第11話 ひとみの奥の細道
僕の髪色は緑から黒に戻った。らしい。夏休みが終わって嘘みたいにふつうの毎日が帰ってきた。周囲も浮き足立っていたのは登校日の初日だけで、それも過ぎるとみんな、元々のかたちを思い出した。休み中の部活のこと、家族旅行に行ったこと、宿題のこと。友達の口から聞く他愛もない話も現実感がなく、どこかおとぎ話にように遠く聞こえる。
日常は、なにも変わらないよと言いたげに寄せては返す。無表情に、寄せては返す。波のように。僕は点字の読み取り感覚を必死に取り戻しながら、とても大事なものをその波の向こうにさらわれてしまったような気がしていた。雨音に滲んだ
実際、結さんに宛てたラインメッセージはまったく返事がなかった。「つぎのやすみ、あいてますか?」「曲にこめんとがついていました。やった!」「このまえのこと、すみませんでした」「さいきん、なにをきいていますか」返事がないのに何度も読み返すものだから、まるで最初から僕の日記だったみたいに感じた。
十月
曲の打合せがなくなって久しく、持て余した日曜の午前中は散歩の時間に変わった。毎週少しずつ、通ったことのない道を選んでは脳内地図を広げる。それで何か少しは晴れ晴れした気分になるんじゃないかと思ったから。けど、グレーの世界に響く白杖の単調な音は一生懸命自分の中に道を作るだけだ。曲がる。数えた歩数を覚える。曲がる。数えた歩数を覚える。ぐるぐる回る。これからどうしよう。学校を卒業して、そうしたらなにをしよう。というか、なにができるだろう。ぐるぐると回る。マッサージの実習ではどうやら体格が足りないらしいとわかった。パソコンのタイピングも遅いし誤字だらけ。頭も決していいわけじゃない。いつまで
建物の影を抜けたのか頬に熱を感じた。入り組んだ住宅街に秋のはじめの、爽やかな風が通っていった。その瞬間、僕は広い広い湿原のただ中に立っていた。背の低い、緑の草木が広がり、その湿原を貫くように木の板で組まれた細い歩道がまっすぐ伸びていた。足元の歩道は人がようやくすれ違えるほどの幅しかない。僕は歩道から落ちないように父の背中を必死に追いかけていた。狭い視界には父の大きな背中が、その向こうに青くて高い空が見えた。歩くたび、安物の打楽器みたいな軽い音が足元で鳴った。
あれは確か小学校高学年のころ。父とふたり尾瀬に旅行に行ったときの景色だった。既に両親の仲は冷え込んでいて、それで父とふたりだけで出かけたんだったと思う。きっかけはもちろん僕の目のことだった。
あのころ同居していた祖母は僕の視力が低下していくのを悲観して、
「うちの家系でこんなひどいことが起きたことはない。恥じだ」
「我が子が心配じゃないのか。産んだあなたがそんなだから」
と、たびたび
その後も祖母と叔母(父の姉)は結託して「水が悪い」だとか「方角が悪い」とか「えらいお坊さんを呼んでくる」などと次々言い出した。看護師だった愛さんにはそれらの非科学的な言い分は到底受け入れられなかったのだけど、それと同じくらい、どちらの意見も否定することのない父の態度も受け入れられなかったのだと思う。
父は家から僕を遠ざけることに徹した。父は無口で、特に何をしろとも言わなかったからなにを考えているのかは最後までわからなかった。その態度は当事者の僕から見ても無責任に映った。ただ、まだ目が見えるうちにいろんな場所に連れて行こうとか、本人なりに僕を元気づけようとしたんじゃないかと今では思っている。
以来、爽やかな風が吹くたびに僕は尾瀬の景色を思い出す。澄んだ中に青臭い独特の香りがして、自分が無数の生き物の中にいる弱くて小さい存在のひとつなのだと思い出す。
その緑の景色の中に、女性たちの歌声が聞こえはじめた。
光に向かいて めぐる地とともに
地にあるみ民は みわざにいそしむ
国々、島々、静かに明けゆき
祈りは黙さず 誉め歌は尽きず
シーカーラインは何重にも重なる白いヴェールを紡いだ。足を止めて声のするほうへ見とれていると、年配らしき女性から声をかけられた。
「どうかしら、少しきいていかれませんか?」
しばらく固まっていたが、不安より好奇心が勝って頷いた。誘導されるままに建物に入ると、全身に賛美歌を浴びる。音の響き方から天井が高いことがわかる。思った通り、そこは教会だった。近所にこんな場所があったなんて知らなかった。
音の渦に飛び込んだかのようなライブの一体感を思い出す。年配女性は「こちらイスに掛けて、どうぞ」と左手を木製のイスの縁に掴ませてくれた。慣れた手つきだったから、自分の他にも目の不自由な人がいるのかもしれない。
「それでは聖書を朗読いたします」
歌が止み静かになると、牧師と思われる男性が語りはじめる。その声は静かなのに芯がある。二十分くらい語られた内容はところどころ難しい言い回しもあってすべては理解できなかったけど、その一節だけは、はっきりと耳に届いた。
