前を向きたい
動物園に、通っていると嘘をついていた学校まで。陽菜子さんに関連する場所を次から次へ探して探して、探し回って。6件目になろうかという時に、姉さんから連絡が来た。『テメーの読み通り、水族館で引っかかった』
曰く、自らの足を縛って水槽に水を注ぐことで入水自殺を試みたのだという。病院に連れていかれ、意識がある状態だということで、とりあえず病院で皆との合流を目指すことにする。電車に乗り込んで、顎に手を当てた。
(水族館で当たったのなら、水野さんから直接連絡が来てもいいような気がする。でも、姉さんを経由して、僕に来た)
些末なことだと思う。でも、どうしても警戒してしまう。水野さんのことは、未だに信用しきれていないから。逆に姉さんのことはもう、それなりに信用してしまっている。我ながらチョロイものだと思うけど。と、考えながら歩いて、すぐに病院に着いた。病室のスライドドアを開くと、出戻りして同じ入院着を身につけた陽菜子さんと、それに向き合うエコロがいた。
「あ、インチョー」
こっちを向いて手を振るエコロは、ドルフィンオーシャンのロゴが入ったジャージ姿だ。少し袖が余ってしまっている。おそらく救助の折に濡れてしまって、制服を着替えたのだろう。僕は手を振り返し、それから陽菜子さんに視線を向ける。彼女は、露骨に目を逸らした。僕ともエコロとも目を合わせられず、明後日の方を向く。
「ちょうど数時間前にここで、生きたいと、殺されたくはないのだと聞いた覚えがあるのですけれど。惨めに生きるのは嫌の間違いでしたか」
語気を強めて言葉で刺しても、陽菜子さんはほんの少し首を震わせ、聞こえていないかのようにただ遠くを見るだけだ。少し、気持ちが分かる気がした。生きたい気持ちがある。死にたい気持ちもある。気持ちに振り回されていて、こういう時に、自分の行動の責を問われたときに思うのだ──『私のせいじゃないのに』って。
でも、それとこれとは話が別だ。本懐を忘れてはならない。少々強引にでも梶さんの目的を聞き出そうと、陽菜子さんの前に回ろうとして、「割り込み禁止」とエコロに頬を摘ままれる。足を止めた僕の前に立って、陽菜子さんの身長に合わせてかがんで。
「改めて、ヒナ姉に聞いてほしいんだ」
どうやら僕は、あまりよろしくないタイミングで入って来てしまったらしい。エコロはキッと表情を引き締め、頭を下げる。
「まず、今日叩いてごめん」
「それから、耳が聞こえなくてごめん。聞こえなかったことを、言えなくてごめん。確認を怠ったんだ。梶さんが知っていたことを、恋人の貴女が知らないわけがないと思っていたから」
和解を最優先にした理由付けだ。あってないような自分の非を持ち出して、両成敗で片づけようとしている。
「あの時のことは、ヒナ姉だけが悪いわけじゃないと思う。だから、ボクはもう別に怒っていない。ここに誓うよ。ボクは絶対にヒナ姉を殺さない。だから、もう一回一緒に暮らそ」
それは無理だ、と僕は顔を顰めた。案の定、陽菜子さんはみるみる顔を真っ赤にして、怒りのままに大声で叫ぶ。「心にもないこと言わないで!」
「分かってんのよ。アンタは真面目だから、『母さんと父さんの家と収入だから追い出す権利はない』とか思ってんでしょ。内心じゃ私のこと見下してんでしょ。そんなやつと一緒に暮らせるわけないじゃない!」
「そんなこと──」と言いかけたエコロの顔前に、僕は反射的に手を伸ばす。陽菜子さんが投げた枕が指先に当たって、病院の真っ白な床に落ちた。侮蔑を隠しきれていなかったのだと思う。僕の目を見て、陽菜子さんは叫ぶ。「出ていけ、出ていけ!」
髪留めが飛ぶ。眼鏡が飛ぶ。花瓶を持ち上げたタイミングで、僕は彼女をベッドに押さえつけた。彼女はもはや半狂乱で両手を振り回して、出てけ、出てけとうわごとのように繰り返す。
エコロと目が合った。彼女はほんの少し、目を伏せていた。僕は、首を横に振る。
説得が無理であることだけが分かる。代案はちっとも思いつかない。
本来被害者であるはずのエコロがここまで譲歩しても、陽菜子さんはその手を振り払う。
誰かが言っていた。本当に救われるべき人こそ、救いたく思える形をしていない。
説得に苦心している今が、僕らを振り回す今が、彼女にとって最も生を実感する瞬間なのではないかと錯覚してしまうほどに、不要な警戒心をむき出しに、僕たちを威嚇している。
これと仲直りなんて、少なくとも今は無理だと思う。出直そうとエコロにアイコンタクトを送って、スライドドアに視線をやって。そこで、扉が開いた。
「よーっす。待たせてごめんね心ちゃん」
開かれたドアから、二メートルはあろうかという大柄な女性、というか件の底上げブーツを履いた水野さんが入ってくる。あまりに珍妙な光景に、誰も言葉を発せない。「えっほ、えっほ」とリハビリ中の患者みたいに一歩一歩おっかなびっくり進み、陽菜子さんの前まで歩いて。
……床に落ちた眼鏡を踏んづけて、盛大にずっこけた。
「「「……」」」
エコロや僕はもちろん、先程まで追い詰められていたはずの陽菜子さんまで、呆れを含んだ眼差しだ。踏まれた眼鏡がここまで飛んできたので拾い上げる。フレームに少し傷がついただけで、レンズに被害はない──というかレンズが無い。伊達メガネだ。陽菜子さんに渡すと、彼女は黙って受け取る。水野さんのおかげで、平静を取り戻したらしい。
その水野さんはというと、「こんな靴でよく日常生活が送れたよまったく」と、盛大にこけたのは無かったことにして立ち上がり、陽菜子さんの前で腰に手を当て、何やら紙切れを取り落とす。ひらひらと舞い落ちるそれは、おそらくはコピー用紙をハサミで切ったもの。直線を保つ片方の辺に対し、もう片方の辺はガタガタだ。その中に、マッキーペンで丁寧に、こう書かれている。
《バカ専用 イルカショー観覧チケット》
「見に来なよ。来なかったら、ヒナのせいでお客様の声の紙で詰まったポンプの清掃費用、ぜんぶ持ってもらうからね」
────
若人たちの信頼を失ってしまったことが、すこし悲しい。半分本気でキレてる脅しを残して、アホみたいな高さの底上げブーツを脱ぎ捨てて、彼らの顔を見ないように振り返らず廊下へ出て、病室の銀のスライドドアを閉める。思い返すのは、自分にもあった、子供時代。
自分で言うのも何だが、出来た子だった。成績は体育が5に、座学が4たまに5、運動ができて、勉強もできた。それだけで通知表にはリーダー的存在とか書かれて、悪い気はしなかった。
「あーんーずー」
大通りからちょっと外れた狭い道に面した、友達の家。佐野、と書かれた表札の上の呼び鈴を押すと、せわしない足音と、母親と思しき怒声が聞こえる。
『ごめんなさいうちの子ホントにどん臭くて……ほら杏、何分待ってもらうの、さっさとしなさい』
「いくらでも待ってますので、ゆっくりさせてあげてください」
口調は控えめに、けれど優越感があった。誰かが私を頼れる存在だと言ったから、私は頼られる立場になった。それが、私の誇りだった。
結局20分くらい待って出て来た友達、杏は寝ぼけまなこで、ボブカットを揺らして大あくび。間延びした声で「いつもごめんねえ」と言うので、手を引っ張って、背中を叩く。しゃきっとしなよ、と説教染みたことを言うと、とろんとした、自分とは別の生き物を見る目で。
「……りっちゃんはさ、朝起きたら何もかんも面倒だなって思ったことないの?」
「ない。面倒ったって義務から逃げられるわけでもなし」
「いつもでも寝たいなーって思わない?」
「死ねばいつまでも寝れるわ」
