一抜けた

 一度だけ、葬式に出たことがある。小学生のころ、名前も知らない、親戚のお婆さんの葬式だった。棺桶の中身を覗いたら、死んでいるとは思えないほどきれいな顔をしていた。パチパチと、肉が焼ける音を聞いて、気づいたらお婆さんは骨になっていた。ちょっと茶色がかった骨を箸で拾って、念仏を聞いて、無言で車に乗って、夜遅くに帰った。


 帰ったときに姉さんが喪服を脱いで、面倒だったと愚痴ったら、母さんが烈火のごとく怒りだした。別に親しくもないんだからって姉さんも怒って、売り言葉に買い言葉で大喧嘩。


 子供ながらに思ったものだ。

 死んだ人は強い。どんな人の感情の閾値も、数日間悲観的なものに変えてしまえる。

 

 そうして悲観的な人たちが集まるから、お通夜は静かだ。




 「……いやはや、まさか自動ドアも超音波とは。知らないことがいっぱいあるものです。梶さんにはセキュリティなどあってないようなものですね」

 

 夢生の救急搬送を済ませた翌日。平日ではあったが、学校にいる間も気が気でなくて、結局示し合わせて見舞いのために早退した。

 重苦しい空気を振り払うように、過剰なくらい明るく振る舞ってみる。エコロは何も答えない。ただ、やめてくれと顔で訴えられたので、大人しく黙っておく。

 あの後夢生の、もとい陽菜子さんの財布を漁ると、やはり彼女が働いていたころの水族館のICカードがあった。水野さんも無効処理をしていなかったらしく、これを使って侵入したのだと思われる。では、同じく不法侵入を果たした梶さんはと言えば、エコロの能力を応用したのだ。自動ドアには、立ち止まった人を挟んでしまわないように超音波センサがついている。梶さんはおそらく、録音したエコロの能力を悪用し、ドアを開け放しにして侵入を果たしたのだろう。彼は昔からこの方法で水族館に侵入することが可能であり、今回の仕込みを、ロッカーに日誌とレシートを集める仕込みを行うことも出来た。


 ロッカーに入っていた育児日誌には、陽菜子さんの私生活が書かれていた。


 内容から察したことは、以下の3つ。


 1.陽菜子さんは普段の生活において、身長と髪色を偽装していた。

 2.陽菜子さんはエコロの能力と、それによって起きる難聴の詳細について、公園でのエコロの第4の能力での反逆を受けるまで知らなかった。

 3.梶さんは陽菜子さんの虐待を把握していた。


 驚くべきはやはり、1.の身長の偽装だろう。30センチの底上げブーツとか、もはやギャグだ。

 「蹴りを受けた時にどーりでやたら軽いと思ったんですよ。中身が張りぼてだったとは。日常生活で良くバレなかったもんです。トイレとか大変でしょうに」

 「……水野さんがバレないように協力してた、って言ってたね」


 ──『相談事があるって家に招待されてね。何かと思えばいきなり靴脱いで背縮んでさ、協力してくれとか言い出すからびっくりしたもんよ。でも葬式の日、遺体の損傷が激しいから最期のお別れの顔合わせはなしって言われて、妙に納得したの。墓まで秘密を持っていくんだなって』


 「まあ、水野さんのことはどこまで信じたもんかって感じではありますけど。何で嘘ついたかって聞いても答えてくれませんし」

 「でも、ひとつ、言えることがある。一昨日言ったこと、覚えてる?」


 ──『あるとき、ヒナ姉がお客さんを連れてきて、隣の部屋が2人になった。ひとりは背の低い子供だった。今思うと、あれが夢生だったんだと思う。ヒナ姉はボクをその小さなお客さんには絶対に会わせないようにしてたから、虐待に気付くことはできないはずだった。でも、何か察したのかな、その日からたまにレコーダーと、食糧が届くようになった。決まって、梶さんの家に行った日だった』


 「あのときの2人は、ヒナ姉と水野さんだった。夢生じゃなかった。背の低い子供は、ヒナ姉の方だった」


 夢生は、梶さんの娘ですらなかった。なんだか、現実味がない。狐に化かされた、というのは、きっとこんな気分なのだろう。エコロの姉、井上陽菜子は交通事故で死んでなどいなかった。これまでずっと、井上夢生として暮らしていた。姉の姿で虐待し、妹の姿で施し、学生のふりをして、唯一の肉親にバレる事無く、日々を過ごしていた。


 診察室に呼ばれたエコロが、立ち上がる。ついて行っていいものかと思ったが、一人にするのも違うと思って隣を歩く。

 

 「井上陽菜子さんの妹さんですね」

 

 お医者様が当たり前のことを確認する。反応が少し遅れて、怪訝な顔をされた。

 夢生については、濡れたタイルで足を滑らせたことにしておいた。脳震盪の疑いがあり、いつ症状が出るか分からないから数日間目を離さぬように、とのことだった。


 エコロは、床を向いて時おり頷くだけで、お医者様がたまに交えるユーモアになんの反応も示さない。お医者様が困ったように僕を見るので、曖昧な微笑みを返す。


 待合室に戻ると、思い出したように。

 「……ごめんね」

 「何がです」

 「元気がない」

 「自分で言いますか」


 まあ、それはそうだと思う。

 数年間ずっと存在を信じ込まされてきた妹に、葬式までやって、死を偽装した姉が成り代わり、学生の振りをし続ける。不誠実に憤慨するというより、ただただそんなことをする意味が分からない。快楽信号が流れるスイッチを取りつかれたように押すネズミを眺める気分だ。何か生産的なことをするでもなく、ただ周囲を誤魔化すために日々のリソースを消費する。嘘を嘘で塗り固める毎日、そんなもの、いつか決壊するのは目に見えているだろうに、どうして、こんな。


