メアリー・スーの轍

凪野 織永

王国への叛逆

 その少女はあまりに無垢で、幼く、全てを諦めて狂気に身を堕すには純真すぎた。


 目を閉じれば、いつでも幼き日の思い出が瞼の裏で再演される。穏やかで、ありふれていて、美しく思える懐かしい日々。

「ねえサンドラ、魔女ってなに?」

 十歳の少年、エクスは同い年の級友であるサンドラにそう問う。級友と言っても、世界の中でも西に位置するプロドディス王国、更にその最西端に位置する小さな農村のエクトル村では子供の数は非常に少なく、十歳の子供はその二人だけだ。

 本当ならばこんな小さな村では学校なんて存在しないはずなのだが、歩いて数時間、山の麓に降りると少し大きな規模の農村があり、そこに小さな学校の設備が揃っている。それでも生徒数は少ないので、学年なんて関係なく混合で学んでいた。

 本来ならば午前中には授業は終わって全ての生徒はそれぞれの村、それぞれの家に帰るのだが、エクスとサンドラはとりわけ優秀で、将来は農民に甘んじる事なく村を出て首都の大学で学ぶ事が期待されている。そして本人達の希望もあって、特例的に午後も授業を受けていた。

 年齢の割に賢いと言っても、エクスはまだ十歳の少年だ。その発言や疑問自体は、相応に幼い。今日学んだばかりの国の歴史の内容を脳内で反芻しながら、共に帰路につくサンドラに対して問うた。

「えーと……確か、『メアリー・スー』よりも起源が古い、って先生は言ってたよね。確か、その名前がつく前の……その魔女がいたから魔力っていう概念が発見されたりしたんだっけ」

 メアリー・スーとは、超常的な才能や特殊能力などを持った存在の事を指す言葉だ。神に愛された存在とも言われ、それ故に神の愛が由来の「苦難」がもたらされる。そしてその苦難は周囲にも及ぶので、周囲にはその災厄をもたらす存在として蛇蝎の如く忌み嫌われ、排斥されている。

 その厄介な性質の一端は、メアリー・スーは外見では判断がつかない事だ。異形そのものや異形の血が混ざった者も確認されているが、その多くは普通の人間と同じ外見をしている。傾向的には顔立ちが整った者が多いと言われているが、例外もあるので一概には言い切れない。

 そして、本人にもメアリー・スーである自覚が無い場合が多い。そもそもその言葉が意味するもの自体、簡単に区分けできるものではなく、意味するところもかなり曖昧だ。

「どっちも結構ぼんやりしてるけど、魔術を扱うのが魔女で、それを含む広義で使われる言葉がメアリー・スー、って認識かな」

 小難しい、覚えたばかりの言葉を使いながら、サンドラは足元に這っていた太い木の根を跳び越える。整備されていない獣道は非常に歩きづらいが、山奥の農村生まれ農村育ちであるサンドラにとっては苦でもなんでもない。エクスにとってもそれは同じだ。

「おれ達も、頭が良いってみんなに言われてるし、メアリー・スーだったりして」

「冗談でもそんな事言わないでよ」

「おれの家は普通の農家だけどさ、サンドラのお父さんとお母さんは結構大きいところの商人なんでしょ? サンドラも色んな才能があるんじゃない?」

「もしメアリー・スーだったら、お父さんもお母さんも、村のみんなとか、その苦難に巻き込まれて死んじゃうかもしれないんだよ? 想像でもそんなの嫌だよ」

 サンドラは幼くも将来成長するであろう美貌を窺わせる整ったかんばせを不快げに歪めて、声を鋭くした。彼女が本気で嫌がっている事を察したエクスは、そこから話題を一変させる。

「そういえばさ、今度また出かけるんでしょ。次はどこ行くの?」

 サンドラの両親は商人であり、二人が営んでいる商業は成功している。こんな辺鄙な場所に居を構えている事が不思議なくらいに金持ちだ。

 しかしそれでは仕事に影響があるのか、頻繁に村の外に出て仕事に行く。具体的にどんな事をしているのかはエクスは知らない。

 そして、その娘であるサンドラも両親についていく形で各国を巡っていた。

「次はね、南の荒野に行くの」

「荒野? あそこって国とか無いんでしょ? 砂漠しか無いって聞いたよ」

「無いけど、オアシスっていう湖の周りにだけ人が住んでるんだって。キャラバンっていう行商の部隊みたいなのがあって、お父さん達はそれに参加するんだってさ」

 南には広い範囲で砂漠が広がっており、人間が住むには厳しすぎる環境だとついこの前に学校で学んだばかりだった。しかし、エクスの中にもサンドラにも心配は一つもない。なぜなら、彼女には両親と、その両親が雇う護衛がいるからだ。サンドラにとっては、少し長めの旅行という認識だった。

「砂漠ってどんなのかなあ。砂ってあれだよね、サンドラが前書いてくれた海辺みたいな色の土だよね」

「正確にはちょっと違うけど、まあそうだね」

 十年の人生の中で一回もエクトル村から出たことのないエクスは、砂が何なのか知らない。知っているのは土や木々、山や小さな家。農村という小さな世界の中だけに存在するものだけだった。砂ですら彼は知らず、サンドラが以前海に訪れた時、手土産として描いてみせた絵でしかその存在を知らなかった。

「帰ったらまた描いてね」

「もちろん。次のおでかけの時にね、新しい絵の具を買ってもらう約束をしたの。わたし、どんどん上手になっちゃうから、エクスも勉強頑張ってね」

「うーん……おれ、勉強苦手なんだけど……」

「何言ってんの。わたしと同じくらいできるのに」

「サンドラの真似してるだけだもん。サンドラがいないとできないよ」

 エクスは村の中で賢いと持て囃されているが、彼からしたらそれは間違いだった。彼は幼馴染であり友人であるサンドラの研鑽を真似しているだけだ。そして、その模倣先であるサンドラがいなくなるのなら、それはできない。

「エクスは昔から真似っこが好きだもんね。けど、次はいつもより長くいなくなるんだから、ちゃんとしなきゃダメなんだよ」

「長くって、どれくらい?」

「わかんない。けど、しばらく」

そんな会話を交わしているうちに、徐々に森がひらけてエクトル村が見えてくる。木こりのガードナーが斧を片手に手を振っていた。

「よお、エク坊にサンドラ嬢」

「こんにちは、ガードナーおじさん」

「こんにちはー!」

 人口が百人にも満たない小さなエクトル村では、全員が顔見知りだ。ガードナーもその例外ではない。

「サンドラ嬢、またしばらく出るんだってな。準備は済ませたか?」

「済ませてるよ」

「レノのやつの事怒らせないようにな」

「うん」

 短い会話を交わすと、サンドラはまた歩き出す。

 しばらく、というガードナーの言葉に、エクスは突然不安感を覚えた。しばらくってどれくらいだろう。長くってどれくらいだろう。一週間? 一ヶ月?それとももっと長く? エクスはサンドラの手を握る。まるで、縋るように。

「ねえサンドラ、いつ帰ってくるの?」

「……わかんないよ」

 それは、サンドラ自身も答えがわからない問いだった。しかし、それに対してサンドラは苛立ちを見せずに微笑んだ。

「けどね、絶対に帰ってくるから、心配しないでよ」

 サンドラは宥めるようにエクスの頭を撫でながら、そう言った。柔らかく穏やかな笑みが木漏れ日に照らし出される。

 エクスにとって、サンドラは聡く、信頼できる友人だった。だから、彼女の言葉は無条件に信頼できるし、遺伝子に刻み付けられているようにエクスは頷くのだ。

 涙が滲んだ目を擦って大きく首を縦に振る彼を見て、サンドラは満足げに破顔した。

「それじゃ、わたし帰って準備するから。またね、エクス!」

 サンドラはそう言いながら走り出す。木漏れ日の陽だまりから抜け出て、村の中で一番大きなサンドラの屋敷へと。

 濡羽色の髪が揺れる。ワンピースの裾がふわりと舞った。その後ろ姿を見送って、エクスも同じように自分の家に帰るために歩き出す。


 翌日の早朝、サンドラの一家は誰にも見送られずに村を出て。


 その三ヶ月後、サンドラは言った通りにエクトル村に帰還した。


 ——腕一本分の骨付き肉と化したサンドラの両親と、完全に気が狂って自我を失ったサンドラが。




 屈んでいた姿勢から身を起こして、十六歳のエクス・カレトヴルッフは額に薄く滲んだ汗を拭った。

 切り揃えられたダークブロンドの髪は柔らかい髪質だ。毎日続けている畑仕事の影響で肌は小麦色に焼けており、体つきは実用的な筋肉が必要な分だけ付けられていて、細身な割に精悍になっている。凶暴な印象の吊り目は真紅の瞳を縁取っていた。

「おーいエクス、そっちは終わったか」

「終わったよ、レノおじさん」

「じゃあ休憩するぞ」

 遠くからかけられた声に応えるべく、エクスは声を張る。少年然とした雰囲気を残している声で、これはエクスのコンプレックスでもある。

 畑の外から、衣服についた土を払いながらエクスに叫んだのは、レノ・ループという名の四十絡みの男だ。紺碧の瞳が特徴的な美丈夫でありながら、村の中では珍しい未婚の男だった。

 彼が結婚できないのは、彼自身の他人との交流を好まない性質もあるのだが、それ以上の理由が「ループ」という姓にある。

「レノおじさん、それは?」

「昼飯。ちょっと遅めだけどな」

 レノが掲げたバゲット。上にかけられた布を捲ると、その下には簡素なサンドウィッチが二人分収まっている。

「ベイカーさんから?」

「ああ」

「後でお礼言っとく」

「頼む」

 短い会話を終えると、二人は地べたに座り込んだ。手を軽く拭ってからサンドウィッチを手に取って、大口でかぶりつく。見た目通り簡素で、特に感想を叫ぶほどに美味なものではない。ごく一般的な家庭料理、といった印象だった。

 エクスの家はなんの変わり映えもない農家だ。しかし、レノがたった一人で管理をしている小さい、けれども一人分には大きい畑の管理を手伝っていた。レノとはなんの血縁もないが、狭い村ならではの縁があってそうなっている。

 サンドウィッチは、畑仕事をしていたエクスとレノを慮ってか、塩分が高めになっている。その配慮を噛み締めながら、エクスは目の前ののどかな風景に目を細めた。

「お前、学校はもう良いのか」

「なんだよ、唐突に。通ってたとしてもとっくに卒業してる歳だし、そもそももう、サンドラがいないんだし」

「得意の真似か」

 エクスは、六年前のとある事件をきっかけに学校に全く通わなくなった。エクトル村の子供の中で一、二を争うほどの賢さを持っていると言われた彼だったが、きっかけがきっかけだったために特に何も言われていない。それが話題に上がると、ただ憐憫が込められた視線が彼を舐めるように見るだけだった。

 狭い村はそこが面倒だ。この村は決して悪い場所ではないし、住んでいる人々も決して悪い人々ではない。しかし、彼らの脳内で好き勝手に陵辱されるが如き哀れみだけは、エクスは嫌いだった。

「もう六年になるのか。早いもんだ」

「……そうだね」

 十歳だったエクスは十六歳になり、まだ若干のあどけなさを残した少年ではあるものの、青年に近い年齢に成熟しつつある。子供が大人になるほどの年月。それは、レノは「早い」と言ったが、エクスにとっては長すぎる年月だ。

 穏やかな春の風。乾燥した、緑の匂いを色濃く孕んだ。

「おーい、エク坊、レノー!」

 どこかから声が聞こえた。少ししゃがれた、壮年の男性の声だ。それにエクスは聞き覚えがあって、大声で返す。

「何ー、ガードナーおじさん」

「今すぐ家帰れ、サンドラ嬢がまた発作起こしたってよー」

 その知らせを聞いて、エクスとレノは一瞬顔を見合わせて、そしてすぐに立ち上がる。半分ほど減ったサンドウィッチヲをバケットに戻して布に包み、そしてその場に放置して駆け出した。

 向かう方向はレノが住んでいる、一人で住むには少々大きい家だ。村の中心部からは少し離れた位置にある。畑は森林部の中にあるので、少し遠い。近づくにつれ、そこから湧き上がるような異様な空気が肌をピリつかせた。

「————!」

 それは、叫び声だ。言葉のなり損ないのような、掠れた声。喉から空気を絞り出しているかのような、慟哭のような。聞くだけで痛々しいのに、耳を塞いでも否が応でも耳に入り込み、鼓膜を切り裂くような圧がある、そんな声。

 エクスは丘を駆け降りてレノの家の扉を押し開け、そして最奥の部屋に真っ直ぐに向かう。一歩進むたびに声は張り裂けんばかりに大きくなり、同時にその悲痛さを増している。エクスは痛ましげに眉を顰めた。

 南京錠がかけられた扉のノブを掴む。錠に鍵はついていない。これがないと、中にいる彼女がひどく怯えた様子を見せるのだ。

 エクスは部屋の中の惨状を覚悟しながら扉を開け——目の前に広がっていたのは、その想像に違わない状態だった。

 爪を立てた程度では破けないはずのマットレスは縦に裂けて中身が撒き散らされ、部屋全体を綿により白く染め上げている。枕も同様で、まるで獣に襲われたかのような有様だ。

 部屋自体は家具はごく少なく質素で、それ故に元々監獄のような印象なのだが、部屋の荒らされ具合からしてそれが覆され、雑然としつつも生活感が欠片も無い奇妙な部屋へと成り果てている。

 そして、その独居房のような部屋の主が、壁とベッドの隙間に埋まるように、縫い跡だらけの薄い毛布を纏って泣き叫んでいる姿が目に入る。

 普段はレノによって櫛を通されている、腰までの長さの濡羽色の髪は振り乱されてあちこちほつれている。棒のように細い手足は小刻みに震えていた。紺碧の色をした瞳は泥濘の中かと見紛うほどに濁りきっている。

「——サンドラ!」

 エクスは、その少女の名を叫んだ。

 サンドラ・ループ。今年で十六になる、エクスと同い年にして幼馴染の少女。かつて成功した商人の一人娘であり——六年前、両親の商業の仕事についていって南に赴き、両親の死体の一部と正気を失った状態で一人帰還した少女だった。

 完全に気が狂った状況で、両親が雇っていた傭兵に連れられて帰ってきた彼女は、叔父であるレノ・ループにより引き取られた。幸い、レノもエクトル村の住人だったため、そのままエクトル村で暮らす事になって引き離される事はなかった。

 とはいえ、その事件から六年もの時間が経過した今でもサンドラの状態は全く変わらず、不定期に発作のように発狂し、それ以外は廃人としか言いようがないような、魂が抜けたような状態になっている。

 発狂状態にあるサンドラを鎮められるのは、彼女の叔父であるレノと、彼女の幼馴染であり友人であったエクスのみだ。

「サンドラ、落ち着いてくれ。サンドラ?」

「ぁ、や、あああぁぁああ、ぉとうさ、かあさん……ゃああああぁあ!」

「サンドラ!」

 少し遅れて到着したレノがサンドラの名を叫ぶ。目の前に人間が増えたからか、サンドラは涙腺が壊れたかのように大粒の涙をボロボロと零し、抵抗するかのように手足をばたつかせた。悲鳴の悲痛さが一段増して、もはや断末魔のようにすら思える。

「サンドラ、落ち着いて、サンドラ」

「やあああぁああぁああ、ううゥウウう!」

 サンドラは獣の如き唸りをあげて、座り込んだ彼女と目線を合わせるためにしゃがんだエクスに対して手を突き出した。それは拒絶の形だが、同時に何故か助けを求めているようにも見える。

「サンドラ。大丈夫、俺はここにいる。サンドラ、俺はいなくならない」

 ゆっくりと語りかけながら、エクスはサンドラの手を握った。彼女の爪は、固いマットレスを無理矢理に引き裂いたせいか薄く血が滲んでいる。栄養不足のためか薄く骨が浮いていて、そして外に出ないため全く日に焼けずに、病的に白い肌が痛々しい。

 レノは口下手だから何も言わず、ただサンドラの背を撫でている。

 優しい声音を心がけて宥める言葉をかけ、割れ物に触れるかのように撫でる。そんな事を一時間ほど繰り返していると、徐々にサンドラの悲鳴と暴れはヒートダウンしていく。

「大丈夫、サンドラ。何があっても俺が守るから。だから、もう何も怖がらなくていい」

 そう、優しく囁く。

「エ……ゥ、す」

 エクス。彼女の口がそう動いた気がした。サンドラはゆっくりと瞼を閉ざし、そしてエクスに身を預けて寝息を立て始める。

 眠ったサンドラの体をとりあえずマットレスに横たわらせて、エクスはとりあえず息をついた。

「落ち着いたか。悪いなエクス、頼りっきりで。お前が居てくれて、こいつも喜んでるよ」

「やめてくれレノおじさん、そんな言い方だとまるで墓前みたいじゃないか。サンドラは死んでない」

「こいつの自我は死んでいるようなものだ。変わりないだろう」

「……! レノおじさん」

 エクスの咎めるような視線を受けて、レノは飄然と肩を竦めた。

「こいつの心はもう死んでいる。そうした方が、お前にとってもこいつにとっても平和で楽だ」

 その無慈悲な言葉にエクスは一瞬言葉を詰まらせて、しかし次には声を張り上げて反駁する。

「けど……それは諦めだ!」

 先ほど、サンドラはエクスの名を呼んだ。ただそう聞こえただけの勘違いかもしれないが、意味も作為も無いただの母音の連なりでしかないかもしれないが、しかしサンドラの瞳にはエクスが一瞬でも映っていたと信じたい。たったそれだけだけども、諦めたくないと思ってしまう。

 レノはサンドラとよく似た色の、しかし鋭い目を更に細めた。

「諦めなければどうする? 精神科医にでも連れてって効果も定かじゃない薬にどっぷり漬けるか? まともに言葉も通じない相手にカウンセリングでもするか? ……そんな事ができる胆力も金も設備も、俺達にはありゃしない」

 レノもエクスも、小さな農村の一農民でしかない。サンドラの世話を焼くだけでいっぱいいっぱいで、彼女を連れて下山して精神科医にかからせるほどの時間的余裕も金銭的余裕も二人にはなかった。

 サンドラの両親の遺産は、彼らが死亡した際の事件の時に高価な物が大量に入った積荷が紛失し、その損害賠償のためにほとんどが消し飛んだ。サンドラに相続される筈の分も税金でかなり減り、残っているのは雀の涙ほど。それでも一般人からしたらそれなりの額だが、治療をするには些か心許ないのではないかと思う。

 村からほとんど出た事がないエクスには、サンドラの精神がどれほどの金をかければ治るのかはわからず、またそれを本人の了承なく使う思い切りの良さも無い。本来なら彼女が持つ筈の金を不確定的なことに注ぎ込むのは良くないとして手付かずのままになっている。

「諦めろっつったって、サンドラの世話を焼かない訳じゃねえ。このまま時の流れに身を任せるだけだ」

 ただ、時間が解決してくれるのを待つ。それが一ヶ月後なのか、一年後なのか、十年後なのか、それはわからない。

「……メアリー・スーが治してくれれば良いのに」

「エクス」

 消え入るような呟きにレノは耳聡く反応し、叱りつけるような、怒気を孕んだ低い声を叩きつける。

「メアリー・スーは厄災を呼ぶ存在だ。確かに聖人気取りで救いをもたらしてくれるかもしれないが、それ以上の最悪な事態が起こるかもしれない。それこそ、この村が滅ぶ位のな」

「そんなに恐ろしいものなのか? 見た目は普通の人間なんだろ?」

「見た目が普通だからこそ恐ろしいのさ。ウイルスみたいなものだ。目では決して判別できない、そこに存在するかどうかもわからない災厄の種だ。俺はそれを身を以て知っている」

 レノは僅かに眉を眇める。

 彼は、十年ほど前までは別の村に住んでいた。

 その村は既に滅んだという話だ。それも、メアリー・スーによって。エクスはその話を小耳に挟んだ事があった。しかし詳細まで知っている訳ではない。

「レノおじさんは、どんなメアリー・スーに会ったんだ?」

「……ここで話す事じゃない。移動するぞ」

 レノはベッドの上で眠るサンドラを横目に扉を開けた。家の裏手に回り、周囲に人がいないことを確認すると、彼は訥々と語り始める。

「あいつは、あのメアリー・スーは……丁度、今のお前と同じくらいの年頃の男だった。突然あの村に現れて、最東の国に住んでいたと言っていたな」

「最東の国って、確か……?」

「滅んでいる。とっくの昔に汚染されて住める環境じゃないし、当時そこに住んでいた東洋人は皆死んだ。隔離されてる島国も人が立ち入れないせいでどうなってるかもわからん。あんなにも混じり気の無い東洋人っていう時点で、俺たちはあいつを疑うべきだったんだ。いや、あいつがメアリー・スーである事はみんな察していた。けど、楽観視していたんだ。致命的なまでにな」

 東の国はもう存在しない。そして、その失われた血を持っているらしき少年。彼は厄災の種たるメアリー・スーだったが、その村の人々は今のエクスのように寛容というより恐れ知らずだったのだ。迫害されている人種などが集まって形成された村であった事も関係していただろう。

 その少年は本当に突然、村に現れた。出現という言葉がこれ以上なく的確なほどに。この世界の理も常識も何も知らない状態で、その代わりに自分の故郷だという場所の、荒唐無稽に平和な場所の話をしていた。

 村の子供達は、その話を好んでいた。その理想郷のような場所に、自分たちの村もなれるといいなと笑い合っていた。

「そいつはやたらと才能があってな、祖先が魔女だっていう一族のマグノリアって子供に魔術を習ってた。それとセタンタって子供がいてな。二人とももし生きてたら、お前らと同じくらいだ。そいつらがそのメアリー・スーに良く懐いてた」

「もし、生きていたら……?」

 そんな、死んでいる可能性が高い事を示唆するような言い方。

 慄然とするエクスを傍に、レノは沈痛な面持ちで語る。

「村は滅んだ。女王の軍が攻めて来たんだよ。言っただろ、迫害されてる人種が集まったって。その情報を嗅ぎつけられたんだ。俺は生き残ったアイツと……ユートと、話したんだ」

 ユート・アマタニと名乗った少年は、自分に良くしてくれた村の滅亡や、はぐれて生死不明になった子供達を想って泣き叫び……しかし、立ち上がっていたのだ。

 自分を奮い立たせ、涙を拭いながら立ち上がった。そして、冒険をする、と言っていたのだ。マグノリアが見たいと言っていた首都を見に行くと。それから、セタンタの同族にも会ってみたい、と。

 レノは、そんな彼を見て、激昂した。お前はメアリー・スーなのだと。お前があいつらを殺したのだと。

 炎に呑まれる村を指差して、あの惨状はお前が作りだしたのだと。

 お前は厄災の種、メアリー・スーなのだと。

「それから、俺は故郷のこのエクトル村に戻った。マグノリアや他の村の奴らがどうなったのかわからないが……山のように積み重ねられた、焼けこげた死体の匂いは、今でも覚えてるよ。特にセタンタのやつの死体はよく覚えてる」

 まだ六歳の少年の小柄な体は、刃先が鈍になった槍に串刺しにされていた。玩弄物のように柄が捻られた痕跡や、他にも剣に切り裂かれた跡。彼の拳は血が付着してわずかに皮膚が裂け、抵抗していた事がわかった。

 金色の髪には血がこびりついて乾燥しており、赤茶けた色に変わり果てて艶も失っていた。冷え固まった表情は苦悶と絶望の様相を呈しており、朱殷の瞳はすっかり温度を失くしていた。

 ほんの数日前まで村の中を走り回っていた少年がそんな無惨な姿に変わり果ててしまっている光景は、レノの一生のトラウマだ。

 だからこそ、そんな光景を作り上げたメアリー・スーを、ユートを赦すつもりは無い。レノの心の中には、メアリー・スーへの憎しみが染み付いていた。

「メアリー・スーの質が悪い所はな、直接手を下さずに周囲に害を成す所だ。あの村の時も、側から見た時の加害者は女王の軍だ。村の滅亡という責を他の奴に押し付けるんだよ」

 もちろん、それが必ずしもメアリー・スー本人が望んだ事だとは言わない。しかし、事実として厄災を招き寄せるのだ。本人の自覚も無く。

「……メアリー・スーを求めてはいけない。あんなの、居たって俺らが死ぬだけだ」

「……わかったよ」

 エクスはどこか釈然としないと思いながらも、ひとまず頷いた。

 レノがメアリー・スーのせいで滅んだ村を見た、だからその存在を赦せない、という話はわかった。けれども、エクスはそれにあまり納得できなかったのだ。

 必ずしも害を及ぼしてくるとは限らない。もたらしてくる益も大きいかもしれない。レノが話したユートというメアリー・スーだって、矢鱈と高い魔術適正とやらを活用することもできるだろう。エクスは魔術に疎いので、よくわからないが。

「おーい、エクスー? どこだー?」

 その呼び声は、エクスの父の声だった。

「呼ばれてるぞ、行ってやれ」

「うん」

 エクスは呼ばれている方向に走っていき、家の影から出る。

 その後ろ姿を見送って、レノは静かに壁にもたれかかった。

 手で目元を覆いながら、項垂れるように天を仰ぐ。

「……メアリー・スーは、赦しちゃいけない」

 自己暗示のように、そう唱えて。




 そこは、ひたすらに荘厳な場所だった。

 採光窓から差し込む光はステンドグラスに彩られて美しい。それに照らし出されるのはレッドカーペットに、煌めく螺鈿細工。床に刻まれた模様一つとっても目を引く。

 天井に描かれているのは、この世界の神の姿。この世界に最も多く広まっている、享楽を一義とする一神教の神の姿……の、筈だった。

 その神が描かれている筈の天井は槍や剣、矢や斧など、無数の武器が深く食い込んでおり、両手を広げている神を磔にしているかのようだった。

「……はぁ。またレジスタンスね。本当にしつこい奴ら」

 部屋に声が落ちる。少女然としたソプラノの声だ。

 声自体は、喋る際に空気に含まれる吐息も含めて、麗しく蠱惑的な美しさを孕んでいる。しかし、奥底で煮詰まっているものはただひたすらに醜悪で悪辣。何百年もかけてこの世にある全ての醜いものを凝縮したような、そんな声。少女の皮を被ったヘドロのようだ。

「いかがなさいますか?」

 問いかけの声は幼くも粛々としていて、温度の無い声。機械然としている。

「そうねぇ。ゆっくりと炙り出して……ほんの少しでも不穏分子がいる可能性があるのなら、摘んでしまいなさい」

「わかりました、そのように通達します」

「ああ、そうだ。調査は西端から行いなさい」

「わかりました。……差し支えなければ、ご理由を教えていただけますか」

 その問いかけに、女の声は鼻白む。ほんの少しだけ表情に不機嫌の色を纏わせて、しかしそれをすぐに掻き消した。

「十年前に粉瘤を摘出した時はね、一番大きな膿が北端の村にあったのよ」

「大きな膿……?」

「えぇ。ケルトイ族の大規模な集落があってね。膿の分際で抵抗されて、兵がほんの少し削られてしまったのよ! あぁ、悲劇的だわ! まぁ男だからどうでも良いのだけれど」

 ごくごく当たり前であるかのように冷徹な事を言う女に、しかし彼女に侍る人間は何も返さない。彼女の持つ酷薄さにしかし慣れきっているような態度だ。

「エルリ陛下。隣国との貿易は如何なさいましょう」

「もう良いわ。あいつらの技術は先進的で貴重ではあるけど、それだけ不確定要素も多いのだし」

 エルリと呼ばれた女の冷たい声に、レッドカーペットの傍に侍っていた男が突然声をあげた。過剰なほどに宝石や貴金属で体を飾り立てた初老の男だった。

「しかし、あやつらの技術は元々は我が国のものです!」

 男の声は広々としたホールに寒々しく響く。男を見る無感情な視線に、しかし彼は気圧される事なく続けた。

「奪い返さなくては我が国プロドディス王国が……」

 瞬間、空気がひび割れた。

 無論、それは錯覚だ。しかし、その場にいた国の要人数名とエルリの部下数名、更には武勲をいくつも掲げた護衛の騎士全員が、空気が凍って割れたような錯覚を抱いたのだ。

「プロドディス王国を『我が』などと言って良いのはわたくしだけであることを理解できないのなら、即刻この場から立ち去りなさい。男の血に興味は無いからそれで済ませてあげるわ」

 表面上はなんの変化もない声は、しかしその内側には果てしない殺意を内包している。男はそれを察知できたわけではないが、その若干変質した声を以前向けられた者がどうなったか知っていた。

「も、申し訳ありませんエルリ様! 貴女様のプロドディス王国もその人民である私達も、全てあなたの所有物です! 所有物如きが不敬な事を宣ってしまい、申し訳ございません」

 男は全身から滝のように冷や汗を吹き出させて、地面に額を擦り付ける。先ほどまでの絶対零度の空気は瞬時に暖解して、エルリは柔らかい微笑みを見せた。

「良い良い。行儀と礼儀を弁えた人間は好きよ。けれども、頭に床を擦り付けるのはやめなさいな。床があなたの老廃物で汚れたら嫌ですもの」

「も、申し訳ございません……」

「わかったからもうやめなさい。無様な姿は一瞬の悦楽を湧き上がらせるけれど、長く続けられたらただ醜いだけよ。自分が美しくあれる時間……あなたの場合ならば、道化でいられる時間かしら。それを正しく理解しなさい」

「……女王陛下の慈悲と寛大さに感謝を」

 男は頭を低くしながらも立ち上がり、それ以上は何も言わずに先ほどまで立っていた列に戻る。エルリは何事もなかったかのように続けた。

「技術を盗まれてしまったのは、本当に惜しいと思うわ。何百年前だったか、あの技術者をこの国から逃さなければ、あの技術は全てわたくしの手中にあったというのに。我が国の機械及び魔術工学が現段階よりどれほど発展していたか。それを考えるだけで口惜しくなるわ」

 エルリは演劇ぶった足取りで玉座から立ち上がり、くるりと舞ってみせた。彼女の細い肢体を飾る、シフォンがたっぷりとあしらわれたドレスが陽光に透けた。

「けれど、それを取り返すために頭を下げるようではいけないの。技術と尊厳を天秤にかけたなら、尊厳が重く傾くのは当然でしょう? 勿論、わたくしも学習をしない訳ではないわ。良いタイミングだし、新たな政策を施行するとしましょう」

「その、政策とは……?」

 エルリは妖艶に笑う。無惨さを孕んだ美しいかんばせで。

 だん、と鈍い音。エルリが床を強く蹴ったのだ。部屋自体や空気がそのまま震えて、天井で神を磔にしていた武器の一本がぐらりと揺れる。

 逆さまに刺さっていた剣の一本が滑り落ちて、刃を下にした状態で落ちていく。エルリはそれを一瞥すら寄越さずに空中で手に取った。鉄錆なのか、それとはまた別の汚れなのかもわからない、刃渡りにこびり付いた赤黒い何かを愛おしげに見つめ、そして無慈悲さに満ちた一言を言い放つ。


「我が国に巣食う害虫は、閉じ込めて燻してしまいましょう」




「お前、この村を出て本格的に剣術を習おうとは思わないのか?」

 レノが唐突にそう切り出したのは、剣術修行の真っ最中だった。

 レノはずっと昔からの習慣として、毎日農作業を終えた後に剣術修行をしている。一時期北方の村に住んでいたのも、そこに住んでいた戦闘民族に教えを請うためだと言っていた。なんでも、若い頃は首都に勤める騎士になる事が夢だったとか。

 エクスも六年ほど前からレノと一緒に剣術と体力を磨いている。その腕前はレノと同等だ。

「なんだよ、突然」

「いや、お前はその若さで俺と同じくらいの体力と筋力を持ってるだろ。騎士を目指したりはしないのか?」

「……俺は、レノおじさんの真似をずっとして来てるだけだよ。別に剣が好きな訳じゃないし、この村に骨を埋める気でいるから」

「そんな若い内から骨を埋めるとか言うんじゃねえよ。ま、今はそれでも良いかもしれんが、未来のお前がそう思ってるとも限らん。可能性くらいには考えといても良いんじゃねえか」

 レノは苦笑して肩を竦める。そしてふと木刀を振り回して、そしてその切先をエクスに向ける。

「模擬戦でもやってみるか?」

「……よろしくお願いします、師匠」

「師匠はやめろや、俺は何も教えてねえんだから」

 エクスとレノが持っている木刀はどちらも同じ長さ。レノの方が長く使っているために年季が入ったものになっているが、丈夫な造りであるため遜色はない。

 互いに剣を構え、暫し睨み合う。先に動き出したのはレノだった。

 一歩を踏み出すと同時に一息に詰め寄り、突き出された剣先。エクスは反射神経でそれを受け流して横に逸れる。隙ができたレノの脇腹に剣を叩き込もうとするが、しかしそれは容易に防がれた。

「大振りすぎる……なッ、と」

 エクスの剣を弾いて、レノはさらなる剣撃を重ねる。エクスはなんとかそれを防ぐも、攻勢に出る暇は与えられずに防戦一方だ。

 木刀の剣戟の音が大きく響く。上段から振り下ろされた一際重い一撃に、エクスは思わず刃の部分を手で持って支えて攻撃を受けてしまった。真剣だったら、間違いなく手が切れている。

 それを見てレノは僅かに眉を顰め、次の瞬間にはエクスの腹に回し蹴りを喰らわせた。威力は抑えられているものの、急所である腹への一撃にエクスは呼吸を一瞬詰まらせて、衝撃のままに地面に倒れ込む。

 無様にも剣から手を離して尻餅をついたエクスに、レノは更に木刀を突きつけた。

「っく……」

「まだまだだな。次の課題は対人戦か」

 余裕ありげな笑みを浮かべながら、レノは剣を下げてエクスに手を伸ばす。エクスは若干拗ねたような表情をしながらその手を取り、痛む腹を抑えながら立ち上がった。

「……別に、人を倒すために剣を修行してる訳じゃないし」

 年齢相応に幼く見える表情を隠す気もなく、エクスは唇を尖らせながら言い訳としか思えない言葉を吐き出す。レノは苦笑し、肩を竦めた。

「なら、なんでこんな事をしてるんだ?」

 その問いに、エクスは咄嗟には答えられずに言葉を詰まらせる。辛うじて搾り出した理由は、完全に後付けだった。

「……護身のため」

「何から身を守るって? 地震に剣を向けるのか? 津波に刃を突き立てるのか? 神じゃあるまいし、こんな棒切れ一本鉄棒一本で天災から自分の身を守れると?」

 完全に論破されて、エクスはぎゅっと口を噤む。剣技では天災は防げない。それこそメアリー・スーや魔女のよう特別な能力を持っているならまだしも、エクスはなんの才能も無い凡人だ。そんなもの、どだい無理な話である。

 むくれた顔をするエクスの額を小突きながら、レノは悪戯っぽく笑った。

「お前は護身術の意味を履き違えてるぞ。護身術ってのは人から人や自分を守るもんだ。別に護身術でも剣術でも習う事自体は悪くないが、護身術だって言うならその剣を人に振る覚悟くらいは済ませとけ」

「……レノおじさんは、その覚悟はいつ決めたんだ?」

「確か、お前より少し若いくらいの頃だな。丁度十五くらいの時にこの村を出て、北の村に剣術修行に出たんだよな」

 あの時は若かった、とレノは今になって振り返る。現在のレノは三十代後半、もう四十も近い年頃だ。そして件の北の村からレノが帰ってきたのは十年前。北の村に滞在していたのはほんの数年となる。

「その村で、護身術は役に立った?」

「全く。まだ未熟だったとはいえ、俺は誰一人守れなかったよ」

 レノはあっけらかんと答えて首を横に振る。その罪悪感もとうに噛み砕いて飲み込んだとでも言うように。

 それ以上は語る気はないようだし、エクスも変に重々しく感じる空気の中追及する事はあまり気が進まなかった。

 父から言いつけられた用を済ませると、エクスはそのまま帰路についた。木製の古びた家の一室。大柄に成長しつつあるエクスにとっては少々手狭なそこが、エクスに与えられた部屋だった。

 自室は狭いが物は少なく、生活感が薄い。衣類は畳んでチェストにまとめており、何か物を買う機会も少ないこの村では物を増やしようがなく、あとはあるのはキャビネットの上のランプくらいだ。

 木刀を壁に立てかけると、エクスは仰向けにベッドに倒れ込む。彼の体重にベッドは大きく軋んだ。

「……サンドラ」

 幼馴染の少女の名を、口の中で転がす。ふと体を起こして壁を見回すと、針で留められた無数の絵。

 六年前の事件より以前にも、サンドラは商人の両親に連れられて各国を回っていた。村から出られないエクスは、サンドラによく、村の外の風景を絵に描いてもらっていた。

 最初に描いてもらったのは、このプロドディス王国が誇る首都と、その中央で存在感を誇るウィンチェイテ城。まだ物心がついたばかりの幼い頃に描いた物なので、適当に灰色の絵の具を塗ったくった、風景画とも呼べないような落書きだった。しかしそれを描いてもらった時は確かに嬉しかったし、まだ見ぬ世界への憧れを胸の内で踊らせた事をよく覚えている。

 その次は海。その次は野原。その次は雪原。その次は異彩を持つ町。

 回を経るごとに少しずつ風景のように見えている絵は、東の危険区域の柵を描いたもの以降は更新されていない。その中に、砂漠はなかった。

 サンドラが一番最初に描いてくれた、灰色の首都の絵を壁から外して手にとる。もう十年は前に描かれた絵なので、本来は高価であるという紙はすっかり日焼けをしてしまって黄ばんでいて、絵の具は乾いて若干ひび割れている。

 こいつの自我は死んでいるようなものだ。

 こいつの心はもう死んでいる。そうした方が、お前にとってもこいつにとっても平和で楽だ。

 レノの口から告げられた無慈悲言葉。それを思い返して、エクスはひっそりと唇を噛む。

「……約束、まだ果たされてないのに」

 砂漠の絵を描いてもらうという約束が、まだ。

 しかし同時に、エクスの胸中には全く別の要因によって暗雲が立ち込めていた。

 あの時。レノに、心無いとも思える言葉を浴びせられた時。

 エクスは一瞬、反論するのに躊躇ったのだ。

 レノの言い分に納得している自分もいたから。だから、意地になって反駁する事しかできなかった。

「何やってんだ……俺」

 諦めるならばさっぱりと諦めてしまった方が楽だ。狂ってしまっているサンドラに人間性を求めるのも、彼女にとって酷かもしれない。けれども、壁に貼られた数々の風景、自分達の思い出の象徴とも言えるそれのせいで迷いが生じていた。

 どこまでもエクスは、サンドラを諦めきれないのだ。

 災厄の種とも言えるメアリー・スーに救いを見出してしまうほどには。

「はぁ……」

 絵を胸に抱き寄せて溜め息をつく。それと同時に、扉が静かにノックされた。エクスは驚きに肩を跳ねさせながら、その音に応える。

「な、何?」

「エクス? 今から村の真ん中に集まれるかしら」

「母さん……行けるけど、なんで?」

「わからないけど、とにかく集まれって。できるだけ早く」

「……わかった。今行くよ」

 エクスは訝しみながら壁に絵を留め直すと、外に出る。母は一足先に出かけているようだ。もう既に夕暮れの色に染まりつつある時分であるというのに、村では中心からざわめきが広がっていた。

 どこか異様で不穏にも思える空気に、エクスは駆け足で村の中心に向かった。木擦れのようなざわめきが聞こえるというのに、村を出歩いている人は全くいない。

 その理由はすぐにわかった。この村に住む百人前後の村民のほぼ全員が、村の中心に集められていたのだ。それも、百人をゆうに超える、鎧を纏い剣を腰に差した軍団に取り囲まれるような形で。

「おい、エク坊!」

「ガードナーおじさん!」

 木こりの中年男性、ガードナーに腕を引っ張られて、騎士に囲まれた円の中に引き入られる。エクスは状況を飲み込みきれずに目を白黒させた。

「何だこれ、どういう状況……⁉︎」

「全員集まりましたか?」

 エクスの質問を遮るかのように、突如若い女の声が割り込んだ。

 騎士の一団が、まるで海が割れるかのように動き、一本の道を作った。そしてそこから、一人の美しい女が歩いてくる。

 まだ少女とも言えるような幼さを若干残している女だ。年の頃は、十八といったところか。目付きが少々鋭く、顔立ちが整っている事も相まってきつい印象を与える。騎士団を侍らせているので女王のようにも見えるが、その衣服には華美さは少なく、どちらかと言えば女王の侍女といった雰囲気だ。

「この村の長は?」

 視線を巡らせながら、女は問う。白髪混じりの老人である村長がおずおずと手を挙げる。

「あの……二、三質問しても?」

「どうぞ」

「あなた達は、一体誰なんでしょう」

「申し遅れました。私はヴァージン。ウィンチェイテ城に住まうプロドディスの人民の女王、エルリ・ジェーベド様の使いの者です。こちらはエルリ女王の騎士団です」

 女は淡々と自分の身分を明かす。エルリ・ジェーベド女王の名前が出た瞬間、村民の全員がざわめいた。

 いくら西端の辺境の農村と言えど、プロドディス王国の女王の名前は民である以上知らないでは済まされない。

 エルリ・ジェーベド女王。今から二十年ほど前に即位した、代々女王を務めているジェーベド家の正当な後継である女王だ。その姿はメディアにも全く公表されず、その尊顔を拝謁するには謁見を申し込まねばならないが、ウィンチェイテ城の門は外部の者をほとんど通さないという話だ。

 その女王の使いが、何故こんな西端の寂れた農村に。

 その疑問に答えるかのように、ヴァージンが口を開いた。

「エルリ女王陛下は現在、この国に蔓延るレジスタンスに頭を悩ませておられます。その対策として、全国でレジスタンスと思われる存在、また今後それになる可能性のある存在、その疑いがある存在を摘発する政策を施行されました」

「レジスタンス……?」

 レジスタンス、つまり反逆者。こんな長閑な農村にそんな者がいるとは到底思えない。エクスは訝しげに眉を顰め、村民達の疑念を察知したのかヴァージンは威圧的に続ける。

「また、叛意を少しでも持っていると思しき者は叛逆者、または叛逆者の芽であると判断し、即刻処断させていただきます。また、今この場では渡しがエルリ女王陛下のお言葉の代弁者であり、私の言葉に背く者も叛逆者とみなします」

 その横暴としか思えない言い分に、村民達は一気にざわめいた。自分達は何をされるのか、何をしなければならないのか。それを想像して不安に駆られる。エクスも例外ではない。

「あの! ……それで、私達は一体、何をしたら良いのでしょう」

 村長が皆を制するように声を張り上げた。ヴァージンはその言葉に頬を緩めた。

「話が早い人は好ましいですね。私が求めるのは簡単な事です。この村全員の名前と顔などを確認させていただきます。実はエルリ女王陛下は、戸籍という制度を取り入れて税金の徴収と共に福祉が広く行き届くようにする計画をなさっています。それに必要なのです」

「わかりました。しかしこの村は村民に関しての記録が無いので、全て口頭になってしまいますが……」

「それで構いません。勿論、嘘は厳罰ですが……今ここで全ての村民の名前を列挙していただければ、この場で顔を照合しますので」

 ヴァージンは後ろに侍っていた騎士に命じて、何かのファイルのようなものを取り出させる。そこから空白の名簿を取り出して、記入の準備をした。エクトル村では紙は貴重だが、首都、それも女王の使いとなるとそう貴重なものでもないのだろう。

「それでは、思い出した順から。チャーリー・ガードナー。アバ・ベイカー……」

 この村に住む住民百人ほどの名前が、次々と列挙されていく。ヴァージンはその名前達を淡々と書き取り、村長の声とペンを紙の上に走らせる音がしばらく響いていた。

 夕日もかなり傾いて、空の半分近くが暝色に染まり出した頃。

「……エクス・カレトヴルッフ。レノ・ループ。……サンドラ・ループ」

「それで全員ですか?」

「はい」

「わかりました。それでは、まず、チャーリー・ガードナーさん」

「はい、俺です」

「年齢は」

「……二十九、です」

「次、アバ・ベイカーさん」

「は、はいっ」

「年齢は」

「二十一です」

「はい、次……」

 ヴァージンは名簿に記録した順に名前を呼び、本人の顔を一瞥して年齢を記録する作業を繰り返す。これはそこまで時間もかからず、体感の時間では一分ほどでエクスの名は呼ばれた。

「エクス・カレトヴルッフ」

「……はい」

「年齢」

「十六」

 食い気味で答えると、ヴァージンの眉が僅かに歪んだ。しばらく立たされていた不満が声に表れてしまったようで、隣にいたガードナーに脇を小突かれる。

「次、レノ・ループ」

「はい」

「年齢は」

「三十九」

「次、サンドラ・ループ」

 返事は無い。耳に痛いほどの静寂が鼓膜を刺す。ヴァージンはその柳眉を歪めて、次は少し声を強めた。

「サンドラ・ループ。いないのですか、サンドラ・ループ!」

「さ、サンドラちゃんは来れないわよ!」

 声を張り上げたのはベイカーだった。レノの家の近所に住んでおり、丁度成年の若い娘だ。サンドラに事もよく気にかけていた。

「来れない? いない、という訳では無いのですね?」

 その言い回しからサンドラは確かにこの村にいるが、姿を表せない状態である事を看破されて、ベイカーは思わず自分の口を塞いだ。しかし、発言は撤回できない。

「如何なる理由があろうと例外は認めません。サンドラ・ループを連れてきなさい」

 その無慈悲な言葉に、村民全体がざわついた。サンドラが外を怖がって全く出たがらない事は周知の事実だ。そのざわめきにヴァージンは怪訝げだった。

「悪いが、それは無理な話だ」

 声をあげたのはレノだった。ループという珍しい姓からレノがサンドラの血縁者であるとは容易に察せられたようで、身内を庇ったと判断されたのか空気が一層剣呑としたものになった。

「そ、そうよ! サンドラちゃんの状況も知らないでそんな事言うなんて、横暴だわ!」

「民のためなんて言うのならその民の心に、サンドラ嬢の心に寄り添ってやれよ」

「サンドラは外すら怖がるんだ、こんな騎士に囲まれた状況を怖がらない訳無いだろ!」

 村民達がレノに触発されたように次々と文句を叫び始める。エクスも感化されたのか、大衆の声に紛れるかのように叫んだ。そうすると、ついにヴァージンの表情が隠す気も無い怒りと嫌悪に変貌する。

「……言ったでしょう、例外は認めません、と」

 ヴァージンの瞳が妖しく光る。片手を挙げると騎士が一斉に剣を腰から抜き、刃を夕日に煌めかせて威嚇をした。明らかに向けられた敵意に、村民達は引き攣った悲鳴をあげる。

「っ……! なんのつもりだ!」

「言ったでしょう。この場において、私の言葉はエルリ女王陛下のお言葉。叛意を少しでも現すのなら、それは叛逆に他ならないのです。叛逆者には誅罰を。これもまた、エルリ女王陛下の意思です」

 つまり、サンドラを出さないのならこの場で皆殺し。

 ヴァージンは暗にそう言っている。彼女のものに加えて、騎士達から向けられる研ぎ澄まされた殺意に、エクスも、村民達も、全員が息を呑んだ。

「お前……!」

 唯一、レノだけがそれでも反駁をやめていなかった。しかし、抵抗しようにもここに剣は無い。自分達を取り囲む騎士達に対抗する手段は、皆無だった。

 万事休す、という言葉が頭をよぎる。エクスは怯えて声も出せない村の子供を背に隠した。

 ヴァージンが挙げていた手を振り下ろす。それと同時に、騎士がその剣を掲げた。振り下されている剣の速度がやけにスローモーションに見えながら、エクスは唇を噛み締める。次に襲い来るであろう痛みを想像して。

 しかし、剣は誰の身を裂く事もなかった。

「待って!」

 そう、鋭い悲鳴のような静止の声が飛んできたからだ。

「……私はここ、私はここにいる。誰も叛逆なんてしてない。だから、剣を降ろして」

 そう、いたって冷静に紡ぎ出される言葉。ヴァージンが現れた時と同じように騎士団が二つに割れて道を作り、そしてそこから、一人の少女が毅然と歩いていた。

 濡羽色の、腰まで雑然と伸びた髪。華奢な肢体と全く日に浴びていない白い肌。紺碧の瞳は、確かにそこにいる人々の顔を映し出している。

 どうして、なんて言葉は声にならなくて。

 しかし、無音の問いに答えるかのように、彼女は繰り返す。


「私は……サンドラ・ループはここにいる」




 サンドラ・ループの狂気の原因はわかっていない。

 ループ家の護衛を務めていた傭兵数人は、口を揃えてこう言った。

「砂漠の砂が突然崩れ、周囲一帯は砂埃に包まれた。ループ家の三人を守ろうとしたが、三人がいたはずの馬車は彼らだけが忽然と消えていた。その三日後、崩れた砂山から現れた謎の遺跡に捜索の手を伸ばしたところ、神への貢物を置く祭壇で、揃いの指輪が薬指に付けられた左腕二本を抱えた、血まみれのサンドラを発見した」

 まるで神隠しだ、とその話を見聞きした全員が言った。発見されたサンドラは既に正気を失っており、以前の天真爛漫で好奇心の強い、少し高飛車な十歳の少女を見ていた傭兵はひどく当惑したのだと言う。

 砂漠で行方不明になる前はいつも通りだったから、彼女の狂気の原因は行方不明になった三日間にあるのだろう。

 彼女の両親がそれぞれ左腕しか返ってこず、しかも断面から腐敗しかけていて、両親が死んだのは行方不明になってからすぐだと思われる。サンドラが負っていた傷も、何故か子供が自分で行ったとは思えない程に丁寧な処置がされていたが、それなりに時間が経っていた。行方不明になってすぐにつけられた傷だろうと推測できる。

 傷自体は、まるで故意に嬲るかのように浅く、数が多いものだったため、致命的なものではなかった。しかし、その分だけ幼い少女の心に恐怖心という名の傷を深くつけたのだろう。

 しかし、それらは状況証拠から組み立てた推測に過ぎない。何が起こったのかは当人、つまりサンドラしか知る由がなく、当の本人が狂気に身を堕したのだから、全ては闇に葬られたも同然だった。

 勿論、それはサンドラの精神が狂い続け、口を噤んだ場合の話だ。

 今こうして、彼女が自分の意思で口を開いたのなら、その限りでは無い。


「サンドラ……?」


 エクスは、呆然と彼女の名前を読んだ。サンドラ・ループ。エクスと同い年の幼馴染であり、商人の娘でエクトル村の秀才。

 六年前の一件から正気を完全に失っていた少女。

 そのサンドラが、錯乱せず、意味のある言葉を話し、何よりも外の世界に恐怖せずにいる。

 屹然と騎士達とヴァージンを見つめ、背筋を伸ばして立っている。

 その立ち居振る舞いは、エクスの風化しつつある記憶の中にある、少し高飛車だが無邪気なサンドラのものと相違ない。

 サンドラが、帰ってきた。

 六年前には思わなかった事を、エクスはようやく思える。ようやく、彼女は帰ってきたのだと思えた。

「サンドラ……!」

 涙目になりながら、おかえり、という意味を込めながら再度名を呼んだ。

 サンドラの紺碧の瞳がエクスに向き、そして一瞬だけ柔らかく細められる。しかし次の瞬間にはすぐに緊張味を帯びてしまって、眦が吊り上がった。

「私は今名乗りあげた。誰も叛逆なんてしてない。だから剣を下ろしてください騎士様、ヴァージン様」

 ヴァージンは不快げに片眉を吊り上げたが、サンドラが名乗り出た以上は危害を加える理由は無いと判断したのだろう。騎士にハンドサインをして剣を下げさせた。

「名前は」

「サンドラ・ループ。年齢は十六」

「……何故今まで外に出なかったのですか」

「外に対してトラウマがあって、出たくなかったから」

「……良いでしょう。ひとまず審議にしてあげます」

 ヴァージンはそう言いながら踵を返し、騎士を率いながら去っていく。口ぶりからしてまだ村自体から去る訳ではないようだが、ひとまず鬼門は逃れた、といったところだろう。

 村人全員が安堵に一息ついたところで、視線は一斉にサンドラへ向いた。

「おい、サンドラ……」

 レノが人混みから抜け出して、彼女に駆け寄る。

「レノ叔父さん」

「お前……心配、かけやがって」

 レノは震える声を絞り出しながら、辛うじてそう言った。顔を伏せて、しかし髪の隙間から露出している耳はほんのりと赤くなっている。

「サンドラ!」

 エクスは叫びながらレノの隣を走り過ぎ、そして昂った感情をそのままにサンドラの華奢な体に抱きついた。

「サンドラ、よかった……!」

「エ、エクス、苦しい……」

 力一杯に抱き締めるあまり、力を入れ過ぎてしまったのだろう。弱々しく背中を叩かれて、エクスは慌てて腕を放した。同時に二人の空気を壊さまいとしていた村人達も一斉に近寄り、サンドラをもみくちゃにする。

