第二章・駅中クリニック

公園広場・ベンチ上の夢

 …逃げるように走っていた。


 俺の部屋にそっくりの人間がいた。

 髪型も顔立ちも、何一つたがわない。


 室内には見慣れたカバンが置かれていたことを思い出し、俺は外に出てから一度も手放していないカバンを握りしめる。


(なんで持ち物まで…俺と同じ顔の人間が、なんで当たり前のようにいるんだよ!)


 視界がぐらぐらする。

 

 肩に下げたカバンの重み。

 今も着ている服。


 ――でも、それは本当に同じものなのか。

 あの部屋にいる自分こそが、本人ではないのか?


(いや、落ち着け。落ち着け、俺…)


 嫌な錯覚にとらわれそうになり、必死に頭を横に振る。

 走った反動で息が切れ、すでに明かりを落としたモールを通り過ぎる。


「何かの、間違いかもしれないだろ?」


 自分にそう言い聞かせる。


「――そうだ、室内には誰もいないはずだ。そうに違いない」


 だが、戻る気にはなれない。

 そんな俺の足は自然とモールの裏手にある公園広場へと向いていた。


「そうだ。何かの間違いなんだ」

 

 整備された公園には季節の花が咲き、かすかに甘い香りが漂う。


「部屋の中で課題をする俺なんて、いるはずないんだ」


 疲れもあいまってか、休憩所のベンチに座る。


「大丈夫、なにも変じゃない…」


 大きく息を吸い、呼吸を整え、少しのあいだ目を閉じる。


 ――そう。そもそも、俺もトモも買い物をしてきただけだ。


 複合施設に新しくできたショッピングモール。

 そこで店舗を冷やかし、二階にある文具屋と本屋に向かい雑誌と材料を買う。


 道中、トモが近くのクレープ屋に寄りたいと駄々だだをこね、購入したクレープをSNSに載せるための手伝いをし、そのあと互いに別れる。


(そうだ、だから俺は帰宅後。課題をするために雑誌を切りボードに貼り付けて…)


 ――課題を終えた後の光景もありありと目に浮かぶ。

 

 夕食をモールで買った惣菜パンですませ、風呂に入る。


 上がった先で服を着ていると土間のあたりにうっかりスーパーで購入してしまった弁当を見つけ、あわてて冷蔵庫に入れて就寝する。


(そうだ…何ごともない、ありふれた日常。何もない)


 翌朝はスマホのアラームで起床し、朝食に昨日の弁当を食べる。


 そのあいだに昨晩作った課題をチェックし、特に問題ないことを確認すると付箋ふせんで締切日を書き込んで貼り付ける。


 今日の授業をスマホで確認し、歯磨きから着替えて、一限に行くために家を出る…


「ん、あれ?」


 目を開ける――気づけば、あたりがひどく明るい。


 場所は、昨日と同じ公園広場の休憩所。

 高台に建てられた時計は午前十時をとうに過ぎていた。


「げ、あ…うわ。講義、遅刻してる!」


 とっさにベンチに置いていたカバンを引っ掛け、急いで大学へと向かう。 

 一瞬だけ、先ほどの夢がよぎるもそんなことは関係ない。


 今日の一限は遅刻に厳しい教授が行う講義だ。

 一度でもサボれは単位をもらえないと耳にしている。


「ヤバい、せめて中途参加でも行かないと…!」


 場所は円形講義室。

 ここから走って十分ほど。


(教授にかけあって、当日は具合が悪かったと言い訳をするか…いや。実際、昨日はおかしいことだらけだった気がするし!)


