第13話 がっかりさせちゃいけないよ
「わたし、引っ越しようと思ってるんだ」
座っている場所が揺らいだ気がした。お父さんにはまだ言えてないけど。と、
「それって、離れた場所の大学を受けるってことですか」
「ううん、そうじゃなくて。あのね、離れて暮らしているお母さんがね、いま大変なんだって。新しい仕事をして、実家の家事もして。んで、わたしに助けてほしい、って言ってるんだ。だから受験は関係なくお母さんの実家に引っ越しようと思ってる」
「――えっ」
「蓮くんと曲をつくるのもこれが最後になると思う。だから、ごめんね」
僕が本当に伝えたかったのは曲のことではなかったけど、結さんの「ごめんね」は両方の糸を同時に断ち切った。
「そんな・・!でも、進路が決まるまではこの街にいたほうがいいんじゃないですか。あとたったの一年だし」
「たったの一年じゃないよ」
拒絶の壁が顔の前に迫る。
「中学のときから、いままでずっと我慢してきたんだよ? 友達と遊びにもいけず毎日毎日ご飯作って、おばあちゃんの世話して。それが当たり前だと思ってきたし必要とされていたから。自分がやらなきゃって思ってたから。でもだから、だからもう一年だって待てないんだよ。誰にも、わたしの気持ちなんてわかりっこない」
いままで感じたこともないような結さんの子供っぽい面が露わになって、僕は思わずたじろいだ。「つらい気持ちわかります」「どうにもならない気持ち、僕にもわかります」と、何度も心のなかで繰り返したことばは、喉からでることなく飲みこまれては渦を巻く。
「で、でも。それじゃおばあさんのお見舞いだってできなくなるんだし」
息を飲む気配がして、僕はようやく大きな失敗したことに気づいた。
「・・! なんで蓮くんにそんなこと言われなきゃいけないの? おばあちゃんは関係ないじゃない!」
帰る。と彼女は言い置いて、朗読室の扉が開き、そして重い余韻を残して閉じた。
ああ、なんであんなことを言ってしまったんだろうと、いくら考えても答えはでない。「誰かの帰る場所を作れたら」なんてお笑い
※
暦は三月に入った。蓮くんと作った曲は、編集されることなくパソコンの中で眠り続けている。あのとき感じた充足感がうそみたいに何か特別なことをする気力を失っていた。
「あら。
「ちょっと着替え買いにいってたら遅くなって」
「名前はわたし書いとくから、どうぞ」
エントランスで馴染みの職員さんに挨拶したわたしは、吹き抜けの階段を二階に登る。老人ホームのすべてがそうではないかもしれないが壁紙は明るめのベージュで、曲がり角はすべて丸みがとられている様子には少し幼稚園ぽさを感じてしまう。歓談室を横目に、簡単なリハビリルームと食堂を経て通路を曲がった先に個室が連なっている。奥まった、とても日当たりがいいとは言えない場所に祖母の居室があった。
吊り金具のついた引き戸を静かに開けると、部屋の主は就寝中なのかベッドに横になっていた。肩まであった髪は入浴がしやすいように短く切られていて寝癖がついている。わたしはその色素の抜けたボサボサの髪を見るたびに祖母が手元を離れてしまったことを実感する。
物音に気がついたのか短い睫毛がゆっくり開花し、焦点の定まらないまどろんだ瞳がこちらを見ている。
「身体起こすね」
ベッドのリモコンを操作して祖母の上半身を少し起こす。部屋の隅に立てかけられていた折りたたみテーブルを展開してその前に座る。毛玉が多くなってきた祖母の服のかわりに着替えを持ってきていたのだ。テーブル上に服を広げて、一枚ずつ襟のタグに布用のペンで名前を書いていく。祖母はその作業を不思議そうに見ていた。
「ユミちゃん、またきてくれやったね。いつもありがとう」
「・・・うん」
祖母はたおやかに笑った。でもそれは
「ユミちゃん、ここのひとたちが、わたしをいじめるん」
「え?」
走らせるペンを止める。
「はやくご飯食べなさいっていう。くち開けてっていう。もううちに帰りたい」
「そうだね。はやく帰れるといいね」
「ユミちゃんからもお願いして」
「――うん」
視線をテーブルに戻す。涙はもう出ない。そのかわり今まで祖母に依存していた自分に気づいて揺れている。はじめからわたしは透明だった。ひとのせいにしていたけど。これから自分で決めていかなければならないのだろう途方もない旅路を想像すると目眩がした。
「また一緒にお山に登りたいね。お菓子もって」
祖母がちいさかったころの幸せな記憶を繰り返し聞くうちに、本当にそのような思い出が自分にもあったように感じるから不思議だった。山登りどころか私のせいで歩くことさえできなくなった祖母の、私の知らない物語。彼女はどのような少女だったのだろう。
はめ殺しの窓から外を眺めると寒々しい街並みの先に日が傾きはじめているのが見えた。きょうも一日が終わっていく。いつになったら父に自分の気持ちを伝えられるだろうか。
着替えと靴下すべてに名前を書き終わるころには、祖母はまた静かな寝息をたてていた。音を立てないようにテーブルとベッドをもとの位置に戻し、部屋を見回す。角に備え付けられた小型テレビは身体を起こしているときですら電源が入れられているのを見たことがない。プロの介護士が管理する安全で快適な空間で祖母はひたすらに孤独だった。
