Blooming Dance

鳩芽すい

「ロストバゲージ」

「ANA584便、東京羽田空港行きにご搭乗のお客様へご連絡いたします――」

 先輩、先輩。

 そう声を振り絞って、その後なんて声をかけたらいいのだろう。

早起きして向かった不慣れな場所。

なけなしの勇気を出して聞いたから、あの人が次の東京行きでこの地をさることは知っている。

 鏡面のように磨かれた広いフロアに、自分の顔がうっすら映りこむ。

私は今どんな表情をしているだろうか。

だって先輩に見てもらう最後の顔なのだから、すこしは印象の良い私でいたい。

 でも、目の下には化粧をしても隠せない隈がにじんでしまっているだろう。

昨晩は寝つけなくて、ずっと考えていた。

最後に何を伝えるべきなのか。

どんな言葉をかければ、先輩は喜んでくれてこの先も私のことをずっと覚えていてくれて、満足のいくお別れをできるのか。

 向こうに行ってもお元気で。

先輩のことは忘れません。

 小綺麗な、うわべだけの言葉が頭を滑っていく。

でもどれも正解じゃない気がした。

きっと私は別れの挨拶がしたいんじゃない。

もっとお話ししたかった。

もっと仲良くしたかった。

だって、いまだ放課後に先輩と二人きりで出かけたことはないし、下の名前を呼んでもらうこともない。

 非情にも、この別れが最終通告なのだろう。

私のできなかったこと、果たせなかった悔いを、ぜんぶ食い尽くしてぜんぶ埋めたかった。

到底一日では済ませることのできない、膨れ上がったもしも。

背負いながら思い浮かべる別れの言葉はどれも相応しくない気がして、私たちの関係が拙く脆すぎたことに打ちひしがれて、ぜんぜん何も解決しないまま先輩を見送りにきてしまい、今に至る。

