酔いどれ剣士と妖魔の酒姫

或る

第1話

「あぁ、くそっ。頭が痛ってぇな……」


 心地ここちよい微睡まどろみのなか。突然、鋭い頭痛を感じて、俺の意識は急速に現実世界へと引き戻された。


 朝日の柔らかい光が、色褪いろあせた狭い自室を照らしている。


 最高の朝に、しかし気分は最悪だ。


 なにせ、頭が死ぬほど痛い。


 ぶるぶるときざみに震える右手で、割れるように痛む頭を抑える。


 落ち着くために深く息を吸うと、からからののどに焼けるような痛みが走った。


「み、水……」


 部屋のすみに置かれた水甕みずがめによたよたと近づき、柄杓ひしゃくで水をすくい、口に含む。


 手が震えるせいで半分ほどこぼれたものの、喉の痛みは和らいだ。


 しかし、まだ全身のあらゆる部位が絶えず様々な不調を訴えてくる。


 ふるえるほどの悪寒、胸焼け、時おり込み上げてくる苦い胃液――


「久しぶりに、ひどいだ」


 ひりひりと痛む胸をさすりながらも、俺は少し笑ってしまった。


 酒を飲み始めて約五年が経ち、今では一日の大半を飲酒についやす日々。


 そのなかで耐性もつき、もう立派な酒呑みになれたと自負していたのだが、どうやらまだまだ未熟なようだ。


 昨晩は久しぶりの美味い酒に羽目を外し、気づけばすっかり酔いつぶれていた。


「それにしても――あの酒、ほんとに美味かったな」


 視線の先には、床に転がったからの一升徳利とっくり


 昨晩飲んだ美酒の記憶が舌先によみがえり、思わず笑みが深くなる。


 部屋中に広がる芳醇ほうじゅんな香り。上品な甘味。わずかに舌を抜ける酸味。


 今まで飲んできたなかでも、その酒は格別だった。


「昨日ぜんぶ飲んじまったのがしいな……一口ひとくちくらい残ってないか……?」


 わずかな期待を胸に徳利のなかをのぞき込む。が、案の定すっからかんだ。


 ひっくり返して振ってみても、一滴すら落ちてこない。


 飲み干してしまった昨日の自分に怒声を浴びせたくなる。


「あぁ、酒が無限にわき出る徳利とかあればなぁ」


 自分でもくだらないと思うことを、半分本気で呟く。


 部屋から一歩も出ずして酒を飲み続けられる生活。想像しただけで最高だ。


 だが現実は厳しい。酒を得るためには、外に買いに行かなければならない。


 からの徳利を意味もなくもてあそび、二日酔いの不快感をまぎらわせていた俺は、しばらくして症状が和らぐやいなや、


「よぅし。そろそろ買いにいくか」


 手元の徳利とっくりと硬貨袋を懐に入れて立ち上がり、剣を腰に引っ提げて、急ぎ足で自室を後にした。




ーーーーーーーーーー



 アングリス王国の北部に位置する、堅牢な石壁で囲まれた巨大な城塞都市――王都アルテナ。


 その石壁の内側は《貴族街》と《平民街》に区分けされている。


 その名の通り、貴族街に住むのが王族や貴族であり、平民街に住むのが商人や職人といった平民だ。


 貴族街は王国政治の中枢として、平民街は王国経済の中心地として栄えており、どちらも王国を支える重要な街となっていた。


 一方で、石壁の外側にも小さな街が一つ存在する。


 俺が住んでいるのは、その外れの街――通称貧民街である。


「相変わらず、汚ない街だな」


 土埃が舞う凸凹でこぼこの道を歩きながら、周囲を軽く見回す。


 素人が廃材で建てたような、今にも倒れそうな家屋の群れ。それらの前に、うず高く積まれたゴミの山。


 辺りを蝿が飛び回り、鼠も朝から元気に走り回っている。


 くわえて目につくのは、道端で行き倒れた人間の肢体したい


「いつ見ても気分の悪い光景だ……」


 貧民街に流れ着くのは、おもに《住民税》を払えず平民街を追い出された人々だ。


 その大半は貧民街で暮らしながらも、日銭を稼ぐために平民街へ働きに出るのだが、彼らのように働く気力すら失って貧民街で行き倒れる者も一定数いた。