求めよ。そうすれば与えられるだろう。
捜せ。そうすれば見いだすだろう。
門をたたけ。そうすれば開けてもらえるだろう。
何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもその通りせよ。
命にいたる門は狭く、その道は細い。
心をつくし、あなたの神を愛せよ。
自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ。
宙に浮かんだそのことばは字のごとく光を帯びながら頭上に降りそそいだ。乾いたスポンジに水が注がれるように皮膚から肺から取り込まれていく。鼓動が、脈動が手足に波紋となって伸びていき、膝上にあった手のひらは熱っぽく汗ばんでいる。精密につくられた自分の身体のなかに計り知れない存在が座っているのを感じた。
「してほしいように、する。それが世界に、自分に向き合うということ」ことばの先には誰でもない、僕がいた。気づいた瞬間、なにか確信めいた願いが湧き上がってきた。僕は目が見えない。僕はどこへも行けない。そのかわりに、ことばの力を借りてみんなの帰る場所を作れたら。このグレーの世界に自分だけの灯台を建てられたならどんなにいいだろう。
そのとき、電子音を短く響かせてチノパンのポケットが震えた。あわてて席を立つと、先ほどの女性が壁沿いに案内してくれた。
「こちらでお電話されて大丈夫ですよ」
「すみません」
女性が遠ざかったのを察してからスマホ画面を触る。何十回と繰り返した動作でアプリを立ち上げる。思った通りラインメッセージが届いていた。結さんからだった。内容を聞こうと指の腹で画面を探ぐるけど、メッセージはなく、インターネットのリンクがひとつ置かれているだけだった。最後のといかけ「さいきん、なにをきいていますか」の答えとして曲を貼り付けてくれたのだ。
スマホにイヤホンを挿入して、リンク先の曲の再生ボタンを押した。やや間があって、ピアノの伴奏が静かに流れはじめた。両腕の肌が泡立つのを感じた。結さんの演奏だ。と、すぐに思い至った。結さんのピアノはいままで一度も聴いたことがなかったけどなぜかそう確信した。
ゆっくりのテンポ。静かな囁きからはじまる導入だった。悲壮感はなかった。ただひたすらに寂しいと感じた。曲が転調すると徐々に視界が開けた。尾瀬の湿原みたいに高く、広い空だった。曲に主旋律はなく伴奏だけだったけど、それでも結さんは何かにぶち当たって、そしてそれを乗り越えようともがいているような。僕ははじめて結さんの深い深い場所にあるやわらかい部分に触れたような気がした。自分の居場所を探そうとする明日への期待と決意が鍵盤に刻まれていた。
気づくと鼻や目の奥から水が押し寄せていた。僕は必死でそれをせき止め飲み込むと、逆流した水で溺れそうになった。きっともう結さんに会うことはないだろう。でもなにか僕にできることがあるはずだった。「してほしいように、する」僕はスマホを手放して、かわりに白杖を手に取った。
「いつでも、来てくださっていいですからね」
僕の様子を勘違いしたのか、年配の女性は心配そうな音色を出した。
「はい。また来ます」
僕のグレーの世界には昼も夜もなく、波が寄せては引いていくだけで境界がない。無表情に繰り返すその連続性から、地球が丸くて回転していることを実感する。今度は僕が
「
もう昼だというのに、愛さんは起きたばかりなのか舌っ足らずだ。僕は声のする方へ向き直って、ひとさし指を上に向けた。
「うん、ちょっと天国まで」
「へぁ?? ちょっとあんた、だいじょうぶ?」
気が触れたかと心配しているのだろう。ふと、こっちにふたりで引っ越してきたときの愛さんのセリフを思い出した。
( 蓮、あんたをこの家から連れ出す。そのかわり、今からあたしはお母さんじゃない。もちろんお父さんにもなれない。人生の先輩としてあなたを後押しする。だからあたしのことは"あいさん"って呼んで )
「うん。
言い捨てて部屋に入る。机の上に点字盤を出して用紙を挟む。目の見えない僕の、僕だけのことばで結さんの帰る場所を。ううん、まだ知らない誰かの帰る場所をこの点筆の先でつくりたい。
さあ。閉じ込められ、忘れ去られたキーホルダーの話をしよう。
宝石みたいに散りばめられた朝の雪肌の話をしよう。
頬に触れたペットボトルの冷たさを。目の奥を焦がして残像を残した夕焼けの話をしよう。
横たわる羽虫。雨の匂い。結露した窓。
そして、結さんの手のひらの温度を。石けんみたいに優しい香りを。
名も無くただ後ろに流れていった景色たちの歌を作ろう。
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