「エジソンじゃないんだからさあ……」
呆れ気味に、遠い目をする。けれど少しして、「んー」と、人差し指を顎に当てて。
「んでも確かになあ」
「なにが」
「私も、ずっと寝たいとは思わないよ。でも起きたくもないんだ」
「なにそれ」
杏は、言葉を真剣に考える人だった。そこが好きだった。
「きっとさ、やりたくないことをやりたくないんだ。最初はやりたかったことも、できなくなるとやりたくなくなって、そのうち何もしないほうがいいって思うの」
「じゃあアンタのやりたいことって?」
「……ない。今も学校面倒くさいし、寝てたい」
「あの手品師みたいなキャラのコスプレやりたいって言ってたようn「ない」ああそう」
顔を真っ赤にする彼女を横目に、やりたいことあんじゃん、と思ったけれど、口には出さなかった。たぶん、そういうことじゃない。もうちょっと、勇気を出さずに済む、やりたいことって意味なのだと思う。
正直、彼女の気持ちは分からなかった。やりたいんならやればいいのに。誰も他人の趣味なんて気にしないよ。
でも、分からないなりに、なんとかしてやりたいと思った。
「私と話すのは楽しくないの?」
「……楽しいよ」
「じゃあさ、毎朝電話で起こしてあげるよ。それなら面倒の前に楽しいが来て、すっきり起きられるでしょ」
「いいの?」
「アンタが早起きできれば私も朝待たなくて済むしね」
一転、彼女はキラキラした瞳で私を見る。悪い気はしない。
「ね、寝る時もお願い」
「それはめんどい」
なんでよー寝落ち通話しよーよー、と腕を揺する彼女に苦笑いして、私は前を向く。彼女は横を向いている。これから先、ずっとこんな感じ。
彼女のことは好きだった。けど、彼女の気持ちは分からなかった。それはきっと私に、やりたいことがあったから。
私は順当に夢を叶え、彼女は不服そうに毎日を生きる。
「久しぶり。転職、上手くいった?」
『……まあ、ぼちぼちかな』
彼女の笑顔は、年を経るごと減っていく。
「駅の近くに美味しいケーキ屋が出来てさ、今度一緒に行かない?」
『……金欠でさ』
たまに会っても辛そうで、話題を選ぶ。何を話しても盛り上がっていたあの頃が、懐かしく、寂しく思える。
──『お掛けになった電話をお呼びしましたが、お出になりません』
「……アイツとうとうバックレおったな」
季節は夏、うだるような暑さの、カンカン照りのプールサイド。
他のスタッフの邪魔にならないように一人になれる場所で日課のモーニングコールをしたものの、奴はとうとう居留守を決めた。呼び出し中の画面を見つめ、物憂げにため息をつくと、「律さん、お電話ですか」と、真横から加齢臭。
不躾にも画面を横から覗き込む、白い髭を垂らした仙人スタイルの館長に気圧されて、私はガラケーを折りたたむ。画面を後ろ手に隠して「なんの御用ですか」と聞くと、彼はタブレット端末を取り出して、ずずいと詰め寄ってくる。動画が流れていて、タイトルには『踊ってみた』と書かれている。
「律さんのロケットジャンプを、動画サイトで流して集客を増やしたいと思いますので、今から跳んでいただけますか」
「……浅はかじゃありません?」
「デジタルに疎い律さんには分からないでしょうが、若人の支持を得るにはインターネットが一番なのですよ」
「いまガラケー馬鹿にしましたね。髭引っこ抜きますよ」
まあ、館長の突飛なお願いはいつものことだ。そうと決まれば、着替えなくてはいけない。私はガラケーをカバンの中に放り捨て、足早に更衣室へと向かう。
思えば、電話の誘いをかけていたのはずっと私からだ。彼女は案外、迷惑に思っていたのかもしれない。内心自分自身が面倒に思っていたのを、そう自分に言い聞かせて、私は次の連絡をするのをやめた。
転機があったのは、それから半年くらい、後のこと。鼻歌を歌いながら、スーパーで風呂上りに食べるハーゲンダッツの味を吟味していた時のこと。「律ちゃん」と名前を呼ばれ、思わず背中が跳ねた。振り返ると、そこにいたのは、記憶から随分とやつれた、杏のお母さん。
そのまま立ち話が始まって、近況を伝え合う。といっても私の話はすぐに終わって、9割が杏の話だ。なんでも、杏は2年前に仕事を辞めて、引きこもりになっていたらしい。1年前に会ったときは転職が上手くいったと話していたのに、嘘をついていたのだ。
(とはいえ、それに怒れる雰囲気じゃないのよね)
杏のお母さんが、どこか私を恨めしそうに見ているからだ。居心地の悪さを感じて、私はスーパーの出口に足だけ向ける。
「やっぱり、律ちゃんとは会っているのね。私はもう2年も、杏に避けられ続けているのに」
「まあ、アレじゃないですか、同級生の方が話しやすいことってありますよ」
「……良いのよ。むしろ、ほっとした。これからも、偶にで良いから会ってあげて」
良いって顔じゃないけどな、と思いつつ、そういえば、とわざとらしく黄色い声を上げる。昔と明らかな違いがある。黒々したフレームの、おそらくは、伊達メガネ。
「眼鏡かけるようになったんですね。よくお似合いです」
「……杏に初任給で貰ったのよ。なのにあの子ったら最初の仕事を半年で辞めちゃって、そのあとも上手くいかずに──」
「マインスイーパやってんじゃねえんだぞァ!!」
家に帰ってすぐ、ハーゲンダッツを冷凍庫に入れたら、水泳よろしくベッドに思い切り飛び込んだ。ぼふ、ぎいぎい、と音がして、ベッドが揺れる。アパートの一階だから階下への影響は考えなくて良いとして、声漏れてないよな。大丈夫だよな。ちょっと不安になりつつベッドを降りて、ごろごろと床を転がってストレスを解消しているさなか、携帯が鳴っていることに気付いた。なんと、杏からのメール。
『こないだ言ってたケーキ屋、日曜に行かない?』
噂をすれば影とはこのこと。とりあえず了承の返事を返すと、『ニートなのでいつでも空いてます』との返事。嘘がバレていることを知って引き合いに出してくるあたり、杏のお母さんが今日会ったことを話したのだろう。
(……2年も避け続けていた割にはずいぶん、あっさりだな)
少し胸を刺した違和感にも、気づかぬふりをした。私は、前だけを見つめていた。
「……来ねえ」
見立て通り、ケーキ屋はだいぶ当たりの味だった。待ち合わせの時間から30分経っても連絡の一つも寄こさないので待ちかねて、ショートケーキとコーヒーを頼んで一人で勝手に始めていたのだが、いやマジで来ねえ。ぶつくさ言いながらケーキを口に運ぶ。話題になると思って、高校1年生の誕生日にアイツから貰った光るネックレス(充電式)とかわざわざ着けて来たっていうのに、無駄骨だよまったく。
店内にはゆったりしたサックスの独奏が流れて、穏やかな休日を演出してくれている。
──『なんもかんも面倒って思ったことは無いの?』
確かにいま、電話をかけるのも億劫だと、昔の杏が首を傾げる様子を思い出して感じる。
とはいえ、人間、逃げられないこともあるものなのだよ。そう思って、電話番号を入力する。特に躊躇いはなく、コールする。呼び出し音が三回鳴って、ガチャ、とスピーカーがアクティブになる。
『……かけてくれるって、信じてた!』
杏の声は、やけに高揚している。私はそれにイラついて、あえて呆れたような、間延びした声を作る。
「信じてたーじゃないよ。約束すっぽかして。言い訳があるならどうぞー」
『いま、胸がいっぱいで、ケーキが入りそうになくって』
「……映画でも見てたん?」
『いや、寝てたの。間に合う時間に起きたんだけど、気持ち悪くって』