 よかった、本当によかったと、涙を流している者もいたほどだ。エクトル村は人数が少なく小さな村であるが、その分だけ個人の距離が近い村なのだ。

「サンドラ嬢ぉ! 今日は宴だな、祭りだ、村をあげての!」

 酒好きのガードナーがそう叫んだのを皮切りにサンドラの快復を祝う宴を開催しようと皆が同意し始める。常らしからぬ喧騒が村を包む中、サンドラは無言でエクスの服の袖を引っ張る。

「何だ、サンドラ」

「……家に帰ったら、手荷物をまとめて。財布とか……剣、とか」

 声を潜めたサンドラに、エクスも同じように声を小さくして答えた。

「また唐突だし、物騒だな。なんでだ?」

「荒唐無稽だし、言っても信じてくれないと思う」

「つれない事言うなよ」

「……言ったところで、エクスは責めるでしょ」

「え?」

 サンドラが意味深に告げた一言にエクスは疑問符を返し、しかし彼女は背を向けて、家の方向へと歩いていた。

「サンドラ?」

「ごめん、ちょっと疲れたから、休ませてもらうよ。日も暮れかけてるしね」

 レノに顔を見せないままサンドラは答える。促されるようにして空を見ると、もう星が瞬き始めており、夕食の支度をしなければならない時間帯である事がわかった。

「……帰るか」

 エクスはそう呟いて、踵を返す。浮かない顔をして考え込む素振りを見せているベイカーが、エクスを呼び止めた。

「なんですか?」

「いや……サンドラちゃんって、あの場に出てくるまで話は聞いてなかったのよね?」

「そうだと思いますけど。息も若干切れてたし、急いでたんじゃないかな」

 エクスが答えると、ベイカーは更に難しい顔をして口元に手を当てる。

「なんすか、そんな顔して」

「いや、ちょっと不思議だなって思っただけなんだけどさ……」

 彼女はどこか確信的に、その疑問を口に出した。


「なんでサンドラちゃんは、ヴァージンさんの名前を知ってたんだろう、って」




 エクスはベッドに寝転びながら、一つため息を吐く。

 何故サンドラがヴァージンの名前を知っていたか。もっと言うのなら、何故あんなにも状況を把握していたのか。

 まるで、何かを見透かすように。どこかからか見ていたかのように。

 あの後、当事者であるサンドラが去った事から、宴はまた明日という事になった。予定がたった一日ずらされただけなので、どこか浮ついたような雰囲気は消えていないのだが。

 自宅で夕食を腹に収めて、消化に良くないと理解しつつも寝転がらずにはいられなかった。体は普段から行なっている農作業と剣術修行で疲弊とまで言わずとも多少は疲れているし、ヴァージンの来訪により精神的疲労も溜まっている。今すぐにも眠ってしまいたい気分だった。

 サンドラが言っていた事も気になる。荷物を纏めろとは一体何なのだろうか。しかも、剣までも、とは。

 彼女の言う事だ、酔狂で言っている訳ではないと思いたいが、ヴァージンの一件より以前のサンドラの状態が状態だ。狂気の残滓が彼女の中に残っていないとも限らない。

 その思考がエクスの体をより一層重くさせて、瞼を石のようにする。一度瞬きのために目を閉じてしまえば、以降はまるで縫い付けられたかのように動かなくなった。

 そうして沈み込んだ意識の中で、エクスは夢を見た。

 誰かが笑っている夢だった。

 その者には顔も形も声も無い。文字通りの、無貌。

 空白というにはそれは不適切だ。そこには何か、あるいは誰かが存在しているというのに、まるで存在感の塊がそのまま空気になっているかのように、静かに主張をしている。

 笑む口も瞳も眉も無いのに、それは確かに笑っていた。まるで、何かの本を読んでいるかのように。確かに、笑っていたのだ。

 エクスはその無形の笑みを感じて、全身の神経が警鐘をあげるような悍ましさを感じた。

 嘲笑でも冷笑でもない、ただただ単純で純粋な笑みの気配であるというのに、生理的に拒絶をしているかのようだった。

 そうして、全身から冷や汗を吹き出しながら飛び起きた。

 きぃん、と耳鳴りがする。眼球の奥が熱を持っているようで、ぱちぱちと火花が散っているような心地がする。

 荒れ狂う呼吸を鎮めて、ようやくドクドクと音を鳴らす心臓が少しずつ大人しくなる。それと同時に、エクスは異常に気がついた。

 村が、騒がしい。

 自分が寝入ってしまってからどれほどの時間が経過しているのかはわからないが、外が真っ暗である事から夜である事には違いない。エクトル村は山の深くに存在する事から、夜は光源が月や星しかなく真っ暗なので家から出る事はないし、大騒ぎをする事もない。しかし、確かに誰かの叫び声のようなものが、エクスの耳まで届いているのだ。

「何が起きて……?」

「エクス、逃げよう」

「っ、サンドラ⁉︎」

 暗闇の中でわからないが、声からどうやらサンドラが部屋の中にいるらしい。

「いいから、荷物を持って。逃げよう」

「待って、待ってくれよ!」

「何?」

「逃げるって何だよ。唐突すぎて訳がわからない」

「……」

 サンドラは煩わしげにため息を吐く。説明している暇はないと言いたげに、彼女はエクスの服の袖を引っ張った。

「説明してる暇はないの。今この瞬間しか、私達に生き残る術はないんだから」

 サンドラはそのままエクスの腕を引っ張り、窓から這い出た。さくり、と土と雑草を踏む音。ふと見上げると、月は天頂近くまで昇っていて、今は深夜である事がわかった。

「な、何で窓」

「別に、見たいならいいけど、おすすめしないよ」

「何を……?」

 サンドラは一瞬、迷うように息を詰める。そして、歩きながらも躊躇いがちに言った。

「死体」

「……は?」

 脳が、漂白されたかのように真っ白になった。

 死体? 何の? 誰の? 疑問符が無限に湧いてくる。追い討ちをかけるように、あるいはその疑問に答えるかのように、サンドラは重々しく口を開く。


「エクスのお父さんとお母さんの、死体」


「……は」


 それは、言葉ではなかった。吐息と言った方が正しい。驚愕のあまりに半開きになった口から、呼吸のなり損ないが漏れ出ただけ。

「エクスが殺されなかったのは、私が内側から扉を押さえて、時間稼ぎをしたから。ここにはもう誰もいないって思わせたから。結構ザルというか、面倒くさがりな騎士で幸運だった」

 淡々と紡がれる言葉は、耳に入れどもすぐに頭を通り抜けて出ていくような感覚がして、情報として受け入れる事ができない。

 それにも関わらず、サンドラは急かすようにエクスの腕を掴んで引っ張る。彼は思わず彼女の腕を振り払い、一歩後ずさった。

「今、なんて」

「辛いと思うけどね、死んでるんだよ。エクスの両親だけじゃない。もう大虐殺は始まってるの」

 大虐殺。唐突に出てきた物騒な単語に、エクスの脳はまた漂白される。

「気になるなら、振り返ってみるとわかると思う……けど、それもやっぱり、おすすめできないかな」

 どこか諦念がこもった静止の言葉をサンドラは浴びせる。しかし、訳のわからない事ばかり言われて、ひとつでも情報が欲しいと思うのは当然の帰結で。

 エクスは、虫の知らせを感じ取りながらもそれを振り払うように振り向き。

 そして、眼下に広がる光景に、静かに息を呑んだ。

 一見は、何の変哲も無い夜の村だ。エクスはあまり夜の村に出ることはないのだが、窓から覗く夜闇と全く同じ。

 しかし、月を覆っていた叢雲が剥がされて月光が村を照らすと同時に、その異常が浮き彫りにされた。

 無機質な月の光を照り返す存在が、村の中に点在している。ぎらりぎらりと、まるで星のように。もう一つの星空が現れたような錯覚。

 そして、その光が閃いて流星のように輝いては消えていく。同時に、木擦れのようにささやかな、空気が引き攣れるような音がした。

 エクスは理解する。その輝きは、決して星なんかではないということを。

 それは、金属の反射光だ。

 しかし、村の中ではほとんど金属は使われない。さほど発展していない農村の中では、金属はせいぜい農具やランタンに使う程度で、しかしそれも手入れをする道具は整っていないため錆びかけていたりするものがほとんどだ。

 月光を激しく照り返すような輝きを持つ金属は、村を星海にするほどには存在しない。

 ただしそれは、村の中に限った話で。

 村の外部からの来訪者ならば、それはおかしくも何ともない。

 鈍重ながらも装着者の体を守る鉄の武装。それは鎧だった。

 極限まで研ぎ澄まされ、容赦なく肉を切り裂く鋭さを湛えているそれは、剣だった。

 その両方を身に纏って、その剣を振りおろし、ささやかな音……断末魔をあげさせている集団。それは、つい数時間前に自分達を取り囲んだ騎士団だった。

 エクスは視認する。視認してしまう。

 騎士達が隊列を組んで民家に押し入っている現場を。逃げ惑っている村人を、何の躊躇いも慈悲もなく切り伏せている瞬間を。

「……ぁ」

 気が付かなかった。

 眠ってしまっていたから。家が他の民家と少し離れていたから。エクスが、何の危機感も無かったから。

 一人一人丁寧に、その身元がわかるように丁重に殺されていっている彼らの、断末魔に。

「あぁあああぁぁあ」

 何ひとつ、気が付かなった。

 眼下で切り下ろされた村人。斬りつけられた背からどろりと黒い液体が溢れ出たのが辛うじて見えた。それは夜闇のせいで色が正確にわからなくて、黒いとしか思えなかった。

 何もわからない。血潮の温かさも。切り伏せられた村人の思惟も。失われていく体温も。全てが眼下の出来事で、結局は対岸の炎のようでしかなくて。

 自分が傍観者でしかないというその状態が、エクスには何よりも耐えられなかった。

「あああああああ!」

「待って、エクス!」

 木刀を握りしめて駆け出そうとした。しかしその腕がサンドラに掴まれて、エクスは反射的に彼女を鋭く睨みつける。それが完全なる八つ当たりだと理解できるほどの理性があるというのに。

「放せっ、放せってば!」

「今行ったって無駄死にだよ! このっ……」

 急に手を離されがくりと下がった視線。同時に足払いをかけられ、エクスはみっともなく地面に転がった事を理解する。木の根と地面に打撲した体の痛みが、これは夢ではないのだと鮮明に訴えていた。

「……なんだお前ら、痴話喧嘩か?」

 さくり、と木の葉を踏む音と同時に現れた、おどけた言葉。エクスは体の痛みに獣のように唸りながらそちらを睨む。

「とりあえず落ち着け。無事でよかった」

 森の暗闇から現れたのは、剣を片手に持って飄然としているレノだった。寝巻き姿のままで、剣には何も付着していない。彼の腕からはわずかに血が垂れていたが、小さなガラスの破片が落ちたため、窓でも突き破って逃亡を図ったのだろうと推察できた。

「状況は把握できてるな? お前らは今すぐにこの村を大回りして逃げて下山しろ。悪いが余裕は無いから徹夜で、死ぬ気で麓の村に行くんだ。そっから長くは滞在せずに国境まで行って国外逃亡しろ。多分指名手配されるからな」

「ま……待って!」

「あいつら、ただ虐殺するだけなら家に火ぃ放ちゃあいいものを、一人一人顔を傷つけないように殺して身元確認ができるようにしてやがる。誰一人逃さないようにするためだ。あ、これお前らの路銀な。サンドラ、お前の両親の遺産だ」

 サンドラはどこか沈痛な面持ちで、大量の貨幣が詰められた重い袋を受け取って、抱きしめる。まるで、これからレノが何をするつもりなのかを、全て知っているかのように。

「待てってば、レノおじさん!」

「ん、何だ」

「さっきから、お前らだとか、何でレノおじさんが一緒に逃げないみたいな言い方するんだよ……⁉︎」

 エクスは絞り出すように問う。その質問を投げかける事が、何故だかとてつもなく怖かった。帰ってくるであろう答えを察せられたからこそ、恐ろしかった。

 自分が予想している答えを言わないでくれ、と無意識に祈っていたが、それは呆気なく裏切られる。

「ああ。だってな、俺、死ぬつもりだし」

 ひどくあっけらかんと言われた。それが当然であると、あるいは望むところだとでも言うかのように。

「いや、だってなあ。こんなおっさん一人増えたら、進む速度遅くなるだろ。それに、簡単に騎士に追いつかれる可能性だってある。俺はここで足止めする。カッコつけて言うならあれだ、『ここは俺に任せて先に行け』ってな」

 軽口を叩くレノ。その様子は、今から死ににいく戦士の表情ではない。その態度が、かえってエクスを傷つけた。

「……あーあ、そんな顔すんなよ。っていうか、いつまで這いつくばってんだ、逃げろって言ってるだろ?」

 どこか穏やかに微笑みながら、サンドラに転ばされたままで地面に膝をついているエクスの頭を、彼はぐしゃぐしゃと乱雑に撫でた。

「……ほら、行け。どこか遠くに逃げろよ」

「……やだ、嫌なんだよ。なんでこんな、どこまでも、現実味がないんだよ……」

 エクスは嘆く。俯いて、しかしその瞳から涙は零れない。心のどこかで、目の前の光景を全て夢の中の幻想だと思ってしまっている彼がいた。

 しかし、そんなエクスとは対照的に、レノは笑った。悲嘆する彼を励ますように、あるいはそんな意図なんかなくて、純粋に揶揄うように。

「なんだそりゃ、万々歳じゃねぇか」

「は……?」

「こんな光景、夢でいいんだよ。幻でいいんだよ。そうやって押しやって逃避すれば良い。こんな惨劇パッパと忘れて、どこか別の場所で幸せに暮らしてくれよ」

 どうか、自分の事も、村人達の死も、他人事のまま。対岸の火のまま。

 そうやって傍観者として、生きていけ。

 レノは、そう言った。

 それは、自分が数年暮らした村の滅亡を見届けたレノだからこそ言える事なのかもしれない。

 村人達の死の責任と罪悪感を、そこにいたメアリー・スーの少年に押し付けても尚押し付けきれずに背負った彼だからこそ言えた事なのだ。

「俺と同じ轍を、踏んでくれるなよ?」

 子供に言い聞かせるかのように、レノは微笑んだ。

 未だ泣けもしないエクスの頭を一撫でして、次にサンドラも同じように乱暴に撫でて、そしてレノは満足げな表情を浮かべる。

「そんじゃ、達者でな。生きろよ、ガキども!」


 そうして、今生の別れは穏やかに終わりを告げた。




 手の中にのしかかる鉄の重みは、もう十年近く触れてきていなかったにも関わらず、不思議と手に馴染んだ。

 ぎらりと月光を反射する剣を今一度強く握り締め、レノは細く息を吐き出した。

 自分の武装は年季の入った剣一本。対する相手は、鎧を着込んで鋭い剣を持った騎士が百人ほど。普通に考えて、勝ち目は無い。

 とはいえ、レノ自身も自分が騎士集団を全員返り討ちにできるだなんて自惚れた事は考えていない。数人持っていければ上々。本来の目的はサンドラとエクスが行方を眩ますのに十分な時間を稼ぐことだ。

 レノは騎士と対峙する。自分を追ってきた、あるいは死亡が確認されていない人間を探している者か、いずれにせよ濃い殺気を纏った三人の騎士。

 レノの手に握られた剣に、最初は騎士達は少し戸惑ったような素振りを見せたが、装備の差から簡単に殺せると踏んだのだろう、数人で包囲するように動きながら追い詰めようとしてくる。

 きっと、少なからず油断しているのだろう。他の村人のほとんどが抵抗せずに逃げるのみだったから。ただの小さな農村に住む農民一人、数人であたれば簡単に切り伏せられる。

 しかし、レノはただの農民ではない。

 かつて北端に位置する被迫害民族が住まう村で剣術を磨いてきた人間だ。その腕前は、騎士にも匹敵する。

 レノは剣を突きの形に構えて、すぐに突進する。地面が急斜面になっている事もあって凄まじい速度で肉薄する彼に、騎士は驚きを見せた。

 通常ならば、その剣は鎧によって防がれて、レノはその勢いを殺せずに騎士に衝突するだろう。しかし、レノは騎士になるために修練を積んだ男。鎧という防具にある明確なデメリットを熟知していた。

 レノは剣を突き刺す。その手に伝わるのは、柔らかい肉の感触。

 鎧は基本的に関節以外の部位を守る事しかできない。関節まで鉄で固めてしまえば体が動かなくなってしまう。つまり関節だけは無防備にせざるおえない構造なのだ。

 そこを狙った、首への一突き。頸動脈が寸断されて、傷口から血が吹き出す。急所の首を狙った攻撃だったが、太い血管を切り裂いたのはただの幸運だった。

 声にならない断末魔をあげた騎士はそのまま絶命とまではいかないものの体が弛緩し。レノは突進の勢いのまま騎士の体を押し倒して地面に転がった。その勢いを利用して剣を引き抜く。

 あまりに鮮やかな殺人に、騎士達は空気をピリつかせて、警戒のレベルを一段引き上げる。

 血の噴水をその身に浴びながら、血霧に紛れた再度の突進。流石に二度は同じ手は食わず、突きは剣で勢いを削がれて胸当てに当たる。

 横からもう一人の騎士が剣を振り上げた。レノはすぐに剣を閃かせてその騎士の腕の関節を切る。鎧、正確に言えば目の前の騎士達がきているようなフルプレートアーマーは本来は騎馬戦での使用が想定された防具で、その分動きが鈍重になる。剣一本しか身につけていないレノの動きの方が身軽である事は当然だった。

 浅くとも腕の関節が斬られて、騎士は怯んで剣の勢いは落とされる。振り下ろされるそれをスレスレで避けて、脇をすり抜けて背後に回った。

 そのまま、鎧にある首の隙間に剣を突き出す。あえて刺さらないように、頸動脈だけを深く斬った。騎士は首から勢いよく血を吹き出して地面に頽れる。

 あっという間に殺された二人の騎士の亡骸を見て、最後に残ったもう一人の騎士は一歩後ずさった。しかし、さすが訓練を積んだ騎士といったところだろうか。逃げる素振りは一切せず、剣を構える。

 動きが鈍重な自分が攻めに回ったら、同じように背後を取られると考えたのだろう。騎士は警戒を絶やさずに、しかし自分から動く事はせずにレノを睨む。

 再度の突進。剣は受け止められて鬩ぎ合う。ギャリ、と鉄が擦れ合う音と共に発生した火花が夜闇に散った。

 力では勝てずに押しのけられ、追撃に加えられる薙ぎ払い。後ずさって避けると同時、レノはしゃがみ込み、兜の死角から騎士に迫った。

 そのまま下から、顎から頭頂部にかけてを貫く。兜から鮮血が溢れ出し、騎士の体は力をなくして地面に倒れた。

 騎士の頭部に刺さった剣は頭蓋骨に食い込んでしまって抜けない。レノは騎士が持っていた剣を一本拝借した。

 それと同時に、別の騎士の気配が出現する。剣戟の音を聞きつけたのか、それとも火花が夜闇で目立ったのか。兎にも角にも、増援だ。

 おそらく、今の三人の騎士は先鋒でしかなく、騎士としては未熟で弱い存在だったのだろう。十年前に見た騎士と違って、鬼気迫る力がなかった。

 つまり、今から来るのが本隊で、今の騎士のように無傷ではいかない、ということだ。

 じわりと額に汗が滲んだ。全身に劇物でも塗りつけられたかのように、皮膚が引き攣るような感触がする。

 ほんの少しだけ瞑目した。

 瞼の裏で蘇るのは、北方の村で過ごした日々。

 隣の家に住んでいた金髪赤目の女性。その子供である、迫害された戦闘民族の純潔を引いた少年。その少年とよく一緒に遊んでいた、ブラウンの髪と瞳を持った人懐っこい少女。

 他にも、多くの金の髪と赤い瞳を持った人々がそこに住んでいた。小さい村ながら、小さな幸せを築き上げていた。

 あの少年も。ユートも、同じ幸せを共有していた。

 あの時、レノは全ての原因をユートに押し付けてしまったけれど、今ではそれが過ちであったとわかる。

「悪かったな、ユート」

 かつて自分がメアリー・スーであると弾劾した少年の名を呼びながら、剣を構えた。鋭い輝きはひんやりと冷たく、まるで自分自身にも死の一文字を突きつけているようだ。

 これでようやく、禊ができる。

 レノは自分の死を眼前にしながら、十歳ほど若返ったかのように穏やかに笑んだのだった。




 肺が、心臓が、爆発しそうだった。

 激しく切れる息を無理矢理喉の奥に押し込めて、エクスは思わず自分の膝に手をつく。

「……なんで」

 頬に伝った汗が地面に落ちた。

「なんで!」

 叩きつけるように叫ぶ。胸の奥で燻るもどかしさを掻き出したくて胸を掻きむしった。

「なんで、なんでだよ……!」

 なんで、村のみんなやレノが死ななければならなかった?

 なんで、あの騎士達はなんの罪もない自分達を追う?

 なんで、こんな状況なのに、自分は泣くことすらできないのか?

 どこまでも現実離れしていて、故に「他人事」であるという感覚が抜けない。どうして、「自分事」にすらさせてくれず、レノは死んでしまったのだ。

 それは、八つ当たりにも近しかった。

 何も理解できない状況への苛立ち。何にも親身になれない自分への嫌悪。それが鍋の中で煮詰まり混ぜ合わさった蚊のような、粘性を持った醜い激情だ。

「どうして、俺は……俺は、誰も助けられなかったんだ!」

 なんのためにレノに剣の教えを乞うたんだ。なんのために、剣なんて習ったんだ。こういう時に人を守るためじゃないのか。

 護身術だなんて言っておきながら、同じ屋根の下で眠っていた両親すら守れずに。

「……エクスのせいじゃないよ」

「誰も責任のありかなんて求めてない!」

「けど、エクスは自分を責めてるでしょ」

「……」

 サンドラに冷静に諭されれば諭されるほど、惨めな気分にさせられる。

 サンドラも、他人事として村を見ているのに、それを受け入れているかのような態度だった。

「六年も! 六年もサンドラはあんなになってたからそんな事が言えるんだ!」

 六年分の記憶が欠落しているから、そんな冷酷な事が言えるんだ。エクスは殴りつけるかのように叫んだ。叫ばずにはいられなかった。

「そんな訳ないでしょ⁉︎」

 その反駁の声を、エクスは一瞬サンドラの声だと認識できなかった。

 緩慢に顔を上げると、サンドラが心臓のあたりを掻きむしっているのが見えた。

 もどかしげに、自分を責めるかのように。

 更に視線を上げると、サンドラの顎先から雫が伝って落ちていた。それより上を見るのが後ろめたくて、エクスは思わず顔を逸らす。

「……六年間分の時間が欠けてても、あの忌々しい神が定めた命運に弄ばれていても、人の心を失った訳じゃない。……こんなの、悲しいに決まってるでしょ」

 大粒の涙を大量に零して嗚咽を噛み殺しながら、サンドラはそう吐露する。やけに大人びていた雰囲気はそこにはなく、年相応に感情を暴れさせる少女の姿がそこにあった。

「悔しいよ。腹立たしいよ。仕方ないって、私には何もできないし何も助けられないって、事実としてそうなのに全く受け入れられないよ……!」

 サンドラは悲痛な声で叫び、しかし段々とその声が嗚咽に呑まれていった。弱々しく地面にへたり込み、そして顔を両手で覆い嘆く。

「ごめんね、ごめんなさい……私のせいで」

 消え入るような声で自責の言葉を彼女は連ねた。その静かな取り乱しように、エクスは逆に冷静になる。

 押し殺すような泣き声に突き動かされて、エクスは地面に膝をついてサンドラを抱き寄せた。細い肩が微かに震え、しかしその行動が彼女に安心をもたらしたのか、彼女の体重がエクスに少しだけ預けられる。

 あまりに軽かった。あまりに細かった。頼りなくて、壊れてしまいそうだった。

 エクスは、こうして村人達を想って泣ける彼女に若干の嫉妬と羨望を抱きながら、彼女の背を撫でる。脆いものを扱うように、優しく。


「……ごめんな」


 それは一体、何に対しての謝罪だったのだろうか。




「……エクス・カレトヴルッフと、サンドラ・ループ、ね」

 あまりに濃い血の匂いに、しかし慣れ切ったように顔色ひとつ変えず、ヴァージンは名簿にある二つの名前を睨んだ。

 現在、エクトル村の中心では地獄絵図が繰り広げられている。正確に現るのならば、地獄絵図の後始末によって生まれた地獄絵図、と言った方が正しいだろうか。ヴァージンの部下に当たる騎士達によってなされた鏖殺。その被害者達の死体が一箇所に集められ、雑に転がされている。尊厳も何もない、人を人とも思わぬ行状。

 実際、そのヴァージンにとっては人間なんて何の意味もない、家畜にも等しい生物だった。自分も含めて、全ては女王エルリ・ジェーベドの所有物にして玩弄物。一体何をされたって彼女は構わなかった。ここに転がる死体のひとつに自分が数えられたって、それがエルリのためになるのならばむしろ本望だ。

 そのヴァージンは、狂信的なまでにエルリ・ジェーベドの従僕だった。

 だから、エルリの命に従わない存在の価値はゴミ以下であり、害虫を踏み潰すように排除しなければならない存在だった。

「直ちに指名手配を。外見は……確か、双方とも十六前後、エクス・カレトヴルッフは金髪赤目、瞳は朱殷ではないし髪はダークブロンドだからケルトイ族ではなし。サンドラ・ループは黒髪青目で、見窄らしい外見」

「はっ」

 命令を下した騎士が下がっていくのを見届けて、そして忌々しげに舌打ちを打った。

 エルリから頂いた兵の一部が損耗した。たった十数名程度、エルリならば惜しく思う事もないだろう。「男がいくら死んだところで興味なんて無いわ」とでも言いのけるかもしれない。

 しかし、そのヴァージンにとっては騎士達はエルリから預けられたもので、それを傷つけるなんて以ての他だった。十年前に村を滅ぼした時は僅かながら死者が出て、同じ轍は踏まないように、わざわざ過剰なまでに兵力を持ってきたというのに。

 自分の未熟さと共に、たった一人でその十数名の騎士を殺した男への苛立ちが腹の底に募った。

 足元に転がるその男、レノ・ループの死体を足蹴にして、ヴァージンは歯軋りを鳴らす。ヴァージンの八つ当たりと逃げた二名の場所を吐かせるための拷問により死体は損傷が激しかった。内臓が露出した腹を踏みつけると、固まりかけた血の塊と共に内臓の欠片が傷口から溢れ出る。それを見ても尚、溜飲は全く下がらない。

 八つ当たりにも近しい感情を抱きながら、もう既に死んでいる男の血縁者に対して憎しみを投げかけた。

「赦さない……サンドラ・ループ……!」




 二人が歩き出したのは、それから一時間もしないうちだった。サンドラの目の下には涙の跡が色濃く残っていたが、夜闇の中ではそれは目立たなかった。

 エクスは精神的疲労による倦怠感を感じながら、のろのろと足を動かす。対するサンドラは、精神的疲労と合わせて、六年もの間部屋に閉じこもっていた弊害が出て、完全に体力を切らしていた。

 エクスはもとより農作業で体力はそれなりにあるし、レノと共に剣術修行もしていたので、細身でありながらも必要な分の筋肉がつけられた精悍な体つきをしている。精神は兎も角、肉体の体力はそれなりに余裕があった。

 サンドラは完全に疲弊してしまっていて、足取りは鉛でも引きずっているかのように重い。

「サンドラ、大丈夫か?」

「……うん。大丈夫」

「麓町に降りろ、って……レノおじさんは言ってたよな」

「……うん」

 レノの事を思い出して、二人の声音は沈む。

 レノはもう既に死んでしまっているのだろうか。あの騎士達に立ち向かって死んでいくとは、どんな心地なのだろうか。そんな事を考えてしまって、エクスは自己嫌悪に陥った。

 エクトル村から出るのは、エクスも六年ぶりだ。サンドラが狂気に陥って以降は学問に励む事ができずに、自ずと登校拒否になった。だから学校がある麓の村に降りるのも実に六年ぶりである。

 しかし、土地勘というものは衰えていないらしい。方位磁針もないままに突き進んだ方向に見えた微かな村の光に、エクスは思わず安堵の息を漏らす。

 その村に辿り着く頃にはもう空は白み始めており、朝焼けが目に痛かった。六年ぶりに訪れた学舎を眺めて、エクスは小さく息をつく。

 エクトル村より少し栄えていて大きなその村は、村と言うより町と言った方が近しい。小規模な学校の他には酒場や診療所まである。薬師の一人もおらず民間療法しかできなかったエクトル村では考えられないほどに設備が良い。

 とはいえ、今は早朝だ。見回してみれば、電気が灯っているのは酒場しかない。エクスは徐に扉を開き、中の様子を伺う。

 眠たげな目をした酒場の店主と、酔い潰れて眠っている男性が数人。カウンターでジョッキを呷っている女性が一人。起きている二人が一言も喋っていないので酔い潰れた者達のいびきが閑散とした雰囲気の店内に響いていた。

 そのせいで、エクスが扉を開いた音がやけに大きく聞こえてしまったらしい。店主がエクスを見て、目を丸くした。

「子供がこんな時間に……ん? なんか見覚えあるような……」

「あ、えっと……エクトル村から来たものです……」

「ああ、山奥の。そんなところいないでこっちにおいで。酒は出せないが、水くらいなら飲ませてやれるからな」

 店主に手招きをされて、エクスはおずおずと店内に入る。後に続いたサンドラに店主はまた驚いた素振りを見せた。

 二人が座ったカウンターにグラスに入った水が置かれて、それを一気に呷ってエクスはため息をつく。

「二人ともお若いのに、こんな朝っぱらから。お熱いですねぇ」

 隣に座っていた女性がジョッキの縁をなぞりながら、覇気のない声音でそう言った。駆け落ちか何かかと勘違いしているのだろう、揶揄うような口調だ。視線を向けると、眼鏡越しに面白そうに細められた左目と目が合った。

 セミロングの髪は、落ち着いた印象の藍色。前髪が伸ばされて右目が隠れているせいか、けったいで物憂げに見える。髪と同色の瞳はアンダーリムの眼鏡に隠されていた。

 服装は若干着崩されたフォーマルなスーツのような衣服で、くたびれた印象と共に村の外部の者である事を証明している。この村も農村の定義から外れないため、村民は基本的にスーツなど着ないのだ。この村に出入りをしていたエクスも、スーツを実際に見るのは初めてだった。

 そして、その服装には似合わない、細長い物を包んでいる黒い袋を背に提げていた。女性は艶然と微笑む。整っているとも整っていないとも言えない特徴のない顔立ちだが、気だるげな雰囲気のおかげか色気がある女性だ。

「あなたは……?」

「ああ、ワタシ、ヘキサと言います。以後お見知り置きをー」

 ヘキサと名乗った女性はへらりと笑い、火のついた煙草を咥える。彼女の傍に置いてある灰皿には大量の吸い殻があり、彼女が煙の匂いを纏わせている事から、相当なヘビースモーカーであるとわかる。

「エクス・カレトヴルッフです」

「サンドラ・ループです」

「エクスくんにサンドラさん、ね。覚えました」

 ヘキサは口から煙を吐き出した。エクスとサンドラがそれに眉を顰めたからか、ヘキサはまだ半分ほど残っている煙草を灰皿に押し付ける。

「お二人とも、そんな軽装で早朝からどこに行くんです?」

 未だ二人が駆け落ちをしている恋人同士だと勘違いしているのだろう。ヘキサは首を傾げた。

「北の国に、逃げようかと」

 エクトル村は西端の村ではあるが、北の国境からそう遠いわけではない。馬車ならば三日もすれば着けるほどだと聞いている。そのための路銀もレノから渡されており、徒歩以外の移動方法で北まで行こうとエクスは考えていた。

 しかし、ヘキサは訝しげな表情を二人に向ける。

「……もしかして、知らないんですか? まあ、つい数日前の事ですし無理もないか」

「何の事ですか?」

 ヘキサは軽く肩を竦めて、呆れたように告げる。

「……今、プロドディス王国は数日前から鎖国してるんですよ」

「鎖国……?」

「人の出入りはおろか、物流すらも完全に断絶。輸出がストップするので国内のお金はこれ以上増えなくなるから、貧困層はこれからもっと貧窮しそうですねぇ。ワタシもその一件を確認しに、北の国境まで行ってたんですよ」

 鎖国。その聞き慣れない単語にエクスは目を丸くして、続けられた説明に顔を青くした。サンドラは無反応だ。

「それってつまり……」

「アナタ達、国出られませんよ。十年前のケルトイ狩りよりも過激な事とかもやってるみたいですし」

「ケルトイ狩り?」

「戦闘民族のケルトイ族を主な対象とした殺戮ですよ。魔女とかも対象だったみたいですけど」

 連ねられる物騒な言葉にエクスは言葉を失った。十年前にケルトイ族となると、かつて騎士によって滅ぼされた、レノが住んでいた村もその対象だったのだろう。エクスが知らなかったのは、十年前、エクスは六歳だったので物騒な話を耳に入れられないようにされていたか、エクトル村が辺境すぎて情報が届かなかったか、単純に忘れているのだろう。

 それよりも更に過激な事、となると。

「摘発の対象は、今回は異民族でも、ましてや魔女やメアリー・スーでもない」

 サンドラが唐突に口を開く。それを聞いてヘキサは一瞬目を丸くして、次に「サンドラさんは察しが良いようで」と呟いた。

「今回の対象は、レジスタンスですよ。現在のプロドディス王国では主に貧民層や労働者が徒党を組んで叛逆を企ててましてね。それに腹を立てたエルリ女王陛下がレジスタンスを逃さないように鎖国、一網打尽って訳です」

 ふと窓から外を見やると、罠にかかったのであろう、脚がロープで結ばれて捕えられた兎が猟師に運ばれているのが見えた。エクスは口を噤んで下を向く。

「ま、ただ駆け落ちするだけなら何も国外逃亡一択な訳じゃないですし。ここから遠い場所に行けばいいと思いますよ。全部終わったら鎖国も解除されますし」

 ヘキサはのんびりとした口調でそう言った。

 しかし、エクスはそんなにものんびりとしていられない。

「……それじゃダメだ」

「え?」

「こんな国、一秒だっていたくない」

 強い口調で、押し殺したような声音で呟いたエクスに、ヘキサもサンドラも目を丸くする。

 国からの使いが村を滅ぼした。その時点でこの国への信頼度は地の底に落ちている。そもそもエクスは小さな農村で生まれ育ってきて、首都なんてサンドラが幼い頃に描いてくれた絵くらいでしか知らないので、プロドディス王国の民であるという自覚が薄かった。

 そんな国に、両親や村の人々を殺戮されたのだ。エクスは、国自体を恨んでいた。この国への復讐心が芽を生やしているのと同時に、この国の土地を踏む事だって嫌悪感があるくらいだ。

「……じゃ、ワタシと一緒に首都に行きます?」

「……どうしてですか?」

「鎖国の廃止の公布がされるなら、間違いなく城がある首都からですし。嬉しい便りは早く知りたいでしょう? そちらさんの事情は知りませんが、ここから離れたそうですし」

 そして、ヘキサはどこか含みのある笑みを見せる。エクスに聞こえるか否かといった声量で、ポツリと呟いた。

「それに……そっちの方が都合が良い」

 微かにしか聞こえなかったそれにエクスが訊き返そうとすると、それを遮るかのようにヘキサが立ち上がった。

「そんじゃ、ワタシ仕事の都合で早く首都に帰らないとなんで、すぐに行きましょ」

「すぐに行かなきゃなら何で酒場に……?」

「さー行きましょー」

 ヘキサは机に金を置くと、酒場から外に出た。エクスとサンドラも慌てて席を立つ。

 ヘキサに連れて行かれた先にあったのは、一台の馬車だ。木製で、荷車部分は随分と使い込まれている。そして、その荷車を引いているのはなぜか馬ではなく一頭のロバだ。

「ベルフェ、行けます?」

 ヘキサがロバの頭を撫でながら問うと、それに応えるようにロバの尻尾が大きく揺れた。

「んじゃ、乗ってくださーい。古いんで乗り心地は悪いかもですけど、そこは我慢で」

 ヘキサは御者席に乗り上げる。彼女に促されてエクスの馬車に乗った。

「……ん? どうした、サンドラ」

「いや……何でもない」

 何か考え込むような難しい表情をしていたサンドラを呼ぶと、若干の躊躇いを見せながらサンドラも馬車に座った。二人が乗車した事を確認すると、ヘキサは馬車を進め始めた。




 エクスは微睡の中から目を覚ます。夜通し歩き続けていたからか、随分と疲労が溜まってしまていたらしい。

 ぼやけた目を擦って周囲を見ると、御者席では眠る前に見た時と全く変わらない姿勢のヘキサ。目の前に座り込んでいるサンドラは、眠らまいと気を張っているようだが、瞼が落ちかけている。

「サンドラ、眠ったらどうだ」

「ん……けど……」

「おやすみ」

 馬車の隅に放られていた毛布を彼女の体にかけると、緊張感が解けたのはとうとう目を瞑り、静かに寝息を立て始めた。

 その寝顔を見届けると、ヘキサから声がかかる。

「お二人は、どんな関係なんですかね。恋人とかじゃ無いんでしょう?」

 その問いに、エクスは目を丸くする。てっきりまだ勘違いされたままだと思っていたし、サンドラは嫌がる素振りを見せていなかったので勘違いされたままでも構わないと思っていた。

「……ただの幼馴染、です。何でわかったんですか」

「勘ですかねぇ。長く生きてると、なんとなくわかってくるんですよ。アナタ達の年頃にしては、やけに熟年夫婦感があるというか、初々しさが無いっていうか。サンドラさんに関しては、一歩引いた位置にいるから分かりづらいんですが……何もかもを見透かしているようで、こちらを値踏みしているかのような、そんな底知れなさがあるんですよねぇ」

「底知れなさ……」

 言われてみて、考えると、確かに近しい感覚はエクスの中にもあった。

 六年間の時間が止まっているというのに、彼女の知能は十歳の頃を遥かに凌駕している。昨日一日だけで、その違和感を何度も感じていた。

「その素振り、心当たりはあるんですね」

「……まあ、はい」

「そうですか」

 そっけなく返されて、エクスは思わず首を傾げた。ヘキサは目の前をずっと見ていて、その表情は伺えない。

「何となく、アナタ達の状況は察してますよ。大変だったでしょう」

 どこか憐憫を帯びた声音。いつ気づかれたのかは全くわからないが、どうやら彼女はエクス達に対する対応を変えるつもりは無いらしい。

「子供二人だけで、立派なものです」

「……そんな事ないですよ。すごいのはサンドラだけで、俺は……俺達を逃がしてくれた人の言葉に従っただけですから」

 託された金はサンドラのもので、エクスはサンドラに助けられただけだ。逃げ回るのなら人数は少ない方が良いというのに、サンドラはエクスを助けた。その事に対して恩義と後ろめたさを感じないほど、彼は厚顔ではない。

「……ひとつ訊きたいんですが。エクスくんは、サンドラさんを、または自分自身を、メアリー・スーだとは思わないんですか?」

 それは、エクスにとっては思ってもみない問いだった。そこまでを考える余裕がなかったのか、完全に思考の埒外だったのだ。

 しかし、よく考えてみればその可能性はある。エクスかサンドラのどちらか、あるいは両方がメアリー・スーであるから、試練の一環として村が滅んで自分達だけが生き残り、そして都合よくヘキサの助けの手が差し伸べられた。

 しかし、そんな事を思っても、エクスは自分がメアリー・スーであるとは思わなかった。その単語が指す人間の定義自体が曖昧であり、エクス自身にその自覚が無い事もある。

 また、彼には特筆すべき才が無い。強いて言うならば、昔から模倣が得意で、たびたび村の人の仕草や口調を真似していた事くらいだが、本当にその程度だ。メアリー・スーは皆、常人と違う特異な点があると伝え聞いているので、それは自分には当てはまらないと思っている。

「俺は一般人なんでメアリー・スーではないと思いますし。たとえサンドラがメアリー・スーだったとしても……俺は、多分彼女と一緒にいると思います」

 一瞬、耳に痛いほどの静寂が訪れた。葉擦れの音も鳥の囁きも何もかもが静止したかのような、どこか薄寒い空気。

「……そうですか」

 ヘキサの声は、驚くほどに温度が無かった。冷たさも温かさも存在しない、色の無い声だった。無感情すぎるそれにエクスは一瞬呆気に取られる。

 それ以降、ヘキサはめっきり口を噤んでしまい喋らなくなった。何か不愉快な事を言ってしまったのかと思ったが、彼女の背から伝わる雰囲気は不機嫌そうではないので、ただ喋る気分ではなくなっただけなのだろうと判断する。

 馬車が僅かに揺れた。その慣れない感覚に外を眺めながら、エクスは久方ぶりに感じる穏やかな時間に身を任せる。



 ロバのベルフェを走らせている内に、太陽は天頂へと昇っていた。

 ベルフェを休ませようと一旦馬車を止め、昼食となる質素な保存食を取り出すが、荷台の二人は深く寝入ってしまっている。あまりにあどけない寝顔に、起こすのは忍びなく感じてしまった。

 エクスの肩に毛布をかけながら、そのダークブロンドの髪を優しく梳く。まだ幼さの残る顔立ちを見て、ヘキサは思わず呟いた。


「……羨ましい事ですね」


 アナタみたいな人がこの世に多く居るならば。

 あの子達があんな目に遭う事はなかったのに。


 その言葉を聞き届けたベルフェは、ヘキサを慰めるかのように頭を擦り寄せた。



「……きもちわるい」

 エクスは口を手で抑えながらそう嘆く。あれから数時間が経ち、もう既に夕暮れが始まっている時間帯。馬車を停めた町の隅で、エクスは逆流しそうになる胃液を必死に喉奥に留めていた。

 完全なる馬車酔いだ。馬車に乗るなんて初めてなため、エクスは酔ってしまっていた。

「あーあー、大丈夫ですかぁ」

 ヘキサはベルフェという名前のロバの頭を撫でて労わってやりながら、エクスに声をかける。サンドラは全く酔っていない様子で、エクスの背を撫でていた。

 サンドラに関しては、幼い頃から両親に連れられて各地に行っていた過去がある。その時の主な移動手段が馬車であったらしく、慣れているから酔わないとの話だった。

「こっから首都までしばらくかかるんですから、慣れないとですよぉ」

「……ヘキサさんは、どうやって、慣れたんですか」

「ワタシは最初っから酔わない体質でしてね」

 ヘキサは蹲るエクスに対して揶揄うように笑っていた。サンドラはひたすらに眉尻を下げて、エクスの看病をしている。

 それから約十分経ち、ようやく酔いが治まったエクスがバツの悪そうな顔をして立ち上がった。

「……ご迷惑をおかけしました」

「エクス、大丈夫?」

「無理は禁物ですよ。もっと休んでてもいいんですが」

「いや、本当にもう大丈夫なんで」

 そうですか、と返事をしたヘキサが、町の中心部に向かって歩いていく。まだ本調子ではないエクスと彼を気遣っているサンドラは、ヘキサの一歩後ろを歩きながら町を進んだ。

 そこは、エクスの基準からしたら十分すぎるほどに栄えた場所だった。道には一定間隔で街灯がつけられ、夕焼けに染まる町を照らし出している。建物も外観を重視している物が多く立っており、それ自体が一種の芸術作品のようだ。

 様々な店が客を呼び込んでおり、食事の香りを放っている。

 農村しか知らないエクスは、ここが首都であると言われても違和感はあまり抱かないだろう。昔サンドラが描いた首都オミクレーの絵とは明らかに異なるのでそこで違うと気がつくだろうが、一瞬ならば信じ込んでしまってもおかしくない。

 一方、様々な国の様々な町を訪れた事のあるサンドラにとっては、ごくごく一般的で、むしろ少し小さいくらいの町だ、という感想だ。道路は舗装がされていないし、建物も捻りが無い。

 温度差がある二人の反応を楽しそうに見ながら、ヘキサは道すがらに町民に宿屋の場所を聞いた。

「……ところでさ、なんかここって煙くないか?」

 エクスは顔周りの空気を払う仕草をしながら言う。森の綺麗な空気の中でしか生きてこなかったからか、多少は栄えている町の空気は薄く白く色づいている。エクスにはそれが煙に見えた。

「あー、それは工業のせいですね」

「工業?」

「プロドディスは技術大国です。銃の開発もここですし、その他にも様々な利便性の高い道具を開発、および量産して、輸出する事で多大な富を得ています」

「ふーん……」

 生返事を返しながら、エクスは空気を掴むような仕草をした。

 薄く白色に色づいた空気。山で生まれ育っているエクスにとっては、呼吸をすると僅かに肺がざらつくような心地がした。

 しかし、それは本当に希薄な感覚で、気にならない程度だ。エクスは大きく伸びをして、町の風景を楽しもうと周囲を見回す。

「……ん?」

 ふと目についたのは、路地裏だった。サンドラがそちらに近い方を歩いていたので少し体を後ろに逸らして覗き込むようにする。

 視界の端にやたらと鮮やかな赤色が映った気がして、意識が向かった。その路地裏はゴミが積み重ねられ、パイプが何本も這っていて暗い。地面には鼠や虫がいる。

 そして、ゴミに紛れるかのように、カーキ色の大きな衣服を頭を覆うように纏っている子供がいた。ほんの十歳ほどの。先日騎士から庇った、エクトル村の子供と同じほどの年齢に見える。

 もしかして、エクトル村の生き残りの子供ではないか。

 その考えが頭をよぎった瞬間、エクスは駆け出していた。冷静に考えれば、あんなカーキ色の服は見覚えがないし、それに馬車で来た自分達に子供一人の脚で追いつけるわけがない。しかし、そんな判断より早くエクトルは動いていたのだ。サンドラの静止の声を無視して子供に触れる。

「君! 大丈夫か?」

 少年の肩を掴んで、頭に被さっていたカーキ色で赤が差し色に入った軍服のような服を捲った。現れたのは、痩せ細った幼い少年。栗色の後ろ髪はざんばらに切られ、前髪はけったいに伸ばされている。

 呼びかけにより薄く開かれた瞼から覗いたのは、満月のような黄金の瞳。意識が朦朧としているのか、霞んでいるように見える。肌は所々煤けており、血の気を失っていて張りもなく、いかにも不健康そうだ。弱々しく開かれた口からは犬歯が覗いて、言葉にならない掠れ声を吐き出していた。

「これは……ひどく衰弱していますねぇ」

 ヘキサが横から顔を出し、少年の様子を軽く診ながら言った。

「名前は言えます?」

「……」

「大丈夫、アナタを害するつもりはありませんよ」

「……ヴァー、ニャ」

「ヴァーニャくんですね」

 少年はヴァーニャと名乗る。ひどく乾いて掠れている少年の言葉を、ヘキサは妙に手慣れた様子で聞き取っていた。

「……この周囲に病院は……見当たらないですねぇ。とりあえず宿に運びます。サンドラさん、エクスくん、ついてきてください」

 ヘキサは背負っていた袋をエクスに渡し、代わりにヴァーニャの小柄な体を背負う。ヘキサが彼の体を持ち上げた瞬間、「軽っ……」と思わず驚きの声をあげていたので、相当に痩せ細っているのだろう。

 若干嫌な顔をする宿家の店主に相場より少し多めの金を握らせて、ヘキサはヴァーニャを部屋に運び込む。「簡単に診察します。専門知識は無いので、素人技ですけどね」と言いながら、彼の様子を診た。

「栄養失調、ですかね。衰弱が酷いです。んー……それだけにしては容態が重いような……。それと、体の至る所に創傷ですかね。とりあえず寝かしときましょう」

 ヘキサはそう言って泥のように眠る少年に毛布をかける。頬まで肉が削げ落ちている少年の顔を見ていられなくて、目から下を隠すかのように。

「手当のための道具を取ってきます。様子、みててくださーい」

 どこか気の抜ける声でそう言い残し、ヘキサは宿を出て行った。残されたのは、サンドラとエクスと眠る少年だけだ。

「……サンドラ」

「なあに」

「気のせいだったら悪いけど……サンドラさ、俺にあの子、ヴァーニャを見せないような立ち位置にいなかったか?」

 ヴァーニャが倒れていた通りに入った前後ほどから、エクスの視線を遮るようにサンドラが立ち回っていたような気がするのだ。視界の端にチラチラと彼女の頭部が写り、身長の差により不可能ではあったものの、まるであるものをエクスに目撃させないようにしていたように思う。

 その目撃させたくないものは、サンドラの苦々しい表情から推測するに、ヴァーニャではないかとエクスは推測した。

「変に隠しておくのも不信感を買いそうだから、はっきり言うね。そうだよ」

「何でだよ?」

「エクス、ただでさえ憔悴してるでしょ? これ以上誰かの命を背負う事はない。ただ通りすがったところに行き倒れてただけの子供が死んでも、エクスは気に病むでしょ」

 どこか、確信的な口調だった。

 二人の関係に六年もの空白がある事だなんて感じさせない。むしろ、十六年の人生以上に長い時間を、一方的に共に歩まれたかのようだった。それほどまでに、サンドラのエクスへの理解は、一方通行だったのだ。

 思えば、彼女の口調も六年前のものとは異なっている。十歳のサンドラはそこそこ裕福な商家の生まれという事もあり、高飛車な喋り方をする少女だった。語彙などは十歳として相応か少し上程度なレベルであった。

 しかし、今はどうだろう。まるで何もかもを見透かしているかのような物言い。十歳の時から学習がストップしているとは思えないほどに豊富な語彙と言葉遣い。雰囲気も、十六歳とは思えないほどに老成しているように思う。

「サンドラ……お前……」

 お前は一体、何なんだ。戦慄しかけた時、ベッドの上の少年が「ゔぅ……」と唸った。ぱちりとその大きな瞳を開いて二人の姿に焦点を結んだ瞬間、怪我人であるとは思えないほどに機敏な動きでベッドから跳ね起き、部屋の隅に着地する。