 「ヒナ姉のこともそうだけど、梶さん。初めからこのことを知っていて、迂遠な方法でボクらに伝えて去っていった──姉さんの死に、怒っていたわけじゃ、なかった」

 自らの膝をぎゅっと握りしめて、エコロは、絞り出すように。

 「水野さんも、ヒナ姉のことは知らなかったみたいだけど、夢生を追う時に嘘をついてた」

 悲痛な面持ちに、掛ける言葉が無い。無理でも上げたのだろう口角が、どうにも痛々しい。

 

 「もう、全然分かんないや。みんな、何がしたいんだろ」

 

 

 

 「飲み物買ってく」と自販機の方へ走ったエコロと別れ、一人で夢生の、もとい陽菜子さんの病室へと向かう。涙を見せたくないのかもしれない、なんて余計な気遣いだったかもしれないなと思いつつ、早足を自覚して、意識的に歩行スピードを落とす。


 少しずつ、現実を飲み込んでいく。

 ──『葬式の日、遺体の損傷が激しいから最期のお別れの顔合わせはなしって言われて、妙に納得したの。墓まで秘密を持っていくんだなって』


 顔合わせが出来なかったのは、遺体の損傷が激しかったからではなく、遺体がそもそも無かったから。遺体はすでに火葬済みと偽って、葬式もどきを開いて周囲の縁を全て切って、陽菜子さんは妹に成り代わった。


 ──『新盆だから、お墓参りに行こうと思うんだけど』

 死を印象付けるには、墓の存在が不可欠だ。しかし遺骨がない以上、墓を建てることはできない。そこで、エコロには無関係の合祀墓を姉の墓だと伝える。個人用の墓と違って記名が無いし、住職とのコミュニケーションの必要もないから、疑念を抱く余地はない。


 ただ、どちらも主導したのは梶さんだ。死人に口なし、陽菜子さん自身がこれらの偽装を行うことはできない。結局、死の偽装には梶さんの協力が不可欠だ。何かしら梶さんに利益があって、今の今まで、彼らの利害は一致していたのだろう。それが決裂したから、陽菜子さんは襲われ、正体を晒すことになった。


 「……こんなことして、何になる」


 協力が成立した理由も、それが決裂した理由も、ちっとも分かりやしない。

 ……分からないなら、聞くしかない。



 

 エコロと違って僕は陽菜子さんの家族ではないため、病室に入るには面会の形を取る必要がある。受付で名札を受け取り、首にかける。面会には患者自身の許可が必要なのだが、陽菜子さんは許可してくれたらしい。その心境は、分からない。

 

 『井上陽菜子』と書かれた名札のあるスライドドアをノックして、「はーい」と返答があったので扉を開く。プライバシー保護のためだろう白のカーテンを開くと、夢生が──陽菜子さんが、儚げな笑みを浮かべて寝転んでいた。三つ編みツインは変わらず、けれどゴスロリはどこかへ行って、水色の入院着を身につけている。

 

 「インチョーさん、ひとりなの。……わざわざお見舞いに来てくれて、嬉しいわ!」

 

 チューニングするように尻上がりに、井上陽菜子から井上夢生へ。

 大人が無邪気を装う様は、どうにも不自然で、泳いだ目に、どう声をかけたものかと思ってしまう。夢生の時にあったはずの根拠のない自信、全身から漲る生気。それらが全部消えてしまっていて、こうして見ると、今までどうして騙されていたんだろう、と思う。


 「……どうも」


 いろんな感情と考えが脳内を錯綜して、出てきたのはそれだけだった。両手で持った彼女の育児日誌がやけに重たい。エコロを大人しく待つんだった。聞かれてもいないのに、「エコロは飲み物買ってから来ます」と口走って、「そう」と淡白な返事。気まずい。


 「……それ、私の日記よね。読んだ?」

 情けないことに、沈黙を破ったのは陽菜子さんが先だった。微笑んで、手を差し出してくる。日記が欲しいのかと近づいて右手で差し出すと、彼女の手は緩慢に、日記を素通りして、僕の空いた左手を取った。

 「……あの、何を?」

 「下姉さまから──心から、守って。お願い」

 陽菜子さんの瞳は、どこか妖しい決意を宿している。守って、という願いの意味がすぐには理解できず、ただ肌と肌とが触れ合っているという認識が先に来て、慌てて振り払おうとする。生傷が、彼女の掌に触れる。彼女は手を離さない。

 「日記を読んだなら分かるでしょう。あの声を聴いて病院送りになったんだから、分かるでしょう。わたしは、わたしは、怖かったのよ」

 不安を見て見ぬ振りするような、満面を超えた、不気味さすら覚える笑顔で、彼女は叫ぶ。

 「覚えてるわよね。あの日私は、貴方を蹴って。それで心は初めて怒った。これまでずっとずっと、されるがままでいたのに、ついに私に見切りをつけた──ムカつく人を殺さない理由なんて、自分が捕まりたくないから以上のことはないのよ。あの子は証拠なく人を殺せる。脳震盪を引き起こす声を出せるなんて、誰も信じない。一度枷を外したのなら、これまで暴力を振るってきた私を許す理由がどこにもない!」


 だから、助けてくれなのだと、ようやく理解した。でも、僕の結論は変わらない。そも、エコロはそんなことをしないのだから、無意味な懇願だ。「離してください」と握られた手を振るけれど、むしろ痛いくらいに握り直される。痛みで顔をしかめても、陽菜子さんの笑みは崩れない。それどころか一層笑みを深めて、握りしめた手を抱きしめる。

 