電話口からギシギシと、先日聞いたばかりの、ベッドが軋む音がする。ごうごうと風が吹くような音もしているけど、冷房だろうか。まあ、声を聞くのに支障はない。
「体調不良ねえ。でもアンタ、私に転職出来たって嘘ついてたもんなあ。それもすっぽかすための嘘だったり?」
「ごめん」
先のテンションが嘘かのような、昏く沈んだ三文字。
私は額に手を当てた。なんか罪悪感。
「……言い過ぎたわ。薬とかゼリーとか、必要なもんがあるなら持っていこうか?」
根負けした私がおかしいのか、杏はくすくす、笑い声を漏らす。私もついつい笑ってしまう。
「なーに笑ってんのよ」
『だって』
彼女は、楽しそうな調子で。
『薬はいらないもの。飲みすぎて、気持ち悪いんだし』
……少し、理解に時間を要した。
「飲みすぎたって、お酒? それならシジミ汁か、ウコンか──」
『ちがうちがう、薬だよー。オーバードーズって分かる。薬をいっぱい飲んで、手軽に気持ち悪くなれるの。こんなんでも心配してくれるなんて、りっちゃんは優しいなあ』
『おばあちゃんの薬をちょろまかして多めに飲んだらね、最初は心配して救急車呼んでくれてたんだけど、今やっても放っておかれるだけ。入院費の無駄だって。死ぬんなら勝手に死ねって、そうじゃないならりっちゃんを見習って働けってさー。薄情だよねえ全く』
『それに比べてりっちゃんは、忙しいのに、他人なのに、私のこと心配してくれて。嘘をついても変わらず受け入れてくれて。うん、ほんとうに優しいなあ』
機能を停止して真っ白に固まった頭が復帰して、処理落ちしたパソコンみたいにガクガク、コマ送りで言葉が溢れてくる。
貴女のお母さんは、ちゃんと貴女のことを心配していたよ。
むしろ私は貴女のこと、お母さんに言われるまで忘れていたし。
嘘をつかれても受け容れるのは、貴女に特に害が無いからで。言ってしまえばどうでもいいからで。
だいいち、なんで、自分から、じぶんのことを傷つけて──
「──なんで」
振り絞った言葉に、彼女は、うーん、と考えて。
『別に薬が飲みたいわけじゃなかったんだ。ただただ、やってはいけないことをしてみたかったんだと思う。万引き、オーバードーズ、引きこもり。風呂に入らず、髪も切らず。貞子みたいって、近所で噂になってね──やってはいけないことをご褒美にすると、やっても良いことがつまらなく見えてきて、潮時かなって思った時に、正しかったころの思い出の残滓が、やってきた』
「……何の話」
『思い出話』
『その子は素直な良い子でね、わたしみたいな不審者の妄言を、ちゃんと聞いて覚えるような子。正しくて、強くって、りっちゃんに似てた。自分が損を被ってでも、友達を助けようとして。でも、大人の理不尽な暴力の前に沈んだ──りっちゃんが負けるのは、納得がいかなかった。助けなきゃいけないと思った。彼を理由にして、わたしは正しいことをした。髪を切って、昔の自分に戻って、気分が沈んだ彼の友達になった』
自己に陶酔した声の調子が、下がる、下がる、地の底まで。
『……つもりでいたんだけど。結局、心が腐ってるから、やっぱりいけないことがしたくなって、盗聴器仕掛けてね、嫌われちゃったよ。わたしが傷つくだけだと面白くないから、嫌がらせはしてきたんだけど──ああ、これもしちゃいけないことだ。わたしに歪められた人がどんな生き方になるんだろうって、ワクワクしてる』
寒気が抑えられなくなって、私は自分の身体を抱いた。
さっきから聞こえる音は、ベッドが軋む音と、豪快にかかった空調の音。両方がそれなりの音量で聞こえるということは、彼女はベッドの上で立ち上がっている。接地面積が少ないことで、単位面積当たりの負荷が大きくなってベッドからぎいぎい音が鳴り、天井に近いからごおごお空調の音が聞こえる。
そしていま、彼女の声が急に遠くなって、ぎいぎいが大きくなった。それはつまり、ベッドの上で立っている状態で、スマホだけをベッドに置いた、ということだ。
「……今から、家向かうから。何もしないで、大人しくしてて」
『わあすごい。そこまでヒント出したつもりもないのに。流石りっちゃん』
「黙って!」
『ひどーい』
おどけた調子で、彼女は笑う。『優しいもんなあ。たぶん、わたしのことも、まだ諦めてないんだよね。本当は良い子なんだから、人生を楽しめるだろうって、そう思ってる。中にいる悪魔を祓ってやるぞ、みたいな感じ?』
私は答えない。立ち上がって、駅まで走ろうとする。椅子が倒れて大きな音を立てて、店員さんが駆け寄ってくる。
『でも、無駄骨になっちゃうからやめた方が良いよ。そこから家まで1時間、流石に救助は間に合わないし、お母さんの連絡先も知らないでしょ。座ってさ、美味しそうなショートケーキ食べて、コーヒー飲んで、ゆっくりしてきなよ。店員さんも目まんまるだよ』
言葉を失った。《まるで同じ景色を見ているかのような》言い回しに。
思えば、杏は母親と会っていないのに、私と母親の会話は把握していて。
──『眼鏡、杏に初任給で貰ったのよ』
私は、高校生の頃に杏から貰った、充電式のネックレスを、瞳に似た、黒く半透明な球体の連なりを、持ち上げて。
『……あっは、酷い顔』
なんでだろう。彼女の顔は見えないけれど、電話の向こうで、泣いている気がした。
『これで分かったでしょ。わたしはね、もとからこうだったの。やりたいことは、やってはいけないことで。信頼を寄せてくれる貴女のことも、ずっとずうっと昔っから裏切ってたの。こんな人間の命なんて無い方が良いよ。そうに決まってる』
否定しなきゃいけなかった。論理的な説得をしなきゃいけなかった。あるいは力づくにでも、一緒に生きようって、言わなきゃいけなかった。でも、背中を駆け巡る嫌悪は本物で、裏切られた不快感も本物で、やってはいけないことを求める彼女に、自殺はやってはいけないことだと述べたら、逆効果である気がして、命があった方が良い理由なんて、自分の幸せ以外には思いつかなくて。
自分にとっての幸せが見つからない彼女が求めていた言葉はたぶん、『私には貴女が必要』で。
でも、私には言えなくて。
「……待って」
困ったような笑い声が聞こえる。絞り出した言葉は、間違いなく、不合格。
『じゃあね。楽しかったよ』
電話が切れてすぐ、会計を済ませて店を出た。冷静な自分が腹立たしかった。会計を忘れるくらいに夢中で走らなければならない気がした。そうでないと、彼女が死んでしまう気がした。そうであれば、彼女は生き延びる気がした。
実際のところ、気持ちの多寡は関係が無い。
1時間もあったら、と言うけれど、首を吊った人が意識を失うまで、本当は10秒もかからない。
間に合うワケもなく、家にたどり着いた時、彼女は物言わぬ肉塊になっていた。
泣くでもなく放心する、杏の母の姿を覚えている。
糞便の匂い、部屋の空気から伝わる体温。
さっきまで生きていて、普通に話していて、けれど今やすっかり肉袋。その違いはなんなのだろう。
兎にも角にも、ベッドから一歩跳んで、縄に首をかけて、地に足をつけないようにして。
面倒くさがりで身勝手な彼女は、あっさり死んだ。
────
水野さんの手書きチケットに指定されていたイルカショーの日に、僕は姉さんに呼び出され、水族館に足を運んだ。屋外プールと繋がる裏口へと連れ出され、そこで姉さんは、水野さんのこれまでを話してくれた。
「……これが、アタシが聞いた、りっちゃんが跳べなくなった理由。話してもらったのは、陽菜子って奴が生きてると分かってから」