 その金色の瞳を巡らせて状況を確認し、そしてエクスとサンドラの両名に警戒の視線を投げながら、掠れた声で問いかけた。

「……ナニモノ」

 うまく口が回らないのか、カタコトでの問いかけに、エクスは困惑する。対照的に、サンドラは落ち着き払った様子で淡々としていた。

「え……っと、」

「私はサンドラ・ループ。このプロドディス王国の最西端にあったエクトル村から来た。彼はエクス・カレトヴルッフで、私と同郷」

 あまりに澱みなく返されたものだからヴァーニャの方が面食らってしまっていて、警戒心が若干解かれて、きょとんと年齢相応に幼なげな表情を浮かべる。

「ヴァーニャ、で合ってたよな」

 彼はこくりと頷く。付け加えて「それ、あだ名。本名はヴァシーリー」と名乗る。

「名前的に北方の子ですかねぇ」

 いつの間にか帰ってきていたヘキサが机の上に荷物を置きながら言う。足音ひとつしなかったものだから、エクスは思わず目を剥いた。

「北国って……」

「諸国ありますけど、一際大きい国が二国、もう何年もバチバチに戦争してるんですよ。まあ、この国が経済制裁を与え始めてからは停戦状態になりつつあるって聞いてます」

「経済制裁?」

「プロドディス王国は技術的にも経済的にも随一の大国ですからね。なんでも、プロドディスの使節が戦争のゴタゴタに巻き込まれて死亡したらしくて、そのやり返しだとか……」

 少し声を潜めて、ヘキサはそう囁く。少し警戒を強めながら、しかし祖国の話となると気になるのか、耳を傾けていた。

 しかしヘキサはそれで終わりだとばかりに話を切り上げ、エクスとサンドラを押して部屋から出す。

「今から簡易的に診察しますんで」

 とだけ言って扉を閉めた。

 エクスはサンドラと顔を見合わせ、そして大人しく別の場所で時間を潰す事にする。




 一時間ほど二人でぶらぶらと町を歩き回り、戻ってきた頃には既にヘキサは診察を終えたようで、煙草が入った箱を手慰みに弄っていた。吸いたいが、子供がいるので吸えないのだろう。ヴァーニャはベッドの上で深く眠っている。

 戻ってきた二人に対して、ヘキサはカルテ代わりなのであろうメモをめくりながら話し始めた。

「ヴァシーリー・ドミトリエヴナ・ソコロフ。それが彼の本名、というかフルネームらしいですよ」

 唐突に伝えられたその長すぎる、また耳馴染みも無い名前にエクスは思わず眉を顰める。何かの呪文にすら聞こえてしまうそれを復唱しようとしたが、最初の数文字程度しか覚えていられなかった。

「どみと……?」

「ドミトリエヴナ・ソコロフ。出身国の名付けの特徴がモロに出てますねぇ。彼本人も名乗るのが面倒だからヴァーニャって愛称で名乗ってるみたいですし」

 ヘキサがひらめかせたメモの紙には、さらりとした綺麗な文字で、ヴァーニャのものであろう名前が書き連ねてある。その文字数の多さに、エクスは辟易としてしまった。

「んでもって、病状なんですが……これがまぁ酷い事酷い事」

 ヘキサはおちゃらけた口調で場の雰囲気を柔らかくしているが、前髪に隠されていない方の瞳、左目は全く笑っていない。

「まあ、育ち盛りの時期で栄養失調、ってのも中々にえぐいんですけどねぇ。けどそれ以上に重大な怪我というか、病がありまして」

「病?」

「ええ。体の至る所に弾痕がありましてね。既に治りかけてる古傷とかもあるんですけど、ちょっと新しめのが厄介で……。もう肉に埋まりかけてる傷だったんですけどねぇ、その弾丸が貫通してなかったんですよね」

 ヘキサは懐から煙草を取り出し、火をつけて煙を肺一杯に吸い込んだ。

「貫通してない……?」

「ああ、エクスくんは銃については疎いんですかね。まあ新しい兵器ですし、無理も無いです。銃弾が肉を貫通しないと銃弾が体内に残留するんですね。そうなると、鉛中毒ってのになるんです」

「鉛中毒……」

「一部の金属は毒性を持ってるんだよ。鉛はその代表格」

 首を傾げ続けるエクスに、サンドラが説明を付け加えながら、ヘキサに先を促す。

「ヴァーニャくんは割と重めの鉛中毒に罹ってましてね。症状は全身の痛みだとか食欲減衰、虚脱感ってところですね。少なくとも、早く治療しないと死にますよ」

 死ぬ。その言葉にエクスの体が緊張して固まった。その様子を見てエクスのトラウマに触れてしまったと察したのか、ヘキサは口篭った。

「早く医者に診せないといけないんですが……」

 泥のように眠っているヴァーニャを気遣わしげに見て、そして躊躇いがちに言う。

「……彼をどうにかできる知り合いが、首都にいます。何にせよ、早く行かなければなりませんね。こっから急いでも七日くらいで着くと思いますけど」

 やはり優秀な医師は国の中心である首都オミクレーに集まっているのだろう。富が一極化しているのも考えものだ。

「そうとなれば、明日は早朝から出発した方が良いですね。善は急げです」

 


「……眠らないんですか、ヴァーニャくん」

 外でベルフェの側で煙草を吸っていたヘキサは、闇夜に向かって尋ねる。そこには、幽鬼のように生気が無い少年、ヴァーニャが佇んでいた。

 厩の壁に体を預けて、気だるげにヘキサを見たヴァーニャは、顔色が明らかに悪い。痩せこけた頬を見せたくないのか、襟が高い軍服で顔の下半分を覆っている。彼に薄く微笑みかけて、ヘキサは手を差し出した。

 しかし、彼はその手を取らずに真っ直ぐにヘキサを見つめる。まるで、何かを問いかけるように。あるいは、見定めるように。

「……わかってるんでしょ?」

「何がでしょう」

「誤魔化さなくていいよ。ナマリ中毒だとかよくわかんないけど、要は毒でしょ? 毒の怖さは、ボクもよくわかってる」

 育った村では毒矢をよく使ってたからね、と彼は自嘲のように笑う。あまりに痛々しい笑みで、ヘキサは思わず眉を歪めた。

 ああ。こんな可哀想な、無駄に命を散らす子供を少なくしたいから、ワタシはここにいると言うのに。

 ヘキサは己の不甲斐なさに唇を強く噛み締める。それを目の前の子供に気取られぬように、作り笑いをした。もう何十年も続けてきたおかげで、あるいはせいで、不自然さなんて欠片も無い、おどけた笑み。

「……子供げがありませんねぇ。キミくらいの子供なら、死にたかあないって泣き喚きゃあ良いんですよ」

「泣き喚いたら助かるの? ボクの父さんと母さんも村の人も戦場での仲間も、みんな死にたくないって泣いてたけど、結局みんな死んだよ」

 悲壮感を全く感じさせないあっけらかんとした口調で、ヴァーニャは語った。誰かの死を悼む心を失ったかのようで、その有り様自体がひどく悲しいものにヘキサの目には映る。

「ボク、死ぬんだよね? 近いうちに。医者とかに診せても」

 それは疑問の形をとっているが、確信的な口調だった。自分の体の事は自分が一番わかると言うが、きっと彼もそうなのだろう。

 彼は自覚している。

 自分の命が、七日も保つか怪しい事を。

 死ぬ前に首都に着けたとしても、手遅れになっている可能性が非常に高い事を。

 誤魔化す必要は無いと判断して、ヘキサは短くなった煙草を地面に落として踏みつけた。弱々しい灯火はすぐに消えてしまう。

「……そうですね。アナタは死にます。確実に」

 ヘキサは、人より多くの死に触れてきた。だからわかるのだ。目に映るのだ。これから死んでしまう人間が。

 所謂、死相というものだ。ヘキサは特殊な能力もなく、感覚的にそれがわかる。

「ですが、アナタを首都まで連れて行くのは、アナタを死なせないためじゃありませんよ」

 ベルフェを撫でながらの発言に、ヴァーニャは目を丸くする。

 まるで死ぬことは前提であるかのような言い方だと彼は思ったが、それは実際、その通りだった。

 ヘキサは、ヴァーニャの命を助けられるとは考えていない。路地裏に倒れている彼を見た時から、ずっと彼のかんばせに浮かぶ死相には気がついていた。最初から、彼が死ぬ事を予期していた。

「命を助ける事はできなくても、別の方法で助ける事はできるんです。彼女の手を借りなければならないので、首都に行かなければならないだけ」

 奇妙な事を言う彼女に、ヴァーニャは月の色の瞳を瞬かせた。命は助けられないのに、命以外の何かを助ける。ヘキサが言っているのはそういう事だ。彼にはその意味が全くわからなかった。

 未練がないように逝かせる事を指すのなら、ヴァーニャには未練などない。強いて言うのならば「人生で一回くらい、満腹の感覚を味わってみたかった」が願いになるが、それも希薄なものだ。

 彼は貧しい狩猟民族の村の出身であり、生まれた頃には既に戦争が始まっていたので、満足するまで食事をする経験が殆ど無かった。満腹による幸福感が知らないのだから、それを求める事なんてできない。

 そんな育ちもあり、彼はそもそも自分の人生に希望を見出していないし、何かを求める事はできない性格だ。だから、晴らす未練がそもそも無い。

 ヴァーニャに与える救済は、それこそ救命しか無い。しかしヘキサはそれを諦めているときた。彼は彼女の意図が全く理解できずに、困り顔でヘキサを見上げた。

「その時になればわかりますよ。今は、首都に着くまでに死なないように療養する事ですね」

 早く死にすぎたら、彼女でも手がつけられなくなるかもしれませんから。

 ヘキサはヴァーニャの頭を乱雑に、髪をかき乱すように撫でる。それのせいで目を回した彼の手を取って、宿に向かって歩き出した。体がうまく動かない彼の容態を気遣って、煩わしいほどにゆっくりと。

 ヴァーニャはその気遣いをありがたく思いながら、微睡みを覚えてゆっくりと瞬きする。

 空には月が輝く。ほんの少し欠けたそれは、ヴァーニャの瞳と重なった。



 その旅路は、想像よりも安穏としたものだった。

 指名手配が届いていないのか、エクス達が町を普通に歩いても騎士が飛んできたりする事はない。そもそも大きな町や貴族の領地にしか騎士はいないので、他人の目は安心できるだろう。

 町には買い出しにしか行かず、ずっと馬車に揺られていた。最初こそ酔いが酷くて寝込んでいたエクスだったが、二日もすれば徐々に慣れていき、現在ではわずかに不快感がある程度だ。

 四六時中進んでいるのでベルフェは大丈夫かとヘキサに訊いたところ、「この子は特別ですから、大丈夫ですよー」とのんびりとした返事が返ってきた。ヘキサもずっと御者席から降りていない。エクスが眠っている深夜にでも休憩をとっているのだろう。

 それよりも気がかりなのは、エクスとサンドラ以外の同乗者、ヴァーニャだった。

 ヴァーニャはずっと馬車の隅で脚を折りたたみ、毛布で全身を包んでいる。

 何かに耐えるように、彼はずっと眠っていた。あるいは、気絶しているかのようだった。わずかに血と硝煙の匂いを漂わせた彼は、時折その金色の瞳を覗かせてはまた何時間も目を閉じ続けるという事を繰り返している。

 しかし、時折目を覚ますタイミングが合った時には、彼の祖国の事を語ってもらった。

 彼の出身国は、北の大帝国のグルッペ。隣国のグルーパと戦争状態にあるらしい。

 地下資源が豊富である代わりに食料に乏しく、食料自給率が著しく低い国。鉱山資源を他国に輸出して富を築き上げているらしく、プロドディスへの交易も多くて、輸出額の半分はプロドディスだという。

 十五年前から始まった戦争と、八年前からの国交の断絶。それにより国内は食糧危機に瀕しているらしい。

 ヴァーニャは現在より十二年前に、グルッペとグルーパの安定しない国境の付近に存在する貧しい村に産まれた。彼が生まれた頃には既に戦争が始まっており、そのせいで食糧が慢性的に不足しており、「満腹」という感覚を知らないらしい。

 村の住人の多くが飢えで死んでいく中、ヴァーニャの両親も飢餓で死んだ。食料を息子であるヴァーニャに譲り渡した事を、最後の最期で後悔しながら。

 やがて村の住民は徴兵され、ヴァーニャも少年兵として軍に加入。村で行っていた猟の経験を活かして狙撃手として名を馳せたものの、そのあまりの強さからメアリー・スーである事を疑われ、実験部隊に転属。

 実験部隊とは名ばかりの特攻隊の中で、同じくメアリー・スーと疑われた戦友達と共に小さな反旗を翻し、逃亡したのだと言う。

 戦場に置いて、敵前逃亡は重罪で即刻銃殺刑だ、とヴァーニャは言った。彼の口調は幼さを残しているものの、軍事用語だけは流暢に喋っていた。

 必死に軍から逃げて、国境をいくつも越え、あてもなく彷徨った先に行き着いたのが、あの町。

「お金なんて持ってなかったから、なーんも食べれなかったけどね」

 飄々と、悲壮感を感じさせない口調で彼は言った。

 自分の凄絶な境遇を可哀想だとも思わず、他人を羨む事も無い。そんな態度で。

「エクスさんは?」

「え、俺? 俺は……」

 問われて、エクスはわずかに口籠もる。話したくない訳では無い。話せたら肩の荷を下ろせるのかと思ったけれど、それだけで下ろせる軽いものだったと思えてしまう事が、恐ろしかった。

 けれども、この少年は身近な人の死に泣けなかった自分に、同調してくれるかもしれない。そんな希望を持って、エクスは話し始めた。

「俺は、この国の西の農村の生まれで、サンドラとは幼馴染だった。裕福ではないけど特別貧しくもない村で、平和だった。この前、村に突然騎士がやってきて、闇討ち、って言うのかな」

「ああ、夜戦かな」

「戦いって言えるのかは怪しいけど、とにかく襲撃を受けたんだ。俺は、サンドラと一緒にそこから逃げた。……俺、父さんも母さんもレノおじさんも亡くしたのに、泣けなかったんだ」

 少し怯えながら、目を強く瞑って打ち明ける。それは、エクスにとって大層な勇気が要る告白だった。己の酷薄さの告白だった。

「……」

「……何か、言わないのか?」

「え? あ、終わり?」

 素っ頓狂な声を上げたヴァーニャに、エクスは思わず目を開けた。目の前には、その金色の瞳を瞬かせて、鳩が豆鉄砲を喰らったかのような顔をしているヴァーニャ。

「終わり、だけど……俺、泣けなかった事を言うの結構勇気出したんだけど……」

「……え? 泣けないっていうか、泣かないって普通じゃないの?」

 心底驚いたように、ヴァーニャは言う。予想の斜め上を行く返答に、今度はエクスが間抜けた顔をした。

「いや、だってさ。矢を射ってシカを殺した時にエクスさんは泣くの? クマに食べられてるサカナを見て悲しむの?」

「いや、泣かないし悲しまないけど……」

 農業を主に行っていたエクトル村だったが、狩猟もそれなりに行っていた。エクスも動物を弓矢で射殺した経験や虫が捕食をする場面を見た事はあるが、泣きも悲しみもしなかった。ただひたすらに無関心だった。

「でしょ? それと同じじゃない?」

「いやいや、ヴァーニャの村でも、人が死んで悲しんでる人とかいただろ?」

「あー、いたね。ボクにはあれ、よくわかんなかったや」

「両親が死んだ時とは、戦友が死んだ時とか、何も思わなかったのか……?」

「うーん……死んだなぁ、としか。あ、あと、痛かったんだろうな、怖かったんだろうな、とか」

 あくまで飄々と、ヴァーニャは言ってのける。

「そこまで考えられて、どうして泣けないんだ……?」

 その問いは、エクスの自問と同じだった。

 村の人達が受けた苦しみを想像した。その最期を、見ていないなりに。しかし、そこまで感受性を働かせてもなお、エクスは泣けなかった。

 ヴァーニャも同じだ。人が受けた苦しみを理解できる。彼自身が飢えた経験を銃弾をその身に受けた経験もある分、想像できる苦痛は生々しいだろう。しかし、彼は泣けない。泣かない。

 それが、エクスには不思議でならなかった。

 自分も、目の前の少年も、どうして涙を忘れてしまったのだろう、と。

「泣けない……? ボクって、泣けないのかな。けど泣けなかったところで別に良くないかなって思うんだけど」

 ヴァーニャの瞳は、無垢だった。月のような大きな瞳には一片の濁りもない。

 本当に、彼はわからないのだ。

 悲しいという感情が、欠落しているのだ。

 それを知らないからこそ、そんな事が言えるのだ。

 無知故に、その異常を直す事もできない。自分の異常さに無自覚だからこそ、それを直すという発想にすら思い当たらない。

 そういった意味では、ヴァーニャは実に子供らしい子供なのだろう。

 しかし、その子供らしさはエクスにとって戦慄の対象だ。

「……泣けない事を、悲しいと思った事は?」

「んーん。多分ない。けど、ボクの親が死んだ時に、そのお肉をムダにしちゃいけないねーって村の人に言ったら、冬眠から起きた母グマでも見るような目で見られたから、多分ボクか村のどっちかが変なんだろうなーとは思った。軍に入ってから、変なのはボクだって言われたけどね」

 からころと笑いながら語るヴァーニャ。やはりその表情に、悲惨さは全く無い。そこで、エクスは理解した。

 ヴァーニャは、人間という生命体に対して、異様に無頓着なのだ。

 釜の飯を共にした戦友だろうが、食料を分け合った隣人だろうが、育ててもらた親だろうが、全て等しく『ニンゲン』という種類の獣だ。

 きっと、自分自身でさえも。

 だからこそ、両親の死体を『お肉』だなんて表現ができるのだ。

 エクスは初め、ヴァーニャは自分と同じように何らかの欠落を持っていて、周囲を取り巻く死に泣けない性質なのだと思った。それは違った。

 人間としての欠落を持っているのは確かだが、それはエクスとは全く別質のものだ。

 正確には、別質だと思いたい。エクスは自分自身をもう少し、情がある人間だと認識している。情があるからこそ、泣けない自分を疑問視しているのだが。

 エクスとヴァーニャは、やはり同じ人間などでは無いのだ。

 そう思っていると、ヴァーニャは静かに微笑んだ。先程まで浮かべていた無邪気な、だからこそ酷薄に見える笑みとは違う笑み。

 悲しげで、寂寞とした。隔絶を覚えられたと言うような、そんな笑み。

「キミもそういう目をするんだね」

 沈んだ声音で、ヴァーニャは言う。

「ニンゲンって、社会を作る生物だって知ってる。群を作るイキモノだって理解してる。……ボクだって、そこから切り離されたら、ニンゲンとしてボクはダメなんだなって思う事はあるんだよ」

 彼はそうとだけ言うと、毛布に包まってエクスに背を向けた。喋り疲れてしまったのか、すぐに寝息を立て始める。

 その時、エクスは自分の思い違いに気がついた。

 ヴァーニャは悲しいという感情を解さない訳ではない。

 感情で涙を流すのは人間だけだ、と言う言葉を以前レノから聞いた事がある。ヴァーニャは、その感性が野生的なだけだ。喜怒哀楽もあるけれど、感情表現としての涙の機能を知らない。ただそれだけだ。

 一般的な涙の象徴を知らないから、彼自身も自分に悲しいと言う感情がある事に気がつけていないだけなのだ。

 無惨だ、とエクスは思う。

 確かに異常な少年だ。けれども、その異常さに誰かが気付けてあげたのなら。彼の心を、誰かが読み解けたのなら、彼は自分の両親が死んだ時に、泣く事ができたのかもしれないのに。

 そこまで思って、ふと考える。

「……俺の異常性も、もっと早くに誰かに気付いてもらえたら」

 村の滅亡に、泣けたのだろうか。

 責任転嫁だと思った。

 エクスの感情はエクスだけのものだ。エクスの感性はエクスだけのものだ。

 それが少し他人と異なっていたからといって、周囲に気付けと言うのは我儘というものだ。エクスには自分がまともでないと思える常識があるのだから、自分の常識はずれに気がつけなかったのは自分の責だろう。

 エクスはそこで思考を止める。それ以上考えてしまったら他責思考は反転して自責思考になってしまいそうで、そうなると更に気分が沈んでしまいそうだった。

 ちらりと、ヴァーニャの小さな背中を観察する。

 栗色の髪は毛束ごとに不揃いな長さで、それが彼のチグハグさを表しているようだった。

 ヘキサから、ヴァーニャは衰弱がひどいのと、鉛中毒の症状が出ているとは聞いている。しかし、飢えも鉛もエクスにとってはあまり身近ではないものだった。

 飢えに関しては、エクトル村は運がいい事に大きな不作は無かったので、いつでも満腹とは行かないが、飢える事はなく生きてきた。鉛中毒に関しても、毒という単語は山では身近であるが、それに聞き馴染みのない金属の名前と絡められるとよくわからないものになってしまう。

 だから、エクスはヴァーニャの病状の深刻さを理解できていなかった。できていたとしても病や薬の知識が皆無であるエクスにできる事は何一つない。そもそも医者にだってどうにもできない状態なのだから、素人が何かをしようとしてもそれは徒労となるのである。

 サンドラもそれは同様だ。エクスは何かできないかとヴァーニャにチラチラと視線をよこしているが、サンドラは最初から自分ができる事はないと諦めているのか、膝を折りたたんで座り込んで目を閉じていた。エクスとヴァーニャの会話の間、サンドラはずっと眠っていた。

 そこからは、会話はほとんど交わさなかった。ヴァーニャの眠る時間が更に延びて、彼が起きている時間はエクスが眠っているという事も多かったため、会話の機会はほとんどなかった。彼の言う『夜戦』とやらで睡眠時間が普通と違うのか、それとも鉛の影響か、睡眠の時間とタイミングが不規則になっているらしかった。

 ひたすらに外の風景を眺め続ける事一週間。

「あ、見えましたよ」

 久しぶりにも思えるヘキサの声により意識を呼び起こされて、エクスは眠気に目を擦りながら顔を上げた。

 まばらに建物が建てられている村を抜けると、遠くに丘のように盛り上がった土地がある。

 赤褐色とグレーに彩られた建築物がその立地を隆起させている。放射線状に伸びた街を一望できる高さに、煌びやかな城が聳え立っていた。

 それがしっかりと見えたならば、その豪奢な道の街にエクスは目を輝かせ、故郷の村との違いに言葉を失っていただろう。

 しかし、それができなかったのは、ひとえに街が見えなかったからだ。

「……なんだ、あれ」

 エクスは思わず自分の目を疑う。

 彼にとっての首都オミクレーとは、夜でも構わずにギラギラと光り輝いていて、往来には人が絶え間なく通り、見た事もない機械類が活用されている、そんな街だ。

 しかし、彼は忘れていたのだ。サンドラがかつて首都オミクレーの絵を描いた時、それは灰色に塗りつぶされて薄く立方形の建物らしきものが並んでいる風景だった。エクスはそれを、現実とは全く遠い、絵に不慣れな故にぐちゃぐちゃになったものだと無意識的に思い込んでいた。

 今ならば、本物の首都オミクレーを自分の目で見た今ならば、わかる。

 サンドラが描いたあの絵は、現実に全く則していない訳ではなかった。

 むしろ、要所の特徴を捉えていた。彼女の高い理解力と、見たまま感じたままのものを正確に写し取れる、幼くも拙くも才能を感じさせる作品だったのだ。

 首都は、煙に包まれていた。

 薄い城のシルエット。わずかに照らし出された直方体の建物の群。城の周囲から離れている郊外では、大量の工場が無機質に立ち並んでおり、現在進行形で煙を吐き出し続けている。

「……」

 想像との乖離に絶句しているエクスに、サンドラがつまらなさそうな表情をした。

「あの通りだよ。ヘキサ……さん、が言ってたでしょ」

 プロドディスは世界最大の工業国。その排気で空気は白く煙る。

 ならば、その工業が一番盛んに行われている首都の空気が煙で濁っていないはずがない。

「ずっと変わらないね、あそこ」

 サンドラはそう言って、煙の向こう、城のシルエットを睨んだ。

「あらら、サンドラさんはあそこに行った事がおありで?」

「……はい」

 サンドラは、わずかに目を細める。

 ヘキサが、あらら、と酷薄に嗤った。


「それはそれは、大変都合がよろしくない」


 それと同時。ヘキサが座っていた御者席が、唐突に崩壊した。

 それはそれは派手な破砕音と煙を立てて、本当に唐突に。

 ベルフェを繋いでいた縄が切れてしまい、また、衝撃で荷車の左前輪が一つ外れて走行不能になった。一度馬車全体が大きく傾き、エクスは床になんとか伏せる。

「っ、なんだ⁉︎」

 エクスは目を剥く。反対にサンドラは特に驚いた様子もなく、静かに御者席を見ていた。

 もうと立った煙が、また唐突に切り裂かれた。撒き散らされた紗幕の中から現れたのは、エクスと大して歳が変わらないように見える少年だ。

 金色の長い髪を頭の高い位置で結い上げており、吊り上がった眦に縁取られている瞳は血のような朱殷の色。服装はフォーマルなスーツを着崩しているようであり、袖が捲られ襟が緩められたカッターシャツからはハイネックの黒のインナーが覗いている。

 身長はエクスと同程度なのだが、筋肉のつき方が明らかに違う。エクスの必要な分だけに鍛えられた筋肉とは、用途がまず違うといった印象だった。

 金髪の少年の手には戦斧が握られている。長物の先端に手斧を括り付けたような不恰好な武具だったが、少年の手にはそれが馴染んでいるようだった。煙を引き裂いたのも、あの斧だろう。

 少年はエクスとサンドラに一瞥を寄越すが、その視線は二人をすり抜けて馬車の奥へと向けられる。

「おー怖い怖い」

 飄々と薄ら笑いを浮かべながら言ったのは、いつの間にか荷車の後方に移動していたヘキサだった。彼女は後方で寝込んでいたヴァーニャを担ぎ上げて、荷車から飛び降りる。

「え、あえ、なに?」

 ヴァーニャも御者席が破壊された時点で起きていたようで、唐突に担がれて目を白黒させた。手足をジタバタと動かして弱々しいながらも抵抗を見せていたのだが、ヘキサが何かを囁いた途端それをぱったりとやめてしまう。

「セタンタくんがいるって事はー……」

 ヘキサはその瞬間、機敏な動きで一歩跳びずさった。その瞬間、彼女が先ほどまで立っていた位置に炎がつく。火は明らかに自然ではない勢いと形で広がり、荷車とヘキサとを分ける柵になった。

 荷車の横をすり抜けて、一人の少女が姿を現す。明るいブラウンの髪をツインテールに結い上げている女子だ。髪と同じ色の意思の強そうな瞳から、気が強そうなイメージを抱く。

 彼女も金髪の少年と同様にフォーマルな服装だが、どちらかと言えばスーツというより学生服のような印象だ。腹部には緩くコルセットを巻いており、彼女の肢体のなだらかさを強調させている。短いスカートから露出した脚にはソックスが貼り付いていた。

 少女は炎の向こうにいるヘキサを強く睨みつける。

 そして、ヘキサも同様に少女を睨んでいた。敵愾心が含まれた敵意の目で。

「ヘキサァアアアアア!」

 少女ががなった。地を這うように低い声だった。

「……マグノリアッ!」

 ヘキサが叫んだ。それと同時に彼女は背負っていた細長い袋から、中身を手に取る。

 それは、エクスにとっては見慣れない物だった。

 黒光りする金属と木材で構成された、細長い兵器。刺す刃物がある訳ではない。しかし、それはどんな刃物よりも致死性が高く、容赦なく人の命を刈り取り肉塊を作り上げる道具である。

 マスケット銃。それは俗にそう呼ばれている。

 銃自体が近年に開発されて一般には出回っていない兵器であり、もっと言うのならば実用化すらまだである試験段階だ。暴発の危険性が高く、戦場に持っていくには不安定な要素が多い。

 そんな危険な代物を、ヘキサが持っている。

 エクスは銃という道具そのものをよく知らないが、次の瞬間、それの危険性を思い知った。

 ヘキサはなんの躊躇もなく銃口を、マグノリアと呼ばれた少女の方向に向ける。それはすなわち、エクス達がいる方向だ。

 片手はヴァーニャを担いでいるため塞がっているにも関わらず、片手で銃を支えて標準を定め。

 次の瞬間、耳をつんざく轟音に、エクスは反射的に耳を塞いでいた。

 マスケット銃からは硝煙が立ち上っている。次に、木材が軋む音を立てながら馬車が傾いた。

 斧を持った少年、ヘキサにセタンタと呼ばれていた彼によって左前輪が破壊されたのだが、他の三つの車輪が無事だったために馬車は崩れる事はなかった。しかし、ヘキサが放った銃弾により左後輪が壊されてバランスが崩れ、左に傾いたのだ。

 人間四人を危なげなく運んできた馬車を支える車輪を、一発で破壊した。その破壊力にエクスは血の気が引く。もしあれが自分に当たっていたらと思うと、内臓がざわつくような心地になった。

「二対一って、卑怯とは思わないんですかぁー?」

「アンタなんかにかける慈悲なんて焼き尽くしたわよ、国の犬」

 ヘキサは威嚇のようにマスケット銃をマグノリアに向けながら挑発する。対するマグノリアは、こめかみに青筋を立てながらも冷静さは失っていないようで、セタンタを側に侍らせながらヘキサを睨んでいた。

「ケルトイの滅び損ないと、高慢ちきな魔女。そんなんとまともにやり合ってたら命がいくつあっても足りませんよ。……だから、犬らしく尻尾巻いて逃げさせてもらいます」

 ヘキサはそう言って、突然踵を返して後方に走り出した。

「リア、追いかけるか?」

「……そうね、追いかけて。あたしはあっちに対応するから」

 セタンタはヘキサが去っていった方向に走り出し、マグノリアはエクス達に振り返った。敵意は無いと示すように両手を挙げながら、凛とした声で彼女は言う。


「あたし、マグノリア・ウィリアムズ。突然こんな事に巻き込んでしまって申し訳ないのだけれど、あの雌犬について訊いてもいいかしら」




 マグノリアに案内された先は、ひどく閑散とした場所だった。

 地図で言うのならば確かに首都に属する場所であるはずなのに、エクトル村よりも寂れて見える。

 石畳で舗装された道には大量の廃棄物が隅に寄せられており、ひどく不潔だ。色褪せたレンガや石で作られた直方形の建物にはミミズのような太さ様々のパイプが這っている。

 そして、街の外から見た通り、空気はひどく濁っていた。数歩先の風景すら不明瞭なほどに。

 マグノリアはそこで迷う事なく、一軒の寂れたアパルトメントにエクスとサンドラを案内した。

「改めまして、あたしはマグノリア。二人とも危なかったわね、あたしが来なかったら死んでたわよ」

 彼女は二人を応接間らしき場所のソファに座らせて開口一番にそう言った。

「あたしはレジスタンスを率いるリーダーなの。報告にあった逃亡者ってあんた達でしょ」

「レジスタンス……逃亡者……」

 聞き慣れないと同時に言い慣れない言葉を口の中でまごつかせながら、エクスは状況を必死に飲み込もうとしていた。マグノリアは苦笑して続ける。

「今の国は腐ってるからね。改革を起こすために奮起している人々を束ねているのがあたしよ。逃亡者ってのは、ここ一週間ちょっとは例の鎖国とレジスタンス狩りであちこち騒動になってるのよね。それに巻き込まれて逃げてる人達を逃亡者って呼んでるの」

 ヘキサから聞いていたレジスタンスの存在。その統率者が目の前にいる事と、その彼女が自分とそう歳が変わらない少女である事にエクスは驚きを隠せない。

「なんにせよ、無事で良かったわ。あんた達はこの私が、ウィリアムズの名前をかけて丁重に保護します。大変だったわね、もう安心よ」

 その温かな言葉に、エクスは目を丸くした。

 体にどっと疲労が押し寄せたような感覚。それに安堵が加算されて、体も瞼も全て鉛になったかのように重くなる。慣れない環境に来たこと、味方だと思っていたヘキサの裏切り、一週間ずっと座っていて急に動いた事など、さまざまな要因が積み重なった疲れだ。

「あら、眠るの? 仮眠室が一応あるから、そこに行ってもらえれば……」

「いや……まだ、わからないことが……」

 うつらうつらとしかけているエクスは、しかしまだ眠りたくはなかった。目の前に会って数十分程度の人間がいる事もある。サンドラを一人にする事は避けたかった。

「あ、そう。なら魔法をかけてあげる。額貸しなさい」

 マグノリアはそう言いながら、エクスの前髪をかき上げて額に人差し指をつける。そして、そこから温かさが流れ込んだ。物理的な温かさではない。神経が熱を持ったかのような、そんな熱さだ。

 同時に全身に活力が湧き上がる感覚に、急激に目が冴える。その奇妙な感覚に、エクスは目を剥いてマグノリアを凝視した。

「効いたわね。まあ効かない訳が無いのだけれど。あたしの魔法は一級品なんだから、ありがたく思うのよ」

「……魔女」

 マグノリアが口にした魔法という単語に、サンドラが反応して言った。

「勘がいいわね。魔女なんてメアリー・スーと比べたらマイナーな存在だし、知らなくてもおかしくないのに」

 マグノリアは含み笑いを浮かべながら、懐から短い杖を取り出す。その先をエクスとサンドラに見せつけるように見せつけて、マジシャンのように大仰なそぶりで杖を振った。

 すると、杖の先に光が灯る。電球もないのに、本当に唐突に。好奇心をそそられてその杖先に触れようとすると、光が突然炎に変わって木製の杖の先が燃え始めた。

「うわっ⁉︎」

「わわ、っと」

 思ったよりも炎の勢いが強かったのか、マグノリアも若干の動揺を見せて杖を振り火を消した。格好がつかないながらも「ジャジャーン」とキメ顔をして見せるものだから、エクスは唖然としてしまう。

「今のは……?」

「言ったでしょ、魔法よ」

 魔女。エクスはその時初めて、その単語の意味を初めて理解した。

 まずは魔女の定義から始めましょうか、と彼女は話し始める。

 魔女というのは、この世の空気中に漂うエネルギーの一種、俗に魔力というものを操る才能を持った人間の事を指す。

 魔力を自在に操り、変換することで炎や光、音などを発生させる事が可能。それを活用して様々な事をできるのだが、マグノリアはそれ以上は話さなかった。

「メアリー・スーとは違うんだよね」

 サンドラが確認するように問うと、マグノリアは頷く。

「ええ。魔力を操るってのは一種の才能。異能力とは言えないとあたしは思ってるわ。もちろん稀有な才能ではあるけれど、それだけでメアリー・スーって言うのはね。まあ一般人からしたらどっちも同じようなものだし、魔女狩りの風習……因習も、まだ濃く残っているもの」

 彼女は言いながら掌の上に炎を浮かび上がらせ、すぐに握りつぶす。どうやら魔法とやらの発動に杖は必須ではないらしい。

 つまり、マグノリアも被差別対象者である魔女である、という事だ。彼女がレジスタンスであるのは、魔女が迫害される文化を変えたいと思っているからかもしれない、とエクスは思った。

「あ、そうそう、ヘキサに関してなんだけど、あいつにもう関わらない方が良いわよ。あいつは……」

「私達を害するつもりだった、でしょ?」

 表情ひとつ変えないままに言ったサンドラに、マグノリアは目を丸くする。

「あら、察しいいのね。その通りよ。あたし、あいつと敵対関係にあるのよ」

「レジスタンスと敵対って事は、つまり……」

「ええ。あの雌犬、ヘキサは国の所属なのよ」

「国ってつまり、騎士の仲間……?」

 エクスの網膜に蘇るのは、世闇の中で村人を鏖殺してまわる騎士の姿。

 ヘキサは、最初からエクスたちの味方でも何でもなく。

「もしかして、俺達は騎士に突き出されようとしてた……? いや、だったらなんでその場で殺さず……」

「それは簡単よ」

 マグノリアは窓から外を指差す。位置関係的に女王が住まう城、ウィンチェイテ城のシルエットが見えた。

「現女王エルリ・ジェーベドはね、年若い娘の生き血を何よりも求めるド変態なのよ。多分目的はあなたね」

 マグノリアはサンドラを指差す。指名をされたにも関わらず彼女はやはり無感動な様子で、淡々とその事実を受け止めていた。

「こういう言い方は嫌だけど……男の方は興味は無いけれど、少女は献上品として最適。けれどその場で男の方を殺したら女に抵抗されるだろうから面倒。二人とも首都に連れて行って、男の方は労働者にすればいい。……そんな腹積りだったと思うわ」

「だったら……だったらヴァーニャは……」

「ヴァーニャ……ああ、あいつが担いでた子の事ね。多分だけれど、あんた達の信頼を勝ち取るためかも」

 思えば、ヴァーニャを発見したのはエクスだった。サンドラの信用を得るためにエクスを使っていたのなら、ヴァーニャも同様の目的に利用していてもおかしくはない。

「……全く、こうなるから嫌だったのに」

 サンドラが小さく呟く。その言葉の意味をマグノリアはできなくて、エクスにはできた。

「お前それ……俺がヴァーニャを見つけなければよかったって事かよ⁉︎」

 エクスは思わず叫ぶ。激情を全てぶつけるように。

 サンドラの言葉は、彼にとっては責めているような響きに聞こえたのだ。エクスがヴァーニャを見つけなければ、彼はヘキサに利用される事なんてなかった。王城でどんな扱いをされるかなんてわからないけれど、あのまま野垂れ死んだ方が彼にとってマシだったのではないか。

 もしこれからヴァーニャが死ぬよりも酷い目に遭ったのなら、それはエクスのせいだ。ヘキサにヴァーニャを見つけさせてしまったエクスのせいだ。

「そんな事は言ってないよ。私はヴァーニャを誰にも見つけさせたくなかっただけだから」

「言ってるじゃねえか! 見つけなかった方が良かったって、サンドラはそう言ってんだろ」

 思わず語調が荒くなる。サンドラに当たり散らしてしまう自分と、それを客観的に見る自分が同居していて、情けなさに涙が滲んだ。

「だって、エクスはそうやって……」

「俺のせいだってのか? もういい、今からでも間に合うかもしれない、俺はヴァーニャを探しに行く!」

 それはもはや意地だった。サンドラの言葉もまともに聞かず、エクスは扉を乱雑に開いて出ていった。

 激情家のエクスがいなくなった事により、部屋は水を打ったかのように静まり返る。

「……だって、エクスはそうやって気に病むから……」

 消え入りそうな声でそう呟いたサンドラに、話に入りきれなかったマグノリアは静かに溜息を吐いたのだった。




 エクスは苛立っていた。

 自分の行動が間違っていたとは思いたくない。人命救助のつもりが小さな少年を更なる過酷な運命に巻き込んでしまったなどとは考えたくなかった。

 冷静に考えるのならば、サンドラに喚いた事は八つ当たりでしかなかったのだろう。サンドラの意図が読みきれなかったことも要因として大きいが、それにしてもエクスは激情に呑まれて言い過ぎてしまったのは否めないだろう。

 しかし、今の彼はそんな自己分析をする余裕すら欠けていて、苛立ったまま土地勘もなく煙る街を歩く。荒々しく石畳を踏んで、やけに大きく響いた足音にすら苛立ってしまい、歯軋りをした。

「……あれ、お前」

 後ろから肩を掴まれて、エクスは眦を吊り上げて振り返る。そして睨み返された朱殷の視線に、後退りする。

「あ、えっとさっきの……」

「セタンタ。お前、逃亡者の一人だよな」

 金髪のポニーテールの少年、セタンタは訝しげな表情をしていた。彼が先ほど振っていた長い斧は、今は黒い袋に包まれている。

「エクス・カレトヴルッフです」

「んじゃ、エクス。歳いくつ?」

「十六……」

「じゃあ多分同い年だな。畏まんなくていいぜ」

 セタンタは無邪気に笑い、気安くエクスを呼び捨てにする。

「どこ行くんだよ。一応気いつけた方がいいぞ、騎士がいるかも知んねえ。貧民街にはほぼいないけどな」

 貧民街、という言葉に反応して、思わず周囲を見回す。どうやらここは都市の中心部ではないらしい。

「ああ、そうかお前首都知らねえのか。改めて、ここはプロドディス王国の首都、オミクレー……の、郊外にある貧民街だ。面積は三分の二近いけどな。真ん中はもっと煌びやかで、首都って感じだぞ」

 セタンタは空気を見上げながら嘆息して続ける。

「もっとも、この空気は中央も郊外も変わんねえらしいがな」

 心底忌まわしそうに。

「……んで、お前なんでここにいる? リアのとこにいるんじゃないのか」

「その、サンドラ……俺の相方と、喧嘩しちゃって……」

「ほーん……言っとくが、リアそういうの嫌いだから多分怒ってるぞ。どっちに非があるか知らねえけど、あいつそこらへん厳格で公正なくせに感情的だから」

「矛盾してないかそれ」

「肩入れしやすいんだよ。どこまでも正しく物事を見るんだが、間違ってる方には容赦ないからな。素直な奴は好きだから、お前が悪いんなら謝る準備しとけ」

 セタンタはカラカラと笑いながらエクスの肩に手を置く。その仕草にどこか懐かしさを覚えて、エクスほぼ無意識的にその問いを声に出していた。

「セタンタは、レノ・ループって人知ってるか?」

 その唐突な質問にセタンタは一瞬目を丸くして、そして考えるそぶりを見せる。

「……知らない、と思うな。なんでだ?」

「いや、言葉遣いとか仕草が……故郷の村で世話になった人に少し似てて。それにセタンタって名前も、その人から聞いた事があるような気が……」

「俺はここの貧民街で育ったから、お前の村は知らねえ。名前に関しても……おい、話逸らされたか逸れたかわかんねえけど、帰った方が良いぞ」

「え?」

 セタンタが急に周囲を取り巻く空気をピリつかせる。敵意にも近しい警戒心。

「……いるんだろ、腐臭がするぞ『ハルマティア』の屍人」

 セタンタが濃霧に包まれた路地裏に向かって静かに言う。数秒の後、霧がわずかにぼやけて人のシルエットが現れた。

 そこにいたのは、貧民街の路地裏に似合わない煌びやかな格好をした女性だった。

 どこか人工的な緋色の髪に、翡翠の瞳。二十代半ばほどの年若い娘で、髪と同じ色の踊り子風の衣装に身を包んでいた。少し動くだけでしゃら、と音が鳴り、どうして今までその音に気づかなかったのだろうとエクスは思う。

「女性に向かって腐臭とは、随分と失礼ですわね」

 淑やかな口調。色香を含んだ麗しい声。その女性を構成する全てが美しいとすら思えた。彼女は演技くさく目を伏せて、『悲しい』の感情を表現して見せる。

「良いですわ、今日はヘキサが捕らえ損ねたという子供を拝見しに来ただけですもの。そこの子」

「っ、はい」

 その翡翠の瞳で見つめられながら呼び止められ、思わず身を固くしながら返事をした。ヘキサの名前を彼女は出した事、セタンタが警戒心を露わにしている事から、きっとヘキサの仲間なのだろう。

「ヘキサから言伝ですわ。ヴァーニャ、でしたっけ。あの子、死にましたよ」

「……え?」

 呆然と、その唇から母音を漏らす。追い討ちをかけるように、女性は続けた。

「だから、死にました。可哀想な事に、元から助かる由なんてなかったのですわ」

 ヴァーニャが、死んだ。

 その言葉は、何故だろうか、現実味を著しく欠いているように思えた。

 ヴァーニャの死体を見ていないからだろうか。言伝だからだろうか。ヘキサが医者に診せればいいと言っていたからだろうか。

 レノを、エクトル村を失った時と同じように、エクスはそれを『他人事』として認識してしまっていた。

 ヴァーニャが死んだ事より、ヴァーニャが死んだ事をショックに思っていない事がショックだった。

 ここでも、俺は人の死を悼めないのか。

 そう思ってしまって、深く、傷ついた。

「……あらあら。これはこれは、歪ですわね。国が産んだ歪みですわ」

 女性は口元に手を当てて、他人事かのようにそう言う。エクスの様子に異常を感じ取ったのか、セタンタが彼を背に庇うように一歩前に出た。

「それでは、最後に手土産として。わたくしの名前はドゥ。我らが女王エルリ・ジェーベド女王陛下の忠実なる僕にして、彼の方の剣。あのお方に従わぬ愚か者への誅罰を担う部隊『ハルマティア』が一員ですわ。以後お見知り置きを」

 ドゥと名乗った女性は妖艶に微笑み、そして濃霧の中にその姿を溶け込ませて去っていく。しゃらり、と鈴が鳴るような音が完全に消えたその時、エクスは虚脱感を覚えて地面に座り込んだ。

「おい、大丈夫かよ」

 セタンタのそんな声も耳に入らず、エクスはひたすらに打ちひしがれていた。

 自分はもう、誰かの死を悲しめないのかもしれない。いいや、それどころではない。悲しかったり、嬉しかったり、そういった感情すら他人と共有ができないのかもしれない。

 そう考えてしまうと、自分自身が得体の知れない怪物のように思えてくる。

 レノは、自分の死なんて忘れていいと言ってたけれど。

 エクスは覚えていたい。忘れたくない。

 しかし、そんな彼自身の意思とは裏腹に、誰かの死は教科書で眺めたかのような他人事の歴史の中で、すぐに風化して消えてしまう。

 そんな気がするのだ。

 最初から無かったのか、いつの間にか欠けてしまったのか。

 誰かに共感するという能力が根こそぎ欠けてしまって、それを認知した。エクスはそれに、ひどく恐怖したのだった。




「だってさぁあああ、エクスのためだって思ってても絶対訳わかんないって思われるしぃぃ」

「うんうん」

 サンドラはジュースの瓶を叩きつけながら叫び、両目からぼろぼろと涙を零す。

「ヴァーニャにしてもさあ、私だって助けられるもんならとっくに助けてるんだよ、助けられないんだよぉ」

「そうだよね、頑張っても難しい事はあるよね」

「うわああぁあん、リアちゃぁあん」

「おー、よしよし」

 その光景を見て、外から帰ってきたエクスは絶句した。

 机の上に無数に乗せられたジュースなどの飲料。向かい合うようにサンドラとマグノリアが座っているのだが、サンドラは机に突っ伏して泣き腫らしており、マグノリアは彼女を慰めている。その光景はどうにも奇妙だった。

「あ、おかえり」

 マグノリアが平然とした顔で出迎えるものだから、余計にエクスは混乱する。代わりにセタンタが前に出て首を傾げた。

「ただいま。なんだこの状況」

「サンドラちゃんがジュースで場酔いしちゃって。あ、カレトヴルッフくん、確かにサンドラちゃんは言葉数が少なかったけど、一方的に自分の気持ち叩きつけるのはあんまり良くなかったよ。ちゃんと話さないと後悔するから。絶対」

 どこか実感がこもっている声音で忠告されて、エクスはぐうの音も出せずに言葉を詰まらせた。

「リア、本当に飲ませたのジュースだけか? シードルとか飲ませたんじゃないか?」

「あたしもあんたも未成年でしょ、シードルなんて買えないわよ」

 そんな、どこか夫婦じみた会話を聞き流しながら、エクスはサンドラに向かい合う。彼女の紺碧の瞳が、わずかに潤みながらエクスの姿を写した。

「……えっと、ごめん、サンドラ」

「……」

「俺、色々わからない状況だからって、ずっと冷静なサンドラに甘えてた。何でもかんでも質問してばっかで、サンドラの気持ちとか意図とか、察そうとしてなかった。状況は同じなのに、一方的に。そんでもって、子供みたいに当たり散らして。本当に、ごめん」

「……同じじゃないよ」

 サンドラは机に突っ伏しながら、小さな声で何かを呟く。エクスにはそれが聞こえなくて、「ん?」と訊き返した。サンドラはそれを黙殺して、静かに口を開く。

「私こそ、ごめん。その、こっちも事情があるから色々言えない事も多いんだけど……エクスがそれを受け入れてくれるから、それに甘えてたんだと思う。なんか、言わなくてもエクスは私を受け入れてくれるみたいに、無意識に思ってた。その、気をつける、ね」



「……これでようやく、全員が揃いましたね」

 ぼんやりとランプに照らされた狭い部屋の中で、ヘキサが囁くように言った。

 一つの長机と、一つの革張りのソファ。そこにいる複数人の男女はめいめいに立ったり座ったり、ものを食べていたり歓談していたりと自由に過ごしている。

 それぞれ好き勝手にしている彼ら彼女らを諌めるように、ヘキサが手を叩いた。

「アジン」

 テーブルの上に広げられている料理を口に詰め込んでいた幼い子供が、返事代わりに顔をあげる。全身がオーバーサイズのパーカーに包まれており、顔すら見えない。幼さもあって体格もわからないので、性別も判別不可能だ。

「ドゥ」

「はぁい」

 煌びやかな衣装に身を包んだ美しい女が片手を挙げて、間延びした声をあげた。一挙一動がしなやかで美しく、手首のブレスレットからしゃらりと金属が擦れ合う音がした。

「トリ」

「ん」

 喪服のようにも見える黒いスーツをぴっしりと着込んだ眼鏡の男が、短い返事をした。朱殷の瞳が鋭く、それを誤魔化すための度の入っていない眼鏡。

「スー」

「はいよー」

 床に大量のクッションを引いてそこに寝転がっていた女性が、そのだらけた体勢のまま言った。至極色の髪は男にしては長く伸びている。全体的にだらしない印象だった。

「サート、アート」

「ええ」

「はい」

 聖職者然とした格好をした年若い女と、その一歩後ろに侍っている鎧を着込んだ青年が同時に一歩前に歩み出た。騎士の男は女性を護るように立ち回っており、そして女性の方はそれが当然であるかのような、慣れきった立ち姿だった。

「うんうん、全員揃いましたよぉ、我らが主」

 ヘキサは振り返って、暗闇の中にいる人物に語りかける。

「本格的に開始ですねぇ。アビゲイルさん」

 その人物は口を開かず、厳粛にそこに立っているだけだ。しかし、その出立ちだけでその場にいる全員の肌を刺す、一つの煮えたぎった感情が存在する。

 憤怒。

 それは、あまりに果てしなく、溶岩ですら蒸発させてもおかしくない、熱い熱い怒りだった。

 地球の核を一点に凝縮したかのような激しい怒りを内包した人物、アビゲイルは、その場にいる七人の顔を見回して。


 そして、この国全てを巻き込む噴火の始まりを、言祝ぐのだった。




「……そう。また『初物狩り』と『ナハツェーラー』が出たのね。……ええ。傾向はわかっているのだけれど、対象がね。……うん。罪は罪、わかっているから。例え叛意を持つ同士でもね」

 起き抜けに聞いたのは、そんな声だった。仮眠室から這うように出て事務室に行くと、マグノリアが一人で何かを話している。エクスは知らなかったが、それは首都内ではよく使われている、電話機という道具だった。

「あら。おはよう、カレトヴルッフくん」

「おはようございます……」

「サンドラちゃんはまだ寝てるの?」

「あ、はい。あいつ、結構寝汚いから」

 何せ、六年もの間正気に覚めなかった女だ。ヘキサの馬車の中でもほとんどうたた寝をしていた。

「カレトヴルッフくん……ああもう長いや、エクスくんって呼んでいい?」

「ああ、いいよ全然」

「ありがと。エクスくんはさ、結局どうしたい?」

 その質問の意図を読みきれず、エクスは首を傾げる。

「つまりさ、あたし達レジスタンス側につくか、中立につくか、国側につくかって事」

 その問いに、エクスは考え込む素振りを見せる。

 もちろん、国につくという選択肢は無い。故郷の村を奪った国を恨みはすれど、味方につくなんて事はありえないのだ。

 かといってレジスタンスにつくかと言えば、それも迷う。レジスタンの一員として所属して、命を脅かされるならばそれは避けたい。しかし、所属しなかったらアビゲイルに放り出されるという懸念もある。土地勘が全く無いエクスがこの街で騎士に見つからずに暮らせるかと言えば、やはり不安要素が残った。それに、鎖国がいつ終わるかもわからない。諸々を鑑みると、アビゲイルの下につくのが安定するのだろう。

「……えっと、レジスタンスって具体的にどんな事をするんだ?」

「そうね、各地に散らばってるから場所によって違うんだけど……オミクレーでの仕事は、主に『ハルマティア』のやつらへの牽制と、国を揺るがしうる情報の収集。戦力増強。そんなところかな。エクスくんとサンドラちゃんが所属するとしたら、主に情報収集をしてもらう事になると思うわ」