 「……わたし、守ってくれるなら何でもするわ。なんでも、なんでもよ。ほら、あの子ガードが堅いでしょう。わたし、あの子と見た目がよく似てるって言われるのよ、姉妹だから。あの子がしてくれないことだってしてあげる。だから、ね」


 温かで、激しく脈打つ心臓に、ああ、と思った。

 こんなことを子供に言ってしまうほど、この人は本気で、命の危機を感じていたのだ。


 「お断りします」と、声を振り絞った。きちんと声になっていたらしく、「こんな小さい身体じゃ嫌か」と肩をすくめて、それから人が変わったように僕を睨みつける。

 「貴方は良いわよね。致命的な失敗をして、自制を覚えたあとのあの子を前にしてる。僕は暴力なんて振るわないし振るわれません、みたいな顔しちゃってさ」

 それは確かにその通りだった。僕の献身は、彼らの教育を礎にして施したものだった。でも、不思議と心は揺るがない。どうしてか、哀れみすら覚えてしまう。

 「暗号なんていらないもの作ってたあの時と変わらないのよ。自分の成功が、他者のこれまでの地道な積み重ねで出来てるってことに無自覚なクズ。人を殺せる化け物に、鞭を打たなきゃいけなかった私の気持ちが分かる──」

陽菜子さんの非難が、尻すぼみになっていったのは、エコロの足音が聞こえたから。エコロは小脇に飲み物を抱えて、病室のスライドドアを重そうに開ける。僕らと、陽菜子さんと目が合った。


 とっさに陽菜子さんはなんだかんだ握ったままだった僕の手を放し、代わりに背中から手を回して抱きついてくる。身体が密着して、さっき手の甲で感じた鼓動の激しさが嫌でも分かる。

 この人は、本気で生命の危機を感じている。エコロが本気で、この場で脳震盪の声を使って手を下すかもしれない、と考えているのだ。


 「インチョーさんのこと、ちょっといいなあって思って。下姉さまの邪魔をする気は、全然ぜんぜん、ないんだけれど──」


 多分、エコロが僕を先に行かせたのは、感情を整理する時間が欲しかったからなのだと思う。目尻に涙の跡がある。彼女なりに葛藤があって、それを一応乗り越えて、陽菜子さんのことを受け入れる腹づもりで来たのだと思う。

 陽菜子さんの選択は、最悪だった。全てを言い終えてしまう前に、エコロが腕を振りぬいて。

 

 乾いた音が、病室に響く。


 「……めてよ」

 小さな声だった。下を向いていた。

 呆然とした顔で頬を押さえる陽菜子さんと、一瞬だけ目を合わせて。


 「やめてよみっともない!!」



 病室を飛び出したエコロを追いかけ、僕も病室を出る。途中、彼女が買ってきたコーヒーとココアと、ミネラルウォーターを拾って、スライドドアのところで陽菜子さんを見る。彼女は張られた頬を押さえて、放心している様子だった。たぶん彼女のために買ったのだろうミネラルウォーターのペットボトルを置いて、もう豆粒みたいに小さくなったエコロを小走りで追いかける。


 ──『あの子は、証拠なく人を殺せる。私を殺さない理由がどこにもない!』


 それが、陽菜子さんではなく、夢生としてエコロと数年過ごした末の答えだと思うと、どうにも虚しい。




 エコロは疲れ切った様子で、ベンチに座りこんでうなだれていた。さっき落としていったココアの缶を首の上に置くと、無言で手を伸ばして受け取る。隣を空けてくれたので座ると、膝をぎゅっと握って、開口一番。

 「ごめん」

 堪えただろうな、と思う。不思議なもので、そう思うだけで、自分のことなどどうでもよくなる。

 「僕でもたぶんああします」

 気休めじゃない。姉さんがアレをやっているのを見たら、僕は多分引っ叩いてしまうと思う。会話は無いのに、勝手に強さに憧れているから。とまあ、それはさておき。

 「ひとつはっきりしましたね。当時陽菜子さんが夢生に成り代わったのは、怒れる貴女から逃れるため」

 項垂れながらも、僕の話を聞くために顔だけ上げる彼女に、律儀なことだと苦笑いする。

 「疲れましたか」

 「……疲れたってより、虚しいや」

 ロッカーで共に出てきたレシートを指で摘まんで、遠い目をしている。

 「4年だよ。水野さんも知らなかったってことは葬式は本気でやってたんだ。交友関係の全てを捨てて死んだふりして、ボクの目を欺くためだけにボールもジャージも汚して、トマトなんて育てちゃってさ──受けた仕打ちに怒ってはいたけど、そこまでして欲しいわけじゃなかったよ。それとも怒りが薄れてしまっただけで、そうしてしまうほどの迫力が当時のボクにはあったのかな」


 再び項垂れたエコロを見て、思い出す。

 感情に揺らされた人を見ると愛おしく思うのは、本来成し得ない未熟な自分を完璧な自分で抱きしめるような全能感があるからだと、目の前の彼女は言っていた。今、身に染みて理解している。

 同時に、彼女の考えを理解できたことで、思考の温もりを感じた。彼女には考える頭があって、それは自らに似て自罰的で。そうした思考から脱するためにか、愛していたものがあったのに。

 

 ──『肉体的にじゃないのよ。精神的に触れないの』


 夢生と梶さん。4年もの間、彼女に強く触れていた精神ふたつ。どんな理由があったにせよ、その言葉は偽物だった。肉体は近くにあったのに、心はずっと遥か遠くで。それを知らされた彼女は、どんな気分でいるのだろう。僕ならきっと、広い宇宙に、独り取り残されたような──