屋外プールで準備体操をする水野さんを遠くから横目に捉えつつ、彼女の過去を語り終えた姉さんと視線を合わせる。姉さんは苛立たし気でありながら、いつもと少し違う、悲し気な眉をしていた。
「あの人は、救えなかったものをいつまでも引きずってる」
僕は、水野さんの発言を思い出す。『あの頃にはもう跳べなくなってて』。それはつまり、ロケットジャンプのみが出来なくなったということ。
「ロケットジャンプ以外のショウは、普通にこれまでできていたわけですよね。ロケットジャンプの踏切りが首吊りを思い起こすからとか、そういう話なんですか?」
「当人が何を思っているのかは分からねえけど、りっちゃんはもう、ショウに出られねえよ。これまでのどこかで負った心の傷を癒すためだけに生きてるやつは、動物の信頼を得られねーんだ。アイツらはいつも、今日を生きてるから」
僕は、水野さんの背中を覗き見る。いかにもショウをやりますって雰囲気で、準備体操をしている。
「……トラウマは解消されたんでしょうかね?」
問うと、「そりゃねえだろ」と姉さん。「1人で抱えていることがあると、人は孤独なまんまなんだろ」
僕がエコロに長々語った内容を知っている理由は分からないが、もう水野さんに秘密なんて無いだろう。いまいち合点の行っていない僕の顔を覗き見ると、姉さんは苛立たし気にため息をつく。
「アタシが梶を追いかける前に、りっちゃんがテメーらに追いついたよな。陽菜子さんが倒れてて、テメーら二人が介抱してた。そんときにりっちゃん、なんつってたか覚えてるか?」
──『心ちゃん?』
「普通、心配すんのは倒れてる人間の方じゃねえか?」
ハッとした。けど、どうにかして表情の変化を抑えた。それはつまり、水野さんがエコロの《第4の能力》を知っているということで、それはみだりに広めてはならないもので。姉さんは、手をひらひら振って、「別に秘密を暴きたいわけじゃない」
「テメーらがなんか隠してんのは分かる。あんときは鼻で笑って流したけど、たぶん、心ちゃんにはホントに、特別な力があるんだろ。実際、梶は追いかけてるアタシより、心ちゃんを警戒してた」
「問題は、りっちゃんがそれを知っていながら、知らないふりをしているんだろうこと。まだアタシらに話せていない、後ろ暗い過去があるんだろうこと」
──『私の知らない心ちゃんの秘密を、インチョーくんは知ってるんだと思う』
あの時点で、水野さんは僕より、エコロのことを知っていた。
──『今は、やらなきゃいけないことがあるの』
────
「……ひっどい顔」
コーヒーに映った、自分のやつれた顔を見て、苦笑する。アミューズメント施設は休日こそが書き入れ時、日曜日こそせわしなく、我らが水族館は稼働する。
視界は常に変わりゆく。もちろん、現実の世界は、目が映す景色は確かにある。
けど、いつもどこかにあの部屋が見える。
首を吊って揺れ動く、あの子の姿が見える。
──『私は、ずっと前から腐っていたの』
否定しなくちゃいけなかった。それが私の役目だった。
でも、私は、確かに、不快と嫌悪とを覚えていて、求められた答えを返すことができなくて──
(……なんか、あったかいな)
足に体温を感じて、机の下を覗けば、小さな女の子が足に抱きついていた。長い黒髪に、ぴちぴちの子供服。私と目が合うと、にっこり笑う。
「……なんだガキンチョ。私の足は汚いぞ「すみませんすみません妹がー!!」ああうん」
言葉を遮られるのに一抹の懐かしさを覚えつつ前を向けば、金髪に長袖ワイシャツの見慣れない子が、恐縮しきりでがくんがくん頭を下げていた。たぶん、今年採用の受付だろう。飼育員は私が面倒見てるから、見ていないはずがないもの。
(そういや、爺さん館長の命令で託児室が出来たんだったか。鍵がIDカード式になったのもあの人の仕業だし、大した人だよホント)
それに比べ、新しく館長となった私は、現状を維持するので手いっぱいだ。年々客足は遠のいている。何かしなければいけないのは分かるけど、何をどうしたらよいのか分からない。誰かの許可なく変えたことで、非難されるのが恐ろしくて、何もできやしない。
「ごめんなさいごめんなさい日曜は幼稚園やってないからここに預けるしかなくってですね……ちょっと目を離した隙にこの子ったら休憩室まで抜け出していてですねえ……あのっ、そのっ、クビですか!?」
「なんでよ」
ぼうっと考え事をしていたせいで返答が遅れ、彼女の瞳は恐縮から恐怖へと色を変え、素っ頓狂なことを言う。私は鼻を鳴らして、心ちゃんを指さした。
「その子」
「ハイ!」
「食いやしないから。……妹って言うけど娘じゃなくて? 貴女いくつ?」
「い、妹です。この子は4歳で、私は18です」
「そりゃまたずいぶんと経ってから仕込んだもんだ」
言いながら、これセクハラってやつでは、と思う。内心頭を抱えつつ、恐る恐る顔を覗き込むと、彼女は「ホントですよね」と、さっきとは違った、柔らかな笑顔でいた。杏に似ていると思った。
「私が、ダメな子だったからなんですよ。理想の子供になれなかったから、不満があったから、2人目を作ったんです。それすら不満だったから、あいつら海外に高飛びです。もーう許せん、今度会ったらぶん殴ってやります!」
言いながら、なんでこんなこと言ったんだろ、って顔に分かりやすく変化してゆく、受付の女の子。本当に、杏に似ていると思った。不満があって、それを表に出してはいけないと思っている。本当は、誰かに受け止めてほしいから、突っつかれたときに、つい感情を表に出してしまう。それが受け入れられないことを知っているから、勝手に自己嫌悪して、人付き合いを絶ってゆく。
……なんて、勝手なことを言うけど、実際は大して事情を知らない。今さっき顔を知ったばかりで、親のことなど知りようもない。でも、胸が締め付けられるような感覚を覚えて。
気付いたら、立ち上がって、彼女のことを抱きしめていた。
「え、ちょ、カンチョー……?」
訴えられたら負けだなあ、と思う。でも、言わなきゃいけないことがあった。
「そんなことないよ」
背中を叩く。優しく叩く。
受付の彼女はだいぶ焦った様子で、「大丈夫ですから、大丈夫ですから。そんな優しくされると泣きますよ!?」とか言ってる。少しでも嫌がる素振りを見せたら、離すつもりでいた。けど、彼女の手は、私の背中に回されていた。
少しして彼女の瞳から溢れた涙を、ティッシュで拭う。
あの子は新卒の受付で、私は館長。私情で特定の誰かに肩入れするのは、仕事場の人間関係に支障をきたすだろう。でも、私の言葉に感じ入った瞳と目が合った時、吸い込まれるような感覚があった。目が合った瞬間、それ以外の景色が見えなくなった。
目の前で縄に吊るされ揺れていた杏が、視界の外に消えたのだ。
「……落ち着いたらさ、貴女の話、もっと詳しく聞かせてくれる?」
私は求めていた。
杏のことを忘れさせてくれるような、失敗を塗り潰してくれるような、杏と似た状況を、セカンドチャンスを求めていた。不幸な人を私の力で幸福にしたいと、独りよがりな欲望を抱いていた。
実際、彼女はうってつけだった。精神が不安定で、拠り所を求めていて、何より、誰にも明かせぬ秘密を持っていた。それが明かされたとき、天にも昇る心地だったのを覚えている。
──『……これが、本当の、私です』
黒革のロングブーツを脱ぐ、靴下の布擦れの音、ロングブーツから飛び降り、警戒と期待をあらわに、上目遣いに私を見つめる陽菜子を、私は感極まって抱きしめた。何に涙していたのだろう。そうまでして世界中を警戒する彼女の哀れさか、そうまでして過去を振り切ろうとする己の惨めさか?