 時間は残酷で、悩んでいても待ってくれない。

彼女を見つけてしまう。

スーツ姿の会社員集団のなかに、いつも見ていた後ろ髪が通りかかったのですぐ分かった。

動きやすそうなトレーナーを着て、姿勢よく迷いのない足取りで目的地へ歩く姿は、いかにも私の知っている彼女らしい。

「先輩」

 何度も練習した一行目だけが飛びだして、あとに私を置いて出ていってしまう。

 先輩はショートヘアを凛と揺らして振り向き、私をみとめて足を止めた。

「本当に来たんだ」

「はい、来ちゃいました」

 ほかのバスケ部のやつらは――こないか。

私に気を遣ってくれたというわけでもなく、先輩がバスケしか見ていなかったから。

そして私は先輩しか見ていなかった。

 朝練の時みたいだ。

眠気が引き締まるような早朝の空気、体育館には二つのバスケットボールの乾いた低音が響き、二人のバッシュが床に擦れてきゅきゅっと鳴く。

ちらりと盗み見た、真剣な瞳。

会話はなくても何か通じ合えている気がしていた。

あの時間を毎日楽しみにしていた。

 そんな朝練の時と違うのは、いま先輩がたしかに私の方を見ていること。

あの朝ではいつも横顔か、後ろ姿だった。

 けれど些細な幸せは、別れの非情に呆気なく打ち消されてしまう。

先輩を前にして、昨夜思いついては消したような言葉を接ぎ剥いでいくしかなかった。

「毎朝ありがとうございました」

「ああうん、ただ横にいただけだし」

 それが、どれほどの力になったことか。

どれだけ早起きしても先輩は先に練習を始めていた。

ほんとうに先輩はバスケばかだった。

だから私も頑張れた。

先輩が大好きなバスケを、私ももっと好きになりたくなった。

 バスケばっかりじゃなくて少しは私に興味を示してくれたら、なんて思っても、これが先輩だ。

先輩が人間を好きになったら、先輩の美貌なら彼女や彼氏の一人くらい簡単だろうし、バスケ部のみんなに囲まれてしまう。

そこに私の出る幕はなく、今日も二人きりでは話せなかっただろう。

 同時に押し寄せる虚しさ。

ずっと先輩は横にいたくせに、けっして届くことはなかった。

私は一歩を踏み込めなかったのだ。

 ほらいまも、何を言えばいいかわからない。

 言葉と時間だけが流れていき、私の気持ちは胸の奥に押し固められたまま動かない。

 時折ちらりと腕時計を気にする先輩は私にあまり興味がなさそうで、東京に行った先でもバスケに全力なんだろう。

せめて、汗をかく先輩だけでも見続けていたかった。

ますます私は悲しくなる。

「あー、そろそろ時間かな」先輩らしい、さっぱりとした口調。

「もうですか」

「じゃあ、さよなら」

 軽く手をあげて、いなくなろうとする先輩。

 いやだった、どうしても。

「――っ」

 整理のつかない心よりもさきに、自分の手が伸びていってしまった。

咄嗟につかんでしまった先輩のジャージの裾。

 もう一度振り向いた先輩に、なんでもないよって笑顔をつくった。

 掴んでいた裾は、するりと離れてしまっていた。

指先だけの関係は、ほんとうに呆気なく終わってしまう。

 ぎこちなく笑い返してくれた先輩を心の中のファインダーにおさめて、あれ、ピントが合わない。


 先輩がもう振り返ることはないと分かっていても、その姿が見えなくなるまで無心に手を振って、おかしくなりそうになりながら馬鹿みたいに笑顔を保ちつづけて見送ってから、なだれこむようにトイレに駆け込んだ。

 どうにもならないことってあるんだ。

 絶対手に入らないものってあるんだ。

 それが、自分の一番ほしかったことだなんて、人の数だけあったんだ。

 言い訳なんて通らない。

私がひとりじゃないなんて思えない。

諦めることなんて、先輩に鍛えられたバスケ部の私らしくもなかったのに。

 目頭を押さえた袖が泣いている。

 座りこんだ個室の床が泣いている。

 私はただ、便座に腰かけ項垂れている。

 声をあげて泣きたかった。

先輩に聞かれてしまいそうで嫌だった。

 戦意喪失で武装解除、化粧はぐちゃぐちゃになって、全てを失った私の表情はもう先輩に見せられない。

 これからも、私はバスケをつづけて、先輩に負けないように、なんておかしくなるよ。

 あの瞳に見つめられて、優しい言葉を掛けてもらえて、その先――そんな妄想ばっかで息して、汗をかいて、生きてきた。

 空気を失った幼子はどうしたらいいの?

 まだ吸えば、もっと吸えば、先輩に会えるの?

 ひっく、ひくって止まらない、嗚咽で吐きそう。

 わかんない、わかんないよ。

 もう全部わかんない、わかりたくない。

 泣きはらした目で展望デッキにあがり、先輩の乗った飛行機をいつまでも見ていた。

 空は青かった。

ここから叫べば遥か上空の先輩に届くのか。

 私は薄れゆく飛行機雲を見ていた。



 

 

 ――先輩side――

 

 浮き上がった機体の窓から、生まれ育った街を見下ろす。

 たいした感慨も湧き上がってこない。

それよりも、窮屈なエコノミークラスから抜け出して、預けた荷物の中のボールを触りたくなった。

新天地の立派な体育館で思う存分、強敵相手に一戦願いたかった。

 シートベルトに縛り付けられている気晴らしに、窓にうかぶ青い空を無感動にみていた。


 新たな地に降り立つ。

 円形のベルトコンベアから、流れ着いた旅行カバンをするりと回収したところで、どこかしっくりこない。

これは本当に私が行きがけに預けたカバンか。

黒くてカプセル型、スポーツブランドのトレードマークが白色に入っている。

大会の遠征でも使っていたものだ。

 そうだ、このカバンの中にはバスケットボールが入っている。

広くて綺麗なフローリングの体育館が待っている。

強敵が各地から集い、研鑽を積むために絶好のフィールド。

 ボールに触れる。

走れる、跳べる、戦える。

私にはバスケがある。

 一切の欠けはないはずだ、それなのに。


 到着ロビーを出て、吹き抜ける風はどこかしらの排気と土埃を含んでいて生ぬるい。

 うごめく頭頂部。

人海のような、溺れてしまいそうな都会。

 スーツやネクタイ、パンプスとタイトスカート、人の顔。

 私は、赤いスニーカーと、水色のラインがはしった黒い上下トレーナー。


 誰かに呼ばれた気がして、はっと振り返る。

なぜか頭によぎったのは、にこにこ笑っている可愛い後輩。

脳裏を離れていかない。

 しかし現実に誰かが私を呼ぶはずもなく、一人立ち止まった。

 巨大な都会の空港では一面スモークガラス張りで、その向こうに青い空があった。

澄みわたり、たかく、果てしなく高く、幼手で風船を離したらきっと返ってこない。

ぷかりぷかりと日に浴びせられて、強風に吹かれて、赤い風船の私はどこを目指していくのだろうか。

 人波の洪水に押されるように、豪雨のような喧騒に荷物を濡らされないように、軽いカバンを抱えなおして歩き出す。

 なにか大切な失くし物をしてしまった気がした。

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