 結局これも、気持ち良くなるためなんだろうな。


 「『1個心配なことがあると、他のことに手が付かなくなる』というのは、凄く良く分かる気がします」

 エコロは唐突な僕の言葉に、そんなこと言ったっけ、と首を傾げて、思い出したのかああ、と相槌する。


 「いつも、何かが足りないと思いながら生きています。1つ、解決していない心配があって、毎日毎日、そればかりが気にかかって。それを終えてから、幸せな人生が始まる、と思っているのです……この欠乏感の正体は、月並みですけれど、孤独感なのだと思います」

 手の甲を見つめ呟く。エコロは、黙って聞いている。

 「日々、罪悪感と共に生きるうちに、他人への不信が積もりました。どうせ理解などされないと、説得する前から諦めて。周りに人が何人いても、結局この欠乏が埋まることはありません──自傷は、そうした欠乏を埋めてくれるものだったのだと今では思います。本当に僕が恐れていたのは、罪の先にある排斥と孤独で、僕はそんな当たり前のことに向き合えず、罪の重さという言葉で誤魔化しました」

 そうして、エコロに顔を向ける。「だから、そういうことなのだと思います」と言うと、「……どういうこと?」と怪訝な顔。当然の反応で、それが心底、有り難いと思える。

 僕は、傷だらけの手の甲を見つめて、

 「言ったじゃないですか、自傷なんて無意味だって、それを選んでしまう自分が理解できないって。でも今日、答えが分かった気がするんです」と、人差し指を立てる。


 「孤独感は直視することも出来ぬほど名状し難い、得体の知れない恐怖で、直面すると正気を失います。そのため、隣に『分かりやすい感情』があるとき、選ばされていることにも気づかないまま飛びついてしまうのです。僕にとってはそれが罪悪感で、陽菜子さんにとっては、貴女という脅威への畏れだったのだと思うのです」

 ピンと来ない、と言いたげな彼女に、面と向かって言うのは躊躇われる。僕はそこまで偉いだろうか。僕の立場はどこにあるのか。それでも、誰かが言わねばならないことだと思うから。


 「ご自分で分かっているとは思います。でも、改めて、今回のことは、貴女のせいではありません。陽菜子さんは孤独感を煽られて、隣にある貴女への恐怖に飛びついたのです。年長者にも、そういう人はいます」

 息継ぎをする。彼女は待ってくれている。僕の言葉に、耳を傾けてくれている。

 「貴女は個性的な力を持っています。けど、いつもこうなるってわけじゃありません。最初がそうで次もそうでも諦めないでほしいです。受け止めてくれる人は、絶対に、絶対に。何人だっています」


 「……変な慰め方」

 それが、第一声だった。鼻を啜る音が聞こえて、その発信源のエコロは、一旦待って、と僕に手のひらを向け、顔を伏せる。あーこれマズ、とか、ハンカチハンカチ、とか。間を誤魔化すような独り言が聞こえて、少し、申し訳なさそうに。

 

 「ごめん。今頭の中ぐちゃぐちゃでたぶん何言われても泣くと思う。怒ればいいのか、喜べばいいのか、悲しめばいいのか。どれも、間違いな気がして」

 「顔を向けたくないなら、黙ってますけど」

 「……ううん。声をかけてくれることは、ぐちゃぐちゃの中で手に触れられることは、とっても、うれしいから、そのままで」


 涙声を聞きながら、眉を寄せる。

 陽菜子さんや梶さんの不義理に、怒るのか。

 己の罪が杞憂であることに気付いて、喜ぶのか。

 陽菜子さんの臆病さに、悲しむのか。


 泣けば一緒ってわけじゃ、無いのだろうけど。

 

 かける言葉に迷って、前を向く。病院の外にあるベンチから見る景色。行き交う大人は僕たちの方をチラと見て、特に泣くエコロを見て静かに視線を逸らす。触れないこともまた、優しさだ。この世に思いやりは多くある。それでも僕らは、時折身を裂かれるような孤独感に苛まれる。それを直視できずに、別の感情に飛びついて、離れ難くなる。

 

 センチになって遠くを見ていたら、飛行機のように両腕を広げ、こちらに近づく大人がいた。特徴的なベリーショート。僕は意図的に眉を顰めた。彼女は、水野さんは僕を無視して、エコロの前へ。

 「子供から見たら大人は何でも知ってるように見えるけど、大人にとっちゃ子育てはファーストトライだかんね。間違いは、あるものさ」

 陽菜子さんのことを言っているのだろう。ワケ知り顔で迫る彼女の前に立ち、睨みつける。なかったことにはさせないからな。

 「慰めてくださるのはありがたいんですけど、貴女の信用もあんまりないというか。元の関係に戻りたいのなら、まず嘘をついた弁明をしていただけます?」

 「事情があってさ。後で説明するよ。でも今は、私を追及するよりやるべきことがあるでしょ。陽菜子と和解しなくちゃ……あーもうそんな泣いて。かわいこちゃんが台無しだぞう」

 横目で僕を見、軽くあしらい、右手でエコロの頭を撫でる。エコロの涙と鼻水がだばだば流れ、水野さんは困惑して腕を引っ込めた。

 「今敏感モードなんで、頭撫でようもんなら蛇口を捻るようなもんですよ」

 「なんだそのよく分からん共感……まいいや、ここまで来たら好きなだけ泣け泣け。人知れず泣いとけば、最大HPが上がって肝心なとこで頑張れるようになるかんね」

 誰が言ったか、フロイトだったか、涙を流せばカタルシスで前を向けるようになるってそんな話。シャワーで頭を洗うみたいに無抵抗で頭を差し出して、エコロはされるがままでいた。拭いもしない涙がだばだば流れ、顎を伝って地面へ落ちる。

 

