第11話
四月二十五日、木曜日。
工場内に正午のチャイムが鳴り、京香は三上凉と共に社員食堂へと向かった。
工場外の飲食店まで足を運ぶことが面倒だった。そして、夕食は
調理場に業者が入り、日替わりで二種類の定食を提供している。一食三百五十円の価格相応であり、京香としては満足しないが不満も無かった。他の社員達からも、同じような評判だった。
この日の定食は酢豚とアジフライであり、凉は前者を、京香は後者を選んだ。
約七十名の従業員のうち、六十名ほどが社員食堂を利用している。席に指定は無いものの、およその『定位置』は自然と決まっていた。
隅にある六人がけのテーブルに、管理職以上である京香と凉が向かい合って座った。このテーブルには、他に誰も近づかない風潮となっていた。
テレビのニュース番組の他、社員達の話し声が京香の耳に届く。今日もこの時間は賑やかだと思った。
「そういえば、今日って給料日じゃん。うちの新入社員には、初任給になるわけだけど……」
食事をしながら、ふと凉が話を振る。
周りに従業員が居ない、かつ小声であることから、昼食時の凉は溜口だった。
「三上さんは、初任給で何かしました?」
経営陣の身内である以上、京香はなるべく給料の話題を避けたかった。とはいえ、露骨に切り替えるのは不自然であるため――せめて回答側に回らぬよう、先手を打ったつもりだった。
「もう十年以上昔だけど、私は親を外食に連れていったよ。めっちゃ喜んでくれた」
「わ、私もですよ。やっぱり、そうしますよねー」
初任給を何に使用したのか、京香は覚えていない。だが、そのような真似をしていないことは確かだった。
それでも、適当に話を合わせるために頷いた。
「それが正しいなんて言わないし、絶対そうしろとも言わないけど……最近の若い子は、どうなのかなぁ」
「自分のためにパーっと使うようなイメージありますよね」
学生あたりの若い世代に対し、思いがけない行動に出るイメージが京香にはあった。しかし、いざ言葉にしてみると、自分もまた現在でも金遣いが荒いことに気づいた。三十二歳にもなって子供じみていると、少しの自己嫌悪が込み上げる。
「おっと……噂をすれば何とやら」
凉が顔を向けた先、テーブル間の通路には、トレイを持った両川昭子が立っていた。
トレイの上には空になった食器が載っている。食べ終え、片付けようとしたところに立ち寄ったのだと、京香は察した。
「お疲れさまです。何ですか? あたしの話ですか?」
昭子はトレイをテーブルに置き、そのまま腰を下ろした。
相変わらず空気を読めずに鬱陶しい小娘だと、京香は思う。一方で、怖いもの知らずで図々しいところには関心した。
何であれ昭子が目立つ行動に出たため、周りからの視線を感じた。
「初任給だなーって話をしていてね……」
「それもそうですけど、ゴールデンウィークですよ!」
「は?」
突拍子もなく話を遮られ、凉が唖然とする。
酒の席ならまだしも、ただの昼食で無礼講とも言える行動に出ることが、京香は全く理解できなかった。いや、恐怖すら感じる。
確かに、来週から世間と同じく、妙泉製菓も大型連休に突入する。
「妙泉部長は、どこか行かれるんですか?」
課長である凉を飛ばして訊ねられ、京香は困惑した。
横目で凉を見ると、引きつった笑みを浮かべていた。部長として社会人の教育を行っていないことに、申し訳なかった。いや、特に教育するまでもなく、常識の範囲だと思う。
「私は、まあ……そんなに遠くではないけど、適当に遊びに行ったり……実家に帰ったりするぐらいかしら」
京香は『婚約者』からデートに誘われているものの、具体的な行き先を覚えていなかった。遠くではなかったはずだという印象だけが残っている。
そして、実家に帰るつもりも無い。
つまり、大型連休の予定など特に無かった。どうせ怠惰に過ごすのだと思いながら――京香はふと、社員食堂内でここから対角線上に位置する隅のテーブルに、ちらりと目をやった。
「私も、実家に帰りますよ! 初任給で、どこか
食いつくついでに話を戻したり、意外とまともな使い方だったり、京香はやはり昭子が理解できなかった。何にせよ、掻き回されているような不快感だけがある。
