冬の日 .3

「お疲れ様、どうだった」


 満身創痍、といった様子の僕に、井波は手を振る。音よりも光の方が速いのだから、わざわざ聞く必要はないだろうに。


「見ればわかるだろ」


「まあね」


 頷きながら、井波は坂本を見やる。


「ある程度予想できてた順平はともかく、心配なのは香織の方だよ」


 そう言われ、僕も坂本に目を向けた。そういえば、さっきから彼女にしてはだいぶ大人しい。いつもならこちらが頼まなくても好き勝手喋り始めるやつなのに。


「どうしたの?」


「ここに降りてくる直前くらいに転んだのさ。それもかなりの急斜面で、盛大に」


 黙っている坂本の代わりに井波が答えた。この三人の中で一番スキーが上手いのが坂本だから、それは結構意外なことだった。「死ぬかと思った」と彼女は左腕をさする。


「雪が変に凍っててね。いつもならなんとか耐えられるんだけど、油断してたわ」


 いくらスキー場といえど、山の上の方は上級者の人たちしか来ないので時期によってはまだふわふわの雪が残っていたりする。そういう新雪の上を滑ってると、まるで空を飛んでいるみたいな錯覚を起こすから、つい気分良くなりがちなのだ。僕も何度か、そうやって気が緩んだことがある。大事故にならなかっただけ幸運といえるだろう。


 三人とも手袋と帽子を外して食堂へ向かう。お昼時ともあって、食堂は人で溢れていた。食券を買った一万人くらいの人たちが受け取り口の前で行列をなしている。世界的大スターとの握手会ですら、ここまでの賑わいは見せないだろうね。食欲には誰も抗えないというわけだ。僕たちも荒野で屍肉を探すハイエナのように、空いている席を探した。これは完全に余談だけど、ハイエナは意外と狩りが上手いらしい。むしろ百獣の王ライオンの方が、ハイエナが食べた後の残りを漁ったりもするみたいだ。百獣の王とはなんと名ばかりの存在なのだろう。いや、むしろ王っていうのは、えてしてそういうものなのかもしれないけどさ。


 ともかく、狩りの上手いハイエナの如く血眼になって探し続けた僕たちは、幸運にもものの数秒で空席にありつけた。


 椅子の背もたれに上着をかけて席につく。隣には井波が座り、坂本が僕の正面に腰を下ろした。


「いやはや、猿も木から落ちるんだね」


「誰が猿よ」


「褒め言葉だよ」


 落ち込んでいた坂本を励まそうとしたら、キッと睨まれた。それでも彼女は多少元気が出たようで、「まあいいわ」とため息をついた。


「さ、私たちも並びましょう」


 これまた長蛇の列ができている自販機に並び、食券を手にする。朝にカレーを食べたから、僕と井波はラーメンにした。案外、街中の店なんかよりこういうところの醤油ラーメンが一番おいしかったりするんだ。坂本は朝僕たちが食べていたのを見て羨ましくなったのか、カレーだった。


 列に並びながら、食券をぐにゃぐにゃと指で曲げたり弾いたりしていじる。暇なとき、僕はこうやって手に持っているものをいじる癖があった。一応自覚はしているし、なんだか子供じみててみっともないからやめたいんだけど、ついついやってしまうんだ。誰にだってそういう癖の一つや二つあるだろう。ただ僕の場合よくないことに、それが破壊につながるんだ。例えばボールペンについたクリップなんて、一週間持ったためしがない。片っ端から壊していくもんだから、僕のバイト先の筆記用具置き場には、クリップ部分が折れたボールペンしか残っていない。


 そうやって食券と戯れていたら、行列は意外にもするすると進んでいった。並び始めた時には、自分の番が来るより先にこっちの寿命が尽きちゃうんじゃないかと思っていたくらいなのに、時計を見るとまだ十分もたっていなかった。これもひとえに、ここで働く人たちの努力の賜物だろう。順番が近づき、厨房の中が見える位置になった。間近にその仕事ぶりを見て感嘆する。みんなびっくりするほど手際がいい。何一つ無駄のないその連携は、思わず見とれてしまうほどだった。もし僕がここでバイトしてたら、パニックになるか自暴自棄になるかでお客さんにスープをぶっかけて、一日もしないうちにたちまちクビになっているはずだ。そんなことを思った。


 持っている食券を厨房の中に立っている男性に手渡す。僕と違ってクビにならなかった彼は、揉みしだかれてくしゃくしゃになったそれを見ても嫌な顔一つしなかった。プロなんだ。こういうところも。僕がもし食券じゃなくてその辺に落ちてたガムの包み紙なんかを渡していても、彼は穏やかな笑みを浮かべて受け取ってくれたんじゃないかと思うよ。


 火事の時のバケツリレーみたいに、あるいは工場のベルトコンベアみたいに、ラーメンがトレーに乗って僕の目の前に運ばれてくる。それを感謝しながら受け取って、僕は無数に並ぶ机や椅子の間を縫うようにして自分の席に戻った。途中、一歩足を動かすごとにスープの表面が海みたいに荒ぶった。そのせいでトレーの上に少しこぼれたけど、この浮かれだった空気の中、そんなことを気にするのは僕くらいのものだった。


「いただきます」と三人で手を合わせる。


 茶色く透き通ったスープの中に、白と黄色のちょうど中間みたいな色をした細めの麺が沈んでいる。それを箸で持ち上げると、まるで寒い日の息みたいに真っ白な湯気が気持ちよさそうに上がった。


「うん、うまいね」


 そのラーメンは、やっぱりおいしかった。口に入れた瞬間、醤油の香りがふっと鼻を抜けて、スノボで暑いんだか寒いんだかよくわからなくなった体を内側から優しく温めてくれる。上にのったチャーシューを口に入れると、まるで溶けるように口の中で崩れていった。


「いいなあ、私もそっちにすればよかった」


 坂本は僕たちがラーメンを食べてるのを見てそんなことを言った。それで僕と井波は少し困ってしまった。彼女に限らず、女の子ってこういうところがある。他人が手にしているものを羨ましがって自分もそれを欲しがるんだ。次第には他人の家に忍び込んで金品を物色しだすんじゃないかと僕は思ってるんだけど、女の子にこう言われるとあげないわけにもいかない。結局僕は小皿を貰ってきて、坂本に麺とスープを少し分けてやった。たぶん彼女が珍しく落ち込んでいたのも影響してるんだと思う。そんな僕と坂本を見て、井波は若干微妙な顔をしていた。

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