 水野さんは優しいまなざしで、彼女を見つめて。でも、急に思い出したように、首だけぐるりとこちらを向いて、僕の右手を取って、エコロの頭に乗せて、「じゃ、あと任せた」と踵を返す。「は?」と、思わず普段年上に使わないトーンの声が出てしまったのも仕方がないと思う。彼女はわざとらしく、本心を隠すように、うけけと笑う。「甘えられる人は多い方が良いって前に言ったでしょ。お互い、少しは他人に気を許してみたら」


 「ちょっ待っ、まだ話は終わって──」

 水野さんを引き留めようと右手を挙げようとして、でも、動かなかった。エコロが両手で、右腕を掴んでいたから。「あの」と抗議しつつ右腕を動かすも、エコロは少しはにかんで、「……よろしく?」と首を傾げる。

 僕は声を荒らげた。

 「何がよろしくですか。梶さんは論外、陽菜子さんもあの調子じゃ話を聞くことはできないでしょうし、水野さんを逃したら真相究明のチャンスは無いんですよ。梶さんから身を守るために、彼らの行動の動機を知るべきです。情報源があるなら無理にでも吐かせるべきなんです。分かったら放してくだsどわー!?」

 急にエコロの双眸から洪水のごとく涙が流れ、僕は足を止めざるを得なかった。曰く「疲れてるときに温かいご飯食べると無性に泣けてくるときあるじゃん、あれ」らしいけどなに、今ご飯を思い出す瞬間あった?

 僕の右手を掴んだまま「止めたのには真面目な理由もあるんだよ」とエコロ。そのまま上目遣いで、首を傾げる。鼻を啜って、目元は赤いけど、もう涙は流れていない。「無理にでも吐かせるって言うけど、インチョー、物理で水野さんに勝てる?」


 脳内で運動性能を比較した不等式を立てる。姉さん>水野さん>>(越えられない壁)>>僕。

 

 「……穏便に話し合いで」

 「説得して話してくれるような内容なら、そも梶さんと協力なんてしないと思う。あの人には目的があって、それを達成するまで絶対に喋ってくれないと思うんだ。だから、今狙うべきは、梶さんとの契約が切れて宙ぶらりんのヒナ姉だよ……ということでほら、髪でも撫でて落ち着いて」


 エコロは右手を掴んだまま頭を揺らす。パーマが指の間に引っかかってわしゃわしゃする。完全にペット感覚、というかセットとか大丈夫なんだろうかこれ。

 

 「……狙うべきはとおっしゃいますけど、陽菜子さん、貴女と対面したら半狂乱になると思いますよ。まともな話になるとは思えません」

 「インチョーが言うには、姉さんには孤独感があって、その後ボクを怖がっているんでしょう。じゃあ、その孤独感を埋めてやればいい」

 

 確かにそんなことを言った。陽菜子さんは、エコロへの恐怖の前に、孤独感があったのだと。僕たちに暴力を振るっていたあの頃に、何があったのかは分からないけれど、孤独感を覚える何かがあったのだと。

 

 「……あんな頭でっかちな説法を、陽菜子さんが聞くとは思えないんです。言葉にした僕ですらそうです。自傷願望なんて非合理的な感情に囚われる理由が分かったつもりになっても、その原因の孤独感を埋められる気はしません。自傷行為を止められる気が、今もまったく、しないのです」

 エコロの頭の上に乗った傷だらけの手の甲を、じっと見つめる。エコロはしばらく黙りこくると、急に。急に気に入らないものを出された猫みたいに、僕の腕を力任せに払った。

 「あ、ごめんなさい「そうじゃなくって」」

 反射的に謝る僕に、『怒ってます』とでも言いたげなふくれっ面で、ぴしりと人差し指をさす。

 

 「冷静に考えたらさ、孤独だなんだと失礼じゃない。ヒトが隣にいるって時にさ」

 僕は苦笑いした。そうなんだけど、そうじゃない。話すべきは、これからのこと。

 

 「孤独じゃなくて孤独感、です。結局僕は他人を信じることができないままで、貴女にすら、話せていないことがあります」

 だって言うのに、するりと人生相談染みた言葉が口をついて出た。たぶん、彼女が求めている言葉だと思うから。「ボクもそうだよ、インチョーにも、話せていないことがある」とエコロは頷いた。

 

 「結局ボクたちは、隣に人がいても孤独感による欠乏を埋めることができないんだ。そうしていずれ、欠乏を埋めることを諦めて、近くにある感情に飛びつくようになる……って話だったね」

 そう、これまでの僕の妄言を纏めると、人差し指を立てて。

 「どうせ孤独感を誤魔化すのが無理なら、逆に孤独になってみるってのはどうだろう」

 もっと素っ頓狂なことを言いだした。

 

 「……それは、どういう?」

 「ヒナ姉みたいに葬式開いてボッチになれってことじゃないよ」とエコロ。


 「誰かが『できない』って言ったことを、自分だけは『できる』って思うの。誰にも理解されなくても、孤独でも。向き合って、打ち勝つの。そうすれば、一瞬だけでも、孤独感に勝ったことになるでしょ」

 

 言ってる意味が分からない。首を傾げると、嬉しそうに微笑む。

 

 「たとえばね。ボクは、姉さんと仲直りするつもりだよ。そうすれば、梶さんの話を聞ける。インチョーの言う通りなら、姉さんは孤独感を直視できなくて、ボクへの恐怖に飛びついたって話だよね。なら、ボクが友達になって孤独感を解消してやれば、怖がることはないわけだ」

