第2話 新居庭直春と猫
私新居庭直春の目下に座すは、一匹の日本猫であった。ひとまず、飛び降りるのを中断して、柵の内側へと戻る。
頭が整理しきれないまま飛び降りようとはしたけれども、果たしてこの異常事態を見過ごして逝くほど達観はしていなかったようだ。
まさか、死を止める使者が人でも、天使でもなく、猫とは。
口にまで垂れた鼻水をポケットから出したハンカチで拭う。
「えっと、その、つまり」
「はっきりしない陰キャラ野郎ですね。早く言ってください。私の気分でお答えします」
「はいっ!」
焦る。先ほどとは違う種類の汗が滲む。前髪が額について、不快に顔を歪める。
何より、猫から見下される
「今、「猫から見下される自分が嫌いだ」と思おうとしませんでしたか?」
「えっ、えっとそれは」
「人間ごときが」
可愛いお口から繰り出される罵詈。
友人の田中君が聞けば、身を歪ませて頬を赤らめ蒸気をあげては恍惚の悦びを持たせていただろう。「ほっほーい!キタキター!」と。
田中君は森羅万象あらゆる存在からの攻撃を良しとする、Mの者だ。
わかろうとしたが、難しかった。
「いいですか。人間よりも」
「人間よりも?」
「猫の方が偉いのです。だから、見下すのは自然の摂理です。ご安心を」
傍若無人という言葉を知っていて助かった。
まさにこのこと。
直春は先ほどの続きを述べる。
「つまり、君は妖怪なの?」
妖怪としか思えない状況であり、何より猫の可愛らしい表情とは思えないほどの不貞腐れた表情でありあまりにもふてぶてしい。
こいつは、地獄からの使者なのか。
「この愛らしい尻尾をご覧なさい」
頭を尻尾の方にクイッと向けて示した。喋る猫の尻尾を除けば、一本の太い尻尾がゆらゆらと揺れている。
「あら、ご立派」
「そうでしょう、そうでしょう」
猫は引き攣った下手な笑顔で笑う。可愛いくは、ない。
よく見ると、尻尾は三つ編みのようになっており、スルスルと解かれていく。
「十年過ぎれば二又、三十年過ぎれば三又の尻尾。そう私こそが猫又の頂点、
「ねこ、しょう」
聞き馴染みのない名前ではあった。妖怪ということが分かり、狼狽するかと思えば反対に冷静さを取り戻すことができた。
これが精神的な異常だったら、直春は自分自身を死から遠ざけることを無意識に思っていたのではないかと、心配したからだ。自分の勇気を心配したからだ。
「ところで、そんな大妖怪さんがどうして私をとめたの?面識無いはずだけど」
「はい。関係はございません。ですが、あなたの死の理由を知る必要があります。」
「必要?どうして?」
「それはお答えできません。ですがこれだけ」
猫は、前足を器用に自らの口元に当てる。
「あなたは寿命で死ななければなりません。ざっと、八十年後あたりに」
「八十年、長いね」
現在、高校二年生の直春にとっては長い年月に感じるものだった。まだ、死までそんなに猶予があるのか。信憑性など皆無のはずの言葉が、何故かずしんと重くのしかかる。何も食べていないピンク色の胃袋が逆流し、気持ち悪くなる。
「そんなに、待てない」
「待つも何も決まっていることですよ」
「無理だ」
「無理じゃありません」
「本当に、無理なんだ」
「本当に、無理じゃありません」
「だから!」
声が消え入りそうになる。同時に、枯れていたはずの涙と鼻水が溢れ出る。
「お願いだから、死なせてくれよ」
猫と直春との間には、永遠と思えるほどの沈黙が流れた。口火を切ったのは猫。
「それでは、好きにしてくださいという他ありません」
一息の間。
「が、どうして死にたいのか最期にお聞かせください。あなたの生の執着が切れたのは何故なのかを」
私は語る。私の理由を。
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