イカれ御曹司 切開四 獄の開かずの間収集癖
囀
臭いものには蓋をしろ
静けさのある夜は来ない。
少女はずっとそう思っていた。
父親と母親は毎日のように言い合い、時に父親が平手打ちをかましたり殴ったりと暴力沙汰なことが多かった。母親は、父親の攻撃に苦しい胸の内を吐き出しては泣き叫ぶばかりだった。
「大丈夫だ。俺が、俺がいるからな……」
二人が口論し合う中、襖で隔てられた部屋の隅っこで兄が少女の肩を抱きながらそう問いかける。電気を消し、息を潜めながら兄は少女を宥め続けた。兄の瞳が何度も波打ち、口元が震えている。兄は少女の服に皺が付きそうなほどに腕を強く掴む。
兄は今、恐怖に怯えている。冷静に思うようになったことは、きっと少女よりも深い恐怖に陥っているからだと確信する。
その時、部屋の外でパシンという弾けた音がする。兄は肩を振るわせ少女にしがみつく。部屋の外では更なる口論が繰り広げられる。父親の機嫌が長引く時は、少女たちも暴力の的となりとばっちりを受ける羽目になる。
少女が叩かれそうになると決まって兄は、父の足にしがみついて阻止しようと試みる。自分だって体が痙攣を起こすくらいに恐怖で仕方がない筈にも関わらず、兄はいつだって少女の味方にいた。
「大丈夫、喧嘩だってすぐに……すぐに終わるから」
兄の言う通りだ。父親は散々母を痛め付けた後、ふらりと何処かへ出かけてしまう。母は暫くの間泣きながら床にしゃがみ込む。これが一定のやり取り。
今回もそれで喧嘩が止む筈なのだ。
だが、今日の夜はより一層喧嘩が激しかった。いつもは殴られると声を荒げて泣くことしかない母親も抗い、父にどんどん噛み付く。それと同時に父親の理性に火がつき、家具を投げ付ける音まで聞こえる。
母親も今度は怒りを含んだ叫び声に変わり、喧嘩の激しさは増すばかりだった。少女は兄に寄り添いながら静かに思う。
その数秒後だった。
「いや……! 何よ、それ……!!」
母親の言葉がふと耳に入ってきたのだ。叫び声とは違うちゃんとした言葉を発していた。父親の声は聞こえない。代わりに、はぁ、はぁ、はぁ、という疲れたような乱れた呼吸音が聞こえる。
少女は襖の方を見やる。襖の先では一体何が起きようとしているのだろうか。
「……どうした?」
兄も気になり始めたのか、少女と同様に襖に視線を送る。それと同時にドタドタと走り回る音が床を軋ませる。母親は「やめて!! そんな物を振り回さないで!」と言うばかりである。
父親はやはり、なにも声を発さない。近距離で揉め合っているということは想像しやすく、確定であると理解できる。
やがて、母親の悲鳴は断末魔へと変わる。電子音のような高い声に不快感を覚える。少女は懸命に耳を塞いだ。それでも指と指の隙間から声の断片が通り、歯切りしりしたくなるような嫌悪感も募らせた。
そして、母親の声は突然停電が起きたように消えた。それと同時に何かを押し込むような鈍い音が広がる。
突然の出来事に異変を感じた兄は少女に声をかけ、襖を僅かに開けた。部屋外から差し込む光を頼りに兄は目だけを覗かせる。
瞬間、兄ははっと口元を押さえて後ろへ尻餅を付く。肩で呼吸をし始め、眼鏡をかけた瞳は大きく見開いき白目がよく見える。扉の先に一体何があるのか。少女は好奇心を頼りに兄の方へ近づく。
「だめ、見ちゃ駄目だ」
兄は呟く。少女はピタリと固まりその場に戻る。
その瞬間、襖が勢いよく開かれた。
そこから出てきたのは、紛れもない父親だった。
しかし彼はどこか虚ろな目をしている。生気を失い、一つ衝撃を与えたら瞼を閉じてしまいそうにぼんやりとしていた。父親は目の前で蹲る兄を見ている。父親の顔には、僅かな赤い液体のようなものが付いている。兄は父親を見て更に強張らせる。そして、兄は父親に腕を掴まれ部屋の外へと連れ出された。
「や、嫌だ!! やめろ、やめて!! 父さん!! 父さん!!」
今度は兄が叫び始める。
少女は兄の後を追おうと部屋の外へ向かった。開いた襖に手を掛け、父親と母親のいた部屋を覗く。そこで少女は思わず息を止めた。
襖の先、そこにはリビングが広がっている。その中心で母親が仰向けに横たわっていた。腹部には真っ赤なシミが大きく服に染み込んでいた。僅かに切り込みを入れたような穴も見えた。両目は固まったように開いたままで、口から涎のような透明の液体が下品に垂れ落ちる。
少女は変わり果てた姿の母親にその場に佇む。
今にも取れそうな目玉は明後日の方向を見ており、その瞳が冷たくも恐ろしかった。
「父さん……!! や、やめ…………!!」
兄の掠れた声に意識を取り戻す。顔を横に向けると、父親が兄に手をかけようとしていた。兄に馬乗りになり、兄の細い首に手を込めて力を加える。兄は懸命に足を動かすも大人の力には抗えずにいる。
兄を助けなきゃ。
ふと、テーブルを見ると銀色の包丁が置いてある。母親がよく料理で使っていたものだ。所々刃が脆くなっている。刃の真ん中部分から先端までにかけて、赤黒い液体が付着している。
先程の母親の姿を思い出した。襖の先で、一体何が行われているのか幼い少女でさえも理解してしまった。
父親が。ちちおや。
こいつ、こいつが。こいつが居なければ。こいつさえ居なければ良かったのに。
気付いた時には、包丁に手を取り目の前の男に近付いていた。広く大きな背中に目掛けて、勢いよく包丁を振り翳した。
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