 マグノリアは指を折って数えながら列挙する。

「国を揺るがしうる情報ってのは、国民が反発しそうな、明らかに国が悪いって思えるような情報の事ね。例えば、このスラムの環境が悪いせいで赤子の死亡率が異常に高いとか、悪政のせいで国の総資産が少なくなったとか。捏造はダメよ」

 要は、この国の現状を露わにして、その改善ができない政府、および女王は無能であると突きつけて国家の転覆をしやすくしようという策なのだろう。

 ふと、ヘキサから聞かされた情報が頭をよぎった。

「あの……北の国との国交が断絶してるとか、そういう話、本当なのか?」

 あれは、国側についているヘキサから聞かされたものだ。ならば、国の都合が良いように捏造された情報である可能性もある。

「あー……本当よ。それがされた理由は馬鹿げてるんだけどね」

「馬鹿げてる……?」

「あれでしょ? 多分戦争に政府の要人が巻き込まれたとかって、ヘキサの奴に聞いたんでしょ? 本当は違うのよ。本当はね、エルリ・ジェーベドのお気に入りの踊り子が戦争に巻き込まれかけて、その腹いせなのよ。言っとくけど、その時は踊り子は傷一つなく生還したそうよ」

 エクスは思わず絶句する。そんな、八つ当たりのような。大切な人間が傷つけられそうになって憤るだけなら、まだわかる。しかし、国をあげての実力行使に出るのはいかがなものだろうか。しかも、戦争に巻き込まれかけた。死にかけた、ならばまだわかるのに、巻き込まれかけただけだ。

 それだけで国交が断絶された。北の国の状況はよくわからないが、マグノリアの口調に責めるような響きが含まれている事から、それだけでかなりの影響を与えているのだろう。

 ヴァーニャは軍服を着て、戦争でしか使わないであろう武器である銃を受けた痕跡があった。つまり彼は少年兵だ。ヴァーニャのような少年兵が、一体何人いるのだろう。彼のような子供に与える食料すら無いのなら、北の状況はかなり困窮しているのではないか。

 そこでふと、またもや他人事のように思っている自分に気がつく。

 内政も外政も、エクスにはわからない。関係も何も無い事だ。風景を想像すらできない、つなぐ縁は今は亡きヴァーニャのみ。

 だから、仕方ないのだ。

 エクスが北の惨状を悲しむ事ができなくても、仕方ないのだ。

 今何も感じられないのは、エクスだけではない。きっと多くの人間が、同じ状況に置かれて同じ情報を与えられても、他人事でそれを流すだろう。

 しかし、今のエクスは自分が無関心である事に対して罪悪感を覚えてしまう。

 苦虫を噛み潰したかのような表情をしている彼の顔を不思議そうに覗き込みながら、マグノリアが首を傾げた。

「……ああ、そっか。えっと……こういうのは、こっちの都合の良いように扇動してるみたいだけど」

 もにょもにょと口を動かし、言葉を自分の中で噛み砕きながら、彼女は言う。

「やっぱり、軽率にそんな悲しみを生み出しているっていう点で、あたしはエルリ・ジェーベドを赦せないし、多分きみも赦せないんじゃない? だったらやっぱり、反抗するしかないんだと思うわよ」

 言われて、そうだろうかとエクスは思う。

 エクスはこの国が嫌いだ。それは間違いない。

 しかし、赦せないとは少し違う気がする。

「まあ、レジスタンスになってもならなくても、あたしはあんた達を保護するから。そこは安心して良いわよ」

「いや、そこは心配してないけど」

「最初っから集るつもりだったて事? あんた意外と神経図太いわね」

「いや、そんなんじゃ……」

「あははっ! そんくらい逞しい方があたしは好き! どんどん集りなさい」

 同年代の少女らしからぬ事を言いながら、マグノリアはからからと笑う。最初は身綺麗さや格好から気の強い令嬢のような、それこそ昔の高飛車なサンドラのような印象を持っていたのだが、今は少し違う。少し泥臭さの残る、若干垢抜けきれていない村娘のようだ、とエクスは思った。

「……レジスタンス、入ろうかな。行く所もないし」

「そんな慌てて決めなくても良いわよ。とりあえず仮入隊って所にしとくわね。サンドラちゃんにも昨日のうちに話はつけといてて、あの子も仮入隊になってるから」

 サンドラは何かの書類に羽ペンでさらさらと書き付けながら言った。

「えー……それは言ってくれても良かったんじゃ……」

「『サンドラちゃんがいるから』って理由で来られてもこっちは困るからね。レジスタンスって言って国と戦うみたいな理念を掲げてはいるけど、結局は国からかけられる圧と自分との戦いなのよ。軟派にやられてもこっちは責任取りきれないわ」

「自分との、戦い……」

「そう。いつ自分の立場が国にばれるか。いつ自分の家の門戸を騎士が叩くか。いつこの革命は終わるのか。いつ自分は死ぬかもしれないのか。そういう恐怖との戦いよ。そういう戦いで生き残るのは、いつだって自分本位な人間と、他人本位な人間。両極端なのよ」

 彼女が言いながら扉に目を向けると、丁度セタンタが欠伸をしながら顔を出していた。

「あいつみたいに、ね。曖昧じゃない奴ってのは、強いのよ」

「え、何の話だ?」

「あんたが馬鹿野郎って話よ」

「ホントに何の話だ⁉︎」

「んー、うるさい……」

 叫ぶセタンタの横から、眠たげに目をこすりながらサンドラが現れた。まだ寝ぼけ眼だ。

 愕然としているセタンタを放っておいて、マグノリアは立ち上がる。カーテンを僅かに捲って、外の様子を覗き見た。愛も変わらず濃霧に包まれている寂れた都。

 人っこ一人いないかのような静謐さ。霧に陽光が遮られ、時刻的には朝だと言うのに薄暗い。

 彼女は振り返り、胸を張った。自分がお前達のリーダーであると誇示するように。

「それじゃあ、新しくレジスタンスの仲間入りをした二人に最初の任務を授けようかしら」

 そうして授けられた命令に、エクスとサンドラは躊躇いながらも頷いた。



「『初物狩り』の調査、か」

 『初物狩り』とは、現在オミクレー内で活動している謎の誘拐犯である、とマグノリアには聞かされている。

 成人になる、つまり二十一歳の誕生日を近くに控えた女性が、街の中で姿を消す。忽然と、何の痕跡もなく。

 被害者の共通点は、先述した通りの二十歳の女性。オミクレーの中でも中央、城に近い城下町で失踪している。全員、ウィンチェイテ城に仕えているメイドであるらしい。その傾向だけ見れば国、および城に住まう女王に何らかの怨恨がありそうに思えるとの事だ。

 マグノリアは「叛逆の意思を持つ人はできる限りレジスタンスに引き入れたいけれど、『初物狩り』は手段がね……。こっちは自治組織みたいなもんだけど、それでもメイドを攫うってのはあまりに意味が無い事のように思えるから、騎士に突き出したいってのが本音ね。レジスタンスも一応派閥みたいなのがあるんだけど、あたし一応穏健派に近いの。無血開城が一番良いじゃない」と辟易としながら言っていた。

 つまり、彼女の意向としては、国家転覆でも犠牲は少なくありたい。戦力でもないメイドの命を削るのは褒められた行動ではない。そもそもレジスタンスではなくただの愉快犯である可能性もあるため、注意が必要だ。

 その調査のために駆り出された二人だったが、現在はマグノリアから支給された小綺麗な衣服を身に纏っている。「中流階級くらいには見えるわ」とお墨付きをもらった。

「誘拐犯って事は、被害者は生きてる可能性もあるって事だよな」

「死んでる可能性の方が圧倒的に高いけどね」

「まあ、そうだけど……」

 にべもなく言ったサンドラに、エクスは苦笑いを返す。そこでふと、ヴァーニャが死んだと言うのにヘラりと笑えている自分に違和感を抱いた。

「……? エクス、どうしたの」

 サンドラが首を傾げる。彼女は、ヴァーニャの死を知らない。

「何でもない。ただ、いきなり貧民街に放り出されて、迷いそうだなって」

「地図とかももらってないしね。リアちゃん、意外と抜けてる所あるから。一回来た事あるから私は何となくわかるし、ナビゲートするよ」

 サンドラが一歩前に進むと、それだけで彼女の姿が一段階霞む。不用意に離れてしまったらすぐに見失ってしまいそうだ。それをわかっているのか、彼女はエクスの手首を掴んで歩き出した。

 彼女に引っ張られる形で進むと、自分のペースで歩けないから自然と自分の足元を見てしまう。そこで気がついた。踏み慣れない感触の石畳はかなりの汚れがこびりついている事。

 周囲を見回すと、霧に包まれて見えづらいが、かなり閑散としている街の風景に加えて、路地裏に転がっている人間のようなシルエットが確認できた。

 工場の稼働音に紛れて人のうめき声のようなものも聞こえてしまって。エクスは思わず身を強張らせる。

 一度それが見えてしまうと、道路の傍に蹲るゴミ袋でさえも人間であるように思えてしまう。排気音に紛れた喘鳴は、一体どれほどあるのだろうか。

 服を剥ぎ取られた子供のような姿が見えて、エクスは足を止めかけた。サンドラに引っ張られたためにそれは叶わなかったが、もし自分がそれを直視していたなら、自分はどうしただろう。

 やはりそれも、『他人事』として受け止めるのだろうか。

 ヴァーニャの死のように。

 レノの死のように。エクトル村の滅亡のように。

 自分はもう、何にも泣けないのだろうか。

 そう考えると、途端に目頭が熱くなった。この感受性が自分自身にしか向かないあたり、やはりどこまでも『他人事』だ。

 一人で考え込んでしまっているのを察したのか、サンドラは柔らかい声音で語りかけた。

「情報収集とか言ってもいきなりは難しいだろうし、まずはこの街に慣れた方がいいと思う。……もしかしたら、ヘキサとも、もしかしたらヴァーニャも、この街のどこかにいるかもしれないし」

 ピンポイントで出てきたその名前に、エクスは体を強張らせた。サンドラはヴァーニャの訃報を知らないのだと、突きつけられた。

「そ、うだな」

 かろうじて、平常を保って返せただろうか。サンドラは一瞬首を傾げたが、それ以上追及してくる事はなかった。

「まずは、あっちかな……あっち、確か大聖堂があるんだよ」

 エクスを励ますためだろうか、少し明るくサンドラはエクスの手を引っ張る。

 霧に包まれた都は、エクスの溜息を吸い込んだ。




 プロドディス王国首都オミクレーは、女王城ウィンチェイテ城を中心として円形に広がる街だ。城下町は富裕層が住む場所であり、そこから更に離れると、街全体を囲むように広い面積で貧民街が続いている。

 貧民街は文字通り貧民が多く暮らしている街で、治安は極めて悪い。

 貧民が住む極めて粗悪的な集合住宅と、騒音への対処も環境への配慮も一切ない工場。流れる川にはヘドロと堕胎された赤子の死体が浮かんでいる。

 一応は石畳で整備されている道には廃棄物にくすんでおり、豪奢さなんて欠片も無い。廃棄物というのは、ただの産業廃棄物や飲食店から出た生ゴミだけでなく、人の形をした腐肉も含まれている。

 見れば見るほど気が滅入る光景だ。まるで——

「まるで、地獄だ……」

「その例え、正鵠を射てるよ」

 思わず漏らした呟きに、サンドラが返した。

「どういう事だ?」

「今活動してる『初物狩り』って知ってる?」

「ああ、マグノリアから聞いたけど」

「そいつね、犯行の後に必ず城の周囲にこんなメッセージカードを残すの。『悪鬼が統べる世は地獄なり』って」

 この場での『悪鬼』とは、女王エルリ・ジェーベドを指す。若干の意訳も含めて訳すのなら、『エルリが統治する国は地獄に他ならない』となるだろう。

「……それはまた、過激な」

 故郷の村が滅ぼされた経験がある分、政府の過激さは身に染みて理解している。そんな発言をしたならば騎士達にその場で斬られてもおかしくない発言だ。話を聞いているだけのエクスも冷や汗をかいてしまう。

「ふふ、そうだね。そんな事を書いた人、ぜひお目にかかってみたいね」

 サンドラは珍しく穏やかに笑う。彼女の笑顔を、エクスは久々に見た気がした。

「さ、行こう。この街は複雑だよ。私も覚えるまでにだいぶ時間がかかったんだ」

 サンドラは石畳を慣れたように踏む。そしてまた慣れたように、迷うそぶりも一切なく突き進む。六年前の記憶を頼りにしている割には、随分と自信ありげだ。サンドラは昔から頭が良く記憶力も高かったため、そのお陰で覚えているのかもしれない。それにしては、やはり迷いが無さすぎるようにも思うが。

 コツコツと、硬質な足音。エクスはそれに違和感を感じる。柔らかい木の床でも、草木を感じる土でも無い石。履いているブーツも底が固くて、慣れない感覚がした。

 ふと、ゴーン、と鐘の音が耳に届いた。ふと見上げてみるが、濃い霧のせいで何も見えない。辛うじて工場か何かの煙突が見える程度。

「……あ、鐘の音だね。教会の」

「教会……」

 エクトル村には教会がなかった。信仰自体は色濃くあったものの、教会を建てる金も無ければ、管理をする祭司もいなかった。麓の村にはあったが、エクスはあまり行ったことが無いため、記憶は極めて薄い。

「……気になるなら、行ってみる?」

 若干眉を顰めながら、サンドラは提案した。

「……サンドラが嫌なら行かないよ」

「いや、お祈りをするわけでもないし、別に良いんだけど」

「ああ、そう。だったら行きたいかな」

 エクスは特別信心深い訳ではないが、特別背信者という訳でもない。国教はそれなりに信仰している。それは生まれた時から習慣づいているようなものだった。

 プロドディスの国教、モノス教は大陸に広く伝わっている一神教だ。宗教と言っても戒律などは厳しくなく、祈りも夜の決まった時間に行う事が望ましいとされているが強制はされない。まさに「信じる者は救われる」を象徴するような宗教だ。

 エクスは「信じるだけで本当に救われるのか?」と懐疑的なのだが、幼い頃母に「信じるだけで救われる可能性が少しでも上がるなら儲け物じゃない」と言われて、なんとなく祈りだけを捧げている状態だ。

「それじゃあ、教会行こうか……」

「本当に、嫌なら別に良いけど……」

「行くの! 何かあった時、庇護を求める事になるだろうし」

 意地になっているのか、サンドラは声を張り上げた。

 東側に歩いていくと、スラム街から少し離れて行った寂れた場所に、その教会はあった。そこまで向かうサンドラの足取りは重々しくも迷いがない。

 教会自体も、スラム街の景観を崩さない寂れ具合だった。大きくない敷地に大きくない聖堂。こじんまり、という表現が似合う教会だ。

 教会の門で、一人の少女が箒を動かしている。ささくれた古い箒の穂先が地面を撫でる度に、砂塵が微かに舞った。濃霧に顔を顰めて、息苦しそうにしながらも彼女は掃除を続けている。

「あれ」

 肺が弱いのだろうか、こんこんと少女は咳をした。エクスが歩み寄ろうとすると、それより先に一人の修道女が少女に駆け寄る。

「アシ、だめですよ、安静にしていなくては」

「もう十分安静にしてます、サートさま」

「安静とは安らかに静かに休むという意味です。玄関先で悪い空気を吸い込みながら掃除を続ける事を安静とは言いません」

「ルウ兄を探しに行っていないだけ、静かにしています」

「言葉を変えましょう。あなたは療養をすべきです。療養とは、わざわざ悪い肺を悪い空気に晒して悪化させる事ではありません。さ、お戻りなさい」

 少女は不満そうに頬を膨らませるが、修道女の言っている事が完全に正しいと理解しているようで、そのまま教会へと戻って行った。

「……何か用でしょうか?」

 修道女はゆっくりと振り返り、エクスとサンドラに喋りかけた。静穏な、品のある声だった。

 白い清潔感のある衣装と、輝かしいミディアムの金髪。伏目がちで垂れた碧眼。年齢は、二十代前半ほどだろうか。成熟しつつも若々しい雰囲気を纏っている。

「その、鐘の音がどこから来たのか気になって」

「そうですか。よろしければ、中でお祈りでもして行きますか?」

「……良いのなら」

「良いのです」

 女性はくすくすと淑やかに笑う。そのまま誘導されて、エクスとサンドラは教会の中に入る。

 外観と違って、内装はそう寂れている訳でもなかった。特段豪華というわけでもないが、質素な煌びやかさが確かにあり、清潔感も保たれている。堂内には数人の子供が床掃除をしながら談笑しており、荘厳でありながらも和やかな雰囲気だ。

「みんな、お喋りも良いですけれどお掃除はしっかりやるように」

「はーい」

 女性が一声かけると子供達は素直に返事をして掃除に集中し始める。しかしそこから数十秒も経つとまた喋り声が聞こえ始めた。

「サート様、その者らは」

 女性に声をかけた男に、エクスは思わず体をこわばらせる。その男は、体を鎧で覆い腰に剣を提げ、騎士のような出立ちをしていたからだ。

「お祈りに来てくださいました。ああ、すみません。申し遅れました。拙官はサートと申します。こちらはアート。よろしくお願いいたします」

 サートと名乗った女とアートと呼ばれた騎士然とした男は、二人揃って礼をする。エクス達も慌てて名乗り、頭を下げた。

「それにしても、お二人とも、このような辺鄙な場所に何用でしょうか? ご覧の通り、ただの孤児院まがいの小さな教会です。中央ならばもっと大きな祈りの場所があるでしょうに」

 そもそも、モノス教では祈りの時間の規制も、場所の規制もない。極論、教会なんて無くても良い。教会を管理する者がそれを言ってしまって良いものかと思うが、実際、世の多くの教会はほとんど孤児院と同じである事も事実だ。

「まあ、ここは寄り道みたいなものなので……」

 エクスは曖昧に笑って、そうはぐらかした。サートは微笑みを浮かべたまま、「そうですか」と返す。

「こんな場所でよろしければ、いつでもいくらでもお越しください」

「ええ、まあ、はい。……あの、ここは孤児院、なんですよね」

「はい」

「なら……なぜ、騎士が?」

 エクスは懐疑を抑え込めないままに、アートを見た。色が抜け切った白髪と、真っ黒な瞳。肌も褐色で、その顔立ちや色彩の特徴から異国の人間である事がわかる。

 年齢は、サートと同じく二十代前半といったところだろうか。鎧越しでもなんとなくわかる精悍な体つきで、立っているだけでも威圧感がある。彼は、まるでサートに侍るかのように彼女の一歩後ろに立っていた。

「ああ、彼は拙官の護衛です。仰々しい格好ですが、お気になさらず」

 サートは微笑んだまま返す。まるで貼りつけたかのようなその表情に、エクスは空恐ろしいものを感じた気がした。

「そう、ですか……」

「ここは、孤児院なんですよね?」

「はい」

 サンドラの問いに、またサートは頷く。その問いの意味を図ろうとする素振りもなく、淡々と。

「なら、栗色の髪と金色の瞳の男の子、知りませんか」

 その列挙された容姿の特徴。エクスが重い出した人物は、亡くなったと伝えられたヴァーニャのものに違いない。エクスは焦りを見せるが、そんなことにはその場の全員が気付かず、サートは一瞬顎に手を遣って考えるそ仕草をして見せていた。

「さ、サンドラ。なんでそんな事を」

「もしかしたらって事もあるでしょ」

 サンドラはヴァーニャの事を知らない。だから、その問いは決して不自然ではない。情報とはどこに転がっているかわからないのだから、ただの修道女であるサートに訊いても問題はないだろう。

 しかし、エクスはヴァーニャが死んでしまっている事を知っている訳で。

 その問いは全くの無意味で、故人の影を追う行為でしかないと、知ってしまっているのだ。

 だから当然、サートの口からは「知らない」の一言が吐き出されるものと思っていたのだが。

「……ああ、あります」

 サートはあっけらかんとそう告白した。

「え?」

「昨日の夜、知り合いの……まあ、医者みたいな事ができる人が診たのが、そんな特徴の子供でした」

「そうですか。容態は?」

 淡々と問うたサンドラに、サートもまた淡々と、しかし仮面を被ったかのようににこやかに返す。

「良い、と聞いております」

 その言葉に、エクスはますます混乱した。

 突然現れた、『ハルマティア』などという国家組織のドゥという女性は、ヴァーニャは死んだと言った。

 しかし、今目の前にいる修道女のサートは、ヴァーニャ——正確には、ヴァーニャと思しき人物——は、生きていると証言している。

 どちらかが、思い違いをしている。

 感情的に信じたい方を選ぶのなら、当然立場が身近で怪しくないサートの言だ。しかし、ドゥはヴァーニャを連れ去ったヘキサと同じ組織に所属しているらしい。ならば信憑性があるのはドゥの方だ。

 考え込んでいるエクスの顔を覗き込みながら、サンドラは首を傾げる。

「エクス?」

「ああ、いや……なんでもない。お祈りだけして出よう」

 誤魔化しながら、エクスは長椅子の端に座って静かに祈り始める。実際には神には何も告げず、自分の内側でこんがらがる思考を解きほぐそうとしていただけだが。

 サンドラも彼に追従するように瞑想をした。彼女は、祈りを捧げるフリですらしなかった。



 教会の外に出たサートに、追従したアートが声をかける。

「人が悪い」

「ふふ、嘘は言っていないでしょう?」

 サートは微笑む。塗りつけたような、全く変わらない笑み。目の細まり方、眉の角度に口角の上がり方。その全てが意図的で、作られたものだ。もはやそれが作り物なのか否なのか、本人ですらもわからないほどに。

「容態が良い……確かにそうですが、死んでないとは言ってない」

 奇妙な事を言うアートに、サートは微笑んだままその言葉を受け流す。孔雀の羽を手の中で弄びながら、彼女は変わらない穏やかな声音で語りかけた。


「彼らは良い観測者になってくれそうです。ヴァーニャの事を知っている時点で都合が悪いと思っていましたが、考えが変わりました。ヘキサの言う通り、間違っても手は出さぬように」




 数分の祈りを終えて、エクスは静かにため息を吐いた。一人で黙り込んで考えたものの、出た結果は「わからない」に終始した。エクスは元々、そこまで思考能力に優れている訳ではないのだ。

「サンドラ、もう行こう」

「うん」

 二人で短い会話を交わし、教会の扉を押し開けようとしたその時。

「……あの!」

 横から突然かけられた声に、エクスの手は止まった。

 声の方向を見ると、十二歳ほどの、幼さを残した顔立ちの少女がそこに立っている。楚々とした白のワンピースとカーディガンを纏っており、肩甲骨ほどまで伸びた赤茶けた髪は癖が強くてあちらこちらに跳ねている。顔のそばかすも相まって、素朴な村娘のような印象の少女だった。

 先ほど教会の門周辺を箒で掃いて、サートに窘められていた少女だ。おそらく、この孤児院の子どもなのだろう。

「あの……」

 おどおどとした少女は出した手を中途半端に引っ込めて、眉を下げている。エクスは少し屈んで視線を合わせ、優しい声音を意識しながら問いかけた。

「どうした?」

「……お兄さんがた、中央の人ですか?」

 躊躇いで明瞭に答える事ができなかったエクスの代わりに、サンドラが答える。

「中央の近くに住んでるよ。どうかしたの?」

 あまりにすらりと出てきた嘘に、エクスはサンドラを見上げながら愕然としてしまう。

 しかし、少女は特に疑う様子もなく続ける。二人は今小綺麗な身なりをしているため、嘘だと思われなかったのだろう。

「あの、お願いがあるんです。わたしの兄を、探して欲しくて」

「兄……」

 薄く涙を滲ませながら、少女は訴える。

「六年前にいなくなってしまって、兄は、ルウ兄は……」

「お、落ち着いて。まず、君とお兄さんの名前は?」

「……ごめんなさい。わたしはアシです。兄の名前はルウ。わたしの四歳年上で、六年前にいなくなりました」

「それは……」

 それは、もう死んでいるのではないか、という言葉は飲み込んだ。

 六年もの間行方不明となると、生きている可能性は高いとは言えない。ルウとやらが自分の意思で別の場所に行ったならまだ良いが、何かの事件に巻き込まれて行方不明になったと言うならもっと生存率は低いだろう。

 あまりに酷な現実を伝えられずにいると、アシは静かに首を横に振る。

「いえ、わかってるんです。生きてる可能性は低いって。六年もですから。それに、今振り返れば追い詰めるような事も言ってしまいましたし。……けど、諦めきれなくて」

「何があったの?」

 実際には疑問に思っていないような、話を円滑に進めるためだけのような問いを、サンドラは吐き出す。

 そこから、アシは訥々と語り始めた。

 アシやこの孤児院にいる子ども達の多くは、元々スラム街で徒党を組んでそれぞれを守るようにして暮らしていた子供達だった。その中でも一番年齢が上で長兄的存在だったのが、件のルウ。

 ルウは大きな稼ぎ柱で、彼が夜な夜な外に出て稼いできた金のおかげで飢え死にせずに済んだ子供が何人もいるらしい。

 しかし、六年前に事件は起きた。

 ルウは、彼の体に流れる民族の血のお陰で、常人とは比類にならない強さを持っていた。その力を使って、人を殺す仕事をしていたのだ。

 子供達を抱きしめていた腕で人を絞め殺していた。子供達の頭を撫でたささくれだった手は凶器を握っていた。何があろうとも笑顔を絶やしていなかった顔は、今まで見たこともないくらいに酷薄で凶暴な表情をして、殺意にギラついていた。

 アシが大好きだった彼の色彩は、戦闘のせいで真っ赤に染まっていた。

 たった四歳年上なだけの同じ子供に庇護されていた少女は、他の子供よりもずっと、スラムの厳しさを知らなかった。

 だから、慕っていた兄に向かって、叫んでしまえたのだ。

「ばけもの」

 と。

 次の瞬間にひび割れた朱殷の瞳。ひどく傷ついたように歪んだ表情。アシそれを失言だと知ったが、撤回する事はしなかった。彼女は自分が感じた事をそのまま口に出しただけであった。目の前の少年がルウだと認識できたならば、きっとすぐに謝ったのだろうが、残念ながら当時の彼女はそれができなかったのだ。

 少年は、すぐにその場を去った。逃げるように、アシに背を向けた。

 アシはその殺人現場の凄惨さにしばし呆然として、そして数分経った後に彼の瞳の色が兄の色彩と一致する事に気がついて、ひどく後悔した。

 それからルウはアシ達の元に帰ってくる事はなく。

 数週間して、この地にやってきたばかりであるという宣教師のサートとアートが新しく設立した教会に、孤児として引き取られた。

「わたしは、肺が悪くて探しに行けないんです。だから他の人を頼るしかないけど、こんな話を他の子達にはできないし。サートさまやアートさまにも話したけど、忙しいから難しいって言われて。……頼れるのは外から来た人だけだけど、こんなところに来る中央の人なんてほとんどいなかったから」

 涙目になりながらも、アシは語り続ける。ワンピースの裾を強く握り、悔しげに歯噛みをしていた。

「ちょっとだけ、気に留めていただけるだけで良いんです。お願いします……!」

「ああ、勿論」

「……」

 エクスは快諾し、サンドラは何も言わない。アシは零れる涙を擦って隠しながら、頭を下げた。

 二人はそのまま、頭を下げ続けるアシに手を振って教会を去った。濃霧のせいで、教会とアシの影はすぐに見えなくなる。

「……安請け合い」

「良いだろ。あくまで少し協力するだけなんだから」

 別に、見つからなかったからと言っても責任を負う必要はない。街を探索する時に少し気にかける、その程度で良いのだ。その条件で、エクスはアシに協力することにしたのだから。

 勿論、それだけが理由ではない。エクスはアシに同情したから、引き受ける事にしたのだ。

 少々事情が違うものの、家族に先立たれたという点ではエクスもアシもサンドラも同じだ。その家族が生死不明ならば、せめてどちらなのかだけでも知りたいと思うのは当然だろう。

 きっと、ルウが死んでいたと言われたのなら、アシは泣くのだろうな、と思った。泣けるのだろうな、と思った。

 自分のようにならないように。年数の経過で、故人の死の悲しみが風化して泣けないようにならないように。泣かしたいと、エクスは思う。

「次は中央に行こう。富裕層の暮らしも、見てみるといいと思う」

 サンドラはそう言って、またエクスの手を引っ張って歩き出す。

 二時間ほど歩き続けると、スラム街の風景が徐々に煌びやかになっていく。明確な境目は無いが、一歩ずつ『街』に近づいていく。

 中央街では全ての電灯が付いており、スラム街と変わらない濃度の霧の中であるにも関わらず視界がスラムより良い。建築物には全て凝った装飾が施されており、しかし酸性雨に溶かされた草花が石畳の隙間から覗いている。

 道を行き交う人々は豪華な衣装を身に纏っており、道路を行き交う馬車からは燕尾服を身に纏った人物から補助を受けながら、裾が広がったドレスを着た婦人が淑やかに地面に降り立っていた。

「あんまりキョロキョロしない。私達は格好だけならここにいても変ではないんだから」

 思わず周囲を見回しすぎていたエクスを、サンドラが諌める。彼女らは中流階級の格好をしているので、明らかに農村の農民の格好よりかは中央街にいても違和感が無い装いだ。挙動不審に周囲を伺い続けている方が怪しい。

「……ほんと、忌まわしいくらいに綺麗だね」

「え、綺麗だとは思うけど、忌まわしいって?」

「……この風景は、スラム街や他の村の人達の犠牲を基盤に作られてるからだよ」

 帽子を深めに被り、憎しみが浮かぶ紺碧の瞳を隠しながら、サンドラは呟く。そこでエクスも、ここがエクトル村を滅ぼした女王の居城に、最も近い街である事を思い出す。

「ここは確かに煌びやかだけど、外見以外は綺麗なわけじゃない」

 サンドラは、濃霧の先の城のシルエットを睨む。否、その城にいるであろう女王を敵意の目で睨みつける。

「……いつか、遠くない未来にあそこは陥落する。その未来を私はまだ知らないけど、いつか絶対にそうさせて見せるの」

 エクスには、その言葉の意味はよくわからなかった。しかし、彼女が何らかの強い意志を持ってその発言をしている事は、何となくわかった。

「サンドラは、この国を滅ぼしたいのか?」

「少なくとも、今のこの国は嫌い。ずっとこのままなら、いっそ滅びてしまえって思う」

 賢いサンドラは、プロドディス王国が滅亡する事で周辺国や世界全体に及ぼす影響についても考えている。考えた上で、国が滅ぶ事によるメリットとサンドラの私情は、滅ぶ事によるデメリットよりもずっと重いと判断しての考えで、発言だった。

 彼女の私情が大きい事は確かだが、それを差し抜いてもサンドラはこの国を滅ぼす選択をとっただろう。

「……戻ったら、マグノリアに本加入の申込するか」

 エクスがそう言うと、サンドラは大きく頷いた。




「あら、おかえり」

「おかー」

 エクスとサンドラが帰ったのは、夕方になって霧が薄く橙色に色付いてきた頃だった。マグノリアとセタンタの出迎えに、二人は「ただいま」と返す。

「何か収穫はあった?」

「教会に行って、そこにいるアシって子から依頼を受けたよ」

「ふうん。どんな?」

「ルウって人を探して欲しいって」

 サンドラが言うと、セタンタが目を見開いて身を乗り出した。何か言葉を詰まらせながら、驚愕した声音で言った。

「おいおい、この街から人一人を探すってどんな事かわかってんのか?」

 正気の沙汰じゃねえ、とセタンタは心底呆れたように言う。確かに、言うのは簡単だが実際に成し遂げるのは相当に難しいのだろう。

「一応手掛かりくらいはもらってるから、絶対無理では無いだろ。金髪に朱殷の瞳で、生きてたら今は多分十六歳くらいだって」

「……ケルトイ族。更に生存怪しいじゃねえかよ」

 セタンタは顔を顰める。そういえば、彼の朱殷の瞳に輝かしい金髪だ。そして、年齢もエクスと同年代。

「ケルトイ族って、確か迫害されてる……」

「そうだよ。三百年前の、ジェーベド一族の者が王座に座った革命戦争でケルトイ族は戦力としてかなり重宝されたけど、戦争が終わった途端に用済みでポイ」

 戦争で猛威を奮ったけれども、戦争が終わってしまえば英傑もただの荒くれ者だ。平和な世にケルトイ族は必要なくなって、やがて戦うしか能のない生き物だと揶揄されて、迫害されるようになった。

 迫害というのは、具体的にはケルトイ族はその血が少しでも混ざっている時点で職にすら困るようになり、冷遇される事。社会的な居場所がなくなり、食うにも困るようになり、街の中のケルトイ族はほとんどが飢え死にしたか奴隷にも等しい労働力にされて死んだ。

「俺もケルトイ族だから、その冷遇っぷりは身に染みてるよ。最近ではもうケルトイ族が滅亡しかけてるから、ちょっと目深に帽子かぶるだけでケルトイ族だって認識されづらくなってるけどな。それでもわかるやつはわかるし、嫌うやつは嫌うぞ」

 ケルトイ族であるが故の苦悩を、セタンタはわかっているのだろう。朱殷の瞳を細めて、遠い目をする。

「魔女も似たようなもんだよな、リア」

「そうね。ケルトイ族との違いは戦争にも呼ばれないくらい嫌われてた事とかかしら。往々にして被迫害人種よ、魔女は」

 マグノリアがやれやれと肩をすくめて言う。確か、育った村が滅ぼされたと語っていたが、その悲惨さを感じさせないほど彼女の語りは軽妙だ。

 そこで、ふと思い出す。どこか聞き覚えのある話を、親しい人が話していた事に。

『やたらと才能があってな、祖先が魔女だっていう一族のマグノリアって子供に魔術を習ってた。それとセタンタって子供がいてな。二人とももし生きてたら、お前らと同じくらいだ。そいつらがそのメアリー・スーに良く懐いてた』

「……二人とも、レノ・ループって人知ってるか?」

 その時、空気が凍りついたような気がした。

 サンドラはその問いの意味を測りかねて首を傾げている。セタンタは全く心当たりがないようで、必死に自分の記憶の中を探りながらも若干諦めた様子でいる。

 そして、その中で一人だけ、マグノリアだけが机から身を乗り出して驚愕の表情を浮かべていた。

「……そう、そうなのね。うん。サンドラちゃんの苗字を聞いた時からちょっと考えてはいた。うん。……レノさんは、生きてる?」

「え……」

 サンドラは、今まで見たことのない歯切れの悪い様子のマグノリアに狼狽えていた。

「……」

「いや、そうね。言わなくていいわ。あんた達の村は滅ぼされたって言ってたものね。ここにあの面倒見の良い人がいない事が何よりの証拠よね」

 自己解決した様子で、マグノリアはそう続ける。そして次に彼女が顔を上げると、普段の彼女に戻っていた。少し気丈で凛とした少女のマグノリアに。

「ごめんなさい、取り乱したわ」

「リア、大丈夫か?」

「平気って言ったでしょ。あたしはもう平気。ずっと昔から覚悟はしてた事だしね」

 わずかに青白い顔色。気丈に振舞ってはいるが、ショックなものはショックなものなのだろう。

「ごめん、マグノリア。不躾だった」

「気にしないで。有耶無耶にされる方が、あたしは嫌だったもの」

 彼女はそう言って、気丈に微笑む。泣いていない。確かに悲哀の感情は見えるのに、彼女のブラウンの瞳から涙が零れ落ちる気配は全く存在しなかった。

「……強いな、マグノリアは」

 エクスと同じ『泣けない』ではなく、意地を張っての『泣かない』。それを選択できる事が、エクスにとってはこの上なく羨ましかった。

「……? ありがと」

 エクスの言葉を褒め言葉と受け取ったのか、マグノリアは疑問符を浮かべながらも礼を言う。その首を傾げる仕草が普段のマグノリアと同じものだから、セタンタはぐしゃりとマグノリアの頭を撫でた。

 整えられたツインテールの髪型が乱れて、マグノリアは「コラッ!」と猫でも叱りつけるように叫ぶ。そして仕返しだと言わんばかりにセタンタの髪をかき混ぜてポニーテールをぐちゃぐちゃにして、悪戯っ子のように笑った。

「……リアちゃんって、つまり」

「レノおじさんが昔いたっていう村の生き残り、だな」

 二人に聞こえてしまわないように、エクスとサンドラは声を潜めて会話した。

 レノが生きてここにいたのなら感動の再会ができただろうに、惜しい事をした。セタンタはどうやらレノの事を知らないらしいが、マグノリアの口ぶりから彼女がレノに懐いていたことは明白であるし、レノも彼女を可愛がっていた事は明らかだった。

「……本当に、惜しい。レノ叔父さんが生きてたら、リアちゃんも喜んでたんだろうなあ」

 もう過ぎた事を悔いても仕方ないけど。

 レノが生きていたら。それを考えてしまったら、もう止まらなかった。

 その時、初めてエクスは目頭が熱くなったような気がした。




 翌日、レジスタンス入りの意向をマグノリアを正式に話して、エクスとサンドラはレジスタンスの一員となった。

 彼女に前々から話されていたように、エクス達の役割は主に情報収集。つまり諜報員だ。とは言ってもスパイのように城に潜入する訳ではなく、むしろ「何か危険な事があったらすぐに逃げる事!」と厳命を受けている。

 騎士の事を警戒してか中央街には必要以上に近寄らない事を命じられ、主にスラムの状況の記録を命じられていた。例えば空気の汚染の具合や、飢えている人間がどれほどいるかの測定。産業廃棄物が環境に及ぼしている影響などなど。

 エクスには馴染みの無い測定機械もいくつか渡されたのだが、変に荷物を大量に持って出歩いていると怪しまれる可能性もあるのであくまで自然に、とも言い含められていた。機械類については後日改めて使い方を教える、とも。

 ひとまず今日は医療福祉施設の現状の確認をしてほしい、との事だった。スラムには数少ない施設で、名前負けして劣悪な環境だ、と眉を顰めてマグノリアは言っていた。

 彼女の不快げな表情は、大袈裟ではなかったとエクスは実感する。

 国から与えられた医療福祉施設ではあるもの、民間の医療機関と同程度に規模が小さい。元々そこにあったアパルトメントを潰して作られたようなのだが、潰れた建材が敷地の隅に積まれている。建材の一部はそのまま流用されているのか、明らかに古びていて崩れそうな印象だった。

 富裕層から折角搾り取った税金をスラム街なんぞにつぎ込みたくない、という意思が具現化したかのような有様の施設に、エクスは口角をひくつかせた。もはや笑える、と言おうとしたが、その笑いすらも歪になってしまう。

「……これはひどい」

 この一言に尽きる。エクスは溜息を吐いた。敷地内をちょろちょとと這い回っているネズミを見て、『明らかに不衛生』とメモ用紙に記入する。

「……ちょっと入ってみようか」

「えっ」

 サンドラの提案に、エクスは思わず一歩後ろに引く。正直、エクスは入りたくなかった。内部も不衛生である事が想像に難くない場所に入り込めるほど、エクスの衛生観念は酷くない。

「あくまで調査だもん。ちゃんと調べないと」

 彼女はエクスの腕を掴んで引っ張る。彼女は非力なので振り払うのは難しくないが、彼女の細腕に力を入れる事はなぜだか後ろめたくてエクスはされるがままになる。

 なけなしの勇気を振り絞って入った先にあるのは、医療施設とはとても思ないほどに汚らしい部屋。しかし、想像していたよりもずっと雑然としていなかった。

 確かに壁はくすんでいるし、床も変に軋んでいる。しかしそれはあくまで建物の問題というだけで、できる限り清潔にしようとしている努力は感じる。そんな内装だったのだ。

「どうしたんだい。患者さんかな」

 一人の老医師が、部屋の奥からぱたぱたと駆けてくる。老、と言ってもぼさぼさとした白髪や苦労の多そうな疲れた顔からそんな印象を受け取っただけで、実年齢はわからない。

「すみません、患者ではないんですけど、ちょっとここの状況が気になって」

「……もしかして、ウィリアムズさんのところのかい?」

「……!」

 突然正体が暴かれて、エクスは息を呑む。その様子を見て、老医師は慌てて弁明をした。

「ああ、ごめんごめん。ウィリアムズさんはこのへんでは有名だし……実のところね」

 老医師は耳打ちをする。

「僕も、一応レジスタンスなんだよ」

 驚きに目を見開くエクスに、老医師は笑った。

「はは、特別珍しくないよ。ここら辺に住んでる人は、ほとんどが少なからず国に対して不満を持ってる。ウィリアムズさんについていくって決めてるのさ」

「それって、どれくらいの人が……」

「さあ、具体的な数はわからないねえ。けど……このスラムにいる人の多くは、ウィリアムズさんの賛同者だと思うよ。この国を変えてくれ、僕達を助けてくれって、そういう希望を抱いている」

 マグノリアという一人の少女に対して、そんな希望を抱かざるおえない程度には、ここの人々は弱っているのだ。

「ここの状況は、はっきり言って地獄だよ。赤子の生存率は極めて低く、夜鷹である母が望まぬ妊娠をしてしまって堕胎する事も少なくない。それすらできなくて、生まれ落ちた子供をすぐに川に沈めることも。多くの労働者は劣悪すぎる労働環境に耐えきれないし……働かされている子供達はもっと悲惨だ。それに、そういう状況にある人達のほとんどはここみたいな医療機関に行く事すらできない」

 余暇の無い労働環境がそうさせたり、診察や薬にかけるほどの金がなかったり、その理由は様々だが、ほとんどの人はここに来ずに衰弱死する。

 医療も商売だ。医師も職業だ。金を取らないと食っていけない。

「僕はウィリアムズさんからある程度支援を受けているけど、少しだけだ。彼女も全ての人間を救い切れる訳じゃない。国が根本から覆らないと、根治できない」

 それほどに、この国の腐敗は根深い。マグノリアがこの国を変える日を待つしか、彼らにはできないのだ。

「……そうですか」

 エクスは重々しく返した。先ほど語られた事を簡潔にメモに書き、一つ礼をする。

 そのまま去ろうとすると、医師は「あ、待って」と二人を引き留めた。

「……国直属の、『ハルマティア』って組織があるらしい。そいつらはレジスタンスの情報を漁ってるらしいから、くれぐれも気をつけてくれ。ここより中央街に近い場所に、奴らが根城にしてる酒場があるらしいから」

 我らが女王エルリ・ジェーベド女王陛下の忠実なる僕にして、彼の方の剣。あのお方に従わぬ愚か者への誅罰を担う部隊『ハルマティア』、とドゥは言っていた。

 老医師から聞かされたものと大体は変わらない名乗り。もしかしたら何かの冗談ではないかと思いたい気持ちもあったのだが、実在するのだと証明されてしまった。

 くれぐれも気をつけて、と繰り返し言う老医師に別れを告げて、エクスとサンドラは施設を出た。




 その翌日にスラムを走った、レジスタンスの検挙のためにあの老医師が運営していた医療施設が襲われたという知らせは、少なからず彼らの危機感を高める結果になった。

 マグノリアの話によると、あの場所の運営をしていた老医師は患者を最後まで逃がそうとして最終的に自分が逃げ遅れ、騎士に殺されたらしい。彼が命懸けで助けようとした患者も三分の二以上が殺害されてしまったらしい。

 つまりは、一方的な虐殺だ。まともな抵抗手段も持たない患者を容赦なく殺して、レジスタンスの戦意を削ごうという試みだろう。老若男女も関わらず、自分達は反逆者を殺すのだと、そういった意思表示。

 目論見は外れ、マグノリアはむしろ燃え上がっている。味方の仇を討つのだと、その意思を固くしていた。

「エクスくん、サンドラちゃん、今度は中心街に行ってくれないかしら」

 頼まれたのは、そんな折だった。

「騎士の巡回ルートを知りたいの。一体どうしてあの診療所をレジスタンスの棲家として判断したのか、いつそんな監査が入ったのか」

 騎士はプライドが高いので貧民の格好をして潜入というのは考えづらいし、その場合は言動などで判別は可能だろう。実際にマグノリアは怪しい者には言動に気を配るように助言をしていた。適当に攻撃をしたとも考えられるが、もしレジスタンスではなかった場合、マグノリアに国を責める口実を与えてしまう。

「まぁ、騎士じゃなくてハルマティアの捜査が入った可能性もあるけどね。けど、動きやすくするために騎士の動向はもっと詳しく知りたいわ。初物狩りの影響で巡回ルートを変えている可能性もあるしね。とは言ってもいきなり尾行は難しいと思うから、人数の把握だけでもいいわ。できる?」

「できる」

「わかったよ、リアちゃん」

 二人の返事を聞いて、マグノリアは満足げに頷いた。

「地図とかはあんまり開いたり書き込んでたりすると怪しまれるから、メモに大体の地理を描いておくから参考にして。それから、平民程度には見えるように変装はしなさい。体格も同じくらいだし、あたし達の服入るかしら。セタンタ、服持ってきなさい」

 キビキビと動き始めたマグノリアとセタンタによって、サンドラとエクスは昨日よりも少し身なりのいい少年少女へと変貌した。地味だがその分上品に衣装を飾るフリルや刺繍が美しいし、服自体も清潔だ。

 貴族然としているとは言い難いが、平民以上の階級くらいには見えるだろう。

「それじゃ、行ってらっしゃい。危ない事があったらすぐに逃げるのよ。何よりも命が最優先。わかった?」

「わかった」

「ありがとうリアちゃん、行ってきます」

 まるで家族のような挨拶を交わしてから、エクスとサンドラは外に出る。

 荒れ果てたスラムを慎重に歩く事、二時間ほど。段々と道に灯りが灯り始め、道端に落ちているゴミの量が減っていく。

 そこからの変化は目覚ましく、街全体が清潔になっていって、道に活気が増え始めた。建物もパイプが剥き出しになってツギハギの見窄らしいものではなく、煉瓦などで統一されたものになっていった。霧の濃さ自体は変わらないものの、全体的に煌びやかになって視界が良くなった気がする。

 そこから更に一時間も歩けば、マグノリアが中央街と言った街に突入した。

 なるほど、そこは確かにこの国の首都として相応しいほどの輝きを持っている。看板一つとっても小洒落ている店が立ち並び、馬車からは豪華なドレスを纏った婦人や凛とした佇まいの紳士が降りてくる。しゃなりしゃなりと歩く姿は貴族という言葉がまさしく似合った。

 どうやら新たな交通手段も開発されつつあるようで、石畳の上を馬なしで走る鉄の馬車が煙を吐き出しながら通り抜けている。エクスは知らなかったが、それは車という近年開発されたばかりの移動ツールだった。

 スラムとは天と地ほどの差があるその場所を呆然と眺めていると、エクスの袖をサンドラが引っ張った。

「ほら見て、騎士だよ」

 人混みを窮屈そうに避けて歩いているのは、あの日あの時エクトル村で見たものと全く同じデザインの鎧を纏った騎士の一団だ。六人ほどが一塊になって歩いている。鉄鎧は嵩張るし、ぶつかられたら痛いので貴族達からはあまりいい目で見られていないようだ。民を守る騎士が当の民に疎まれているなんて、世知辛い世の中である。

「ついていこう」

 声を顰めてサンドラに告げると、騎士の一団から十メートルほど離れたところからついて行った。濃霧のせいで影が捉え辛く、人混みに流されてしまえば見失ってしまうだろう。しかし騎士達は図体が大きいので、その分目立っていた。

 しばらくついていくと、騎士達は三叉路になっているところで二つに分かれる。三人ずつで徒党を組んで手を振り、それぞれ別の道に歩き始めた。

「なるほど、本来は三人ずつで行動するんだ……」

 二人で別行動をすると合流は難しそうなので、二人はそのまま左の道に進んだ騎士達を追う。

 騎士達は本当に見回りをしているだけで、鎧の重さの分緩慢な動きで道を歩いて行った。途中で道を引き返して元の場所へと戻っていく。どうやら巡回の範囲かルートが決められているようだ。

 騎士達が合流した所を見届けて、エクスは詰めていた息をわずかに緩めて吐き出す。素人の尾行だったが、濃霧のおかげか気付かれなかったようだ。

「ちょっと疲れたな……」

「そう? ……わたし、もう少しあの騎士を追うよ。エクスはここら辺のお店で休憩していていいよ。動かないなら合流はできるし」

「お言葉に甘えようかな……」

 慣れないことをしたから、肩が凝ったような気がする。どこか休憩ができる場所はないかと視線を巡らして、人の少ない道に立つ小さな看板に目を惹かれた。

 本当に、ふと目に入った店だ。未成年であるエクスはほとんど入ったことがない酒場。エクトル村から出た直後に、ヘキサと出会った場所は酒場だったが、あれはエクスが初めて入った酒場だ。

 酒場、という事で少し入るのに尻込みするが、そのほかに付近にある店は全部高級そうなレストランや、煌びやかなドレスがショーウィンドウに飾られたブティックばかりだ。ここしかないと自分を納得させながら、のろのろと店の扉に近付いた。

 エクスが抱いている酒場のイメージとは、夜に大人達が集まって騒ぎながら酒を飲む、一種の交流の場所だ。そこで想像するのは真っ暗な夜で、その相違のせいか昼間の酒場はなぜだか少し寂れて見える。夜の客が入った酒場を見たことがないのだから、比較はしようがないのだが。

 そもそも、昼間に酒場は空いているのだろうか。空いていたところで、客は入るのだろうか。宿屋が併設されているようなので全く人がいないなんて事はないだろうが、どれほど栄えているものなのだろうか。

 そんな興味が湧いてきて、窓から店内の様子を伺う。

 そして、ばちりと目が合った。

 窓際の席で突っ伏していた女性と。

 乱雑に伸びて結ばれた至極色の髪と、同じ色の瞳。二十代前半ほどに見えるが、目の下の隈や疲れた表情から、もう少し歳を食っているようにも見える。

 その顔の作りはあまり見た事のないようなもので、おそらくは東方の異国人だとわかる。纏っている衣服の構造も、あまり見た事がないものだ。プロドディス王国は現在鎖国中なので、以前からここにいる定住者か、宿に泊まっている旅行者だろう。

「あ」

「……」

 人がいない訳ではないだろうとは思ってはいたものの、まさか窓の方を向いて気だるげに机に伏している人物がいるなどとは予想できておらず、エクスは固まった。

 対して、窓の向こうの女性は表情を全く変えないままエクスをじっと観察し、何かを思いついたような顔をすると、体を起こして徐に立ち上がる。

 そして、店の扉を数センチ開いて顔を出し、手まねきをした。自分が招かれている事を数秒して理解したエクスは、何故招き寄せられたかはわからないまま慌てて扉に駆け寄る。

「トリぃー。お客来たー」

 女性はエクスが店に入った事を確認して後ろでに扉を閉め、退路を断つような立ち位置に立ってから間延びした声で叫んだ。

 店内は酒場というより、バーと言った方が適切であるような小洒落た雰囲気がある。カウンターにずらりと並んだ椅子と、その他に大きな机とそれに付随する椅子が並んでいる。壁際には小さなステージのようなものがあり、催し物でも行って店内を賑やかにするのだろう。

 夜ではないせいか、店内は人が数人しかおらず、閑散としているようにも見える。

 店員はたった一人、客は女性とエクスを除いて一人。オーバーサイズな上着で上半身を包んでおり、パーカーですっぽりと頭を覆っている子供だけだ。体のラインが全く出ていないので、性別も判然としない。

 その子供はテーブルの上に並んでいる大量のスコーンをジャムもクロテッドクリームもつけずに無言で食べ続けている。一瞬だけエクスの方に目を向けていたようが、エクスが視線を投げ返すとすぐに逸らされた。その視線は隠れていてわかりづらい。

「うっせ、聞こえてるし見えてる。何やってんだよスー」

 女性の声に呆れたような冷淡な声で返したのは、カウンターでグラスを洗っているバーテンダー風の男性だ。漆黒の髪と、スクエア型の眼鏡に隠された赤い瞳。目つきは眼鏡程度では誤魔化しきれないほどに鋭く、整った細面も相まって威圧感がある。

