冬の日 .1
重たい体を動かそうと必死に力むエンジンのうめき声と、その体から伝わる揺れの中。ふと肩を叩かれて、いつの間にか自分が眠っていたことに気がついた。瞼を開けると、かすかな光が瞳孔に触れる。
「うなされてたけど、大丈夫?」
最小限までボリュームを絞った声がしたのでそちらを向くと、心配そうな色を浮かべる見慣れた顔が、すぐそこにあった。
「ん、ああ」
ぼんやりしていた意識の輪郭を半ば無理やりに合わせ、周りを見渡す。静かな空間に、規則正しいリズムの寝息が、そこかしこで上がっていた。
「寝てたのか」
ぐっと伸びをして腰を軽く浮かした。さっきまで完全に止まっていたんじゃないかと思うほど、血液が一気に流れ出す。心臓の拍動を、手を当てずともしっかりと感じた。しかしそれでもまだ不十分だと感じるのは、これが深夜バスの中だからだろう。
「うん。ひどい悪夢でも見てるみたいだった」
隣に座り、今まさに僕を起こしてきた張本人である井波康介は、こちらを心配する様子を見せつつも、どこか楽しげに笑った。といっても、彼の性格が悪いというわけじゃない。ただ単に、この状況に浮かれているだけなのだろう。
「まあ、そりゃあな」
全身を蝕むような不快感に顔をしかめ、できる範囲で足を動かす。数秒かけて楽な姿勢を探したが、大した意味はなさそうだった。
「いくら何でも狭すぎる」
僕たちがいるのは、消灯された深夜バスの車内だった。格安と謳われたこの画期的な交通手段は、それなりに多くの人間を、まるでさながら出荷のように、目的地まで運んでくれる。
前の背もたれと自分の座席の距離は数センチしかなく、その隙間におろした足はジェットコースターの安全装置みたいにがっちりと固定されている。一応目の前に開閉式の小さなテーブルもついているが、手前に倒したら体に触れそうなレベルだ。これではテーブルに肘をつくことすらできない。銃を向けられて「動くな」と言われた時の方が、まだ体を動かせそうだった。
もちろん、すべての深夜バスがそうというつもりはない。だけど、少なくとも僕たちが乗っている車体が完全に「はずれ」と言っていいだろうことは、初めて深夜バスに乗る僕にもすぐにわかった。
少し体をひねり、座席の間にあるわずかな隙間からこのバスを予約した彼女に恨めし気な視線を送る。後ろに座る当人は、何の憂いもなく気持ちよさそうに爆睡していた。わずかに開けられた唇の隙間から、涎がたれそうになっている。それを見て見ぬふりをして、僕は体を前に戻した。
「……疲れた。康介は平気か?」
凝り固められた体の感覚で、自分の寿命を削っていることがなんとなくわかる。まるでさながら拷問だ。まだ僕は若くて体が丈夫だからいいものの、もう少し歳がいっていたら、ありもしない不倫の事実や仲間の秘密を、大声でぶちまけていたかもしれない。
「まあ、ちょっとしんどいね」
限られたスペースで何とか腕を伸ばし、井波も困ったように笑った。冗談じゃなくてさ、こういう深夜バスって、そもそも人が乗れるように設計されていないんだ。人間のことを、荷物かなんかだと勘違いしているんだよね。座りながらちょっと体を動かすってことを、はなから考慮していないんだよ。僕は小さくため息をついた。
しかしそれも仕方のないことだった。なんていったって安いのだから。新幹線なんかを使えば、きっと快適かつあっという間に目的地に着いたのだろう。だけど僕らは大学生。時間ばかりあって金がない、その代表みたいな存在だったから、そうなると必然的に、金の代わりに時間を支払うしかなかった。
周りを見渡してみても、乗っているのは僕らと同じくスキーに行くと思しき若者が大半だった。たまにくたびれた様相のサラリーマンが数人見受けられたが、彼らはこの乗り物に慣れているのか、歴戦の戦士のごとく、静かに腕を組んでじっと目を閉じていた。
心の中で彼らに敬礼を送っていると、バスが進路を変えたのが分かった。待ちに待った休憩だ。高速道路にあるパーキングエリアへと、バスはスピードを落としながら入っていく。
車が完全に停止すると、ガイド役の男性がちょっとしたアナウンスをした。どうやら最後の休憩らしい。目的地である長野県のスキー場までは、あと一時間半くらいとのことだった。
「なに、着いたの?」
後ろの席から、さっきまで涎をたらしていた坂本が寝ぼけた声を上げる。
「休憩だよ、ばか」
掛け布団代わりに足の上に置いていた上着を掴み、三人で外に降りた。
「うわ、さっむ」
一気に目が覚めた、といった感じで坂本が自分を抱くように腕をさする。外気に触れる頬が痛い。休憩のたびに徐々に気温が下がっているように感じるのは、きっと気分の問題だけじゃないだろう。道の隅には、一か所にまとめられた雪が氷のように固まっていた。
三人各々用を足し、適当にそこらをぶらつく。深夜ともあって店はほとんど閉まっていたが、あの狭い監獄に戻るよりはこうして歩いていた方が幾分かマシだった。幸い、戻ってこいと言われた時間までは、まだ余裕があった。
僕らは適当に見つけた自販機でコーヒーを買った。寒空の下、湯気が立つそれに口をつける。これがやけにうまかった。きっと登山みたいなものだろう。苦しみを我慢した先で、ありふれた日常の中の幸福に気づくことができるんだ。「なぜ深夜バスに乗るのですか」「そこに深夜バスがあるからだ」僕が脳内のインタビュアーに答えていると、坂本が何か見つけたらしく、少し離れた場所でしゃがみこんだ。
近づいてみると、それはおもちゃのガチャガチャだった。ご当地キャラやアニメのストラップなんかが、十台くらい並んでいる。目を輝かせた坂本を、井波が呆れた様子で窘めた。
「やめなよ香織。それで三つ目だろ?」
前回の休憩の時だろうか。どうやら僕が知らないうちに、彼女はガチャガチャを回していたらしかった。一回三百円もするそれに、坂本は躊躇うことなく金を入れていく。手前についたハンドルを回すと、引っかかるようないびつな音を立てて、その機械はプラスチックのケースを吐き出した。
「うわ、はずれだ」
坂本が間抜けな声を上げる。
開けて中を見ると、なんだかよくわからない、目がでかいだけのカラスのキャラが、世の中に絶望したような表情でうどんに浸っていた。
「…………。なんだこれ」
僕は憐れむような視線をそのカラスに向けた。言っちゃ悪いが、どこからどう見てもただのゴミだ。これが三百円だなんて、信じたくなかった。井波が言っていることが本当なら、単純計算で彼女はすでに千円近くをこのよくわからないものに注ぎこんでいることになる。僕は悲しくなった。そのお金があればもう少しくらい、まともなバスに乗れただろうに。
「もう一回」
さらに百円玉を取り出そうとする坂本を、僕と井波二人がかりで何とか押さえつけ、僕たちはあの忌々しき車内へと戻ることにした。
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