現行犯逮捕
「……懐かしい夢を見た」
今朝見た、小学生時代の夢を思い出して、ぼうっと物思いに耽る。6時間目の物理が終わり、教室は解放感に満ち溢れ、俄かに騒がしい。あの日の最後の時間もそういえば理科だったな。昔は実験とかよくしたものだけど、高校生にもなると計算ばかりで嫌になる。
季節は晩春、初夏、6月の終わり。梅雨真っ盛りであるはずが、雨が少なく陽射しは強く、そのくせジメジメしているものですから、どうにもバテてしまう今日この頃、学生生活はつつがなく進んで、クラスメイトにも仲良しグループが、いわゆる《イツメン》が出来て来た頃合いです。僕はというと、昔得た縁に頼るばかりで、どうにか新しい友達が欲しいと思っています」
「アテレコやめてください」
「んふふー」
後ろを向けば、エコロがいた。水色のワイシャツは半袖になり、パーマのかかった前下がりショートは湿気で少し萎びている。けれど髪とは対照的に、表情はカラッと元気いっぱいだ。朱色のリボンが良く映える。悪戯を済ませて上機嫌なまま、くるりと席の正面に回る。
「インチョー、放課後時間ある?」
ついさっき聞いたような文句に、僕は顔を強張らせ、彼女の紺の通学カバンを盗み見る。あの銀色のスマートタグは、もうついていない。
「……聞きたいことがあるのですけれど」
エコロは「うん」と答えて、僕の言葉を待つ。夢の中で見た記憶のエコロが、言っていたこと。
「耳が聞こえないのではなかったのですか?」
「……二ヶ月経って今更!?」
どんなことかと思えば、と肩をすくめて、「あとで教えるよ。で、放課後空いてる。インチョーに会いたいって人がいてさ」と、僕の背後を指さす。再び後ろを向けば、そこには小さな女の子がいた。
170センチほどの平均的な僕の身長より頭蓋一つ分低いエコロの、さらに頭蓋一つ分低い。ざっくり150センチくらいだろうか。黒髪をばっさり肩と目のラインで切ったぱっつんとした髪型で、目元がよく見える。
教訓を生かしてまっすぐに目を見つめる。目つきが鋭く、第一印象は機嫌が悪そう。そんな彼女は急に紹介を受けてびっくりしたのか、一瞬目を逸らした。けれどすぐに視線を戻して、「いや、別に会いたいわけじゃないけど、頼みたいことがあって」
「バレー部の方ですよね。たしか、藤枝京子さん」
「……自己紹介、全員分覚えてんの?」
だいたいは、と頷くと、「なるほどインチョーって感じだ」とげんなりした顔をされた。
話の流れからして、エコロとの会話で僕のことは事前に知ってくれていると考えていいだろう。「それで、頼み事とは」と問うと、京子さんは少し溜めを作ってから。
「心のこと、今日の放課後いっぱい、余計なコトしないか見張っておいてほしい」
エコロにじとっとした視線を送ると、彼女は他所を向いて冷や汗を垂らし、口笛を吹いている。京子さんはエコロの傍に移動して。「紛らわしい真似しないの」と頭をペしっと叩く。
「あの、どういう?」
「別に心が何か悪いことしたんじゃないのよ。一応確認っていうかさ」
京子さんは頭の後ろで腕を組むと、滔々と説明を始める。
「言う通り私、この身長でバレー部なんだけど。最近、練習中に声が聞こえるの。下手くそ、チビ、足手纏い、さっさと辞めろ、って」
「……『聞こえる』っていうのは、直接言われたわけではなくて、幻聴の類ということですか?」
「そう。誰が言っているかは分からないけど、耳元で聞こえる……でも、幻聴だとは思いたくないのよね。私、バレーが大好きで、たった二ヶ月の付き合いとはいえ、チームメイトも好きだから。幻聴が聞こえるってことは、私は本当はそう思ってないってことでしょ。嫌なの。自分のことが信じられなくなりそうで」
「……それは」
なんとも辛いことだ、と思った。幻聴や幻覚にはあまり覚えがないけれど、自分の考えが信じられなくなる辛さは、なんとなく分かるから。
返事に窮した僕を面倒に思ったのか、ちょっと声のトーンを明るくして、エコロの頭に軽くチョップしながら、京子さんは言う。「それで私、心(コイツ)を疑ってるの」
話の繋がりがいまいち分からなくて首を傾げると、「ボクは一応テレパシー使えるからね」とエコロ。「実践してあげよー」と、両手を口の前に構え、僕に向けて筒を作ると。
