未来から


 夏子が花巻に着いたのは翌日の午後3時頃だった。夏子はカバンから映画のパンフレットを取り出した。これは宮沢賢治の映画のパンフレットで夏子の数少ない宝物だった。そこには賢治の実家のある場所が載っていた。それを頼りに歩いていくと、宮澤商店と言う青いのれんが目に入った。

 「ごめんください。」

夏子はのれんをくぐり中へ入った。そこには50代くらいの男性が座っていた。政次郎さんだ。夏子はその男性に話しかけた。

 「すみません、ここに宮沢賢治と言う人はいらっしゃいませんか。」

 「はい、宮沢賢治は私の息子ですが、なんの用件でしょうか。」

政次郎は訝しげに答えた。夏子は前々から考えていた文句を口に出した。

 「私は山本夏子と申します。東京から来ました。岩手で宮沢賢治さんと言う人がチェロをやっていると聞きまして、失礼ですが、そんな東京から遠い北国でわざわざやっているのはとても珍しく思い、是非お話しを聞いてみたいと思いまして、私はこれでもチェロを演奏する演奏家でありまして。」

演奏家というのは嘘であったが、夏子は高校生のころからチェロをやっていて、その腕前はなかなかのものだった。

 「賢治はここにはいないのですよ。今、別邸に居ましてね。案内させるので少しお待ちください。」

政次郎は立ち上がり、奥から若い男性を連れてきた。もしかして清六さんかな。夏子は思ったが黙っていた。

 「にっちゃん、東京からお客さん。」

若い男性が広い畑で草むしりをする白いシャツの男に呼びかけた。すると、その男は手をとめ頭を上げた。そこにはあの伝記でなんべんも見た目の細い日焼けした優しそうな顔があった。夏子は息をのんだ。あんなに会いたかった人が今、目の前にいるのだ。感激のあまり手が震えていた。

 「いま行ぐ、清六、家に先に通してもらえるか。」

夏子は清六と桜の別邸へと向かった。中に通された。しばらくして賢治が現れた。

 「これは、どうも、私が宮沢賢治です。わざわざ東京から私のチェロのためにお越しくださったみたいで、いやなに、チェロは始めたばかりで、人にお話できるような段階ではなくて、すみません。」

賢治は気恥ずかしそうに頭をかいてそう言った。

 「急におしかけてすみません。私は山本夏子と申します。じつはチェロは口実でして、本当はクラシックについてお話しがしたくて、新交響楽団の大津さんから宮沢さんはクラシックにお詳しいと聞いていましたので。」

夏子は本で知っていた宮沢賢治のチェロの師の名前をとっさに出した。もう心臓がドキドキ動きまわるのを感じていた。

 「大津さん!懐かしい、元気にしてますか?じゃあ、あなたはチェロの演奏家なのですよね、ではオケにも乗ったことも?」

賢治は興味深々という様子だった。

それから、オーケストラのこと、好きなクラシックの作曲家のこと、よく聴くクラシックの曲などたくさんの話しをし、盛り上がった。

 「宮沢さん、良かったら、一緒にベートーヴェンを聴きませんか。」

夏子は宮沢賢治が自身の詩の目標にベートーヴェンの運命を掲げていたことを知っていた。

賢治はとても嬉しそうに

 「山本さんとベートーヴェンが聴けるなんて、とても嬉しい限りです。」

と言い、

 「少しお待ちください。今、持ってきますから。」

2階にかけ上がっていった。夏子は出されたお茶を一気に飲み干した。

 賢治は夏子さんの言っていた、聞いたことのない人の名前や地名に困惑していた。しかし、夏子さんの口調からして、賢治を騙しているとは到底思えなかった。賢治は最近読んだ宇宙の本を思い出し、まさかと思った。しかし、そう考えるしかないように思えた。

 「運命と田園を持ってきました。どちらにしますか。」

賢治は蓄音機を組み立てながら聞いた。

 「運命でお願いします。」

それから二人でしばらく運命を聴いていた。夏子はやはり自分がタイムトラベルをしてきた未来の人間だということを伝えるべきだと思った。それは何度も挫けかけた自分を救ってくれたその人に、あなたは未来に素晴らしいものを残したんだよと伝えたかったからだ。こんなに魅力的な人なのに、これから苦しい最期をひとりで遂げなければならないなんて。夏子はたまらなくなった。

 「宮沢さん、こんなことを言ってたいへん驚くかもしれませんが私はこの時代の人間ではなく未来から来たものなのです。」

夏子は顔が熱っているのを感じた。

 「そういう気がしていました。」

賢治は静かに言った。

 「宮沢さん、私は、あなたの…」

賢治は口の前で指をたて、しっと言った。夏子は賢治の顔をまじまじと見た。賢治の唇はふっくらとしていて、夏子は久々に変な感覚がよぎった。そして、目を逸らした。賢治もなにか感じたのか、目を伏せ、二人はそれから黙っていた。

 「今日はもう遅いですし、わたしの実家に泊まってください。清六を呼んできます。」

賢治はソワソワした様子でそう言うと、部屋を出て行った。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る