 卵が先か、鶏が先か。「恐怖の対象が友達にってそんな無茶な」と、反射的に首を横に振る。するとエコロは、「そういうこと」と指をさす。

 「インチョーは、ボクの望みを不可能だって思ってる。意地悪な言い方をすれば、ボクはこれで孤独になった。でも、これで姉さんと仲直りできたら、ボクの信心は報われる。孤独に打ち勝ったことになる」

 

 それはずいぶんと、自己暗示とでも言うべき納得の仕方だと思った。勝手に自分を追い込んで、自分で課した試練に打ち勝つことで孤独を誤魔化す。一時的に孤独感を誤魔化せても、すぐに欠乏に陥るような気もした。

 でも、現状を打破する術としては、それしか無いような気がして、とりあえず頷いた。「まだ納得してないでしょ」と刺されて、余所見して口笛を吹く。エコロは、先程まで他人の手のひらが乗っていた頭頂部を、自分でも撫でて。


 「ボクたちは、許されたいと思っていた。許されないとも、許されるべきではないとも思っていた。そうして、周りの目を恐れて孤独になった」

 人差し指を立て、いつかのように、トンボを誘うみたいに、くるくる回す。

 「これがインチョーの言うように、孤独になったから罪悪感に目が行ったとも考えられるのなら、一周だ。順番じゃなくて循環で、どっちが先かも分からないまま、ぐるぐるぐるぐる同じところを行ったり来たり。そりゃ、気が休まるはずも無いよね」

 

 それは、少し分かる気がした。

 結局、罪悪感と孤独感のループは、自分の体内で完結している。

 僕は理屈を追うだけで、それを壊してやろうとはしなかった。

 

 学生服のポケットに入った携帯が震えて、僕は物思いから復帰する。送信者を確認すると、水野さんだ。丁度良かった。

 

 「陽菜子さん、落ち着いてますか。さっきエコロと喧嘩してらしたので、心配なんですけれど──」

 『病室がもぬけの殻だった。その感じだと、そっちにも来てないんだね。じゃあ決まりだ』

 

 僕たちは、顔を見合わせる。水野さんは、呆れ交じりに。

 

 『──あの子、心ちゃんに何も言わずに逃げたんだ』


────


 律が名簿を削除しなかったせいで、《ドルフィン・オーシャン》の内部はフリーパスだ。昨日のことがあったからなのか急遽臨時休業となった水族館の前には、まばらに人がたむろしている。視線を感じながらすり抜けて、関係者以外立ち入り禁止の扉を開き、チェーンを外して2階へ上がり、託児室に背を向けて、水槽管理室へ向かう。この水族館では、汲み上げた海水を貯蔵して、水槽に注げるようになっている。それは、お客様の声を展示する水槽においても例外ではない。


 私は、役割を失った水槽の中にいた。これから私が、元あった形へ、戻してやる水槽の、中にいた。


 『この水族館が持ち直したのは、イルカの繁殖に成功したからだ。追い込み漁での捕獲が禁止され、イルカは繁殖させることでしか手に入れられなくなった。安定した繁殖技術は、強みであり信用だ。ノウハウを確立したことで融資を受けられるようになり、イルカ専門の水族館へ姿を変えた』

 

 思い出す。梶さんの言葉。

 エコロの反撃を受け、パニックになった私は彼に縋りついた。どうにか助かる術はないかと、縋りついて、彼からの提案は、声だけでエコロに存在を信じ込ませていた夢生に、実際に成り代わること。《井上陽菜子》に罪の全てを背負わせ、私は無実の《井上夢生》として生きる計画だった。エコロに信じ込ませるためにこれまで得た縁をすべて切り捨て、偽物の中学生活を作り上げ、彼女のそばで嘘をつき続ける。

 

 限界はすぐに来た。もうやめたいと泣きついた。薄々蔑まれていることには気付いていたけれど、それを機に彼は侮蔑を隠さなくなった。私の価値は、その程度だ。

 

 『──さてね、ノウハウとやらが、いったいどれほどの効果があったやら。繁殖が成功するようになったのは、奇しくもキミが、妹をここに連れ込むようになってから。精神の安寧を齎すのは、話の通じる隣人の存在。イルカだって同じことだよ。話が通じない種族に世話されるストレスは想像に余りある。水族館が持ち直したのは、キミが無碍にしてきた彼女の功績なんだよ』


 妹には価値があると、オマエには無いと、彼は繰り返す。

 栓を開くと、海水が注がれる。自分の命を奪ってくれる水の冷たさが、心地よい。


 『第4の能力を恐れているようだけれど、大人のキミがその魔の手から逃れるのは簡単のはずだ。どこか遠くに逃げてしまえばいい。所詮は子供、本気で生活拠点を変えれば追って来れない。でも、煮え切らないね』

 彼は、宿題を家に忘れたと供述する小学生を前にした教師のように、わざとらしくため息をつく。

 『キミは自分で矛盾を分かってるんだ。言いたくないなら、代わりに言ってあげよう。キミは虐待しておいて、妹の身を心配している、育児を放棄することに後ろめたさを覚えている──恥知らずだ。意思も誇りも感じられない』


 その通りだ。ぐうの音も出ない。意思も誇りも、母親の胎内に置いてきた。

 私はただ怒られたくなかった。それだけで生きてきたんだ。

 背が伸びず成長が止まり普通ではないことがわかって、母の心配が億劫になって、腫物を扱うような父の視線が鬱陶しくて。でも、嫌だと言えなかった。怒られるのが、嫌だったから。


 『まあ、責任を感じてもいるんだ。妹になってみればと唆したのは私だからね。だからチャンスをあげよう──心が大人になるタイミングで、キミたちを恨んでいると嘯き事件を起こす。そこでキミは私の娘だと正体を明かし、今度こそどこへなりとも逃げればいい。育児をやり切り、かつ危険から逃れる唯一の術だ』