『京子ちゃんが好きなのは、インチョーの4つ後ろの席の神崎くんだよ』
該当する席に視線を送る。それで察したのか、京子さんは一瞬で茹蛸みたいになって、エコロの頭をバシッッッと叩く。めっちゃ痛そう。「言うなよ」と僕を睨むので、両腕を上げた。降参、降伏。
────
『とにかく、インチョーくんにお願い。今日練習あるから、その間コイツがテレパシー使いに体育館来ないように見張っておいて。いいね』
6月の終わり、晩春、初夏、ともかく日が長い。夕方の日差しを浴びながら、僕はエコロを監視する。言っても目の前に人がいる状況で、スマホを開く気にはなれない。必然、会話になるし、必然、京子さんの話になる。
「中学の頃の友達でね、インチョーの話をたまにしてたから、一方的にキミのことを知ってる。優しい子でね、ボクが能力を大っぴらにしたくないのを気遣って、わざわざ能力のことを知ってるだろう人から見張りを探してくれたんだ」
僕も倣って、京子さんの話をすればよいのだけれど、それよりも、サラッと何気なく明かされた能力の方が気にかかる。
「……テレパシーって言いますけどどうやってるんですか」
「ん?」
「動物と話せるっていうのはもうそういうもんだって理解を諦めたんですけど、テレパシーに関しては僕の脳に直接干渉してるとかなんですか。こちらに聞こえている以上、『貴女の体質が特殊』だけでは、説明がつかないような気がして」
そう言うと、ああ、と生返事して、ガサゴソ通学カバンを漁る。取り出したるは、一冊のノート。少し読んで、すぐにカバンに戻す。なんですかそれ、と聞く気は起きなかった。説明を始めるらしいから。
「テレパシーって要するに他の人に聞こえないように意思伝達ができれば良いわけでさ。正確には正面にしか飛ばない声を作ってるだけなんだ」
そう言うと、パクパク口を動かしつつ、指文字で僕にメッセージを送る。『真ん前来てみて』
半信半疑で指示された場所へ向かう。すると、『聞こえたら右手を挙げてー』と、さっきと同じような声が聞こえる。なんとも不思議なもので、右手を挙げつつ正面から離れると、声はすぐに聞こえなくなる。右手を降ろす。正面に行く。聞こえる。手を挙げる。何回かやっていると、『もういいかな』と聞こえて、慌てて往復をやめる。
(確かに、『正面にしか飛ばない声』だ)
エコロはにっこり笑って、こう続けた。
「仕組みとしてはね、まっすぐ飛ぶ超音波でうなりを作ってるの」
うなり。
そう言われてパッと思いつくのは、吹奏楽のコンサートでチューニング(音程合わせ)をするときのこと。
「うなりってあの楽器の音程がズレてる時にうぉんうぉん言うあの?」
「そうその。2つの楽器の音程が近くて、でも違う音が重なった時に、2つの差の周波数の音がうぉんうぉん言うやつ」
例えばエコロが前に車椅子に座ったお婆さん、コノオさんから貰ったピッコロを例に出そう。あの手の管楽器は、気柱の共鳴を利用して音を出している。指の位置によって気柱の長さが変化して、音の高さが変わる。
それはつまり、音の高さを決めるのは気柱の長さなので、『楽器の状態や指の置き方によっては、同じ運指でも微妙に音の高さが変わる』ということになる。みんなおんなじように『ド』の指で吹いても、微妙に音程が違うのでうなる。それが合奏においては致命的なので、音程をひとつに揃えるため、チューニングの時間があるのだ。
「さて、じゃあその2つの楽器の音程が超音波だったらどうなると思う?」
2つの音は超音波で、人には聞こえない。でもその周波数の差でできるうなりの音は可聴音だから──
「……うなりだけ聞こえる?」
「そうそう」とエコロは頷く。
「2つのまっすぐな超音波が重なる場所だけでところだけでうなるから、正面のうなりが届く場所だけで声が聞こえて、それ以外の場所じゃただの超音波だから、聞こえないってわけ。これがボクのテレパシーの仕組み──思念波とかエスパーの類じゃないよ。ただ範囲を絞った音を作ってるだけ」
「作ってるだけ、って言いますけど。まず超音波を意識的に発せる時点でおかしい気が。喉にスピーカーでも埋め込んでるんですか」
「こればっかりはそういう体質としか。京子ちゃんみたく柔軟に行こうよ」
いやまあ、京子さんはすっごいナチュラルに受け入れてるけどさ。僕がおかしいのか?