ともあれ、私は陽菜子に夢中になった。
陽菜子が楽に過ごせるように気を配るのが、第二のライフワークになった。
陽菜子も、私に頼っていたと思う。
だから、分かっていた。彼女は事故当日に至るまで、下り坂を転げ落ちるように、どんどん精神的に追い詰められていた。心ちゃんを託児室に預けないようになった日から、誰に対しても身構えていた。威嚇するような顔つきで、世界中の不幸を集めたような顔つきで、他人の視線を怖がっていた。
「分かっていた」
そう言いながら、私は何もしなかった。一度手に入れた信頼を崩すのが、恐ろしくて。
だから電話が鳴ったとき、私は、言いようのない吐き気を覚えたのだ。
『梶昌幸と申します。彼女の携帯から、ここの番号を探し当てまして。……仕事先と思い、連絡差し上げました。井上陽菜子は、交通事故で亡くなりました』
真っ白になった頭で、喪服に着られて、念仏を聞き流して。
私はずっと、彼女の死因を考えていた。喪主の梶正幸曰く交通事故であるらしいけれど、少し調べれば嘘だと分かる。警察署のホームページには、数日間の事件事故の詳細が記されているからだ。彼が話していた日に、交通事故は無かった。そんなことは誰も気にしていない。失われた命を悼むので精一杯だ。
私はどうしても、死因が気にかかった。
そこで彼が嘘をつく理由が、私にはひとつしか思い浮かばなかったから。
視界に、杏だったものが、等間隔にゆらゆら揺れている。
『……おっしゃる通り、自殺です。陽菜子が底上げブーツを履いていたことはご存知ですよね。あれを足場にして首を吊ったようで』
『どうして、事故だと嘘を?』
『陽菜子は、子育てを苦にしていました。心の成長が遅いことで、同級生の両親から迫害を受けていたようです。それを、心には伝えたくないのです』
『……』
『自分が原因で親が死んでしまったとして、遺された子供はどう思うでしょうか。子供の健やかな生育には、愛されていたという記憶が何より大事です。今回のことは、心が受け止められる年齢になってから教えたいのです』
梶正幸は、私の手を握る。
『──どうか、協力していただきたい』
────
「嘘でしょ」
けらけらと、まるで確執なんて無かったみたいに、心底おかしそうに心は笑う。
「梶さんも内心ヒヤヒヤだったんじゃないかなあ」
「当時口八丁で騙されてたんだとしても、脅迫状が来たタイミングで気づくでしょフツー。あれネタバラシどころか責任転嫁してんじゃないの。交通事故の要因はアンタですってさ」
「あーっと、それはねー」
何か言いかけた心を、観客の歓声と水音が遮る。
話題の中心になっているとは露知らず、水野律は綺麗なフォームでリングを投げる。サーカスの火の輪くぐりのように、イルカは器用に輪の中を通って水にダイブする。
心ははしゃいで拍手する。
私も、空気に流され手を胸元に掲げ、けれどすぐに下ろした。
────
『有山香澄です。館長に憧れて来ました。高校を卒業したら、すぐ就職したいです。バイトさせてください』
目つきが鋭い、熱心が過ぎる後輩が来たり。
『イルカが子供を産みました。経営不振もありますし、いっそイルカ専門にしませんか』
水族館が、生まれ変わったり。
忙しく充実した日々の中、それでも私の心は、友達が死んだあの日に取り残されていた。
あの日から、明確に私の人格は変化した。
『なんですかそんな縮こまって』
『実家に贈られてきた頂き物のお菓子、食べてるから』
『……食べてるから、なんなんですか?』
本気で困惑する香澄に、誤魔化したような笑顔を向ける。罪悪感、と一言で言えば片付くのだけれど、なぜ罪悪感を覚えるのかは言えない。そうして、挙動不審になる。他人と自分の違いなんて、気にしてはいなかった。他人より恵まれていることに、何か思ったことは無かった。ノブレスオブリージュとか言うほど明確に恵まれているわけでもないし。でも、恵まれている自覚はあって。
──『りっちゃんを見習って働けって』
恨みの籠った声が聞こえる。
一緒に堕ちてやれなかったから、彼女は世を儚んで死んでいった。
『お客様の声の中に手紙が入ってたんですよ。カジマサユキってありますけど』
「……私の知り合い。次からはやらないように言っとく」
『はーい』
4年前の当時、心ちゃんは11歳。つまり15、気づけばもう高校生だ。手紙の内容は、陽菜子の死の真実を彼女に伝えるというものだろうと思っていた。ところが中身は根も葉もない内容の脅迫状、『井上陽菜子の死は井上心の仕業である』とある。何のつもりだと訝しんでいると、もう1枚。
『4年前とは事情が変わりました。心は、共振の力を使い、他人を殺せる能力を手に入れました。精神が不安定になると見境なく使われるため、ショックな出来事は伝えたくありません。何を絵空事をと思われるでしょうが、現にこの力で同級生を失神させています。いま陽菜子の死の真相を伝えるのは得策ではありません』
『そして、恥を忍んでお願いがあります。私はもう、彼女の世話をしたくありません。彼女の精神を安定させるために、実の娘である夢生を妹と教えて守らせていますが、もう限界です。私とて、人である以前に父親です。一人娘がいつ、化け物の能力の餌食になってしまうか、気が気でなりません。心の方も、そんなことを思う親代わりは嫌であろうと思います』
『貴女は、心の能力を知っても、人間として接することのできる稀有な方だと見込んでいます。心を、そして私の娘を救うために、一芝居、協力していただけないでしょうか』
────
「……そんなバカな話、信じたの!?」
「らしいよ」と、バカな話であることを暗に認めながら、心は人差し指と中指を立てる。
「ボクの夢生への精神的な依存を他の人に分配するために、梶さんの脅迫状をちらつかせて、インチョーや自分に頼らせる。それから、家出した夢生を追いかける僕らに暗号を考えて、口八丁でロッカールームへ誘導する──この二つが、水野さんに与えられた仕事」
それから、急に芝居がかった口調になって。
「ロッカールームでは、衝撃の真実が明かされます。なんと、夢生は梶さんの娘でした。ショックを受けるボクたちを尻目に夢生は別れを惜しみ、梶さんのもとへ去る選択を告げます。夢生への依存がインチョーや水野さんに散らばった井上心は、夢生の選択を受け入れましたとさ、めでたしめでたし」
「いや、そんな、間抜けな」
自然に出た言葉に、「他人のこと言える立場じゃないでしょ」と、心は私の頬をピースでそのまま刺す。唐突なボディタッチにも、抵抗する気が起きなかった。私ならともかく、律がそんな甘言に引っかかるとは思えなかったから。
「実際のとこは、表に出さないだけで、みんなヒナ姉と同じなんじゃないかな。他にやりたいことがあって、それを叶えてくれる人を疑おうとは思わない」
「……やりたいことって?」
「ボクのお姉ちゃんになりたかったんだって」
たぶん、これまでの人生で一番目を丸めていたと思う。
「……お姉ちゃん?」と首を傾げると、苦笑いの心。
「最終的に実の娘である夢生をボクから引き離した暁には、ボクのことは水野さんが育てろっていうのが、梶さんのお願いで、それを目的に引き受けたんだってさ。水野さんに利益が全くない気がするんだけど、ま、ボクが可愛すぎたんだろうね。罪な女だぜ」
そう、おどけてみせる心。少し笑いそうになって、慌てて顔を引き締める。
私に姉を名乗る権利はもう無い。姉妹のように振る舞う権利も無い。それは、無礼な振る舞いをしていいということではないのに、口が止まらなかった。
「今からでも頼んでみたら。可愛がってもらえるわよ」
つっけんどんな私の言葉に、心は、少し困ったように微笑んだあと、指を差してプールを見るように促す。促されるようにプールに目を向けた瞬間、明るい声音で。
「って思ってたんだけど、もういいんだってさ」
『さあいよいよ大技です! 決まったら盛大な拍手をお願いします!』