 必死に道を駆け抜け、大学に入ると円形講義室へと向かう廊下を走り…


「ムーさん、ちょい待ち!」


 不意に、通路から出てきた腕に首根っこをつかまれる。


 そこにいたのは、昨日と服装の違うトモ。

 彼女は眉根まゆねをひそめると通路脇に俺を引き寄せる。


「もうちょっとで講義が終わるの、ここで待機して」


「は?だって、このままじゃあ単位が取れない…」


 ついで講義が終わり、ドアが開き学生がゾロゾロと出てくる。


「ああ、俺の単位…」


「し、隠れて」


 トモは俺の腕をつかみ、さらに通路の奥に身を寄せる。

 ――その先には大勢の学生たちに混じる俺と同じ姿をした男。


「え、あ。今の…」


 思わず、出ていきそうになる俺に「ダメ!」とトモは身を引かせる。


「まだ、いるのよ!」


「誰が…」


 その先を、俺は飲み込む。


 ――複数の女子生徒と歩く一人の女子。

 その姿は、隣にいるトモとよく似ている。


「やっぱり…ムーさんも、同じだったんだね」


 気づけば、トモはいつものカバンに真新しいクロッキー帳を胸に抱えている。


「私も同じ。帰ったら、瓜二つの私が家にいたの」


 ざわつく廊下。

 友人たちと笑う、もう一人のトモ。


 同時に、俺の横にいるトモの腹が「ぐう」と鳴った…



「気持ち悪いよね、家に帰ると自分がもう一人いるんだもの」


 二限の講義もサボった午前。

 俺はとりあえず腹ごしらえをしようとトモを連れ、自宅のアパートに戻っていた。


 部屋には夢で見たボードが完成した状態で置かれており、丁寧に締め切りの書かれた付箋を見て、俺は嫌な気分になる。


「もう一人の私がさ、課題のボードを終えると日課のクロッキーまで初めて――」


 ペットボトルの緑茶を一口飲んで、トモはため息をつく。


「それが自分と同じくらいの速度でさ。隣で私が見ている横で私なんて目に入らないって感じで描き続けていて…」


「で、どうしたんだ?」


 自宅に行く途中で購入したエビと青梗菜ちんげんさいを油で炒めつつ、俺は言葉を止めたトモにたずねる。


「なんか、すごいくやしくって」と、クロッキー帳を広げるトモ。


「とっさに向こうの私がモールで購入した新品のクロッキー帳を手に取って、記憶の限り描いてやったの。あの食料品売り場で見た人形とか、子供のボールとか」


 見れば確かに、帳面には昨日見た光景が正確な描写でかきこまれていた。


「…でも、変なんだよ。モールの記憶もあるくせに、何事もなく買い物をした記憶もある。クロッキー帳をもう一人の私が買ったと知っている記憶だっておかしいし」


 クロッキー帳を閉じ、大事そうに抱えるトモ。


「――そうしているうちに朝になりかけて。慌ててお風呂に浸かって、着替えして。私に気づかない、もう一人の自分を観察しながらあとをつけて…」


 俺は買い物袋から塩焼きそばの袋を出すと、麺とソースの袋を切る。


「一緒に行ったのなら、友人連中には声をかけたのか?」


 フライパンに麺と先ほど炒めた具材にソースを混ぜ、もう一度火にかける。


「話しかけても変な感じだった」と、すねるように答えるトモ。


「もう一人の私がいる時にはそっちに顔をむけるんだけど、ちょっとでも離れた地点で私が話しかけると違和感なく会話ができる…まるで私が一人しかいないみたいに」


「――とりあえず、食えよ。作ったぞ」


 そう言って、俺は机の上に二人分の海鮮焼きそばもどきを出す。


 青梗菜とエビを具にした塩焼きそば。

 中華料理で見る海鮮焼きそばよりも具が少ないが、これはこれで美味しい。


「…味噌汁みそしる欲しい」


 上目づかいで付け加えるトモに俺はため息をつき、冷蔵庫の中にあったキャベツを刻んで味噌汁にする。


「いっただっきまーす。ああー、生き返るう!」


 味噌汁を一口すすり、大きく安堵あんどの息をつくトモ。


「なんでだろう、やっぱ心身疲れたときには味噌汁が効くんだねえ」


 うう…と、泣き笑いような声を上げると焼きそばに手を伸ばすトモ。

 俺も一口味噌汁を飲んでみるが温かさと旨みが口に広がり、同じようにうめく。


「あ、やっぱり。ムーさんも疲れていたんだね」


 みるみる焼きそばを減らしていくトモに、俺は「まあな」と答える。


「…でも、こんなことを言うのはなんだけれど。ムーさんも同じ立場で良かったよ」


 焼きそばを食べ終え、ついでと親が仕送りしてくれた菓子袋を開けるトモ。


「今もめちゃくちゃ頭が混乱しててさ。もう一人の私が受けている講義の内容すらもわかる感じがして…ムーさんがいなかったら、きっとおかしくなっていたよ」


 チップスをパリパリ食べるトモに「だよな」と俺は答え、片付けに入る。


 ――確かに。目を閉じると知らないはずの二限の様子がありありと目に浮かぶ。


 大講義室のスクリーンに映し出される授業映像。

 内容をノートやパソコンに打ち込む生徒の姿。

 

 おそらくこれは、もう一人の自分が受けているであろう講義の様子。

 頭の中では理解できているものの、どうにも違和感がぬぐえない。


「――白神、この後どうする?」


 片付けた皿を洗いつつ、俺はたずねる。


「ダメだよね、このままじゃあ」


 チップスを半分食べ終え、袋を輪ゴムで閉じながらトモは俺を見上げる。


「一瞬だけ、課題をもう一人の自分がやれば楽じゃねって思ったけどさ。それだと、コンペにで獲った賞金とかも全部向こうのものになっちゃうし。取りあえずのところ今は元に戻る方法を考えないと…」


 そこまで話したところで、トモの視線が冷蔵庫へと向く。


「ん、何かいたか…?」


 俺も同じ方向を見て、食器を拭く手が止まる。


『――すまない。会話ができない以上、筆談をさせてもらっている』


 冷蔵庫にかけられた百均のホワイトボード。

 付属のマジックが宙に浮き、字を書きこんでいく。


『駅中のクリニックと地下駐車場を繋ぐ階段にいてくれ、そこで詳しい話をしよう』


 蓋が閉められ、ボードに貼り付けられるマジックペン。


「いるんですか…ヨウジさん?」


 手に浮かぶ模様を握りしめ、俺はボードに問いかける。


 俺とトモしかいない部屋。

 ――そこに返事はなかった。

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