そう思っていると、耳元から音が聞こえる。テレパシーと普通に喋るの、距離感に結構違いがあるな。
『ついでに、今朝話した耳が聞こえない件についても教えておこう──超音波然り、ボクは人に聞こえない音が聞こえている。それは裏を返せば、インチョーが聞こえないような雑音に常に晒されているということでもある。だから、他人の声は完全に聞こえないとは言わずとも、聞こえにくい。地下鉄に乗ると走行音で隣の人の声聞こえないじゃない、あんな感じ』
「そうは言っても今は完璧に話せてますよね?」
『ちょっと聞こえてるぶんと読唇術の合わせ技。努力の賜物なのだよ……ということで、唇が見えるように喋ってくれないと聞こえないから、よろしく」
声が遠くに行った。テレパシーを途中で解除したらしい。僕は改めて、京子さんの依頼の意図を考える。
「エスパーと違ってこれをやるのなら、その場にいなくちゃですよね。それで京子さんは貴女のテレパシーによる人為的なものか、傷心による幻聴かを確かめるために、僕に教室で見てろって言ってきたワケですか」
「一応誓わせてもらうけど、やってないよ」
「そこはまあ、そうだと思います」
ということは、今日幻聴が聞こえたなら、それは精神の悲鳴ということになる。
「幻聴の原因が貴女のテレパシーじゃないって分かったら、彼女、どうするんでしょう」
エコロは「辞めると思う」とバッサリ切った。
「中学のとき同じソフトボール部でさ。あの子身体が小さいから、守備がそこまで得意じゃなくて、それでいろいろ言われてた。ひょっとしたら、バレーが好きっていうのは自分に言い聞かせてるだけで、なんとも思ってないようで気に病んでるのかもしれない」
エコロは立ち疲れたのか、僕の後ろの席に座る。その席の子が戻ってきたらどうしよう、とも思ったけど、よく考えたらその子もバレー部だったな、と、杞憂を頭から追い出して外を眺める。わあわあと、サッカー部だろうか、シュートチャンスをものにした歓声が聞こえる。僕だったら、盛大に空振りそうだ。
理性と反射的な思考の不一致の辛さは、なんとなく分かる。目の前にいるのは京子さんではなくエコロで、苦しんでいる当人ではないのに、かける言葉が見つからない。気まずくて、僕は机に突っ伏した。顔だけ正面に向けてエコロを見ると、彼女は僕の背後を見上げている。まるで2メートルの雪男でもいるみたいな首の曲げ方だ。
僕は察して、頭を守る。
「ゴードnうげぇ」
「なんだお前ら、辛気臭いな」
どん、と背中を叩かれて、呻きつつ後ろを振り返れば、予想通り本当に雪男。毛深く剛腕で、白のワイシャツがパッツパツの筋肉マッチョが、相対的に小さく見えるビデオカメラを抱えて見下ろしている。
エコロは面識が無いようで、クエスチョンマークを頭に浮かべている。
「あり、インチョー帰ってきたばっかでもう仲良し?」
「帰って来たばっかでって。二ヶ月もあったら一人くらい友達出来ますよ。あとこいつは幼馴染です」
「アドバンテージが……」
「別に奪らねえよ。俺が撮るのは写真だけ」
「上手いこと言ったみたいな顔やめてください」
おどけてみせたゴードンに、僕はついつい笑ってしまう。まだ、言葉に詰まると、後ろめたさを感じて目を合わせられなくなる。自分が情けないけれど、正直、来てくれて助かった。
エコロはゴードンのカメラに興味津々だ。「何の写真? 見たいなー」とカメラに腕を伸ばす。ゴードンも乗り気なようで、僕らに向けてビデオカメラの画面を向ける。見せてくれるらしい。「写真っつっといて実際は動画なんだけどな。題して、『校庭の一日』。今度のコンクールに出展すんだわ」