 

 私にとっては、地獄に垂れた蜘蛛の糸だった。それでしか救われないと思った。

 

 『ただし、それで契約は満了だ。以後戻ってきても、私は正体を守る手伝いをしない』

 

 梶は言葉通りに約束を守った。水族館を経由して脅迫状を送り、それらしい家族写真を部屋に配置し、私が彼の娘だという設定へ2人を誘導した。私は正体を明かし、逃げおおせた。

 ただし、彼の言う契約はそこで満了した。むしろ、契約が満了した以後が、彼の目的であったのかもしれないと、今では思う。

 彼は日記をロッカーに置いて、暗号を送って、有山くんと心が取りに来るように仕向けた。私には、ロッカーに日記を置いたという通達だけが来た。つまりエコロの言う通り、彼の狙いは私が日記を隠そうとする様をふたりに見せることであるのだけれど。


 そんなことで、彼は得をするのだろうか。ふたりを驚かせたかったのだろうか。私に嫌がらせをしたかったのだろうか。傷心のエコロにつけ込んで、両親の財産でも狙っているのだろうか。分からない。


 (まあ、梶さんは、私の生き汚さを、見抜いていたということで)


 身の安全が第一で、逃げおおせればそれで良かったはずなのに。綺麗でいたいと欲が出た。妹の中で妹のままでいたくて、警告されていたのに戻ってきてしまった。だから攻撃されてしまった。


 「……つまるところ、私がすべて悪いのです」


 自虐的な独り言も、ごうごうと注がれる水の音で聞こえない。水槽には本来水が注がれて、展示物があって然るべきだ。役割を取り戻した歓喜の叫びに聞こえて、私も嬉しくなってきた。排水用のポンプを閉めて寝転がると、背中側にじんわりと水がしみる。体が沈みきるまで一分とかからないだろう。溺死は苦しいと聞く。たぶんハシゴなんぞかかっていようものなら掴んでしまうだろうから外して、足を縛った。手で手を縛るのは思いのほか難しく諦めた。


 「……じゃーね、みんな。ざまーみろ」


 最短距離を通って最速で準備を整えた。今頃ようやく脱走に気づいた頃だろう。呑気に行き先を探しているようでは絶対に間に合わない。助けは来ない。

 恐怖が背を満たす。

 けど、少し高揚もある。

 死んだあと、館長は確実に責任を取らされるだろう。あの2人もいい気分にはなるまい。これからの人生の心の傷になって、お前らが死ぬまで残り続ける。ざまみろってんだ。

 自分を鼓舞する笑い声を上げようとして、視界の先にクラゲみたいに、金のウィッグが浮いていることに気が付いた。


 (……え、思ったより早い)


 背中が浮いて、服が重たい。体は浮くけど、顔は沈んだままだ。進んで水を飲む気にもなれず、息を止めた。なんとなく怖くなって、目も閉じた。


────


 隣の席に座った姉が、不機嫌そうに腕を組んで揺れている。水野さんに呼ばれてきたのに隣にいるのが不仲の僕だからキレてるのだ。いくら苛立っても隣の席が変わるわけでも電車が進むスピードが速まるわけでもないのだから、大人しくしていてほしいものだと思う。

 「……なんでテメーと一緒に帰らにゃなんねーんだよ。問題は解決したのか」

 「帰るわけじゃないですよ。エコロの家に向かうんです」

 「細かいんだよ役立たず。腕力要員で実姉連れてくって恥ずかしくねーのか」

 「水族館に連れてってくれる優しいお姉ちゃんが欲しかったですまったく」

 「ヘラって自殺するような姉がか?」

 「姉さんは死んでも自殺なんてしなさそうですよね」

 

 思えば、こんな口を聞こうと思ったことはなかった。相手のことをどう思っているか伝えることには、常に関係が集結する危険が孕んでいると、思っていたから。今は、そうは思わない。冗談は冗談で、本音は本音。誤解が生まれたのなら、弁解すれば良い。

 姉さんは、目を丸めて、それから、周りを見て少し声のトーンを落として。

 「気持ちがさっぱり分からんし、止める義理も無いと思ってるよ」

 「でも止めるのに着いて来てくれるんですもんね、やっさしー……ごめんなさいごめんなさい調子乗りました!」

 「別にソイツのためじゃねえよ。りっちゃんのためだ」

 

 確かに律さんは陽菜子さんと関係があり、陽菜子さんが亡くなれば、心に傷を負うだろう。

 けど、姉さんの横顔は、それだけを憂慮したものにしては、険しすぎるように思えた。


────


 息が苦しくなって、目を開いた。

 《お客様の声》の紙が舞っている。文字が水に滲んで消えている。でも、私と梶さんとイルカを描いた、心がクレヨンで描いた絵は、しっかりと形を保っていた。

 

 (そういや、親らしいこと、一回は、したんだっけ)


 『人魚姫ってけっこうブラックな話よね』と、読み聞かせを終えて呟くと、心が脚を揃えて、人魚っぽいポーズを決めていて。『人魚さんはいないけど、お魚さんなら見れるわよ?』って。


 (……あー、最悪)

 心臓がうるさい。酔いが醒めた。これじゃ、今は死ねないよ。

 

 給水の勢いで端に流されているのもあり、水槽の壁の強化ガラスが頭のてっぺんに当たっている。上手くやれば、水槽の淵を掴めそうだ。掴めれば這い上がって生き延びられる。しかしどうにも、仰向きのままでは難しそうだ。逆上がりの要領で水中の身体を引き上げるほど、私の肩は強くない。


 (一瞬身体を縦にして、順手で水槽の淵を掴めばいい。そろそろ息が苦しいし、頭を水から出さないと)