 外見は若々しく、エクスより少し上といった程度。男性というより青年と言った方が的確かもしれない。

「ま、そう言わずー。ほら、アジンが来たから資金繰り考えなきゃって言ってたじゃん」

 スーと呼ばれた女性は邪気のない笑みを浮かべるが、その表情からやはり彼女はひどく疲れているのではないかと思ってしまった。どこかやつれているようにすら思える。

「んな子供から金搾り取るほど落ちぶれちゃいねえよ。おい、そこの」

 グラス越しの赤い瞳で睨むように見られながら呼ばれて、エクスは身を固くしながら「はいっ」と返事を返す。トリと呼ばれていた青年は、バツが悪そうに頭を掻いた。

「あー、悪いな。オマエ、見た感じ未成年だろ。この国では二十一歳未満は飲酒は禁止だ。食事やソフトドリンクは出せるが、酒は出さねえからな。……んで、ご注文は? お冷でいいかい?」

「……あ、じゃあ、何か飲み物を」

 エクスはカウンターの席に座りながら注文する。

「あいよ」

 せっかくだから、何か有力な情報を引き出したい。エクスはそういう欲を出した。飲食店なのに何も注文せずに訊きたい事だけ訊く、というのはマナーとして良くない気がしたため、適当な飲み物を注文した。

 少し待つと、アップルジュースがエクスの目の前に差し出される。ただのジュースではなく、炭酸水で割られているようだ。

「気分だけシードルだ」

 そう言ったトリに一礼を返すと、ジュースに口をつける。

「んぐ……⁉︎」

 そして、口の中を襲った未知の感覚にエクスは思わずのけ反った。ぱちぱちと口内で何かが爆ぜているようで目を白黒させていると、トリが目を丸くして「オマエ、炭酸知らねえの」と驚いていた。

 エクスは少しの間戸惑っていたが、トリの反応からこれはこういう飲み物だと理解したし、慣れたならば面白い感覚だ、と二口目を口に含む。トリとスーは顔を見合わせて笑っていた。

「オレもここ来て初めてそれ飲んだ時は驚いたな。オレの故郷はもっぱら葡萄酒だったから。スパークリングとか全く知らなかったし」

「ぼくも。基本的に果実酒と米酒ばっかだった」

 どうやら若々しく見える二人も成人済みであるらしく、酒についての談義に花を咲かせている。スーは成人女性の色気を漂わせているが、トリは二十歳を超えているか否かといったような年齢感であるため、エクスは意外に思った。

「ええっと、トリさん?」

「ん、なんだ」

 トリは小首を傾げてエクスを見る。

「ここって、普段賑わってるんですか?」

「夜は多少はな。一応。ここらじゃ名の通ってる酒場なんだぜ」

「へぇ……。もしかして、城勤めのメイドとかも来たり?」

 その少し踏み込んだ質問に、トリとスーは目を丸くする。

 巷で噂の『初物狩り』は、城で働いている二十歳のメイドしか狙わない、という話は既にマグノリアから聞いている。しかし、それ以上の情報は持っていない。

 しかし、マグノリアの拠点があるスラム街の最奥より、ここは中央に、ウィンチェイテ城に近い。より鮮明な情報が落ちてはいないか、と思っての追求だった。

 しかし、それに対する返答は予想外に大きな情報を付随して帰ってくる。

「ヴァージンはここには来ねえよ」

「……え?」

 ヴァージン。トリは今、ヴァージンと言ったか。

 あの、村を滅ぼした女の名前を、口に出したか。

「ヴァージンを知ってるのか⁉︎」

 あの憎き敵の名前を、在処を、知っているのか。

 冷静に考えたならば、ヴァージンは女王の部下なのだからウィンチェイテ城にいる事は簡単に察せられる。そして、それ以上にエクスはヴァージンという名詞に気を取られて、その違和感に気がついていなかった。

 ヴァージンという名詞が、固有名詞ではなく人種のようなものを指しているかのような使われ方をしている事に。

「知ってるも何も、有名な話だろ」

 豹変して身を机から乗り出すエクスに、トリは一歩後ずさる。

「あの女、ここじゃ有名なのか⁉︎」

「そりゃあな。あんな噂立ってる奴らが有名じゃない訳ないだろ」

 食い違い。

 エクスは『あの女』と個人を言っているのに対して、トリは『奴ら』と複数の者を指している。その違和に、エクスはようやく気がついた。

「奴ら……? ヴァージンって名前の奴が二人いるのか?」

「……ああ、そういうことー」

 スーが得心がいったとばかりに顔を上げる。

「きみは知らないんだー。『ヴァージン』っていうのはね、エルリ女王様に仕える、そのためだけに生まれて育てられて来た若い少女達の事を言うんだよー」

 呑気な口調で、スーはそう言った。

「え? だって、俺の村に来たのはヴァージンって名乗って……」

「だって、それ以外に名乗るべき名称はないんだものー。ヴァージンはヴァージンで、個人の名前なんていらないの。識別なんてする必要ないの。ヴァージンってのはそういう無我の団体なんだからー」

 個人の名前なんてない。区別をする必要もない。ヴァージンはただエルリに仕える一団を指すだけで、そこに個人は必要ない。

 そんなの、人間として良いのだろうか、と思う。

 しかし、それが罷り通るのが女王の持つ権力なのだろう。人間の存在意義すら好き勝手に弄び意のままにする、その暴威。

 エクスはその時初めて、姿も知らぬ女王に恐れを抱いた。

 ぞくりと背筋を走る悪寒に自分の腕を抱き、そして姿が見えないからこそ得体が知れないその存在にひたすらに恐怖を抱く。

 脳内に現れた怪物の如き敵。その存在に気を取られて、彼の周囲からは全てが一瞬だけ消え去った。

 その刹那の空白を縫うように。

「ただいまぁー、です」

 ちりん、とドアベルを鳴らして、その女は現れた。

 紺黒のセミロングヘアと、同じ色の瞳。皺が少し寄っているスーツに身を包み、そして背には袋に包まれた長物を背負っている。

 それは、エクスにとっては敵と認識している女、ヘキサに違いなく。

 彼女の存在を認識すると同時に、ヘキサは既にエクスを確認して動き出していた。

 エクスが振り返るのと、ヘキサが背のマスケット銃を手に彼に一歩踏み出したのは、全くの同時で。

 その反応速度と、武装の違いが二人の差だった。

 その僅かな差が歴然たる差になり、ヘキサが布に包まれたままの銃を、しかし引き金に指をかけた状態で銃口をエクスに向けた状態を作り上げている。

「どうしてここにいるんですかねぇ、エクスくん?」

「それはこっちのセリフですよ、ヘキサさん……!」

 感情の読めない笑みを浮かべながらヘキサは問い、あからさまな敵意を滲ませてエクスは彼女を睨んだ。

 喉元に突きつけられた銃口。エクスはそのせいで動けないし、動ける状況にあったとしても抵抗手段を彼は持っていない。剣の一本でも持っていなら一矢報いる事程度ならばできただろうが、悪目立ちを避けるために丸腰だったエクスにそれは無理な話だ。

 トリが経営する酒場では、万が一強盗などに襲われた時のための護身用の武器がカウンターの裏に備え付けられているのだが、それはエクスは知らない事だった。

 脅すように、いや、実際に脅しのために押し付けられた銃口。布に包まれていると言うのに金属の無機質な冷たさが肌に伝わり、彼女が構えているのは偽物でもなんでもない、正真正銘本物の銃である事を察する。

「あーらら」

「おいおい」

 一触即発の状況であると言うのに、トリとスーの態度はどこか呑気だ。銃を構える女に焦ったり恐怖する様子がなければ、本気で止めるような素振りもない。完全な傍観者に徹しているような。もし騎士に知らされでもしたら立場が危うくなるのはエクスなので、その点では助かったが、しかしそれは状況が最悪にはならないというだけで、現状がエクスにとって底辺レベルのどん底だということには変わりない。

 肌を刺す電流が空気中に漂っているような緊迫した空気。

 それを、轟く三つの銃声が引き裂いた。

 その音を銃声として正しく認識した時、エクスは思わず自分の首を触って確認する。ヘキサの銃から弾が射出されて、自分の喉に当たったのではないかと思ったからだ。

 しかし血の匂いも感触も手にはなく、痛みだってない。体のどこも傷付いてはおらず、ひとまずそれに安堵する。

 かと言って銃弾がエクスに当たらなかったという訳ではない。第一に、ヘキサが持っているマスケット銃を包んでいる袋は、どこにも穴が開いてなかった。

 銃口まですっぽりと布で覆っている都合上、発砲したなら必ず穴が開く。それがないということは、彼女の銃が凶弾を発射した訳ではないのだ。そもそも彼女が持つ型のマスケット銃では連射はできない。

 ならば先の銃声は何か。それは単に、ヘキサが所持していない、第三者の所持物である銃が発砲されたに他ならない。

 後ろに飛びずさったヘキサの体にも銃弾は突き刺さっておらず、三発ともが壁にめり込んでいた。エクスとヘキサを引き離すように、彼らの間を通る形で。

 射手はトリではない。スーでもない。二人とも驚きに目を見開いていて、その手には何も持たれていない。

 ならば、と視線を巡らせた先。

 スコーンを片手に少々不恰好な片手サイズの銃、拳銃をエクス達の方に突きつけている子供が無言で座っていた。

 銃はまだ開発途上の兵器であり、ヘキサの持っているマスケット銃が最新型。それもまだまだ安全性が確認しきれていない代物。だから、エクスは初め、子供が持っている物が拳銃だと、銃の一種であると認識できなかった。銃口から漂う、火薬くさい硝煙を見るまでは。

 エクスはあまりの衝撃に完全に固まり、ヘキサも動揺を隠しきれていない様子でアジンを凝視している。一瞬の静止を解いたのは、トリの怒号だった。

「オイコラアジン! オマエそれ下手に使うなって言ったよなァ⁉︎ まだ試作段階で危険だって言ったよなァ⁉︎ 万が一にも暴発したら吹っ飛ぶのはオマエの腕だぞ⁉︎」

「いくらぼくの自信作だからって、無闇に使うのは良くないなあ。いや、アジンの意図はわかるよ。理性ある人間なのに群のマウントみたいな無駄な争いとか、嫌だったんだよね」

 怒鳴り散らすトリとは対照的に、スーは薄い笑みを絶やさずに子供、アジンに対しての理解を示す。しかし、アジンはやはり無言。二者二様の反応を示されても、何も返さない。

 かと思えば口元を抑えて突然立ち上がり、トリに駆け寄り彼の胸に頭突きする。正確にはそうやって体重を預ける。アジンの身長はやはり小さく、精悍さのある青年であるトリの隣にいるとその小柄さがより一層際立った。

「……あー。オマエ、だからオレ言っただろ。食べる事に意味は無いって」

「まあまあ。三大欲求の名残は完全には消えないって。ぼく達もそうだったでしょ」

「……そうだな。アジン、こっちだ」

 トリはアジンの小さな背をさすりながら店の奥に消える。アジンの様子から察するに、吐き気を催して介抱してもらっているのだろう。

「……あーあ、気が抜けました。にしても、やっぱりアジンに銃は持たせるべきではないかもしれないですね。あの子、トリガーというか、セーフティがぶっ壊れてます」

「殺そうと思えばぼく達も容赦なく殺せる子だからねぇ。中々に個性的な子だぁ」

 ヘキサはマスケット銃を背負い直しながら、慣れた様子でスーに話しかける。スーの方も馴れ馴れしく応じており、二人h知り合い、あるいはそれ以上の関係値である事は想像に難くなかった。

 ヘキサの『ただいま』という発言や会話の口ぶりからも、トリとアジンも同じように関係者であろう。

 ヘキサの仲間。つまり、『ハルマティア』の一員。

 エクスは知らず知らずの内に、敵陣へと乗り込んでいたという訳だ。なんたる偶然だ。

 彼の戦慄も知らず、または意図的に無視して、ヘキサはカウンターの席に座った。銃は背にあるので即エクスを撃ち殺す事はできないだろうが、彼女が店に入った時の澱みない動きから、エクスが不審な動きをした次の瞬間に頭が吹っ飛んでいてもおかしくはないだろう。

 警戒して身構えながら、エクスは彼女を睨む。対するヘキサは呑気に煙草を口に咥え、火をつけてその煙で肺を燻しながら「座らないんですか」と問うた。

「……敵の本拠地だとわかった以上、不用心に座るのは」

「まあまあ、そう言わず。一緒に円卓を囲みましょうよ」

「カウンターです」

「あらま、面白くない」

 緊張のせいでにべもない返しをして、ヘキサはそれに鼻白む。まあいいや、と彼女は椅子を回して、エクスに向き直った。

「ここで会ったのも何かの縁です。お話、しましょ」

 エクスは固唾を飲む。

 お話、なんて表現をしているが、それが字面と同じような穏当な物だとは限らない。得体の知れないエルリ女王の部下である彼女の話なら、尚更。

 何も言わずに様子を伺っているエクスを見て、ヘキサは諦めたように溜息をついてから一方的に話し始める。

「そこまで身構えなさんな……と言っても、無駄なんでしょうけど。アナタがワタシを敵と見做している限りは」

「見做すも何も、事実としてそうでしょう」

「もっと物事を多面的に見ましょうよ。確かにアナタが属するレジスタンと我らエルリ女王陛下の派閥は真っ向から対立しています。しかし、だからと言ってワタシとアナタが対立する理由にもならない」

「詭弁です」

 組織同士が対立するなら、その組織の方針に賛同する者同士も対立する事は必然だ。少なくともエクスはそう考えている。

「組織の思想が真っ向から対立するとしても、ワタシ達の思想が組織と全く同じだとは限らないでしょう? 例えば、エルリ女王陛下は目的の為ならばどのような犠牲も辞さないお方ですが、ワタシ個人はあまり犠牲を出したくないんですよ。国民一人一人が、この国土を踏む臣民の全てが、エルリ女王様の所有物なのですから。今ワタシがアナタを殺さないように、ね」

 感情の読めない笑顔のまま、ヘキサは言った。まるで一種の脅しのような言葉に、エクスの額から冷や汗が伝う。

「だとしても、関係ない」

 うまい返しが見つからなくて、エクスはかろうじてそう答えた。まるで子供を見守るかのような微笑ましげな目に苛立ちを覚える。

「関係あるんですねぇ、これが。言ったでしょう、多面的に見ろって。今のアナタの目には、ワタシ達は敵にしか見えないかもしれない。けれども、ワタシ達は決して仲良くできない訳ではないと思うんです」

「……もっとわかりやすく、直接的に言ってくれませんか」

 エクスには、ヘキサの発言の意味するところがよくわからなかった。エクスの言葉を待っていましたと言わんばかりに、彼女は息をひとつ吸う。

「アナタ、スパイになりませんか?」

 あまりに飛躍しすぎているその提案に、エクスは思わず鳩が豆鉄砲を喰らったかのような反応を見せた。ナチュラルに、軽い提案でもするように告げられたその内容は、軽々しく扱えるものでは決してない。

「……は?」

「だから、スパイになりませんかって」

「……そんな馬鹿げた提案に、俺が乗ると?」

 ヘキサはからからと笑う。冗談だったのかと一瞬思ったが、それにしては彼女の声音は真に迫っていた。

 ヘキサは徐に立ち上がる。敵意は見せないままにエクスの耳元に顔を寄せ、そして囁いた。やけに鼓膜に残る声で。

「アナタ……ワタシ達が一体何人いると思っているんですかぁ……?」

 瞬間、ぞくりと悪寒が全身を走り抜けた。

 得体の知れない者と相対している、その恐怖。それに対して、全身が悲鳴をあげていた。

 逃げたい。逃げさせてくれ。エクスの肉体を構成する筋繊維の一本一本が、そう叫んでいる。

 エクスの動揺を見て取ったか、ヘキサがニタリと笑った。形容し難いほど不気味な笑顔だ。

「アナタの後ろに、サンドラさんの後ろに。いつの間にかワタシ達がいるかも知れませんよぉ」

 それは、あまりに直接的な脅しだ。わかりやすい脅迫だ。

 しかし、それは包み隠しもしないからこそ、そこに含まれる悪辣な悪意が見えていて。

 他人から圧力をかけられるという経験が乏しいエクスにとっては、それはあまりに大きすぎる恐怖だった。

 全身から冷や汗が吹き出る。わかりやすいほどに緊張したエクスの表情に、ヘキサはまた笑った。

「なーんて。ワタシ達も一応多忙な身なんでね、アナタみたいな子供一人相手にしてる余裕は無いんですよ」

「……俺が、マグ……レジスタンスのリーダーと繋がってるとは、思わないのか?」

「思うも何も、繋がってるんでしょ? それどころか保護してもらってるんでしょう?」

 マグノリアと初めて会った時、ヘキサに割り込む形で彼女は現れた。そして今、オミクレーになんの伝手も無いエクスが困った様子もなくジュースを注文している事から、エクスがマグノリアの支援を受けている事は想像に難くない。今の国に不満を持っている発言をしていた彼がマグノリアに協力している事も、簡単に察せられる。

「……だったら、なんで俺を殺すとか、しないんだ?」

「そんな事をしたらマグノリアに警戒されるでしょう? あの女、困った事あるとすぐに魔術で閃光出して目眩ししてくるから、本拠地もわからないんですよ」

 やれやれ、とヘキサは肩を竦める。そういえば、初対面の時以外、マグノリアが外に出ている所を見たことが無い。それは、監視の目を気にしての事なのだろう。セタンタは何度か外出しているものの、帽子で髪や目の色を隠している。二人の行動起点であるあの隠れ家が誰にもバレていないのは、きっとそのおかげなのだろう。

「あ、ワタシがアナタを殺さない条件として、コレ、マグノリアに渡してくれます?」

 渡さないなら、どうなるか。そんな事、問わずともわかる。

 ヘキサが適当なメモ用紙に書き連ねた文章は、エクスにとって意味がわからないものだった。「カオスが始まる」とだけ殴り書かれたそれを渡されて、エクスはそれをポケットに押し込める。

「ま、帰る時は気をつけた方が良いですよ。ワタシ達の中に隠密行動に優れた者はいませんけど、人混みに紛れられでもしない限りはこっそりついていくくらい訳ないんですから」

 相変わらず感情が読めない笑み。それに暗に「帰れ」と言われて、エクスは後ずさる。

 ヘキサと、黙って話を聞いていたスーに警戒を向けながら扉まで行き、後ろ手に開けた。敵である二人に背を向けるのは死を意味するのではないかと考えたからだ。ヘキサは殺さないと言っていたが、それは嘘で騙し討ちをしてくる可能性だって十分にある。

 店の扉を閉めると同時、エクスはすぐに踵を返して走り出した。

 ヘキサは人混みに紛れない限り追跡は可能と言っていた。つまり、人混みに紛れたのならヘキサには追跡が難しいという事だ。

 露骨な言葉だったので罠かもしれない。しかし、人混みにいたのなら大きな行動も起こせまい。エクスに危害を加える事も不可能な筈だ。そう踏んで、エクスは人が多い道を選んで通りながら、少しずつスラム街の方向に向かっていった。

 幸運な事に、騎士達の尾行をちょうど終えたサンドラと合流することができたので、彼女の細腕を掴んで走り出す。

 周囲に敵意はない。しかし、見えない何かに追われているように、エクスは必死に走ったのだった。



「……ちょっと露骨でしたかねぇ」

 エクスが駆け出していって足音も聞こえなくなった頃、ヘキサはそう呟いた。

「何がー?」

「人混みが云々のとこです」

「あー、確かにー。けどあの子素直っぽいし、大丈夫なんじゃない」

 だと良いんですけどねぇ、と言いながら、ヘキサは店の奥に行き、裏手の扉を開く。

「おーおー、ちゃんとやってますねえ」

 呑気にそう笑いながら、路地裏に広がる光景を一瞥した。

 そこにあるのは、剣を奪われ鎧を剥かれた複数人の騎士だった。全員死んではいないが、気絶して地面に転がっている。

 そして、その騎士の精悍な体を椅子代わりにして、煙草を吸っている修道女がひらりと手を振った。

「遅かったね、ヘキサ」

「そっちは意外と速いですね、サート」

 修道女、サートは煙を吐きながら肩を竦める。ちなみに、彼女はヘキサほど煙草は吸わない。気まぐれに吸う程度だ。

「トリとアジンが手伝ってくれたからね。ね、アジン」

 サートに問われて、壁際にもたれかかっていたアジンが頷いた。顔が青白く、喉元に手を当てて唸る。

「あー、声出しづらいですか? まだ慣れてないですもんね、仕方ないです」

「こいつ、食べても意味ないってのに食べ続けて戻してたんだよ。そのせいもあるかもな」

 アジンの背を軽く摩りながらトリは言った。アジンは完全にしょげかえっている。

「これで痛感しましたかねぇ。ワタシ達はもう普通の人間ではないんですよ。食べても吐くだけだし、心臓も動いていない。まるでフランケンシュタインの怪物です。徐々に慣れていってください。まぁ、死とはワタシ達のあるべき状態なので、死のうと思えばいつでも死ねるんですけどね」

 苦笑しながら、自分達の事を語っているとは思えないほど他人事な口調でヘキサは言う。死ねる、という言葉に反応して、アジンは静かに首を振った。

「死なない、ですか? ……死にたくないのはみんな同じですよ。だからワタシ達は生きてるんですから」

 ヘキサはアジンのフードに包まれた頭を鷲掴んで揺らすように撫でる。アジンは飼い主の手に擦り寄る猫のようにその手を受け入れる。

「……んで、コイツらどうしましょ」

 ヘキサは視線を地面に這いつくばる騎士達に向けた。この騎士達は、中央街周辺を巡回している部隊の者だ。トリの酒場周辺に居座っており、明らかに未成年であるエクスが入店したことを訝しんでいる様子だった。

 店の扉を凝視している所をサートが路地裏に呼び込んで襲撃し、聞きつけたアジンとトリが合流して全員昏倒させた。応援を呼ばせる事もなく、一人も取り逃がす事もなく。実に鮮やかな手口で。アジンは吐いたばかりで体調が芳しくない様子だったが、それでも十分に戦力になった。

 全身を鎧で防護し、剣の修練も積んできた騎士を、声をあげさせる事なく。しかも、サート達は無傷だ。擦り傷ひとつついていない。もっとも、擦過傷は縫う事ができないので、彼らが一番避けたい傷ではあるのだが。

「うーん……城の門の前に放り投げときましょ」

「堀に?」

「死にますよそれ」

 城の周囲には深い堀があり、そこは水が張られているので沈めようものなら這い上がれずに溺死するだろう。流石にそこまでする気はヘキサにはなかったし、問うたサートも冗談のつもりだった。

「アートに頼んどいてください。……っていうか、アートは? いつも一緒でしょう」

「教会の子供達の子守りを」

 短く答えたサートに、ヘキサはああ、と返す。全身に鎧を着込んだ男が子供達に群がられている様子は、想像するとなかなかにシュールで面白い。

「それよりヘキサ、あの事は伝えたのか?」

「伝えましたよぉ、エクスくん越しに」

「は? あの少年越しに?」

 思わず鸚鵡返しにしたトリに、ヘキサは上機嫌そうに微笑みながら頷く。必要ないだろ、と言わんばかりの、不必要な暖解を踏んだ事に対する非難めいた視線を受け流しながら、ヘキサは火のついた煙草を咥えた。

「何にせよ、これで状況が動きます」


「キリキリ働きましょうか。お国のために、ね」




 少し過剰とも思えるほど警戒しながら帰還したエクスに、マグノリアとセタンタは呆れた様子だった。気分的には危険な道から命からがらの生還をしたエクスは、そんな視線を向けられる謂れは無いと思ったが、それを口に出すより前にマグノリアが喋り出した。

「あんた、なんでそんな挙動不審なのよ」

「いやいや、俺は周りを警戒して……」

「その程度の警戒網、セタンタなら余裕で掻い潜れるけど。ねぇ、セタンタ?」

「そうだな。何ならその警戒してるつもりの挙動で逆に怪しまれるぞ。あと外に人の気配は無いから、尾行はされてない。骨折り損だな」

 二人に代わるがわる酷評されて、エクスはしょげかえった。サンドラに頭を撫でられて、惨めさが倍増する。だって、尾行された事もそれを警戒した事もないので仕方がないのだ。

「それで、何でそんな警戒してたのよ。今までそんな事してなかったじゃない」

 今までもエクスなりに周囲は警戒してこの隠れ家に出入りしていたのだが、二人にとってはあってないようなザルな警戒網だったらしい。もしここにサンドラがいたのならエクスを慰めていたのだろうが、残念ながら彼女は不在だった。

 落ち込みそうになるのを何とか堪えて、エクスは事情を説明する。酒場で偶然、ヘキサの仲間が運営している酒場に入った事。そこでヘキサに渡された謎の手紙も見せながら。

 マグノリアはその手紙を見て目を瞠り、そこに書かれた短い文を凝視する。

「……は? カオス? これ、ヘキサからなのよね?」

「え、うん」

「何? リアちゃん、どうしたの?」

「……ちょっと待ってて」

 マグノリアはそう言うと足早に部屋を出ていき、数分後に呆れているような項垂れているような体制で戻ってきた。

「セタンタ、忙しくなるわよ。数ヶ月はまともに眠れないと思って」

「わかった」

 何かが二人の間に通じているのか、セタンタは意味を訊く事なく頷く。

「あんたらも。これから色々手伝ってもらう事になるわ」

「色々って?」


「色々は色々よ。革命のために、この国のためにキリキリ働いてもらうから」




 そこから二ヶ月が経過した。エクスとサンドラはマグノリアの傘下にある、貧民街のとある新聞社に入社し、そこの記者として情報収集に勤しむ事となった。家に関してはスラム街の中でも治安はまだ良い場所に手配してもらい、生活基盤が出来上がった。

 二ヶ月の間、ひたすらサンドラと街を調べ回ってわかった事がいくつかある。

 まず、プロドディス王国は実質的な専制君主制だ。

 現在はエルリ・ジェーベドが王権を握っている。先代の女王イライ・ジェーベドは突然失踪し、その後釜として隠し子だったエルリが玉座についたらしい。エルリの容姿は先代のイライと瓜二つで、巷ではクローンなのではないかという荒唐無稽な噂もある。

 周辺諸国では絶対王政、つまり王個人ではなく王を含む複数人の官僚と権力を分け合っていると触れ回っているらしいが、その官僚はエルリの傀儡であり、実態は専制君主制に限りなく近いらしい。

 正確には八年ほど前から、権力が女王に集中し始めたらしい。それまでは絶対王政で官僚達の権力が強かったのだが、噂ではエルリ女王の寵愛を受けていた人間が官僚達の主張で処刑しなければならない状況になってしまい、その事件からエルリが権力を取り戻し始めたのだという。ちなみにその処刑された人間は、死体がその場で何者かに持ち去られたらしい。

 そしてこの国は現在極端な資本主義。王都の中での貧富の差が激しい。エルリが王都以外に興味がないのか、王都から一定以上の距離が離れた村などは貧富の差は少なく、王の権力に振り回される事も少ない。もちろんエクトル村のように、王から全国的なお触れが出たのならプロドディス王国にいる限り王の命令に縛られる事にはなるが。

 そして、次に騎士について。

 騎士は女王の城に徴兵されている。対象は一定以上の年齢の富裕層の男のみだ。一定期間の務めを果たした後は、騎士団に残るか実家に戻るかの選択が提示される。富裕層、つまり貴族の男のみが騎士となるので、長男は家に戻って家業を継ぎ、次男以降はそのまま騎士として女王の元で働く、というパターンが多いようだ。

 騎士団の半分近くが若年層を占めているので、戦争などでの戦力にはあまり期待はできないのが現状で、故に貿易や政治の面で絶対的な有利をとってどの国もこちらに戦争をふっかけられないような状況を作っている。

 責められたら弱いので反撃を恐れてこちら側から攻撃に出る事はほとんどないのだが、その例外が北国の一件だろう。ヴァーニャの口から語られた、謎の経済制裁。

 国家の要人、官僚は傀儡化しているのが現状だ。その官僚を害されたからと言って、そんな大袈裟な反撃をするだろうか。感情ではなく面子の問題なのかもしれないが、そこはエクスにもサンドラにもよくわからない。この話には、やはり裏がある気がする。

 最後に、スラム街について。

 円形に広がる王都の、その半分以上を占める多大な面積のスラム街。人口密度が非常に高い。また、スラム街の面積の三分の一以上は中小の民間企業の工場などが建設されている。

 そこの労働環境は、はっきり言って劣悪としか言いようがない。

 紡績業ならば女性の多くが労働者として勤務しているのだが、睡眠時間は三時間ほどで休憩時間もほとんど無しに働かせ続けられる。

 事故も多く、つい数ヶ月に布の染料に強い毒素が使われてるとされて幾つかの工場が潰れた。ちなみにその染料で染められた布は貴族に人気が高く、その毒性で命を落とした婦人が何人もいるだという。毒だと知れていても需要が尽きないので、そんな毒物を売り続ける企業は全く減らないのだ。

 紡績業だけでなく、とある時計工場では使っていた染料に放射性物質が含まれて、そこに勤めていた女性のほとんどが亡くなった、という痛ましい事故も起こっていた。

 ちなみにだが、そういった企業を摘発しているのは民間団体のみだ。女王及び政府はいちいち企業に探りは入れず、一貫して不介入の態度をとっている。

 また、工場では女のみならず子供が労働者として起用されている事も多く、例の如く短すぎる睡眠時間と長すぎる労働時間、危険な労働環境のせいで死亡者が後を絶たない。

 そこで働いている子供達はスラム街の親がいない孤児ばかりなので、いくら使い潰しても構わないと思われているのが現状らしい。

 尚、スラム街では夜鷹が多く、そこで母の腹に宿った子供は多くが堕胎されるか、生まれてもすぐに間引かれる。生まれ落ちても親の絶対的な庇護は望めない場合が多いし、女児が身を売る事もたった一つのパンを巡って殺し合う事も珍しくない。そうやってなんとか生き延びても行き着く先は過酷な労働なのだから、残酷な話だ。

 エクスはそうやって王都について知っていくと同時に、アシから依頼されたルウという少年について探っていた。

 金髪と朱殷の双眸の戦闘民族ケルトイ族で、自分と同じほどの年頃。高い身体能力を持つケルトイ族。

 とはいえ、そこまでの情報を集めてもルウとやらがどこにいるかなんてわからない。色々と書きなぐられた自分のメモ帳を睨みながら、エクスはため息を吐いた。壁際にもたれかかって、電灯に照らし出された中央街の夜景を眺める。灰色に色づいた空のせいか、夜という気が全くしないが。

「エクス、ルウの話なんだけど」

「ん?」

「ふと思ったんだけどさ、ケルトイ族って力自慢なんだよね」

「セタンタの話ではそうだけど」

 ケルトイ族であるセタンタの怪力は初めて会った時に見せつけられた。セタンタの武装、槍に手斧を括り付けたかのような柄の長い斧は、その細い外見の通りそこまで重くない。比重が偏っているので遠心力を使えばそれなりに威力は出るようだが、馬車の御者席を完全に破砕するには使い手自身の膂力も相当に必要だ。

 その怪力こそがケルトイ族が戦闘民族と言われている所以なのだと、エクスは解釈している。

「それで思ったんだけど、もし工場で働いているなら肉体労働に駆り出されている可能性が高いんじゃない?」

 サンドラのその言葉に、エクスの目から鱗が落ちた。しかし次にはハッとなって、顎に手をやり考える素振りを見せる。

「けど、肉体労働って言ったって、絞りきれないぞ?」

 工場の仕事は大雑把に内職か肉体労働の二つに分かれる。肉体労働に絞り込めたとしても、対象はまだまだ広い。地下鉱脈などの地上の目が届かない場所にいる可能性もある。

 また、工場ごとにどんな年齢層の労働者がいるかなんて知りようもない。工場の中を見せて貰えば傾向は見えるだろうが、今日び多くの工場で子供が働いている時代だ。

 それに、ケルトイ族の怪力ならば大人と一緒に働かせられている可能性もあるので、絞り込める条件が本当に『肉体労働をさせている工場』しか無いのだ。それも確定情報ではなく、推測に基づくものだ。

「……やっぱり無理なんじゃないかな……」

「ま、現実的に考えて無理だろうね。王都はただでさえ人口が多いし、そこからたった一人の、それも生死不明の人間を探し出すなんて、砂漠から一粒の砂を見つけろって言われてるようなものだよ。……けど、見つけてあげたいんでしょ?」

 アシのために。アシが、人を想って泣けるように。

 それは、エクスにはできなかった事だから。

 サンドラに問われて、エクスは頷く。

「だったら、頑張ってみよう」

「……サンドラ、最近余裕出てきた?」

「ちょっとだけ。リアちゃんに魔法教えてもらってから自衛もできるようになってきたし」

「え、なにそれ俺知らない」

「……秘密特訓したから」

 エクスとサンドラは常に行動を共にしている訳ではないので知らない事があるのは当然だが、マグノリアに師事していたとは知らなかった。

「ずいぶん仲良くなってるな」

「うん。リアちゃん、いい子だから。セタンタさんはどう?」

「……面倒見がいい人って事だけはわかる」

 以前サンドラと喧嘩をして感情的に飛び出した時も、追いかけてきたのは彼だった。基本的にマグノリアの後ろに護衛のように侍っていて、あまりものを語らないので掴みきれていないが、悪い人間ではないんだろうなとは思っている。

 マグノリアからセタンタという名前をもらった、という話を聞いたが、それ以外の情報を彼の口から聞いたこともない。その色彩の特徴からケルトイ族であることはわかるが、きっとそれ故の苦労があったのだろうことは推測できる。

「口調とか仕草とか、どことなくレノおじさんと似てるし……個人的に肩入れというか、勝手に信用はしてるかな」

 根拠は本当に薄いが、ただそれだけで少し気を許しているところはある。我ながら単純だとエクスは思った。

「レノおじさんが昔住んでいたっていう村の子が生きてたら、セタンタみたいな人になってたんだろうなって思うよ」

 そんな可能性は、限りなく薄いだろうけど。そんな夢想は現実ではないけれど。実際、セタンタという名は本名ではないようだし。

 けれど、本物のセタンタと彼が並んでいたなら、きっと兄弟のようになるのだろうとエクスは思う。

「ルウを、早く見つけたいな」

 同じケルトイ族だというルウも、面倒見がいい人物だと聞いている。容姿などは知らないが、きっとセタンタとも仲良くなるのだろう。何せ数少ない同族で、共通点もあるのだし。

「そうだね」

 サンドラも柔らかい声音で返した。

 段々とこちらに向かってくる眠気に瞼を重くしながら、エクスは工場地帯の調査をできるようにマグノリアに頼もうかと考えた。



 夜闇の中、僅かな光でも反射して艶めく金髪を帽子の中に押し込んで隠しながらセタンタは歩く。深夜のスラム街はひっそりと人気がないものの、一歩進むと霧に覆い隠されていた行き倒れの人間が現れる。気絶していたり、茫然自失の状態で生気が感じられなかったり、とにかく不気味だ。

 そんな街を躊躇なく歩きながら、セタンタは細い路地裏に入り込んだ。ミミズのようにパイプが這っていて、そのせいで人間一人程度しか入れない。それに不安定な電灯の光も届かない場所だ。月光はもとより、霧に隠されて見えない。

 数メートル進むと、それだけで周囲は閉塞感に満ちる。窮屈に迫る壁と、全身を覆う霧。四方も上下も煙っていて不明瞭な視界。

「……出てこい。いるんだろ」

 セタンタは霧の向こうに向かって問いかける。数秒の沈黙の後、霧は突然揺らめいて人間の影を映し出した。

「こんばんは。セタンタ」

 現れたのは、ヘキサだった。昼間と変わらず僅かに着崩したスーツを纏い、マスケット銃が包まれた袋を背に担いでいる。

 武器を持たずに立っているセタンタに対して、ヘキサは微笑みかけた。

「そんな顔しないでくださいよ。ワタシ達、協力者同士なんですから」

 その言葉に、セタンタは目を細めた。鋭利な朱殷の瞳は敵意を持っていたのだが、ふとそれが霧散する。

「何の用だ、いきなり」

 その語調に、敵意はない。つっけんどんな言い方なのは、ただ単なる不機嫌のせいであって目の前のヘキサに対する敵愾心などではなかった。

「夜分遅くにすいませんねぇ。一応、情報を正確に渡しておきたいと思いまして」

 ヘキサはセタンタの耳元に唇を寄せ、周囲には絶対に聞こえない声量で囁く。

 そうして、夜は更けていく。陰謀の渦に、少しずつ街を巻き込んでいきながら。



 工場の密集地帯も調査があるならばこちらに回して欲しいという要望は、案外すんなりと通った。どうやらマグノリアはエクス達を、というよりサンドラを贔屓しているようで、大体のお願いは叶えてもらえるのだ。サンドラはそれを悪用するような性格ではないため、二人の間ではいい関係が築かれている。

 そのお陰で、エクス達の要望は通った。エクスとサンドラは労働者達の住環境、労働環境の劣悪さについての記録を取り始めて二週間になる。

 首都オミクレーは南の地域の一部がプロドディス王国最大級の鉱山に食い込んでおり、その周囲が最大の工場地帯になっている。他の場所でもまばらに建っているのだが、民家がほとんどない場所はオミクレーの中ではここくらいだろう。

 エクス達が住んでいる場所から徒歩で数時間、車でも一時間はかけないと辿り着かない場所だが、そこはマグノリアが紹介してくれたガイドのお陰で迷うことはない。

 今日も今日とて、エクスとサンドラは工場地帯に赴いていた。工場地帯は他の場所よりも霧が一層濃く、自分の手足すら見えるか見えないかといった濃度だ。更には酸性を含んでいるためガスマスクをつける必要がある。これは慢性的に漂っているもので、一日二日程度ならばこの中にいても問題はないが、生活するとなると体の内側から害が及び始めるので注意が必要だ。

 雨が降る日には酸性雨が降り注ぐので調査は中止。つまりは、首都の内部であるにも関わらず危険地帯なのである。ちなみに酸性雨に関しては、酸性を含んだ雨雲が流れるので他の場所でも降る時はある。そのせいで首都周囲の森は緑を失っている有様だ。

 ガスマスクで顔を覆ったエクスは、目の前を視認することすらままならない濃霧にため息を吐きたい心地になる。衣服に関しても、素肌を出さないように防備しているので一見はただの不審者だろう。

「エクス、あっちから物音がしたよ」

 サンドラが耳聡く、人の気配を見つけたのだろう。はぐれたら合流できる見込みは薄いため、常に手を繋いだままだ。

 彼女の誘導のまま、濃霧の中を歩く。ガタついた石畳に躓きそうになりながら。そうして見つけた人間は、体の表面が溶けていた。側には幼い少女が泣きじゃくっており、彼女も肌が崩れかけてぽろぽろと剥がれ落ちている。

 酸性を含んだ濃霧と、濃い酸性雨に体を焼かれたのだろう。少年は皮膚は爛れていて生々しい肉が露出し、喉からはままならない呼吸音が漏れ出ている。少女の方はそれと比べたらまだ軽傷だが、無傷でもない。衛生的ではない格好と言い、健康とは言えないだろう。

「きみ、大丈夫?」

 エクスが声をかけると、少女は顔を上げてエクス達を見上げる。目が溶けてしまいそうなほどに泣いている彼女は、みもよもなくサンドラ達に縋り始めた。

「にいさんが、にいさんがぁ……!」

 格好から見るに、労働者なのだろう。十歳にも届かないほどに幼いというのに、体にはやけに筋肉や生傷がついている。

「ごめんね、ちょっと診るね」

 サンドラはそう言いながら地面に倒れている少年を仰向けにした。わずかな喘鳴が漏れ出る。サンドラは医師ではないが、脈や瞳孔の状態を診る程度の事はできる。

 サンドラは状態を簡易的に診て、首を横に振った。おそらくはエクスよりも数歳年下の少年は、サンドラの姿を視認して縋るような目を向けていた。

「……どうする、エクス」

「……ガイドさんは、まだ近くにいるか?」

「排気音を辿れば……けど、難しいよ? ただでさえ、工場地帯なんだし」

 エクス達を車で送って行った送迎役の人間は、同じ場所でしばらく待機している手筈だ。濃霧で居場所がわからないのは確かだが、ここ一帯で一番高い時計塔が定時になると壊れたのではと思うほど大きく電子的な鐘の音を響かせて灯台のように光を発するのでわかりやすい。

 つまり、定時にならないと合流はほとんど不可能だということだ。

 車が立てる排気音は閑静な場所ではそれなりに騒音なのだが、工場の稼働音が重なり合った騒音の中ではほとんど掻き消されてわからない。例の時計塔も、今は濃霧の中で見えない。

 現在時刻は十四時。そして時計塔が金を鳴らすのは四時間後の十八時である。四時間も放置していたら、目の前の少年は生きているかわからない。

「……きみ、大丈夫? 意識はある?」

 少年に話しかけてみるが、掠れた呼吸音が返ってくるのみだ。瞳孔の動きは平常で、受け答えができるほどに意識は明瞭ではあるようだが、それが答えられる体力や喉がないようだ。この調子だと、回復しても後遺症は残りそうだ。

「ぅ……う」

 少年は筋繊維が覗いた腕を辿々しく動かして、どこかを指差す。方角的には時計塔に向かっているように思えるが、方位磁針などは持っていないのでわからない。

「きみ、どうしてこんなところにいるの?」

 今度は少女に問うた。少女は必死に涙を擦って拭い、嗚咽を噛み殺しながら喋る。

「工場で働いてたら、いきなり金髪の人が来て。それで、にいさんを連れ出して。わたしもこっそりついて行ってたんだけど……にいさんは、もうすぐ死んじゃう人と同じからだになってたから」

 もうすぐ死ぬ人と同じ体というのは、今の皮膚が溶け始めている最中の事を言うのだろう。彼女達が働いていた工場も、劣悪な労働環境だったらしい。そして、この酸の濃霧により瀕死の状態になった所を、金髪の人間に見つかった。

「金髪の人、なんか変で。髪が赤くなって、どこかに行っちゃって……」

 途切れ途切れに語る少女の背を、エクスは摩った。

「おねがい、にいさんを、たすけて」

 少女がエクスの衣服の袖を引っ張って懇願すると同時。

 どこか遠くで、派手な炎が上がった。

 その光は霧のフィルターを突き抜けてエクス達の元まで届き、僅かな温度を感じる。熱風に霧が僅かに晴れた。

「あれは……」

 霧が少し晴れた事により、視界が先ほどよりも明瞭になる。先ほど少年が指差した方角には例の時計塔が屹立しており、巨人のような影を浮かび上がらせていた。

「あっち、工場がある方……!」

 少女が悲鳴を上げるように、しかし絞り出すように叫ぶ。どうやら光源は、時計塔のすぐ側であるようだ。

「まずい……」

 エクスが呆然と呟く。

 少年を助けるには、この霧から抜け出すのは最低条件だ。彼の健康を害しているのはこの酸の霧に他ならないのだから。

 そしてエクス達がここから抜け出るための足は、送迎の車しかない。時計塔のすぐ下に停められており、定時になるまでずっと待機している。

 もしあの光、仮に爆発事故としよう。爆発事故が付近で起こったのなら避難するに決まっている。誰だって自分の命が最優先だし、自分達を待つあまりに逃げ遅れるようなことはエクスもサンドラも望んでいない。

 しかし、そうなったら送迎は最早叶わない。車を放棄したなら火事場泥棒に盗られるかもしれないし、事故で車自体が壊れるかもしれない。そもそも爆発事故が起こった付近に近付くなど危険行為だ。

 そして、最悪運転手が死んでしまっていたら。運転の方法を知らないサンドラとエクスはこの工場地帯から何時間もかけて歩いて出るしかなく、刻一刻と少年の死は迫る。

 また、山の綺麗な空気に慣れきったエクスとサンドラは、他の人間より酸の霧に対する耐性も低い。

 自分達及び少年少女の安全を確保するには、まず時計塔付近にいるはずの運転手の安全を確保しなければならないと言うことだ。

「サンドラ!」

「うん、いこう」

 一瞬のアイコンタクトで、二人は立ち上がる。

「ごめん、今から向こうに行ってくる。ガスマスクをあげるから、お兄さんにつけてあげて」

「わたしのもあげる」

 霧は少し薄くなった。これからあの謎の光の元に向かうのだから、もっと霧は薄くなるだろう。そう思って、ガスマスクを少年と少女につけさせる。

 空気を肺に深く取り入れると、内腑が僅かにピリつくような気がした。それは緊張感故か、酸の霧故か。

 脚の遅いサンドラをエクスが半ば引っ張りながら、爆心地へ。そこに近付くごとに、予想通り霧は薄くなって呼吸は楽になった。同時に謎の光も強くなっている。

 とは言っても、それは電球のように目を刺すような質ではなく、むしろその逆。柔らかく包み込むものだった。自然的に発生する、炎の光のようだ。

 元より時計塔からそこまで離れていたわけではない。時計塔まではすぐに辿り着く。

 そこで目に入った光景は、地獄絵図のような様相を呈していた。

 半壊した、元々は工場だった瓦礫の山。

 その無惨な様子とは裏腹に、建物に主要な柱のみが破砕されて効率的に破壊された痕跡。それに重なり、瓦礫がアイスクリームのように半ば溶けかけている。

 僅かに炎が立っているが、やけに少ない。それは燃えるようなものがほとんど無いからだ。もし周囲に木があったのなら瞬時に炎に巻き上げられていただろう。そういう、苛烈な温度だった。

 そして、信じがたい事に、その温度の発生源は現場に一人立ち尽くしている少年だった。

 血管がそのまま体外に出て髪となっているかのような、血の色そのままの長髪を熱風に靡かせた少年。朱殷の瞳が理性を失った獣のような獰猛さを湛えて光り、周囲の存在を睨みつける。

 彼の周囲は、熱い。暑いではなく熱いのだ。彼を中心とした半径二十メートルほどが灼熱に包まれている。

「あれは……?」

 体から熱を発する人間なんて見た事がない。体温程度ならばまだしも、それは人間の肌を焼くほどの高温だ。その発生源である少年は、どうして燃え尽きていないのだろうか。

 呆然としているエクスに、冷静を保ちつつも焦りを垣間覗かせながらサンドラが呟く。

「ケルトイ族」

「は……?」

「あれは、ケルトイ族だよ」

「うそだ」

 ほとんど反射的にそう言っていた。

 セタンタからの話では、ケルトイ族は金髪に朱殷の双眸で、あんな毒々しいまでの赤い髪ではない筈だ。それに、もしあれが本当にケルトイ族だとしても、体から熱を発しているのは異常だ。それとも、ケルトイ族の戦闘民族たる所以はその特殊体質だとでも言うのだろうか。ならば、何故ケルトイ族のセタンタの肌は常人と同じ温度だったのか。

 そんな事をぐるぐると考えるが、その思考はサンドラの一声で打ちやめになる。

「あれは、ケルトイ族だよ」

 そんな、妙に確信的な口調で。

 その根拠はエクスには全くわからないが、サンドラはサンドラが別に握っている情報があるのだろう。だから、ひとまずはサンドラの言う事を信じる事にする。

「あれは……セタンタなのか? ルウなのか? それとも別の……」

「それはわかんない。だって……」

 あれが平常になったところを、私はまだ見れていないから。

 まるで、今まで何度も目の前の少年と相対してきたかのような口ぶりだった。

 詳しく訊きたかったが、それをするほど二人の間には余裕が残されていない。

 ぐり、と首がエクス達の方向を向いた。少年の意識が向けられると同時、熱い空気とは裏腹に氷刃を首元に突きつけられているかのような冷ややかな殺気が襲い来る。

「……エクス、二手に別れよう。その方が生存率が……」

「わかった」

 まどろっこしく続けられようとした説明を断ち切って、エクスは頷く。なにも知らないエクスは、何かを知っているサンドラに従う他ない。迷いのない了承にサンドラは一瞬面食らい、そして薄く微笑む。

「さん……」

 少年がふらりとした、しかし重心が乗った一歩を踏み出す。

「に……」

 たった三秒の筈のサンドラのカウントダウンが、やけにゆっくりに感じた。一秒が倍以上に水増しされたかのような。

「いち……」

 エクスは脚の筋繊維一本一本に力を入れる。それは目の前の灼熱の少年も同じで。

「ゼロッ!」

 サンドラの鋭い掛け声を合図として、二人は左右に分かれて走り出す。身体能力が低く、脚が遅くて体力もないのはサンドラだ。しかし、その少年はエクスの方向に迷いなく駆け出した。

 サンドラを一瞥した目は、正気こそ失っているものの、守るべきものに対する敬愛に近い感情が垣間見える。しかしそれに気がつく事はなく、二人とも既に彼に背を向けていた。

 朱殷の少年には、もう敵も味方も関係ない。ただこの国を構成する忌まわしい全てを焼き尽くし破壊し尽くすのみの鬼神と化した。しかし、彼の奥底で眠りに着いた人間性が、エクスをターゲットに定めたのだ。

 エクスのすぐ近くに熱源が迫る。チリチリと空気が焦げるような音と熱さに、冷や汗が頬を流れる。サンドラが向かったであろう方向から離れるように。

 ごう、と背後で音がした。工場を囲うアルミ線に少年が触れていた。その瞬間、少年を取り巻く熱がアルミ線に移って、あろうことか赤熱し始めたのだ。

 流石に細い粗悪品といえど金属を溶かすまでの温度は出せないようで、仄かに赤くなる程度で済んでいるが、それでもかなりの高温だ。そのせいで酸素を喰らって僅かに燃え、霧に含まれた成分に着火して爆ぜている。

「あっつ……!」

 エクスは思わず悲鳴を上げて、しかし立ち止まる訳にもいかず再度走る。できる限り曲がりくねった、しかし狭くはない道を選んで。狭い道は自分自身が走りづらい上に、一気に燃やされたら逃げ場がなくなってしまう。

 背後の少年がどんな顔をしているのかはわからない。憎悪を燃やしているのかもしれないし、無我で無表情なのかもしれない。しかし、確認する事は決してできないのだ。

 一体何分走っただろうか。体感では何十分と走っている気がするが、実際はそうでもないかもしれない。空まで霧に包まれているせいで太陽の動きはわからないし、時計があったとしても確認する余裕なんてないのだ。

 呼吸が切れる。肺が痛いのは、霧に含まれる有害成分のせいか、それとも動悸によるわずかな胸の痛みと勘違いしているのか。

 走っている脚が、ふと重くなる。筋繊維の一本一本が限界を訴えるかのように。

 脚をもつれさせて転びかけて、それでも塀に手をついてなんとか持ち直したその時。

 薄い霧を突き抜けて、閃光が迸る。現在地点から百メートルほど離れた場所で、時計塔からは更に遠ざかる。

 上がった光は閃光弾のように目を刺すが、生憎エクスは閃光弾を知らない。だからそれを、サンドラによる魔法の産物だと判断した。実際、それは間違っていない。

 それはサンドラが魔法により打ち上げたものだ。それを、エクスは集合の合図だと考える。方向を変え、霧に包まれた道を走り出した。

 最早後ろは見ない。背後からは燃やし尽くされるかのような熱さが迫っており、死が足を取ろうとするかのような錯覚を抱く。

 ひたすらに全力疾走。一体どれだけ走ったかわからなくなって、道行く先が霧に包まれて方向感覚が失われる。背中の酸素が焼き切れような音がして、己の死を覚悟した瞬間、再度の閃光。

 それは、すぐ近くの塀に囲まれた工場の敷地から溢れていた。エクスは助走をつけて塀を乗り越えて、人の気配がしない工場の敷地内に乗り込んだ。

 どうやらそこの人間は全員が避難済みであるようで、少なくとも目に見える範囲では人はいないし、気配も感じない。建設物の付近には巨大な貯水庫がいくつか立ち並んでいるのみで、ひっそりとした印象の場所だ。