彼のビデオカメラに映るのは、上空から校庭を見下ろした動画だった。体育の時間には統一的な色の体操服を着た集団が、休み時間には学生服の集団が、放課後はユニフォームの色が複数入り乱れて、サッカー、野球、ラグビー、ドッヂボールと、様々な球技を遊び、夜になると、警備員の懐中電灯が通る。
なるほど確かに、校庭の一日。僕はほう、と一息ついて、ゴードンに向けて感想を漏らす。
「……これって、肖像権とか大丈夫なんですか?」
「最初の感想それかよ。映った生徒全員に許可聞いて回って、ダメなやつにはモザイクかけてるから大丈夫」
とんでもないバイタリティだ。相変わらず我が幼馴染は気力に満ちている。
「この車椅子のおばあさん、見覚えあるんですけど……でこの男の子はなんで鯖渡してるんですか」
「近所で有名な痴呆婆さんでな、誰かれ構わずマサちゃんマサちゃん言うもんだから、マサバって呼ばれてる」
とんでもない侮辱行為だ。相変わらずコノオさんはなんなのか分かってないみたいだし。
「さすがにカットする予定」
だろうよ。ちゃんとクーラーボックスに入れてるのは好感が持てるけど。
(さて、ここまで言ったらエコロの番)
話題を振らねばとエコロに感想を求めようとして見るも、彼女は熱心に二周目をじっと見ていた。軽く手を振っても無反応だ。仕方なく、僕は質問を続けることにした。実際、さっきから気になっていたのだ。
背景で聞こえる、ボールが床にぶつかった乾いた音や、室内に反響する大声は、画面に映った校庭からのものではない。
「……背景音が明らかに体育館なのは、何か表現の意図があるんですか?」
「撮影場所が体育館だからだな。ぶっちゃけ高所から校庭撮ろうと思ったらそこしかなかっただけだけど、何かいい感じになったから狙ったことにしておく」
怪我の功名、と呟いて、エコロの方を再びチラ見。エコロは未だ画面に夢中で、話題に入ってくる様子がない。小学校のときに戻ったみたいだ。ゴードンはそういう印象がないみたいで、ちょっと引いている。
「心はなんか感想ねえか。こいつネガティブなフィードバックしか寄こさねえから、俺の精神衛生はお前にかかってるんだが」
「エコロ?」
彼女は僕たち二人のことなんか視界に入っていないみたいで、ビデオカメラの近くで耳をそばだてている。今度は横を向いて、画面を一切見ていない。
かと思えば急に立ち上がって、僕たち二人の腕をそれぞれ掴んで、引き摺るようにして教室の外へ出て、そのままどこかへ歩みを進める。大した力はないけれど、力比べをする気も無いので、当惑しながら大人しく引きずられてゆく。ゴードンも同じみたいだった。顔にクエスチョンマークを浮かべ、僕に向かって首を傾げる。
「ゴードン君、カメラ、体育館のどこに置いてたか覚えてる?」
「いやちょっと待ってくださいよ。体育館に行かせないように見張るのが僕の仕事なんですけど」
エコロは完全に僕のことを無視して、ゴードンを見つめ続ける。ゴードンは僕とエコロを交互に見ると、「後で説明しろな」とだけ言って、エコロの手を払って早歩きで歩を進めだす。エコロも、僕の腕を放して、それから思い出したように振り返る。
「インチョーも、後で説明するから。京子ちゃんにはボクが言っておくから大丈夫。着いて来て」
体育館には、合計6つの入口がある。校庭側から入る2つ、廊下側から入る2つ、下駄箱側から入る1つ。下駄箱側の、階段上がってもう1つ。上の入口は2階席へ入るための入口だ。
エコロは下駄箱から階段を駆け上がって、2階席へと入る。清涼スプレーの香りと熱気が顔に押し寄せるのをものともせず、ゴードンに目配せする。「どこ?」と言っているらしい。
「ビデオカメラを置いていたのは一番奥だ。校庭側の窓の手前に三脚あるだろ」
