妻の瞳 〜一切経山〜

早里 懐

第1話

私は休みの日、特に山登りの日は日の出よりも早く目覚めてしまう。


本日もそうだ。

まだ窓の外が薄暗いうちからいそいそと行動を開始した。


私は静かに登山の準備をした。

まだ家族が寝ているためだ。


準備が早く済んだため、家族の朝ご飯としてたまごサンドを作った。


忙しい朝に効率良く動けている自分に我ながら満足していた。


その時だ。

階段を降りてくる足音が聞こえてきた。


妻だ。


「朝ごはん作ったよ」

私は妻に対して得意げな顔で言った。



それに対して妻はこう返した。

「仕事の日の朝もそれくらいやってくれるとね」

強烈なカウンターパンチだ。

流石だ。


私は"聞こえない振り"という特技を発動し、この難局をどうにか切り抜けた。




今日は久しぶりに妻と山に登る。


私も妻も大好きな山ベスト3に入る一切経山だ。


準備は整った。

さあ出発だ。


ちなみに以前も紹介したことがあるが、妻が助手席に乗っていると居眠り運転を防止することができる。


妻は喋りっぱなしだからだ。

話題が尽きないのだ。



そんな明るい車内とは対照的に道中は風も強く、分厚い雲が太陽を隠していた。


事前に確認していた天気予報は晴れだったはずだが外の様子を窺う限り少しばかりの不安を抱いた。


しかし、一切経山に近づくにつれてその不安は払拭された。


太陽が顔を出し、風もおさまったのだ。


私たちは魔女の瞳に会えることを信じて登山を開始した。


雪解け水が流れる登山道をしばらく進むと雪渓が現れた。


妻はここまで傾斜がある雪道を登ったことがないため、前に進むのに四苦八苦していたがなんとか頑張って登りきった。


雪道を登り切ると、次は木道歩きとなる。


ここから避難小屋が見える。

大自然の中に避難小屋が溶け込む風景はとても素敵である。


避難小屋を過ぎると少しばかりの登り坂が待っている。


ここの坂は振り返ると酸ガ平や鎌沼、妻の鬼気迫る表情を臨むことができる。


私は何度も振り返った。


短いガレ場を登り切ると右側には吾妻小富士、左側には磐梯山を臨む。


私は登山を初めてまだ一年程度であるが一切経山ほど登山中から360°どこを見ても異なった絶景が拝める山にはまだ出会ったことはない。


それくらい登るという行為を心から楽しめる山なのだ。


ここまでくれば頂上まではもう目と鼻の先だ。


私たちは空気大感謝塔と一切経山の頂上の前を通過し、魔女の瞳に向かって歩いた。


しばらくするとそれは私たちの前に突如として姿を現した。


寒い冬をただじっと堪え、春の息吹を感じて目覚めた魔女の瞳がそこにはあった。


私と妻は言葉もなくただじっと魔女の瞳を眺めていた。


魔女の瞳と命名した方に拍手を送りたいほど私はこのネーミングセンスには感服せざるを得ない。


それくらい人間を引き寄せ、更には吸い込もうとする引力が凄まじいのである。


どのくらいの時間眺めていただろうか。


山頂に吹く風が強くなってきた。


私たちは下山することにした。


下山時は鎌沼を周回した。


鎌沼では雪が沼に溶け込もうとしている姿を見ることができた。


鎌沼と雪の境目はアイスブルーに輝いていた。


まだこの辺りの登山道には高く積もった雪が残っている。


また、一部の登山道は川のように雪解け水が流れている。


私たちは足元に注意して下山した。




下山後は妻と一緒に浄土平レストハウスでソフトクリームを食べた。


疲れもあったのだろう、甘さがとても身に染みた。


私は何気なく妻の顔を窺った。


ソフトクリームを美味しそうに頬張る妻の瞳も輝いていた。


その妻の表情を見た私はソフトクリームの引力も侮れないなと思った。

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