「エクス!」

 叫ばれた方向を向くと、サンドラが貯水庫の上に立っていた。恐らくは金属を加工するのに使うのだろう、大きな貯水庫。

 一瞬、視線がかち合って交錯する。ただ名前を呼ばれただけだけれど、彼女の意図はそれだけで通じた。

 方向を転換し、エクスは塀に飛びつく。鉄条網を傷つきながらも飛び越えて、サンドラがいる工場の敷地内に駆け込む。

 エクスが乗り越えた塀を少年は睨み、そして煉瓦で作られた塀を蹴り抜いた。

「ッ、そんなんアリかよ……!」

 紙でできた紗幕を突き破るかのように、いとも容易く破られた障壁。蹴りで破れるものでは本来無いというのに。がらりと小さく砕けた瓦礫がチーズのように溶けかけていて、先ほどよりも彼が纏う熱が強くなっている。

「エクスっ、そこの窓に!」

 サンドラが指差した先には、工場の小窓。入れるわけが無いが、サンドラの作戦では工場内に入る必要はない。ほんの数秒、高所に居ればいい。

 エクスは飛び跳ねて窓枠に足をかける。窓が開いていたのが幸運だった。内側の壁に腕をかけて飛びつき、まるで虫のように壁にへばりついた。

「こっち来なさいよ! この……」

 次にサンドラが発した言葉は、その少年の本質を捉えていて、同時にその少年にとって赦し難い単語だった。

 だからこそ、今まで標的にならなかったサンドラに、初めて殺意を向けたのだ。


「ばけものめ!」


「……あ」

 呻く。

「あぁ」

 少年は呻く。

 嘆くように。悲しむように。

「あぁああぁ」

 そして、怒り猛る。

 殺意そのものに等しい拳をサンドラに向ける。

 図星、だったから。

 正しい事を言われたから、少年は今までになく激しく憤る。

「あああぁああああしぃいイィい!」

 爪が食い込んで皮膚が裂けるほどに拳を握り締め、そしてサンドラがいる方へと跳び出した。

 同時に、サンドラは死が目前まで迫っている感覚に唾を飲みながら……貯水庫から、飛び降りた。

 高さにして、支柱含め三メートル。高さはあるが、飛び降りられない高さではない。

 空中で、人間は完全に無防備だ。彼女の細腕では少年の拳を受けでもしたら骨が折れるでは済まない。頭や腹に当たったのなら、命の保障はないだろう。

 それでも、そのリスクを呑んでサンドラは飛び降りた。彼女なりの、計算の上で。

 それが罠であると、少し考えればわかる。しかし、その思考力は少年には残っておらず。

 ばけものと呼ばれた怒りと衝動に任せて、サンドラの頭に向かって拳を突き出した。

「……直線的」

 サンドラの紺碧の瞳に、灼熱の拳が迫る。視界は妙にゆっくりと動く。そして、彼女は目の前の少年の攻撃の癖を、知っていた。

 目の前の彼の正体を、彼女は知らない。それを知る段階まで、彼女はまだ至れていない。

 しかし。

 サンドラは、何度も彼と相対してきたのだ。

 首を傾げ、顔を僅かに逸らす。それだけで十分である事を、彼女は既に看破していた。

「あっつ……!」

 熱い。しかし、痛くない。

 少年の拳は、サンドラの頬のすぐ横の空気を切り裂いていた。

 そして、背後の貯水庫に、めり込んだ。

 スローモーションの世界が通常通りに動き出す。サンドラは足先が地面につくと同時に膝から力が抜けて地面に崩れ落ちる。肘を擦りむいた痛み。

 貯水庫にめり込んだ拳は、そのままだとただ抜けなくなっただけだろう。しかし、彼の拳は溶岩の如き高温。

 融点が高くなければ、金属すら溶かす。

 どろり、と少年の腕が突き立てられている穴が、溶けた。広がった穴から腕が抜けて、そして中から水が滝の如く溢れ出る。

 そう、水だ。

 サンドラもエクスも少年も知らない事だが、ここに溜められているのは金属加工の際に、赤熱したそれを冷やすために使われた冷却水だった。もう使用済みで、近いうちに近場の川に流される予定の廃棄水だ。

 それが、溶岩の如き熱を放出する少年を呑み込まんと溢れ出る。

 貯水庫いっぱいに溜め込まれていた水が全て少年とサンドラに注がれた。

「がぶっ」

 サンドラはそんな悲鳴をあげながら濁流に呑まれて流された。彼女は体重が軽い上に筋力もないので、簡単に。そのまま敷地の塀に叩きつけられながら、彼女は乱れる髪を分けて少年を見た。

 そして、壁に取り付いていたエクスもそれを見て、二人は同時に愕然とする。

 確かに、廃棄水は少年の熱を冷ましてはいたけれど。

 冷まし切れては、いなかった。

 水が少年に触れた先からぐつりと煮え立ち、瞬時に蒸発する。彼を中心として発される熱が廃棄水の温度を百度以上に跳ね上げて、液体を水蒸気に変貌させていく。

「……う、そ……でしょ」

 物理的に頭を冷まさせたなら、エクスが攻撃を入れる暇もできる。そう考えての決死の行動だった。しかし、少年が内包する熱はサンドラが想像する以上だった。

 正確には、数分前の少年には大量の水を蒸発させるほどの高熱は出していなかった。それが突然温度が跳ね上がったのは、紛れもなく彼女の発言のせいだ。

 「ばけもの」。その単語が彼の温度を倍以上に跳ね上げさせて、水を蒸発させても尚余りある高温を発生させてしまったのだ。

 攻撃を自分に向けさせるための挑発が、完全に裏目に出た。もっとも、あの挑発がなければ少年がサンドラの方を向いていた可能性は低いのだが。

 全身に脱力感が襲い、エクスは壁から剥がれ落ちてしまった。蒸発しきっていない水のせいで地面はぬかるんでいる。背中を強かにぶつけたせいで、肺から空気が搾り出されて動けなくなった。

 ぎょろり、と少年の朱殷の瞳が、サンドラを見た。あまりに熱すぎる殺意を突き刺しながら。

「ひッ……」

 死。

 その一文字がサンドラの脳裏に現れた。後退りをしようとするも、すぐ後ろは塀だ。サンドラの非力さでは、決して破壊しようのない。

「こ、来ないで……」

 一歩、少年が歩み出る。それだけで体感の温度が数度上がった。

 死ぬ。死ぬ。焼け死ぬ。

 焼死が生き地獄のように苦しい死に方であると、サンドラは知っている。

「サンドラ……!」

 刻一刻と死が近づく。エクスも、このままでは彼女が殺される事はわかっていた。間に合うか否かはわからないが、彼女を助けようと立ちあがろうとした時。

「落ち着きなさい」

 そんな、静かな声がエクスの横から現れた。

「マグノリア……」

 エクスのすぐ横に、ブラウンの髪の少女、マグノリアが立っている。彼女にとってわからない事だらけの状況だろうが、英明な彼女は一目見ただけで大体の察しをつけたらしい。

 エクスに一瞥を寄越し、口の動きだけで「大丈夫」と言うと、そのまま灼熱の少年の元まで駆け出す。

「リアちゃん⁉︎」

 少年が纏う空気の熱さにも構わずに近づいていくものだから、サンドラが思わず声を上げた。そしてそれに反応して、または彼に急激に接近する気配を察知して、少年は振り返る。

 忘我の朱殷が、マグノリアの姿をその目に映す。怪力に見合わない細身の体。

 マグノリアは、それを強く強く抱きしめた。自分の肌が焼けるのにも関わらず。

「お疲れ様。……ごめんなさい、ありがとう、セタンタ。今はもう、休んでちょうだい」

 少年の朱殷の瞳が見開かれ、一筋の涙が頬に伝う。瞬時に蒸発したそれは塩分の軌跡のみを残して消滅した。

 がくり、と彼の全身から力が抜け、体重がマグノリアに任せられた。若干ふらつきながらも自分より大柄な体をなんとか支えて、マグノリアは一息ついた。

 慎重に少年の体を地面に下ろすと、彼は安らかな表情で寝息を立てている。

 髪は煤けてはいるものの輝かしい金髪に戻っており、普段よりもあどけなく見えるが、その目鼻立ちは、紛れもなくセタンタのものだった。

「ルウ……じゃない……?」

 しかし、確かにあの少年は、セタンタは。

『あああぁああああしぃいイィい!』

 あの叫びは、アシの名を叫んでいるかのように聞こえた。不思議とそこには怨嗟は含まれておらず、その代わりに果てしない悲嘆を帯びていた。

 エクスの中で、ルウイコールセタンタの等式がいよいよ現実味を帯びて形になりつつあった時、マグノリアがエクスとサンドラを見る。

「……悪かったわね。ごめんなさい」

「え……なんでリアちゃんが謝るの?」

「セタンタがこうなったのは、あたしが何かと押し付けすぎたせいよ。要はストレスのせい。多分。上司のあたしに責任があるわ」

 セタンタの頭を撫でながら、彼女は淡々と言った。それ自体が自責であるかのように。

「押し付けすぎ……って?」

「セタンタにはここしばらく、過酷な労働を強いている工場の破壊と、そこの従業員の救出を任せていたの。街中で爆発音を良く聞かなかった? あれ、セタンタよ」

 思い返してみると、確かに破砕音のような、やけに大きな工事のような音はここ最近良く聞こえていた。あれが全て、セタンタの仕業だったというのか。今日以外で煙などは見ていないから、爆弾などは使っていないはず。だとしたら、彼は爆弾などは使わずにいくつもの建造物を破壊してきたという事になる。

 工場の類は基本的に造りが粗末である事を差し引いても、そんな事をできるのだろうか、と思う。先程の暴走状態はマグノリアがわざわざ駆けつけてきた事から常ではないのだろうし。

「けど……どうしてそんな事を?」

「まあ、私情が大きいかしら。あたし、レジスタンスでしょ。このスラム街の現状はエルリの搾取のせいでもあるけど、同時に極端な資本主義の結果なの。国家転覆したとしても、決して国家の形態そのものを変えるのは簡単ではないわ。だから、あたしが王に成り替わる前の身軽な状態で、少しでも救っておきたかったの」

 この、哀れな使い潰されゆく労働者達を。

「民衆の支持を得るっていうちょっといやらしい目的も無いでもないけど、ね」

 少し冗談めかせて、マグノリアは微笑んだ。

「けど、それがセタンタに負担をかけた事は事実だし。……彼も、労働者階級だからね。あたしには絶対に弱みを見せようとしないけど、トラウマ、あるのかもしれないし」

 眠るセタンタの頬を抓りながら、彼女は肩を竦めた。

「それより……セタンタは」

 セタンタは、ルウなのか。

 そう続けようとしてエクスが思わず声を強めると、マグノリアは唇に人差し指を当てて、嫣然と微笑む。

 そして、眉尻を少しだけ下げながら言った。

「あんたが、思ってる通りよ」

 思っている通り。

 つまり、セタンタはルウという事で。

 サンドラに目配せをして、頷きあった。二人は今、同じ事を考えている。

「なんでセタンタは……ルウは、アシに会いに行ってやらないんだ?」

 せっかく、生きているのに。

 彼がアシが会いたがっている事を知っているかどうかはわからないが、マグノリアがセタンタがルウである事を知っているなら、その過去もある程度知っているはず。ならば、アシ達がルウという庇護者をなくしても更なる庇護者に恵まれ、すぐに教会に引き取られた事は、マグノリアが手配をしたからという事で納得がいく。少なくともエクスはそうなのではないかと踏んでいた。

「簡単な話、会いたくないのよ」

「『ばけもの』って言われたからか?」

「それはそうだけど、多分あんた達が思ってるのと少し違うわよ」

 エクスとサンドラは目を合わせて首を傾げる。その仕草にマグノリアが薄く笑った。

「あんた達はアシにばけものと言われた事でアシを恨んで顔を合わせたくないと思ってるかもしれない。または、恨んではないけどもう一度ばけものって呼ばれるのが怖い、ってこいつが思ってるから会わないでいるって考えてる?」

「……正直、前者は考えてた」

「私は両方……けど、後者の方があり得るかな。怨恨があるなら、セタンタくらいの強さがあればすぐに復讐できると思うから」

 淡々と己の推論を述べるが、マグノリアは手を交差させて「はずれ」と言った。

「セタンタはね、自分がばけものになるのが怖いのよ」

「……それ、ばけものって呼ばれたくないのと何が違うの?」

「大違いよ」

 『ばけものと呼ばれたくない』は、自分がばけものと認識される事が嫌で、恐れているという事だ。

 それに対して、『ばけものになりたくない』は、前者と限りなく近いがほんの少し異なっている。

 セタンタは、アシの言葉によって自分がばけものとして定義づけられる事を恐れている。自分がかつて守っていた子供達に忘却されてルウとしての記憶を無くされてしまう事を恐れている。

 ルウ、セタンタはケルトイ族だ。世界的に迫害されている民族の血を色濃く引いた少年だ。だから、ある程度の知識を持つ者にとってはセタンタは未知のケルトイ族、則ち『ばけもの』だ。

 つまり、セタンタをケルトイ族のばけものではなく一人の人間のセタンタだと証明するには、第三者にセタンタを人間として認識してもらう他ない。少なくともセタンタにとっては、それが人間としてのアイデンティティだった。

 アシにばけものと呼ばれる事。それによっていよいよ己がばけものであると確定され、証明されてしまう事が、セタンタは心底恐ろしいのだ。

「あんたはばけものなんかじゃない、歴とした人間だって、何度も言っているのにね」

 しかし、彼はあの一言が忘れられないのだろう。マグノリアの言葉ではかき消せないほどに。

「けど、セタンタもそろそろ限界だし、こっちの準備も整ってきたから、そろそろ始められるかも。……あとほんの少しの無理を強いる事を、赦してね」

 マグノリアは眠るセタンタにそう語りかけて、その額に口付けを落とした。

 そしてエクスとサンドラを見上げて、どこか緊張感を含んだ笑みを浮かべる。

「革命はもうすぐそこよ。心の準備、よろしくね」



 セタンタは、一日後に目を覚ました。あんなにも燃え盛るような温度を体から発していたのにも関わらず、火傷は一切なし。せいぜい、地面に転がった際の打ち身の傷程度。極めて軽度だ。

 暴走状態にある時の記憶はほとんどないらしく、しかし起き抜けにマグノリアやサンドラの体についている火傷を見て一瞬で全てを察したらしい。どうやら、マグノリアと初めて会った時も似たような暴走状態にあったらしく、「またやらかした……」とボサついた金髪を掻き毟り、ベッドの上で項垂れていた。

「どうしてあんな事になったの?」

 問うたサンドラに対して、セタンタは口をまごつかせて、躊躇いがちに語り始める。

「オレの本当の……いや、前の名前が『ルウ』だってのは、話したことはあったか?」

「いいや、セタンタの口から直接は聞いたことない。それに関しては、アシから聞いた」

「アシか……」

 セタンタは苦々しく表情を歪める。しかし決して、嫌悪ではない。庇護してきた妹のような存在に『ばけもの』と言われたにも関わらず、その彼女に憎しみを欠片も向けていない。

「……オレがルウだった頃、スラムの子供達を養ってたのも知ってるか?」

「うん」

「……オレと、ルウと一緒にいた子供が、あの工場で死にかけてたんだ」

 は、とエクスは思わず絶句する。その隣ではサンドラは眉を顰めていた。

 セタンタがルウであった時代、彼は多くの子供達を保護していた。所謂闇稼業と言われる仕事をしていても、子供を育てるほどの金を一人で、しかも子供が稼ぐというのは難しい。他の、比較的年嵩の子供達も働いていたはずだ。おそらく、その一人なのだろう。ルウがいなくなって子供達が孤児院に引き取られても尚労働から逃れることができず、体を壊すまで工場で働くしかない子供。

「目の前が真っ赤になったんだ。この忌々しい瞳と同じ色に、世界が変わった。その子を連れ出して、けどあの子をあんなにボロボロになるまで使い潰す何もかもに怒りが湧き出て、抑えがつかなくなったんだ」

 それはケルトイ族の性質の一つだ。感情の昂りによって髪が変色し、体表から熱を発する。逆に言うと、それほどにセタンタは感情を昂らせてしまったという事だ。

「……もしかして、その子って、全身が酸で溶けかかった男の子?」

 サンドラが恐る恐る首を傾げた。

「なんで知ってるんだ?」

 セタンタは目を見開いた。

「……世間は狭いわね。ちなみにその子、エクスくんとサンドラちゃんが見つけてくれたお陰で然るべき機関で治療を受けてるわよ。ほらセタンタ、二人に感謝しなさい」

「ありがとう。本当に」

 セタンタはエクスとサンドラに深々と頭を下げる。金色の髪がさらりと肩から滑り落ちた。

「そっか……セタンタは、敵意を持ってあんな事をした訳じゃないんだ……」

「っ、それは断じてない。我を見失っていた事は本当に申し訳ない。ごめんなさい。けど、故意に二人を傷つけようとした訳では絶対にない」

 セタンタはその朱殷の瞳でサンドラを見つめる。ひたすらに真摯に、誠実に。

 初めて会った時も攻撃的だったが、それは宿敵たるヘキサがいたせい。その他の時の態度は至って温和で、暴力性は出していなかった。やっている仕事自体は暴力的なものなのだろうが、その暴力性は私生活では出していない。

 そして、そもそもその怒りの要因は家族を想う感情にある。勿論、罪が必ずしもあるとは言えない工場地帯の人々を危険に晒した事や、激情に飲まれてエクスとサンドラに害をなそうとした事は到底赦せることではないが。

「サンドラちゃん、どうする?」

「どうするって?」

「命の危機に晒されたんだから、多少の報復は構わないわよ。殺したりするのは流石にやりすぎだから止めるけど、タコ殴りくらいなら。エクスくんも」

 マグノリアは、裁きに情は挟まない。それが例え、相棒のような存在であるセタンタでもだ。そここそがレジスタンスの主導者たる所以なのだろう。

「……じゃあ、一発だけ」

「どうぞどうぞ。セタンタも覚悟はできてるわね」

「ああ」

 セタンタも黙って目を瞑る。サンドラは静かに彼に歩み寄ると、その頬を思い切り張った。風船が破裂するような音が響き、セタンタが僅かに呻く。

 ちなみにだが、平手打ちは耳に当たったら鼓膜が破れるので相応に危険な暴力行為だ。サンドラはそこの知識がなく頬を叩いたが、手がもう少し後頭部に寄っていたら鼓膜が傷ついている可能性があった。

「……はぁ」

 じんじんと痛む手を抑えつけながら、サンドラは溜め息を吐いて床に座り込む。

「さ、サンドラ?」

「……なんかもう、満足しちゃった」

 彼女は俯きながら、呟くように言った。正確に言葉にするならば、満足感と言うより虚脱感で満たされたと言った方が正しい。報復する気すら失せてしまった。

「本当にいいの? もっとボコボコに殴ってもいいのよ?」

「うん、いいの。……わたしだって、セタンタを本気で殺そうとしてたから、お互い様」

「いや、お互い様じゃないだろ。そっちは正当防衛で、全面的にこっちの過失なんだから」

 先に殺そうとしてきたのはセタンタ。殺されそうになったから殺し返すというのは過剰防衛にもなり得るが、相手が差別対象のケルトイ族である事も考えれば裁判をしたとしてもサンドラは無罪になるだろう。

「……それでも、なんか、いいや。毒気が削がれちゃったし……人を殴るのって、全然気持ちがスッとしない。掌が痛いだけだもん」

「エクスくんに代理として殴らせても良いのよ? なんならエクスくんだって報復する権利はあるのよ?」

「えっ、俺?」

「いいの。セタンタは大事なものを守りたくて、他のものを見すぎて自分を見失っただけ。……その気持ちは理解できるから。それに、同じ立場に立ったとしたらわたしも同じ事をするんだろうし」

 サンドラは想像する。もし、エクスが目の前で便利な道具のように扱われて使い捨てられようとしていたら。その時にもし、セタンタのように強大な力を持っていたら。暴れ狂ってしまっても仕方ない。いや、当然だとすら思える。

 もしそこまでの力がなかったのなら、首を己で掻っ切る。これは憶測ではなく断言だ。

「いいよ。ゆるす。……エクスは?」

「そりゃ、サンドラを殺そうとしたのは赦せないけど……いや、いいや。赦す。マグノリア達の態度見てると、むしろ殴られたいって思ってるみたいだ。殴ってって言ってる人を殴っても、気持ちよくともなんともない」

「ああ、赦さなくていい。望む限り」

 贖罪という行動の性質は、いつだって受動だ。自分の犯した罪の精算なのだから、償いは被害者の要求を呑む事であるべきだ。加害者側であるセタンタは、ただ何かを要求されるのを待つばかりである。

「何かを求めるとしたら、叛逆が終わってからだ」

「わかった。この件に時効はないから、いつでもオレを好きに使ってくれ」

「それじゃ、セタンタは暫く謹慎。外には出さないわよ、あたしが監視につくから。暴走した後遺症とかもあるかもしれないし、あたしにも過失はあるから一緒に反省するわよ」

 そしてマグノリアはサンドラ達に向き直り、深々と頭を下げる。それと同時に、セタンタも再度頭を下げた。

「この度は本当に申し訳ございません。二度とこのような自体が起こらないよう、起こさないように互いに努力いたします」

 普段の高慢さを全く感じさせない、丁寧な言葉遣い。折り曲げた腰の角度から何まで、神経が行き届いた所作。それがマグノリアにとって、最大限の謝意だった。

「……もしレジスタンスを離反するなら、賠償金とここで生きるための伝手を紹介するわ。首都を離れるなら良い土地を紹介する。そこまでおんぶに抱っこは嫌だって言うなら拒絶してもらって構わないわ。これがあたしが見せられる、最大の誠意」


 かくして、その事件は解決に至った。

 その後、工場地帯の一角が謎に燃え溶けた事件は大々的に報道され、マグノリアの部下、つまりレジスタンスの一員により原型を失わない程度の改変と捏造を繰り返され、レジスタンスの支持を強める結果になった。

 その一週間後、マグノリアの元に手紙が届いた。送り主の名前は見たことも聞いた事もない名前だったが、中の手紙を見てみるとマグノリアのものだとわかった。

『今から二週間後、変革が始まる。スラムと中央の境目近くにある、時計塔広場に集合』

 それは、とうとうこの国の変革が表層に現れるという合図だった。




 母は、魔女を作り上げる魔術を使うという始祖と言える魔女、アビゲイルの能力を受け継ぎ、しかしそれを驕る事をしない謙虚な女性だった。父は母を魔女というだけで判断はせず、その人柄を愛したのだと思う。

 傍目から見て、二人はあから様にベタベタしていた訳ではなかったけれど、本心から愛し合っている事はわかる。その二人の愛の結晶であるマグノリアも、大層愛されていた。

 夫婦間に偏見の色眼鏡はなかったものの、周囲はそうではなかったから、被迫害者や異端者が集まる村に移り住んだ。それはマグノリアが産まれる前の話だが。

 その村で、マグノリアは数少ない同年代の子供の中で、特にケルトイ族のセタンタと仲が良かった。

 五歳の時、村に突然現れたユート・アマタニと名乗る十は年上の少年とも、懇ろにしていた記憶がある。正確にはアマタニユウトと名乗っていたが、彼が住んでいた地域はプロドディス王国付近とは姓と名の順番が違うらしいので、ユート・アマタニと言っていた。

 六歳の時、村が騎士に襲われた。マグノリアは両親が予め家の床下に掘っておいた地下空間に閉じ込められて守られた。音も光も何も届かない無明の空間で、彼女は訳が分からずひたすらに声を殺して泣きじゃくっていた。

 外の音が全く聞こえなかったから、マグノリアがそこから出たのは襲撃から丸二日経過してからだった。最も、彼女は暗い空間のせいで時間感覚を無くしていたので、必死に這いずって出ようとして、それが二日後になってからだっただけだが。

 外は、広々とした空間だというのに異臭が立ち込めていた。

 まるで玩具にされたかのようにズタズタで、ありとあらゆる武器が刺さったケルトイ族の大人の死体。手の関節部の皮膚が裂けていた事から、拳でえ争ったのだろうな、とやけに冴えた思考で思った。

 そして、村の中心で。円を描くように転がされた、両親含む無数の死体の、その中心で。

 槍や、剣や、矢や斧が小さな体に突き立てられて、皮膚一枚で四肢が繋がっている、同い年の友人の死体が、ゴミのように打ち捨てられていた。

「……なあ、マグノリア」

 後ろから声が聞こえて、錆びついたように動かない体を無理矢理動かして振り返った。

 そこには、傷一つないものの随分と憔悴した様子のユートが立っていて。

 この世界の理を、常識を、一つも知らなかった少年は、無垢に疲れ切っている濁った瞳でぼんやりとマグノリアを見つめながら、問うた。

「メアリー・スーって、なんだ?」

 それは、マグノリアにはこう聞こえた。

『お前がメアリー・スーなのではないか。お前のせいでこの村は滅んだのではないのか。両親も、仲が良かった隣人も、幼馴染の友人も、お前のせいで死んだのではないか?』

 被害妄想が過ぎると、後になればわかるけれど。

 けれど、自分でも知らない内に精神が疲弊していた彼女はそこで思考が止まっていた。そこで生まれた自責と自罰の感情は、あれから十年もの時が経過して以前よりも物事がわかるようになった現在でも、心根の部分にこびりついている。

 そんな過去を反芻するだけの瞑想から目を開けると、朱殷の双眸がこちらを覗き込んでいた。

「リア、準備は大丈夫か?」

 何を血迷ったか幼馴染の名を衝動的につけてしまった、色彩こそ同じであるものの性格も顔立ちも全く違う少年を見て、マグノリアは自嘲するように笑う。そういえば、自分の事を最初にリアと呼んだのは、あの幼馴染だった。

 彼の死体を目の前にしたはずなのに、それでもただ人種が同じであるだけの人間に幼馴染の影を重ねてしまった、かつての愚かな自分を嘲って。

 そして、それからはもう、脱却するのだと己を奮い立たせる。

「ええ。鬨の声をあげるわよ、セタンタ」

 彼の事をセタとは呼ばない。その呼び名は、十年前に失われた彼のものだから。

 失われたものは失われたままで、決して戻ってくる事はない。だから、もう二度と失わないために。


「反乱軍、前へ!」




 猫足のバスタブの中で、エルリ・ジェーベドは優雅に寛いでいた。

 バスタブは、彼女の身分に見合わないほどに狭い。いくら彼女が小柄だと言っても、手足も十分に伸ばせないほどだ。しかし、彼女は湯船の広さには拘泥しない。というより、彼女は妥協しているのだ。彼女が求める湯がバスタブ一杯分しかないのだから、仕方がなかった。

 何百年も前から存在する民謡を鼻歌で歌いながら、湯船を満たすものを己の肩にかけて、エルリは満足げに微笑んだ。生温い、冷めゆく体温と同じ温度。

 バスタブには、一人の女がもたれかかっている。二十歳ほどの歳若い女で、そして彼女が半年後に二十一歳の成人の誕生日を迎えるはずだった事を、エルリは知っていた。

 もたれかかっている女は、ヴァージンの一人だ。一際有能で、エクトル村の調査のために遣わした、エルリへの忠誠が強いヴァージン。

 ふと彼女の手に触れて、その体温が失われつつある事に気がついてエルリは鼻白んだ。立ち上がってバスタブから出た彼女にすぐに別のヴァージンが駆け寄り、その体にタオルをかける。新品なのではないかと思えるほどに白いタオルが、すぐに赤黒い血の色に染まった。

 エルリが入っていたのは、普通の風呂ではない。

 浴槽を満たすのは、湯ではなく処女の生き血、即ち殺さないように気を遣いながらヴァージンから絞り出した生き血の風呂だ。

 もっとも、そのヴァージンは今しがた失血死したのだが。

 あのヴァージンは忠誠が一際強かった。それはもう、盲信的なほどに。ヴァージンは皆エルリを絶対君主として忠誠を誓うように育てられているが、彼女はその中でも異常だった。何せ、世界がエルリ中心に回っていない事に気がついているのに、それでもエルリを信じ続けていたのだから。

 洗脳教育下で何かを盲信し続けるのは当然だ。そうなるように教えがなされているのだから。

 その洗脳が解けた上で、しかし洗脳下にある時と全く同じものを信じ続けるのが、真の盲信である。

 だから、あのヴァージンは極限まで命を絶やすまいとその気力で命を長く保っていた。おかげでエルリは通常よりも長いバスタイムを楽しめた。

 本当ならば、レジスタンスを根絶やしにしてから彼女の風呂に入りたかったのだけれど。

 しかし仕方ない。『初物狩り』によって失われてしまうくらいならば、本来ならば二十一歳の誕生日に行うはずの予定を半年繰り上げた方が良かった。エルリの中で、あのヴァージンはその程度には優先順位は高かった。

「エルリ女王陛下!」

 バスタイムの終わりの恍惚とした気分は、無遠慮に押し開かれた扉とそこから転がり込んできた騎士によって邪魔された。一瞬殺してしまおうかと思ったが、騎士が妙に焦っている事から緊急事態である事を察して、「報告を」を先を促す。

「スラム街の方向から、暴動が広がっています……! 恐らくは、指名手配の危険人物、マグノリア・ウィリアムズ主導の……」

「反乱だ、って言いたいのかしら」

 エルリが放った苛立ちという名の威圧に、騎士は情けなくも喉を引き攣らせて小さな悲鳴をあげる。

「……良いわ。城門は今すぐに閉鎖。橋を引き上げなさい。射手を動員するのよ」

「しかし、それでは城壁外を警備している騎士は」

「わたくしはもう命令したわよ。それ以上は反逆と見做すわ」

「っ、滅相もありません! すぐにそのように伝達して参ります!」

 重々しい鎧をガシャガシャと鳴らしながら、鈍い動きで走り去って行った騎士の後ろ姿を眺めて、エルリは嘆息する。

「我らヴァージンも、籠城戦の兵として動かしますか?」

 タイミングを見計らって、侍っていたヴァージンが口を開いた。

「いいえ、ヴァージン達は兵站の準備でもしていなさい。籠城戦なるのだから」

「しかし」

 言い募ろうとするヴァージンを、エルリは一瞥した。このヴァージンは、先ほど風呂になったヴァージンと同じく、盲信的な類の娘だった。まだ十代半ばだから、もっと使ってから風呂にしたい人間だ。

「蟻が巣から一斉に出てきたとて、足で潰してしまえば良いのよ。貴女達の血はその一滴に至るまで全てがわたくしのものであると、まさか忘れた訳ではないでしょう」

「……申し訳ございません、出過ぎた事を言いました。そのように伝達して参ります」

 ヴァージンは頭を下げてから、淑やかにかつ急いでバスルームを出る。すぐに他のヴァージンがエルリにドレスを着せ始めた。

 戦化粧のような、深紅のドレスを。


「さて、将とは後方で座して待つもの。玉座の間で戦勝の知らせを待ちましょう」




「進みなさい! かの邪王をあたし達で打ち倒すのよ!」

 マグノリアが叫ぶと、それに呼応して彼女の背後から猛々しい声が聞こえる。

 彼女は現在、スラム街や少数ながら中央街にいるエルリ政権反対派の集団を指揮していた。大規模は反乱である。スラム街の人口は中央街の何倍もあり、全員ではないものの武力を奮う余力のあるものはほとんどが集まっている。その数の膨大さに、中央街の者達は触れまいと自宅に逃げ惑い始めた。

 集団の将であるマグノリアとしても、一般人を歯牙にかける事は本意ではない。逃げてくれてよかった、と内心安堵する。

「マグノリア」

「ええ……行きなさい」

 隣にいたセタンタに指示を出すと、彼は走り出す。先行して行ったセタンタを見送って、マグノリアは再度歩みを進めた。軍団を引き連れている以上、その速度は必然的に遅くなる。

 後続の様子を見ながら、中央街の大通りを歩く。目的地はエルリ・ジェーベドの皇居、ウィンチェイテ城だ。

 奇妙な事に、普段は街中を巡回している騎士達はほとんどおらず、居てもマグノリア達の姿を見るなり城の方に走っていく。そのお陰で何事もなく城の前まで到着した。

 城壁の周囲には深い堀があり、七分ほどまで水で満たされている。一度落ちたならどうやっても這い上がれない構造だ。堀を渡るための吊り橋がかけられているのだが、橋を支える鎖が巻き上げられており、渡る道が絶たれている。

 そして、城壁の上には弓を構えた無数の騎士達がマグノリア達を睨んでいた。

「撃てッ!」

 野太い号令が聞こえると同時、騎士達は一斉に番えていた矢を放った。

「っ、風よ!」

 マグノリアは空気中の魔力を巻き上げて、上の方向に向かう気流を作り上げる。その勢いに、掃射された矢の多くが巻き上げられた。

「怪我人はすぐに後退!」

 命令を出しながら、マグノリアは城門を睨んだ。まだ外に騎士がいるにも関わらず、固く閉ざされた入口。繋がる橋は上がっていて通れない。

「籠城戦って訳ね」

「マグノリア!」

 人混みに紛れていた、腰に剣を提げたエクスが叫ぶ。

「何?」

「ずっとこのままここにいるのはジリ貧だよ」

 ぷは、とエクスに手を引かれて人混みから引き摺り出されながら、マグノリアが進言した。

「大丈夫よ。すぐに崩壊するわ」

 マグノリアはそう言って、城壁を睨む。正確には、その城壁の向こうにいる相棒を見つめる。

「頼んだわよ、セタンタ」



「頼まれたぞ、リア」

 なんとなくマグノリアに頼まれた気がして、セタンタは小さく呟いた。

 彼が現在いるのは、ウィンチェイテ城の庭園、その噴水の内部だ。どうやら城壁内に騎士を詰め込んでいるようで、庭にはかなりの数の騎士が武装を整えている。満足な防具すら着けていない女中のような少女、恐らくはヴァージンであろう人物も多数、城壁の上に登って大量の矢を運んでいる。

 非戦闘員まで動員しなければならないほど向こうは切迫した状況なのかと一瞬思ったが、そうではない。騎士達は鈍重な鎧を着込んでいるため、軽いものの輸送程度ならば騎士を使うまでもない、使わない方が効率的だと判断したのだろう。

 セタンタは現在、噴水の中に身を潜めている。それは彼が、ウィンチェイテ城の地下にある水路を使って城壁内部に侵入したからだ。

 ウィンチェイテ城は堀に囲まれている。しかしその堀は全く水が入れ替わらないという訳ではない。必ず水路が存在しており、そこから水を入れ替えている。水路がどう通っているかの情報はとある情報筋から漏れており、侵入は容易かった。

 ついでに言うと、エルリは割と綺麗好きとの事だ。そのお陰か、水路は決して清潔ではなかったものの、スラム街を通っている川や下水道ほど汚くはなかった。セタンタの髪や衣服は水を吸って重たくなっているが、彼にとっては瑣末な問題だ。それが彼の動きを阻害する事はないし、何よりもそんな水気はすぐに蒸発してしまうのだから。

「……さて」

 セタンタは小さく呟くと、手にしている戦斧を強く握り込んだ。槍を斧の柄に突き刺したかのような、少々不恰好な長斧。

 弾丸のように噴水から飛び出ると、奇襲に気がついた騎士が声を上げかける。それを封じるように柄でそいつの喉を殴りつけて引き倒した。

 全身を巡る血液が騒つく。温度が上がっていく。決して気のせいではない。

 彼の血に混ざるケルトイ族としての性質が、闘争を希求している。飽くなき戦闘の狂乱へと身をやつせと、訴えかけてくる。

「敵襲、敵襲ーッ!」

 騎士に一人が叫んだ。それと同時に斧頭で腹部を殴りつける。斬ってはいないので死んではいないが、衝撃が鎧で反響したので咄嗟に声を出せなくなり蹲るほどのダメージだ。

 警告が耳に届いたのか、一部の城壁上の弓兵と庭内の騎士がセタンタの姿を視認した。

「け、ケルトイ族……⁉︎」

 騎士の一人が、愕然と呟く。きっと自分は、それとすぐにわかる容姿をしているはずだ。

 戦いこそに魂を置いた戦闘民族、ケルトイ族。その特徴は、血のような朱殷の瞳。そして、戦闘時に髪は同じ血色に変わり、そして空気すら焼き尽くすほどの高温を発する。

 ぶちり、と髪を結い上げている紐が切れた音がした。焼き切れたか、それとも髪の一本ですら強靭になる変貌に耐え切れなかったか。肩にかかった長い髪は、普段の金色とは似ても似つかない赤黒い鮮血の色。

 血が滾る、という表現がまさに適切だ。比喩ではなく、本当に血液が沸騰しているかのように全身が熱かった。筋繊維の一本一本が熱を持っている。そしてこう叫ぶのだ。

 戦え。肉が裂けても武器を握れ。血が一滴残らずこぼれ落ちても殺せ。四肢を無くそうとも走れ。目玉が抉りださようとも睨め。喉が切り裂かれようとも猛れ。疲弊しようとも動け。

 穿ち、殴り、蹴り、噛み、突き、嬲り、壊し、毒し、燃やし、潰し、抉り、折り、縊り、裂き、刺し、薙ぎ、落とし、轢き、討ち、討ち、討ち、討て。

 ただひたすらに、戦え。

 訴えかける本能を無理矢理にねじ伏せて、セタンタは騎士を睨んだ。

 もう二度と、暴走はしまいと。

「……来いよ、有象無象」

 昂る熱を内側に押さえつけながら、セタンタは戦斧を振り上げた。




「……おい、なんか様子がおかしいぞ⁉︎」

 後方から聞こえた誰かの叫び声に、エクスは城壁を見上げた。騎士達が何やら混乱した様子で、掃射をやめている。

 あれから何度か繰り返された、弓兵による一斉掃射。マグノリアの魔術と、彼女より小さいながらもサンドラの魔術で矢の多くは撃ち落とされてはいるものの、全ては無理だ。矢を受けた者は後方に下がっていっている。

 今の所死亡者が出ているとは聞いてはいないものの、こちらは指揮系統がマグノリアに集中しており、しかし慣れない戦闘に情報伝達が遅れているため、その訃報が自分達まで届いていないだけの可能性も高い。

「遅いわよ、セタンタ……!」

 そうは言いながらもどこか誇らしげに、マグノリアは笑っていた。

 よくよく目を凝らせば、城壁の上を赤い色をした影が走り抜けており、それが通った場所にいた騎士は皆倒れ込んでいるようだ。

 それから程なくして、橋が下ろされてきた。巻き上げられていた鎖が緩められて、重い橋を堀にかけて道を完成させる。誰かが、内部からその操作をしたのだ。

「総員、道は開いた! 攻め込むわよ!」

 マグノリアが叫ぶと、それに鼓舞されたように背後にいた皆が雄叫びをあげた。彼女が走り出すと、後ろに全員がついてくる。

 橋の操作をするための機械の側に立っていたのは、セタンタただ一人だった。朱殷の髪を揺らめかせて熱い空気を放っている彼は数週間前の暴走状態を想起させてマグノリアが怯えたように身を竦めたが、こちらを見た瞳には狂気も恐慌もない。ひたすらに冷静で涼やかな光が宿っていた。

「セタンタ」

「ああ、まだいける」

「無理をかけるわね。異変が生じたらすぐに後方に下がるのよ」

「俺はそんな事できないって、知ってるだろ?」

 薄い笑みを浮かべながらの言葉に、マグノリアは鼻白む。

 二人は短い応酬を終わらせると、気安い空気を即座に霧散させて前方を睨んだ。その切り替えの速さが戦慣れの証なのだろうかと、エクスはふと思う。

「進軍! 前方に敵多数!」

 セタンタが叫ぶ。城門から続く庭園には、セタンタが半数を行動不能にしたもののまだ多くの敵兵が臨戦体制で待ち構えている。

「エクス、お前見てろ」

「え?」

 セタンタに言われて、剣を鞘から抜いていたエクスは思わず彼の顔を凝視した。

「いいから。俺はお前の目を信用してる。お前は俺とは違う成長を遂げるタイプだと思うからな」

 早口に告げると同時、セタンタは襲いかかってきていた騎士を斧で迎撃する。足払いをかけると同時にその力と逆方向に側頭部を殴りつける事でその鈍重な体を転ばせた。騎士の重武装では重すぎて、転んだだけでもしばらくは起き上がれない。

 実に鮮やかで効率的だと、エクスは思った。殺すのではなく、一時的にでも戦闘不能にさせる。そのためだけの必要最小限の動き。

「良いから、少し見てろ」

 セタンタはそうとだけ言い残し、敵陣の集団の中に突っ込んでいく。それに触発されたようにスラム街の面々もそれぞれの武器を持って騎士に襲いかかっていった。

 スラム街の者の武装は貧弱ではあるが、何せ数が多い。一人の騎士に対して複数人で応戦して、技術なんて欠片も感じない泥臭い動きで応戦していた。

 セタンタはその逆で、一人で複数人の騎士を相手取っている。跳び上がって頭を蹴り倒し、その体を膂力だけで無理矢理投げて何人も地面に伏せさせる。

 斧頭で首、脇腹を続けて叩いて最後に腹部を蹴って転ばせ、次いで振り向いて剣を振り上げていた騎士の横腹に回し蹴り。軽かったのか転びはしなかったが、次いで斧でも殴りつけてバランスを崩させる。

 左右から一斉に斬りかかられるが、その太刀筋を斧で受け止め、薙ぎ払う。一度後ずさると、次いで切り掛かってきた騎士達の脇をすり抜けて背後に周り、その背中に斧を叩き込んだ。

 斧だけではなく、体の使い方に無駄がない。彼の周囲には常に熱があるせいか、それとも彼の俊敏な動きに圧倒されてか、騎士たちの動きは徐々に緩慢になっている。

 腹、顔などを重点的に叩く攻撃。セタンタの戦闘の癖が、見えた気がした。

「……今なら」

 エクスは小さく呟いた。今まで後方で見ているだけだったが、剣を構えて戦場に乗り出す。

 セタンタが積極的に攻撃していた場所。即ち、人体の急所。それを真似て、剣で突いた。

 昔から、真似は得意だった。幼い頃に勉強ができたのは聡明なサンドラが側にいて、それを真似たから。農業だって両親や村の農家を真似ていたから、他の同年代の子供より遥かに上手くできていた。剣術を磨き始めたのだって、レノの真似だ。

 エクスは昔から器用貧乏で、突出しているのはただ一つ、模倣だけ。

 その模倣の技術で、今、人を倒す。

 初めて真剣を人に向けた。

 地面に横たわった騎士の巨躯をを見下して、エクスはほんのわずかな全能感に酔いしれた。



「……ちょっと調子に乗ってるかも、エクス」

「良いわよそんなの。ああいう手合いは乗せといた方がいいの」

 サンドラとマグノリアは戦況を見下ろしながら、どこか気の抜けた会話をしていた。司令官らしき騎士が居座っていた高台を制圧して、ほんの一息ついていたところだ。

「この……魔女めッ!」

 いつの間にか回復して起き上がっていた騎士が、剣を振り上げながら叫んだ。それに反応して、マグノリアは刃を間一髪避けて掌底を兜に叩きつける。

 非力とは言わないが、男よりかは弱い力だ。騎士は一瞬怯んだだけで、大したダメージはない。しかし、怯んだだけで十分だった。突き出した掌から光が漏れ出す。

「その文句、聞き飽きたわよ」

 魔力を光に変換し、それを騎士の眼前で躊躇なく放出した。突如眼球に飛び込んできた光量に、騎士は野太い悲鳴をあげて両目を抑えて仰反る。その腹を蹴り上げて、高台から落とした。

「ちょ、リアちゃん⁉︎」

 それなりの高さがある場所だ。落ちたとしても生き残る可能性はあるが、騎士は重い鎧を着ていた。その重さの分だけ与えられる衝撃は大きくなるだろう。死んでしまう可能性は高い。

 マグノリアは無血開城を望んでいる訳ではない。国を根本と変えるのだから多少の流血は免れないだろうし、自分が血を流す事も覚悟していると、彼女は言っていた。

 しかし、セタンタや多少理性的なレジスタンス達は、騎士を積極的に殺す事はなく、行動不能状態に追い込むようにしているように思える。それはマグノリアもだ。ここで殺しをしてもいいのだろうか、とサンドラは思う。

「平気よ。あれ見て」

 マグノリアに指さされて、サンドラは高台の下を覗き込んだ。すると、葉が見事に切り揃えられた庭木がクッションとなって、騎士の体を守っていた。落下の恐怖のせいで失神しているようだが、少なくとも死んではいないようだ。

「無血開城はとっくに諦めてるわ。けれど、不必要な血を流させるほど悪趣味でもないの、あたし」

 マグノリアは肩を竦めて、また庭園の戦況を覗き込む。

 騎士の姿は徐々に少なくなってきており、しかし増援が城の内部から駆けつけている。今が、頃合いだろうか。

 マグノリアは魔力を光に変換し、それを空に打ち上げる。

「……!」

 昼間の排煙に煙る空に浮かぶ光を見て、セタンタが小さく頷いた。

「エクス、一緒に来い」

「、わかった」

 騎士の体を切りつけつつ、エクスは辛うじて頷く。

 その鈍重な体を蹴り飛ばして怯ませながら、駆け出したセタンタの背についていった。

「リア、あそこから行けそうだ」

 セタンタは言いながら、城の大きな採光窓を指さす。本来の出入り口では騎士が出入りしているから無理なのだろう。

「あれ、高い場所にあるけど」

 壁面には足を辛うじてかけられる程度の出っ張りはあるが、セタンタやエクスならまだしもマグノリアがそれをできるかは怪しいし、サンドラは確実に途中で落ちる。

「リア、ロープはあるか?」

「そこの高台で、緊急時に降りるための縄梯子があったから念の為持ってきてるわよ。どうせあんた、こんなトンチキな事言い出すだろうって思ったから」

 彼女はそう言いながら、纏められた縄梯子をセタンタに渡す。彼は異常な脚力で跳び上がって窓枠に着地すると、周囲に人がいない事を確認したようで、縄梯子を下ろしてきた。

「行くわよ」

 エクス、マグノリア、サンドラの順番で梯子を登り、城に侵入する。梯子は落として証拠を隠滅した。

「入れたはいいけど、エルリがいる場所ってわかるの?」

「玉座の間にいると仮定して……待って、城内の地図を持ってるから」

 マグノリアは言いながら、懐から数枚重なった紙を取り出した。綿密に描き込まれた城内地図で、階層ごとの構造、部屋の用途、隠し通路まで描かれている。

「これ、誰が……?」

 ここまで綿密に描き込まれている地図、城の内部に通じている者しか描けない。機密情報であろう隠し部屋や隠し通路まで描かれているのだから、一朝一夕では仕上げられないだろう。

「ま、あたしにはセタンタやスラム街のみんな以外にも、頼もしい仲間がいるからね。これはその仲間が描いたやつ」

「仲間……」

「裏で動いてもらってるけどね。あたし、エルリに顔割れてるし指名手配もされてるから、大っぴらに動けないのよ。だからあんた達に情報収集してもらってたんだし」

「そうだったね」

 マグノリアは地図を睨めっこしながら、道筋を確認する。

「隠し通路は仲間達が潰してくれてるわ。だから、あたし達はまっすぐ玉座の間まで強行突破すればいいわ。セタンタ、先導してくれる? 道はあたしがナビゲートするから」

「了解」

 作戦会議を終えると、まずセタンタが部屋の扉を突き破って走り出す。廊下には若い女中、ヴァージンが複数人いるのみ。しかも彼女達は非戦闘員なので、セタンタの姿を見ても悲鳴をあげるだけで応戦はしようとしない。と言うか、できない。応戦できるほどの武装が彼女達はできていないのだ。

 腰を抜かして怯えた目をする彼女達の横を走り抜けながら、エクスは苦々しい表情をした。彼女達が、憎いはずのヴァージン達が、年齢相応の普通の少女に見えた気がしたから。

「ああああああ!」

 まだ十代になるかどうか、と言った幼く見えるヴァージンが、恐慌状態のまま調理用の包丁を刺そうと駆け寄ってきたが、その包丁はあっさりとセタンタの斧に弾き飛ばされた。

 そんな事をされたら。

「……本当に、ただの」

「この子達も、ある意味被害者ね。みんな、出来うる限りは無視よ」

 あの、エクトル村を滅ぼす号令を出したヴァージンも、同じなのだろうか。

 エルリの傀儡になってしまっているだけで。その本質は、ただの少女で。

 鞘に入れていた剣を、無意識的に強く握っていた。彼女達を斬る事をマグノリアとセタンタが良しとしていなくてよかったと心底から思う。

 きっと自分は、斬れてしまうだろうけど。

 けれど、斬った後に果てしなく後悔するだろうから。容赦なく無抵抗な少女を斬る事ができた自分に更に失望してしまうだろうから。

 戦いに対して躊躇いはない。しかし、武装も満足にせず応戦もしない者を殺そうとするならば、それは一方的な虐殺でしかない。その区切りはつけておきたかった。

「エクス」

「……」

「この戦いは大義ある戦いだよ。躊躇わなくていいの」

 サンドラの励ましは、実の所的外れだ。エクスは大義があろうとなかろうと、己の剣を振る事ができるのだから。

 しかし、幾分か心が軽くなる。戦うための正当な理由をサンドラによって目の前に差し出されたのだ。この先に待ち受けているであろう戦いが終わった後の自分は、きっと心の靄が少なからず晴れているはずだ。

 そんな希望を抱きながら、足を止める。

 眼前にあるのは、巨大な扉だ。エクスの身長の二倍は軽く超えている大きさで、ノブや模様には螺鈿細工が施されて豪奢だ。同時にどこか古めかしい雰囲気もい漂っていて、古城の趣がある。

「……行くわよ」

 マグノリアが静かに告げ、慎重に扉を押し開ける。

 差し込んできた光に一瞬視界が眩んで、そして鮮明になった世界はひどく美しかった。

 ステンドグラスから取り込まれた多彩な光がちらちらと舞っている。螺鈿細工が輝いて部屋を華美に飾り付けていた。壁も柱も、全てが一種の芸術作品だ。比喩ではなく断定。感想ではなく事実。それほどまでに、美しい部屋だった。

 飾りつけすぎて下品になる事もなく、全体的に見ても調和が取れている。その豪奢さに、エクスは目を剥いた。

 ステンドグラスから差し込む逆光を背に浴びる形で、これまた繊細な細工が施された玉座が鎮座している。その上には、毒々しい深紅の色彩を纏った女がいた。

「……わたくしは、最後に口づけを贈ろうと思っていたの」

 女は唐突に語り出す。その脈絡の無さに全員が押し黙ったところ、彼女は続けた。

「亡骸を丁寧に保管して、腐らないようにして。体液を樹脂に置き換えて、永遠に。彼女の体を収めるガラスの棺と、わたくしからのお別れの口づけを、贈るつもりだったの」

 女は、その瞳をギラリと光らせる。くつくつと静かに熱く煮えたぎる、憎悪。

「それすら絶ったのはあなたでしょう、マグノリア・ウィリアムズ」

 思わず、マグノリアを見た。彼女の後ろ姿は相変わらず毅然としている。

「わたくしから、マルの死体を奪った罪。八年越しに、贖ってもらうわ」

 マル、とは、恐らくは人物名。マグノリアが誰かの死体を奪ったと言うのは、一体どう言う事だ。

「それを、彼女が望んでいたと?」

「望んでいたわ。だって、わたくし達は愛し合っていたのだから」

 不遜に女は言い退けた。マグノリアはそれを鼻で笑って、悪意を孕んだ嘲笑を向ける。

「死体を冒涜する事が?」

「冒涜ではない、愛ゆえだ! 死体を冒涜したと言うのなら、お前だって同じだろう、死体泥棒めが!」

「あたしはもう、その贖いは済ませたのよ。で、あんたは? エルリ・ジェーベド」

 女は歯軋りを鳴らしながら、立ち上がる。

「黙れ。死に晒しなさい、マグノリア・ウィリアムズ」

 女、もといエルリは、地団駄を踏むように地面を蹴り付ける。部屋全体がわずかに揺れ、天井で神の絵を縫い付けていた武器のいくつかが降り注いだ。

「っ、危ない!」

 サンドラがエクスの胴体に突進して突き飛ばす。一瞬遅れて、エクスが先ほどまで立っていた場所に斧が降った。

「……!」

 あのままあそこに立っていたら。それを想像してしまってエクスは顔を青くする。

「二人とも、立て!」

 セタンタに激励されて、二人はすぐに体勢を立て直す。ガキ、と鋭い音が聞こえてそちらを見ると、恐らく降ってきた武器の一本なのであろう、鉄錆のついた剣をエルリが持っていて、それをセタンタが受け止めていた。

