【短編】食べてすぐ寝たら牛になった話

イソシギ

【短編】食べてすぐ寝たら牛になった話

 まどろみの中、目が覚めた。時計の針はすでに二一時を回っていた。夕飯を食べてから、そのまま呆けていたらいつのまにか眠ってしまっていたようだった。起き上がろうとしたがうまく起き上がれず、そこで俺は初めて違和感を覚える。全身がひどく重たくなっているような気分だ。なんとか両手両足を床について這うように歩くと、部屋の姿見には大きな牛が一頭写っていた。驚いて俺は声をあげたが、部屋には叫び声の代わりに「モォ」と間の抜けた鳴き声が響き渡る。そして俺は気がついた。食べてすぐ寝たから牛になっちまった。


「食べてすぐ寝ると牛になるよ!」

 実家で暮らしていた頃にはよく母親からそうやって叱責を受けたものだ。大学進学を機に一人暮らしを始めるとそんな小言を言ってくれる人もいなくて、いつしか生活のリズムも乱れがちになってしまっていたことから、食後だろうが昼間だろうがついつい眠ってしまうことが多かった。とはいえ、そんな怠惰な日々を繰り返していても、よもや本当に自分自身が牛の姿に変貌してしまうなどということはまるで想像だにしていなかった。

 そもそもなれるものなら牛になってしまうのも悪くないと思っていた。家畜ないし野生動物になってしまえば退屈な学業や煩わしい人間関係に悩む心配もない。草を食んで眠るだけの生活も案外悪くはないのではないかと、そう思っていたのだ。

 実際に牛になって気が付いたことは、そんな俺の憧憬はあまりにも認識が甘かったということだ。そんな考えを少しでも持っている軟弱な輩が俺の他にもいるのなら、今のこの俺の姿を見せてやりたい。一頭の牛にとって、成人男性一人を収めるための八畳一間の空間はあまりに狭すぎて身動きが取れない。


 ひとまずメールやSNSで救援を求めようとした。まだ一切の危機感を抱いていなかった俺は、姿見にえらく尊大な自分の姿が写っている光景に『これSNSに投稿したらバズるんじゃないか』などと呑気に考えていたのだが、テクノロジーの詰まった繊細な機器をこんな身体で操ることが出来るはずもない。前足で触れただけでスマートフォンの液晶には大きなヒビが入り、画面には虹色の線が交差して一切の操作を受け付けなくなった。   

 外に出ようと試みるも、こんな前足じゃあ部屋の扉の鍵を開けることもできない。いっそ窓をぶち破って部屋を飛び出すことも考えたが、俺が今この狭い家を飛び出したところで、その後の展望が一切の手詰まりであることは想像に難くない。外に出たところでどうすればいい、どこに向かえばいい。そもそも住宅街に突如として現れた牛がみすみす野放しにされるはずもない。ヒトの住むところに現れてしまった野生動物が殺処分されてしまうような事件なんかよく耳にする。きっと政府は俺の味方をしてくれない。


 思索の末、俺はいよいよ一切の行動を断たれてしまった。もうずっとこのままなのかと思うと、ひどく悲しくなって泣いた。涙は出なかった。代わりに「モォ」と情けない鳴き声が部屋に響いた。


 

 動物として生きる以上避けられない事象がある。寝る前に食べた夕飯はとっくに消化されているのだ。催してしまった。俺は大慌てで蹄を鳴らしてトイレへと向かったが、案の定ドアノブが開けられない。必死になって何度も前足を高くあげて、ドアノブに引っかける。かろうじてドアノブは回ったが、戸を引くことができない。何度繰り返してもうまくいかないので、俺はいよいよ牛の馬力に頼ることにした。体当たりだ。引き戸を思い切り押して扉をぶち破った。木屑が飛び散るなか、ふと敷金のことが頭に浮かんだ。牛が住んでしまった以上そんなことはいくら気にかけても仕方がないというのに。

 それよりも気にかけなければならないことがあったのに、よもや俺は扉を開けるまでそれに気がつくことができなかった。

 

 牛がどうやって人間のトイレで用を足すというのだ。


 廊下を汚しながら俺は自分の情けなさに泣いた。涙は出なかった。代わりに「モォ」と情けない鳴き声が廊下に響いた。



 もう何日経っただろうか。汚れっぱなしの部屋で、俺は仕送りの段ボールに入っていた保存食やジャガイモなんかを漁ってどうにか食いつないでいた。レトルトのビーフカレーもあったが流石に食べる気にはなれなかった。  

 現状のままではジリ貧なのはわかりきっていた。食料はもうすぐにでも底をつきそうだ。牛がこんなに沢山食べるなんて知らなかった。このまま俺は、よりにもよって牛として、この部屋の中で孤独死してしまうのだろうか。

 

 不安の渦中でその大きな体を横たえてうずくまっている最中、不意にインターホンが鳴った。これまでも何度か鳴ることはあったが、その全てが宅配便の配達員で、不在票を入れるだけで帰ってしまう彼らは僕の助けにはならなかった。だが今回は違った。外から俺の名を呼ぶ声は、とても耳馴染みのあるものだ。たった数日聴いていないだけなのにその声は千秋を跨いだかのように懐かしく思える。暫く学内に姿を見せない俺を心配に思ったのだろう、友人が家を訪ねに来てくれたのだ。俺は空腹で絶え絶えになった気力をなんとか振り絞って玄関へと駆けつけた。


 しかしいくら親愛なる我が友といえど、山月記よろしく人外となってしまったこの牛が俺であると気がついてくれるのだろうか。毒虫に変身したグレゴール・ザムザのように迫害されてしまうのではないか。そう考えると、彼に助けを求めるのが怖くなった。俺は玄関で立ちすくんだ。

 だが俺に気がついてくれるとしたら、それは彼以外ありえない。ましてや宅配便の配達員なんかでは絶対ないのだ。ならばここで彼が俺に気がついてくれることに賭けるしか俺に未来はないのではないか。

 固唾を飲み込み、カルビをくくる。鍵は開けられないから、何度も扉にぶつかった。開いてくれ、届いてくれ、溢れる想いで何度もぶつかった。


 体当たりを幾度となく繰り返し、やがて扉は開いた。扉の向こうには懐かしい友人の姿があったが、俺は体当たりの勢いのまま彼を突き飛ばした。友人は死んだ。俺は泣いた。涙は出なかった。代わりに「モォ」と情けない鳴き声が街に響いた。

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