イルカの頭上に、律が立つ。数年ぶりのロケットジャンプだろうに、なんなら、これまでで一番落ち着いているように見える。もう、首を吊った友人のことは、吹っ切れられたのだろうか。その答えは、心の口から飛び出した。
「助けられなかったことをずっと悔やんでいて、だからもう一回、助ける対象が欲しかった。心ちゃんでも陽菜子でも、誰でも良かった」
そう心に言ったのだろう彼女は、晴れやかな笑みで空に飛びだした。
「私はきょう、2人まとめて助けられた。杏の幻影は、きれいさっぱり視界から消えた。だから、もういい」
少し遅れて、着水音、盛大な水飛沫。
水面から顔を出して満面の笑みの律に、惜しみない拍手が贈られる。それをかき消すほど大きな、私にしか聞こえない音が、私の口の奥で鳴った。歯が軋む不快な感覚が怒りを加速させ、血が煮えるような感覚がある。
この怒りが、理不尽であるのは自覚している。私は自分の命だけでなく、妹まで手にかける所だったのだ。それを助けて貰っておいて今更何を、と言う話であるのだけれど、それでも──
──軽んじられている。それで、無性に腹が立った。
プールから顔だけ出して笑顔を振りまく律を睨んでいると、とんとん肩を叩かれて、慌てて妹の顔を見る。きっと私は都合よく、すぐに怯えた表情を作ったのだろう。妹は苦笑いで頬を掻いた。
「ムカついてるみたいだから、手早くボクの要件を済ませるね」
私は、身体を硬直させて、身構えた。身構えてしまった。
心は、私の眼を見て、寂しそうに微笑んで。
「そういう風に構えるってことは、罪悪感があるってことだ」
そう、手をひらひら振って、プールの方を見て頬杖をついて。
「貴女のしたことは許されないことだって、分かってるならもういいよ──危害を加える気はないから、自由に生きてほしい。できたらボクの側だと嬉しいけど、別に、当初の予定通りどこか遠くに行ったって構わない。出てけって言うなら出て行くし」
「……殴られて、蹴られて、騙され続けて。それでも許すの。いつ帰ってくるかも分からない母さんと父さんが、そんなに大事?」
「それもあるけど」と、ちらと私の顔色を窺って、恐る恐る、心は。
「……いい加減前を向きたいんだ。人生にはもっと楽しいことがあるはずなのに、いつまでも怒っていたくはないんだよ」
プールに視線を戻した妹の横顔を見て、自分がちっぽけに思えた。
育てるのを放棄したはずの娘は、私よりも大きくなっていた。
それを認められなくて、私は。
────
「インチョ~~~!」
姉さんの話が終わり、客席で水野さんのロケットジャンプを見終えて拍手して。さあ帰ろうと重い腰を上げたところで、エコロが真横から駆けて来た。水場で走って滑りそうで、慌てて両腕を出して構えて。けれど彼女は転ばず、僕の出した両手を不思議そうに見つめて、なんとなくハイタッチ。僕は自分の両手を見つめる。なにこれ。
「……じゃなくて、ヒナ姉見なかった!?」
「一緒にいたんじゃないんですか?」
「そうなんだけど、トイレ行くって言って、待ってたらいなくて、どうしよ、キツいこと言っちゃったからそれで気にして、また死のうとしちゃったら」
僕は、姉さんの言っていたことを思い出して、先程までショウが行われていたプールに視線を向けた。水野さんは、もうプールにはいない。きっと、水族館の中。
──『りっちゃんに聞きたいことがあると思う。でも頼む、待ってほしい。公演から1時間だけ、あの人をそっとしておいてほしい』
たぶん、陽菜子さんは、水野さんと話を着けに行ったのだと思う。そう思うから、僕は隣の席を手のひらで指す。エコロはおずおず座る。
「大丈夫ですよ。陽菜子さんには、生きたいって希望がちゃんとあります。だって伊達眼鏡のフレーム、変わってましたし。これから死んでやるぞって人間がそんな細かいお洒落しないでしょ」
「……ホントに変わってたっけ。ボクを安心させるための嘘じゃなくて?」
「疑い深くなりましたねー。ほんとですよ。フレームにあった傷が、めっきり無くなっていましたもの」
ちなみにこれは本当だ。水野さんがブーツで踏んづけてつけた眼鏡のフレームの傷が、今日見たらきれいさっぱり無くなっていた。もちろん、それだけで他人の気分を分かった気になってはいけないけれど、かといって、今のエコロのような過干渉もいただけないと思うから。
「一応電話を入れておいて、それ以上の心配をすべきではないと思います。用があったらあっちから来ますよ。それよりも、ご自分の心配をされるべきかと存じます」
梶さんの問題は、何も解決していない。
そう告げると、エコロは目を伏せた。
────
「──やっぱり、いた」
ショウのあと、律はプールから顔を出してジャンプの後の無事を伝えたものの、プールサイドに上がろうとはしなかった。そのまま公演は終わり、律はイルカ共々、いつの間にやら姿を消していた。目を離しているうちに上がったのかといえば、それは違う。
心の目を盗んで関係者以外立ち入り禁止の扉をくぐり、まだ有効なままのICカードを使って屋内プールに足を踏み入れると、プールに入ったまま上半身だけ出している律と、有山くんのお姉さんがいた。2人の視線をいっぺんに受けて、内心心臓を跳ねさせながら、それでも私は、声を上げる。種明かしをするように。律への敵意を伝えるように。
「ショウ用の屋外プールと、触れ合い用の屋内プールの間はウェイティングプールで繋がってる。ゲートを開けて屋内プールへ向かい、貴女は陸に上がることなく、観客の目から逃げおおせた」
人差し指でさして、攻撃的な言葉選び。律は嬉しそうに微笑んで、有山くんのお姉さんは、人を殺せそうな目つきで睨んでくる。倍くらいの身長差からなる圧迫感に、私は息を呑んだ。足が震えるのを必死で抑える。これ以上、格好悪くはなりたくない。
「やめてあげて香澄ちゃん。この子、憎まれ口きかないと話が出来ないの。インチョーくんに対する貴女みたいでしょ」
「アタシは「私はコイツとは違うわ」違います」
「ほらね、似た者同士仲良く仲良く」
呑気な律に、有山くんのお姉さん、《香澄ちゃん》は、頭痛を堪えるようなポーズを取って。
「……約束通り、席を外します。1時間ですからね。それ以上は、りっちゃんの身が心配ですから」
そう言うと、彼女は屋外プールへ歩き去る。律が事前に説明していたのだろう。つまり彼女にとって、私が追いかけてくるのは想定内。手のひらの上で踊らされているみたいで、腹が立つ。
私は改めて律の目をまっすぐに見る。彼女は、いつまで経ってもプールから出てこない。仕方ないから、湿気たプールサイドを裸足で踏みしめ、ブーツを脱いだ自分の足で、一歩一歩前へ進んで。人魚みたいに上半身をプールサイドに乗り出した、元上司の眼前に座り込んだ。
「心から聞いた話は、どこまでが本当」
「ぜんぶ。……ま、お察しの通り吹っ切れたってとこ以外だけど」
律は、プールに浸からせた自分の足に視線を向ける。小刻みに痙攣して、とてもじゃないが歩けそうにない。だから、彼女はプールから出てこれない。だから、ショウのあと陸に上がらず、ゲートを開いて直接屋内プールまで、有山香澄によって運ばれた。これには前持っての準備が必要で、そうなるとこれは予期できた症状だ。
偶発的な事故ではなく、心因性の痙攣。
友人が自殺した過去は、彼女の人生にまだ、暗い影を落とし続けている。
「……やっぱ無理よね。大人になってから拗らせた期間が長いと、急に前向けって言われてもさ」
「なら、どうして吹っ切れたなんて嘘をついたの。私を呼んで、自分が主役を張るショウだなんて無茶をしたの。そもそも跳びさえしなければ、こうはならないんだから──」
言葉の途中で、唇に人差し指が当たって、止められる。
「ここにヒナがいるのが答え。ムカついて、ここに来たんでしょ」
図星だ。黙り込むと、律は歯を見せて、計画通り、と呟いた。