「っ、この!」

 受け止める体勢が悪かったのか焦りを顔に浮かべて、セタンタはわずかに呻く。エルリの薄い腹を蹴り上げて、二人は距離を取った。

 エルリが跳びずさった先の地面に、マグノリアは彼女を囲い込む形で魔術で炎を展開させる。

「こんなの、足止めにすらならない!」

 エルリは猛り、剣で炎を薙ぎ払ってその多くを散らせた。そしてその深紅の瞳で、今度はサンドラとエクスを睨みつける。

 脚に力を込めて、地面を蹴り付けるとほぼ同時だった。エクスは反射的に剣を構えて、狙いなんて定まらないままに振り下ろす。その先に、わずかに何かを斬った感触が確かに手に伝わった。

 見ると、その剣の先にはエルリが訝しげな顔をしてエクスの剣を受け止めている。その肩にはわずかに剣が食い込んでいた。

「このっ……!」

 横からサンドラが、先ほどエクスの元に降り注ぎそうになっていた斧をエルリの頭に向かって振り下ろそうと構える。同時にセタンタもその斧を振り上げて、エルリの体を斬り下ろそうとした。

 しかし、エルリはぐるりと視線を回して即座に対処する。まずエクスの剣を弾き、そして低い姿勢を保ったまま脚を振り抜いてセタンタの腹を横から蹴ったのだ。

「げふっ……!」

 その衝撃に、セタンタは思わず呻く。エルリのの膂力は華奢な外見からは想像もつかないほどに凄まじく、まともに防御をできなかったせいもあって、彼は地面に転がった。

「チッ」

 熱を発している体を素足で蹴ったせいで、エルリの脚には軽度の火傷。しかし痛がるような素振りはなく、鋭い舌打ちを一つ零すだけだ。

「目を瞑りなさい!」

 マグノリアが叫ぶと同時、彼女の意図を一瞬で察したサンドラが、空気中の魔力を光に変換させて部屋中を光で満たした。言われたままにセタンタとエクスは目を瞑っていたから、瞼越しの光に眩んだだけだったが、エルリはそうではない。敵側である彼女がマグノリアの命令を聞く訳がなく、その眼球に光をまともに浴びてしまった。

「今よ、叩け!」

 エクスとセタンタで、二方向からエルリを薙ぎ倒そうとする。両目を抑えた彼女は剣も落としていて、この攻撃を防ぐ術はない。

 しかし。

「んな……⁉︎」

「う、そだろ……!」

 二人が驚愕の声をあげたのは、全くの同時。

 振り抜かれてエルリの体を傷つけるはずだった斧と剣は、他でもないエルリの細腕に掴まれていた。刃渡を握った際についた浅い傷のみから、血が溢れている。

 まるで鋼鉄に襲いかかっているような感覚だった。大きな隙を作り上げても、引っ掻いただけのような小さな傷がつくのみだ。

 視界を奪う事には成功している。現に彼女は、俯いたまま瞼を固く閉じていた。だから、二人の攻撃を止めたのは、単純な、しかし研ぎ澄まされた勘だった。

 少し、侮っていたのかもしれない。騎士を侍らせてばかりいるから、エルリ自身が戦っているという状況があまり見えていなかったのかもしれない。

 しかし、エルリは長い間玉座に座っていた女王だ。暗殺者の手が伸びてきた事なんて幾度もある。騎士達の警護をすり抜けてきた魔の手を撃ち落としてきたのは、いつだってエルリ自身だったのだ。

「わたくしを、誰だと思っているの?」

 エルリは小さく呟く。真っ白に染め上げられた視界のまま、しかしその敵意と気配だけで自身に襲いかかる存在の形を知覚して。

 そして、動脈血のように真っ赤な紅を引いた唇を、凄絶な笑みの形に歪ませる。

「三百年もの間、わたくしが何もせず玉座にふんぞり返っているだけだと思って?」

 嘲笑。

 エルリはセタンタの斧を逆に掴み返して、そのままそれを引っ張ってセタンタの体を床に伏せさせる。彼の尋常ではない握力と、武器を手放すべからずという戦場での掟が仇になった。何とか倒れまいとしても、上からエルリの足に腹を踏まれて無様に床に転がってしまう。

 それとほぼ同時に、彼女はエクスの剣も引き寄せた。セタンタとは違ってエクスは反射的に剣を手放そうとしたが、エルリの手により上から押さえつけられて、無理矢理握らされる。

 そして、脛を砕くのではないかという勢いの足払いをかけられて、バランスを崩してしまった。剣の切先は、エルリによって狙いが定められて。

 エクスとエルリの手によって、床に転んでいたセタンタの脇腹に、剣が押し込まれた。

「……!」

 その瞬間を、エクスは見ていない。エルリに蹴られた脚の痛みで、目を瞑っていた。だから、目を開けた瞬間、エクスは錯覚した。自分の手を覆うエルリの手にも構わず。

 俺が、セタンタを、刺した。

 伝わる感触から、剣はセタンタの腹を貫いて床に到達している。あたりどころによっては、もしかしたら。

 頭が真っ白になって、体が硬直する。床に崩れ落ちそうになる中、腹を思いっきり蹴られてエクスは床に転がった。胃の中身が逆流して、大理石の美しいフロアに吐瀉物を吐き散らす。

「セタンタっ!」

 マグノリアは叫んだ。辛うじて彼から呻き声が聞こえて安堵する間もなく、今度はサンドラにエルリは飛びかかった。

 そこで、彼女の意図を察する。彼女は恐らく、マグノリア以外を排除して一対一の状況を作り上げる気だ。彼女を、気の赴くまま気が済むまま、邪魔なく甚振るために。

 そして、サンドラはその意図を既に察したようで、振り下ろされた剣を間一髪で避けて、そして逃げ回り始める。彼女は魔術を使えるが、決して達人ではない。また、そのフィジカルは極めて貧弱で、攻撃も防御もまともにできない。彼女にできる事はただ一つ、逃げる事だけだ。

 まるでエルリの次の動きをわかっているかのように、サンドラは攻撃を避け続ける。エルリの剣は赤い錆と、長い間天井に刺さって手入れもされなかったせいで、切れ味は無いに等しい。故に、鈍器のように叩きつける形で使われている。

 エルリは武人では無いため剣技もなく、側から見れば出鱈目に振り回しているようにしか見えない。だからだろうか、サンドラも避け続けられている。時間を経る毎にその顔色を青くしていっているのは、戦慣れしていないからだろうとマグノリアは判断した。

 サンドラが時間を作ってくれている間に。

 マグノリアは床に倒れているセタンタに駆け寄る。その腹には未だ剣が刺さっていた。下手に抜くと、傷口から血が溢れて失血死待ったなしだ。マグノリアは自分の上着を脱いでセタンタの腹に押し付けながら、ゆっくりと剣を抜く。

「ぅ、ぐぅう……」

 その痛みにセタンタは苦しげに喘ぎ、しかし必死に声を抑えるために胸を掻きむしる。

「ごめん、少し我慢して……」

 血がこびりついた剣を引き抜いて、同時に傷口を強く押さえつけて圧迫して止血。応急処置なので完全とは言えないが、今できる事はこの程度だ。マグノリアの魔術の応用として、魔力を他人に流し込むことでその人の治癒力を上げる事もできるが、あくまで治りを早くするものなので今使ったとて効果は薄い。

「マグノリア」

「エクス。あんたは大丈夫?」

 半ば這いずるように近寄ってきたエクスは、蹴られた腹を抑えて眉を顰めている。床を転がった時に擦りむいた額や手以外からは出血は見えないが、その腹に青痣ができている事は想像に難くない。

「場合によっては内臓や肋骨に影響があるかもしれないわ。退いても良いけれど……」

「俺の事はいい。セタンタは?」

「……あたしは医者じゃないから詳しい事はわからないけど、吐血は無いし、剣がそこまで太くなかったおかげて傷口も大きくはないし……」

「おれ、は、大丈夫だ」

 血の気が引いて苦しげな顔のまま、セタンタが言う。マグノリアは呆れ返った表情で彼を見下ろした。

「どこがよ。エクス、セタンタを連れて一度後退……」

「ほんとに、大丈夫だ。大事な内臓は多分傷ついてないし、出血も多くない。幸運な事に、な」

「それって……」

 大事な内臓は傷ついてない。

 その言い回しだと、重要度が低い、たとえば無くても生命存続に支障はない内臓は傷ついていると言う事ではないか。それは決して無事とは言えない。生きる上での重要性が低くても、人間の臓器には一つひとつ役割があって、死なずとも影響はあるというのに。

「平気だ。俺はまだ、戦える」

 脂汗を拭いながら、彼は言う。エクスでもわかる、明らかな強がりだ。

「……そう、わかった。死ぬんじゃないわよ」

「死ぬかよ。……死ねる訳、あるかよ」

 それを聞いてマグノリアは満足そうに頷いて、セタンタの背を叩く。

「止血は完全じゃないわ。こっちにも衛生兵はいるけど、無理したら手遅れになるから」

「了解」

 苦しげな表情を浮かべながらセタンタは斧を握って立ち上がる。朱殷の瞳は戦闘の狂熱に浮かされているようであり、しかし同時に寒々しい冷静さも併せ持っていた。

「エクス、お前は?」

「……」

 正直に言うのなら、腹はじくじくと内側から広がるような痛みを訴えかけている。床に転がされた時の摩擦で体のあちこちに火傷や打撲を負っているし、戦わなくていいのなら、戦いたくないと言うのが本音だ。

 しかし、エクスの中にはセタンタを刺してしまったという負い目があった。実際はエルリによって刺すことを強制されたと言った方が正しいが、それでは割り切れない罪悪感がある。

 自分よりよっぽど重症なセタンタが継戦するのだ。自分だって、戦うべきだ。

 それに、今もサンドラは逃げ回り続けている。彼女を助けなければ、という使命感もあった。

「行く。戦う」

「わかった。援護するわ」



「うぅっ!」

 小さな悲鳴をあげて、サンドラは大理石の床に倒れ込んだ。肩に剣が振り落とされてバランスを崩したからだ。切れ味が極めて悪い剣はサンドラの体を切り裂く事はなかったが、代わりにその重量に振り抜いた勢いを加算させてその細い体を襲った。

「ほんと、ちょこまかと……! 退治にかかる時間がほんの数分でも、蝿は煩わしいものね」

 エルリが額に青筋を立てながら、サンドラを殺意の籠った目で見下ろす。サンドラは僅かに後ずさって体を引きずるが、とん、と背中が壁についた。

「……数分? それだけしか経ってなかったんだ。……本当に、私ってとろいなあ。数分逃げるために何時間、何回費やしたんだか」

「何を訳のわからない事を言っているの? ああ、遺言かしら。生憎、羽虫の言葉を覚えるほど酔狂じゃないのよ」

「……その羽虫の言葉を解するあなたは、じゃあ一体なんなの?」

 サンドラは愚弄じみた嘲笑を浮かべながら、エルリを見上げた。彼女の深紅の瞳が、みるみる怒りの色に染まっていく。こういった啖呵を切る時や自棄になった時に気丈になって口調が少し変わるのは、サンドラの癖だった。

「終わり? では死になさい。脳漿を撒き散らして、醜くね」

 エルリは無慈悲に告げて、剣を振り上げる。あれに膂力を乗せて頭を殴られようものなら、頭蓋が割れる程度では済まない。まず間違いなく致命傷だ。

「……嗚呼」

 また、死ぬのか。

 嫌だなあ、と目尻に涙を滲ませる。振り下ろされる剣が迫る光景をスローモーションで見ながら、諦念を口から溢し落とす。

 そして、次の瞬間に耳に届いたのは、金属がぶつかり合う音だった。

「っ、間に合った……!」

 僅かに息を切らしながら、エルリの剣をセタンタの血が付着した剣で受け止めていたのは、エクスだった。エルリとサンドラの間に間一髪で割り込み、なんとかその太刀筋を止めたのだ。

「セタンタ!」

「応!」

 殺気を感じて、エルリは反射的に上に跳び上がる。剣は重かったのでその動きについていけず、彼女の手から滑り落ちた。

 一瞬遅れて、先ほどまでエルリの胴体があった場所に斬撃が通過した。横薙ぎのセタンタの斧だ。

 上方に垂直に跳んだエルリは空中で回転し、セタンタの背後に着地した。手を手刀の形にして、セタンタの腹に突き出す。肋骨のない、柔らかな部分を突き破ろうと。

 完全に視覚外の動きだったが、セタンタは直感的に身を捩って、数瞬前まで己の腹があった場所にエルリの鋭い手が突き抜けていた。

「っ、この……!」

 セタンタはエルリの手を掴み返して引き寄せ、その頭を掴んで膝蹴りを喰らわせた。意趣返しと言わんばかりに、筋肉がほとんどない柔らかく薄い腹に。肋骨にも当たったのか、骨が削れるような音がした。苦しげに呼吸を吐き出した音も聞こえたので、少なからず痛手の筈だ。

「ぐぅっ……」

 己の腹を抱えてよろめくエルリに、エクスが追撃に迫る。彼女の胴体を縦に切り裂こうとしたが、後ろに後ずさられ、同時に手で受けられた事により体は無傷。その代わり、エルリの左手が人差し指と中指の間から前腕の半ばまでがぱっくりと縦に裂けた。断面から骨が露出し、それを覆い隠すようにどろりと血が溢れる。

「チッ、不敬な……!」

 痛みに顔を歪めて、エルリは悪態を吐きこぼした。腹だたしげに舌打ちをして、殺す、と小さく呟きながらエクスを睨んだその時。

 彼の背後に、人影。入れ替わるようにエクスがしゃがんで、セタンタはその上を飛び越えて斧を振り下ろそうとする。

「舐めるなッ……!」

 エルリは己に振り下ろされる斧の動きを見て、その柄を掴もうと手を伸ばす。

 今までの戦闘の癖からして、セタンタは自分の膂力と、振り下げる勢いを合わせて斧を振っている。そのためその威力は絶大で、斬らなくとも打撲のみで骨が粉々に折れてもおかしくない。

 しかし、その方法では動きが単調になる。下ろす時の重力加速度や遠心力を使用するのだから、その太刀筋は読みやすい。その分剣速は速いのだが、エルリからして見れば対応できないほどでもないのだ。

 だから、刃を避けて柄肩を掴むなど造作もない。頭、正確には頭から少し逸れて右肩に当たろうとしていた斧の、通過点となる場所で右手を構える。このまま振り下ろされたら、狙い通りの場所に食い込む前に掴み返せる。

 そして、その意図も動きも、セタンタは見ていた。

 斧の柄肩がエルリに掴み返される直前。セタンタは斧を、膂力だけでピタリと止めた。

 は、とエルリが愕然と息を漏らす。斧は単純な力だけで振るわれているのではなく、重力や遠心力を活用して効率的に振られていた。膂力だけではなかった。その斧を、膂力だけで完全に止めたのだ。寸分も動かす事なく、何かに当たったかのような動きで。

 斧頭を九十度回転させ、刃をエルリの頭がある方向に。そしてそのまま、横に振り抜いた。エルリの頭部を、耳のあたりで横一文字に斬ろうと。

 エルリもそれで簡単に頭を取られるほどではない。反射的にしゃがみ込んで、その斬撃を避けた。

 しかし。

「っ……」

 エルリの深紅の長い髪は、短く切られてしまって。

 軽くなった頭部に己の髪に触れたエルリは、一瞬言葉を失った。

「わたくしの……髪を……」

 セタンタとエクスは、一瞬激昂されるかと身構える。しかし実際に向けられた感情は、それとは真逆の、しかし冷たすぎるが故にあまりに熱い絶対零度の激情だ。

 彼女の脳内に、記憶が駆け巡る。彼女が愛した女との、些細な会話の記憶。

『エルリの髪は、綺麗ですわね』

『憧れる。わたくしと違って染めもしていないのに……羨ましいですわ』

 彼女は朗らかに微笑みながら、そう言った。羨ましいと言っておきながら、妬み嫉みとは全く縁遠い柔らかさで。その髪を。彼女が愛おしげに触れた髪を。

「わたくしの髪を……切ったなァッ⁉︎」

 今まではあくまで、上品さを保とうとしていた。女王としての余裕と気品を。しかしそんなものをかなぐり捨てて、エルリは叫ぶ。

 そして獣のような獰猛さで、姿勢を低くしてセタンタに飛びかかった。今までと違いすぎる動きに、セタンタは目を白黒させる。

「絶対に、赦さないっ!」

 彼女は金切り声をあげて、セタンタの腹に齧り付いた。

 比喩でもなんでもない。肉食動物さながらに、鋭い歯でセタンタの腹部に噛みついたのだ。

「なッ……⁉︎」

 セタンタは困惑の声をあげて、一寸遅れてその腹に鋭い痛みが走る。彼の筋肉は頑丈と言えど、所詮は肉。その程度の強度で、本気で噛みちぎろうとしたならばそれは不可能ではない。

 彼はエルリを引き剥がそうとするが、突如発揮された怪物的な力では不十分だった。腹部が傷ついて力が十分に入らなかった、というのもあるが。

 そして、エルリは引き剥がされる前に、自分からセタンタから離れる。その際に、彼の腹の肉の一部を噛みちぎって。

「ぐ、ぅぐ……!」

 栓を抜いたかのように、セタンタの腹の傷口から血が溢れ出た。彼は呻いて、その場に頽れる。床に撒き散らされた鮮血のせいでどちゃ、という泥に突っ伏したかのような音。

 セタンタの朱殷に変色していた髪が、元の金色に戻っていく。それきり、彼は動かない。

「セタンタ……?」

 呼びかけても、彼は身動ぎすらしない。じわ、と金髪が朱殷に染まるが、それは彼の意識が戻った訳ではなく、彼自身からこぼれ落ちた血に髪が染まっただけだった。

「セタ……!」

 マグノリアが顔を青くして、セタンタに走り寄る。サンドラも慌てて救急処置を施し始める。

「……サンドラちゃん。セタ……セタンタを、お願い」

「え、リアちゃん……?」

 ざわり、と空気が揺らぐ。マグノリアが纏う空気が、明らかに様子が変わった。その豹変に、サンドラはマグノリアを愕然と見上げる。

「あたしはあの女をぶち殺す。あたしの大事なものを何度だって壊そうとする、あの女を!」

 今まで聞いた事のない、血の底を這うように低い声。

 普段、彼女が戦闘をしている所を見た事が無いエクスは、果たして彼女は戦えるのだろうかと思う。先程騎士達の乱戦になった時も高台におり、司令塔のような印象だった。

 しかし。

 マグノリアはエルリの懐に真っ直ぐに飛び込んでいく。エルリはその手で向かってくるマグノリアの頭部を鷲掴もうとするが、それを姿勢を低めて避けるとその懐に入り込んで、そしてすり抜けた。

「なっ……!」

 背後に回られて、エルリは咄嗟に振り向こうとする。しかし一寸遅く、その華奢な背中に掌底が叩きつけられた。

「ぐぎゃッ……⁉︎」

 肺から一気に空気が搾り出され、同時に骨が軋むような音。しかしそれでは終わらず。

 マグノリアの手が触れている場所から、突如炎が巻き上がった。彼女が魔術を使って発生させたのだ。

 橙色の火は空気を食らって肥大化し、エルリの全身を瞬く間に包む。

「ぁああっ!」

 戦える。その事実を誇示するように、マグノリアはエクスに目で指示をする。叩け、と。

「……! 了解っ」

 エクスは即座にエルリに斬りかかる。自らについた炎の消化に苦心していたエルリは、咄嗟にそれに反応できず、胸部に斜めの傷を負う。一歩後ずさったから傷自体は浅いが。

「ナイス!」

 マグノリアは叫んで、そして斬撃に怯んだエルリの腹に拳をめり込ませた。傷口から血が溢れ出る。

「このッ……!」

 エルリは獣のように低く構えて距離を取る。

 左手は縦に裂けていて断続的な激痛。胸に切り傷に、体の至る所に打撲。エルリは満身創痍だ。

 しかし、彼女は歯を食いしばって立つ。

「わたくしの大事なものを奪ったのは、お前だろう……!」

 そう、怨嗟の声を漏らしながら。


「殺してやる……!」 



 そのエルリの呻き声で、セタンタは意識を浮上させた。覚醒していく中一番に知覚したのは、また意識を飛ばしてしまいそうなほどに鋭く激しい痛み。仰向けになった腹に布を押し付けて止血していたサンドラが目を見開いた。

「……! セタンタ」

「っ、……戦況、は」

「今、エクスのリアちゃんが戦ってくれてる。セタンタがエルリを消耗させたおかげで、押せてるよ」

「そう、か……」

 セタンタはなんとか返事を返しながら、そろそろと息を吐いた。肺は傷ついていないはずなのに、呼吸ですら酷く億劫だ。

「俺の、斧は」

「ここにあるけど……動いちゃだめだよ。流石に、死ぬ」

「俺は、平気だ」

「だめ。死ぬよ。この出血量だったら」

 医学には明るく無いはずなのに、サンドラは断言する。それ以上反論できずに、セタンタは黙り込んだ。彼も直感はしているのだ。これ以上動くのは命に関わる、と。

「ここからは動かない。だから……最後に、これだけは、やらせてくれ……」

 自分の横に転がっている斧を見つめて、セタンタは懇願した。これだけはいつも変わらない朱殷の瞳は、サンドラを真っ直ぐに見つめる。

 サンドラは、その朱殷の色が嫌いだ。正確に言うなら、戦闘の狂熱に染まった朱殷が嫌いだ。しかし、今はその瞳は誠実に凪いでいる。

「……何を、したいの?」

「その斧を、取ってくれ。あと、座っていいか……?」

「手伝うよ」

 サンドラの助けを借りながら、エクスはその場に座る。それだけでも血が全身に巡る感覚がして、腹の傷口が熱くなった。痛みを堪えながら、斧を手に取って刃の部分を持って揺すった。

 すると、手斧と長い柄が分離する。この斧は槍と手斧をつなげており、細工を解けば分離するようになっていた。

 斧が付いてないため軽く感じる槍を握って、セタンタはエルリを睨んだ。



「ゔああァアアア‼︎」

 エルリは野生の獣のように咆哮する。腹の底に響く、響き渡るような叫び。

 そして彼女は床に手をつき、猪のような速さと体勢で突貫する。標的は、マグノリア。

「うぐッ……!」

 全力で腹へ突進されたマグノリアは、胃の中身が逆流しそうになって寸前で堪えた。逆にエルリの頭を掴み、胴体に点火する。ギャッ、と獣さながらの悲鳴をあげたエルリは床にのたうち回り、エクスが斬りかかる直前に体勢を持ち直して後ずさった。

「哀れね、エルリ」

 正気を失った野生動物のような彼女に、マグノリアは憐憫すら向ける。それほどまでに彼女の姿は、数刻前までの優美さを失っていた。

 マグノリアもエルリも、復讐鬼という点では同じだと言うのに。

「グぅう……マルガレータ……」

 エルリは自らの体についた炎を掻き消しながら呻き、まだ煙が漂っている内に彼女はまた突貫する。またも愚直に、マグノリアの元へ。

 二度も同じ攻撃は喰らわない。彼女も構えて、エルリの突撃を受ける準備を整える。突進したエルリとマグノリアがぶつかり合うその瞬間。エルリは走った勢いのままに跳び上がり、マグノリアの頭上を通過して彼女の背後に降り立った。

 あまりに速い動きに対応しきれず、マグノリアが振り返るのとエルリの指先が彼女の腹に食い込もうとするのはほぼ同時だった。

 セタンタの時のように齧り付くのでは無い。その手でマグノリアの腹を貫通し、内腑を掘削して抉り出す事を目的とした手。

 死ぬ。マグノリアは本気でそう思った。

 エルリの右手がマグノリアの腹と接触する、その瞬間。彼女の手が、突如飛来した槍によって貫かれた。

「うぐゥっ⁉︎」

 槍がそのまま右の掌を貫通したのだ。その勢いに体勢を崩しながらエルリは痛みに呻き、よたよたと後退する。

「何……?」

 その槍が飛来した方向を見ると、そこにはサンドラに支えられながらも辛うじて床に座り込んでいるセタンタがいた。その手は何かを投げ終わった形になっていて、あの槍は彼が投げた事は明白だった。

「セタンタ……!」

 マグノリアが彼の名を呼ぶと同時に、元より血の気が引いていた彼の顔色が一層悪くなり、口元を押さえ始めた。びたびたと大理石の床に赤黒い血が溢れ落ちる。それは傷口からの出血ではなく、彼の口から溢れ落ちたものだった。

「っ、ゲホッ……!」

「セタンタ⁉︎」

 サンドラが呼びかけるもセタンタは意識を失い、床に倒れて意識を失った。揺すっても反応は無いが、脈はあるし心臓も動いているようだ。

「マグノリア、セタンタは……」

「……今はサンドラちゃんに任せましょう。あたし達にできるのは、あの獣の討伐よ」

 動揺を押し殺しながら、マグノリアは視線をセタンタから外してエルリを睨んだ。

 エルリは右手に刺さった槍を引き抜いていて、ぽっかりと掌に空いた穴を止血する事なく再度戦闘状態になる。

 こちらだって手傷は負っているものの、どうにもエルリを倒せるような気がしない。自信がないのではなく、ビジョンが全く湧かないのだ。

 果たして、この怪物を倒せるのか?

 そんな事すら考え始めてしまう。

 剣を握る手が痛む。そう言えば、エクトル村を出てから数ヶ月、こうして剣を握る機会は少なかった。本気で人を殺す気で剣を振ったのは、初めてだった。

 元々農民だった身だ、体力に自信はある。しかし肉体的の疲れよりも、精神的な疲弊が著しかった。

「早く、倒れてくれよ……!」

 そう懇願してしまうくらいには、エクスはもう戦いに積極的ではいられない。

 そんな時だった。

「あららぁ」

 聞き覚えのある声に、エクスとサンドラは体を強張らせる。

 錆びついたような関節を無理に動かして振り返ると、そこには五人の男女がいた。

 スラム街の教会の管理者だったサートとアート。

 酒場で出会ったトリとスー。アジンと呼ばれていた子供。

 そして、ヘキサ。

「我ら『ハルマティア』、揃いました。ドゥは良いタイミングで出てきてもらうために待機中ですけど。お手伝い、必要ですかぁ?」

 ヘキサがにこやかに問いかける。空間に緊張感が走り、体感の気温が数度下がったような気がした。

「……ヘキサ」

 マグノリアがその名を呼んだ。それと同時に、ヘキサは背中からマスケット銃を取り出す。

 ヘキサだけではない。アジンは背中に矢筒を背負い、小柄な体躯に合わないように見える大きさの弓を番えている。トリはボウガン、スーは制作途中だと言っていた拳銃を手に持っていた。サートは身の丈と同程度の杖を、アートは鋭い剣。

 それぞれの武器を構えて、殺気をその身に纏わせる。

 一気に他勢に無勢となった。待機しているというドゥも入れて、『ハルマティア』の七人とエルリで八人。対するマグノリア達は四人。倍もの戦力差がある。

「……まずい」

 『ハルマティア』の面々の戦力は計り知れないが、遠距離武器の数が違う。下手をすれば一瞬で蜂の巣だ。

「……」

 マグノリアは口をつぐんで、ブラウンの瞳に六人の姿を映す。

 彼女が口を開くのと、エルリが訝しげに眉を顰めるのは同時だった。

「……誰よ、お前ら」

 エルリの嫌悪感を滲ませたその言葉に、は、とエクスとサンドラは言葉を失った。それに関わらず、マグノリアは叫ぶ。

 振り返った彼女の顔に浮かんでいたのは、不利を突きつけられた事による戦慄ではなく、形勢逆転の好機を得たような笑み。

「さあ、叛逆の時間よ!」

 それを合図として、銃声が轟く。エクス思わず目を瞑るが、攻撃による痛みは全く襲ってこなかった。

 それもそのはず、放たれた銃弾や弓は、最初からエクス達を狙っていなかったのだ。

 きぃん、と鼓膜に響くような余韻が徐々に掻き消える。恐る恐る目を開けると、視界に映ったのは信じられない光景。

 エルリの顔の真横を通過して、玉座に矢が刺さっていた。弾痕も同じように、エルリを狙った位置についている。どの攻撃も当たってはいないが、最初から威嚇射撃だったようで、射手達は全員余裕の表情を浮かべていた。

「みんな、構え!」

 それど同時に弓を持っているアジンは新たな矢を番え、銃を持っている面々は銃口をエルリに向ける。杖を持っているサートは、杖の先に炎を出現させている。魔術、つまり彼女は魔女だ。唯一近接武器を持つアートは、マグノリアとアイコンタクトを取って対になる位置に立ち構えている。トリに至っては、セタンタの元まで駆け寄りその傷の様子を見て手当を施していた。

「どういう事だ……?」

「見たまんま、こういう事だよ」

 アジンが弓を弾きながらもエクス達を守るような位置に立ち、口を開く。アジンがの声は初めて聞いたはずなのに、初めて聞いた気がしない声だ。

「ね、『アビゲイル』?」

「うっさい、そのフード早く取ってあげなさい。混乱してるじゃない」

 アビゲイルと呼びかけられたマグノリアが、冗談めかせて言う。アジンはそれを聞いて、顔を振る事でフードを振り払った。ずっと隠されていた顔が、顕になる。

「久しぶり、サンドラさんとエクスさん」

 栗色の髪は綺麗に切り揃えられ、肌色は健康的に色づいている。ふっくらとした頬は子供らしい輪郭だ。金色の大きな瞳は、エルリに警戒心を向けながらも器用にエクス達を見上げている。

「ヴァーニャ……⁉︎」

 目の前にいたのは、死んだと言われていたヴァシーリーことヴァーニャに他ならなかった。以前会った時よりも健康的に見えるが、その全体的な印象や髪と瞳の色は寸分違わない。

「お前、生きて……!」

「ううん、生きてないよ。死んでる。見た目も化粧してるし、ほっぺには綿詰めてるだけだし」

 今は痩せこけた外見をなんとか誤魔化しているだけ。オーバーサイズの衣服を着ているのは、痩せ細った体のラインを見せないためだ。実際、弓を引く手は指抜きグローブのせいでわかりづらいが、骨が浮き出ている。

「どういう事……?」

 サンドラが珍しく混乱する様子を見せながら問う。ヴァーニャはイタズラっぽく笑った。

「アビゲイル……いや、マグノリアはね、人を蘇生できるんだよ」

「蘇生……?」

「正確には、魔力ってのを一気に体に流し込む事で魔女にするっていうのがあるんだけど、それを死体にやるとその衝撃で心臓が動き出すんだって。スーはキョンシーみたいだって言ってた」

「脳が腐っていない内しかできない術ですけどね。死んだまま動くゾンビみたいな魔女にするんですよ。マグノリアさんも緊急事態にしか使わないもので……マグノリアさんを除くワタシ達『ハルマティア』は全員、そういった経緯で作られた『人工魔女』です」

 それはつまり、ヘキサもアジンも、『ハルマティア』に所属している者達は、皆既に一回死んで、マグノリアによって生き返ったという事だ。

 心臓は動かない。空気中のエネルギーである魔力を全身に巡らせる事で、生きている状態を再現しているだけの状態。

 体はあくまで死体のままなので新陳代謝はしないし、消化もしないから食事ができない。食べ物を咀嚼して飲み込んで一度胃に収め、そしてそれを吐き出すだけの何の生産性もない行為になる。傷を負っても治らず、縫うなどして塞ぐしかない。まるでフランケンシュタインの怪物だ。

「言っときますが、マグノリアさんは救える命は救ってきました。救われなかった命がここでこうして動いてるだけです」

 ヘキサはそう言いながら、エルリに視線を向け直す。憎しみの籠った、鋭い眼で。

「ねぇ、そうでしょう? 我が主人」

「……?」

 エルリは首を傾げる。その様子を見てヘキサは自嘲するように微笑み、右目にかかった長い前髪を掻き上げた。

「お前……!」

 ヘキサの右目は、存在しなかった。虚な眼窩には何も嵌っておらず、何も映さない空虚な暗闇だけがそこにある。

「十年前に逃げたヴァージン……!」

「せいかーい。よくできました」

 小馬鹿にするように、ヘキサは笑う。ヴァージンとは、エルリに仕える名もない従僕の事を指す単語だ。

「あの時はよくも殺してくれましたねぇ。右目、刺されちゃったおかげで人工魔女になった今でも見えないんですよねぇ」

「……逃げたのはお前でしょう? わたくしの養分になる栄誉を受けなかった不忠者」

「こちとら生まれた時から洗脳教育受けてんです。自意識持った事を喜べくださいよ、お母様」

「わたくしはお前達の母ではないわ。養豚場で豚を飼う者を、決して豚の親とは呼ばないでしょう」

 傲慢に言いのけたエルリに、ヘキサは諦念めいた笑みを浮かべた。

「そんなんだからワタシは逃げたんですよ。まあ投げられた剣が頭にクリーンヒットしてこの有様ですがねぇ」

 戯けた様子でありながらも、瞳に憎しみの炎を燃やして彼女は言った。

「ほざいていなさい。わたくしはマルの死体を玩弄したそこの女を殺すまで」

「はっ、やれるもんなら……やってみやがれってんですよッ!」

 ヘキサが叫ぶと同時、発砲音。マスケット銃が唸りをあげる。それを鬨の声としたように、次いで発砲音が続き、その合間に軽い矢が放たれる音が紛れていた。

 突如浴びせられた矢と銃弾の驟雨に、エルリは玉座を盾にそれを避け、一瞬の隙間を縫い柱の裏まで移動する。そして石柱を右手で毟り取って、礫を投げつけた。指の腹が裂け、槍に貫かれた傷から血が吹き出し、その痛みに忌々しげに舌打ちしながら。

 柱から僅かに顔を出して、ろくに狙いも定まっておらずに投げつけられたので回避は容易。むしろ確認のために出された顔を狙って、アジンの矢が射出される。命中こそしなかったものの、耳朶を切り裂いた。

 耳の小さな傷に気分を害したエルリは、八つ当たりのように柱を殴りつけて破壊する。当たり散らしただけに見えるだけの行動だが、真意は別にあった。

 城は丈夫な作りになっており、柱を一本なくした程度では決して崩れないように設計されている。創立から三百年以上が経過していてもだ。

 しかし、当然ながら一瞬、城が僅かに揺れる。その衝撃で、天井で神を磔にするように刺さっていた武具の幾つかが雨となって降り注いだ。

「危ないッ!」

 マグノリアの叫び声で警戒が天井に向いた、その一瞬。降り頻る武具の雨をすり抜けながら、エルリは一人の標的に、獣なながらの動きで飛びついた。

 小柄で遠距離を主体に戦っており、一見この中で一番非力なアジンへと。

「うぐっ」

 呻き声をあげて、かけられたエルリの体重を支えきれずにアジンは床に倒れ込む。エルリが彼を押し倒すような形になり、有利を取った彼女はすぐさまアジンの首を掴んで締め落としにかかった。ぐぎゅっ、と肉のない首から異音が鳴る。

「離れろぉおおっ!」

 エクスが猛り、剣をエルリめがけて横薙ぎにした。彼女は咄嗟に手を離して背を逸らすと、鼻先を剣が掠める。剣を振った勢いに前のめりになったエクスの胸倉を掴んで殴りつけた。

 「がふっ」と肺から空気が搾り出されるようなあえかな悲鳴。飛ばされこそしなかったものの、思わずその場で腹を抑えて蹲ってしまうほどの衝撃だった。

 その一瞬で剣の雨は終わり、全員がエルリに狙いを定めつつあった。流石に分が悪い。遠距離武器持ちが多いので、この少年を盾にしようと飛びずさろうとし、しかしそれは太腿に差し込んだ冷たさにより遮られた。

 見ると、腿には銀色のトレンチナイフが深く突き刺さっている。馬乗りされているアジンが、エルリが仰け反った一瞬の隙を突いて懐から取り出したナイフ。一瞬遅れて、肉に刺さった金属の冷たさが熱に変わった。

「っ……!」

 もはや肉盾に構ってなどいられない。エルリはドレスの裾を乱暴にたくし上げて、アジンの上から即座に立ち上がり一歩下がる。

 アジンとエルリの間を裂く形で、、マスケット銃の銃弾が床を跳ねる。エルリが一歩後ずさると、さらに押し込むかのようにもう一発の銃弾が大理石に突き刺さった。スーの拳銃のものだ。

「くっ……」

 エルリは唸ると、踵を返して走り出す。向かう方向は、扉。

「っ、逃すな!」

 その意図を察知したマグノリアが叫ぶ。叫び終わるか否かの所で、既にサートが動いていた。

 彼女が掲げた杖に風が逆巻き、熱が生まれる。杖を床につけると、そこからエルリを追尾するように炎が生まれた。

 マグノリアも同じように炎を生み出す。それはエルリが向かう方向、即ち部屋の唯一の出入り口である扉に向かって、底に炎を点火させた。

「いい加減に……!」

 更にはセタンタの介抱をしていたサンドラも魔術を使い、扉を包む火を強いものにする。

 それでも構わず、エルリは扉に突っ込んだ。炎の紗幕を勢いのまま通過して、僅かに燃え移った場所ははたいて消火する。

「セタンタ、斧借りるぞ!」

 トリが叫んで、セタンタの槍と分離した手斧を掴み——それを、エルリに向かって投擲した。

「うギャッ⁉︎」

 斧は当たりこそしなかったものの、彼女の太腿の肉をこそげ落とす。皮膚で脚と繋がった肉片がぶらりと垂れ下がり、エルリは忌々しげにその肉片を千切り落とした。

 彼女の背が小さくなっていく。逃げられる。追いかけようとしたエクスの肩を、マグノリアが掴んだ。

「っ、何だよ⁉︎」

「もういいわ」

 突然伝えられても、意味がわからない。エクスは腹だたしげに眉を歪めて反駁する。

「今追いかけないと、取り逃がすかもしれないだろ!」

「大丈夫よ。隠し通路は全部ヘキサ達が潰してくれた。他の道もね」

「だから遅れたんですよぉ。全く人使いが荒いったらない」

「道を限らせたからって、何があるんだ」

 怒鳴りそうになるのを抑え込んでの問いに、マグノリアはどこか晴れやかに微笑み、そして言った。

「あの女の死が、待っているわ」



「はっ……はっ……ん、ふっ……ぐ」

 みっともない、と我ながら思う。呼吸を乱して、乱れて煤けてあちこち裂けたドレスを手直す事すら叶わず、無様にエルリは逃げ回る。勝手知ったる王城が、今はただ自分の足音を反響させる敵のようにしか思えなかった。

 いくつかの廊下が瓦礫で潰れていて、ほとんど一本道になっているが、それにより誘導されていると気が付けるほど彼女に余裕は残されていなかった。

「やだ……いやだ……!」

 死にたくない。

 死にたくない。

 わたくしはまだ、死にたくない。

 彼女の脳裏に過ったのは、一人の女の姿。

 今まで生きてきた三百年もの時の中で、彼女が唯一愛した女。他でもないエルリが、処刑した女。

「マル……マル……!」

 せめて苦しまないようにと一瞬で切り落とされた、愛しい彼女の首。それが目の前で、十歳にもならないほどの幼い子供によって持ち去られた瞬間の絶望。

 まだ、あの女に。マルの死体を奪い去ったあの女に、復讐をしていないというのに。

 エルリは知らない。人工魔女という、動く屍の存在を。

 人工魔女を作る事ができるマグノリアが死体を持ち去った、その意図を。

 エルリが逃げた先は、ダンスホールだった。彼女の脚がそこに向かったのは、おそらくは無意識だろう。無意識に、愛した人間との思い出の場所に向かっていたのだろう。

 しかし、そこで彼女は見る事になる。

 肩につかないほどの長さで綺麗に切り揃えられた真紅の髪が、陽光に透けて僅かに生来の金色があらわになる。伏せられた翡翠の瞳は長い睫毛に縁取られていた。見覚えのある豪奢な踊り子の衣装。

 彼女はダンスホールの真ん中で、無観客の中で淡々と踊っていた。彼女の故郷の国で、貴族に捧げる舞を。まるで、誰かに捧げるかのように。

 いや、正確には一人いる。

 彼女の踊りを見ている者が。彼女の踊りを愛する者が。

 彼女が踊りを捧げる者が。

「マルガレータ……?」



 ⬛︎⬛︎・ジェーベドは、三百年前のプロドディス王の寵妃だった。

 彼女は王を愛していた。王からも同じ愛を注がれていると疑わなかった。

 彼女は、王と王が愛する国を愛する女だった。

 彼女は老いを恐れた。己の美しさが損なわれる事を恐れた。醜くなることで王や民から愛されなくなる事を恐れた。

 そんな時だった。とある異国から訪れた薬師を名乗る者が謁見を申し出て、こう言った。

「成人前の処女の生き血を浴びると、若返って美しくなる」

 と。

 冷静に考えたならば、信憑性は皆無で、到底信じられるものではないと理解できただろう。しかし、彼女は静かな恐慌状態にあり、その言葉を信じ込んでしまって、従者の年若い少女を殺してその血を全身に浴びた。

 彼女は本来、決して愚かではない。聡明な彼女は、女を殺してすぐに己の過ちに気がついた。処女の生き血を浴びれば若返る? そんな道理があるはずないというのに!

 王は、すぐに彼女の犯した罪を揉み消した。二人の間にある愛を再確認する事で事件は終わった、かのように思われた。

 それから数年経って、彼女はとある事に気がついた。王は白髪交じりになりつつあるというのに、自分は全く老いていないのだ。

 肌は潤いと艶やかさを持ったまま。皺は一つも増えていない。身長は一ミリたりとも伸びていないし、果てには爪や髪の長さも全く変わっていなかった。

 考えられる可能性は二つ。

 処女の生き血を浴びるという術が本当に効いたか。

 自分が老いないという特殊能力を持ったメアリー・スーであるか、だ。

 彼女自身、あの謎の術の効能を信じていなかった事もあり、まず可能性が高かったのはメアリー・スーである可能性だ。

 当時からメアリー・スーに対する忌避感は強かった。王妃が厄災をもたらすメアリー・スーであると知られれば、民は軽蔑するだろうか。他国はプロドディスを軽んじるだろうか。

 けれど、きっと。あの王は、変わらずわたくしを変わらず愛してくれる。従者を殺した時と同じように、揉み消してくれるかもしれない。そうせずとも、きっと彼はわたくしを護ってくれる。

 そんな希望は、呆気なく摘み取られ。

 己がメアリー・スーである可能性を告げた瞬間、彼から降り注ぐ視線は冷厳としたものに変質した。甘い愛を囁いたその声で、居合わせていた騎士に彼女の即時処刑を言い渡した。

 あまりに酷薄な現実に、彼女は視界が眩んで。

 次に意識がはっきりと覚醒した時には、周囲には血の海が出来上がっていた。

 全身には、愛した人の鮮血を、生き血を浴びて。

 自分がその場にいた騎士や従者、王を殺したという事実を揉み消して、王の代わりに女王として即位した日、彼女は誓った。もう二度と、誰かを愛す事はしないと。

 しかし、彼女はもう一度人を愛してしまう。

 世代交代を偽って名前を何度も変え、三百年もの時を超えたその先に。

 彼女は、人を愚かにする恋に、冒されてしまったのだ。



「マルガレータ……?」

 その名前を、呆然と呼んだ。それでようやくエルリの存在に気がついたのか、翡翠の双眸がエルリを捉える。

「久しぶりですわね、エルリ」

 マルガレータ・ロシニョール。現在はドゥと名乗っている踊り子の、生前の名前だ。

 同時に、エルリの寵愛を受けた女の名前でもあり……それを忌々しく思ったかつての国の官僚によって処刑に追い込まれた哀れな女の名前でもあった。

「マル、マル……マルガレータ。貴女なの……?」

「あら。もしや、わたくしの姿を忘れてしまったのかしら」

 冗談めかせて、ドゥは微笑む。エルリに向かって馴れ馴れしい口調でそんな軽口を叩けるのは、後にも先にも彼女だけだった。

「生きて、いたのね……」

「いいえ、死んでいるわ」

「え……?」

「死んで、けれども戻ってきたのよ。貴女のために」

 ドゥのその言葉に、嘘偽りは無い。陽だまりのように柔らかく温かい笑みをエルリに向けながら、彼女の傷だらけで血みどろな体を抱きしめる。

「ああ、待って、マル。貴女が汚れてしまう」

「ふふ、気にしませんわよ」

「わたくしが気にするのよ! だって、貴女の衣装が汚れてしまうもの」

「大丈夫。真に美しい踊りは豪奢な衣装によって引き立つけれども、衣装で損なわれる事はないんですわよ」

 ドゥはそう言いながら、エルリを抱きしめる力をより一層強くする。

「エルリ」

「なあに、マルガレータ」

「わたくしを愛してくれてありがとう」

「……」

「わたくしの踊りに恋してくれてありがとう」

「……お礼を言うのは、わたくしの方よ」

 エルリは処女の生き血に陶酔する異常者だ。それは今も変わらない。

 彼女の周囲には洗脳教育を施されて盲目に彼女に付き従うヴァージンと、彼女の持つ政治的な力にしか目がない官僚しかいなかった。

 周囲には常に人がいたけれど、彼女の心は本質的に孤独だった。

 それでいいと、三百年間思っていた。どうせ自分は誰にも理解されないし、されたいとも思っていない。何より、二の舞になるのは嫌だった。自分の生き方を捻じ曲げられるくらいなら、孤独の方が遥かにマシだ、と。

 しかし、マルガレータは違った。

 ある日突然現れた異国の踊り子。彼女はエルリに恋をして、そしてそれはエルリの苛烈な本質を知った後でも同じだった。恐らくは、エルリがメアリー・スーである可能性を見抜いていた。それでも、彼女はエルリを愛したのだ。

 自分という人間を受け入れられず孤独に生きるか、自分という人間を偽って人に囲まれて生きるか。エルリにはその二択しかなくて、彼女は前者を選び取っていた。

 そこに降って湧いた第三の選択肢。

 偽らない自分を受け入れてもらって、他人と共に生きる。

 彼女は、徐々にそれに傾倒していった。マルガレータという人間に、依存していった。

 孤独だった女が、全てを受け入れてくれる人間がそばに現れたのなら、その包容力に甘えてしまうのは無理のない事なのだ。

 マルガレータも自分の踊りを好いてくれる者に対して向ける感情は悪くないものだったし、そもそも彼女はエルリの存外素直な人柄に惹かれていた。

 要は、二人は相思相愛だった。

 マルガレータ・ロシニョールはエルリ・ジェーベドを愛していたし。

 エルリ・ジェーベドはマルガレータ・ロシニョールを愛していた。

 二人は、どうしようもなく愛し合っていたのだ。

 だからこそ、当時権力を分け合っていた者達に、寵愛を受けているマルガレータは危険視された。

 彼女が異国の生まれである事、また、当時のエルリは先代女王イライに代わって玉座についた若き女王、という事になっていたので、外面上の幼さも問題視されていた。エルリを籠絡しようとしている、あるいは国の機密情報を抜き取ろうとしているスパイだと思われていたのだ。

 適当な理由をつけて、マルガレータは処刑される事となった。それも、処刑の指揮を執るのはエルリに決められて。

 愛する者の首を斬り落とす命令を、自ら下す。

 それほどに残酷な事があるだろうか。

 今まで多くの処女の生き血を啜り浴びてきたエルリは、初めて人を殺す事に抵抗感を覚えた。初めて人の血を惨いと思った。

 切り落とされた首の断面から白い骨が見えて、チューブのような血管からどくどくと、鼓動の名残を感じさせる勢いで流れ出る鮮血が地面に水溜りを作る。

 彼女の体から生気と力が抜け落ちて、地面に頽れる。

 その光景が網膜に焼き付く。

 愛する者の生命が途切れる瞬間が、ずっとずっと焼きついて、離れなかった。

 記憶とは悲しいものだ。共に過ごして愛した長い時間が、無惨な一瞬に塗りつぶされるのだから。

 彼女の踊りも彼女の笑みも、それを見た時の感動は覚えているけれど、実感は残っていない。それほどまでに強烈な一瞬だった。

 その彼女の死体は、ブラウンの瞳と髪の十歳にもならない子供と、彼女に付き従っていた顔を隠した紺黒の髪の人物に持ち去られてしまったけれど。

 それさえなければ、エルリはマルガレータの生首を何らかの方法で保存して、一生自分の部屋に置いていただろう。

 それほどにエルリはマルガレータに執着していた。マルガレータも、たとえそうされても構わないと言っただろうし、そもそも自分を間接的に殺すエルリを恨むという発想すらなかった。

 いっそ狂気的なほどに、二人は愛し合っていた。

「エルリ、エルリ。わたくしのエルリ。あなたは、わたくしを永遠に愛してくれるでしょう?」

「ええ、もちろん。死が二人を分かっても尚、わたくしは貴女を想い続けるわ。マルもでしょう?」

「当然よ」

 愛には返報性があるというけれど、二人はその愛が一方通行だったとしても変わらない熱量の情を抱き続けていただろう。

「ありがとう、エルリ。わたくし、幸せだったわ。マルガレータ・ロシニョールとして生を受けて二十年あまりの時間の中で、一番」

「わたくしも、この三百年の一生の中で、貴女といる時間が何よりも幸福だった」

 ゆっくりと言葉を交わし合う。共にいられなかった八年間を埋めるように。二人の距離を再確認しあうかのように。

 互いの首筋に指を這わせて、抱き合って、体温を混ぜ合う。二人の境目がわからなくなるまで、強く強く抱きしめた。

「……エルリ。わたくしはもう、人間じゃないわ」

「分かってる。だって」

 エルリは、ドゥの首のチョーカーを外して床に落とす。現れたのは、綺麗に両断された傷跡と、それを縫い付けた跡。抜糸されていないのは、そうしないと首が安定しないからだ。

 人工魔女は一度死んでいるが故、生者ならば当たり前に自然に起こる生理現象が発生しない。縫い付けたり、傷口の血がくっつかいない限りは、傷が癒着する事もない。

 血液の凝固力だけでは首を固定するには心許なくて、マグノリア達の協議した結果縫い付けてその痕をチョーカーで隠す事にしたのだ。

 化粧で隠す事も、しようと思えばできた。しかし、ドゥにとってその傷は醜いものでも恥じるものでもない。隠すものであれど、まるで無いもののように誤魔化すものではない。存在しないように振る舞うのは、嫌だった。この傷でさえ、エルリに貰ったものなのだから。

