた。鳥肌も少し立った。

 例の怪談は、この数日の間なぜか彼女の頭から離れなかった。この得体の知れなさのやり場に困り、彼女は本格的に例の同僚が嫌いになり始めていた。

 ただ、そんな彼女の気を紛らわしてくれるのは、駅で乗客が降りるたび、夏の予感を感じさせる空気が扉から滑り込んできて、電車の中を満たしてくれることだった。駅に着くたび彼女はこの空気を大きく吸い、そしてそれはほとんど彼女の癖のようなものだった。

 彼女の好きな季節は夏。中でも、夏になると空気が透き通ってあらゆるものの色が際立つあの美しさが好きだった。夏の計画を考える人たちのワクワク感が、そのまま映し出されているかのような夏の空を見ていると、彼女は自然と自分の心も浮き立ってくるのだった。

 空気を胸いっぱいに吸って夏を待ち遠しく思う一方で、憎むべきあの怪談がまたも彼女の頭に浮かんできた。そもそも怪談というものは、よく夏の風物詩として引き合いに出される。しかし彼女としては、人を縮め込ませようとする怪談が夏の開放的な感じと相容れないだとか、怪談について思うことが数多くあった。彼女は半ば自虐的に、怪談で別に涼しくもならないし、と思った。


六月十三日

 十九時、彼女は電車に乗っていた。千咲行きの電車に乗っていた。電車内は相変わらず帰路につく乗客で混み合っていた。

 久しぶりに例の同僚と同じ電車に乗り合わせた。二人は窮屈な車内で声をひそめて話し始めた。

「あんな話を聞くと、むしろあのスペースが気になるってわかってて私に教えたんじゃないですか?」

 会社でこんな話をして周りの人に聞かれると決まりが悪いので、この機を逃すまいと彼女は同僚に詰め寄った。

「もう、この前の朝だって駅の柱に顔があるように見えてきたしで、結構削られてるんですよ。」

「でも朝の駅に顔出してる霊だったら、挨拶してくれそうだよね。ちゃんと挨拶した?」

「なんですかそれ。この前は本当に心配してる風だったのに、ひどいです。人怖なら大丈夫なんですけど、やっぱりお化け系は、ダメみたいです。」

「まさかそんなに怖がると思ってなかったから...申し訳ない。」

「いや、そんなに真剣に謝られたら、余計私の立場がなくなるんですけど」

「でも、本当に怖いんだよね?」

「まぁ、一応地元で毎日使ってる駅ではあるので...」

 大丈夫、愛田美佳のことは守ってあげるからと、かなりズレたことを同僚が言って話が終わってしまった。

 いや、私が怖がってるのは元々あなたのせいですと彼女は言いたかった。それに、なんでフルネームなんですかとも言いたかった。


六月十四日

 十九時、愛田美佳は電車に乗っていた。千咲行きの電車に乗っていた。

 無事に新谷駅に着くと、突然エアードロップの申請が来た。おかしい。どう考えても不審なのだが、許可してみた。事実、彼女はいけないことと分かっていながらも好奇心を抑えられない女性だった。こういう時、彼女はあくまで自分を突き動かすのは自らの好奇心だと思いたかったが、実際はそれだけではないことは分かっていた。

 誰かに自分を見つけて欲しい——。SNSを見ていても、人気な人たちは人生のどこかで鮮烈な体験をしている。その体験をきっかけに多くの目に触れ、人気者になれるのだとそう彼女は感じていた。現状にそれほど不満はないが、言ってしまえば人並みの生活に安んじていると言えるし、故にそんな人生を変えたいと思ってしまうのだ。だから、エアードロップで彼女の携帯に送られた無数の写真を見た時、これまでにないほどの恐怖を感じながらも、頭の片隅では、自分の人生を変えうる出来事が身の上に降りかかりつつあることを、冷静に自覚していた。