「姉っていう、唯一残ったアイデンティティを刺激してやれば、話を自分から聞きに来るって思った。それしか、話を聞いてもらう方法は無いと思ったから」
「……ヒナは朝すっきり起きれてる?」
「それは聞いたわ。友達の杏ちゃんの話でしょ。聞いて貰いたい話ってのが説教なら御免よ」
「私の話」
説教じゃない、説教臭いけど、と。
「誰にも言えなかった、私の話。貴女に聞いてほしい」
そう、ぽつりぽつり、雨が降り出すように。
「杏の気持ちがよく分からなかった。生きてるうちにしか出来ないことは山ほどあるのに、それをやらないで寝る方がいいなんて本気で理解できなかった」
「でも、あの日、杏が死んで、遺書が見つかってさ」
『りっちゃんみたいに強い子じゃなくてごめんなさい。良い子じゃなくてごめんなさい。りっちゃんみたいに人生を楽しめなくてごめんなさい。正しいことを楽しめなくてごめんなさい』
「杏のお母さんが私を見る時、どんな顔してたと思う?」
普通に生きているつもりで、でも、誰かの仇になっていた。
「誰かと違うことが、誰かより、強いことが。ただ、恐ろしくなった」
「意見の相違が、私が強く自由であることが、いつか誰かを殺してしまうんじゃないかって。崖から足を踏み出す、契機になってしまうんじゃないかって」
「そうやって自分を抑えて生きているとね、朝起きるのが辛くなるの」
「杏を殺して、やっとわかった。安全な檻の中で、ひっそり寝て暮らした方がマシじゃないかって思うのね」
唾を呑む音が聞こえて、真剣に話を聞いてしまっている、自分の姿を自覚する。
『身長が低いのも個性です』
『支援学級に行かせなさいよ』
『やってはいけないことを教えるには、多少の痛みが必要だよ』
他人の意見は、全て正しいと思っていた。私は若く、不自由だった。手本が無いと、前に進めなかった。
それは、間違えたとき、非難されるのが怖いから。
……何を今更、被害者ぶって。
湧き上がる同情の念を、私は首を振って払った。
「……で、それでやったことが水族館の改革と、心を妹にすることでしたっけ。野心たっぷりじゃない」
確かに私は、憎まれ口しか聞けないらしい。素直な自分なんて、吐き気がする。
「あの子がいればイルカも安心して子供を産むから、抱え込もうって言うんでしょう?」
そう言うと、律は吹き出す。
「心ちゃんがいなくっても、イルカは子供を産んでるよ。ウチの飼育員を嘗めて貰っちゃ困るな。あの子を妹にしたがったのは、もーっと個人的な事情」
そこで言葉を切り上げ、ビート板ちょうだい、と言うので、あからさまに顔を顰めて投げ渡す。律は難なく片手でキャッチして、そのままプールサイドから手を離して、ビート板を抱きしめ背中を水面につける。
「……私はさ、自分の劣化コピーが欲しかったのよ」
穏やかな表情に見合わぬ暴言。心が知ったら、どんな顔をするだろう。
でも、私は言えないと思う。律が、私にしか話していないだろうことだから。
「自分のせいで人が死んだと思って塞ぎ込んで生きていて、理想の生き方を求めている子。私の言うことをよく聞いてくれそうなイイ子。誰かの仇になった、自分と同じで自分より劣った子供」
羅列して、目を閉じる。
「愛でて過ごせば、寂しさも和らぐ気がした」
たぶん、私にとっての心も、そんなものだった。
私は理不尽に苛まれていた。さらなる理不尽を味合わせ、溜飲を下げようとした。
「……って、思ってたけどさ、そもそも別に劣ってなんか無いのよね。私たちよりよっぽど合理的で、命の短さを知ってる」
思い出す。
育てられなかったはずなのに、いつの間にか大人びていた、彼女の横顔。
──『貴女がやったことは許されないことだって、分かってるならもういいよ』
「とてもじゃないけど眩しすぎて、あんなの手元に置いたら灰になっちゃう──ま、貴女は姉だから離れられないけどね。ご愁傷様」
ビート板を抱きしめたまま、ごろりと寝返りを打ってうつ伏せになって、顔だけこちらに向けて。「そう、この世にあの子の姉は、貴女だけ。血のつながりは、この世で唯一」と、痙攣した足が使えないからか、腕だけで水をかいて、少しずつ陸に近づく。
「人間はもとよりオンリーワンよ。貴女の紡ぐ言葉は、行いは、貴女の人生を踏まえた貴女だけのもの。誰と同じでもなく、誰の劣化でもない」
「……だから何だって言うのよ。そんなもの、何の慰めにもならないわ。だって、それを知ってるのは、自分だけだもの」
自分自身の中で感情をやりとりしたって、なんにもならない。自傷も、自戒も、律が言うような自慰も、虚しいだけだ。理屈を追っても、くるくるくるくる外に出ないで回るだけで、抜け出してはならないことが分かるだけ。
現状を打破するのに必要なのは、理屈じゃなくて、生きたいって、強い意志。それが出なくて、孤独から目を逸らしたくて、ここまで落ちぶれた。
律は、プールサイドに手をついた。「例えばさ、貴女の妹はオンリーワンよね。変な能力いっぱい持ってて、他にいないでしょあんな子。それは認めてくれる?」と、歌うように、言葉を紡ぐ。頷くと、にっこり笑って。
「ならさ、『私は一般的に許されないことをした』って燻ってないで、許されたっていいじゃない。世間の声なんて、自分の声なんて気にすること無いわ。オンリーワンで最強の妹が『いい』って言ってるんだから、それでいいのよ」
改めて、理解する。この人は、何か人生を貫くような主張がしたいわけじゃない。ただ私に生きろと、それだけを言っている。生きる意志が足りない私に、理詰めに見せかけた詐欺師みたいな論法で、私に生きろと、それだけを言っている。
それだけのために、自分の罪を告白した。私にだけじゃない。心にも有山くんにも、その姉にも、格好悪いところを見せて、それでも。
「なんで」
「……心ちゃんじゃないけど、私もそろそろ、前を向きたいの。朝すっきり起きて、好きなものを気兼ねせず食べて。過去を夢に見ることもなく、明日を楽しみに眠りたい」
そう、彼女はビート板から片手を離して、手を伸ばす。
「……出来るなら、貴女と一緒に」
逡巡と、共に。
たぶん、過去に、言えなかった言葉。
本当にそう思ってるわけじゃない。私を、杏とやらを、生かすための言葉。
分かっていてなお、分かっているからこそ、その言葉は、私の頭で暴れ喚く脳に、すっと染み入った。
────
好きなものを食べる。長い目で見れば、それで別に何が変わるわけでもない。
値段が高いメニューを頼んだのを節約志向の人に見られても、脂質に富んだメニューを頼んだのを筋肉質な人に見られても、問題はないはずなのだけれど、妙に気になる。そこで生まれた小さな溝が、いつか自分を追い詰めるような気がする。
これは、例え話。
他人のルールに反したことで生まれる、孤独感や疎外感。それを直視できない人が目を逸らし、傍にある感情に飛びついてしまって、おかしなことになる──なんて、節約志向の人や筋肉質な人からしたら、『そんなこと言われても』って話ではあるのだけれど。
「ボクたちは、そんな感じ。インチョーはそれで、自傷がやめられなくなって。ボクは、友達を売ってしまって。ヒナ姉は、暴力的になって。水野さんは、年長者としての自分に固執した──梶さんも、そうなのかな」
そう、独り屋外プールで青空を見つめる姉さんを見つめて、エコロは呟く。
「梶さんのことは、姉さんを殺したって誤解を解けば、終わりだと思ってた。だからインチョーにも、説得を頼めたんだ。でも今は、梶さんの望みが分からない。どうすればゴールなのか分からない」
「かといって、放置するわけにはいかないでしょう。貴方のこれからにとって、彼は明確な危険因子です。最低限、彼がこちらに求めるものを知っておかなければ。僕や貴女が、陽菜子さんのような目に合わないとも限りません」
本来であれば、人間社会には、こうした個人の暴走を止めるための仕組みが、法が、組織がある。けれど、彼の武器は、エコロの声。人間社会の枠組みを超えた武器だ。僕たちが、対応するほかない。