「そう。それじゃあ……わたくしのお願い、聞いてくれるかしら」

「……ええ」

 マルガレータの美しい首にこのような傷をつけてしまった負目から、エルリは頷く。いや、きっとそれがなくても、エルリはマルガレータの頼みとあれば頷いていただろう。

「わたくしね、最後に一つだけお揃いが欲しいの」

「お揃い……?」

「ええ。少し目を瞑っていて」

 ドゥに言われた通りに、エルリは瞼を閉じる。

「ありがとう。……お行きなさいませ、わたくしの愛しいエルリ。夢なき永遠の世界まで」

 どこか戯曲めいた台詞が耳に入る。耳心地の良い声に気を取られて、エルリは一瞬反応が遅れた。

 ドゥが、エルリの柔らかい、血臭が漂う唇と自分のそれを重ね合わせる。ルージュが混じり合い、化粧品の味がした。

 それと同時。互いの唇を確かめ合うかのように重ねると同時。

 ドゥは、エルリの首に小太刀を突き立て、そして渾身の力で首と胴体を切り離した。

 首を斬る、というのは簡単な芸当ではない。ほんの僅かな背骨の隙間を縫って刃を入れる。太く硬い頸動脈を両断する。それには相当の力と人体の熟知が必要だ。

 しかし、ドゥは自分の首を斬られた経験がある事から、それを感覚的に理解していた。どこを斬れば、一番苦労が少なく首を落とせるのかを、分かっていた。

 それで突然怪力になる訳でもないので、技量の問題が解決したのなら後は膂力の問題なのだが、それは彼女が人工魔女であるが故に解決する。魔力というエネルギーを自分の身に流すので、その量を調節する事で本来以上の力を出す事ができる。

 ドゥ自身が想像していたよりもずっとスムーズに落ちた首は、一瞬驚いたように目を見開き、そして安堵したかのように安らかに目を閉じた。その表情には、一片の苦悶もない。美しく、安らかな死に顔だ。

「おやすみなさい」

 念押しするように、ドゥは再度言う。

 その整ったかんばせを歪ませて、凄絶な笑みを浮かべながら。心底からの喜悦と、執着を垣間見せながら。そしてその首を抱きしめながら、彼女に見せる最後の舞を見せる。エルリ以外の誰にも見せぬ、美しき踊りを。


「わたくしは其方に向かいませんけどね」




 革命は、終わった。

 マグノリアは血痕の残るホールを見下ろしながら、細く長く息を吐く。

「……ようやく、なのね」

 彼女の胸中を占めるのは、達成感ではなく徒労感に近しいものだった。体を重くしていく疲労に抗いつつ、その玉座に歩み寄って。

 そして、魔力を空気中で暴走させて玉座にぶつけ、粉々に破壊した。

「ジェーベドの圧政の時代は終わった。……これからは、あたしがこの国をより良くしていくわ」

 振り返って、七人の従者に向かって宣言した。セタンタは意識を失っているが、『ハルマティア』の七人は全員が晴れ晴れとして表情でマグノリアを見上げている。

「……良い、のね?」

 確認をするかのように、マグノリアは『ハルマティア』の七人に問うた。

 全員が、考える間もなく頷いた。

 マグノリアは、再度小さな溜息を吐く。

 まるで、頷いてほしくなかったとでも言うように。



 エクスは戴冠式の招待状を見て、そのマグノリアらしからぬ格式ばった文体に眉を寄せる。同時に、彼女はもう女王になるのだと思い知らされる気分になった。先日まで同い年の、同じレジスタンスの少女だったのに、随分と距離が遠くなってしまった気がした。

「……ん? 待って、エクス。もう一枚入ってる」

 サンドラが封筒を探ると、折り畳まれた便箋が出てきた。招待状のメッセージカードとは違う、薄っぺらくて庶民の文通で使われるような品質のものだ。

『式は別に見なくて良いけど、城には来て』

 彼女らしい素っ気なく簡潔な文章で、ああ、これこそマグノリアだ、と安堵すら抱く。

 式は見なくても良い、と書いてあるが、それはエクスには見るなと言われているように思った。せっかくのレジスタンスの女王の戴冠式で、自分たちの勝利の象徴となるのに、見ない訳がないだろう。サンドラに目配せすると彼女も頷いた。彼女も意向は同じのようだった。

 数日後、突貫工事で建てられた木製のお立ち台の周囲には、首都にいるすべての人間がここに集まっているのではないかと思えるほどの大勢の人々が集まっていた。

 その人混みの中で、はぐれてしまわないように手を繋いで、エクスとサンドラはそこに紛れる。正式に女王として即位するマグノリアの姿を、しっかりと自分達の目で見ておきたかった。

 エルリの下にいた彼らをそのまま引き抜いたらしい宮廷楽団が豪奢な楽器を鳴らし、ファンファーレと共にマグノリアの姿がお立ち台の上に現れる。護衛としてだろう、セタンタを後ろに侍らせて。

 セタンタは重傷ではあったものの、ケルトイ族は傷の回復も早いらしい。普通に立って歩いている。顔色は若干悪いが。

 彼女らが纏っている衣服は、女王に即位するからと言って特段豪奢なものではなかった。おそらく、庶民の味方である王となる事を示すためなのだろう。詰襟のような衣服と、高く二つに結い上げたブラウンの髪。

 双眸には緊張も恐れも一片たりとも浮かんでおらず、いつも通りの意思の強い輝きが宿っている。化粧は普段よりもラメが多く煌めいており、衣服の代わりに化粧を豪華にしているのだろう。彼女の肌の色によく合うアイメイクが、きりりと吊り上がった眦を印象付けていた。

 セタンタも衣服は普段と変わらないスーツ。髪型も瞳の色も変わらない。ケルトイ族である事を顕著に表す瞳の色を見て、一部の観衆がどよめいた。

 しかしそんな事にも構わず、彼女は民衆の前で語り始める。よく通る高い声に、凛然とした態度で。

「えー……本日は集まっていただきありがたく思うわ」

 民衆の前での己を取り繕う気が全くないマグノリアは、普段とあまり変わらない口調で話す。

「エルリ・ジェーベド前女王が身罷って、あたしのような小娘が玉座に座る事を不安視する人間もいると思う。そして、あたしが魔女である事やあたしの相棒である男がケルトイ族である事に忌避感を覚える者も」

 彼女が魔女であるとは、皆知らない情報だったのだろう、一気に困惑とざわめきが広がった。マグノリアはそれがある程度収まるまでひとしきり待って、そしてまた話し始める。

「けれど、心配は要らないわ。このマグノリア・ウィリアムズは、かつて三百年この国を治めたジェーベド一族の誰よりもこの国の民を想い、そしてこの国を良くするために奔走すると誓うわ!」

 民衆は、マグノリアが掲げる旗についていったスラムの人々は、その言葉に湧き立ち高揚する。しかし、元々エルリの統治で利益を被っていた富裕層の者達は、不安げな顔をしていた。

「……とは言っても、すぐには信じられないのも道理よ。あたしがこれから成す事をしかと見なさい。そうすれば、自然とあたしについて行かざるおえなくなるから」

 女王らしい尊大さで、マグノリアは言いのける。富裕層の人々の表情は晴れないけれど、彼女の気の強さからして少なくとも他国に無様を晒す事可能性は低くなったと多少の安堵を見せていた。

 変わらない面子の要人に冠を頭に乗せられて、マグノリアの戴冠式は終了した。だから、そこからはマグノリアの女王としての仕事だった。

「それでは、あたしの女王としての最初の仕事……エルリ・ジェーベドの部下、その代表者七人の、処刑を行うわ」

 ほんの少し顔を曇らせた彼女によって告げられた言葉に、エクスとサンドラは首を傾げる。マグノリアは自ら進んで他人を処刑するような性格には思えなかったからだ。そもそも、処刑される七人とは、一体誰なのだろうか。

 緊迫した面持ちでエクス達は台を見上げる。周囲の人々は、処刑とは一種の娯楽であるため高揚死沸き立っていた。忌むべき圧政者の部下なので、スラム街の面々は狂喜乱舞すらしている。

 これから一体何が始まるのか。エクスとサンドラは固唾を飲んでその場面を見守る。

 間もなく、鋭い剣を携えた騎士に後ろ手に拘束されて登壇したのは、年齢も国籍もバラバラに見える、七人の男女だった。

「……え?」

「……な、なんで……」

 エクスとサンドラは呆然と呟く。跪かされる彼らの名前を、隊長格なのであろう騎士が読み上げ始めた。

「アニク・アリャン」

 アートと名乗っていた、騎士の格好をした白髪黒目褐色肌の青年が。

「ディークシャ・チャクラバルティ」

 サートと名乗っていた、金髪碧眼が淑やかな修道女が。

「名もなきヴァージン」

 ヘキサと名乗っていた、藍色の髪と眼鏡で目を隠した、煙草の匂いがする女性が。

「叶静芳」

 スーと名乗っていた、至極色の髪をさらにぼさぼさにした女性が。

「ベネディクト・ブロンテー」

 トリと名乗っていた、黒髪と真紅の瞳のバーテンダーが。

「マルガレータ・ロシニョール」

 ドゥと名乗っていた、人工的な真紅の髪と翡翠の双眸の踊り子が。

「ヴァシーリー・ドミトリエヴナ・ソコロフ」

 そして、再会した時にはアジンと呼ばれていた、栗色の髪と月の瞳の少年が。

「以上七名を、忌まわしき悪王エルリ・ジェーベドの悪政の象徴とし、斬首刑とする」

 民の目は、期待していた。

 圧政を強いてきた忌まわしき女王の部下。民の共通の敵である彼らを、新しい女王が処罰する瞬間を。自分たちの敵を殺して、そして民の望むようにするという証明を。

 民達は、ひたすらに期待していた。

 七人が、本当はどんな事をしてきたかなんて、知りもせずに。

 新たな女王であるマグノリアは、七人を処刑しなければ不信感を買われる。だから、本当は仲間である七人を殺さなければならない。

 これからの国のために、殺さなければならない。

 人々は処刑台に並んだ七人に石を投げる。その処刑ですら娯楽の一つのように思っているのか、心底愉しそうな笑顔さえ浮かべて。本当は彼らに救われているとも知らずに。

 エクスは唇を噛んだ。ここで中止を嘆願しても、エルリの信奉者かと思われるだけだ。何より、これはエクスの一過の感情で決めていい事ではない。最悪、この国の未来を変えてしまう可能性もあるのだ。

 理性では、そうわかっている。しかし、感情はそれを赦さない。彼らを助けたい、という想いは、エクスの脚を一歩前に出させて。

 袖を引っ張られて、エクスの脚は止まった。

 振り返ると、サンドラがエクスの服の袖を力強く掴んでいた。悔しげに唇を噛み切って、血を流しながら。

「……エクス」

 諌める一声。それはエクスを止める意味もあっただろうし、サンドラ自身を落ち着けるためでもあった。

 見守っているしか、ないのだ。

 自分たちにできる事などないのだ。

 するべき事はただ一つ。静観だ。傍観だ。ただ、見ている事だけだ。

 そう暗に伝えられて、エクスはぐうの音も出せずに立ち尽くす。

 見上げると、王冠を被ったマグノリアが処刑台の前に立っていた。後ろ姿からは感情は見えないけれど。悲しむように背が震えたのが、見えた気がした。

 マグノリアが手を挙げる。騎士が剣を振り上げる。

 一拍の間を置いて、彼女の手は振り下ろされて。

 次の瞬間に、七人の首と胴体は別れを告げた。

「……え」

 その光景を見て、エクスは愕然とする。恐らく、後ろにいるサンドラも同じ表情をしている。

 悪が倒された事に歓喜する民は気がつない。

 七人の彼らの顔が。


 本望であると言うように、微笑んでいた事に。




 その頃、プロドディス王国の噂は伝播しており、隣国のとある街ではその話題で持ちきりだった。

「おい知っているか、プロドディス王国の女王が崩御したらしいぞ」

「ああ、それも反乱軍に殺されたらしいな。新しい女王が戴冠するって話だ」

「それに伴って鎖国も解除されるらしいな」

「おい、これは知ってるか? ……殺された前女王は多くの少女を奴隷にしてたらしい。赤子の頃から洗脳教育を施してたって聞いたぜ」

「その噂、本当だったのか……。俺は、もうすぐ成人しそうな奴隷は全員生き血を搾り取られて殺されてるってのも聞いたけど……」

「それが本当なら、女王が変わってよかったな。これでその死んだ奴隷も浮かばれるってものだ」

「そういや、その噂って結構前からあるよな」

「ああ、よーく覚えてるぜ。煙草を吸ってる色女がその噂を広めてた。右目を髪で隠すっていう変な髪型だったから覚えてる。……五年以上は前だったかな」

「……そういえば、あいつは今どこにいるんだかな。八年くらい前、今プロドディス王国にいるって手紙が来て以来、音沙汰が無いから」

 ふとそう言ったのは、五十絡みの嗄れた声の男だった。

「あいつ、とは?」

 突然顔を出した、金髪の青年が横から口を出す。その青年の姿に男は一瞬驚いたように目を見開き、「どうしてお前はここにいるんだ」とでも言いたげな苦々しい表情をしながら語り始める。

「マルガレータ・ロシニョール。前、俺らの劇団にいた踊り子で役者だ。十年くらい前に旅に出るって言ってきた」

「……ほう。覚えがあるような、無いような」

 金髪の青年は考え込む仕草をして、しかし早々に諦めてあっけらかんとして「うむ、わからん」と言った。

「それよりお前、劇団は?」

「今は稽古の時間で、私は手持ち無沙汰でな。直々に巡回に来たというわけよ」

「だったらこんな酒場なんかで無駄話せず、さっさと……」

 男が話す途中で、外から派手な破砕音が鳴り響いた。悲鳴が幾重にも重なり、その音に男と青年は思わず口を噤んで目を見合わせる。

「……行ったらどうだ、ハムレット。人形らしく、苛烈にな」

 男は意地の悪い笑みを浮かべて、ハムレットを見た。

 ハムレットと呼ばれた青年は静かに嘆息して立ち上がる。そして挑戦的に、不敵に笑った。王のような貫禄と威厳を含ませて。

「仕方がない、ならば見ておけ。このハムレットが直々に不忠の人形を裁いて見せよう」




「なんでヴァーニャ達を殺したんだ……!」

 エクスはマグノリアの肩を強く掴み、怒鳴る。無意識的に声を極限まで低くして。

 マグノリアが『ハルマティア』の面々を処刑した理由は理解できる。必要があった事もわかる。しかし、感情で理解したくない。

 マグノリアが救った命だとしても、それをマグノリアが操っていい理由にはならない。七人の命は七人が好きに使って良いはずで、だと言うのにそれを政治的な理由で利用したマグノリアが赦せなかった。

「落ち着きなさい、エクス」

「落ち着けるかよ! せっかく生きてたのに、何でもう一度殺すんだ! ……お前に人間的な情はあると思ってたのに……お前は、心まで魔女なのか⁉︎」

 物語の中での、醜悪で悪辣な悪役である魔女のように。

 マグノリアは、その精神性まで魔女だったか。

 それを問うた瞬間、マグノリアのブラウンの瞳がひび割れた。同時に静観していたセタンが二人の間に割り込み、エクスを突き飛ばしてマグノリアを背中に隠すような立ち位置に立つ。サンドラはエクスに駆け寄って彼を助け起こしながら、セタンタを睨んだ。

「人の話を聞く気もない馬鹿野郎が」

 サンドラの鋭い視線をものともせず、セタンタは不愉快げに舌打ちをした。

「……あたしは、本当に、心から申し訳ないと思ってるわ」

 顔を伏せて、静かな声音でマグノリアは言う。

「反乱で犠牲になった人にも、あたしのせいで死んでしまったかもしれないあの村の人達や父さんや母さんや、セタにも。……あの七人にも」

 長い睫毛に隠された瞳は、罪悪感に揺れている。

 彼女自身にとって、マグノリア・ウィリアムズはメアリー・スーだ。

 自分がいたから、故郷の村は滅んだ。彼女のせいで、幼馴染であるセタンタは、セタは幼くして非業の死を遂げた。慕っていたレノも死んだ。自分が起こした反乱のせいで死んだ人間も、決して少なくない。反乱を起こさない方が良かったとは言わないけれど、しかし自分のせいでなくなった命があるのは確かだ。

 ユート・アマタニという名の、メアリー・スーのようにしか見えなかった少年の存在も、彼女にとっては生死不明の被害者の一人だ。

 他人からどう見られたって関係ない。彼女にとっては、それが真実。マグノリア・ウィリアムズはメアリー・スーである事が、彼女にとっての事実だ。

 『ハルマティア』の七人も、彼女の犠牲者だ。

 彼女が苦しめた人間だ。

 彼女が殺したも同然だ。

 だからこそ。

 だからこそ、もう二度と殺させない。死なせない。

「……だからこそ、助けるためにあたしは全てを使うのよ」

 あたしの魔術は、そのための魔術だ。

 それと同時。

 扉を力任せに押し開ける乱暴な音が、部屋に響いた。

「はいはぁい、青くっさいポエム披露会は終了でーす」

 そんな、聞き覚えのある間延びした声が聞こえた。

 立ちあがろうと前のめりになっていたエクスの背に重みがのしかかり、咄嗟にその重量を支えきれずに地面に突っ伏した。正確には大して重くはなくて倒れるほどではなかったのだが、勢いが強すぎた。

「ふぎゅっ」

 そんな間の抜けた悲鳴をあげて。

 床に強打した顎をさすりながら何とか見上げると、三日月のように細まった楽しげな月色の双眸と目が合う。

 切り揃えられてはいるものの無造作な雰囲気がまだ残っている、結われた栗色の髪。薄く桃色に色づいた頬は、よくよく見れば頬紅だとわかるし、ふっくらと健康的な丸みも詰め物がしてあるからだとエクスは知っている。

「ボクらのためにそんなに怒ってくれてるんだ? よくわかんないけど、ありがと」

 まだ幼さの残る高めの声で、人間の感情の機微を理解できない少年は、無邪気に微笑んだ。

「ヴァーニャ……?」

「アジンだよ。ヴァーニャは死んだ。……なに、そのデュラハンでも見たような顔」

 瞠目し言葉を失うエクスとサンドラに対して、ヴァーニャ、もといアジンは何事もなかったかのような気軽さだ。

 見回してみると、彼も含めて七人の人間が部屋に入って、マグノリアの側まで駆け寄っていた。

 つまり、アジン、ドゥ、トリ、スー、サート、アート、それにヘキサ。

 『ハルマティア』の七人だ。

 目の前で、首を切り落とされたはずの。

「何で、生きて……?」

「だから死んでるって。ナマリ中毒でとっくに。まあ、だからこそ」

 アジンは軽く首を傾げる。その首を一周して覆うチョーカーの存在を強調するように。

 それは至ってシンプルなデザインで、アジンの名前が彫られた黒い金属、タンタルで作られたタグがついている。

 見回すと、他の『ハルマティア』の面々は全員、同じチョーカーを首につけていた。その意図がわからないほど、エクスもサンドラも鈍くはない。

「もう死んでるからこそ、もう死ぬことはないんだけどね」

 あの時、七人分の首が切り落とされて地面に落ちる光景を見た。嫌というほど網膜に焼きついた。それは決して、幻ではない。傷口から溢れ出た血も、その生臭さも、忘れられる訳がない。

 けど、あれで死ななかった。正確には、もう死んでいるのだからこれ以上は死にようがなかった。

 人工魔女とは、元より動く死体だ。魔力を原動力として、まるで生きているかのように動く屍だ。首を切り落とされても、それは変わらない。五体満足の死体が首なし死体になるだけ。彼らの本質は変わらない。

 全員揃いでつけている黒のチョーカーは、一度落とされた首の繋ぎ目を隠すためのものなのだろう。

 正確には、エクスは知らないだけで他にもいくつかの意味がある。チョーカー自体はただ縫い跡を隠すためのものなのだが、それに付属して揺られている黒いタグには他の意味があった。

 これをつけるのはアジンの案だ。彼の故郷の国、戦争中の北国では、ドッグタグという個人を識別するためのタグがある。同時に、怪我人の重軽傷さ、治療の優先度を示すためのトリアージタグの意味もある。

 黒色のトリアージタグは、生存の可能性が限りなく低い、あるいは無く、治療の必要がない者の事を指す。

 つまり、チョーカーについているタグはこう言っているのだ。『私達は呼吸も鼓動も脈も必要ない動く屍だ』と。

 それを自慢するかのように見せびらかして、アジンは新しいおもちゃを買ってもらった子供のように誇らしげに笑った。

「ボクらの仲間の証だよ」

「小っ恥ずかしい事言うな、ばーか」

 軽口を叩きながら、トリが横からアジンの頭を乱雑に撫でくりまわす。髪の色も瞳の色彩も、顔立ちも人種ですら全く違う人間同士だと言うのに、まるで兄弟のようだ。

「いやぁ、エクスさんがそんなにワタシ達の事想ってくれてたなんて、嬉しいですねぇ」

「『何でヴァーニャ達を殺したんだ……!』ですってー」

 ヘキサが意地の悪いニヤつきを見ながらエクスの横腹をつつき、スーがエクスの真似をしてみせる。エクスは顔面に血と体温が集まる感覚を自覚して、顔を両手で覆った。

「マグノリアも。ほらアート、真似したげて」

「『だからこそ、助けるためにあたしは全てを使うのよ』」

「あーもーやめなさいあんた達! ほんっと性格悪い!」

 マグノリアも同じように揶揄われており、こうして見ると年齢相応の少女に見える。普段の大人びた雰囲気は剥がれ落ちている。今思えば、それはレジスタンスのリーダーとして必要に駆られ、そうして幼い頃から構築されていった大人らしさなのだろう。

「……ドゥ、大丈夫?」

 ただ一人、会話に参加せずに和気藹々とした場を眺めていたドゥに、マグノリアが問う。

「えぇ、大丈夫ですわ」

「本当に? だって……」

 エルリの事、好きだったんでしょ。

 その言葉は、飲み込まれる。

 ドゥが、これまでになく取り繕わず、穏やかに頬を綻ばせていたのだから。

「これで、わたくしはエルリと一緒だから」

 エルリが死んだから、その霊魂が共にある、などという意味ではない。

 死という状態が、ドゥとエルリの間で共通になっている。そのお揃いの状態を、心から喜んでいる。そんな表情だ。

 それは、狂気といえば狂気なのだろう。自分はとっくに死んでいて、エルリも死んだ。その共通点を、まるで同じデザインのアクセサリーをつけているかのように思っているのは、明らかに異常だ。

「……そう」

 しかし、それで良い。狂っていて良い。それで、彼女が満足なら。彼女がその状態で、まだこの世にいていたいと思えるのなら。

 マグノリアも『ハルマティア』の全員も、誰も言っていない事がある。

 人工魔女とは、つまりマグノリアの手によって大量の魔力を流し込まれ、人体の動き方そのものが変質したものだ。

 それは体に多大な衝撃を与え、トドメになって生命活動を完全に不可能にする可能性も低くない。

 蘇生に近しい人体改造を行うのだ、失敗のリスクも当然ある。

 つまり、人工魔女になるためには、そうなるための覚悟と、強い意志が必要だ。絶対に生きてやる、という強い意志が。

 同時に、人工魔女の体を維持するのにもかなりの精神力が必要となる。

 血の代わりに魔力を巡らせて全身を駆動させるのだ。心臓がポンプの役割を担って自動的に送り出してくれるわけではない。自分の意識で、絶えずに魔力を動かし続けなければならない。それは並大抵の苦労ではない。

 アジンも、最初の内は一瞬であろうと気を抜く事はできなかった。精神的に磨耗し、慣れるのに丸数日かかった。それは他の六人も同じだ。

 死体になりたくない。そんな強固な意志を保ち続ける事が、彼らには必要不可欠だ。

 ドゥにとってエルリがその理由にたりえるなら、それで良いとマグノリアは思う。

「エルリはこれから、教科書に悪王と刻まれる存在になるわ。歴史的な悪い面だけが掬い取られた、悲しい存在に。だから、あんたは覚えておいてあげなさいよ。エルリが何を愛していたかも、何を思っていたかも。王じゃない人間としての姿を。……あいつが唯一愛した存在が、いるって事も」

「言われずとも」

 マグノリアは満足げに頷く。そして、一歩歩み出るとホール全体に響こうかと言う声量で問うた。

「あんたら、これから何したい?」

 真っ先に返したのはヘキサだった。

「ワタシはこの国に残りますよぉ。マグノリアさん、雇ってください」

 へらりと笑いながらヘキサは煙草に火をつけた。

「あら、いいの? あたしにこき使われるので」

「勤勉に働くのは懲り懲りですけど、生憎仕事以外にしたい事もないんですよぉ。だったらこの国に腰落ち着かせるのが安牌ってもんです」

 彼女は生まれてからずっとヴァージンとして仕事しか知らない人生を送っていて、人工魔女に、レジスタンスになってからも各地を駆けずり回る多忙な生活を送っていた。多少は怠けたいのだろう。

「俺は……故郷に帰るよ。あそこに置いてきた奴、今何してるかわからんのでな」

「トリ、あんたの故郷って南よね。どんな名前の国だったかしら」

 南には広く砂漠が広がっており、オアシスを中心とした集落が点在しているらしい。トリもおそらくはそこの出身なのだろう。

「秘密だ」

「僕はー……僕も、帰ろっかな」

「スー、あんたの故郷って……」

「あー、みなまで言わなくていいよー。……うん。ろくでもないとこだけど、思い入れがない訳じゃないからー」

 何か匂わせるように言いながら、しかしそれ以上詳しく話すつもりはないようで、拒絶のように三角座りをした膝の間に顔を埋めていた。

「そう。あんたがそう言うなら止めはしないけど。……いつでもこっちに帰ってきて良いんだからね」

「ん、そのうちまた帰るからー」

「……拙官達は、孤児院の子供達にお別れだけして、故郷に一度戻ろうかと思います。よろしいですか?」

 サートが片手を挙げる。その後ろにはアートが侍っており、普段から側にいる様子から同郷なのだろうと察しはついた。

「許可なんて要らないわよ」

「いえ、子供達に話す事が……私達は公には死んでいる身であります故」

「良いんじゃないか」

 口を挟んだのはセタンタだった。

「アシ達はもう今を生きてる。昔の庇護者である俺より、今の庇護者であるお前達の方が、あいつらを癒せる筈だ」

「セタンタ……」

 セタンタがかつてルウの名を持っていた時、子供達を守っていたのは彼だった。しかしそれはもう六年も前の話で、当時幼なかった子供達はもう彼の事を覚えているのかわからない。

 アシが鮮明にルウの事を覚えていたのは、彼と別れた時のショッキングな現場故だ。それがなければ、彼女も彼を覚えていなかったかもしれない。

 そも、彼は人殺しだ。人を殺す事で子供達を守り、人を殺して奪った金品で生計を立てていた人間だ。もうスラムには住んでいない、平和な世に生きる子供達にとっては穢らわしい異物でしかなく、教育に悪い存在。

 セタンタは、会わない方がいい。けれども子供達に孤独を抱えさせる訳にはいかないから、サートとアートは会った方がいい。少なくともセタンタは、そう思っている。

 しかし。

「バッカじゃないの⁉︎」

 叫んだのは、マグノリアだった。

「あんたねえ、その子らがどう思ってるとか関係ないわよ。アシちゃんが会いたがってるなら会いに行ってあげなさいよ。……そうしないと、あんたの存在は一生その子の傷になるわ」

 ばけものと謗って傷つけて、去っていってしまった大切な兄。

 会えない限り、会って和解しない限り、セタンタの存在はずっとアシの心に残るしこりとなる。

 マグノリアの幼馴染のセタは、またね、といつも通りに手を振って別れて、その日の夜に死んだ。ケルトイ族として最期まで戦って、ボロ雑巾のように傷つけられて無惨に死んだ。

 マグノリアとアシの境遇は違うけれど、後悔が残る別れは辛いものだと、彼女は知っている。それこそ、ただ髪や瞳の色彩が似通っているだけの別人に、失った彼の名前をつけて縋ってしまう程度には、セタの存在はマグノリアの心に居着いている。

「後悔させないために、後悔しないために、あんたは会いに行くべきよ……!」

 頼むから、第二のあたしを作らないで。他でもないあんたが。

 実感のこもった声音で悲痛に訴えられて、セタンタは困り眉を作った。

 セタンタがアシ達に会いたくない理由はもう一つある。伝えていなかった理由が。

「……怖いんだよ。アシは俺の事を覚えていてくれてるけど、他の子供達は覚えてないかもしれない。けど、あいつらは紛れもなく俺の弟で、妹なんだ。……顔を合わせた瞬間に、『誰?』って言われるのが、俺は怖い」

 彼がかつて庇護していた子供達は、一番年上で当時八歳だったアシ。一番幼い者では赤子同然の乳児までいた。当然物心も付いていないような子供も多くいたし、ついていたとしても六年という歳月は幼児期の記憶を風化させるには十分すぎる。

 もし、弟や妹と顔を合わせて、そして首を傾げられたら。兄と認識されなかったら。それを眼前に突きつけれる事が、何よりも恐ろしかった。

「忘れられたなら、いいじゃない。それはその子達が過去を見ず、前に進んでいる証よ」

 項垂れるセタンタの頬に触れて、マグノリアは囁く。

「もしそれが嫌だって言うなら、俺がお前達の兄なんだって、言えばいいじゃない。それで、最初からきょうだいとしてやり直せば良いのよ」

 生きている限りは、それができるのだから。

 忘却は確かに恐ろしい。けれども、それは自分たちの時間が進んでいて、日々新しい事を覚えて、そうして大人になろうとしている何よりの証左なのだ。

「あんたが兄だって言うなら、そんくらいの胆力は見せつけてやりなさい」

 背中を強く叩かれて、セタンタは小さく呻いた。マグノリアは意外と膂力が強い。

「……わかった。わかったよ」

「それはそうと、サートとアートも会いに行ってあげてね」

「はい」

「言われずとも」

 短く答えたサートとアートにマグノリアは満足げだった。彼女がドゥに視線を向けると、彼女は話し始めるタイミングを伺っていたようで澱みなく言う。

「わたくしは一度、故郷のお世話になった劇団にだけ顔を出して来ますわ」

 ドゥは隣国の生まれであるらしく、しかし踊り子として世界各地を転々としてきた身だ。しかし故郷で一番最初に世話になった劇団には思い入れが少なからずあった。

「早く帰るのよ」

「言われずとも。……アジンは?」

 今まで黙り込んでいたアジンが、考え込むような素振りを見せる。迷っているようだった。彼はまだ精神的にも子供だし、この王城に留まると言っても誰も反対はしない。戦時中の故郷に戻ると言っても、多少の心配は見せるだろうが止めはしないだろう。

「……ボクは」

 彼は躊躇いがちに口を開く。

「ボクは、一度国に戻ろうかと思う。一応、おんなじ父親の人がいるから……その人達の事が、気になる」

 同じ父親の人、という言い回しに、エクスは首を傾げた。同じ父を持つと言う事は、兄弟であるという事だろう。しかし、言い方からして母は同じではないと言うような違和感があった。

 そして、エクスは同時に、アジンの言葉に嘘を感じ取る。

「アジン、それは違うよな」

 それは、あまりに覚えのある感覚だったから、エクスは理解できた。

「その血のつながった人達が気になるんじゃないんだろ? ……本当は、人間の心の働きとしてはその人達の事を気にしなきゃいけないと思ってるんじゃないのか?」

 エクスの指摘に、アジンはぎくりと肩を揺らす。図星である事が表情に表れていて、そこはまだまだ子供だな、と思った。

「その人達は?」

「……兄、だよ。母親はボクだけ違うけど」

 兄。ヴァーニャの境遇を考えるならば、その兄も生きているとは限らない。そして兄を心配するのは極々自然な心の働きのように思える。それが、腹違いの兄弟なのであろうと。

「お前の本心としては、その兄の事、どう思ってるんだ?」

「……正直、兄弟だって言われても全然似てないし、そうなんだーってくらい。生きてるか死んでるかもわかんないけど、死んでたとしてもボクは何も思わないんだと思う。同じ村で育ってたのにね」

 エクスが家族の死に泣けなかったように。

 アジンも、家族の事を想えずにいる。

 けれど。

「思わなきゃいけないって、思ってるんだろ。だったらとりあえず、今はそれでいい。それは絶対、お前が変わるきっかけになる」

 横から、トリが言った。アジンの頭をわしゃわしゃと大胆に撫でながら。

「けど、ボクは」

「きみが獣じみてるのなんて、この数ヶ月の付き合いでわかってるよー。その獣が人間になろうとしてる。それは悪いことじゃないし、負い目を感じる事でもない。獣である自分が嫌なら尚更」

「獣って……」

 的確ではあるが乱暴にも聞こえる比喩に、ヘキサが呆れて肩を竦める。けどまあ、と彼女は続けた。

「キミみたいな子供が自分探しに迷走するのはよくある事です。ただでさえアジンくんは子供っぽくない所があるんだから、こっから離れて子供らしさを学ぶのも手じゃないですか?」

「子供らしさ……子供らしくなきゃいけないの?」

「別に大人びててもませてても良いんだが、人間っぽい倫理観は知っていた方が今後楽かもな。身につける、じゃなくて知る、だぞ。そこは履き違えんな」

 トリの言葉に、アジンは肩を落とす。けどな、と続けられて、彼は顔を上げた。

「なんにせよ、オレらがオマエを拒絶する事はない。旅行だと思って楽しんで来い」

「そうそう」

「私達の価値観も倫理観も常人と比べるとおかしいからな。貴卿一人が狂っていた所でなんの問題もない」

 りょこう、とアジンは単語を復唱する。考え込むように俯いて、そして突然顔を上げたかと思うとその金色の瞳にエクスとサンドラの姿を映した。

 彼にとって、普通の人間である彼らを。

「……少し、考えるよ」

「ゆっくり考えなさい。けど故郷に帰るなら気をつけなさいよ。あんたはもう一度死んでいて、体は十二歳のままで、これ以上死ぬ事はないけれど。脳が破壊されれば魔力を巡らせる事ができなくなって死ぬ……あるべき状態に還る。寿命はないけど終わりはあるんだから」

「うん」

 考え込み始めたアジンの周囲に他の『ハルマティア』の面々が集まり、アジンよりも長く生きてきた人間としてのアドバイスを伝え始める。

「……アジンは、随分と馴染んでるんだな」

「他の皆とは十歳以上離れているからね」

「え? ヘキサとかドゥとか、二十歳くらいにしか見えないけど……」

 意外そうな声をあげたサンドラに、マグノリアは苦笑を返す。

「人工魔女は歳を取らないの。もう状態が変わらないから。ヘキサが二十歳の姿なのはその年齢の時に死んだからで、実際はそれから十年経ってるから三十歳よ」

 享年がそのまま彼らの姿になっているが、実年齢はもっと高い。アジンだって死んで間もないから外見も実年齢も十二歳のままだが、このまま時間が経てば実年齢と姿にギャップが生まれ始めるだろう。

「それに、年齢の問題を差し引いても、アジンは愛嬌があるからね。弟として可愛がられてるのよ」

 実年齢よりも少し幼い印象の彼は、その悲惨な過去からも痩せこけた容姿からも庇護欲を掻き立てられるのだろう。察するに、ハルマティアは同じように何かに巻き込まれて生を渇望して死に、そうしてマグノリアに人工魔女にされた者が集まった団体だ。傷口の舐め合いのように団結力が深まることも、一際幼いアジンが可愛がられるのも不自然ではない。

 例え彼が、人間らしからぬ価値観を持っていたとしても。

 彼は、紛れもなくみんなの弟なのだ。

「あんた達は?」

「え?」

「あんた達はどうするの?」

 問われて、エクスは考えるそぶりを見せる。

 最初は、ただこの国から出たいだけだった。けれど、それはエルリの統治下にある国に限った話。マグノリアが治める国ならば住んでいたいと思うし、なんなら彼女の下で働くのも悪くはないかもしれない。

 しかし、とエクスは隣にいるサンドラを見る。今は、彼女と離れたくはない。無意識的に、彼女もそう思っていると確信していた。

 彼女はどうだろうか。この国を出たいだろうか。それとも、これからもこの国で暮らしていくのだろうか。彼女がどちらを選択するにしろエクスはそれを邪魔しないが、願わくばその行き先に自分と共に居てくれたら、とエクスは思う。

「私は……この国を出たい」

 毅然とした瞳で、サンドラはそう言った。エクスは静かに目を伏せる。彼女がそう言うのならばエクスは止めないし、止めたくもない。自分一人のわがままで彼女の歩みを止めさせ、彼女の希望を絶えさせる事は、エクスの本意ではない。

 そもそも、彼女は元々旅が好きなのだ。でなければわざわざ両親の旅に着いて行く必要はない。両親が不在でも、面倒見がいい叔父のレノがいたのだから庇護者にも困らない。六年もの間できなかった分、彼女も旅がしたいのだろう。

 少し、寂しいけれど。

 引き止める権利は、エクスにはないから。

 だから、続けられたサンドラの言葉は、エクスにとっては寝耳に水だった。

「……エクスも、一緒に来てくれる?」

「……え?」

 エクスの手を握りながら、サンドラは彼を見ていた。雲ひとつない空のような、澄み切った紺碧。

「私は、エクスと一緒にあそこに行きたい。……知らない所にエクスがいるのは、もう嫌だから」

 どこまでも続くような瞳の中、エクスは感じ取る。

 彼女が、目の前のエクスではない誰かを見ている事を。

「サンドラ、お前は何を見ているんだ?」

「……エクスを見てる、けど」

「それは……いつのエクス・カレトヴルッフだ?」

 サンドラの表情が、揺れた。図星を突かれたように。触れられたくないものに触れられたように。

 その反応を見て確信していた。確かにサンドラはエクスを見ている。しかしそれは、今目の前にいるエクスではない。恐らくは、過去の。あるいはもっと別の。

「サンドラ……?」

「ちょっと、こっち」

 サンドラに腕を引かれて、マグノリア達から離れる。誰にも話が聞こえないように。

「……私は今から、荒唐無稽な事を言うよ」

「うん。何を言われても、信じるよ」

 サンドラは、恐怖しているかのように肩を震わせて、俯きながら語り始めた。

 六年前。サンドラが両親と共に南の砂漠に行った時。

 どれほど強かろうと人間の身である以上は護衛の傭兵では決して敵わない存在、すなわち天災。流砂に巻き込まれて、サンドラは両親と共に謎の場所に迷い込んだ。

 それは、砂に埋もれかけていた遺跡のようだった。シンプルな細工が施された白亜の柱により支えられており、全体が白かったのであろう建造物全体が、砂色に染まっていた。

 気絶していた両親をちょうど起こした頃、足音がした。

「なんだ? 子供……いや、その身なり、商人か」

 その男達は、見慣れない異国の装いをしていたが、腰や背に提げた武器や傷だらけの逞しい体、そして欲にギラつく強面。荒くれ者である事は、簡単に察せられた。

「逃げなさい、サンドラ!」

「傭兵はそう遠くにいない筈だ、早く!」

 両親に叫ばれて、サンドラは駆け出した。彼女は聡明な子供で、すぐに助けを呼びに行くのが最善だと判断できた。

 けれど、その遺跡は流れ込んだ砂のせいでひどく入り組んだ構造になってしまっていて、土地勘が全く無いサンドラは、やがて荒くれ者に見つかった。彼らの体にべっとりと付着した赤黒く鉄臭い液体が何なのかは、考えるべくもなかった。

 走った。走った。脚の筋繊維が全て千切れそうになるまで。幾度も追いつかれて、そしてその度に体が切り裂かれた。必死に生きようと足掻こうとしているネズミを弄ぶかのように、執拗に無意味に傷つけて。

 そして、とうとうサンドラの心臓が、剣により貫かれて、命が断絶したその瞬間。

 彼女は、走っていた。

 意味がわからなかった。だって、自分はついさっきまで心臓の機能を無くして、そして地面に倒れて、霞んでいく視界と全身を襲う痛みに意識を飛ばした筈だった。

 しかし、胸に触れてもそこに傷はなく、倒れ伏している事もない。傷は断続的に痛み続けているけれどその痛みが少ないような気がして、探ってみると傷が記憶よりも少なかった。

 困惑している内に、今度は頭をかち割られて地面に倒れた。

 そして、サンドラはまた立っていた。

 そして死んだ。

 同じ事を何度も何度も数十回も繰り返す内に、サンドラは気がついた。

 彼女は確かに死んでいる。しかし、その死んだ時から五分だけ、時間が巻き戻っているのだ。

 しかし、それに気がついたところで何ができる訳でもない。突然荒くれ者達を倒せるほどの力に目覚めたわけでもなく、ただ己の死をトリガーとして五分だけ時間を巻き戻す能力を得ただけだ。

 何百回とも思えるほどにやり直して、そしてようやく、まともに逃げ延びる方法を見つけた頃。

 逃げ込んだその先。天井から光が差し込む場所。真夜中の星月の光が降り注ぐそこで力尽きて地面に倒れ込み、そこに瞳をぎらつかせた荒くれ者達が入ってきて、死を覚悟したその時。

 その天井から、流星のように煌めく金髪を結って背に流している人物が隕石のような勢いで降りてきて、瞬きの速度で全員を制圧した。

 霞む視界で、辛うじてその人物が夜空のような美しい紫色の瞳をしていることだけがわかった。

 そうして意識を落として。そして、目が覚めた時には両親だったと思しき、薬指に揃いの指輪が嵌った二本の左腕が包まれた布と共に遺跡の中で倒れていた。

 覆らなかった両親の無惨な死と、幾度も繰り返した死の恐怖と痛み。その多大な負荷に、幼い少女の心は耐えきれず。

 そして、サンドラ・ループは狂気に身をやつして、そのまま六年もの月日が経った。

「信じられる……? こんな荒唐無稽な、私自身、夢だったらよかったって思うようなこと」

 サンドラ・ループは、ループしている。そんな、ファンタジーのような話を。

「……信じるよ」

 自分には、信じる事しかできない。

 エクスは、何度も不可解な彼女の行動を見てきた。

 話を聞いていなかったのにヴァージンの事を知っていた。村が襲撃される事を知っていた。自分とエクス以外は助けられないと、諦めていた。

 全てを、見てきたから。

 彼女は、知っていたのだ。

「……俺は、ずっと助けられてきたんだな」

 自分が知らないところで、ずっと彼女は動き続けて、傷つき続けて。何度も何度も、死んできて。

「ありがとう、サンドラ」

 きっと、エクスの死も見てきて。

 だから、もう二度と失わまいと。

「一緒に、旅をしよう」

 今までサンドラが描く絵の中でしかなかった世界を、見ていこう。

 今度は、二人で。


「二人で、旅をしよう」



 セタンタの傷は全身の至る所の打ち身と、腹部の裂傷だ。特に大きな傷は腹のもので、既に傷口は縫い合わされているものの絶対安静を厳命されている。

 それにも関わらず、セタンタはスラム街を歩いていた。それも腹を庇うような仕草は一切なく、健常者と同じように振る舞いながら。貧血のせいで顔色は少々悪いものの、傷の大きさにしては良い方だ。

 彼は武器も持たずに無防備にスラム街を歩いていた。とはいえ、セタンタは革命の主導者のマグノリアの側近で、今回の叛逆の功労者だ。スラム街でもヒーロー扱いだ。ケルトイ族は普段ならば胡乱げな目で見られるのだが、全く調子が良い。武勲を上げれば人々の感情は一転し、掌を返すのだから。

 ふとセタンタは後ろを見遣った。彼の背後には二人の男女がローブをかぶって歩いている。そして彼らは、表向きには処刑されたアートとサートだ。

 スラム街の人々はセタンタに目を輝かせ、そしてその背後の彼らに首を傾げる。しかしセタンタと一緒にいるという時点で安心していいものと判断したのだろう、すぐに視線を外した。

 三人は無言のままに進んでいき、そしてそこに辿り着く。

 そこは、かつてサートとアートが運営していた教会だった。孤児達が多く住んでいる場所でもある。

 サートとアートのみで運営していた教会は他に大人は居らず、礼拝に来る者もほとんどいない。あらかじめ食料の備蓄はあるし、サート達がある程度は大人がいなくても生活できるように教育を施してくれているので大人がいなくても暫くは平気だろうと言われていたが、実のところはどうかわからない。反乱の動乱に巻き込まれている可能性だってあった。

 しかし、全くの無事である外装を見る限り、それは杞憂だったようだ。セタンタは安堵の息を吐く。

 そして、それと入れ替わるように彼の心に訪れたのは果てしない不安感だった。あの教会にはアシがいる。会うのは実に六年ぶりで、しかも以前に最悪な別れ方をした。サート達やエクスの口から恨まれてはいないし、むしろ罪悪感を抱かれているとは知っている。しかし、それを知っていても恐怖はあるのだ。

 思わず立ち竦んだセタンタの背を、アートが押した。振り返ると、フードから覗いた口が声もなく微笑む。朗らかに、どこか挑発的に。

 セタンタはぐっと息を呑み、そして前を向いた。

 教会をぐるりと囲んでいる塀は頑強だ。そしてその唯一の入り口である門も。しかし、不用心にも鍵はかかっていなかった。きっと、誰にでも門戸を開くと言っていたサートの言に従って開けてあるのだろう。

 セタンタは門を押し開け、教会の敷地内に入る。決して広いとは言えない広場には、子供一人いなかった。

 その代わりに、教会への入り口である大きな扉の前で、少年と少女が言葉もなく並んで佇んでいる。

 少女の方は赤毛で癖がある髪をしている。そして少年の方は、体格からかろうじて少年だとわかるものの全身が包帯に巻かれて車椅子に座っており、明らかに重症者だ。包帯からわずかに覗いた肌は溶けてしまっている。

 彼らは口を噤んで、重々しい空気を纏っていた。まるで、誰かを悼むように。

 ざり、と土を踏む音に、彼らは顔を上げる。そして遠目にセタンタの姿を認識して、目を見開いた。

 セタンタは、ルウであった頃とは違う。あの頃は最低限の筋肉はついていたがそれ以外の肉が削げ落ちていて健康的とは言えなかったし、こびりついた血臭を落とすために汚い川の水を浴びていたため酷い匂いだった。けれど、今は違う。体つきは精悍で逞しくなったし、自分の体を清潔に保てている。それに、単純に背も伸びたし顔から幼さも抜けているだろう。

 セタンタは、ルウとは随分と変わっている。

 けれど、その朱殷の双眸と輝かしい金髪は変わらない。そして、それが滅亡しかけている戦闘民族ケルトイ族特有のものであると、彼らはもう知っているだろう。

 二人は、セタンタを見る。そして、目が眼窩からこぼれ落ちそうなくらいに見開いて。

 次の瞬間に、アシはセタンタに走り寄り抱きついていた。

「ルウ兄……!」

 セタンタの腹に顔を埋めて、彼女は涙を溢す。遅れて、車椅子を走らせた少年もセタンタに飛びついた。腹の傷が痛むが、しかし彼はそんな事は構わないとばかりに二人を抱きしめ返す。

 強く、強く。六年の時間を埋め合わせるように。



 ヘキサは人目を忍びながら、こっそりと王都を歩いていた。未だ戦勝ムードが漂っている都では、同じくらいエルリ政権に関わっていた者への忌避感が強い。もしここで処刑されたはずの、表向きはエルリの部下として振る舞っていた自分が生きていると知れたなら、パニックと同時にマグノリアへの不信感が膨れ上がるだろう。

 向かう先は、『ハルマティア』の活動拠点となっていた酒場だ。主に運営していたのはトリだったが、仕事が無い者はあそこでのんべんだらりとしたり、仕事を手伝ったりしていた。特にアジンは、人口魔女としての体に慣れるまで、慣れてからもよくトリを手伝っていた。ドゥはよく、各国を巡って習得したという踊りを小さなステージで披露していて、それはそれは客に人気だったものだ。

 そんな騒がしくも楽しかった日常を思い出しながら、ヘキサはそこに辿り着いた。窓ガラスは粉々に割れ、扉は蝶番が外れて倒れていて、ペンキで罵詈雑言が解読不能なほどに殴り書かれている無惨な有様の酒場の前に。

 当然だ。当たり散らす対象がいなくなったら、次に鬱憤を晴らすためのサンドバッグは必要になる。その対象が、かつて彼女らの拠点だった酒場なのだ。ごくごく自然な帰結だろう。

 ヘキサは小さく嘆息しながら、店に踏み入った。ざく、と細かなガラスを踏む音。

 叛逆が集結して間も無いというのに、破壊の限りが尽くされた酒場を見て彼女の心に訪れたのは、寂寥感だった。

 十年。ヘキサが人口魔女になってから十年だ。それからずっと、マグノリアと肩を並べてきた。

 一、二年後には処刑されたドゥの遺体を回収して人口魔女にした。

 異国から訪れたサートとアートを仲間にした。

 ヘキサとマグノリアで異国に出向いていた時に死体となって倒れていたトリを引き入れた。

 そしてスーの手を引き。

 そしてアジンを救った。

「……もう、十年になるんですねぇ」

 しみじみと振り返れば、あっという間だった。使い魔のロバを引き連れて様々な国、様々な場所を巡ってエルリの悪い噂を流したり、情報を集めたり。そしてこの酒場に戻って来れば、仲間たちと盃を酌み交わす。

 その日々は決して、悪くないものだった。

 薄く微笑みながら、ヘキサはカウンターにしゃがみ込んだ。そして、床に取り付けられた地下の倉庫に続く扉を開く。

 頑丈にな上に地味な扉だ、誰も気が付かなかったのだろう。薄く被った埃とガラスの破片がぱらぱらと落ちた。

 そして階段を下っていく。その先にあるのは、小さな部屋に続く扉だ。

 ヘキサが扉を開けると、幾つもの敵意の瞳が彼女に一斉に向いた。

「お久しぶりです」

 軽い調子で挨拶をするも、返ってくるものは無い。ヘキサは笑みを崩さないようにしながら、その部屋に閉じ込められている女達を見回した。

 全員が、二十一歳かそれより少し上の年齢の女達だ。

 そして、ヘキサは知っている。

 彼女らが全員、『初物狩り』の被害に遭って行方不明となっているヴァージン達である事を。

 そしてヘキサは知っている。彼らは全員、『ハルマティア』の面々により誘拐、もとい保護されたヴァージン達である事を。

「アナタ達にも、いつかワタシのように自由に生きてもらいますからねぇ」

 彼女らの主たるエルリはもういない。彼女らの生き方を縛るものは何も無い。

 しかしそれは、同時にヴァージンではいられない事を意味する。いつまでも檻の中の、雪処女のような存在ではいられないのだ。

 人間とは変化を嫌う生き物だ。変わるのは怖い。現状に甘んじていたい。そう考えてしまうのは当然である。

 そう、ヴァージン達はただ単に警戒してヘキサを睨んでいるのではない。何かを強いられる事を恐怖しているのだ。変われと言われる事を、恐れているのだ。

 その気持ちは、痛いほどにわかるけれど。

「アナタ達は、いつまでも初物ではいられないんですから」

 一度死んで、もう何も変わらないヘキサと違って。

 アナタ達は、買われるんですから。

 その感情は僻みにも似ていた。見方によっては、自分には無いものを持っているのだからと言っているように聞こえるだろう。ヘキサも実際、自分の中に渦巻くその感情を自覚していた。

「人は生きている限り変われる。……変わり続ける。静止なんてできないんです」

 だから。

「どうか、その変化を楽しみながら生きてください」



 ステンドグラスを目の前にして、マグノリアは一人佇む。玉座の間の、荘厳な玉座の後ろ。

 マグノリアは掌を突き出すと、魔力を集約させて渦巻かせ、その力でステンドグラスは容易く割れる。

 破片が多彩な粉雪のように舞う中、サンドラは片手に持っていた小さな花束をそこから投げ捨てた。これが、弔花だと言うように。

「さようなら、セタ。さようなら、レノおじさん。……さようなら、ユート」

 全てを過去にして追いやって、あたしは前に進むから。

 あたしはいつか、あなたたちを忘れる。

 だから、さようなら。

 それはかつて、レノがエクスに対して願った事だった。特段彼がマグノリアがそう言った訳でも、彼がそう言った事をわかっている訳でもない。

 ただ、レノ・ループが生きていたならこう言っていただろう。

「それで良い」

 と。

 朗らかに笑って。

 そうして、彼女は歩き出した。

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メアリー・スーの轍 凪野 織永 @1924Ww

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