 足を縛っている以上、立ち泳ぎでバランスを取ることはできない。空気を補給するチャンスは一瞬だ。息を全部吐ききって、新鮮な空気を吸う準備を整える。腹に力を入れて、勢いよく身体を回転させ、水中から顔を出して、思い切り息を──

 

 

 ──口の中に、ぬめった水が入り込んだ。

 

────


 「んで、なんで自殺だって思ったんだ」

 

 エコロから借りた鍵を使って中へ入るも、彼女の家に陽菜子さんはいなかった。僕が別の場所を探すべきかと迷っていることも知らず、姉はリビングのソファーにどかっと身体を投げ出して、大して興味もなさそうに僕に問う。僕は、人差し指を立てる。

 

 「水族館で彼女が倒れたとき、救急隊への身元の証明のために財布を覗きました。そこで改めて、彼女が死んだと思われていた陽菜子さんだと明らかになったのですけれど、両親の仕送りで生活しているからでしょうね、現金がさほど入っていなかったのです。最近入院したので分かるんですが、あれはギリギリ一日分のベッド代を賄えるかどうかという額です。そして、彼女はキャッシュカードやクレジットカードの類を一切持っていませんでした」

 「良い年こいた大人がか?」と吐き気を堪えたような顔。

 「一応、エコロの妹として、徹底して中学生として暮らしていたからでしょうね。ご両親からの仕送りを管理するキャッシュカードを持っているのはエコロです。自由に動くには金が必要ですが、葬式を開いてしまった今、陽菜子さんに金を無心できる友人はいません。エコロに頭を下げられるとは思えませんし、金貸しを頼る気力も無さそうです。そうなったとき、自死が頭をよぎります」

 

 「損な性格だな」

 ひとことで雑に総括して、姉さんはテーブルの上のたまごボーロを勝手に開けて、口に注ぎこむ。咀嚼して、飲み込んで、真っ黒なシャツの袖で口を吹いて。

 

 「場所はどう絞った。テメーの見立てじゃ、この家と水族館の二択なんだろ」

 「己の生の幕引きは、劇的にしたいものでしょうから、エコロか水野さんに爪痕を残せる自宅が水族館にヤマを張りました」

 「んなしょーもない思考をトレースされた方がよっぽど死にたくなりそうなもんだけどな」

 

 確かにしょうもない。こうしているうちにも、高層ビルなりなんなり関係ない場所で身投げしている可能性もある。僕は靴を履いて、背中の姉さんに声をかける、数年ぶりの、頼み事だった。

 

 「ここで待っていてもらえますか。陽菜子さんが来たら取り押さえて、連絡してください」

 

 無視される可能性もあると思っていた。実際は、「おう」と短い返事。ドアを開けると、背中から声がかかった。


 「ま、気負うなよ。外したら外したで、テメーのせいじゃない。大人にもなって自分の足で歩けねえ奴が悪いんだ」


────


 (紙、が、口に……!)


 水を吸った手紙が顔に張り付いて、充分に息を吸えぬまま、再び顔が水中に沈む。クレヨンの油の味がした、なんて考えるのも束の間、水を飲まないように閉じていた口が開いて、ぬめぬめした水が口に入る。思わずえずくけれど、それで空気が入ってくるわけじゃない。今大事なのは体制を立て直すこと、なのに、パニックになった身体は次から次へと、息を吸うための行動を始める。


 手が水槽の壁を擦る。つるつるとしたガラスの壁に、掴まる場所は見当たらない。息が漏れる。喉が締まる。


 ──『水族館の水槽はね、大量の水の重さに耐えられるように、頑丈な作りなの。それこそ私が全力で殴ったってびくともしないわ!』


 走馬灯だと言うかのように、現れた律を振り払うように、やけになって腕を振り回すけど、水中で勢いを殺された拳は、むなしく空を切るだけ。


 待って、わたし。

 ほんとに、死ぬ?


 (いやだ)


 報復だとかなんだとかって、さっきまで他人のことばっか考えてたのに、今は自分のことしか考えられない。死にたくない、死にたくない。爪をガラスに突き立てる──刺さらない。当たり前。空想の自分はなんでもできそうだけど、なんにもならない。


 私は、ここで死ぬ。


 (いやだ!!)


 朦朧とした意識の中で、誰も来るはずがないと分かっているのに、短い腕を必死に伸ばす。こんな気分のままで死にたくない。後悔のさなかで死にたくない。

 

 空気が、口から泡になって水面に逃げてゆく。酸素が無くなって、脳の思考するスペースがどんどんどんどん狭まって、嫌だ、くるしい、うごけない、さむい、こわい、いたい──

 

 (──さみしい)


 どうせ死ぬのなら、せめて、だれかと、いっしょに。

 

 

 

 そう、思っていたからなのだと思う。水の中で、声が聞こえた。

 

 『落ち着いて』

 

 身体というのは現金なもので、苦しみから逃れるためなら何でもする。都合のいい幻聴が聞こえて、ちょっと笑ってしまった。泡が口から、わずかに漏れる。だってさ、ありえない話だよ。散々苦しめて、ずっと騙してきた妹が、助けてくれるなんてさ。

 

 『大丈夫だから、助けるから。手を、めいっぱい伸ばして!』


 私は、この日のことをよく思い出す。誰にも言えず、胸にしまった、己の生き汚さを省みる。助けは間に合っていた。あれほど痛めつけたはずの妹が、私を生かすために、私が伸ばした手を取ってくれていた。それを、私は信じられなくて、幻聴だと、幻覚だと決めつけた。


 最期くらい、それも夢ならば、甘えたっていいかと。



 ──その手を、水槽の中に引きずり込んだ。

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