「えーっと……両川さんの実家はどこなの?」
京香としては心底どうでもよかったが、部長としてかろうじて会話を続けるために仕方なく訊ねた。
「ええ!? これまで何回も言ってきたのに、知らないんですか!?」
「そうですよ、京香部長。私でも覚えてるのに」
「ご、ごめんなさい……」
面白がった凉からも触れられ、京香は苦笑した。
確かに何度か耳にしたような気がするが、興味が無いものは記憶に残らなかった。
「あたしの実家はですね――」
昭子の出した地名に、それほど遠くないのだと京香は思った。ここから電車を乗り継ぎ、一時間ほどの距離だろう。
率直な感想を、この場で口にしたいところだった。しかし、部長としての体裁を保たねばならない。
「親御さんに感謝して、美味しいの食べに連れていってらっしゃい」
「ていうか、言うほど遠くないよね。日帰りで全然行けるじゃん」
脈絡を無視して当たり障りの無い内容にした京香の一方で、凉がぽつりと漏らした。
「そうだとしても、立派な里帰りなんです!」
にんまりと笑みを浮かべている凉に、昭子が半笑いで言い返した。
京香としては、上司と部下の何気ないやり取りに見えるが、この中に入れる気がしなかった。小さく苦笑しながら、食事を続けた。
「そういえば……ウチのアレも初任給なんですか?」
昭子が京香と凉のふたりを見渡しながら、小声で訊ねる。そして、ここから対角線上に位置する隅のテーブルに、こっそりと目をやった。京香も改めて見た。
誰が決めたわけでもなく、そのテーブルには社内の派遣社員が今日は五名集まっていた。ただし、会話が一切無い様子だった。
この距離では、紫のインナーカラーが見えないが――長い黒髪をわざわざ下ろしている女性も、気だるい瞳で携帯電話をぼんやりと眺めていた。時折、黒いマスクの下部に指をかけ、隙間から菓子パンを食べていた。
京香は、小柴瑠璃が器用というより面倒な真似をしていると思った。外すのではなく、そうまでして耳と唇のピアスを隠しているのだ。
「うん。『ここ』だと初任給じゃないかな……派遣会社経由になるけど」
凉がつまらなさそうに答える。
派遣会社に支払った契約金が、給与として瑠璃にいくら支払われるのか、京香は知らない。何にせよ、苦しい生活になる額だろう。雇用主として労るよりも、憐れんでしまう。
しかし、だからこそ瑠璃には『副業』を頑張って欲しいと思う。
「ちょっとのお給料で、どうやって生きてるんですかねぇ。いっつも暗い感じで……人間、あそこまで落ちぶれたくないです」
「両川さん……」
嘲笑う昭子に、凉は苦言を呈した。
残念ながら、昭子の発言が京香には理解できた。以前までは、派遣社員を同じように見ていた。
いや、派遣社員の扱いは以前も今も変わらない。
特定の人物を貶され、ただ不快だったのだ。瑠璃とは内密だが知った間柄だからだろう。そして京香自身のコンプレックスでもあるため――まるで自分が『無能』とでも言われているように感じた。
「きっと、何らかの事情があるのよ。でも、栄養管理士の資格持ってるんだから、賢いわ」
病院や介護施設、学校の給食センターなどに正社員として所属することは可能だ。
どうして派遣社員として働いているのか、瑠璃の事情を京香は知らない。それでも、瑠璃を擁護する意図で、つい口を挟んでしまった。
「まあ、そうかもしれませんね……」
もしかすれば、昭子は同意を貰えると思っていたのかもしれない。
だが、予想外に諭されたからか――トレイを持って立ち上がると、つまらなさそうに去っていった。
その様子を目の当たりにし、京香は少しだけ気が晴れた。
「陰口ぐらいならいいんだけどねぇ。もし正社員が派遣をイジメでもしてたら、パワハラになっちゃう」
「私達の目が届くところは、よーく見ておきましょう」
昭子の様子を心配している凉に、京香は頷いた。上辺だけでなく、注意することは本心だ。
派遣社員のテーブルを、改めて眺めた。
瑠璃が視線に気づいているのか、わからない。何にせよ、ここで一悶着あったことなど、きっと知るわけもなく――瑠璃はぼんやりと、携帯電話に目を落としていた。
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