第6話 いつか忘れて

 言いかけて、僕はそのまま、のぞみを抱きしめた。

 言葉にはできないと思った。

 表しようのないものだった。

 のぞみは一瞬驚いた顔をしたが、そのまま抱きしめ返してくれた。

 分かってくれたようだった。

 僕は、のぞみを選んだんだって言うことを。

 僕は泣いた。多分、のぞみの前では初めてのことだった。

 のぞみは笑顔で、まだ泣いていたけど、僕のことを抱きしめていてくれた。

「ありがとう」

 僕が言う。

 のぞみも言う。

「ありがとう」

 結局、言葉にできることはあまりにも限られているものだった。

 でも言葉が持つ器は広く深いものだった。

 僕らのその空間を、たったの五文字で片付けられたのだから。

 吹く風の冷たさと、降る日光の無力さが、心地よかった。

 もう嫌気は差さなかった。

 目の前ののぞみの温もりで、十分すぎたから。

 その後雨が降り出しても、何も気にしなかった。

 僕はずっと目の前の温もりを感じていた。

 変わらないものなんて、やっぱりなかった。

 物事は、数ミリでも数センチでも、動き続けていた。

 川面を風が吹き抜けていく。

 僕らはいつまでも、その中で抱きしめ合っていた。


 【イチョウ並木】

 あれから数ヶ月が経ち、春になった。

 桜はまだ芽吹かないけれど、陽の光を浴び温かな空気の中で、少しずつ植物たちが生まれ始めていた。

「おーい、こっちこっち」

 遠くから聞き馴染のある声が聞こえる。

「今行くよ!」

 僕はその声に対してそう答える。

 今日は大学の春祭りだった。

 僕はもう卒業したけれど、彼女は未だ大学生。

 これからあと一年間、ここにいる。

 春祭りの会場では、沢山の出店が出て、皆冬が終わり温かい春が訪れたことを祝福していた。

 そんな民衆の様子を、僕はその中で眺めている。

「何してるのー?」

 いっけない。彼女に呼ばれていることをすっかり忘れていた。

 僕は後ろを振り向く。踵を返す。

 【大きなイチョウ】

 するとそこには、少しの葉を付けたイチョウの中で佇む彼女――のぞみの姿が見えた。

 青色のカーディガンを来て、手にはコーヒーを持っている。

 僕はそんな美しいのぞみの元へ走る。

「ごめんごめん」

 駆け寄って、言う。

「もう、何をしていたんだか」

 のぞみは笑いながら言う。

 その姿を見て僕は思わず、

「綺麗だな……」

 と言った。聞こえてないと良いなと思ったけど、

「イチョウが?」

 と、のぞみは聞き返した。聞かれてしまっていた。僕は少し恥ずかしかった。

 また、それと同時に、僕はこの光景を懐かしくも思った。

 ああ、あの講堂で、僕はくいと出会ったのか、と。

 でも僕は、もう思い出さないようにと心に決めていた。

 いつか忘れて、次を向いていこうと思っていた。

 物事は少しずつ変わっていくし、変わらないものなんてない。

 変わってしまったもの――過去を見続けていても、僕らは何も得ることができないのだから。

 のぞみの問いに答える。

「いや、どっちも」

 目の前にいるのぞみのことを、好きになりつつある自分がいる。

 そして、それは僕らにとって大切にしなければならない、愛おしい変化。

「何それ?」

 のぞみがふふっと笑って訊き返す。

「なんでもないや」

 僕は戯けて言った。

 僕のバッグの中には、バイトで溜めた、のぞみに渡そうと思っていた五十万円が入っていた。

 暖かくなっていく空気の中を、陽の光が穏やかに照らしている。

 その中に佇む僕ら。

 のぞみが「あっちへ行こう」と言う。

 僕は「うん」と答える。

 のぞみの後ろ姿が見える。

 いつか変わってしまうからこそ、僕は今この目の前に広がる幸せな風景を、いつまでも、忘れないでいたいと思った。

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