 食べるものもなく、地べたに寝転がるしかできない人々。


 寝ているのか死んでいるのか分からない無表情。無造作に投げ出された手足。


 その死屍累々ししるいるいの合間をうように進みながら、俺はなんとなしに呟く。


「言っとくが、俺は同情も油断もしないぞ。」


 直後、数人の行き倒れがかすかに身じろぎをした。図星をつかれ、動揺したのだろう。


 というのも、彼らは確かに気力をなくして倒れているのだが、同時に機会チャンスをうかがってもいるのだ。


 同情して近づいてきた人を襲い、身ぐるみを剥がして奪い取る機会を――


 微塵みじんも油断ならない彼らに警戒しながら、汚い小道を足早に進む。


 酒を求めて歩き続けること、しばらくして。


「……やっと着いた」


 俺は、少しひらけた広場へと足を踏み入れた。


 貧民街のなかで、文字通り中心部に位置する広場。そこらじゅうに布張りのテントが張られ、少し良い身なりをした人々が所々に座っている。


 ここは、端的に言えば《市場いちば》だ。しかし、普通の市場ではない。


 食品や生活雑貨といった品物は、この場所ではほとんど需要がない。


 王都に住めなくても、王都に入って金を稼ぎ、物を買うことはできるからだ。


 代わりに売られているのは、酒、煙草、薬物――いずれも認可を受けた大商会以外の取引を禁じられている非合法物である。


 いわば《闇市》。そのなかでも特に密造酒を売っている者が多く、その独特な発酵臭は市場の入口にまで漂ってきていた。


「やっぱり、ここに来ると生き返る気分がするな……」


 息を大きく吸って、思わず笑みを浮かべる。鼻を絶えず通り抜ける酒の匂い。まるで酒池に飛び込んだかのような気分だ。


 その心地よさに少しひたってから、俺はある一つの露店へ歩きだした。


 店の前で品物を並べるのは、特徴的な赤髪を一つにたばねた若い女だ。


 彼女は俺に気づくと、真っ赤な口紅に彩られた口許くちもとをほころばせた。


「あら、グレンじゃないの。今日は早いわね」


「よう、アマンダ。まあ、たまには朝に動かないとな。健康的だろ?」


「驚いた、あなたでも健康なんて気にするのね」


 俺――グレンの軽口に、赤髪の彼女――アマンダは肩をすくめ、皮肉で返す。


「ひどい言い草だな……それで、最近の調子はどうなんだ?」


 すると、彼女は自慢げな表情を浮かべた。


「おかげさまで、売行きは好調よ。うちの果実酒が売れない日はないわ」


 そう。アマンダは、闇市でも有数の《果実酒》を作る酒売りだ。


 平民街の市場で厳選した旬の果実を使っているという彼女の酒は、すっきりとした味わいが特徴で、くせがなく飲みやすいと評判だった。


 彼女の酒は、味が季節によって変わるのも客受けが良かった。


 かくいう俺も、最初に飲んだ酒はアマンダの果実酒である。現在まで続く酒浸り生活は、彼女の酒から始まったわけだ。


 ただ、今日この店に立ち寄ったのは酒目当てではない。


「いつものやつ、あるか?」


「仕入れてるわよ、今日は第一曜日だからね。ちょっと待ってね」


 そう言って彼女がテントから出してきたのは、酒――ではなく、パンや干し肉、乾燥果実などが入った大きな布袋だ。


 約一週間分の食料が詰まったその袋を俺の前に置いて、アマンダは右手をひらりと差し出した。


「はい、銀貨三枚ね」


 銀貨は、一枚でも平民の一週間分の生活費を優に上回る。それを三枚。食料袋への対価としては明らかにぼったくりだ。


 ただ、俺はためらうことなく手持ちの硬貨袋から三枚の銀貨を出し、アマンダの手に乗せ、その上で軽く頭を下げた。


「毎回すまないな。本当に助かる」


「すまない? 何を言っているのかしら、これは商売よ。しかも私は平民街で買ったモノを横流しで売ってるだけ。それだけでこんなに稼げるなんて、逆に感謝したいぐらいだわ」