らしい、というのは、僕は2階席入口手前、エコロはカメラの位置、つまり一番奥、そしてゴードンはその間に、それぞれ立ち止まっているからだ。ゴードンの声はギリギリ聞こえるが、エコロの声はもはや聞こえない。
「京子さんは──「やる気あんの!?」おわびっくりした」
約束を破ったのが気が気でなくて京子さんを探せば、空耳では全くもってない怒声が聞こえて、思わず身体を強張らせる。大きい音は苦手なんだ。その方向を向けば、背の高い赤いジャージの上級生が肩を怒らせ、その人より頭ふたつ分ほど小さな緑色ジャージの女の子が、目元を腫らして縮こまっている。ときおり肩を震わせ、嗚咽しているように見える。その胸元には《藤枝》と書いてある。京子さんだ。
エコロに向かって手振りで京子さんの位置を示すと、彼女は頷き、悲しそうに眉を寄せる。
説教から解放されて試合に混じった彼女のプレーは、酷いものだった。
レシーブではボールが来ないのを祈るかのように縮こまり、トスは常にお見合いを警戒して動き出しが遅れ、そんな調子だからセッターからボールを上げられることはなく、スパイクへの参加はゼロ。僕は運動音痴で、運動部にシンパシーを抱くことなんてな生涯ないだろうと思っていたけど、何があるかは分からないものだ。
そして、何より、サーブだ。バレーボールではポジションが得点のたびに変化し、一定周期でサーブをせねばならなくなる。その順番が近づけば近づくほど、京子さんの呼吸は荒くなる。いざその番になると、彼女は出来る限り早く終わらせようとしてか、準備を碌に整えずボールを投げ上げて。
「……見てられねえな」
京子さんが腕を振るより早く、ゴードンが小さくぼやく。スポーツ万能な我が幼馴染は、先んじて結果が分かってしまったらしい。手のひらが当たらず指先だけが掠ったボールは低く飛んで、コートを二分するネットの真ん中にかかる。赤いジャージの先輩が、舌打ちして──
『下手糞。辞めちまえチビ』
──罵倒が、男の声が、耳元から聞こえた。
『インチョー、聞こえたの?』
突然の音に身体を跳ねさせたことに気付いたのか、エコロがテレパシーで聞いてきたので、2階席の奥に頷きを返す。右手に見える練習風景をよそに、エコロがゴードンを連れて駆けてくる間、僕は考えを巡らせる。
(僕が聞こえた以上、幻聴ではありえない。かといって、エコロでもない。さっきの罵倒は両耳から聞こえたけど、エコロのテレパシーは左耳から聞こえた。そもそも、男の声だった)
つまり。
「これで分かったね。下手人の位置が」
エコロは初めから分かっていたのか、怒り心頭で腕を振り回す。今から殴り込み、といった具合だ。だってそうだろう、聞こえた結果、導き出される答えは──
『エコロと同じ能力者が、違う場所に潜んでいる』ということなのだから。
────
練習が終わって、ボールが跳ねる音やシューズが擦れる音は聞こえなくなった。6月末の日は長いとはいえもう19時、下駄箱から差していた日の光も、今やすっかり無くなった。京子さんは帰り際、こちらに気付いて思い切り睨んできていた気がする。監視の役目を放棄した件について、何と言われるか今から憂鬱だ。
さて、僕とエコロは、1つしかない2階席の出口にいる。犯人を待っているのだ。解放されっぱなしの出入り口の両横に隠れるようにして、僕たちは犯人を待っている。逆サイドのエコロを見ると、僕と同じように緊張しているようだ。
心臓の音がうるさい。ゴードンは帰ってしまったから、いざという時頼れない。ちくしょうやっぱり部活終わりまで待とうなんて言うんじゃなかった。そんなどうしようもない愚痴を脳内でぐるぐる回していると、大柄なゴードンではありえない身軽な足音が、コツコツ聞こえる。
(──来る!)