しばらく微かに上下する毛布を見つめてから重い腰を上げる。また、ね。また。あと何度この挨拶ができるだろう。カーテンを閉めた居室から、昼間みたいに明るい廊下に向かってわたしは歩き出した。
慣れないレンタカーの運転で辟易している
「愛さんは後悔している?」
母方の祖父の三回忌で、アパートの最寄り駅からレンタカーを借りて三時間の道行き、その帰り道だった。足が地面と切り離された状態で急に行先が曲がったり進んだりする感覚は電車と違い自由でおもしろい。僕は手前から吹く温かいエアコンの風と、側面の窓ガラスから忍び寄る外の冷気の境界を漂っていた。腰と背中に伝わるエンジンの単調な振動が眠気を誘う。足元では雨で濡れた学生服の裾が暖房に当てられジメジメとそよいでいた。
「――なんで?」
「おじいちゃんの死に目に会えなかったじゃない?」
というのも当時、中学生だった僕の送り迎えと職場との往復に忙殺されていた愛さんは、入院中の自分の父親にろくに会いに行けていなかったから。
「べっつに。人はいつか死ぬからね」
「それって看護師だったから?」
「んー。それもあるけど。自分のできることやりたいことを選んでいつもやってきたから。後悔はないよ。それだけ」
愛さんは強いひとだ。
「それよかあたしのワガママで
「ぼくはべつに苦労してないよ」
「そ。よかった。だったら蓮も、自分の気持ちに責任とって自分をがっかりさせちゃいけないよ。かっこよくいなきゃね」
心の
「会えなくなってから後悔しても遅いんだからね」
これにも心臓を掴まれたが、どう考えても亡くなった祖父のことだった。
三回忌の主催は叔父で、妹である愛さんにも僕にも淡泊に接した。連れられたお寺は段差が多くて中に入るのも入った後もずっと誘導が必要だったから行動の自由はなかった。法要がはじまってじっとパイプ椅子に座ってお経を聞いているあいだ、焼香の匂いの中で僕はずっと結さんのことを考えていた。彼女が怒ったときの口調ばかりが何回もリフレインされては、そのたびに新鮮に後悔した。
ことばとことばのあいだで僕はいつも迷い、感情は揺れ動いている。その時々では正解だと思って選び取ったことばは、どれもが少しずつ不正解だった。ことばは重ねるほどに軽くなり、連ねるほどに曖昧になった。真実から遠ざかることもいとわずに、それでも口にするしかないのなら、僕らはことばの奴隷だ。
「車を借りた駅じゃなくて手前の朝賀駅で僕だけおろして」
「ん? んー、うん」
何かを察したのか興味がないのか、愛さんは理由を聞きはしなかった。無言の車内で僕は折りたたまれた白杖を右手で撫でる。駅はもう、すぐそこだった。
老人ホーム帰りのわたしはいつもひどく疲れていた。掴まる寄る辺をなくしてまっすぐ歩くことが困難だからだろう。
朝賀駅につくころにはオレンジの夕空になっていた。以前は夕飯の食材を求めて足早に通り過ぎたホームも、今や利用者たちの最後尾を歩いている。自販機の傍にさしかかったとき、備え付けの樹脂製のイスに、姿勢良く座っている学生服の男の子がいた。蓮くんだった。
彼はまっすぐにホームに顔を向けていたのだけど、わたしが近くまでいくとこちらに顔を向けた。影から出た蓮くんの横顔はオレンジの夕日に照らされて人形みたいな輪郭を晒した。
「どうして?」
「土曜日はおばあさんに会いに行く日だって言ってたから。ここにいれば会えると思って」
「じゃなくて、どうしてわたしだってわかったの」
「? 足音のリズムが結さんだったから」
毎度この手の蓮くんの発言には驚かされる。さて、どうしたものかと棒立ちでいると、彼は立ち上がってまっすぐこちらを見た。
「この場所で、僕さんは結さんに助けられた。こんどは僕が助けたい。結さんは頼られてばかりで、ひとを助けてばかりだから。だから僕が結さんを助けたい」
蓮くんは、こんな僕だけど、と最後にちいさくつけくわえた。でも、その手はいつもみたいにもじもじしていなかったし、顔は斜め下を向くでもなくわたしを見据えていた。
「わたしが助けられる理由なんてないよ」
「あります」
蓮くんは断言した。
「そんな、すごい困ってることとかないし」
「きっとあります」
蓮くんは頑なだった。
「僕ができることなら、なんでもいってください。頼ってほしいんです」
「なんでも・・?」
「はい!」
「そうはいっても、まいったなー」
言うほど、まいってもいなかった。みぞおちのあたりが妙にふわふわして、冷えていた指先が脈打つのを感じた。鼻の奥がつんとしたのは決して寒さだけじゃなかったと思う。
「じゃあ、最後にひとつだけお願いしようかな。あのね――」
今この場で思いついたにしては不自然なほど、その台詞は一番上の引き出しから見つかった。わたしは自覚した。もう少しだけこの世界を信じていたいんだと。強く。
※
二週間後の日曜日の早朝。駅のホームでわたしたちは再開した。蓮くんは変わらずあのイスに座っていて、細く筋張った手を自分で確かめるように
「おまたせ。じゃあ、いこっか」
「はい」
真新しい黒のバックパックはこの日のために購入したのかもしれない。わたしは心の中で、今日の日を許してくれた
ふたりで乗り込んだ車両、いつもの路線。この先に知らない風景が続いているなんてこの瞬間はまだ信じられなかった。
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