 大仰な手振りをまじえて謝罪を受け流したアマンダは、一呼吸おいてから、同情まじりの声で言葉を続ける。


「それにしても、あなたはやっぱり《追放処分》を受けるような悪人には見えないわ。なにかの記憶違いじゃない?」


 一瞬、言葉に詰まる。が、俺はなんとか平静を装った。


「残念ながら、俺は確かに追放処分を食らったよ。詳細は話せないが……」


「詳細なんて興味ないわ。でもほんと可哀想よね。王都になんて」



 《追放処分》――それは、この国で極刑きょっけいの次に重い刑罰であり、実際に五年前、俺の身に降りかかった悲劇だ。


 追放処分を受けた者は、王国内の都市に住むどころか、出入りすることすらも許されない。


 つまり俺は、王国民として生きる権利を剥奪はくだつされたのだ。


 住民税など軽く払えるだけの金を持っていたが、そもそも王都に入れすらしない。移動しようにも、次に住む場所のあてもない。


 俺は行き場を失くし、気づけば貧民街へと流れ着いていた。


 そんなときに運良く出会ったのが、酒売りのアマンダだった。


 「アタシは貧民街にくわしいから」と。何も分からず途方に暮れていた俺に、アマンダは情報料を取りながらも貧民街のいろはを叩き込んでくれた。


 俺が王都に入れず食べ物に困っていると相談したときは、わざわざ個人的な食料調達を約束してくれた。


 その約束は今も続いていて、そのおかげで俺は生活できている。


 アマンダはまさに、命の恩人。食料代で多少ぼったくられるくらい安いものだ。


 それに、なにより――


「アマンダのおかげで酒の素晴らしさを知ったからな。俺は貧民街に来てよかったと思ってる」


「あら、嬉しいこと言ってくれるわね。酒売り冥利みょうりに尽きるわ。じゃあ、今日はお酒も買っていく? 今日からレムネ酒を売り始めたのよ」


「おっ、もうそんな季節か。じゃあ一本……」


 レムネは、酸味の強い楕円形の果実だ。熟成させると爽やかな甘味が引き出され、美酒に仕上がる。


 特にアマンダのつくるレモネ酒は極上で、グレンのお気に入りだった。


 その甘い誘惑、うまい営業にまんまと釣られかけたとき。


 ふと視界に、一人の酒売りが映った。


 昨日と変わらず市場のはしで、誰にも相手にされず、一人ぽつんと座っている一人の少女。


 その寂しげな姿を見て、俺はレムネ酒の誘惑を振りきり、首を振った。


「いや、今日はやめておく。他に買いたい酒があるからな」


「あら、残念。私のレムネ酒が負けるなんて。まるで浮気された気分だわ」


 よよ、とわざとらしく泣き崩れる真似をしてから、アマンダは俺の視線を追って、首をかしげた。


「えっと、あなたが買いたい酒って、もしかして――最近あそこで《妖魔》の子が売っているお酒かしら?」


 少女を指差し、怪訝けげんな顔で尋ねたアマンダ。その言葉に悪気はないのだろうが、俺は思わず顔をしかめた。


「《ヨモリ族》だろ? 妖魔は蔑称べっしょうだぞ、あまり使うなよ」


 ヨモリ族。定住地を持たず、アングリス王国領内や隣のヤヌス帝国領内を放浪する少数民族だ。


 外見が大きく異なるという理由で広く迫害されており、王国では《妖魔》という蔑称で呼ばれることが多い。


 だが、俺はその扱いが好きではなかった。


「あら、ごめんなさいね。気分を害するつもりはなかったのよ。でも、あなたも変わってるわね。あのの酒を買うなんて。ヨモリ族だし、まだ子供だし。悪いけど、物好きにしか見えないわ」


 物好き。はたから見たら、そう映るのだろう。


「俺はただ、誰が作ったかに興味ないだけだけどな。飲んだことないやつはとりあえず試して、美味かったらまた買うし、不味かったら二度と買わない。で、あいつの酒は美味かった。それだけだ」


 そう言いながら、食料袋を片手で持ち上げる。酒の話をしていたら、無性むしょうに飲みたくなってきた。酒飲みの悲しきさがだ。


 早く買いにいかなければ――渇望感かつぼうかんとともに「じゃあな」とおざなりな挨拶で会話を切りあげた俺は、


「またね、よいになることを願っているわ」


 背中からかけられたその言葉に軽く手を挙げて、孤独な少女の露店へと足を向けた。

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