エコロより小さい男の子が顔を出す。彼は僕たちに気付くとぎょっとして、足に力を込めて走り出す。
僕の手は空を切った。対してエコロは、その子の小柄ながら筋肉質な腕を、躊躇なく掴んで、留めることに成功した。
「趣味が同じ女の子に嫌がらせするのは楽しかったかな。えーと……」
「石山宏伸くんです。自己紹介で、小さいけどバレーが好きだと言っていた」
出席番号順で僕の直後に紹介を終えた彼のことは、『小さいけど』とつける必要があるのだろうか、と疑問に思ったこともあり、後に京子さんが似た境遇でありながら、そうした修飾をつけなかったこともあり、印象に残っていた。
石山君は、それを聞くと、「話が分からん。触んな」と、不快感を露わに腕を払おうとする。けれどエコロに遠慮してか、実はエコロの力が強いのか、払うことはできないようだ。
対してエコロは、呆れた表情で。
「しらばっくれるなら、君のやったことを暴こう」
そう言って、体育館に視線を送る。
「最初に幻聴が聞こえたのは、今からおよそ一時間前。ボクらはあの後ずっと練習の様子を見ていた。京子ちゃんの様子がおかしくなったのは、サーブの瞬間然り、『ゲームが開始する、皆が止まっている時』だった。幻聴は、その時にしか聞こえていなかった──キミは、その時にしか攻撃を仕掛けられなかったんだ。動きの激しい中仕掛けたら、ほかの人に聞こえてバレる恐れがあったから」
「だから何だよ、攻撃って──」
「インチョー、ボクが握ってる方の腕に持った紙袋」
指示を受け、心が痛みつつも紙袋をひったくる。中に入っていたのは、蜜蜂の巣のハニカムみたいにびっしりと、小型の円盤が基盤に張り付けられた、エコロ曰く、スピーカー。
「タネは、キミが今持ってるスピーカーにある。それは、超音波のうなりを利用して、特定の範囲にのみ音を聴かせるスピーカー。パラメトリックスピーカーだ」
──『それで私、エコロを疑ってるの。テレパシーを使えるから』
──『超音波でうなりを作っているだけだよ』
なんとまあ、科学の進歩とは目覚ましいもので、すでにテレパシーは現実のものとなっている。そして奇しくも、仕組みは同じだったのだ。
「京子ちゃんの前後の人に聞こえないように、高いところから角度をつけて音波を送る必要があったキミは、2階席に潜伏し、バレー部の練習のたびに幻聴を送った。けど、結局は証拠を残してしまっていたよ」
それは、エコロがゴードンに案内を頼んだ理由でもある。
「超音波は反射するんだ。床で跳ね返った幻聴は2階へ向かい、ゴードンくんの置いていたビデオカメラに録音されていた。京子ちゃんの位置から反射角を見積もれば、キミのいる位置はわかった。わざわざカーテンに隠れてご苦労なことだよ」
とは言うものの、実際のビデオカメラの録音に、僕らが分かる形で声は入っていなかった。それでも彼女が急に体育館へ向かうことを決めたのは。
──『ボクには、動物の声が、本来聞こえない声が聞こえる』
録音にはおそらくうなりを作る前の超音波が入っていて、彼女はそれを聞き取ったのだ。
さて、石山君はタネを暴かれると、しばらく黙りこくっていた。けれど少し時間が経って思考の整理がついたのか、僕を睨みつけると、
「お前に分かんのかよ。スポーツもしてねえお前に。好きなスポーツの部活で、入る前から戦力外通告されてる奴の気持ちが。身体測定のたびに、大きく産んでやれなくてごめんって親に泣かれる奴の気持ちが」
「分からないよ。免罪符にもならない」
僕が怯むと思ったのか、エコロが代わりにバッサリ切って捨てる。そのまま僕からスピーカーの入った紙袋を取ると、つかつか彼に近寄って、そのまま「ん」と突き返した。
「……なんだよ」
「反射角で隠れていた場所が分かっていたのに、わざわざ練習終わりまで待った意味が分かるかね」
彼はその可能性に行き着いたのか、再び黙りこくった。エコロは続ける。
「学級が始まったばかりで変質者として爪弾きにされるのは嫌でしょう。キミのしたことはそれくらいに許されないことなんだけど、更生の機会を与えてやろうっていうんだ──自分から京子ちゃんに説明しなよ。何をやったか、なんでやったか、これからどうするか。許されるかは分からないけど、公衆の面前で暴かれるよりいいでしょ」
そう言って、紙袋を渡して、エコロは石山君の肩を叩く。すっかり彼女はやりとげたつもりのようで、満足感にあふれた表情だ。
一方、それを横で見ているだけ僕は、冷や汗が止まらなかった。
(……似てる)
あっけにとられた感じの、石山君の表情。現実を把握できていない感じの表情。
──『私がどんな思いで、ここまで育てたと思ってる!』
(なにか、地雷を踏んだ時の──!!)