 これらの写真は、駅から彼女の家までの道々を写していた。


六月十五日

 朝八時、愛田美佳は電車に乗っていた。会社に向かう電車に乗っていた。

 梅雨にしては強すぎる雨が降っていた。

 この時すでに彼女は見てしまっていた。退避スペースの顔を。

 もし、あの顔にあった窪みが目だったとすれば、彼女はそれと目が合っていた。

あまり動揺していたので、ホームに入ってきた電車の扉が開くと同時に、その中へ真っ先に飛び込んだ。扉付近の乗客何人かとぶつかった。

 あの日柱に見えた顔はただの見間違いだったと直感できるほど、今日見た顔は、生々しかった。

 もし、あれがこの電車に乗り移っていたら———。彼女の想像力は膨らむ一方で、もしそうでなくても、これから自身に何が起こるのか考えただけでも体から力が抜け切ってしまっていた。その時、電車が大きく揺れた。その衝撃ゆえ、彼女はかろうじて手はついたものの前方へ倒れてしまった。

 倒れた後、ふと目を開けると、目の前の床にはさっきのあの顔があった。

 それに彼女が気付くと同時に、乗客の一人が大丈夫ですか、と支えながら立たせてくれた。

 彼女には、今日無事に会社に行けることはおろか、明日自分が生きている保証さえあるとは思えなかった。それほど自分はどうかしてしまったと感じた。気づけば彼女は、周囲にいる人たちに泣きながら助けを請うていた。

 しかし、彼女が半ばパニック状態で話しを始めるや否や、周囲から注がれていた心配の目は急激に彼女から離れていった。彼女が話を続けるうち、彼女を本気で心配していた者も、好奇な目で彼女を見ていた者も、みな彼女はもういないかのように振る舞うようになった。車内には、彼女が泣き声混じりであの顔の話を捲し立てる声しかしなくなった。

 さっきまでの彼女を包み込んでくれるような車内の雰囲気とは一変して、異常な彼女を刺激しないよう彼女以外の乗客が一致団結するような雰囲気がもうできつつあったのである。彼女は程なくするとそれに気づいたが、しかしその時にはもう遅かった。車内は一見すでに元の状態に戻ったようだったが、車内の全員が、彼女の一挙手一投足を目の端で注視していることは明らかだった。

 彼女は居心地の悪さを感じながらも電車を不安げに見回したが、いつの間にか顔はどこにも見当たらなくなっていた。通勤する人たちの波に押されるように、彼女はそのままいつも通り出勤していた。

 しかし、会社で彼女の姿を見た例の同僚は、彼女に何かが起こったということを瞬時に察し、退勤の時間を合わせて彼女の家まで送ってくれた。彼女はというと、何も考えられず、時折震えているのみだった。


六月十六日

 朝、愛田美佳は家から駅までの道を歩いていた。昨日あんなに電車で大騒ぎしたのが信じられないほど、彼女は冷静さを取り戻していた。いや、そう自分に言い聞かせていただけかもしれない。ともかく、今の彼女にとって、昨日の出来事は全て馬鹿馬鹿しく思え、ただ週末はちゃんと休もうと心に決めるばかりだった。

 駅につき、いつも通りホームで会社への電車を待っている時、彼女にとって昨日の恐怖は遠い過去のものか、どこかで見聞きした他人のもののように実感を伴わないものになっていた。

 彼女は梅雨の間の、雨が降らない日が持つ地面が渇き始める匂いと、そうして地面が手放した水分が体にまとわりつくようなしっとりした空気が、好きだった。夏の匂いが日に日に濃くなっていくことを楽しんでいた。

 しかしそれはほんの束の間だった。反対側のホームにいる何人かの人々が、彼女の足元を見て凍りついていた。自分の真下にあの顔があるイメージが脳裏に浮かぶのとほぼ同時に、彼女はホームの中を走り出していた。頭は真っ白になりかけていたが、たった一つだけ、ある疑問が彼女の中で湧き上がってきた。

 その時、電車を待つ列の前を走り過ぎようとした彼女の体を、誰かが強く、押した。




六月十七日

十六日の朝、小城市の大城駅でホームにいた会社員の女性(二十二歳)が線路上に突き落とされ、列車との衝突で命を落とす事故が発生した。その後、同市内に住む男が駆けつけた警官らによって現行犯逮捕された。男が女性に対しストーカー行為を行なっていたことが取り調べによって明らかになったが、警察は引き続き男と女性の関係を調べている。

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