棒 その2 (詳細不明)

昔、家の裏手がすぐ海という立地の家に住んでいた時のことだ。


下校途中に会った隣の家のおばさんから、急に「今日はおるすばん?」と聞かれたことがあった。


「そうです」と返すと、彼女は神妙な顔で「うーん」と唸ったあと、


「大丈夫とは思うんけどねえ、でも昨日はうちだったから」


と呟き、私のことをじっと見つめた。


「お母さんに言われとるかもやけど、誰かが玄関で呼んでも、開けちゃダメよ。鍵をちゃんとかけといたままにしといてね。特にお日様が沈んですぐの、暗くなりはじめ」

「はい」

「あとねえ、庭に繋がる大きい窓あるね?あそこの下に、はさみを置いとき」


おばさんと別れたあと、私は家に入って玄関の鍵をかけ、庭に繋がる窓に子供用のハサミを置いた。


その日、母は熱を出した弟を病院に送っていた。机には、夕飯までには戻る、来客が来ても居留守を使っていいと書き置きがあった。


私は少ない宿題を終わらせ、アイスを食べながら窓から見える庭を眺めて、ぼんやりしていた。


すると、不意にインターホンが鳴った。


私は言いつけ通り、インターホンを無視した。

また鳴った。無視する。鳴る。

悪戯だろうか。迷惑に思って、そっと半身を玄関の方へよじった。


そこに、人は居なかった。すりガラスの扉の向こうにあったのは、細長い影だった。


棒だ。


私の身長と同じくらいの黒い棒が、玄関のすりガラス越しに微動だにせず立っている。


何だあれは。帰ってきた時、あんなものは無かった。


インターホンが鳴る。何度も何度も。誰も鳴らす者などいないはずなのに。絶え間なく鳴り続けて、


不意に、棒がゆっくりと倒れた。


予想していたカラン、という軽い音ではなく、ぐちゃり、と湿った音が立った。


思わず「え」と声が出た。意味がわからない。


音はそのまま、ずず、ずず、と引きずるようなものに変わる。

私は強ばった体が動かせないまま、それに耳をそばだてた。


湿った音は、ゆっくりと遠ざかって、ほどなくしてまた近づいてきた。


庭に向かっている。窓が開いている、庭に。


そう気づいて、体中から嫌な汗が噴き出す。

居てもたってもいられなくなった。心臓の音がうるさい。叫び出したいのを堪える。


動いたら見つかる。そう思って、その場にしゃがみこんだまま息を殺し、逃げ出せないまま体が固まってしまい。


きつい磯のにおいが、風に乗って鼻をついた。


引きずるような音が、止まる。


影が細長く、部屋に伸びているのが見えた。


あの棒が、ひとりでに揺れている。笑っているみたいだった。


細い影が部屋の中で歪に伸び縮みする。どんどんその振り幅は大きくなっていき、もう家の中に倒れる、その時だった。


ぎゅぎ、と。何かが、低く唸る音がした。


棒の動きが止まる。

場に静けさが訪れ、しばらくしてから、


ぱぱぱ。ぷつぷつぷつ。ぱぱぱ。


微かな湿った音が、3回。

繰り返されるのが、小さく聞こえた。


気づくと、私は玄関の前の廊下に座り込み、母と弟に揺り起こされていた。

全身に汗をぐっしょりかいて、体育座りのまま、眠っていたのだという。


窓の下に置いていたはさみは、わりと新しかったにも関わらず、何年も放置したように錆び付いていたので、翌週の燃えないゴミの日に処分した。




※(追記) 前作「棒」と同じ市町村での出来事だという。関連性は不明。

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聞書 岡田翠子 @suiko66

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