思春期からの浮上

中靍 水雲

思春期からの浮上

 天井からぶら下がっていた、亀甲縛りのマネキンを見て、今日という日は自分の人生一番の黒歴史になると、確信してしまった。


 高校の先輩に誘われ、自分は夜の町へとくり出した。

 成人してもまだまだ思春期も中二病も抜けきっていなかった自分は、夜の町にくり出すことに異常な高揚感を感じていた。


 夜の町は、未熟な自分の心をかき乱してくれる。しかも隣にいるのは、樗木(仮名)先輩だ。樗木先輩は、自分に知らない世界を見せてくれる、憧れの先輩だった。高校に入ってから、おしゃれも、音楽の趣味も、読む本も、すべて先輩に教えてもらった。樗木先輩が紹介してくれるものは、すべてかっこよくて、センスがいい。

 このころの、自分の世界の中心は、樗木先輩でできあがっていた。


 その日は、樗木先輩から連絡があり、深夜十時に駅裏の噴水前で待ち合わせすることとなった。

 深夜十時となると、駅付近は仕事帰りのサラリーマンや、はたまたこれから仕事に行くのであろうきれいに着飾った女性たちがさっそうと歩いて行く姿が見えた。

 待ち合わせ時間五分前に噴水前に着いた自分は、当時まだガラケーだった携帯電話を見つめながら、樗木先輩の到着を待った。

 しかし、三十分たっても、先輩は来ない。連絡もない。自分は、持って来ていた小説を読みながら、先輩を待った。

 このようなことは日常茶飯事だったので、あせるほどのことでもなかった。


「ごめんね。待ったよね」


 樗木先輩は、全身真っ黒のドレスワンピースをまとい、優雅に自分の前に現れた。当時流行っていたメゾンの、人気のデザイン。長身で、スタイルのいい先輩にとてもよく似合っていた。


「いえ、そんなに待っていないですよ」

「よかった。じゃあ、行こうか。もう時間もないし」

「えっと、どこに行くんでしたっけ。まだ、自分、聞いてない気がするんですが」

「あれ。いってなかったっけ。SMクラブの面接だよ」


 あっさりと、先輩は答えてくれた。自分は、かなり動揺しつつも、平然とした態度を取りつくろった。こんなことで驚くなんて、かっこ悪い。

 同時に、SMクラブに面接に行こうとする先輩が、とてもすごい人のように思えた。こんな人の隣を歩く自分は、同じくらいに胸をはって、かっこよくいないといけないはずだ、と怖気づきそうな自分を奮い立たせた。


「やば。採用されたら、ただでさえ女王さまみたいだった先輩が、まじの女王さまになっちゃうんですね。これから、『女王陛下』って呼ぼうかな」

「何いってんの。きみも、受けるんだよ」

「へ?」

「あれ。いってなかったっけ。お店に電話したときにね、Sの子が足りないから、面接のときについでにひとり紹介してっていわれたんだ。だから、きみを推薦しようと思ってさあ」


 いいながら、先輩は片手で華麗にタクシーを止めた。


「ここから、歩いて三分のとこなんだけどさ。もう、タイムリミットまで一分なんだよ。やばい、やばい。急ごうか」


 三分なら走ればいいのに、先輩はロッキンホースバレリーナを履いているので、走れない。そんなところもかっこいいな、と自分は、まだのん気にそんなことを考えていた。


 駅裏のひときわ薄暗い路地裏に、その店はあった。薄汚れた施設の二階。裏の非常階段を登って、古ぼけたアルミのドアを叩いた。

 なかから、「はい」と不機嫌そうな声が返ってきた。


「面接に来たんですけどお」


 先輩がそういうと、ガチャッとドアが開いた。ひょろひょろとした、中年の男性が、煙草をくわえながら出てきた。自分たちを一瞥したあと、くいっとアゴをしゃくって、入るように伝えてきた。

 どぎまぎしながらなかに入るとすぐに、自分はここへ来たことを後悔した。

 天井から吊るされた、等身大のマネキン。そいつは赤いロープで縛りあげられていた。亀甲縛り。先輩が読んでいた昔の雑誌、月刊漫画ガロで見たことがある、その特徴的な結び目。

 まじでここは、SMをするところなんだ、と思った。


 事務所とおぼしきその部屋には、自分よりも華奢な女の子がぺしゃんこのソファに座って、煙草を吸っていた。タンクトップとホットパンツという格好は、まるで彼女の自宅かのようなラフっぷりで、ここに面接をしに来た自分の緊張を変に麻痺させた。


「この子、今のナンバーワンS嬢。見えないでしょ。ちっこくて、ロリっぽいってゆーか。まあ、そこが人気の理由みたいでさ、人の性癖っておもろいよね」


 中年の男性はへらへら笑いながら、煙草の火を灰皿で消した。女の子は、くしゃりと髪をかきあげ、煙草をくわえたまま、立ちあがった。


「うざ。あたし、もう時間だから行くわ。店長、これから面接なんでしょ」

「さっきから、そうだっつってんの。さっさとお仕事しに行きなさい」

「へいへい」


 部屋を出て行く女の子と、中年男性のラフな会話を聞きながら、自分は気が遠くなっていくのを感じた。

 中年男性が、新たな煙草に火をつける。


「そんで、きみたちさあ、SとM、どっち希望? いったと思うけど、今はSを大募集中なんだけどね」

「ふたりとも、Sだと思います。……ね?」


 樗木先輩が、自分を見て、にっこりとほほえむ。自分は、冷や汗だらだらで、何もいうことができない。ただただ、うなずくだけ。

 中年男性が、「そっか」と元気よくいった。

 後日、追って連絡するといわれて、自分たちはようやく解放された。外に出たとたん、外のひんやりした空気を吸いこんだ。まるで、牢屋から釈放された気分だった。夜の空気が、いつもよりおいしく感じた。

 帰りのタクシーのなか、樗木先輩がふんわりと、アナスイ・スイドリームの香水を漂わせながら、うれしそうにいう。


「いっしょに働けるの、すっごい楽しみ」


 そのときの先輩の笑顔は、間違いなく女王さまだった。気品にあふれていて、浮世離れした不思議な魅力があった。

 しかし、自分と先輩がいっしょにあそこで働くイメージは、残念ながら一切わいてこなかった。

 けっきょく面接は樗木先輩だけが受かった。

 だが、樗木先輩はSMクラブでは働かず、なぜか自宅近くのミスタードーナッツで働きだした。先輩はミスタードーナッツで、つねに笑顔で働く優秀な店員として、本社から表彰されたという。

 あの先輩がミスドで接客かあ、と思うと、なんだか心が今までの自分のものでなくなっていくような感覚がした。


 しばらくして自分も、自宅近くのファミリーマートで働きだした。しかし、一ヶ月で辞めてしまった。


 あの日のことがあったから、自分はただの夜に憧れる人でしかないのだと自覚することができた。

 それでも、あの日の気持ちは、今でも忘れたことはない。夜の町への憧れは、変わらずに残っている。

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