かといって、先手必勝、というわけでもない。エコロの声で一発不意打ちをかませば、確かに両肩についたスピーカーを奪うことはできるだろうが、それで逆恨みを買うことも考えられる。あくまで、梶さんと話し合い、彼にとっての利があればそれを差し出して、和解せねばならない。
「……出来ると思う?」
不安そうなエコロに、どう返したものか、と思って。けれど、軽い、速い足音が真横から聞こえて、僕は微笑んだ。
「なんとかなるかもしれませんよ。僕は正直信じてませんでしたけど、貴女はちゃんとやりとげたわけですから」
そう、親指でさした先、屋外プールのその向こう、水族館の裏口の扉が開いていた。そこから出て来た陽菜子さんが、小さな手足を懸命に動かして、屋外プールの入り口から走ってくるのが見える。エコロに向かって一直線だ。目を白黒させて、さっきの僕みたいな受け止める構えになった彼女に苦笑して、踵を返す。
「僕がいると話しづらいこともあるでしょうから、先に帰ってます」
「……無理は、しないでね。1人で梶さんの家に突撃とか、絶対にやめてね」
「フリですか?」
「怒るよ」
「冗談です」
けろっとして、笑ってみせる。動物園の時とは立場が逆で、それがちょっとおかしくて。
「約束です。先走るような真似はしませんよ。また明日、学校で会いましょう」
歩いて歩いて、ふと、水族館のお土産コーナーで立ち止まる。水野さんの言っていた通り、ガチャガチャのコーナーには、確かにクリオネのストラップがある。それで、姉さんとの会話を思い出した。
『オホーツク海のクリオネは、春に現れる個体と冬の個体とで大きさが違うんだと。体長45ミリと10ミリで、春の個体が冬と比べて4.5倍大きい。そのせいで別種だと思われていたんだが、遺伝子解析の結果、同種であることが明らかになったんだとさ。酒の席で水野さんが言ってた。唐突だったから、何を言いたかったのかさっぱりだったけど』
『それはつまり、アレですか。陽菜子さんに渡したのは、《大きくても小さくても関係ない》的なメッセージ』
『そうだったら寒気がするわ』
『そんな風に情緒に欠けるから海のギャング渡されるんじゃないですか』
何気ない、日々のやり取り。それも、言葉を知らなければ出来ないことだ。言葉が聞こえて、それが何を指すのか知らないと、できないことだ。エコロは、本来であればそれができないはずだった。
僕は、未だに信じ切れていない。梶さんがやったこと──耳が聞こえなかったエコロに、つきっきりで言葉を教えたこと──は間違いなく偉業であり、理性ある大人のなせる業である。それが、今のような目的も分からない脅迫行為に手を染めているということが、信じられない。
「かといって、ワケを聞いたところで、教えてくれるはずもなし……「相も変わらず独り言がうるせえなテメーは」姉さん」
「はろー」
「水野さんも──え、大丈夫ですか?」
後ろから声をかけてきた姉さんに応答して振り向けば、水野さんもいた。手を振る彼女に、困惑しながら手を振り返す。水野さんは何故だか立てないみたいで、姉さんに肩を借りていた。姉さんは水野さんの身長に合わせ中腰になっていて、めちゃくちゃキツそうだ。
「背負いますっつってんのに」
「おんぶって子供みたいでヤダー」
「そういう態度が一番子供っぽいって言ってるんです。そもなんで重心後ろにするんですか。置いていきますよホントに。コイツが帰る前に急げって言ったのアンタでしょうが」
そう、大人二人が子供みたいな喧嘩をする前で、困惑しながら自分を指さす。水野さんは、姉さんとじゃれながら、顔だけこっちに向けて頷いた。
「有山くんは、パラメトリックスピーカーって知ってる?」
知っている。石山くんが京子さんへの嫌がらせに使った、周りに聞こえないけど対象にだけ聞こえる音、すなわちテレパシーを実現するアイテムだ。頷くと、怖いよねー、と呟いて。
「現代じゃ、嫌がらせに悪用されててね、使われた側は自分が精神を病んだもんだと思っちゃうらしいよ。探偵事務所のサイト見てたら書いてあった」
まんま京子さんの例だ。嫌だよねー、と水野さんは虚空に呟いて、それから、手のひらを、自分の胸に押し当てて。
「人間、自分の気持ちに疑いを持つのが一番キツいの。他人が自分を騙しに来てるんじゃないかって疑ったり、罪悪感で楽しんじゃいけないって思ったり。そういう、気持ちが捻れる契機になるような対象は、いずれ苦手に思うようになる。例えば、キミにとっての香澄ちゃん」
「おい」
「否定はしません」
「おい!」
姉さんの怒りもどこ吹く風、水野さんは、僕の瞳をじっと見ていた。
「……でもさ、そういう自分の中の葛藤を乗り越えた後で、ようやく選択が始まるの。狭い世界の二者択一から無数の選択肢へ、何をして生きるのかって」
──『誰も彼もが、広い海に飛び出したいわけじゃないって知らない癖に』
「私が言うことじゃないんだけど、でも、貴方が大人に失望する前に、伝えておきたい。何が切っ掛けで出来た引っ掛かりでも、それが自分の中の葛藤なら、いつまでも戸惑ってちゃいけないよ。それは起きるべきか寝たまんまかってのと同じで、毎日の始まりに、気軽に倒すべきものだから」
それは、自戒で。
「選択は『正しくて苦しい』と『間違っていて楽しい』の2択じゃない。『正しくて幸せ』になれる道が、私たちみたいなのにも残されてる。誰もやったことなくて、誰も教えてくれなくて、回り道かもしれない。他人の気持ちとか、変えられないものはある。それでも、自分に出来る範囲で探せば、そんな道が、絶対に、絶対に、あるから」
それは、願い。
「自分なりの『正しくて幸せ』に気付くのが、大人になるってことで。それが出来れば、人生はきっとこれからも、楽しいものだよ」
彼女の言葉を聞いて、思い出す。僕のこと、エコロのこと。
──『人間、欠点がある人のことも、そういうもんかって受け入れられるもんだよ』
──『貴女は個性的な力を持っています。けど、いつもこうなるってわけじゃありません。最初がそうで次もそうでも諦めないでほしいです。受け止めてくれる人は、絶対に、絶対に。何人だっています』
僕たちは、同じことを繰り返してる。自分の望みを、後悔を、心残りを、他人に託して、生きている。
水野さんは、頷いた僕を見て微笑むと、「以上、帰ります。おんぶ」と姉さんの腕を引っ張る。「最初からそう言えってんですよ」と、姉さんは、首だけで振り返って、感情の読めない、平坦な表情で。
「助かった」
そうした感謝を彼女の口から聞くことになるとは意外で、でも、納得もあった。姉さんも《お客様の声》から分かるように感情のある人間で、葛藤があったと思うから。憧れの人が狂うのを、そばでじっと見るしかなかった。それでもいつも通り過ごして、けれどチャンスを見逃さず、土壇場で気を回して、理想の未来をつかみ取った。
「助かったんなら、帰っても?」と、冗談めかして聞いてみると、姉さんは、「テメーで考えろ」と、踵を返す。「もうちょい説明」と水野さんに袖を引っ張られ、舌打ちしながら振り返って。
「テメーが帰るには、母さんに事情を説明しなきゃならないワケだが──母さんは常識的で、頑なだ。テメーのことが心配だから、テメーの力を信じない。常識的に考えたうえで、警察に頼って梶正幸の件にカタをつけることになるだろうな。それで解決する事態なら、帰ってくりゃあいい。アタシには、そうは思えないけどな」
そう、今度こそ、彼女は歩いて、関係者以外立ち入り禁止の階段を昇る。水野さんが、『今度相談しましょうねー』と、姉さんにおんぶされた状態で手を振っている。「いつも言ってる」と、姉さんは。
「捻じれた人間の恨みは、上から抑えつけるだけじゃどうにもならねえんだって、よく分かったろ」
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