揺らめき .8
早く寝ようと固く決意したところで、実際に早く寝付けるかというのはまた別の問題だった。大学生というのは朝に寝て夕方に起きる夜行性の動物だから、夜の十二時となるとまだ日中みたいなものなんだ。さすがに僕はそこまでリズムが狂っているわけではないけど、それでもやっぱり、まだ眠れそうになかった。体とか心は今日一日で疲れ切っているはずなのに、どうも眠れない。僕は目を閉じたまま、右へ左へ何度も寝返りを打った。実は僕はもうすでに眠っているんじゃないかとか、そんなよくわからないことを思ったりしたけれど、全然そんなことはないみたいだった。もしかしたら、心のどこかで怯えていたのかもしれないね。そんな時だった。突然、部屋のドアが叩かれた。叩かれたって言っても、高利貸しが借金を取り立てに来る時みたいな、あんな乱暴なやつじゃないよ。むしろ猫が布団をふみふみするような、それくらい優しいものだった。だけど、その時の僕はやっぱり怯えていたんだね。それこそ後ろに胡瓜を置かれた猫みたいに、それはもう高く飛び上がった。天井に頭をぶつけるんじゃないかと思ったくらいだ。暗闇の中携帯で時刻を確認すると、十二時十五分だった。僕は部屋の電気をつけて、扉を開けようか迷った。もしかしたら今扉の前で、誰かが僕を殺そうと身構えているかもしれないからね。だけど結局、この時の僕は扉を開けたんだ。何かあれば、すぐに大声で叫べるくらいの距離をとってね。恐る恐る開くと、目の前に立っていたのは予想外の人だった。
「こんばんは」
そこに立っていたのは、小倉さんだった。薄い水色の、ワンピースみたいなパジャマに身を包み、腕には小さなぬいぐるみっぽいものを抱いている。この歳でぬいぐるみ? なんて思っちゃいけないよ。実際、それはあまり気の強くなさそうな彼女にぴったり似合っていたんだから。僕は内心、ときめいちゃったね。夜に気になっていた女の子が部屋に来たんだ。そりゃあ、大半の男が盛り上がるはずだよ。だけどね、冷静になってみると、どうして彼女がこの部屋にきたのか、僕にはよくわからなかった。彼女はいつも十一時に寝るという話だったから、それはもう不思議なことだったんだ。一瞬、頭の中に嫌な想像が浮かぶ。まさかね、とそれを打ち消して、僕は彼女と向き合った。
「小倉さん? どうしたの?」
彼女は明らかに、何か言おうとしているようだった。もちろん、突然どこからともなくナイフを出してきて僕を襲う、なんてこともなかった。だから僕は特別急かしたりすることなく、彼女が何か発するのを待った。女の子からの言葉なら、何時間だって待てるんだ。このまま朝までこうして突っ立っていたっていい。たっぷり五分くらい、そうしてもじもじしてから、小倉さんはようやく意を決したように何か言おうとした。僕には三時間くらいに思えたけどね。まあ僕の体感時間なんて、どうでもいいことなんだ。問題は、こういうついに事態が動き出したときに限って、何かしらの邪魔が入るってことさ。今回もそれは例外じゃなかった。井波の部屋のドアが開いたんだ。それで僕も小倉さんも、完全に意識をそっちに持っていかれてしまった。トイレに行こうとしていたのか、部屋から出てきた井波が僕らを見て固まる。一瞬顔を歪めた彼は、何を勘違いしたのか、そのままそっと部屋に戻っていった。
「ごめん、それで?」
無言のままそれを見つめた後、僕と小倉さんは再び向かい合った。だけど彼女からしちゃ、絶好のタイミングを逃してしまったのだろう。
「ううん、何でもないの」
彼女は首を軽く横に振ると、胸の前で小さく手を振った。
「気をつけてね」
それがどういう意味だったのか、僕にはよくわからなかった。きっとひどく間抜けな顔をしていたんじゃないかな。彼女はそのまま僕に背を向けて歩き出した。
「おやすみ」
茫然と立ち尽くしてるのもどうかと思い、僕はなんとかそれだけ絞り出した。歩いていた彼女は振り返る。
「うん、おやすみ。また明日」
彼女はそれで満足したのか、自分の部屋へと消えていった。僕は部屋に戻って鍵を閉めた。そのまま、再びベッドに横になる。「気をつけてね」脳内でリフレインするその言葉を聞きながら、僕はいつの間にか眠りに落ちていた。
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