あの事件についての覚書 ――暖炉――
葉月 凧
追憶
記憶ほど曖昧で、不安定なものはない。
時間とは過去から未来へ向かって、まるで何もない空間に一本のまっすぐな線でも引いたみたいに、順番に流れていく不可逆なものだ。少なくとも、現代を生きる僕たちはそう思っている。
過去に起こった出来事を変えることはできないし、過去に起こったことを改めて確認するなんてこともできない。もちろん、カメラやビデオで記録することはできるけれど、それだって、出来事が起こる当時に撮ろうとしていなければ、未来へ残すことは永劫できなくなる。もし仮に偶然、何かの気の迷いでカメラを構えていたとしても、その撮影者の視点から見た世界しか記録してくれず、全体を窺い知るには到底及ばない。
だから普通、僕たちが過去を振り返るとき、頼りにするのは記憶だ。自分が持つ記憶をほかの誰かと共有し、そうやってまるで三次元のパズルのように、つなぎ合わせて全体像を作っていく。推理とは過去の復元ではなく、過去とよく似た何かの創造に過ぎない。特にあの事件には、名探偵なんていなかったのだから。
勘違いしないでほしいのは、別にそれ自体が悪いと言っているわけではないということだ。ほかに手段がないのならば、そうする以外に選択肢はない。ただね、何度も言うけど記憶っていうのは、常に不確かなものなんだ。それを忘れちゃいけないよ。
君は以前、ショッピングモールで迷子になったことがあるだろう。漠然とした不安の中で、焦っているのに変に落ち着いたような、しんとした孤独を胸にただ立ちすくんでいた。辺りを見渡してみても、見知った顔は見当たらない。まるで世界に自分ひとりになったように感じられて、君は泣いていた。どうだい。思い出してきただろう。あのとき泣いている君に誰かが声をかけてくれて、君は助かったんだ。
…………。いや、もしかしたら違ったかもしれない。別に泣いてはいなかったかも。どうだっただろう。よく思い出してみてほしい。
人間は、その時その瞬間、自分にとって重要だと思えるものしか記憶していない。感じていた不安感は確かに覚えているのに、あのとき周りにどんな店があったか、どんな人が行きかっていたかはまるで思い出せない。どこかで見たようなショッピングモールの背景の中に、小さかった頃の自分を配置して、その場面を作り出してはいないか。
少なくともあの事件のとき、暖炉の前でみんなで推理していたとき、僕たちは自分たちの記憶に絶対的な自信を持っていた。それなのにどうしてだろう。僕は時々あの事件のことを思い出しては、何か間違えたのではないか、そんな感覚に襲われる。恐怖のせいかもしれないし、それに伴う後悔のせいかもしれない。今となっては、どうにもならないことだけど。
窓の外を歩く人たちの喧騒を、背景音楽のように聴きながら、空になったマグカップを片手に朝日が差し込むキッチンへ向かう。夜寝る前に紅茶をベッドの隅に置いてゆっくりするのが、最近できた日課だ。「紅茶には意外とカフェインが含まれているからよくない」だとか、テレビで発言していた専門家の口を塞ぎ、僕は優雅な夜のひと時を過ごしている。
でも朝になってしまえばそれも過去に変わる。あの時間が嘘みたいに時間に追われ、急き立てられるように行動を強要される。まるでギャグみたいだ、と自分を俯瞰して思う。
今日は珍しくこの後予定がある。ある人に会いに行くのだ。コンクリートのお城で連れ出されるのを待っているお姫様。こんなことを言ったら、きっと冷たい目で見られるだろうけど、まあそれなりに、僕自身久しぶりの再会を楽しみに感じていた。
マグカップを洗い、洗面所に向かう。ひどい顔だと思った。寝ぐせは髪の一本一本が自分の意思を主張しているし、髭は地面から顔を出す土竜みたいだ。それらを一つ一つ聖母のように穏やかな心でなだめ、ようやく最低限といえるくらいの見た目になった。
食パンを一枚袋から出し、そこにスライスチーズと縦半分に切ったソーセージを乗せ、オーブンに入れる。いつもの朝食だった。
焼きあがったパンと牛乳を胃に収め、昨日から用意していたあまり派手すぎない服に着替えた。紺のコートに腕を通し、鍵を掴む。
今日は冷えるらしい。冬は嫌いだ。あの事件のことを思い出すから。
どんな話をしようか、考えた。あの言葉の意味は、もう一度聞かないといけない。きっとまた、話してはくれないのだろうけど。
僕たちはもう、過去を思い出すことしかできない。その記憶は時間がたつにつれ、どんどん事実からかけ離れたものになっていってしまうだろう。記憶の話に戻るけれど、実際にはそもそも、ショッピングモールで迷子になる人間の方が珍しいらしい。でも自分は確かに、かつてショッピングモールで迷子になったことがあるような気がする。恐ろしい話だよね。存在しない出来事を、頭の中で勝手に作り出していたわけだ。
そう聞くと、まるで足場を取り外されたみたいに不安になる。繋がっていると信じていた一本の線が、ぷつんと切れてしまっていたみたいだ。それでも、何もないよりはマシだと信じて、思い出すしかない。僕たちが縋れるのは、記憶しかないのだから。
靴を履いて、ドアを開けた。吸い込む空気が冷たい。鼻の奥がつんと痛むのを感じながら、鍵を閉めた。
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