気付いた時には、石山は右足を背中側に上げて、キックモーションに入っていた。とっさに身体を入れて、せめて彼女のことを守ろうとして、それが勘違いであったことに気付く。
彼の怒りに満ちた瞳は、僕の方を向いていて。
彼は躊躇いなく振り上げた右足を、僕のどてっぱら目掛けて、思い切り振りぬいた。
────
「助かりました。カバンの中身、大丈夫ですか……いて」
「他人の心配より自分の心配」
エコロはむすっとしながら、紺の通学カバンについたシューズの痕を手で払い、ついでに僕にチョップする。京子さんにノリが似ている。
石山君の蹴りは間違いなく僕の腹直撃コースだったが、直前でエコロがやたら重たい通学カバンを間に入れてくれたおかげで、学校の廊下に情けなく吐き戻す事態は避けられた。
その当の石山君はというと、何故だか彼のことを待つ計画が、僕発案の物だと気付いていたようで。捨て台詞を吐いて去っていった。僕はごもっともだと思ったのだが、エコロはカンカンに切れていた。
「ほんっとにムカつく。なーにが『偽善者が』だ。コンプレックス拗らせたスポーツマンの風上にも置けない陰湿野郎め。これで京子ちゃんに謝ってなかったら目にもの見せてやるからな」
ごそごそと、今しがた盾に使ったカバンをまさぐると、取り出したるはボイスレコーダー。
「……いま『どっちが陰湿だ』って顔しなかった?」
「いえ」
元気付けようとしてか、おどけた動きの彼女に苦笑いを返す。ちょっと元気が出た。
「京子さんから、事前に相談を受けていたようですから。彼女に貸し出して、幻聴を録ってもらうつもりでいたんでしょう。彼女の体操服のポケットに同じものが入ってるのが見えましたし、2階席で取り出していましたし。……ただ、スマホで事足りるものを、珍しいなと思いまして」
よく見てるねえ、と頬を掻く。
「動物園の時に察しただろうけど、ボクスマホ持ってないからね。連絡は公衆電話」
それで、会話は終わった。どちらともなく立ち上がって、無言で下駄箱を後にする。中庭を通って、街灯が照らす一本道を通って、家路につく。校門を出れば、僕たちの家路は逆方向だ。何か話すなら、その間だけ。
口を開いたのは、エコロだった。
「……やっぱり、ヒナ姉のこと気にしてる?」
ヒナ姉というのは、エコロの姉のこと。金髪碧眼ポニーテールの、僕のトラウマを作った張本人。正直思い出したくなくて、顔を顰めた。
「どうしてそう思うんですか」
「蹴られるとき、目を瞑ってた。動物園で避け気味だった。あの時と比べて、臆病になった」
ひどい言いようだ。まるで人生の全部が、あの一瞬で歪められたかのような言い草だ。
でも、否定できるわけでもなかったから、「原因は他にもあると思いますけどね」とだけ返した。
「気にしないでね。あれはヒナ姉が悪いよ。小学6年生にあそこまでムキになって怒ることないもん」
「……そういう貴女は、もう陽菜子さんのことは怖くないんですか」
これ以上、あの人のことを思い出させないで欲しい。そう思って、放った言葉だった。その表情が嫌悪に変わることも、覚悟の上で。
にもかかわらず、彼女の表情の変化は乏しかった。小さな疑問から、小さな納得が生まれた程度の変化だった。
「そっか。引っ越しちゃったから、知らないんだね」
気付けば校門の前についていた。別れる前にと、彼女は話の続きを口走る。
そろそろ、認めないといけないのかもしれない。
「ヒナ姉、死んじゃったんだ。あの日から3日後に、交通事故で」
当時何とも思っていなかったエコロの過去は、彼女の中身の不可思議さ相応の、波乱万丈なものだったのだと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます